2015年3月20日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)  難波の港で多くの防人を見た家持はナンバ感じトカ?

前回は,位が上の人に「申す」を詠まれた短歌をいくつか紹介しました。今回は,母や父の親に「申す」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
最近,親を敬うという意識が薄れているのかもしれません。子が親にタメ口を使ったり,命令したり。逆に親が子を虐待し,とても尊敬の対象とならない場合もあります。親に「申す」を使うのは,必死にモノをおねだりするときとか,日ごろの不満が溜まり『親に物申す』のときくらいでしょうか。
しかし,万葉集を見る限りにおいては,親に対して子が「申す」を使っていたことは普通だったようです。
その表現がもっとも顕著に表れているのか「防人の歌」かもしれません。防人の歌を中心に「申す」の表現を見ていきます。
最初は下野国(しもつけのくに)出身の防人で,川上老(かはかみのおゆ)という人物が詠んだとされる短歌です。

旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ(20-4376)
たびゆきにゆくとしらずて あもししにことまをさずて いまぞくやしけ
<<長旅に出てしまうとは知らず母父に別れの言葉も申さなかったので,今になって悔やまれることだ>>

「ちょっとした防衛の仕事。九州は難波の港から船が出ていて,楽に着ける。敵が攻めてこなければ,何もしないで金が入るよ」などと甘い言葉に乗って防人となったが,とんでもない長旅で,母父にもっと別れの言葉をきちっと言っておく(申しておく)べきだったと後悔をしている短歌です。
次は,防人自身の歌ではないですが,当時難波の港で東国から招集され,九州に旅立つ防人たちを兵部少輔(ひやうぶのせいう)として監督していた大伴家持が防人に同情して,防人の思いを詠んだ短歌です。

家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(20-4409)
いへびとのいはへにかあらむ たひらけくふなではしぬと おやにまをさね
<<家族のみんなが身を浄め斎ってくれたので平安な船出だったと僕の母父に申し上げてください>>

この短歌はひとつ前に家持が詠んだ長歌の反歌です。
その長歌にも「申す」が出てきますが,対象は「神への祈り」です。ただ,「祈り」の内容は,父母の健康と帰りを待つ妻への愛情です。その長歌で「申す」が出てくる後半部分のみですが紹介します。

~ 海原の畏き道を 島伝ひい漕ぎ渡りて あり廻り我が来るまでに 平けく親はいまさね つつみなく妻は待たせと 住吉の我が統め神に 幣奉り祈り申して 難波津に船を浮け据ゑ 八十楫貫き水手ととのへて 朝開き我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(20-4408)
<~ うなはらのかしこきみちを しまづたひいこぎわたりて ありめぐりわがくるまでに たひらけくおやはいまさね つつみなくつまはまたせと すみのえのあがすめかみに ぬさまつりいのりまをして なにはつにふねをうけすゑ やそかぬきかこととのへて あさびらきわはこぎでぬと いへにつげこそ
<<~ 海原の決められた海路を島伝いに漕ぎ進んで私が生きて帰ってくるまで,平穏無事に親には生きていてほしい,何事無く妻は待っていてほしいと住吉の私たちを守ってくれるという神に幣を供えて祈り申して,難波の港に船をつけ,多くの楫を貫き通してそれを漕ぐ水夫を用意して,朝になったら出港したと実家に伝えてほしい>>

家持は,防人たちの不安や家族への心配な気持ちを少しでも和らげられるよう,役人としてできるかぎりのことをしている姿を伝えたい,そんな気持ちでこの長歌を詠んだのかもしません。
防人として九州に船で送られる側もつらいだろうが,それを見て,また防人たちの故郷や残してきた家族への思いを聞く側もつらい。彼らの気持ちをストレートに和歌に詠ませ,記録に残すことと,和歌を詠ませることで彼らの気持ちを和らげることに腐心した家持がそこにいたのではないかと私は思います。
<家持は防人に対して,単なる数字上の管理をしていただけではなかった>
家持以外の難波津の役人は,恐らく機械的に防人の人数を数え,予定した人数を九州に向け乗船させ,出港させればそれで仕事が終わったと考えていたと想像します。
現地に派遣する防人の数が予定や目標に達していれば,当時の役人は仕事を無事なしとげた,数をそろえるために必要な仕事以外,余計なことはしなかったと私は思います。
その中の役人の家持が防人たちの和歌を残したり,防人の気持ちを代弁する和歌を残した努力に対し,私は心から敬意を表したいのです。
万葉集の原型をほぼまとめたと考えるられる家持の努力だけでなく,その根底にある人に対する貴賤を排した彼の平等感をもっと評価しても良いのではと改めて,家持の防人歌から私は感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(3:まとめ)に続く。

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