2017年8月6日日曜日

序詞再発見シリーズ(25) … 「くも」だけでは他の同音異義語と混同する?

今回は,「雲」を序詞に詠んだ万葉集の短歌のうち,「天雲」という言葉になっているものを見ていきます。
最初は,が出てくる短歌です。

天雲に翼打ちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しまさねば(11-2490)
あまくもにはねうちつけて とぶたづのたづたづしかもきみしまさねば
<<天雲に翼を打ちつけて飛ぶ鶴の「たづ」のように,私の心もたづたづし(たどたどしい気持ち)です。あなたがいないので>>

この短歌は,鶴が「天雲に翼を打ちつけて飛ぶ」の様子をどう解釈するがポイントだと私は思います。天雲は空に浮かぶ雲と考えますと,空に浮かぶ雲に,大きな翼を叩きつけるように上昇していく鶴を見ている情景だと私はイメージします。
鶴は身体が大きく,上昇して気流に乗るまでは,全力で翼を上下させないと上空までいけません。それは,優雅に上空で舞っている鶴の姿とは違い,鶴が飛び立つときは空に浮かぶ雲でさえ手掛かりにしたい気持ちで全力を出しているように見えたのでしょうか。
鶴の飛びたつ苦しそうな姿を自分が恋しい人を思う気持ちの強さ,そしてより相手と近づきたいとあえいでいる自分を重ね合わせて作者はこの短歌を詠んだのかも知れません。
次は,雷鳴を詠んだ短歌です。

天雲の八重雲隠り鳴る神の音のみにやも聞きわたりなむ(11-2658)
あまくものやへくもがくり なるかみのおとのみにやも ききわたりなむ
<<幾重も重なる天雲に隠れて雷の音だけが聞こえてくるように頻繁に伝わって来るのは他人の噂だけだ>>

稲妻は見えないけれど,遠くで雷鳴が聞こえ,空は分厚い雲で覆われている気象状況が良く伝わってきます。
私が埼玉県の吉川市(当時は吉川町)に住んでいたとき,梅雨の末期になるとこんな気象状況がよくありました。近くの河川敷ゴルフ場でゴルフをしているときなどは,カミナリが近づいてくるのか,遠ざかっていくのか,稲妻の方向が定かでないときは非常に気になったものです。カミナリ雲が接近したため,ゴルフを中断したり,結局途中で中止したことが何度かありました。
この短歌の作者は,誰が自分たちのことの噂を広めているのか,気になり,これを詠んだのかも知れません。というのは尾ひれがついて伝わることが多く,音だけの雷鳴のように二人の関係にとって迷惑に感じるものだったのでしょうね。
最後は,雲に隠れてわからないという気持ちを詠んだ短歌です。

思ひ出でてすべなき時は天雲の奥処も知らず恋ひつつぞ居る(12-3030)
おもひいでてすべなきときは あまくものおくかもしらず こひつつぞをる>
<<思い出してどうしようもなくなった時には,天雲のその先がどうなっているか分からないくらいに恋焦がれているのです>>

この短歌の作者は,実際に空に浮かぶ雲を見て詠んだわけではなく,自宅で恋しい人と逢ったときのことを思い出して,今逢えないことの苦しさでどうしょうもなくなったのでしょうか。
先が見えない相手との恋路を空に浮かぶ分厚い雲の向こうが全く見えないことに例えていると私は見ます。やはり,雲一つない晴天のように遠くの先が見えるような明るい恋がしたいという気持ちが伝わってきます。
<同音異義語>
さて,雲を敢て天雲と読むのはなぜか考えてみました。「くも」と発音するものに「クモ(蜘蛛)」があります。万葉集では,山上憶良が詠んだ有名な貧窮問答歌に「蜘蛛の巣」という言葉が出てきます。
和歌を文字として記録することは一般的ではなく,口承でお互い記憶していた万葉時代は,同音意義の言葉は何らかの修飾語を付けて聞き分けていたのかもしれないと私は想像します。
「雲」は「蜘蛛」と区別するために「天雲」と表現することが多かったという論理です。真偽のほどは如何?です。
(序詞再発見シリーズ(26)に続く)

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