2011年9月19日月曜日

対語シリーズ「朝と夕」(1)‥朝家を出で夕戻る。それは「いつも」のこと?

<朝,早や起きが得意>
私は若い時から朝起きは強い方です。前夜ほとんど寝ていないときは目覚まし時計を掛けますが,そのときでもアラームが鳴る前に起きてしまうことの方がはるかに多く,またアラームが鳴っても起きられなかったことは一度もありません。
今は平日も休日もいつも朝5時起きが自分のペースですが,目ざまし時計のアラームは掛けなくても目が覚めます。

天の川 「それって,たびとはんがせんど(いっぱい)年取ってきただけやとちゃうんか? それにしても,お彼岸ももうすぐやちゅうのにいつまでも暑いな~。」

やれやれ,ここしばらく夏バテで静かにしてくれて助かったのについに出てきたな。私とは逆で寝るのが趣味な天の川君にはもう少し夏バテ状態で居てもらいましょう。
私は朝という時間が1日の中で大きな割合を持ちます。5時に起きるということは年の半分は暗い内に起きることを意味します。
朝だんだん明るくなっていく時間が好きです。季節によって,夜明け前後で鳥,蝉,虫,猫の鳴き声の聞こえ方に変化が感じられます。そういった落ち着いた時間を過ごした後,朝風呂かシャワーを浴び,朝食を取り,平日はいつも6時半には自宅を出て会社に向かいます(会社に7時半に着き,仕事開始)。
いっぽう夕方ですが,ITの仕事は恒常的に忙しく定時で会社を退出することはまれで,残念ながら仕事をしている内に夕方を過ぎ,夜になってしまいます。ただ,職場は周りの建物よりも高い階にあり,季節によって夕陽が沈むときの明るさの変化を感じたり,綺麗な夕焼けが見えることもあります。
朝方と夕方は私にとって,1日の変わり目を強く意識させる時間帯ですが,私の知人にはまったく朝方と夕方の時間帯に興味をまったく持たない人も多くいます。
皆さんはいかがでしょうか。
<万葉時代の朝と夕>
さて,万葉時代は今のように昼間を思わせる照明などなく,暗くなってできる作業が今よりもはるかに少なかったため,朝と夕の時間帯を今よりさらに強く感じていいたのではないかと私は思います。
その証拠に「朝」を含む万葉集の和歌の数は何と200首以上あります。また,「夕」を含んだものは160首以上もあります。その中で1首中に「朝」「夕」を両方を詠み込んだ和歌は70首近くもあります。そして,その70首近くの内で「朝夕」という言葉を含む和歌は15首にのぼります。ただし,「あさゆう」という読みはされていなかったようで「あさよひ」または「あしたゆふへ」と詠っていたようです。
あまりにも数が多いので「朝と夕」は2回に分けてお送りします。まず,「朝夕」を詠んだ15首の中で1首を見て行きましょう。

魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに(15-3767)
たましひは あしたゆふへにたまふれど あがむねいたしこひのしげきに
<<あなたの魂はいつも送って頂いていますが,貴方自身ではないので私の胸は切なくて苦しく,恋しさが募るばかりです>>

この短歌は狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)が越前の国に配流されることになった夫である中臣宅守(なかとみのやかもり)に贈った短歌の1首です。
「朝夕(あしたゆうへ)」は「いつも」という意味です。朝から夕方までが当時は1日のほぼすべてだったので,こういう意味に使われていたのでしょう。
中臣宅守は配流後数年で赦免され京に戻ってきた可能性があるようですが,その後の二人の和歌は残されていません。やはり恋の歌は悲恋モノが人の心を打つのでしょうか。
次に「朝」と「夕」を両方詠んだ歌を見て行きましょう。

伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして(11-2798)
いせのあまのあさなゆふなに かづくといふ あはびのかひの かたもひにして
<<伊勢の漁師が朝から夕方まで潜って取るというアワビの貝殻のように片思いをしています>>

私が小学生のときの修学旅行が京都から1泊2日の伊勢旅行でした。そのとき,伊勢の海女が白装束で潜って海中のものを取ってくる実演を見学したのを覚えています。
当時,万葉時代から伊勢ではアワビを獲ることが行われていたとのガイドの説明があったかどうかは,若い(といっても私より年上)海女の海水に濡れた姿に見とれていたせいか残念ながら記憶にありません。

天の川 「しかし,たびとはん。結構マセた子やったんやな~。」

天の川君! うるさいぞ!
今はこの詠み人しらずの短歌によって万葉時代では伊勢産アワビ(身の干したアワビや美しい貝殻の加工品)というプランドを多くの人が知っていたことが私には想像できます。
さて,次は植物を対象として「朝」と「夕」を詠んだ短歌を紹介しましょう。

朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ(10-2104)
あさがほは あさつゆおひてさくといへど ゆふかげにこそさきまさりけれ
<<世間では朝顔は朝露を付けて美しく咲くっていうが,夕方の光の陰影にもっと映えて咲くと私は思うんだ>>

この詠み人しらずの短歌から万葉集で詠まれているアサガオは現代おなじみのアサガオではなく(アサガオは夕方に萎む),別の花だという説が有力のようです。
ただ,この花は朝に朝露を付けた状態で咲いているのが非常に美しいと評判だったのでしょう。でも,この短歌の作者は朝露は消えているが夕方日光が低い位置から差す時の陰影を感じながら見るのもずっと良いよと訴えたかったのかもしれません。
このような歌を詠える作者は,朝と夕の雰囲気の違いをこまやかに意識することができる人だったと言えそうです。
次回は,「朝」のみ,「夕」のみを詠んだ和歌を見て行くことにしましょう。
対語シリーズ「朝と夕」(2)に続く。

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