2015年10月18日日曜日

今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」 … 麻の栽培は田舎の代名詞?

前回は東歌から「麻」を見ましたが,今回は東歌以外で「麻」が詠まれた万葉集の和歌をいていきましょう。
とはいえ,最初はの短歌は,東歌には分類されませんが,常陸娘子(ひたちのをとめ)という東国の女性が,現地で詠んだ短歌です。

庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな(4-521)
にはにたつあさでかりほし ぬのさらすあづまをみなを わすれたまふな
<<庭に立つ麻を手で刈り干したり,布にしてさらしたりするような田舎者の東女ですが,どうかわたしをお忘れにならないでください>>

この短歌,藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が按察使(あぜち)設置時に常陸守として安房(あは),上総(かずさ)及び下総(しもふさ)3国の按察使に任命されるに赴いたのは養老3(719)年で,接待をした常陸娘子から赴任終了時に贈られたもののようです。
常陸娘子は庶民の出ではなく,現地で中央役人を接待するために,当時の教養,京人の作法,和歌を詠む素養,言葉遣いなどの教育をしっかり受けた豪族の家に生まれた女性だったのでしょう。
この短歌の前半部分は娘子が謙遜している部分ですが,東国では「麻」を自宅で栽培,製糸,機織,漂泊するような田舎であるというイメージが京人にはあったのでしょうね。
当然,娘子がそんなことはしていないし,する必要もないほど着るモノに困っていなかったとは思いますが。
次は,田辺福麻呂歌集に出ていたという新しくできた久邇京恭仁京)を賛美する短歌です。

娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ(6-1056)
をとめらがうみをかくといふ かせのやまときしゆければ みやことなりぬ
<<乙女らが麻糸に紡いで懸けておいたという桛(かせ),その名と同じ鹿背の山が時移り都となった>>

万葉時代には,製糸用具や織機のさまざまなパーツ,関連で使用する道具について,知っている人が多かったのでしょうか。
多くの人が着る服が麻布でできていた時代と考えると,麻糸の製糸,麻布を織ることに,多くの人が携わっていたのかもしれませんね。
ただ,新しい久邇京周辺で織物産業が活性化することを期待して,麻糸を製糸することを商売にする人が詠んだのかもしれないというと,万葉集を汚したという人が出そうですね。
久邇京はこの詠み手の思いとは裏腹に,天平12(740)年~同16(744)年の間しか存在しない仮の都のようなもので終わりました。
さて,最後は,藤原房前(ふぢはらのふささき)が詠んだとされる紀行風の短歌です。

麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹(7-1195)
あさごろもきればなつかし きのくにのいもせのやまに あさまくわぎも
<<麻衣を着るとなつかしく思い出されることだ。紀伊の国の妹背の山で麻の種を蒔いていたあの娘ことを>>

奈良の京の公卿が紀の国への天皇行幸に同伴したときといわれていますが,業務そっちのけで農家の可愛い娘を目ざとく見ているとはね~と思う人もいても不思議ではありません。
しかし,別の見方として,そんな可愛い女の子がいるなら,次の行幸では私も同行しようと思う公卿や紀の国へ旅してみようと思う人が増えることを願って詠ったのかもしれません。
紀の国は,平城京からの距離は,山城(京都)や難波(大阪)に比べてそれほど近くはありません。
しかし,平城京から南行し,今の橿原市,御所市,五條市まで行って,後は水量が豊かな紀の川を下って行けば,急峻な山越え無く,紀の国(和歌山)に到達できます。
万葉時代,紀の国は平城京へさまざまな海の幸,川の幸,山の幸,紀の川が氾濫した肥沃な土地で栽培される麻やコメなどの農作物,そして建材を供給する有望な地域となっていたのでしょう。
今もあるシリーズ「麻(あさ)(3:まとめ)」に続く。

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