2012年1月1日日曜日

私の接した歌枕(12:須磨)

新春のお慶びを申し上げます。今年も当ブログをよろしくお願い致します。
年末年始スペシャル「私の接した歌枕シリーズ」は須磨を取りあげます。
<源氏物語に出てくる須磨>
ところで,源氏物語の第12帖は「須磨」というタイトルが付いています。それまで政治的には順風満帆だった光源氏(26歳)は,須磨という片田舎に蟄居(ちっきょ)して,京の女性とはまったく逢えないつらい状況となります。
さらに源氏の居た須磨では,雷や雹が降り,高潮や荒波が源氏の住まいにも到達するような暴風雨が何日も続くようになりました。その激しさに源氏も自分の命が危ういと感じるほどなのです(主人公ですから簡単には死にませんが..)。
そして,ついに落雷が直撃し源氏の侘び住まいは火事となり,源氏は焼け出されてしまうのです。
翌日,播磨守の明石入道が船で助けに来てくれて,10㎞以上西の明石にある入道宅に身を寄せるというハラハラドキドキの場面が次の13帖「明石」まで続きます。源氏物語の「須磨」から「明石」にかけては,平安時代の読者をきっとくぎ付けにしたことでしょう。
<万葉集では>
万葉集に出てくる須磨は次の短歌のように当時から塩田が整備され,製塩が盛んに行われていたと考えられます。

須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも(17-3932)
すまひとの うみへつねさらず やくしほの からきこひをも あれはするかも
<<須磨の海人がいつも海辺で焼いている塩のように、私は辛い恋をしています>>

この短歌は越中に赴任していた大伴家持奈良に住む平群氏女郎(へぐりうじのいらつめ)が贈った短歌12首の1首です。女郎は恐らく須磨には行ったことがないと思われますが,須磨では製塩が盛んで,その情報が京人にとってはほぼ常識だったのかも知れません。ちなみに須磨の西には塩屋という地名があります。
平城京の「西の市」や「東の市」では「須磨の海女さんが丹精込めて作った須磨の塩やで~。お一つ買(こ)うてくれへんかあ?」といったキャッチコピーで販売されていたとすると,この短歌も現実味が湧いてきます。
女郎はたくさんの短歌を越中の家持に贈っているのは,越中赴任前,二人はただならぬ関係だったということになりますね。
<最初の須磨訪問>
さて,私が初めて須磨を訪れたのは小学生に入学したての頃,家族で舞子浜に海水浴に行ったときでした(とにかく私の父は海水浴が大好き)。それ以降は列車で通過することはあっても,残念ながら訪れたことはありません。
その時は,京都山科駅から国鉄の快速電車で西を目指し,高槻,大阪,尼崎,西宮,三ノ宮,神戸を過ぎ,須磨に到着し,そこで各駅停車に乗り換えます。
須磨駅から見た瀬戸内海は夏の日差しを受けてキラキラと輝いていました。私にとって始めての本格的な海水浴でした。
各駅停車がようやく来て,乗り,塩屋駅,垂水駅と停車して舞子駅に家族は降り立ちました。目の前の砂浜が海水浴場です。私は気持ちの高鳴りを抑えることができませんでした。
しかし,それ以上に驚いたのは淡路島がすぐ前にあるように見えたのと,その狭い海峡を大小さまざまな船がすく前を行き来していたことです。
現在では,舞子駅の真上を明石海峡大橋が掛かっていますが,当時は船で行くしかなかったのでしょう。
まだ幼く泳ぎがままならない私は,淡路島との間を行き交う船を波打ち際に座っていつまでも眺めていたのを覚えています。「海は広いな~大きいな~ 行ってみたいなよその国」と幼い私は口ずさんでいたのかも知れません。
<万葉集の付近の和歌>
万葉集の次の大伴旅人が大納言になって京への帰路,侍従が旅人の気持ちを詠んだとされる短歌も明石海峡を通った舞子浜辺りから詠まれたのでしょうか。

淡路島門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ(17-3894)
あはぢしま とわたるふねのかぢまにも われはわすれずいへをしぞおもふ
<<淡路島を眺めながら海峡を渡る船の櫂(かい)が一瞬止まる間も私は思いを忘れてはいない懐かしい里のわが家よ>>

また,対岸の淡路島には藤原定家(さだいへ)が小倉百人一首に入れた短歌に「松帆の浦」が出てきます。

来ぬ人を松帆の浦の夕凪に 焼くや藻塩の身も焦がれつつ(97番)
<<来ない人を,松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように,私は待ち焦がれているのです>>

万葉集にも「松帆の浦」を詠んだ次の笠金村(かさのかなむら)作の長歌があり,定家はこの長歌を明らかに意識して,待つ側の若い海女の立場でこの百人一首の短歌を詠んでいるように私は思えます。

名寸隅の舟瀬ゆ見ゆる 淡路島松帆の浦に 朝凪に玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ 海人娘女ありとは聞けど 見に行かむよしのなければ ますらをの心はなしに 手弱女の思ひたわみて たもとほり我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ(6-935)
なきすみのふなせゆみゆる あはぢしままつほのうらに あさなぎにたまもかりつつ ゆふなぎにもしほやきつつ あまをとめありとはきけど みにゆかむよしのなければ ますらをのこころはなしに たわやめのおもひたわみて たもとほりあれはぞこふる ふなかぢをなみ
<<名寸隅の船着き場から見える対岸淡路島の松帆の浦に,朝凪に玉藻を刈り,夕凪に藻塩を焼く若い海女がいるとは聞くが,見に行こうにも方法がないので,たくましい男の心もなく、か弱い女のように思いしおれて、同じ場所をぐるぐるまわりながら私は恋い慕っている。舟も梶もないので>>

今は亡き私の父は万葉集を意識して舞子浜に連れて来てくれたわけではないと思いますが,何かの縁(えにし)を感じます。
私の接した歌枕(13:相馬)に続く。

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