2014年2月8日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1) 密告という報告

<あわや孤独死>
昨日,自宅から少し離れた場所にあるアパートで身寄りの少ないひとり暮らしをしている同年輩の友人が,持病の重い肝硬変が急変し,亡くなり,今朝何人かの友人とともに火葬場で懇ろに冥福を祈り送りました。関東地方は朝から雪で,故人も白無垢の関東平野を見下ろしつつ旅立っていったことでしょう。
ひとり暮らしなので,たまたま別の友人が訪問をしなかったら,アパートで孤独死をしていたところだったかもしれません。先月下旬に体調の急変にその友人が気づき,病院へ救急車で搬送し,終末ケアや友人が親戚縁者にも連絡をして,最期は病院で亡くなることができたのです。
ひとり暮らしの人が増えている中,孤独死を防ぐため,訪問を主体とした組織的できめ細かいボランティア支援制度が必要ではないかと私は考えています。ただ,詐欺のような悪質訪問販売と混同されないようにする手立て(公式なICカードによる認定証の提示,認定証訪問記録のシステム保存,状況報告の分析と必要な対処のオーソライズ,個人情報の確実な保護など)が必要だろうと私は考えます。
<本題>
さて,今回から3回ほどに渡り「告(つ)ぐ」を取りあげます。口語では「告げる」となります。
万葉集で「告ぐ」を入れた和歌は70首ほどあります。なお,これは「告(の)る」は除いた数字です。
この中でまず紹介したいのは,長屋王(ながやわう)の子といわれる山背王(やましろわう)が出雲の国にいた天平勝宝8(756)年11月8日,出雲掾(いづものじょう)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家で奈杼麻呂が京に上る旅の前に行われた送別の宴で詠んだ短歌です。

うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ(20-4473)
うちひさすみやこのひとに つげまくはみしひのごとく ありとつげこそ
<<京にいる人々に告げたいことがあります「以前京でお会いしたときと同じように元気でいます」と告げてください>>

神亀6(729)年長屋王の変で長屋王とともに長屋王の子の多くが死ぬことになりましたが,山背王は幸運にも生き延びた王子の一人です。この短歌で,送る側の山背王が自分が元気で出雲の国でやっていることを京の人に伝えたかったのでしょう。山背王は翌年に起こる橘奈良麻呂の変で橘奈良麻呂が謀反を起こす計画をしているという密告をした人物と続日本記には書かれているそうです。
そして,その功績で3階級も官位が上がったとのことです。天皇家の血を引く子孫が粛清されていく中で,したたかに奈良時代を生き抜いた人物かもしれません。本人は「密告なんてとんでもない。知っていることを報告しただけ」というだけでしょうか。
万葉集の編者である大伴家持は,後年万葉集を編纂するときには山背王が橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の企てを密告したことは知っていただろうと私は思います。家持が4473の短歌を載せたのは,山背王の「このまま出雲に引き籠っているわけには行かない」という野心みたいなものをこの時点で感じたからかもしれませんね。
さて,次は遣新羅使が船旅の途中で,家族や妻に告げたい思いを詠んだ2首を紹介します。

都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ(15-3640)
みやこへにゆかむふねもが かりこものみだれておもふ ことつげやらむ
<<都の方に行く船が欲しい。刈り薦のように乱れているこの思いを妻に言告げしたいのだよ>>

沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを(15-3643)
おきへよりふなびとのぼる よびよせていざつげやらむ たびのやどりを
<<沖の船の旅人が都へ上る。呼び寄せて,さあ都の妻へ告げに行ってもらおう。今までの旅で泊まった場所を>>

遠くに旅をしていると家族との間で消息を知りたい気持ちになります。そのとき「無事でいるのか」「旅は順調か」「家族は元気か」などの情報が知りたくなるのはいつの時代でも変わりません。
今のように,スマホ,携帯電話,パソコンで遠くにいても消息がすぐ分かる時代です。そのため,今では国内,国外の旅に出る場合にそれほどお互い心配しないようなっているのかもしれません。
万葉時代はそういった通信手段がないため,何かに託して状況を告げたい(伝えたい)気持ちが,この短歌のように今よりずっと強かったと私は想像します。
災害などで通信手段が途絶えた時,その重要性が改めて分かるのですが,万葉集を見ていくことで,そういったときの気持ちを想像することが少しはできるのでは私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2)に続く

0 件のコメント:

コメントを投稿