2011年8月15日月曜日

対語シリーズ「東と西」 ‥東は角,西は金

<最近の出来事>
先日,気が置けない(気心が知れた)友人と東京現代美術館で「フレデリック.バック展」を見に行きました。フレデリック.バックはフランス生まれでカナダに移住し,モントリオールの放送局で活躍したイラストレータです。
展示のメインは1988年アカデミー賞短編アニメーション部門受賞作品「木を植えた男」の上映です。羊飼いの男がたった一人で荒れ果てた砂漠にドングリの実を植え続け,ついには素晴らしい潤いのある森にしていく。その地に住む砂漠のように荒れ果てていた人達の人心も潤いを取り戻すというストーリです。
途中途中の心理描写がアニメーションならではの強調性によって,私たち二人の心に強く入ってきました。
私はその作品で羊飼いの男が一粒ずつドングリを穴に埋めている姿を見て,大伴家持が和歌を1首ずつ万葉仮名でひたすら記録に残していく姿とオーパラップしてしまいました。
<大伴家持の功績‥それは「やまと言葉」を残す事>
奈良時代,和歌(ほとんどが口承)を記録に残すことに対して価値を感じる人は少なかったのではないかと私は考えます。
当時は日本の西方から中国文化が押し寄せ,漢文を読む,漢詩を詠むことが流行の最先端だったのです。したがって,和歌は古臭いもの,過去のもの,お年寄りのものという印象が持たれる中,大伴家持は誰に褒められることも無く,和歌を記録し続けたのでしょう。
父旅人や憶良の影響もあったかも知れませんが,家持はやまと言葉の美しさを残す必要性をひとり感じていたのだろうと私は想像します。
家持の地道な和歌の記録によって万葉集ができ,平安時代になって和歌の復興は叶いました。しかし,歌人家持の評価は家持没後100年以上後の古今和歌集では認められず,200年以上後の藤原公任(ふじわらのきんとう)による三十六歌仙に選ばれたあたりからとなります。
洋の東西を問わず,周りの評価に惑わされずに継続したたった一人の努力の結晶が後世になって評価されることが多いのも事実かも知れません。
「東」「西」
さて,万葉集では「東」を詠んだ和歌が26首ほど出てきますが,「西」を詠んだ和歌は4首だけです。
少ない「西」から見て行くと,「西の山辺」「西の市」「西の馬屋」として「西」が使われています。
「東」は「東の野」「東人(あづまと)」「東の滝」「東の御門」「東の市」「東の国」「東女(あづまをなみ)」「東風(こち・あゆ)」「東の坂」「東の馬屋」「東路(あづまぢ)」「東男(あづまをとこ)」などが詠まれています。

「西の市」と「東の市」の短歌をそれぞれ見て行きましょう。

西の市にただ独り出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも(7-1264)
にしのいちにただひとりいでて めならべずかひてしきぬの あきじこりかも
<<西の市にたった独りで出かけて、いろいろ見比べもせずに買ってしまった絹は買い損ないだな>>

東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(3-310)
ひむがしのいちのうゑきのこだるまで あはずひさしみうべこひにけり
<<東の市の並木の枝が成長して垂れ下がるまで、ずっとあなたに逢うことができずにいたのだから、恋しく思うのもあたりまえですよ>>

平城京の東西にそれぞれ市があり,各地の物産が集まり,買い物をする京人で賑わっていたそうです。
「西の市」の短歌は,衝動買いをして,質の良くない絹の布を買ってしまったというものです。一人で行くと店の勧めに乗ってしまい買ってしまう。連れだって行くのが賢明だと言いたいのでしょうか。
「東の市」の短歌は,門部王(かどべのおほきみ)という人が詠んだとされるものです。東の市の街路樹が芽吹き始めた頃一度逢ったけれど,なかなか逢えないでいるので恋しい気持ちはさらに強くなっていくという嘆きの歌でしょうか。
この2首だけの感想ですが,「東の市」は「西の市」に比べ,おしゃれで男女の出会いの場だったのかも知れませんね。
それに対して「西の市」はおしゃれさは劣るけれど,安い品物が豊富にあったようにも思います。

今度は同じ長歌の中に「西の馬屋」と「東の馬屋」が出てくる歌がありますので紹介します。

百小竹の三野の王 西の馬屋に立てて飼ふ駒 東の馬屋に立てて飼ふ駒 草こそば取りて飼ふと言へ 水こそば汲みて飼ふと言へ 何しかも葦毛の馬のいなき立てつる(13-3327)
ももしののみののおほきみ にしのうまやにたててかふこま ひむがしのうまやにたててかふこま くさこそばとりてかふといへ みづこそばくみてかふといへ なにしかもあしげのうまのいなきたてつる
<<美努王(みののおほきみ)が 西の厩に飼っている馬も 東の厩に飼っている馬も 草を取って飼うというのに 水を汲んで飼うというのに どうして芦毛の馬がいなないているのだろうか>>

この長歌は,美努王が亡くなったことを弔う挽歌ですが,「西の馬屋」の万葉仮名は「金厩」,「東の馬屋」の万葉仮名は「角厩」です。
「金」を「西」と読ませるのは五行(中国古来の自然哲学:木,火,土,金,水の5要素)において,「五方(五つの方角)」との対応付けでは「木」が「東」,「火」が「南」,「土」が「中央」,「金」が「西」,「水」が「北」を表すため,「金」は「西」を意味するからとのことです。
また,「角」を「東」と読ませるのは,同じく五行において,五音(五つの音階)との対応付けでは,「木」が「角(かく)」,「火」が「徴(ち)」,「土」が「宮(きゅう)」,「金」が「商(しょう)」,「水」が「羽(う)」を表すため,「角」は「木」となり,さらに五行と五方との対応で「木」は「東」を意味するからのことです。
まさに三段論法のような読ませ方ですね。「角」ならば「木」,「木」ならば「東」,よって「角」ならば「東」というように。
この和歌を万葉仮名で記録した人は自分が中国の自然哲学に如何に詳しいか(知識人であるか)を示したかったのかも知れませんね。
美努王が亡くなったのは,家持が生まれる数年も前のこと。万葉仮名で記録したのは家持自身ではなく,もっと以前の人だったと私は思います。
対語シリーズ「強と弱」に続く。

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