2014年4月27日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…置く(1) 別離の歌に似合う「置く」

<今回GWスペシャルは無し>
ゴールデンウィーク(GW)がいよいよ始まりましたね。私の勤めている会社は4/28は営業日ですが,その他は5/6まで休業です。4/28に休む社員も割といて11連休を満喫するとのことです。
私は,4/28にソフトウェア保守契約をしてくださっているお客様との打ち合わせが入り,また小売業の別のお客様はGWに特段の休みがなく,その対応などで最大2日位の休日出勤を予定しています。
その他は,ゴルフのラウンドや昨年歩いた小金井公園から出発する2日間のウォーキングフェスタに参加予定です。
そんな関係で,このブログはGWスペシャルではなく,通常の投稿で進める予定です。
さて,今回から新しく取り上げる万葉集に出てくる動詞は,現代でも日常的に使用する「置く」です。
万葉集に出てくる「置く」の用例を見ていくと,現代での意味より広い意味で使われていたようです。それを何回かに分けて見て行きましょう。
今回は「残す」という意味の「置く」を見てみましょう。

飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ(1-78)
とぶとりのあすかのさとをおきていなば きみがあたりはみえずかもあらむ
<<明日香の里を残して,余が去ってしまえば、(平城京からは)君がいるあたりはもう見えないのであろうか>>

この短歌は,平城京遷都(和同3年)に際して,明日香藤原京から奈良の平城京に向かうとき,当時の在位していた元明天皇が詠んだとされるものです。明日香の里を残したものは何か? それは,27歳という若さで亡くなった夫の草壁皇子の霊だと私は思います。彼が生きていれば平城京遷都はどうなっていたのか,草壁皇子の魂が居る明日香からも遠く離れてしまう寂しさが私には感じられます。
次は,大伴家持が天平11(739)年に妻(正妻ではない)の死を悼んだ短歌(長歌の返歌)です。

時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹かみどり子を置きて(3-467)
ときはしもいつもあらむを こころいたくいゆくわぎもか みどりこをおきて
<<別の時があったろうに、私の心をこれ程痛ませ死んでしまった私の妻。幼い子を残して>>

この妻がどこの家の誰かは万葉集を含め,記録に残っていないそうです。また,「置かれた(残された)みどり子」がその後どうなったかも不明のようです。この後しばらくして家持の正妻になっとたという大伴大嬢との関係から,素性を残さなかったのかもしれません。ただ,家持はこの妻が亡くなったことへを悲しむ和歌を万葉集に10首以上残しています。
最後は,田部忌寸櫟子(たべのいみきいちひこ)が大宰府に赴任したとき,京に残した舎人吉年(とねりのよしとし)との相聞歌4首中に「置く」が出てくる3首を紹介します。

衣手に取りとどこほり泣く子にもまされる我れを置きていかにせむ(4-492)
ころもでにとりとどこほり なくこにもまされるわれを おきていかにせむ
<<衣の袖に取りついて泣く子にもまさって別れを悲しむ私を残して行ってしまわれる。どうしたらよいのでしょうか(吉年)>>

置きていなば妹恋ひむかも敷栲の黒髪敷きて長きこの夜を(4-493)
おきていなばいもこひむかも しきたへのくろかみしきて ながきこのよを
<<残して行ってしまったあなたを恋しく思うでしょう。黒髪を床に敷いて長いこの夜をずっと(櫟子)>>

朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて(4-495)
あさひかげにほへるやまに てるつきのあかざるきみを やまごしにおきて
<<朝日が映えて山の端に照る月を見飽きないほどに美しいあなたをはるかな山の彼方に残してしまった(櫟子)>>

これらの短歌は,櫟子が大宰府に赴任したときに櫟子自身が披露したものだろうと私は想像します。最初の短歌は京に残してきた吉年が詠んだとして紹介し,後はそれに対して櫟子自身の返歌としているようです。
状況から京に残った吉年は女性で,大宰府に行った櫟子は男性なのでしょう。櫟子が大宰府へ旅立つとき,吉年は自分の黒髪を一部切って,束ねて櫟子に渡したのかもしれません。それを床に敷いて寝て,京に残した吉年を朝まで思い,夜が明けたときの感傷がまた深いという遠距離恋愛のドラマが私の頭にイメージされます。
<グルーバル化によって離れ離れになる?>
それまで日本のどこかの農村で農家として暮らしていたら,恋人や妻とこのような別離はなかった。国の近代化(律令制度)やグローバル化(大陸との交渉,大陸からの防衛など)に係る身になって,仕事の場が距離的広がっていった当時の状況を私はイメージしてしまいます。
そして,現代の日本だけでなく,世界のどの国においても,近代化やグローバル化で,距離的,時間帯的,精神的な別離が避けられない状況が依然あると私は思います。
現代では,その別離で置かれた(残された)妻,夫,子供,親,祖父母,孫,そして恋人とを繋ぐ(スマホ,パソコン,テレビ電話などの)メディアも,そのような別離関係のデメリットを軽減する手段とて進歩しています。
ただ,メディアは文字通り媒体でしかありません。そこに流れるコンテンツ(文章やイメージ)にどれだけ相手を想う気持ちを伝えられる内容になっているかが重要であることに今も変わりがないのではないでしょうか。万葉集に古さを感じさせない表現があるのは,そのようにコンテンツで思いを一生懸命伝えようする表現努力が今も必要だからだろうと私は考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(2)に続く。

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