2013年6月16日日曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「めづらし」

今の「珍しい」は,古く万葉時代では「めづらし」として使われていることが,万葉集の和歌からも類推できます。
<希少性とは>
ところで,過去本ブログの投稿でも何度か書いていますが,私は大学では経済学を結構まじめに学びました。経済学を学ぶ過程で強く印象に残ったものの一つに「稀少性(Scarcity)」という概念があります。
モノの価値を決めるのに稀少性が経済学における根本的概念のひとつだとしっかり教えられたのを覚えています。たとえば,レアメタル(rare metal)のような稀少資源は,無尽蔵にある資源ではなく,ある限られた量しか入手できない資源という意味です。容易に推測できると思いますが,稀少性が高い(入手できる量が少ない)資源ほど単位当たりの価値が高い資源と経済学は考えるのです。
<人は限定ものに弱い?>
一般的な販売物でも「○○様限定」「期間限定」「在庫一掃処分」「閉店セール」「レアもの」「有名人の直筆サイン入り○○」「採れたて野菜」「厳選素材」「特選ネタ」「活魚」「浜ゆで毛ガニ」などのキャッチコピーにヒトは飛びつくように,稀少性による消費者の価値をくすぐるものだと私は思います。
逆に,いくら必須なものでも(たとえば,水,空気など),あり余るほどあると,欠乏したときの危機を想像しない限り,日ごろはなかなか価値を感じられないことがあります。いっぽう,生活に必須でなくても(単なる飾り物)でも,世界に一つしかないものだったら欲しくなり,それを手に入れることができたときは無上の幸福感を感じることもあります。
<ミクロ経済とマクロ経済>
経済学では,この稀少性に考えに基づき,モノの価値(あくまでヒトから見た価値)がその量によって変化する「限界効用逓減の法則」が導かれ,そこからモノの価格(物価)が決まる(均衡する)原理が示されています(ミクロ経済学)。
さらに,その均衡した物価を適切に維持(コントロール)することで,国民が求める富を全体として最大になるようにする国家の基本的な役割も経済学では示しています(マクロ経済学)。たとえば,今流行の「アベノミクス」で物価を2%上昇させるといった政策は,マクロ経済学の考えに基づいて,国民全体の豊かさ向上を目指す施策のひとつの方法だと私は考えます。
<マクロ経済では所得のバラツキを少なくすることも重要>
ただ,豊かさ(所得)が全体平均としていずれ年間150万円向上したとしても,標準偏差(バラツキ)が大きいと社会的な格差を生み,豊かさをたっぷり享受できるヒトがいるいっぽうで,貧困にあえぐヒトが出てしまいます。また,長期的(10年単位)には豊かさが向上はしても,短期的(ここ1~2年)生活が苦しくなることがあると,その間生活に耐えられない国民が多数出てしまう可能性もあります。
私が職業として専門にしているソフトウェア保守開発では,政治や社会全体に関心を持ち,世の中の今の変化(モノの価値に対する変化も含む)や何年か先の世の中を予測し,今の世の中のみに対応している既存ソフトウェアをどのタイミングで,どのように修正(保守開発)していくかを先回りして考えることを心掛ける必要があると私は考え。実践しています。
<本題>
では,本題の万葉集で「めづらし」を見ていきます。万葉集に「めづらし」を使った和歌が25首ほど出てきます。結構な数です。「めづらし」は当時そう「珍しい」単語ではなかったのでしょう。
ただし,今のような「一般でない」「あり得ない」「奇異な」という意味以外の意味にも使われています。

青山の嶺の白雲朝に日に常に見れどもめづらし我が君(3-377)
あをやまのみねのしらくも あさにけにつねにみれども めづらしあがきみ
<<青々とした山の嶺にかかるきれいな白雲のように朝も昼も見ていて飽きない貴方です>>

ここでの「めづらし」は「飽かず」(飽きない)と同義と考えられそうです。この短歌は,志貴皇子(しきのみこ)の子であり,光仁(こうにん)天皇とは兄弟の関係にある湯原王(ゆはらのおほきみ)が宴席で出席者を讃えて詠んだもののようです。本当は「めづらし」とせずに「飽かず」とした方が字余りにならずに済むのですが,ありきたりの表現では気持ちが伝わらないと考えたのかもしれません。
次は,「愛すべきである」という意味で詠まれたと私が理解する短歌1首です。

本つ人霍公鳥をやめづらしく今か汝が来る恋ひつつ居れば(10-1962)
もとつひとほととぎすをや めづらしくいまかながくる こひつつをれば
<<ホトトギスよりも愛らしい,私が本当に恋しいと想っている人が来るのを心待ちにしています>>

この詠み人知らずの短歌の作者は来る人を待つ側なので,女性と思われます。現代の「珍しい」に引っ張られて「めづらし」の訳は難しいのですが,「愛らしい」としました。いかがでしょうか。
次の大伴家持が越中で詠んだ短歌は「すばらしい」という意味に「めづらし」が使われている例です。

時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも(19-4167)
ときごとにいやめづらしく さくはなををりもをらずも みらくしよしも
<<季節ごとにすばらしく咲く花々は折って見ても,折らずにそのまま見ても良いものだ>>

私は過去2回4月下旬に富山県高岡市に行ったことがあります。そのとき,桜,コブシ,モクレンなどの花がいっせいに開花している風景は,まさに家持のこの短歌の気持ちと同ようじでした(もちろん,花や花が咲いた枝を折ったりはしませんが)。
今は梅雨ですが,アジサイ,菖蒲が見頃で,梅雨が明けると,蓮,サルスベリの花が見ごろになります。写真は,奈良県明日香村の亀石の近くにある蓮池を昨年夏に撮ったものです。
私にとって日本の四季と季節ごとに咲く花は本当に「めづらし」(価値を感じる)という表現がひったりです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「苦し」に続く。

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