2011年4月29日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…散る(3:まとめ)

「散る」の最終回として「花が散る」とともに万葉集で多く詠まれている「紅葉が散る」について見て行くことにしましょう。
なお,万葉集のテキストの多くでは「紅葉(もみじ)」を「黄葉(もみち,もみちば)」と書くようですので,ここでは「黄葉」と書くことにします。
花が散る場合,その花の多くは再び咲くのに翌年まで待つことになります。ただ,花の種類を問わなければ,たとえある花が散ったとしても別の花が続いて咲くこともあります。
また,散り方も桜の花のように,咲いたと思ったらすぐに散る花もあれば,紫陽花(アジサイ)の花(正確には萼)のように色を変えながら何日も楽しめる花もあります。
黄葉はというと木の葉の種類によって色は様々でも,ほぼどの木もいっせいに散ってしまい,散った後は寒々とした冬の風景になって,春になるまでそのままの状態が続いてしまいます。
そんな散る黄葉を万葉集ではどのように詠んでいるのかいくつか見てみましょう。

黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ(2-209)
もみちばのちりゆくなへに たまづさのつかひをみれば あひしひおもほゆ
<<黄葉が散ってゆくとともに、使いの人がやってくるのを見ると、妻に逢ったあの日のことが思い出される>>

この短歌は,柿本人麻呂が妻の死に慟哭して詠んだ長歌に併せ詠んだ短歌の1首です。
人麻呂にとって妻との思い出には,秋の黄葉のときに逢った日のことが鮮明に残っているのでしょう。
歌人である人麻呂は黄葉の季節について特別な思いを持っていたのかもしれません。
なぜなら,次の人麻呂の短歌は,因幡から人麻呂が京に帰任する際に,(上の死んだ妻とは別人と思われる)との別れを惜しみ詠んだ長歌に併せ詠んだ短歌の1首です。

秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む(2-137)
あきやまにおつるもみちば しましくはなちりまがひそ いもがあたりみむ
<<秋山に落ちる黄葉よ、しばらくはそんなに激しく散らないでほしい。妻が居る方をもう少し見ていたいから>>

本当は早く散ってしまった方が遠くに対する見通しが良くなるはずですが,あまりにも激しい落葉の舞いで遠くが見えないという表現を使っています。当然ですが,落葉がいくら激しくても視界の邪魔をすることはなく,(秋)山が視界の邪魔をしているのです。しかし,それを黄葉の落葉のせいにしている点が歌人である人麻呂たる所以ですね。
そういう意味では,花が散るのに比べて若干暗い場面での歌が万葉集に多いようですが,黄葉の美しさを詠んだものもあります。

黄葉の散らふ山辺ゆ漕ぐ船のにほひにめでて出でて来にけり(15-3704)
もみちばの ちらふやまへゆこぐふねの にほひにめでていでてきにけり
<<黄葉が散り流れる山辺に沿って漕ぐこの船は,山が黄葉で美しく染まるのをまるで皆さんと一緒に愛でるために出港して来たようです>>

この短歌は,天平8年遣新羅使の船が対馬竹敷(たかしき)の浜を出港した時に新羅に向かう人達が詠んだ短歌の1首です。作者は対馬から乗船した玉槻(たまつき)の娘子という遣新羅使の長旅をねぎらうことを任務に与えられた女性のようです。
遣新羅使達は,黄葉が本当に美しいと感じても,やはり外洋への船旅の不安,望郷の思い,孤独感などを絡めて詠んだ暗いものが多いため,玉槻の娘子は努めて「こんなに美しい黄葉を皆さんで船から見られるのは本当に珍しいことですよ」と黄葉の美しさで暗くなる彼らの気持ちをしばし忘れさせようとしているかのようです。
玉槻の娘子は今でいう優秀なツアーコンダクターのような人だったのかもしれませんね。

さて,次回からは,ゴールデンウィークスペシャルとして年末年始スペシャルで投稿した「私が接した歌枕」シリーズの第2段をお送りします。
私の接した歌枕(5:宇治)に続く。

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