2015年12月31日木曜日

400回記念スペシャル(1)…万葉集の編纂目的は金儲け?

<情報量とは>
次回で本ブログは400回投稿を達成します。初回投稿から7年近い期間が流れました。
ここまで続けられたのも,(何度もこのブログで述べていますが)万葉集が持つ情報量の多さが大きな要因であることは間違いありません。
私のようなIT系の人間がいう情報量とは,データ量とは異なります。データ量は,同じデータが多くあっても,データの絶対量(例えば文字数や住所録の1人分あたるようなレコード数)全体の大小で量ります。
しかし,情報量はまったく同じデータはいくらそれが何千,何万あっても,1と数えます。同じ意味であるが形式が異なるものも一つと数えます。例えば,和暦で表現した平成28年と西暦で表現した2016年は,見た目は異なりますが同じ意味成ので情報量としては一つとなります。ただ,和暦と西暦が年の表現として別にあるということはまた別の情報としてカウントします。
<万葉集の情報量と和歌としての評価は別>
この説明で訳が分からなくなった人は,要するに万葉集は多様性が多くあるがゆえに情報量が多いと理解してくださればよいと思います。
こういうと,万葉集はただ整理されていないだけで,優れた歌人もヘタな歌人もごじゃまぜにした未完成の歌集だと思う人がいるかもしれません。
優れている/劣っているの違いは,その人が好き/嫌いの違いでしかないと私は思っています。結局,評価する人の価値観やその人が勝手に決めた評価基準を基に歌人の詠んだ和歌に点数付をしているだけでしかないだろうと私は思うのです。
今まで,万葉集をこよなく愛し,研究に研究を重ねた人の努力やその成果物(論文や著作)の価値を認めないというのではありません。でも,研究論文を読んでもその人が述べようとしていることが難しすぎて理解するのに時間が掛かり過ぎます。また,細部にこだわり過ぎて万葉集全体が見えません。また,初級者用の分かりやすい解説本も多数出ていますが,どれも同じような解説ばかりが書いてあり,書かれていないことに実は大きな価値があるかもしれないと不安になります。
<このブログを簡潔に書けない理由>
ところで,私が書いているこのブログは分かりやすいかというとそうでもありません。多分長すぎて読む気になれない人も多いと思います。このブログは自分のために書いているようなものです。どこまで,万葉集の編集目的を分かったかですね。
私は毎年といってよいほど,その理解の深まりのまとめとして,万葉集の編集目的を書いています。毎年少しずつ表現が異なっています。それだけ編集目的の理解が進んだためだと私は勝手に思っています。何せ年60件近く投稿するために自分で調べている訳ですから。
<万葉集編纂の目的>
今年の「万葉集編集の目的」は次の通りです。

「大伴氏自らの氏族繁栄のために万葉集を編纂した。すなわち,万葉集の編纂は金儲けが目的であった」

大伴氏が酒造所を持っていたらどうでしょうか。製糸,機織,染め物の大規模な作業場を持っていたらどうでしょうか。和紙・筆・墨を作る工場のようなものを持っていたらどうでしょうか。大規模な農園や山林を持っていたらどうでしょうか。各地に旅行者用の施設を運営していたらどうでしょうか。建築業や造園業を営んでいたらどうでしょうか。陶器の製作所あちこちに持っていたらどうでしょうか。造船所を持っていたり,大きな船を何隻も所有していたらどうでしょうか。各地に農業用の道具に使う,刃物に使う,兵器に使うような金属の加工所多く持っていたらどうでしょうか。
<消費拡大を目指す万葉集>
万葉集に出てくる和歌から,歴史や名所を巡る旅や綺麗な景色や鳥の声を聞くたびをして見たくなる,ブランドの船に乗ってみたくなる,素敵な服を着てみたくなる,美味しい酒や料理をみんなで食べたくなる,綺麗で立派な家を立てたくなる,豪華な庭を作って豊かな生活を送ってみたくなる,そして優雅にうまい歌人を真似た和歌を詠んでみたいと思うのではないかとと私は想像するのです。
そして,恋をして,恋に苦しんで,恋の苦しさから逃れるために文を書く,苦しさを忘れるために和歌を詠む,そこで使われるのが高級な和紙なのです。
万葉集の和歌が消費の拡大に貢献していることを私は強く感じます。
私の周りにいる大学時代の万葉集研究クラブの後輩などにこの話をすると,聞いた側は「残念です」という顔をします。なぜなら,何か私が万葉集の価値を低めているように見えるからでしょうか。
<経済学部出身から私から見たら当然の行為>
私は,万葉集の和歌が金儲けのために詠まれたと言っているのではありません。編集者が既存の和歌を集めた目的がそうだと言っているだけです。そうでないと,名もない歌人(私は古今和歌集のように「詠み人知らず」といっています)の和歌や,決して上手ではないと後の有名歌人さんが言いそうな和歌がいっぱい入っている理由の説明が付つかない私は思うのです。
もうじき,2015年も終わります。お酒を飲む機会が多くなります。万葉集では,お酒を勧めている和歌がある一方で,ほどほどにすることもわきまえることを勧めるような和歌もあります。
丹生女王(にうのおほきみ)が大伴旅人と酒を酌み交わしているときに詠んだ短歌です。

古人のたまへしめたる吉備の酒病めばすべなし貫簀賜らむ(4-554)
ふるひとのたまへしめたる きびのさけやめばすべなし ぬきすたばらむ
<<旅人様がお召し上がりの吉備の名酒も,私は気分が悪いのでもう結構です。それより貫簀をいただけますか>>

貫簀(ぬきす)は,たらいの上に竹で編んだ簀子のようなものをかぶせたもので,女王は飲み過ぎで吐きたいほど気分が悪くなったのでしょうね。
えっ?この歌で貫簀が売れるって?
いずれにしても,お酒の量は適量になさって,良いお年をお迎えください。
400回記念スペシャル(2)に続く。

2015年12月30日水曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(6:まとめ)」…旅で聞こえる音は孤独感をさらに増加させる?

5回に渡ってアップしてきた「音(おと・ね)」については,今回が最後となります。
万葉集今もあるシリーズの各テーマについて中で,一番多い回数になったようです。
それだけ,万葉集において,何らかの音(自然が発する音,動植物が発する音,自分や他人が発する音)を詠み込んだ和歌が多いのかもしれません。
特に,人が発する音は新しい機械,道具,楽器などの導入により,多様性が増したのだと思います。
自然や動植物が発する音も万葉時代以前とあまり変わらなかったとしても,それを聞く人間側の感じ方はどうでしょうか。
万葉時代よりずっと前は,ほとんどの人が農業を営んでいたすると,多くの人が日が暮れて眠りにつき,夜が明けて田や畑に行くという生活で感じる自然や動植物のが発する音の感じ方も同じだったでしょう。
しかし,さまざまな守衛(津守,時守,崎守,玉守,島守,道守,野守,山守),京や地方の兵士,旅をする人,役人等で定期的に休みが取れる人,都会に住む人,鑑賞用の庭をもてる人,宴への参加が仕事のような人,人を楽しませる演芸が仕事の人,そして路上生活者などが現れた万葉時代では音を感じ方にも多様性が急速に広まった時代だと私は分析します。
これらの音の感じ方の多様性の広がりから感じられる社会の変化についても,万葉集はきめ細かく1300年以上も経った私たちに教えてくれているのです。
「音」の最終回は,丹比笠麻呂(たじひのかさまろ)が筑紫の国(九州北部)に下る旅に出た時,別れも告げずに来た恋人を恋しく思い詠んだとされる次の長歌1首を紹介しておきたいと思います。

臣の女の櫛笥に乗れる 鏡なす御津の浜辺に さ丹つらふ紐解き放けず 我妹子に恋ひつつ居れば 明け暮れの朝霧隠り 鳴く鶴の音のみし泣かゆ 我が恋ふる千重の一重も 慰もる心もありやと 家のあたり我が立ち見れば 青旗の葛城山に たなびける白雲隠る 天さがる鄙の国辺に 直向ふ淡路を過ぎ 粟島をそがひに見つつ 朝なぎに水手の声呼び 夕なぎに楫の音しつつ 波の上をい行きさぐくみ 岩の間をい行き廻り 稲日都麻浦廻を過ぎて 鳥じものなづさひ行けば 家の島荒磯の上に うち靡き繁に生ひたる なのりそがなどかも妹に 告らず来にけむ(4-509)
おみのめのくしげにのれる かがみなすみつのはまへに さにつらふひもときさけず わぎもこにこひつつをれば あけくれのあさぎりごもり なくたづのねのみしなかゆ あがこふるちへのひとへも なぐさもるこころもありやと いへのあたりわがたちみれば あをはたのかづらきやまに たなびけるしらくもがくる あまさがるひなのくにべに ただむかふあはぢをすぎ あはしまをそがひにみつつ あさなぎにかこのこゑよび ゆふなぎにかぢのおとしつつ なみのうへをいゆきさぐくみ いはのまをいゆきもとほり いなびつまうらみをすぎて とりじものなづさひゆけば いへのしまありそのうへに うちなびきしじにおひたる なのりそがなどかもいもに のらずきにけむ
<<女官の櫛笥に乗る鏡を見(み)つめる御津(みつ)の浜辺にて,下紐をまだ解くことも(共寝)できずの彼女を恋いしく思うと,折しも日々朝霧の中で鳴く鶴のように声を出して泣けてしかたがない。この恋しい気持ちの千分の一でも気が慰められるかと,我が家のある大和の方を背伸びして望むが,葛城山にたなびいている白雲に隠れ見えもしない。田舎の遠い国に向うことになる淡路を過ぎて,粟島もうしろに見えるようになり,朝凪には漕手が声をあげ,夕凪には櫓をきしらせて波を押し分け押し分け進み,岩のあいだをすり抜けて進み,稲日都麻の浦のあたりも通り過ぎた。まるで水鳥のようにもまれながら漂い行くと,(家と聞くと)聞くことさえ懐かしい家島の波荒い磯になのりそが靡いて生えているが,彼女にわけも告げず(のりそすることなく)来てしまった>>

この長歌で「音」に関連している私が思う部分を取りあげます。
鳴く鶴の音‥啼いている鶴の声
音のみし泣かゆ‥声出して泣く
水手の声呼び‥漕ぎ手の掛け声が出て
楫の音‥櫓を押すしたり引いたりする音
波の上をい行きさぐくみ‥舟が波を押しのける音
荒磯の上に うち靡き‥荒い波が寄せる音
結局,この1首でも万葉時代における「音」の感性に関する多様性が理解できるかもしれませんね,
今回で投稿398回です。次から2016年年末年始スペシャルを兼ねた投稿400回記念スペシャルを何回かに分けて投稿します。
投稿400回記念スペシャル(1)に続く。

2015年12月17日木曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」…慟哭のシーンは大声で泣く姿か?泣くのを我慢している姿か?

「音(おと,ね)」の5回目は人が「泣く音(声)」について万葉集を見ていきます。
韓国の人が,家族が事故や災害で亡くなると,たいへんな大声で泣く姿が報道されることがあります。
おそらく,韓国ではその声の大きさが悲しみの大きさと比例していると感じられ,悲しみを表現する代表的なシーンとなるのでしょう。
ところが,日本では「悲しみを堪え,耐えている姿」が悲しみの大きさを表すようです。
本当は大声で泣きたいのだけれど,必死に堪えている・常に自制することを美徳とする日本人にはそれが深い悲しみを他者が感じるシーンと映るのでしょう。
このように,慟哭の感情表現の仕方は国(たとえ隣国といえども)の文化や美徳とする考え方の違いで結構異なることがあります。
これを理解しない人が見ると「なんて日本人は冷たい人種なんだろう」「韓国人は意図して大袈裟にやっているだけだろう」というように,間違ったとらえ方をしてしまうことがあります。
自分たちの美徳や感情表現がどの国でも通用すると思い込むことは,相手から理解されない価値観の押し付けになってしまうことにお互いが注意していく必要あると私は思います。
さて,万葉集では「音のみし泣く」という表現が出てきます。意味は「声をあげて泣くばかり」となりそうです。

例として,中臣宅守(なかとみのやかもり)が越前に配流のとき狭野茅上娘子(さちのちがみのをとめ)に贈った短歌1首と逆に娘子から宅守に贈った短歌2首を紹介します。

あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ(15-3732)
あかねさすひるはものもひ ぬばたまのよるはすがらに ねのみしなかゆ
<<昼はただぼ~思い悩み,そして夜はずっと声をあげて泣いてばかりになりそうだ>>

このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音のみしぞ泣く(15-3768)
このころはきみをおもふと すべもなきこひのみしつつ ねのみしぞなく
<<この頃は,あなたを思うとどうしてよいかも分からず,恋しい思いが募り,ただ声をあげて泣いてばかりなのです>>

昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く(15-3777)
きのふけふきみにあはずて するすべのたどきをしらに ねのみしぞなく
<<昨日も今日も,あなたに逢えないので,どうすることもできず,声を上げて泣いてばかりなのです>>

最初の宅守の贈歌(夜泣いている)に対して,娘子は昼も夜も,昨日も今日も声をあげて泣いていることを返します。
枕詞を2つも使って詠んだ宅守(線が弱そう)に対して,強い言葉をたくさん使って詠んだ(線の強そうな)娘子という構図が見えてきそうですね。
最後は,別の声を出してなく表現の言葉を使った詠み人知らず(女性)の短歌です。

思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ(11-2604)
おもひいでてねにはなくとも いちしろくひとのしるべく なげかすなゆめ
<<思い出して声に出して泣いたとしても,はっきりと人に知られてしまうように嘆いたりしないわ>>

恋人の彼と離別したのでしょうか,それとも果敢ない恋と悟ったのでしょうか。
作者が泣くことで,気持ちの整理をつけようとするが,忘れられないのでしょう。下の句の内容は,まさに気持ちの整理ができなさそうだからでしょうか。
冒頭で示した日本人が泣くときに耐える,堪える美学は,万葉集の時代からあったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(6:まとめ)」に続く。

2015年12月12日土曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(4)」 …もう鳥の鳴き声は田舎に行かないと聞けないのか?

「音(おと,ね)」の4回目は「鳥」に関する「音」を万葉集で見ていきます。
現代,都会に住む私たちがよく見かける鳥はカラスでしょうか。
スズメもよく見かけると思いますが,カラスが圧倒的に大きいので,どうしても印象に残ってしまいますね。最近ではムクドリの大群の鳴き声が気になるときがあります(鳴き声だけでなく,フンの心配もしますが)。
さて,万葉集では鳥がたくさん詠まれています。
ホトトギスウグイスカリ(雁)ツル(鶴)チドリ(千鳥),ワシ(鷲)のように鳴き声が印象的な鳥も多く出てきます。
最初は「雁が音」を詠んだ聖武天皇の短歌1首を紹介しますが,「雁が音」を詠んだ和歌は万葉集で実に30数首もあります。

今朝の明雁が音寒く聞きしなへ野辺の浅茅ぞ色づきにける(8-1540)
けさのあけかりがねさむく ききしなへのへのあさぢぞ いろづきにける
<<今朝の明け方に雁の鳴き声が寒々と聞え,そして野辺の浅茅が色づいたなあ>>

聖武天皇が,季節が秋になっことを,早朝「雁が音」という「音」で知り,外に出てみれば浅茅(背の低い草)が緑から黄色に変わっていて,秋が深まったことを感じられたという短歌でしょう。
聖武天皇ぐらいになると,忙しくて中々外に出られない身であり,外出時があったとしても,駕籠に乗って移動し,外の風景をじっくり見ることもできなかったのかもしれません。
簡潔に言えば「雁が音」と「秋」の相関関係を「浅茅」の色付きで確認しただけの短歌ということになり,文学的な深みはどうかと思う人もいるかもしれません。しかし,私は当時の人の自然に対する感性を知る上での1例とし,この短歌に対して何のネガティブイメージもありません。
さて,次は「雁」ではなく「鶴(たづ)」の「鶴が音」または「鶴の音」を詠んだ,飛鳥時代の歌人高安大嶋(たかやすのおほじま)の短歌を見ます。

旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし(1-67)
たびにしてものこほしきに たづがねもきこえずありせば こひてしなまし
<<旅先でもの恋しく感じている。鶴の鳴き声も聞こえないとしたら,ひの恋しさで死んでしまうかもしれない>>

この短歌は,持統天皇文武天皇に譲位したあと,難波の宮に行幸した時,お付の者たちが詠んだ和歌の1首です。
持統天皇が譲位する前は,藤原京での賑わいがあった。それに比べて,今来ている難波の宮は静かで,藤原京が慕われるという気持ちの表れでしょうか。唯一ツルの鳴き声だけが聞こえるだけ。もしそれも無ければ,あまりにも変化が無くて,「もの恋しい」を通り越して,死んでしまいそうということなのでしょう。
この短歌は,結局持統天皇の業績をたたえる気持ちを表したのだろうと私は思います。
次は,ホトトギスの鳴く音を越中赴任中に詠んだとされる大伴家持の短歌です。

ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも(17-3988)
ぬばたまのつきにむかひて ほととぎすなくおとはるけし さとどほみかも
<<月に向かって霍公鳥が鳴く声がはるかに聞こえてくる。霍公鳥は人里から離れたところにいるのだろうか>>

「ホトトギスが月に向かって鳴く」という表現が面白いと私は思います。「月」が出てきますから時間帯は当然夜ですね。但し,鳴いているホトトギスの姿は見えませんから,月に向かって鳴いているかどうか分かりません。何が月に向かっているように家持は思ったのでしょうか。
私の解釈です。ホトトギスは「テッペンカケタカ」と鳴きます。その「音(おん)」から,次に向かって鳴くと感じたか,当時はそう思われていた可能性があります。
遠くで鳴いているホトトギスに,近くまで来て欲しい。そして,月に向かって大きな声で鳴いて,綺麗な月が現れてほしい。そくな感情を家持は詠んだのだと私は思いたいです。
最後は,(ワシ)の鳴き声の音を詠んだ東歌を紹介します。

筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに
<<筑波嶺でけたたましく鳴く鷲の大きな音で泣き続けよう。もう逢えないのだから>>

鷲の書き声は,犬の鳴き声に似ているような気がします。こり書き声がけたたましく続くと確かに大きな音に感じられるような気がします。この鷲の書き声に負けないほど大きな声で泣きたくなるこの失恋は本当に悲しかったのでしょうね。
ところで,私は鷲の鳴き声をあまり聞いたことがありません。でも,YouTubeにはちゃんと出てきます。万葉集の和歌を鑑賞するうえでも,ITC(情報通信技術)の利用価値が高くなっていくと私は思います。逆に,その技術が万葉集の歌人の感性の素晴らしさを証明する手段になるのかもしれません。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」に続く。

2015年11月29日日曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」 ‥清流のイメージは「美しい水」+「流れる水の音」のコラボで決まる?

「音(おと)」の3回目は「水」に関する「音」について万葉集を見ていきます。
その音として,そのままの「水の音」のほか,「川の音」「瀬の音」「波の音」が万葉集に出てきます。
ここでは,それぞれ1首ずつ紹介していきます。
最初は「水の音」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

奥山の木の葉隠りて行く水の音聞きしより常忘らえず(11-2711)
おくやまのこのはがくりて ゆくみづのおとききしより つねわすらえず
<<奥山の木の葉に隠れて流れていく水の音を聞いてからは,(水がきれいだろうなと想像して)もう忘れられないのです>>

おそらく「水」は「女性」のたとえでしょう。
女性の噂を聞いて,そのうわさから「きっとたいへん美しい人に違いない」と思い,「見たい」「会いたい」といった気持ちが強くて,昼夜を問わず忘れられない自分の気持ちを詠んだのだろうと私は想像します。
次は,「川の音」を詠んだ短歌で,九州で防人(さきもり)の(すけ)をしていた大伴四綱(よつな)が大伴旅人大宰府から帰任する時の宴で旅人に贈った1首です。

月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ(4-571)
つくよよしかはのおときよし いざここにゆくもゆかぬも あそびてゆかむ
<<月夜が素晴らしく,川の流れる音も清々しい。さあ!ここで都へ帰られる人も残る人も楽しく遊びましょう!>>

今後は大納言旅人様と一緒に楽しいひと時を過ごせなくなるので,今宵限りは美しい川のせせらぎが聞こえ,名月が見られる宴(うたげ)の場所(おそらく宴開催の場所としては最高の場所)で,旅人様と一緒に過ごせる最後の宴を楽しく進めましょうという意図の表わした短歌だと思います。
会社の送別会などの途中にあいさつを頼まれた人は,この短歌をパロディー化して紹介しても良いかもしれませんね。
たとえば,「眺めよし飲む音忙(せわ)しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ」というような感じですかね。
さて,次は「瀬の音」を詠んだ詠み人知らずの短歌1首です。

夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも(10-2222)
ゆふさらずかはづなくなる みわがはのきよきせのおとを きかくしよしも
<<夕方になると河鹿が鳴き声が聞こえる三輪の川で,さらに清らかな瀬の音が聞こえるのはよい気持ちだなあ>>

平城京の前の京(みやこ)である藤原京から数キロはなれた三輪の地で流れる川(今の大和川?)の瀬の音がカジカの声と混じってさわやかに聞こえることを詠んだと私は感じます。
この地は「三輪そうめん」が有名です。美味しいそうめんを作るために必要なきれいな水が豊富な土地だったのでしょうか。
最後は,「波の音」を詠んだこれも詠み人知らずの短歌です。ただし,この短歌で出くる波は海の波ではなく,川でできる波の音です。

泊瀬川流るる水脈の瀬を早みゐで越す波の音の清けく(7-1108)
はつせがはながるるみをの せをはやみゐでこすなみの おとのきよけく
<<泊瀬川の水の流れが速く、水が浅瀬を越えてできる波の音が清らかだ>>

泊瀬川は,前の短歌に出ている三輪から南に少し行き,伊勢方面へ行く今の初瀬街道沿いに流れる川といわれています。
奈良盆地大和平野)から名張方面へ向かって山の中に入りますので,泊瀬川は清流でかつ急流の部分がたくさんあったのでしょうか。
急流の部分の瀬(浅いところ)では,川の表面に波が立ち,さらさらと波の音がして,その音はさらにきれいな水を引き立たせる効果が作者には感じられたのでしょう。
さて,今回あげた4首の内3首は万葉集に作者が載っていない(詠み人知らずの)短歌です。
この人たちは,万葉集に作者として名前が載っている人麻呂赤人旅人家持黒人天皇名だたる貴族たちに比べて有名では無かった(一般庶民とは限りませんが)のだろうと私は思います。
でも,これら3首の短歌から,作者の「川の水」で「音」を感じる感性が非常に繊細かつ鋭敏であること,そしてその表現力が優れていると私は感じます。
では,なぜこんな「音」を感性豊かに感じる和歌が多く作られたのでしょうか?
多くの名も無い人が作歌する目的があったはずです(和歌を作る自体はその目的を達するためのあくまで手段にすぎない)。
その目的を探るため,私の万葉集をリバースエンジニアリングする旅はまだまだ続きそうです。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(4)」に続く。

2015年11月21日土曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」…万葉時代,舟の楫の音は何の変化を想像させていた?

「音」の2回目は,「楫(かぢ)の音」を取りあげます。
万葉集では「楫の音」を詠んだ和歌が20首近く出てきます。
当時,「楫の音」は,今に例えるとジェット飛行機やヘリコプターの飛ぶ音,新幹線の走行音のように,その時代の近代化を象徴する音だったのではないかと私は想像します。万葉時代には造船技術が向上し,さまざまなタイプの船がそれまでに比べ,低コスト,短期間で作ることができるようになったようです。
また,各地の海辺や海につながる川辺には,船着き場や港が次々と作られていき,経済の発展による物流量の増加とともに,船の交通量が大きく拡大していた時代。その拡大を感じさせる音の象徴が「楫の音」だったと私は考えます。
楫は,小さな舟では櫓(ろ)のようなもので,大きな船では櫂(かい)のようなもの指していたのではないでしょうか。それは,当時木でできていて,動かすには,いわゆる「てこの原理」で,支点になる部分が必要になります。その支点は,楫全体がぶれないようにしっかりと支える臍や穴が開いている構造になっていたと想像できます。
そうすると,楫を動かしたとき,その支点部分に力が集中し,木と木が強く摩擦する音が発生します。それが「ギーコー,ギーコー,..」という「楫の音」の源です。
では,実際の万葉集の和歌を見てきましょう。
最初は,代表的万葉歌人の一人笠金村(かさのかなむら)が神亀2年10月に難波宮を訪問した際に詠んだ短歌です。

海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)
<あまをとめ たななしをぶねこぎづらし たびのやどりにかぢのおときこゆ>
<<海人の娘たちが屋根の無い小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿で櫓(ろ)の音が聞こえる>>

難波(なには)宮は,今の大阪城付近にあったという説が有力だそうですが,当時の海岸線はその近くまで来ていたとすれば,海の傍に建つ豪華な別荘宮だったと考えてもよいかもしれません。
地元の漁師の若い娘たちが,早朝小さな舟に乗って,漁に漕ぎ出す時の勢いのよい「楫の音」が,宮の近くの宿で聞こえたことを詠んでいると私は考えます。
それを長閑(のどか)と感じたのか,活気があると感じたのか,当時の感性でないと正しく理解ができないような気がします。
次は,同じ大阪(難波)で積極的に掘られたと考えられる運河を航行する舟の梶の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも(7-1143)
<さよふけてほりえこぐなる まつらぶねかぢのおとたかし みをはやみかも>
<<夜が更けても堀江を漕ぎ進む松浦舟の梶の音が大きく聞こえる。堀江の水の流れが速いからであろうか>>

松浦舟の松浦は九州の肥前の国の地名で,そこで作られた良い舟であり,万葉集の歌人が詠むくらいなので,松浦舟はきっと舟の有名ブランドだったのでしょう。
この短歌が詠んでいるように,その松浦舟の楫の音が大きく聞こえるほど,運河の水流が速かったのでしょうか。
それだけではないような気が私にはします。実は夜遅くまで荷物を運ばなければならないほど運ぶべき荷物の量が多かったのかもしれませんね。今で言うと夜行トラック便のような,猛スピードで走る夜便の舟の運行もあった可能性はあります。
どんな世の中でも同じかもしれませんが,利用に対して道路,運河,橋などのインフラが追い付かないことが往々にしてあります。それをカバーするのは人間の必死の努力ということになり,万葉時代はこのような夜遅くまで頑張る人の音を聞いた歌人が和歌を詠むテーマとするような時代だったのかもしれませんね。
最後は,少し季節はずれですが,天の川に浮かべる舟の楫の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ(10-2072)
<わたりもりふねわたせをと よぶこゑのいたらねばかも かぢのおとのせぬ>
<<天の川の渡り舟の管理人が「舟を渡してよいぞ」という声が相手にとどいていないのだろうか。彦星が乗る舟の楫の音がしないのです>>

七夕に天の川を渡って来てくれるはずの夫(彦星)が一向にくる気配がない。それは渡し守が渡しを許可する声が小さいからと嘆いている。
当時の妻問婚では,夫が妻問する場合,親の許可が必要だったことも想像できるため,親に対するクレームめいた短歌とも取れそうですね。
待つ者にとって,相手が来る気配の音の一つとして「楫の音」は当時では定着していた可能性があると私は思ってしまいます。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」に続く。

2015年11月15日日曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(1)」…新しい変化の始まりは新しい音から始まる?

<聴覚について>
人間の感覚器の一つ「耳」が非常に重要な器官であることは,常識の範疇なのかもしれません。
補聴器が役に立たないくらい聴覚が機能しなくなると,正しい発声にも障害がでます。
その場合,人とのコミュニケーションでは,手話や読唇術,相手の顔の表情などから,訓練すればかなり円滑なコミュニケーションがでしょう。しかし,危険を知らせる警報音に気付くのが遅れ,災害や事故に遭いやすくなるというハンディキャップは残ってしまうと思います。
また,自然や生活の営みが織りなす音(例:鳥のさえずり,小川のせせらぎ,秋の虫の合唱,そよ風を感じる木々のざわめき,早朝の釣舟のエンジン音,遠くに聞こえる霧笛の音,大晦日の除夜の鐘の音,水琴窟の音など)で風情を感じることができにくくなってしまうと考えると,聴覚器官は本当に大切にしなければならないものだと改めて感じます。
<新しい文化は新しい音を聞かせる>
さて,万葉時代は大陸からの新しい文化・宗教・生活習慣がそれまでに比べてはるかに速いスピードで流入し,それに伴って新しい音も出てきたと思われます。同時に昔から暮らしや自然で発生する音への愛着も感じる時代だったのではないでしょうか。
そんな時代のためか,万葉集には「音(おと・ね)」を詠んだ和歌が多数(130首以上)出てきます。
今回から数回にわたり,万葉集で詠まれた「音」について見ていきます。
まず「おと」と発音すると考えられる和歌を見ていきますが,「何の音(おと)」を詠んでいるか気になるところです。
万葉集でどんな音がで出くるか,最初に示しましょう(‥の右の意味は,万葉集の和歌での意味を意識している)。

足の音(あしのおと)‥馬の足音。
鶯の音(うぐひすのおと)‥鶯の鳴き声。
馬の音(うまのおと)‥馬の足音。
風の音(かぜのおと)‥風が吹く音。
楫の音(かぢのおと),楫音(かぢおと)‥楫を漕ぐ音。
川音(かはと,かはおと),川の音(かはのおと)‥川水が流れる音。
小角の音(くだのおと)‥角をくり抜いた小型のラッパを吹く音。
声の音(こゑのおと)‥鳥の鳴き声の音。
鈴が音(すずがおと)‥馬につけた鈴の音。
瀬の音(せのおと)‥川の瀬(浅い場所)で水が流れる音。
鶴の音(たづのおと)‥鶴の鳴き声。
鼓の音(つつみのおと)‥鼓をたたく音。
遠音(とほと)‥遠くで聞こえる音。
鞆の音(とものおと)‥鞆とは,弓を引く人が射った後の衝撃を和らけるため,左手手首から肘までをカバーした布や毛皮を指す。弓を射るとツルが鞆にあたるときの音。
中弭の音(なかはずのおと)‥弓を射ったとき,弓の中央部分を矢が通過する音か?
鳴く音(なくおと)‥鳥が鳴くまたは囀(さえず)る音。
波音(なみおと,なみと),波の音(なみのおと)‥波が寄せる音。波しぶきの音。
鳴る神の音(なるかみのおと)‥雷の音。
羽音(はおと)‥鳥の羽をばたつかせる音。
人音(ひとおと)‥人々が動く音。
笛の音(ふえのおと)‥笛を吹く音。
水の音(みづのおと)‥川の水が流れる音。
夜音(よおと)‥夜爪弾く琴の音。

これらの「音」に関する表現から,当時の社会の様子が分かってくるように私には思えます。
・笛,鼓,琴,ラッパといった楽器の演奏が頻繁に行われるようになった。
・舟の運行が盛んであり,楫の音をみんなが知っていた。
・馬が陸上の交通手段として一般的であった。
鳥の鳴き声や羽音,川の音,波の音,雷鳴などが万葉集の多くの和歌で取り上げられていることは,「音」に対する万葉人の感性は割と繊細なものがあったのかもしれません。
今回は,そのなかで大伴家持の有名な1首のみを紹介します。

我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(19-4291)
わがやどのいささむらたけ ふくかぜのおとのかそけき このゆふへかも
<<自宅に植えた細い竹の植え込みに吹く風の音がかすかに聞こえるこの夕方であ>>

風はそれ自体相当強く吹かないと音は聞こえません。
風がかすかに吹いているだけの場合,家の中ではそれに気が付かないことが多いでしょう。家持は笹の葉が振れる音で,風が吹き出したを感じ取ったのでしょう。
熱い1日が終わり,夕方の風が出てくると涼しくなる期待が高まります。
以前にもこのブログで述べたと思いますが,日本人は昔から変化の始まりを感じ取る繊細な感性を持ち合わせているのです。
その感性も,外国と比較すると多様に変化する自然があるからであり,その変化の前兆に「音」が占める割合が多いので,万葉集にも多く出てくることになったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」に続く。

2015年11月6日金曜日

今もあるシリーズ「海女(あま)」…海水に濡れた海女の姿,男には魅力的?

現代の「海女」は,水中メガネを付けて海に潜り,ウニ,アワビ,イセエビ,サザエなどを採っている女性がイメージされるかと思います。
さらに若い海女は,2013年4月~9月に放送されたNHKの朝ドラ「あまちゃん」で有名になったように,さらに可愛さや魅力的なイメージがありますよね。
やはり,健康で明るいイメージ,人魚のような魅惑的なイメージがポジティブにみられるのでしょうか。
私は,小学校の修学旅行で,三重県伊勢志摩での海女の観光実演を見たのが,初めてでした。
しかし,万葉時代の「海女」は漁り(いさり)やそれに関連する作業をする女性を広く指しますから,必ずしも海に潜ったり,船に乗ったりするだけの女性を指していたわけではなさそうです。
当時の海女がどんなイメージだったのか,さっそく万葉集の和歌をみていくことにしましょう。今回も「海女」は,この1回のみです。
最初は,奈良時代の役人である石川君子(いしかはのきみこ)が北九州に赴任または訪問したときに詠んだ短歌です。

志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに(3-278)
しかのあまはめかりしほやき いとまなみくしげのをぐし とりもみなくに
<<志賀の海女は,海藻を刈ったり,塩を焼いたりして忙しそう。櫛笥の小さな櫛を手にとって髪をすいているところを見ることがない>>

せっせと浜で働いでいる女性姿を見て,髪の毛が乱れていても,身だしなみを気にすることなしに働いている姿を君子はどう感じたのでしょう。
膚が日焼けして黒いが,若々しく健康的な良い印象をもった。その上で髪をきれいに櫛でとくと,きっと魅力的な女性たちになると考え方のかもしれませんね。
次は角麻呂(つののまろ)という伝不詳の歌人が難波の海女を見て詠んだ短歌です。

潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む(3-293)
しほひのみつのあまの くぐつもちたまもかるらむ いざゆきてみむ
<<潮がひいた御津の海岸で,海女たちがくぐつ(草で編んだ袋)をもって,綺麗な海藻を刈っているらしいので,見に行こう>>

海藻といっても,海苔のようなものでしょうか。たくさんの海女が海岸にでで楽しそうに話をしたり,大声で笑いながら作業をしているのは,たび人も見ていて楽しいのでしょうね。
また,こういう和歌を京で披露すると,そんなに遠くない(健脚なら1日で着ける)ので,「見に行こう」と思った人はたくさん現れたのではないでしょうか。
最後は,これも九州の筑後守をしていた葛井大成(ふぢゐのおほなり)が海岸で海女の姿をみて詠んだとされる短歌です。

海女娘子玉求むらし沖つ波畏き海に舟出せり見ゆ(6-1003)
あまをとめたまもとむらし おきつなみかしこきうみに ふなでせりみゆ
<<海女の若い娘が真珠を求め,沖の荒い波が立つ海に舟を出して行くのが見える>>

この海女は,まさに現代の海女と同じ漁法でしょうか。野生の真珠貝やアワビの中に潜む真珠は,京に献上すると大変喜ばれるを知っている大成としては,漁の結果がどうだったかは気になるところでしょう。
ただ,偉い長官が見に来たので,地元の長は,沖が荒れていても,無理して舟を出したのかもしれませんね。
そういう状況なら,舟で沖に行った海女は気の毒な気が私にはします。
今もあるシリーズ「音(おと)(1)」に続く。

2015年11月1日日曜日

今もあるシリーズ「石橋(いしはし)」 … 石橋は人と人との距離を短くする?

今回だけのテーマとして「石橋」をとりあげます。
「石橋」は日本では人名の姓で出くるのがポピュラーですね。「石橋」姓をもつ有名人もたくさんいます。また,地名でも「石橋」は出てきますが,多くは街道や川に面しているようです。
石造りの橋として有名なのが,現在の東京「日本橋」ですね。「日本橋」というと江戸時代の木造り橋のイメージがありますが,現在は石でできています。そうでないと,自動車やトラック,バスは通れませんからね。
さて,万葉時代では「石橋」はどんなふうに詠まれていたでしょうか。
まずは情熱の歌人笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った恋の短歌から1首です。

うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも(4-597)
うつせみのひとめをしげみ いしはしのまちかききみに こひわたるかも
<<この世の人たちの目がうるさいけれど,その目に留まらぬほどすぐ対岸に行ける石橋のように近い家持様にお慕いしています>>

「石橋の」を「間」に掛かる枕詞との説もあるようですが,私は以前からもこのブログで書いているように枕詞であったら訳さないで済ますことに疑問を持っています。
石造りの橋は当時一般にどうみられていたのか(多くの人の共通認識)をちゃんと理解できて初めてこの短歌が表現したいことが分かると私は思いたいです。
2009年3月11日のこのブログで書いたように,万葉時代では天橋(あまはし),石橋,浮橋,打橋,大橋,倉橋,高橋,棚橋,玉橋,継橋,檜橋(ひはし),広橋,舟橋,八橋(やばせ)など,既に様々な橋の形態や形容があったようです。
その中で「石橋」が一番丈夫で,安心して渡れたし,揺れないので走って渡っても安全で,馬などに乗って渡ることもできたのでしょうか。だから,石橋が作られると対岸と非常に近くなり,すぐに行けるというイメージが定着していたのに異論を感じる方いかもしれません。
当時の石橋というのは,立派な橋の形をしているものでは無く,川に石を歩幅間隔に置いて,その上を渡ることで,川の水に濡れずに渡ることができるだけのものというイメージが定着しているとすれば,「間」は歩幅の間となります。
いずれにしても,石橋のイメージによっては,解釈は微妙にことなってくるわけです。
次は,故郷の明日香川を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし(7-1126)
としつきもいまだへなくに あすかがはせぜゆわたしし いしはしもなし
<<年月もそんなに経っていない。けれど明日香川の多くの瀬に渡してあった石橋も今は無くなってしまいました>>

この石橋は比喩かもしれませんね。すなわち,故郷は変わらないと思っていたのに,少ししかたっていないのに変わってしまったという気持ちを石橋という強固なものでも変わるという喩えで表現しているように私は思います。
この気持ちは私にはよくわかります。以前にもこのブログで書いたように,私は4歳のころから15年ほど京都市の山科という所で育ちました。
炭焼きの煙が山肌をたなびき,水車小屋があちこちにあり,水田・野菜畑が多くあり,清らかな湧水を使ったセリ畑やニジマスの養殖場もあったような記憶があります。家の近くの斜面にはワラビやゼンマイが生えている場所もたくさんありました。
本当にのどかだった山科盆地が,急速に京都や大阪のベットタウンとして市街化していくのを毎日のように見て来たからです。名神高速道路,新幹線が山科を通るようになってからは,それまで遠くの山で鳴く鳥の声が聞こえそうな静かな山科盆地は,トラックの走行音や新幹線の風を切る音が響き渡る場所と化しました。
最後は,また恋の短歌です。

明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも(11-2701)
あすかがはあすもわたらむ いしはしのとほきこころは おもほえぬかも
<<明日香川を明日も渡ろう。明日香川の石橋のようにあなたとの心の距離は遠いとは思えないので>>

明日香川には石橋がいくつもあったのでしょう。その石橋を明日も渡る決意とは,相手との心の距離が近いということを信じてアプローチするぞという決意なのかもしれません。
いずれにしても,川が隔てる対岸との距離は生活面での行き来でも,恋人との逢瀬でも,短くあってほしいというのが人々の願いだった。それを短くする「石橋」を渡すことへの期待は大きかったのだろうと私は思います。
今もあるシリーズ「海女(あま)」に続く。

2015年10月25日日曜日

今もあるシリーズ「麻(あさ)(3:まとめ)」 …妻問では「麻生(をふ)の下草」がポイント?

「麻」の最後は男女の恋愛の和歌でどのように使われたか万葉集を見ていきましょう。
万葉集で恋愛の和歌はやはり詠み人知らずが多いですね。次もそんな女性の短歌です。

桜麻の麻生の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも(11-2687)
さくらをのをふのしたくさ つゆしあればあかしていゆけ はははしるとも
<<桜麻の麻が生えている庭の下草は露が降り始めているので,お泊りになってくださいな。おなた様が来られていることを母が知ったとしても>>

いいですね。こんな短歌を女性からもらいたいですね(もちろん妻には内緒で)。
当時は妻問婚であり,男性が女性の部屋に密かに忍び込んで床を共にする(夜這い)のが一般的だったようです。
そうであるものの,親が気づかないはずはありません。気づかないふりをしているだけです。
この短歌は,自分自身も気に入り,親も気に入り,親を正式に紹介したいという口実ですね。
こうすることで,正式な婚姻の成立へ向かうことができたのでしょう。
正式な婚姻が成立すれば,男性(夫)が夜這いをする場合も,親に知られないように気を使う必要がなくなります。
もちろん親は正式な婚姻が成立した後も,両親は夫が夜妻問に来ても完全に知らぬふりをするでしょうね。
さて,次は前の短歌のパロディか返事ともとれそうな男性作の短歌です。

桜麻の麻生の下草早く生ひば妹が下紐解かずあらましを(12-3049)
さくらをのをふのしたくさ はやくおひばいもがしたびも とかずあらましを
<<桜麻の麻が生えている庭の下草が早く生えていれば,あなたの下紐を解かずにいただろうに>>

さて,この短歌の意味を素直に考えると,麻の下に草が生えておらず露に濡れる心配が無かったので,あなたと共寝をしたのですよということになりそうです。
そうなると,当然帰りも露に濡れる心配はないので,事を終えると男はさっさと帰ってしまった状況が推測できます。
今回の妻問は行きずりの逢瀬であり,結婚までは考えていませんよという男の言い訳(返信)ともとれます。
ただ,相聞ならば,万葉集内でもっと近くに置いても良さそうですが,巻も違います。
パロディとすると,いろいろな解釈ができそうですが,「麻生(をふ)」は「生ふ」,「終ふ」と同じ発音になります。
以降は,みなさんの想像力の豊かさにお任せします。
最後は,上質の麻布を織るために,織り子達が切れ目なく作業する姿を序詞として詠んだ短歌です。

娘子らが績み麻のたたり打ち麻懸けうむ時なしに恋ひわたるかも(12-2990)
をとめらがうみをのたたり うちそかけうむときなしに こひわたるかも
<<娘子たちが織る麻用のたたり(絡垜)を使い,柔らかい打ち麻にするよう丁寧に織り続けるように,間無く恋い続けているのです>>

この短歌から,作者の恋する気持ちの切れ目の無さを表現したと解釈するよりも,私は麻布を織る作業に使う道具や手順を想像したくなります。
このことで,この時代にどの程度の織布の技術があったか,また繊維産業がどの程度専業化し,どんな人が担ってきたのかなどを知ることができそうです。
今も残る麻の衣服。1,300年もの間,日本人の身体を暑さ,寒さ,日光,汚れなどから守ってきたのです。
これからも,「麻布」は我々の身近で使われていくのでしょうね。
今もあるシリーズ「石橋(いしはし)に続く。

2015年10月18日日曜日

今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」 … 麻の栽培は田舎の代名詞?

前回は東歌から「麻」を見ましたが,今回は東歌以外で「麻」が詠まれた万葉集の和歌をいていきましょう。
とはいえ,最初はの短歌は,東歌には分類されませんが,常陸娘子(ひたちのをとめ)という東国の女性が,現地で詠んだ短歌です。

庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな(4-521)
にはにたつあさでかりほし ぬのさらすあづまをみなを わすれたまふな
<<庭に立つ麻を手で刈り干したり,布にしてさらしたりするような田舎者の東女ですが,どうかわたしをお忘れにならないでください>>

この短歌,藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が按察使(あぜち)設置時に常陸守として安房(あは),上総(かずさ)及び下総(しもふさ)3国の按察使に任命されるに赴いたのは養老3(719)年で,接待をした常陸娘子から赴任終了時に贈られたもののようです。
常陸娘子は庶民の出ではなく,現地で中央役人を接待するために,当時の教養,京人の作法,和歌を詠む素養,言葉遣いなどの教育をしっかり受けた豪族の家に生まれた女性だったのでしょう。
この短歌の前半部分は娘子が謙遜している部分ですが,東国では「麻」を自宅で栽培,製糸,機織,漂泊するような田舎であるというイメージが京人にはあったのでしょうね。
当然,娘子がそんなことはしていないし,する必要もないほど着るモノに困っていなかったとは思いますが。
次は,田辺福麻呂歌集に出ていたという新しくできた久邇京恭仁京)を賛美する短歌です。

娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ(6-1056)
をとめらがうみをかくといふ かせのやまときしゆければ みやことなりぬ
<<乙女らが麻糸に紡いで懸けておいたという桛(かせ),その名と同じ鹿背の山が時移り都となった>>

万葉時代には,製糸用具や織機のさまざまなパーツ,関連で使用する道具について,知っている人が多かったのでしょうか。
多くの人が着る服が麻布でできていた時代と考えると,麻糸の製糸,麻布を織ることに,多くの人が携わっていたのかもしれませんね。
ただ,新しい久邇京周辺で織物産業が活性化することを期待して,麻糸を製糸することを商売にする人が詠んだのかもしれないというと,万葉集を汚したという人が出そうですね。
久邇京はこの詠み手の思いとは裏腹に,天平12(740)年~同16(744)年の間しか存在しない仮の都のようなもので終わりました。
さて,最後は,藤原房前(ふぢはらのふささき)が詠んだとされる紀行風の短歌です。

麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹(7-1195)
あさごろもきればなつかし きのくにのいもせのやまに あさまくわぎも
<<麻衣を着るとなつかしく思い出されることだ。紀伊の国の妹背の山で麻の種を蒔いていたあの娘ことを>>

奈良の京の公卿が紀の国への天皇行幸に同伴したときといわれていますが,業務そっちのけで農家の可愛い娘を目ざとく見ているとはね~と思う人もいても不思議ではありません。
しかし,別の見方として,そんな可愛い女の子がいるなら,次の行幸では私も同行しようと思う公卿や紀の国へ旅してみようと思う人が増えることを願って詠ったのかもしれません。
紀の国は,平城京からの距離は,山城(京都)や難波(大阪)に比べてそれほど近くはありません。
しかし,平城京から南行し,今の橿原市,御所市,五條市まで行って,後は水量が豊かな紀の川を下って行けば,急峻な山越え無く,紀の国(和歌山)に到達できます。
万葉時代,紀の国は平城京へさまざまな海の幸,川の幸,山の幸,紀の川が氾濫した肥沃な土地で栽培される麻やコメなどの農作物,そして建材を供給する有望な地域となっていたのでしょう。
今もあるシリーズ「麻(あさ)(3:まとめ)」に続く。

2015年10月10日土曜日

今もあるシリーズ「麻(あさ)(1)」 … 万葉時代の東国は絹の産地。でも庶民は麻を着ていた?

麻は,今も衣類の繊維として利用されています。強く,風通しが良いので,蒸し暑い季節に爽やかな感じて着られるシャツなどに利用されています。
また,麻という漢字は次のように,植物や繊維以外いろいろなところに使われています。
麻雀(ゲーム),麻薬(医療),麻婆豆腐(料理),麻生(人名),麻布(地名),麻田(人名)などがあります。
万葉時代は,木綿の栽培は今ほど盛んではないく,絹の生産も今と同じ高級服用に限られていたようです。
そうすると,庶民が着る服は丈夫で軽い麻の布で作られた服となります。
万葉集でも,麻はたくさん詠まれていますが,何といっても万葉集に載っている和歌の男性作者の名前の最後によく出てくる「~麻呂」は,「麻」の字が使われています。
では,実際の万葉集の和歌を見ていきましょう。「麻」が一番たくさん詠まれいる万葉集の巻は14(東歌)です。
確かに,東歌は東国の庶民(多くは農民)の歌が多いので,分かるような気がします。

麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に(14-3484)
あさをらををけにふすさに うまずともあすきせさめや いざせをどこに
<<麻の糸を桶いっぱいになるまでよりあわせなくても,それで明日着せる服に間に合うはずもないから,さあ床で寝よう>>

夫が一生懸命夜まで働いている妻に対して,早く床に来いよと誘っている短歌と私は感じます。
麻の繊維をほぐして,糸に縒りあわせるのは結構面倒な作業だったのでしょうか。
そのため,庶民の妻の内職として,当時すでに定着していたのかもしれません。
妻は子どものためにせっせと内職をしているが,昼の仕事が終わった亭主は夜の営みをまだかまだかと待っている雰囲気が良く伝わってきます。
次も東歌です。

上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ
<<上毛野の安蘇の群生した麻を腕一杯にかかえて寝たけれど、まだ満足できないが,どうすればよいのだろう>>

今の栃木県の安蘇郡で,渡良瀬川の流域で麻が群生しているところがあったのでしょうか。
麻は大麻(マリファナ)の原料となるように,その乾燥させたものには,精神を麻痺させるような薬理作用があるとされています。
そういったものを大量に抱きしめても,彼女を抱くのに比べたら全然満足できないといったことをこの短歌は表しているように私は思います。
最後も東歌です。

庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま
<<庭に生えている麻で作った小さな掛布団よ,今宵は夫が来るように願ってね,麻で作った小さな掛布団よ>>

自宅の庭に生えている麻で丹精込めて作った小さな掛布団は,二人がしっかり抱き合わないとはみ出てしまうような可愛いものだったのでしょうか。
夫が来てくれるのを今か今かと心待ちにしている様子がしっかりと伺えますね。
東歌では,次の短歌から養蚕は始まっていたと思われますが,庶民の普段着には使えない高級品だったのでしょう。
また,東歌には木綿の布を詠んだ和歌が出てこないため,当時の東国では衣類や寝具の生地して麻布が多く使われていたことも想像できます。

筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも(14-3350)
つくはねのにひぐはまよの きぬはあれどきみがみけしし あやにきほしも
<<筑波嶺の新桑で作った絹の最高級な衣があると聞くけど,私はあなたの衣を身につけてみたいのよ>>

今もあるシリーズ「麻(あさ)(2)」に続く。

2015年9月27日日曜日

2015 シルバウィークスペシャル(4:まとめ) … 台北の旅もあっという間に終わりました

私たちの台北旅行は昨日夜というより,日付が今日(27日)になってからの帰宅になり,終わりました。
台北旅行の最終日(26日の土曜日)は,朝から帰る荷物の整理をして,チェックアウトの12時まで,忠列祠(ヂョンレイツー)の衛兵交代を見に行きました。
私たちはMRT圓山(ユァンシャン)駅まで行き,そこからバスで行くことにしました。
圓山駅のバス停にはさまざまな経路のバスが書かれていて,忠列祠へ行くバスがどれか(何種類もあるらしい)分かりにくく,MRTの駅に戻り駅員に聞きました。
しかし,彼もバスの細かい行き先について知らないようでした。
結局,バス停で最初に来たバスに観光客風の人が何人か乗ったので,私たちも乗ることにしました。
乗ったバスは土曜日で道が空いていることもあってか,急カーブしている道もほとんど減速せず走り,5分とかからず,忠列祠につきました。
バス停は忠列祠の門と通りの反対側で,信号の無い横断歩道を渡る必要があります。
道はカーブしており,次から次とクルマが双方から猛スピードで途切れず現れては通過するので,怖くてなかなか渡れません。
20台以上はやり過ごしたでしょうか,地元の人らしい人が見計らって渡り出したので,それに続いて何とか渡れたときは,正直ほっとしました。
衛兵の交代式は23日に見た中正記念堂に比べて,時間が長く(約30分),野外(石畳の中庭の線は衛兵が歩いた跡)が中心なので,色々な角度から衛兵に横から随行したり,前に回って正面からも見ることができました。




また,天候は曇りでこの季節の台北にしては過ごしやすく,最初から終わりまで見学することができました。
帰りは圓山駅方面のバス停は道を渡る必要がないため,気持ちは楽です。
ほどなく,台北車駅行のバスが来たので,乗ったところ圓山駅のロータリーには入らず,ロータリー前の道を直行するではありませんか。
「しょうがない。台北車駅からMRTで戻ろう」と思ってあきらめていたところ,しばらくして何と泊まっているホテルのすぐ近くの交差点が見えてきました。
その交差点のバス停で降りる乗客がいたので,間違いなくホテル近くの交差点だと確認して,続いて降りることができました。
結局,MRT圓山駅から雙連駅までの電車料金を払わなくて済んだというラッキーに出会いました。こんな経験も旅の楽しみのひとつですね。
次回台北に来るときは,ホテルに近いバス停からどこに行くバスに乗れるか,しっかり調べようとも考えました。
11時過ぎにホテルに戻った私たちは部屋で最終的な荷物の整理をして,チェックアウトしました。
夕方6時過ぎの帰りの飛行機出発まで,時間がたっぷりあるので,荷物をホテルで預かってもらい,土産物を買いに出かけました。
まず,台北車駅近辺のデパートやショップを最初探したのですが,なかなか良いところが見つからず,結局前回台北に来たとき土産物を買った,MRT忠孝復興(ヂョンシャオ・フーシン)駅にある太平洋SOGOデパートの地下2階にしました。
ここでは,パイナップルケーキのいろいろなブランドの品物が販売されていて,試食もしっかりさせてもらえます。
ただ,時間がまだたっぷりあるので,同フロアのフードコートで軽い昼食を摂りました。台北101に併設された高級ブラントばかりが1階から上に入っているビルで,地下1階ではフードコートがありました。
台北のデパ地下にフードコートがあるのは,結構興味を持ちました。ただ,最上階にレストラン街が無い場合が多いので,その代用なのかもしれませんね。
太平洋SOGOのフードコートのまわりには,レストランもあり,日系であるためか,日本の丼,ラーメン,寿司,鉄板焼き,うどん,釜飯などを食べさせるレストランが台湾料理や韓国料理の店より多かった印象です。
中でも,私たちがフードコートで1時間程過ごした席のすぐ近くのラーメン店は,その間行列がまったく絶えることがありませんでした。


並んでいる人はすべて地元の人(女性,女性グループ,男女カップル,ファミリー中心)のようで,日本人はいませんでした。
店員は日本式の教育を受けているようで,並んでいる人にメニューを渡し,入店順番近くになるとメニューが決まっていれば聞き,先に厨房に連絡をしていました。
食事が終わったお客さんの多くは,満足そうな顔をして出てきた印象を持ちました。
日本式ラーメンの人気が非常に高いようだと感じました。
さて,台北の人間ウォッチングを終えた私たちは,試食して一番美味しいと感じたパイナップルケーキを爆買い(かなり大袈裟表現です)して,少し寄り道したり,お茶なども買いつつ,4時頃ホテルに戻りました。
ホテルで,タクシーを呼んでもらい,タクシーで台北松山空港に向うことにしました。
タクシーが来るまでホテルのフロントの女性からは「台風接近の前のお帰りで良かったですね」といわれ,帰りが明日以降だったら大変だったかも知れないことに気づかされました。
乗ったタクシーの基本料金は70元(280円弱)で,空港についた時のメーターが125元(500円弱)でした。MRTでは遠回りで乗り換えが必要になりますが,道路ではこんなに近んだと,ホテルの立地の良さを改めて感じました。
タクシーの運転手は40歳台くらいの女性で,出発・到着ともに荷物の上げ下ろしをしっかり手伝ってくれたので,100元札2枚を渡し「Keep the change.(おつりはとっておいて)」と言いました。
彼女はもらって当たり前という雰囲気は微塵もなく,「いいんですか?」という顔をして,何度もお礼を言ってくれました。
台北及び近郊の交通機関,公共施設の各種警護や管理に携わる人たち,ホテル,レストラン,食堂,屋台,売店,温泉施設などの従業員,他の観光客(日本人,日本人以外)との接触を通した台北旅行は,今まで以上に楽しくも充実したものになりました。
気持ちは,大海人皇子吉野を愛した有名な短歌の《 》内の部分に「台湾」を入れたようなものでしょうか。

淑き人のよしとよく見てよしと言ひし《吉野》よく見よ良き人よく見
よきひとのよしとよくみて よしといひし《よしの》よくみよ よきひとよくみ
<<昔の立派な人が素晴らしい所だと何度も見て,それでも素晴らしい所だと言ったというこの《吉野》をよく見ると良い。今の善良な人たちもこの地を何度も見てほしい>>

飛行機は夜10時過ぎに羽田空港に着陸しましたが,海外からの帰国客でごった返していました。帰りの電車も,土曜の夜を過ごした乗客が途中から加わり,ずっと満員状態でした。
明日からは職場での仕事が待っています。明日お土産を配ったら,気持ちは完全な仕事モードに切り替わります。
さて,次回からは,動きの詞シリーズの第2弾はお休みにして,今でもあるシリーズの第2弾をお送りしていきます。
今もあるシリーズ「麻(あさ)」に続く。

2015年9月26日土曜日

2015 シルバーウィークスペシャル(3) … 台北観光でハイキング?

<台湾旅行最終日>
台北旅行最終日の夜が明けました。名残惜しいですが,私たちは今日の夜遅くに羽田に戻る飛行機で帰国します。
ただ,それまで今日もたっぷり時間があるので,買い物などをゆっくりと楽しみたいと考えています。
さて,昨日は台湾の国家公園(日本の国立公園にあたる)の一つ陽明(ヤンミン)山に行きました。日本の観光会社台北ツアーのコースには恐らく入ることが無い場所でしょうね。
陽明山に行くには,MRT劍譚駅のバス停から,だいたい10分に1本程度の頻度で陽明山バスターミナル行のバスが出ていますから,不便はあまりありません。
私たちも駅のバス停に9時頃到着後にすぐ着たバスに乗ることができました。バスは途中から急な山道を登りに登って,約40分ほどで陽明山バスターミナルに到着しました。
近くのセブンイレブンで昼食用のおにぎりを買いました。10時過ぎにバスターミナルから陽明山の見どころを循環する小型バスに乗り換えました。
バスが走る車道はながめの良い道でしたが,バスは小型であるためか満員の乗客がいても猛スピードに感じる速さでヘヤピンカーブを疾走しました。
私たちは最初の目的地である二子坪(アールシーピン)というバス停でバスを下りました。
バス停から2㎞ほど,よく整備され,平坦な緑道を歩いた先に二子坪の池が見えてきました。


山道の途中では,様々な植物に出会い,時々人を恐れない太った?リスにも出会い,木洩れ日を浴びながら気持ちの良い緑道歩きができました。

二子坪の池周辺の散策を終え,二子坪のバス停まで同じ緑道を戻りました。
二つ目の目的地も有名な擎天崗(キンティアンガン)という所です。
擎天崗のバス停付近は,二子坪のバス停も同じでしたが駐車場やビジターセンターもあり,国家公園としてよく整備されています。
擎天崗は一体に牧草地帯(牛も放牧されています)やススキの草原が広がり,雄大な眺めが楽しめるとところでした。

次の万葉集の柿本人麻呂歌集から転載された詠み人知らずの短歌を思い出しました。

秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも(10-2242)
あきのののをばながうれの おひなびきこころはいもに よりにけるかも
<<秋の野の尾花の先がなびくように,心はあの娘になびき寄ってしまったよ>>

牛たちはそんな気持ちを持っているかもですね。放牧された牛は遊歩道のすぐ近くでひたすら草を食んでいました。

1周が5㎞ぼとの周遊できる遊歩道があり,私たちはそれを1周することにしました。
遊歩道は,ほとんどが石で敷き詰められ,急傾斜のところでは階段状になっていて,結構な高低差がありますが年配者でも歩きやすいように整備されていました。


その遊歩道のもっとも高いところ(標高800m弱)で,昼食のおにぎりを食べて,近くの草原一体と遠くの陽明山山系の山々の景色を楽しみました。


これで,陽明山国家公園のハイキングを終え,午後2時過ぎには劍譚駅に戻ることができました。本当に気軽に豊かな自然を楽しめる場所が近くにある台北は良いところです。
それから,ホテルに戻り,台北101に行き(上に登らずウィンドウショッピングのみ),夕食は前日夕食を食べた京鼎楼にしました。
昼食はコンビニのおにぎりだったので,京鼎楼では一番高そうな400元(日本円で約1600円弱)する料理(ホタテ・エビ・野菜の炒めもの)を頼みました(写真の右端の料理)。


ボリュームは2人で分け合うのに十分な量がありました。その他に昨日とは違う種類の小龍包,そして〆は餃子並みの大きさのワンタンが6個も入ったワンタン麺を頼みました。
ハイキングで消費したカロリーを完全にオーバする量を食べてしまいました。反省。
2015 シルバウィークスペシャル(4:まとめ)に続く。

2015年9月25日金曜日

2015 シルバーウィークスペシャル(2) … 台北の朝市,温泉,夜市また楽し

台北に来て3日目の夜が明けました。昨日は台北及び周辺のさまざまな場所を周りました。
まず,宿泊ホテル最寄のMRT雙連駅から北に向かって,次の錦西(ジュンシー)通りまで,約200m続く朝市(雙連早市)を見ました。

ほぼ地元の人向けのマーケットです。果物,野菜,鮮魚,鶏肉中心の肉類,乾物,惣菜,雑貨,衣類などが,所狭しと店が並べられていました。



食料品は,ほとんど量り売りでした。果物のブドウもいくつかの店で売られていましたが,その中に日本の岡山産ピオーネというものもありました。地元で人気なのでしょうか。


写真は撮りませんでしたが,一つ驚いたのは,一つの店のなかに,人ひとり通れるスペースがあるにせよ,鮮魚(氷の上に生魚が並べられている)と女性下着売り場が何の仕切りもなく隣り合って,並べられていました。同じ出店オーナのようなのですが,どういうビジネスモデルかまったく見当が付きませんでした。
さて,その後,MRT台北車駅に向かい,台北の南方にある温泉地烏來(ウーライ)行きの始発バスに乗りました。乗車時には私と妻の二人だけでしたが,台北市内をMRT新店(シンデイエン)駅にバスが進む間にほぼ満席になりました。
新店駅からはMRTからバスに乗り換えた思われる団体客が乗ってきて,通路も乗客で満員状態になりました。
満員のバスは山岳地帯に入り,スピードを緩めることなく,ヘアピンカーブを疾走します。立っている乗客は,しっかりつり革や手摺などにつかまり転倒防止体制を必死に維持しています。
20分ほど経って,ようやく烏來に到着。こんなに多くの乗客が乗っていたのに,現地にはあまり人がいません。乗客もバラバラな方向に分散していきました。
まだ,平日の朝10時半を過ぎた時間だったためか,私たちが向かった老街と呼ばれる旅館,飲食店,お土産屋さんが並ぶ通りも閑散としているどころか,半分位シャッターが閉まっていたり,工事をしている店もありました。通りの真ん中では,犬たちが寝そべっています。




さらに奥に進み,トロッコ列車の乗場を少し過ぎたところの温泉館に入り,温泉に浸かることにしました。客は私たち以外誰もいません。私たちは温泉に浸かりたいだけなので,一番安い個室を選びました。そこは部屋というより,ドアで仕切られた風呂場のような場所に案内され,そこで,脱衣をして入るというシンプルな感じでした。
温泉の湯を割と清潔感のある石版造りのバスタブに自分で蛇口から勢いよく出る湯を入れ,満杯にして入りました。

その浴室からは,渓谷や対岸の山が見え,ゆったりと温泉(食塩泉系?)に浸かることがでしたのですが,温泉効果か数分で体が火照ってきてしまいました。
その後は,身体を冷やしては入るの繰り返しを2度ほどして,入浴終了。結構体に効く温泉のような気がしました。
入浴後は老街の開いている店で昼食を取りました。そこには行きのバスで新店駅から一緒だった団体さんの一部がいましたが,他の客はいませんでした。


食事は楽しみにしていた竹筒に入ったおこわと地元で採れた野菜のいためものや臭豆腐を注文して,ヘルシーで美味しい食事を満喫しました。



13時にバスで烏來から新店駅に戻り,そこからMRTで北投(べイトウ)駅に移動しました。その間,バスもMRTも温泉の効果か私はリラックスして爆睡状態でした。
北投駅に着くと,かすかに硫黄の匂いがしました。ここから,新北投駅までは別のカラフルな電車に乗り換えます。


新北投駅に着くとさらに硫黄の匂いが強くなり,温泉地であることが分かります。
そこで,私たちは新北投温泉街を抜けて,20分ほど歩いて地獄谷を見ました。高温のお湯が湧きだしているところです。


新北投温泉は都会に隣接している温泉地で,何か道後温泉の亜熱帯版を思わせるような雰囲気を私は感じました。
烏來の温泉効果がまだ残っているような感じもあったので,新北投温泉での入浴はせず,温泉街や日本では植物園の温室でしか見られないような樹木,そして野生のリスの動き,鳥の鳴き声なとを楽しみました。
万葉集に,大伴旅人が九州のある温泉地で聞いた鳥の鳴き声で,無き妻を偲ぶ短歌があります。

湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く(6-961)
ゆのはらになくあしたづは あがごとくいもにこふれや ときわかずなく>
<<湯の原で鳴いている鶴は,亡き妻を恋い慕う私のように気持ちなのか。鳴きやまず鳴いている>>

私たちと違い,家族無しで行った旅人はさすがにさびしかったのでしょうね。
さて,私たちはホテルに戻って一休みした後,夕食には楽しみにしていた,小龍包を食べに京鼎楼(ジンディンロウ)に行きました。ホテルから歩いて10分もかかりません。
京鼎楼は,最近日本にも結構店を出すようになりました。台北の京鼎楼は前々回(約4年前)台北に来たとき,美味しかったので,今回是非行きたいところの一つでした。
千切り生姜を乗せて定番の小龍包,海老蒸餃子を食べ,〆は海老卵チャーハンで今回も大満足でした。




その後は,ホテルから徒歩圏の寧夏(ニンシャー)夜市を覗いてみました。


ファッション系も多かった前日の土林夜市と違って,ほぼ食べ物だけの屋台夜市でした。博多の屋台をもっと密集させたような感じでした。
来る人も多く,人気屋台の前では行列ができ,人がすれ違うのもままならないところもある状態でした。日本でのお祭りや花火大会開催時のような雰囲気が毎夜続くのですね。



今回初めて行った夜市の場所ですがお勧めです。
2015 シルバウィークスペシャル(3)に続く。

2015年9月24日木曜日

2015 シルバーウィークスペシャル(1) … またまた,台北にやってきました

日本のシルバーウィークも終わったのですが,わたしは9/27まで休みですので,シルバーウィークスペシャルを今からお送りします。
9/23 早朝,羽田空港を出発(写真は人影少ない羽田空港)。


午前9時(現地時間)過ぎに台北松山(ソンシャン)空港に着きました。9/26まで妻とともに,いつもの完全フリータイム台北旅行の3回目です。
空港での入国審査に予想外に時間が掛かりました。
今まで台北に来たときには無かった,両人差し指の指紋を採取することを義務付けられました。なかなか機械がOKを出さない人がいて,行列が進みませんでした。
空港を出たのは10時近くになりましたが,それでもホテルのチェックイン時間までまだ何時間もあります。
MRT(地下鉄)で雙連(シァンリャン)駅近くの宿泊予約をしたホテルに寄って,荷物を預かってもらいました。
身軽になった私たちは,MRTで近くの土林(シーリン)駅に向かい,そこからバスで故宮博物院(グーゴンボーウーユエン)へ行きました。
故宮博物院の展示エリアには入らず,博物院の敷地内にある「故宮晶華(グーゴンジンホア,英語名はSilks Palace)」というレストランで昼食をとりました。
台湾の中でも高級レストランに属しているだけあって,値段もそれなりですが,私たちはこのレストランの味や材料にこだわりを感じています。そのため,台北を訪れるときは時間が許す限り来ることにしています。
今回は,海鮮中心でオーダすると決めていましたので定番の翡翠餃子(故宮博物院で有名な白菜翡翠を模した色にしている蒸餃子),シンプルな海老餃子を前菜にまず注文。



こういった飲茶風のものですら,中に入っている海老やイカ等の材料が抜群に感じられました。
そして,メインは海鮮硬焼きそばと海鮮タンメンを頼みました。それぞれ,大きな生ホタテが2個ずつ,小粒ですがプリプリの海老が4匹ずつ,肉も野菜もたっぷり入っていて,味付けも深みがあり,満足でした。


1時間以上かけた昼食後は,故宮博物院売店で小物を物色し,バスでMRT劍譚(ユァンタン)駅へ行き,そこからMRTで少し寄り道をしながら,午後3時少し前に中正記念堂(チョンシェンチーニェンタン)(蒋介石の業績を讃えた記念堂)につきました。
午後3時の衛兵交代式にギリギリ間に合いました。イケメンの衛兵が一糸乱れぬ歩調で交代をする姿を見ようと,多くの人が見学に来ていました。


また,その後記念堂の中央広場では,陸海空群の合同軍楽隊が行進・演奏する中,陸海軍の衛兵が300名ほどが銃剣を持ち,これも一糸乱れぬ銃剣を操りながらのマスゲーム風のパフォーマンスを行っていました。


まったく,予定になかった台湾陸海空軍の行事の一面がみられて,小国の軍の関係や国民へのアピール方法や工夫について興味を覚えました。
それからホテルに戻りようやくチェックイン。一休み後は,MRT劍譚駅に行き,地元の人や観光客(ほとんど日本人を見かけず)で活気あふれる土林夜市で食事や散策をゆつくりして,長い台北1日目は終わりました。
万葉集に豊島采女(とよしまのうねめ)が天平11年8月20日に橘諸兄邸での宴席で詠んだとされる短歌があります。土林夜市を歩いている雰囲気に似ている部分もあるかもしれません。

橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず
<<橘の木のそばにある道が踏まれ,八方に分かれるように,いろんなことを思っている人たちに,私の気持ちを知って貰うこともない>>

立派なの木にはそれを目印にして多くの人が集まる(渋谷駅のハチ公のように)。でも,その人たちはいろいろな思いや方向性を持って生きている。それぞれが理解しあえているわけではないし,私のことをよく知っているわけでもない。
その状況を孤独と感じるか,異邦人(旅びと)としての立場をわきまえ,外からいろんな人が集まる場所の雰囲気を傍観者として楽しむか,それもまた旅をする人それぞれの思いや感じ方なのかもしれませんね。
2015 シルバウィークスペシャル(2)に続く。

2015年9月20日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6:まとめ) …もうすぐ北海道から初雪の便り?

「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉の通り,これから各地で秋が深まっていく季節になりました。
平年では,北海道の山間部ではそろそろ初雪の便りが来るころです。ちなみに,昨年の大雪山の初雪は,平年より9日早い9月16日だったそうです。
さて,「降る」の最後は「雪が降る」を詠んだ万葉集の和歌を見ていくことにします。

最初は,山部赤人のもっとも有名な次の短歌です。

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)
たごのうらゆうちいでてみれば ましろにぞふじのたかねに ゆきはふりける
<<田子の浦を通って,海岸に出て見れば,ああ真っ白だ。富士山の高嶺に雪が降ったので>>

高橋虫麻呂も同様の富士山の雪について,短歌を詠んでいます。

富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり(3-320)
ふじのねにふりおくゆきは みなづきのもちにけぬれば そのよふりけり
<<富士山に降る雪は六月十五日に消えるのだが,その夜からまた降るのだ>>

2004年有人の富士山測候所が廃止になる前までは。富士山の初雪を同測候所が発表していたとのことです。しかし,富士山は真夏でも雪が降ることがあり,いつが初雪か区別がつきにくいため,今は富士山の初雪は発表されていないようです。
ただし,麓から見た初冠雪は継続して発表がされているようです。
初雪といえば,次の大原今城(おほはらのいまき)が,天平勝宝8(756)年11月23日に大伴池主邸で開かれた宴の席で詠んだとされる短歌があります。

初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ(20-4475)
はつゆきはちへにふりしけ こひしくのおほかるわれは みつつしのはむ
<<初雪は幾重にも降り重なれよ。恋しさが多く積もった私は,それを見てあなたのことを思いめぐらすでしょう>>

この短歌から,初雪というものに対する良いイメージが私には伝わってきます。
実は,どちらが参考にしたか分かりませんが,よく似た詠み人知らずの短歌(柿本人麻呂歌集から)が万葉集に出てきます。

沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日長き我れは見つつ偲はむ (10-2334)
あわゆきはちへにふりしけ こひしくのけながきわれは みつつしのはむ
<<沫雪は幾重にも降り重なれよ。恋しさが続いている私は,それを見てあなたのことを思いめぐらすでしょう>>

柿本人麻呂歌集が人麻呂が生きていて時に編纂されたものなら,大原今城のほうが参考にした可能性が高いことになりますね。
最後は,天平16年1月5日に安倍虫麻呂邸で行われた宴席で出席者の誰かが詠んだとされる愉快な短歌です。

我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ(8-1041)
わがやどのきみまつのきに ふるゆきのゆきにはゆかじ まちにしまたむ
<<私の家の君を待つ(松)の木に降る雪のような二つの状況では,行き(雪)は行かないけれど,待つ(松)ことは待ちましょうね>>

行くべきか待つべきか,恋のゲームでの戦術に迷うとき,雪はすぐ消えてしまうけれど,松の木はずっとあるから,行きより待つが正解と諭した短歌でしょうか。
慌てて行動するより,じっくり状況を見て,ベストなタイミングまで待つほうが物事が良いように向かうことが多いという考えの短歌なら,私は賛同します。
さて,次回から動きの詞シリーズは少しお休みして,2015シルバーウィークスペシャルの投稿をします。
2015シルバーウィークスペシャル(1)に続く。

2015年9月16日水曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)…高級「霜降り」の和牛ステーキが食べたいよ

日本では,ようやく異常な秋の長雨も終わり,秋晴れの日が続きそうな天気予報になりましたね。
茨城県常総市でおきた鬼怒川の堤防決壊の被害に遭われた方々,他の雨の被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて,今回からは,雨以外の降るモノを見ていきます。今回季節的に少し早いかもしれませんが「霜が降る」を万葉集で探します。
まず,次の詠み人知らずの短歌ですが,北海道,東北地方では,もうこんな季節に近づいているのかもしれませんね。

さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(10-2220)
さをしかのつまよぶやまの をかへなるわさだはからじ しもはふるとも
<<牡鹿が妻を呼ぶ鳴き声がする丘のまわりにある早稲田の稲は刈らないで欲しい。霜が降るような季節になっても>>

解釈がいろいろできる短歌だと思いますが,作者にとってかけがいの無い風景,雰囲気なのでしょうね。ずっとこの風景の美しさと鹿の恋(自分たちの恋?)の季節が続いていてほしいと思ているのかもしれません。
さて,「霜が降る」を詠んだ有名な和歌がたくさん万葉集にはあります。このブログですでに紹介したものもありますが,次々と見ていきましょうか。
次は志貴皇子が慶雲3(706)年文武天皇草壁皇子の長男)の行幸で難波に随行したときに詠んだ有名な短歌です。

葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)
あしへゆくかものはがひに しもふりてさむきゆふへは やまとしおもほゆ
<<葦のまわりを行く鴨の羽がいに霜が降って寒い夕暮は,大和がしきりと思われることよ>>

文武天皇が宮中を離れて,難波に行くことは,志貴皇子には快く思われなかったのかもしれません。天皇はまだ23歳ほどの若さでしたが,恐らく脆弱な体調だったのでしょう(翌年死去)。実権は母(後の元明天皇)が握っていたと考えられます。
志貴皇子にとって,政治的に大和で何が進んでいるか気になるところだったのだろうと,私はこの短歌から感じます。
次は,天平8(736)年に聖武天皇橘諸兄葛城王から橘姓を聖武天皇から授かった時)に贈ったといわれる短歌です。

橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
たちばなはみさへはなさへ そのはさへえにしもふれど いやとこはのき
<<橘という木は,実も花もその葉も,枝に霜が降るような季節になっても葉は美しい緑であることよ>>

これを拝受した橘諸兄の地位はかなり盤石になったと私は想像します。
次は,悲運の皇子として語り継がれいる大津皇子が詠んだとされる短歌です。

経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(8-1512)
たてもなくぬきもさだめず をとめらがおるもみちばに しもなふりそね
<<(機織で)縦糸も横糸も定めずに乙女らが(規則性無く)織ってしまったような黄葉に霜が降らないでほしいものだ>>

黄葉のグラデーションの美しさと色合いの多様さを見事に(おそらく錦織による)機織で例示した短歌だと私は思います。美しさに感動した強さを「霜が降らないでほしい」(いつまでも続いていてほしい)と皇子は表現しています。
こういった例示こそが万葉集に残された和歌の情報量の多さを物語っていると私は考えます。
一つのことを単に示すだけの情報量と,何かと何かを比較して示す情報量は,前者の2倍よりもかなり大きいと私は考えます。
すなわち,比較すれば,ぴったり合う部分と多少合わない部分が出てきます。それが,それぞれ個々の情報量に加え,比較で見えるさまざまな差という情報がプラスアルファされるのです。
<万葉集の和歌は多くの人に多くの情報を与える>
また,詠まれた和歌を聞いた人は,作者が具体的にどれとどれを比較して詠っているのかを考えたり,想像したり,後で調べたりすることになります。結果的に,その和歌を見た人に多くの情報を与えることになるのです。
説明的に違うものを比較するより,あるものにだけ焦点をあて素晴らしさを表現するほうが文学的には優れているという考え方もあるかもしれません。ただ,文学的には平凡といわれる和歌でも,考えたり,想像したり,調べたりして結果的にそこから得られる情報量が多ければ,私的には優れた和歌なのだと考えます。
この私的評価基準は,もし万葉集が文学作品集ではなく,万葉時代の社会の全体像を理解してもらうために編纂されたとすれば,なおさら明確です。
次は,天平5(733)年,我が子が遣唐使として送り出した母が,安全を祈って我が子に贈ったとさける短歌(長歌の反歌)です。

旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)
たびひとのやどりせむのに しもふらばあがこはぐくめ あめのたづむら
<<旅人が一夜を明かす野に霜が降ったら,我が子を羽の下に包んでやっておくれ,空飛ぶ鶴の群よ>>

奈良時代,遣唐使船は,行き,帰りとも難破することが多く,何度も渡航し直したり,遣唐使の命を受けても辞退者が続出する状況だったようです。
そのような中で,我が子を送り出す母の気持ちは,この短歌で本当にわかる気がします。何せ,現代宇宙ステーションに人を送るよりはるかに死亡率が高かった航海ですから。母が詠んだ「霜が降る」は我が子が遭遇する苦難の象徴なのでしょう。
果たして,我が子は無事母のもとに帰ることができたのでしょうか。Wikipediaによると天平5年の遣唐使はすべての人が無事に帰れたわけではないようです。
でも,この人たちのような命を危険にさらす努力によって,(西方の大陸からさまざまな影響を受けた)今の日本の文化が育まれたことだけは事実でしょう。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6)に続く。

2015年9月8日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(4) …秋の長雨がjまだ続く。秋晴れの続く日が早く来て欲しい!

雨を対象とした「降る」の最後は,しっかりした雨を詠んだ万葉集の和歌をとりあげます。
まず,「夕立」からです。晴れた日の夏,夕方近くに急に厚い雲が出てきて,暗くなり,豪雨が降るのを私の少年時代は普通に「夕立ち」と呼んでいました。
今は,「今日は大気が不安定になり,ところどころで雷雨が発生するでしょう」とか,「今日は大気が不安定で,各地でゲリラ豪雨が発生しました」といった味気ない天気関連ニュースが繰り返されているようです。
それに比べ,非常にアナログチックな「夕立ち」という言葉は科学的に厳密ではないため,天気予報や天気情報にはあまり使われなくなったのかもしれませんね。私はやはり「夕立ち」という言葉は無くなってほしくないと思います。
万葉集で「夕立」を詠んだ短歌が次の2首あります。

夕立の雨降るごとに春日野の尾花が上の白露思ほゆ(10-2169)
ゆふだちのあめふるごとに かすがののをばながうへの しらつゆおもほゆ
<<夕立の雨が降ると春日野の尾花の上の白露を思い起こす>>

夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露思ほゆ(16-3819)
ゆふだちのあめうちふれば かすがののをばながうれの しらつゆおもほゆ
<<夕立の雨が強く降ると春日野の尾花の先の白露を思い起こす>>


両首ともほとんど同じ内容ですね(ちなみに,上の写真は9月5日に新潟県津南町を訪れた時撮った尾花<ススキ>の原です)。前の方は詠み人知らずの短歌とされ,後の方は小鯛王(をたいのおほきみ)が詠んだとされています。
小鯛王は奈良時代中期(万葉集としては後期)の歌人と考えられるため,前の短歌の記憶不確かで詠んでしまった,それとも前の短歌をパクッて少しだけ変え自分のオリジナルと主張して詠んだのかもしれません。なお,小鯛王はその後置始多久美(おきそめのたくみ,置始工とも書く)という名前に変更したとこの短歌の左注にあるとのことです。
さて,現代は知的財産権(著作権,工業所有権,営業機密保護等)について非常に厳しい時代といえそうです。なぜなら,昔はモノ自体に価値の中心があったようですが,今は情報にも価値の中心が移っています。
2020年東京オリンピックのエンブレムがいったん決まったにも関わらず,類似のデザインがあるとのことで,取り下げられたのは記憶に新しいところです。
これは,デザインという情報が保護されるべきとの考え方からきています。ポスターに印刷したものはだめで,マグカップに焼きつけたものはOKという,モノに依存した考えではありません。
小鯛王が前の短歌のパクリをしたのでしたら,今では大変なことになります。
しかし,万葉時代以前は和歌はほとんど伝誦(でんしょう)されてきたものと考えられるため,記憶違いやオリジナル作者の不詳など当たり前で,和歌の著作権を統括する組織も当然無かったでしょう。
もしかしたら,万葉集は「和歌の作者の認定や盗作者の洗出しなどを明らかにする目的で編集された」なんてことは考えすぎでしょうね。
さて,次はパッと降る「夕立」ではなく「長雨が降る」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き(10-2262)
あきはぎをちらすながめの ふるころはひとりおきゐて こふるよぞおほき
<<秋萩を散らす長雨が降るころは,ひとりで寝ずに夫を恋したう夜が多い>>

秋の長雨(まさに今の日本がそうでしょうか?)は,秋萩を散らすくらい冷たいし,降る量も多いので,夫はなかなか来てくず,恋しさが募るという女性の気持ちを詠んだのだろうと私は解釈します。
逆に男性が作者とすると「妻のところへ行けなくて,恋しさが募る」となるのでしょうね。
最後は,しっかり「降る」の象徴ともいえる「村雨が降る」を見ていきます。「村雨」の「村」は集落の意味ではなく,『群がる』から来ていて「叢雨」と書くこともあります。
万葉集では次の詠み人知らずの1首のみですが,「村雨」が秋の情景描写として詠まれています。

庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり(10-2160)
にはくさにむらさめふりて こほろぎのなくこゑきけば あきづきにけり
<<庭の草に村雨が降ってコオロギが鳴く声を聞くと,秋になったなあと感じる>>

私の自宅からはいつの間にか蝉の声は消え,自宅(マンション)の専用庭にも秋の虫の鳴き声が徐々に大きく聞こえるこの頃となってきました。
雨続きで庭のいわゆる雑草を抜くことができず,伸び放題になってきています。ただ,秋の虫たちにとっては居心地が良いのかもしれませんね。
次回からは「雨」以外が「降る」を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)に続く。

2015年8月29日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(3) … ♪永谷園の麻婆春雨っ!

前回は降る対象が「時雨(しぐれ)」でした。今回は「春雨(はるさめ)」です。
「しぐれ」が「かき氷」の別称だったように,「春雨」は中国由来の乾麺「粉条(フェンティアオ)」の日本での名前です。
「麻婆春雨」「春雨サラダ」という料理が有名で,「春巻き」の具(ぐ)になったり,てんぷらの衣に入れて触感に変化を与える「春雨揚げてんぷら」に使われることもあります。
食品の「春雨」の生産が盛んなのは,万葉集にも縁が強い奈良県の桜井市だそうです。三輪そうめん葛きりの技術がいきているのかもしれませんね。
さて,本題の雨の方の「春雨が降る」を詠んだ万葉集の和歌を紹介します。「春雨が降る」を詠んだ万葉集の和歌は10首ほど出てきます。
最初は「桜」と「春雨」の組合せた短歌2首です。最初1首は前回アップしたブログにも法会で演奏をしたとして出てきた河邊東人が詠んだとされています。2首目は詠み人知らずの短歌です。

春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ(8-1440)
はるさめのしくしくふるに たかまとのやまのさくらは いかにかあるらむ
<<春雨がしとしと降続いているので,高円の山の桜はどんなふうになっているのでしょうか>>

春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも(10-1870)
はるさめはいたくなふりそ さくらばないまだみなくに ちらまくをしも
<< 春雨よ,そんなに降らないでくれ。桜の花をまだ見ないで散ってしまったら惜しいから>>

春雨が降ると桜を早く散らしてしまい,桜の花を楽しみにしている人には邪魔な存在だったのでしょうね。
では,梅はどうでしょうか。次の短歌は梅の花をも散らす強い春雨に,旅先の夫(?)を心配する詠み人知らずのものです。

梅の花散らす春雨いたく降る旅にや君が廬りせるらむ(10-1918)
うめのはなちらすはるさめ いたくふるたびにやきみが いほりせるらむ
<<梅の花を散らしてしまうほど春雨が強く降っている。旅先のあなたは雨を防ぐ庵を見つけられているのだろうか>>

桜は弱い春雨でもすぐ散ってしまうのですが,梅はなかなか散らないので,相当強い雨だったのでしょうね。旅先の夫を心配する気持ちは分かろうというものです。
最後は,やはり恋心に対して「春雨が降る」ことがどう影響するかを表現した詠み人知らずの女性が詠んだ短歌2首で締めくくります。

春雨に衣はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや(10-1917)
はるさめにころもはいたく とほらめやなぬかしふらば なぬかこじとや
<<春雨は着物をそんなに濡らしてしまうのですか?春雨が7日間降ったらその7日は来ないつもりなのですか?>>

春雨のやまず降る降る我が恋ふる人の目すらを相見せなくに(10-1932)
はるさめのやまずふるふる あがこふるひとのめすらを あひみせなくに
<<春雨が止むことなしに降り続いている。私が恋してるあの方お目にかかることすらさせてくれないのです>>

春になって,寒い冬に比べ,彼が逢いにくる可能性が高くなる季節のはずが,春雨が邪魔をしてなかなか逢いに来てくれないという作者のいら立ちが見られますね。
今,日本は秋雨前線が停滞して,夏の太陽が終わってしまったと思えるほどうっとしい天候が続いています。
夏の暑さを期待して夏物商品の売上増,農産物の豊作,熱い恋の進展を期待している人々にとっては邪魔な秋雨ですが,残念ながら万葉集に秋雨という言葉を使った和歌は出てきません。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(4)に続く。

2015年8月25日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(2) …「抹茶金時アイスしぐれ」に,スイカとメロンをトッピングね!

今回は「降る」対象が「時雨(しぐれ)」の場合,万葉集ではどう詠まれているかを見ていきましょう。
「時雨」とは,広辞苑によると「秋の末から冬の初め頃に,降ったりやんだりする雨」というように書かれています。
ただ,この季節に雨が降ったりやんだりするまさに「時雨」の状況が見られる地域は限られていると私は思います。時雨が頻繁に観測できるのは,初期の冬型気圧配置で日本海側から湿った風が高くはないが複雑な山の間を一部がすり抜け,そのため微妙に雨が降る地域に限られるような気がします。
私は京都生まれ京都育ちですが,成人になった以降は東京都八王子市や埼玉県川口市などに住むようになりました。関東南部では京都で見慣れたような「時雨」に出会うことがほとんど無くなりました。
まれにそのような天気に遭遇して,地元の人に「今日は時雨れていますね」と言おうものなら「何それ?」という顔をされることが多かったように思います。
万葉集などに出てくる「時雨」を詠んだ和歌を鑑賞しようとしても,「時雨」自体に遭遇することが少ない地域に住んでいる人には雰囲気が理解しにくい面があるのではないかと私は考えてしまいます。
<京都では気候だけでなく,かき氷でもポピュラー>
京都では,「時雨」が非常に身近なものですから,「時雨」を使った言葉がたくさんあります。
たとえば,私の小さいころ京都では「かき氷」のことを「しぐれ」と呼んでいました。
「抹茶金時ミルクしぐれ」のかき氷を美味しそうに食べている人を横目に,小遣いに不自由していた私は抹茶しぐれで我慢したのを覚えています。
また,京都では「北山(きたやま)時雨」という言葉を使います。名前が示す通り京都の北にある山懐に「北山」という地名があります。
こで植林されている杉は「北山杉」というブランドで出荷されています。植林された杉は1本1本真っ直ぐになるよう手入れがされ,すべての木の枝葉は下から上部10%部分のみに綺麗に剪定されています。
その風景がまた絵になることから,京都の観光名所の一つになっています。
この北山での時雨は,直立して並ぶ北山杉の深緑をさっと白い細かい雨でぼやかせたと思うと,すぐに止んでまた元の北山杉の林立が現れます。
この予測ができない(雨の強弱,降る/止むの間隔,風の向きや強弱,時より雲間から入る太陽光の強弱などの組合せによる)千差万別の変化は,1枚の写真や短時間の動画ではとても表現しきれないものだと私は感じます。
ところで,京都の他の場所での時雨は大したことが無いかというと,そんなことは全然ないというのが私の感想です。
<京都の散策は12月30日がおススメ>
「北山時雨」のような特別な名前が無い理由は,「北山時雨」は背景が北山や北山杉に限られているので差別(ブランド)化ができるのですが,京都の市街地に入ると有名な背景があまりに多すぎて差別化できないためではないかと私は考えます。
嵯峨野・嵐山の時雨,東山の時雨,金閣寺の時雨など,その瞬間を是非味わいたいために,私は若いころ年末・年始京都に帰省すると,京都のあちこちを歩いたことを思いだします。
特に,12月30日の午前中は,観光客や参拝客も非常に少なく,地元の人たちだけが正月の準備に忙しくは動いている姿を見ながら,時雨が降る古都を歩くのは私にとって無上に好きな雰囲気の一つでした。
さて,万葉集で「時雨が降る」を詠んだ何首かを紹介します。
万葉時代では時雨は黄葉を一層進めるという考え方があったようです。次は市原王(いちはらのおほきみ)が詠んだそんな短歌です。

時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ(8-1551)
ときまちてふれるしぐれの あめやみぬあけむあしたか やまのもみたむ
<<ようやく降り出したしぐれの雨が上がった。明日の朝には山が黄葉しているだろうか>>

もう1首は,寺の法会(ほうえ)で唄いあげたという詠み人知らずの短歌です。

時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも(8-1594)
しぐれのあめまなくなふりそ くれなゐににほへるやまの ちらまくをしも
<<時雨の雨よ休む間もなく降らないでくれ。紅色に映えている山の木の葉の散るのが惜しいから>>

この短歌の左注には,このとき琴を弾いたのが市原王,忍坂王(おさかのおほきみ,後に大原真人と呼ばれた)で,唄ったのは田口家守(たぐちのやかもり),河邊東人(かはへのあづまと),置始長谷(おきそめのはせ)等,十数人であったと記されているとのことです。
何せこの法会は1日中行われたとその左注に記されているとのことで,かなり盛大な音楽イベントだったと想像できます。
こういう楽しみをプログラムに入れて多くの参加者を集め,最後は僧侶が参加者に仏経典の説法した(この短歌からは世の無常を説いた)のかもしれませんね。
ところで,現代アメリカのキリスト教教会が黒人や若者の参加者を集めるためにやったミサの前のゴスペルコーラスも似たような演出のような気がします。
さて,時雨は黄葉以外に萩と結び付けて詠まれた万葉集の短歌もあります。次は柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの1首です。

さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも(10-2029)
さをしかのこころあひおもふ あきはぎのしぐれのふるに ちらくしをしも
<<牡鹿が心に思う秋萩が時雨が降って散るのが惜しいことだ>>

最期は,恋愛で時雨が関わる短歌2首です。2首とも柿本人麻呂歌集から転載の詠み人知らずの短歌です。

一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む(10-2234)
ひとひにはちへしくしくに あがこふるいもがあたりに しぐれふれみむ
<<一日のうち何度しくしくと時雨が降り続くように恋いしく思い続けることか,彼女が住むあたりに時雨よ降って僕の気持ちを見せてくれ>>

玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ(10-2236)
たまたすきかけぬときなし あがこひはしぐれしふらば ぬれつつもゆかむ
<<成就を願わぬこと時がない私の恋は,たとえ時雨が降って濡れることがあっても続けていくんだ>>

時雨が降る多様な情景が,人間の感性の多様さを表す手段の一つとして,万葉時代から存在したことは事実のようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(3)に続く。

2015年8月18日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(1) …雨よ私の恋の邪魔をしないでね!

先週は通勤時間帯の交通機関乗客数も非常に少なく,通勤がすごく楽でした。
さて,動きの詞シリーズを再開します。今回からしばらくは「降る」について,万葉集を見ていきしょう。
「降る」は「○○が降る」というように「降る」対象があります。
ポピュラーなものとしては,雨,雪あたりでしょうか。
その他のモノとして,霜,霰,露,神(降臨)といったところでしょうか。
まずは普通の「雨が降る」を見ていきます。
実は雨にもいろいろ種類があります。
万葉集で出くる「降る」雨には,単なる雨の他,春雨,小雨,村雨(しきりに強く降る雨),時雨(しぐれ),長雨,夕立の雨などがあります。
今回は,万葉集で多く詠まれている(単に)雨が降る情景について,何首か見ていくことにします。
旅の途中に雨に降られるといやなものですね。天候が良ければ心も軽やかに旅路も進みますが,雨だと我慢の連続となりますね。
最初は,そんな旅先(紀州の新宮あたり?)の憂鬱な気持ちを詠んだ長意吉麻呂(ながのおきまろ)の短歌です。

苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに(3-265)
くるしくもふりくるあめか みわのさきさののわたりに いへもあらなくに
<<苦しい旅路に輪をかけて降って来る雨だよ。三輪の崎の狭野のあたりに雨宿りする家なんかあるわけないのに>>

昔の僻地を通る旅は大変だったのが窺い知れます。
次は,雨の降る日,家にじっとしていると恋人のことばかり考えてしまう気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。

韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を(11-2682)
からころもきみにうちきせ みまくほりこひぞくらしし あめのふるひを
<<韓衣を着た姿をあなたに見せてあげたたいと恋しい気持ちでおります。この雨の降る日を>>

いろいろな解釈ができる1首ですが,女性が夫が恋人が来るのをきれいな着物に着替えて待っているが,雨なので来てもらえそうにない残念な気持ちを詠んだのではないかと私は解釈しました。
最後は,「雨ニモ負ケズ」ではないけれど,雨が降るような障害となることがあってもあなたへの気持ちは変わらないと詠んだ情熱的な短歌です。

紅に染めてし衣雨降りてにほひはすともうつろはめやも(16-3877)
くれなゐにそめてしころも あめふりてにほひはすとも うつろはめやも
<<紅色に染めた衣,雨が降って濡れてしまっても,紅色が一層鮮やかになり,紅色がぼやけてしまうようなことはないですよ>>

この短歌は,九州の豊後國(今の大分県あたり)の白水郎と呼ばれた人物が詠んだとされています。
衣は自分の気持ち,紅色は相手に対する気持ち,雨が降ることは周囲の反対や環境上の障害でしょうか。
一途な恋をしているときはどんな反対を受けても,恋の気持ちはより強くなることはあっても弱くなることはないという気持ちになるのでしょうね。
ただ,人の心は実は「うつろはめやも」とは反対に「うつろいやすい」ことも事実。熱くなり過ぎず冷静な気持ちで相手をしっかりする恋愛も重要だとこの短歌は教えているのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(2)に続く。

2015年8月9日日曜日

2015 盛夏スペシャル(5:まとめ)…万葉集に出てくる神々について

残暑お見舞い申し上げます。今年は8月8日が立秋となります。
立秋を過ぎても「盛夏スペシャル」とはこれ如何に? まあ,,,細かいことは言わずにご覧ください。
場所によっては,まだまだ猛暑日がやってきそうですからね(言い訳)。
さて,盛夏スペシャルの最後は,「神」について万葉集を見ていくことにします。
私は,仏教については少し勉強していますが,日本の神道については知識がほとんどなく,今回調べながらの記述になります。
<神風特攻隊の「神風」>
終戦の日を間近にして,太平洋戦争終盤では「神風特攻隊」なるゼロ式戦闘機(ゼロ戦)による自爆特別攻撃隊が結成され,その無謀な実行で,双方多くの兵士が犠牲になったといいます。
「神風特別攻撃隊」を調べてみると,この「神風」は万葉集に出てくる「かむかぜ」から採った名前ではないとのことのようで,万葉集を愛好している私は少し安心をしました。
万葉集に入る前に,日本の神の一般的な話として「八万(やよろづ)の神」というほど,たくさんの神の存在が認識されます。
神を祀る神社には,「浅間」「稲荷」「鹿島」「春日」「香取」「熊野」「神明」「住吉」「諏訪」「天神」「八幡」「氷川」「日吉」なとなどの名前が頭についたものがあり,それぞれメインで祀られている神が違うとのことです。
皆さんが住んでいる近くにも,このような名前を持つ神社(分社)や地名があるかもしれません。
<日本では誰でも神になれる?>
また,Wikipediaを見ると日本で神と呼ばれている名称や人が,数百は出てきます(八万件はでてきませんが)。
日本の神の場合は,歴史上の人物も神になって祀られ,その神社まで作られている人物もいます。
神とされている歴史上の人物で一番有名と私が思うのは,天神(天満宮)として祀られている平安時代の貴族,政治家であった菅原道真(学問の神)でしょうか。
また,比較的新しく神と呼ばれるようになった歴史上有名な人物は,明治時代の軍人・教育者であった乃木希典(のぎまれすけ)でしょうか。
希典を神として祀った乃木神社が各地にあり,東京の神社近くでは乃木坂という坂の名称まで作られ,2010年代に入り「乃木坂46」というアイドルグループまでもが結成されています。「乃木坂46」のメンバーは特に乃木神社の氏子ではないと思いますが...。
さらに,神として祀られている中には,大阪では有名な「ビリケン」のような海外のキャラクターから出た神も拝まれています。
このように,日本の神はその歴史的な重みや権威づけもさまざまなようですが,逆に日本人にとってはいろいろな願いを気楽に祈願できる身近な存在になっているのかもしれません。
<大阪では偉大な神もお友達?>
ちなみに,大阪では神のことを「神様」とは言わず,「神さん」と言っていることのほうが多いようです。また,神社や神の名も「天神さん」「住吉さん」「お稲荷さん」「八幡(はちまん)さん」「戎(えびっ)さん」「弁天さん」「布袋(ほてい)さん」「ビリケンさん」などと親しみを込めた言い方で呼ぶようです。
この神の考え方,捉え方は,キリスト教やイスラム教といった,どちらかというと一神教に属するといわれている宗教とは大きく異なる神のイメージがあるのかもしれませんね。
実は,万葉集でもすでにいろいろな神が出てきます。天皇(神としての),山,海,道,雷,風,国が神だったりします。
今の神社がある地名もたくさん出てきます。たとえば,伊勢(三重),石田(京都),鹿島(茨城),近江・多賀(滋賀),春日・三輪・石上・橿原(奈良),熊野(和歌山),住吉(大阪)などです。
では,神が出てくる多数の万葉集の和歌から少し見ていきましょう。
最初は,詠み人知らずの恋の苦しさを詠んだ短歌です。

いかにして恋やむものぞ天地の神を祈れど我れは思ひ増す(13-3306)
いかにしてこひやむものぞ あめつちのかみをいのれど われはおもひます
<<どうしたらあなたを恋しい気持ちを止めることができるのだろう。止められるよう天地の神々に祈ってみても,恋しさがますます増えて行くばかり>>

天や地上にいるあらゆる神に恋しい気持ちを抑えたいと祈ったけれど,ダメなんだという短歌です。
さて,この短歌の作者には,相手に対する恋心を抑えなければならない何らかの理由があるのでしょうね。それは,身分の違い,氏素性の違い,仕事上の制約,地理的な問題,倫理上許されない恋など,いろいろ考えられるかもしれません。
そういったことで,神でもこれは止められないという気持ち。当時はどう受け止められたのでしょうか。万葉集の編者は同感する部分が多かったから採録したのでしょう。
次は,新婚の結婚式または披露宴で詠まれたのではないかと考えられるお祝いの長歌です。

葦原の瑞穂の国に 手向けすと天降りましけむ 五百万千万神の 神代より言ひ継ぎ来る 神なびのみもろの山は 春されば春霞立つ 秋行けば紅にほふ 神なびのみもろの神の 帯ばせる明日香の川の 水脈早み生しためかたき 石枕苔生すまでに 新夜の幸く通はむ 事計り夢に見せこそ 剣太刀斎ひ祭れる 神にしませば(13-3227)
あしはらのみづほのくにに たむけすとあもりましけむ いほよろづちよろづかみの かむよよりいひつぎきたる かむなびのみもろのやまは はるさればはるかすみたつ あきゆけばくれなゐにほふ かむなびのみもろのかみの おばせるあすかのかはの みをはやみむしためかたき いしまくらこけむすまでに あらたよのさきくかよはむ ことはかりいめにみせこそ つるぎたちいはひまつれる かみにしませば
<<瑞穂の国に手向け(ご利益)を与えるため,無数の神々が神代から降臨したと言い継いで来た神々が宿るという三諸の山は,春になると春霞が立ち秋になると紅葉が美しい。三諸山の神々が帯にしている明日香川の水流が速く生えるのが難しい石枕に苔が生えるまでの長い期間,新婚の時のような気持ちで毎夜過ごせる計らいを鎮座まします神々よ,どうか夢でお示し下され。 私がこんなに大切にお祭りしている神でいらっしゃるのですから>>

この長歌から窺い知れることは,万葉時代から日本には(その三諸山だけでも)神々が無数にいたと信じられていたということしょうね。新婚夫婦に対して「行く末永くお幸せであられんことをと神々に祈ったよ」と祝福している様子が見てとれますね。
最後は,吉田宜(よしだのよろし)という大伴旅人の臣下が平城京から大宰府に赴任している旅人に贈ったといわれている短歌です。

君が行き日長くなりぬ奈良道なる山斎の木立も神さびにけり(5-867)
きみがゆきけながくなりぬ ならぢなるしまのこだちも かむさびにけり
<<旅人様が大宰府へ旅立たれてから長い月日が経ちましたので,京に通じる道沿いの山の木立も鬱蒼として神々しくなりましたよ>>

旅人は平城京に通っていたころ,通勤に事故が無いよう,家臣たちは道の周辺を整備(木々も綺麗に剪定)をしていたのでしょう。
旅人が九州に赴任して,その道は整備する必要がなくなって,気がつけば荒れ放題になっている様子を伝え,早いお帰りをお待ちしているという気持ちを旅人に伝えようとしている1首だと私には思えます。
そうすると,神々が宿るように見えるということは,手つかずの自然のままのような場所ということになります。今でも,神体とされている三輪山奈良)や,最近2017年世界遺産登録候補地として選出された沖ノ島福岡)は一般の人の立ち入りが厳しく規制されていて,人間が関わることを忌み嫌っているようです。
<日本人にとっての神は自然やヒトと簡単に同一視されてきた>
日本の神は自然と一体で,多様な日本の自然や気候変化のため,自然の多様さごと(海,山,川,里,道,木々,雷,風,雨,動物,農業の収穫物,季節など)に対応した神々が数多くいると信じられてきたのでないかと私は思います。その中に住むヒト(例:天皇)さえも神になりえる存在だったのでしょう。
そして,神々への畏敬の念から,自然を破壊するのではなく,神に祈りながら(=自然と語り合いながら)村の生活を豊かにしていくことを日本人は目指してきたのだろうと思うのです。
しかし,生活が豊かになり,人口が増え,その地域の自然だけではより豊かになるのは難しい状況になってくると,村と村,氏と氏,国と国の覇権の争い(土地の奪い合い)が始まります。
そしてもっとミクロな個人間の恋人の奪い合いも同じで,奪ってでもより良い配偶者を得ようとする人間の性なのです。
そういった覇権争いに万葉集に出てくる神々はほとんど力を持ちません。なぜなら多くは自然をベースにした神(「全知全能の神」ではない)だからです。実際に,覇権争いの結果,敗れた人や場所を詠んだ和歌には「神と言われていたのだけれど」「神に祈ったけれど」「神の力が無くなり」などの表現がでてきます。
<明治政府は天皇を全知全能の神にしてしまった>
さて,明治維新後のいわゆる日本帝国は日本人が信じてきた諸々の神々を階層化(格付け)し,頂点の神を作り,それを自然とは遊離した一神教のように国民に崇めさせたのです。他国への侵略にその神を利用し(指示として正当化し),国民に対して日本が選民国家だということを宣揚,太平洋戦争に至るまで戦争への道を歩ませてしまったのではないかと私は思います。
今,終戦70周年を迎えて,地球という限られた資源の奪い合いが続く限り,自然の破壊,戦争,紛争,テロなどの脅威は避けられません。
口だけでいくら”平和・平和”と言っていても,より豊かになりたいという人間の性(本能)がなくならない以上,それらのリスクは減りません。特に,国間,地域間,世代間などの格差がこれ以上拡大すると,さらに戦争,紛争,テロなどのリスクは高まります。
そのような中でいわゆる「積極的平和主義」というものが今の日本としてベストな選択肢であるかは私には分かりません。ただし,いろいな人々の検討・検証・諸外国との調整を経た結果における一つの対応案(もちろんリスクもある)であるという事実は間違いありません。
<核について>
そして,核の無い世界を目指すことに何の異論も私にはありません。しかし,核廃絶に向かって既に各国が努力していること(うまく行っていない部分も多)に無関心ではいられないでしょう。
核を持ってしまった国が核を捨てるストーリ(監視も含む)を誰が作るのですか? 「我々は平和憲法をもっているから核廃絶には関わりません。誰かがやれよ!」と言うだけで紛争が解決するなら世界はとっくに平和になっている気がします。
今回の安全保障法案に対し「反対」だけを主張する人がいます。世界での戦争などの発生リスク解消への具体的代替案及びそのメリット・デメリット,さらにその案を実施するために今まで諸外国ととごまで調整してきたか,実績を示さないとすれば,無責任な発言だと私には映ります。
マスコミもそういった反対活動をことさら大きく取り上げるなら,(日本がアメリカなどとの友好国との関係を度外視してでもできる)戦争や紛争に巻き込まれない策(計画)を具体的に提示すること。そして,その策で世界が同調してくれる実現可能性(フィージビリティ・スタディ)を積極的に示すべきです。責任と調整行動のない批評だけなら誰でもできそうです。
<隣の芝(日本)は青く見える>
日本の豊かで多様な自然,(多様なそれぞれを「神」と呼ぶかは別として)それらと調和した精神的・物質的に豊かな生活は,今のグローバルな時代に何もしないで守れるものではありません。
これまで,国内でそのような環境を実現するために国民一人一人が多くの大変な努力をして築き上げてきました。それが,諸外国から見てどう映るでしょうか?
日本の豊かさがネットを通じて広まると(日本にも貧困にあえぐヒトはたくさんいますが諸外国からは隣の芝は青く見えるのです),侵略やテロ,難民流入の標的にされる可能性も高ると私は想像します。
これまでの努力で実現した綺麗な水と空気,清潔な都市や街,信頼性の高い社会インフラ,整然と統制された秩序,交通事故死者数の激減,殺人・強盗・窃盗などの犯罪数の減少などが,当たり前に実現されている日本は,世界の中でも稀有な国であることを知るべきです。
今後もこれらを維持し,さらに向上する国内での努力と,外国からの侵犯や攻撃を受けないようにする努力をバランスさせて進めていくしかない時代(豊さの代償を払う時代)に入ったと私は思います。
以上で「2015盛夏スペシャル」は終わり,次回からは「動きの詞シリーズ」に戻ります。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(1)に続く。

2015年8月2日日曜日

2015 盛夏スペシャル(4) … 万葉集は戦争をどう扱っているのか?

第二次世界大戦が終わって70年になろうとしています。
万葉集は,太平洋戦争中に発表された愛国百人一首で多くの短歌が採録されたり,大伴家持が詠んだとされる長歌の次の部分が,軍歌の歌詞として使われました。

~ 海行かば 水漬く屍(しかばね) 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと ~(18-4094)

このような事実から,万葉集は軍国主義的や国粋主義的な色彩の和歌が多いというイメージがあるのでは思っておられる人がいるとすれば,その人の見方は間違っていると私は申し上げたいのです。
<切り取り引用の典型>
なぜなら,軍歌の歌詞として引用されているこの長歌全体を見ると分るのですが,海へ行くのは誰か,山へ行くのは誰か,それは天皇なのです。
天皇が海に行くことがあっても,山に行くことがあっても,お供し,命を賭して,命を顧みず,お守りしますということを家持は詠んでいるのです(詠んだのは恐らく儀礼的な儀式のときでしょう)。
天皇のために,自らが海でも山でも出兵し,敵国をなぎ倒し,領土を拡大し,日本帝国確立のためには,命なんて惜しくありませんなどとはどこにも詠まれていません。
愛国百人一首に採録された万葉集の短歌も,国防や天皇のガード,国を讃えることを詠んだものがあっても,侵略的なものはありません。
万葉集を戦争に関係しそうな言葉(「いくさ」「敵」「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」「争」)で検索してみても,他国を侵略するとか,覇権を争うとか,敵国を殲滅するといった軍事力による領土拡大を勇ましく鼓舞するような和歌は出てきません。
精々,軍事的な意識の和歌があったしても,国や天皇を守るといった防衛の方向に向いてるのみです。
多くは,「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」といった兵器も,何かの例え話として和歌に出てきたり(例:次の長屋王の短歌),狩に使うことを想定して詠まれているようなもの(例:その次の宴で紹介された伝誦歌)が大半のようです。

焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり
<<焼き鍛えた大刀のかどを打ち合わせるような勇士が祝うこの美酒に私はすっかり酔ってしまった>>

手束弓手に取り持ちて朝狩りに君は立たしぬ棚倉の野に(19-4257)
たつかゆみてにとりもちて あさがりにきみはたたしぬ たなくらののに
<<手束弓を手に持ち天皇は朝狩にお立ちになった棚倉の野に>>

万葉集の和歌の作者も,大伴家持を始め,戦争は望んでおらず,まして,外国を侵略し,日本が世界を牛耳るようなことを夢見ている人は私には見当たりません。
国の中が平和であってほしいと望み,国内の争い(「○○の変」「○○の乱」など)も悲しい出来事と思う人が万葉集の和歌を詠んだのだと,万葉集と接して私は心から感じるのです。
たとえば,万葉集の「防人の歌」に,「軍隊に参加して良かった。兵士はカッコいい。天皇のために念願の兵隊さんになった。」などとPRしているようなものは一つもありません(次は防人の歌の例)。

我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも
<<私の旅は旅と割り切ることもできるが,家にいて子どもを抱えて痩せていくだろう妻のことを想うと切ない>>

「防人の歌」と同じ東国の人が詠んでいる「東歌」と比較してみると「東歌」の方がはるかに穏やかで幸せに満ちたものであり,平城京の人が東国に行ってみて,地元の人と話してみたいと思うくらい明るい和歌が多いと感じます(次は東歌の例)。

うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も(14-3505)
うちひさつみやのせがはの かほばなのこひてかぬらむ きぞもこよひも
<<宮能瀬川のかほ花のように(可愛い妻の顔を見て)昨夜も今夜も恋しいと思いながら寝るでしょう>>

中大兄皇子(後の天智天皇)が朝鮮半島の白村江の戦い(天智2<663>年8月)に大敗し,甚大な打撃を受けたことに対する反省(島国日本が当時の大国唐と戦うことのむなしさ)が意識のベースにあるのかも知れないと私は思います。
そして,天武天皇以降の朝廷は,さまざまな葛藤(内政的な混乱)を乗り越えて,白村江の戦いの敵だった,中国の唐や朝鮮半島の新羅に遣唐使遣新羅使を送り,関係改善に努めたのです。
もちろん各国と関係が改善されるまでは,中国や調整半島の別の国から攻められると大変なことになるため,防衛部隊(例:防人)を配したと考えられます。
奈良時代にかけて,その関係改善への方針転換の努力が功を奏し,良い面,悪い面はあるにせよ,中国や朝鮮半島の優れた思想・文化・芸術・技術などが日本に取り入れられ,日本の風土や国民性の中で根付き,独自の進化を遂げることができたではないかと私は思います。

あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(3-328)
あをによしならのみやこは さくはなのにほふがごとく いまさかりなり
<<奈良の都は満開の花が素晴らしいように今大変繁栄していますよ>>

さて,第二次世界大戦後,日本が復興を遂げることができたのも,外国との関係改善と日本人が持つ戦争で自らが失ったものを回復させようという若い人たちの強い心があったからではないでしょうか。
<戦争相手の日米は協力して敗戦国日本の復興を支援した>
1960年日米安保闘争があり,多くの若者がデモ活動などに参加し,そのデモは,デモ隊に加わった女子学生の一人が死亡したほど激しいものでした。
その一方で,若者の多くは欧米の楽曲(ジャズ,ロック,フォーク,ポップスなど)に酔いしれ,子供たちはウォルトディズニーが提供する漫画やドキュメンタリー(特に宇宙ものが人気)の日本語吹き替え版を熱心に見ていたのです(私もその一人ですが)。
戦争と関係ないもの,平和的なもの,品質が優れたものは,たとえ太平洋戦争で徹底的に日本人を殺した相手の国のものであっても日本の人々は受け入れたのです。
そこには国家同士の憎しみという意識は薄れ,良いものは取り入れ,参考にし,自分たちの復興のために利用できるものはしていくという人々のしたたかさがあったと私は分析します。
しかし,それができたのも,戦後の日本がさまざまな国から侵略される脅威が少なかったからできた訳で,日本国だけの力(何の努力もせず,平和という言葉に酔いしれただけ)でできた訳では無いでしょう。
外国の支援や外国の勢力バランスの影響なども含む様々な要素が影響しあって,(敗戦直後に比べて)結果として今の日本の驚異的な繁栄がもたらされたのだといえるのだと私は思います。
今,そのような総合的な見方をせず,日本の自衛権について,反対/賛成,正しい/正しくない,あり得る/絶対ない,違憲/合憲,戦争法案/平和維持法案,というような二元的な(○×のみの)議論がされていることに,私は大きな違和感を感じてしまいます。
さまざまな考え方のメリットやデメリットを総合的に議論をしない二元的な議論がインターネット上で広まり,冷静さを失った結論ありきの行動による社会的混乱が起こらないか正直私は戦後70年を迎える夏に危惧せざるを得ません。
2015 盛夏スペシャル(5:まとめ)に続く。

2015年7月28日火曜日

2015 盛夏スペシャル(3) 名張から初瀬街道を少し歩き,明日香でみかんの摘果を行う

<翌日明日香村へ>
7月26日(日)は名張の宿泊先を早朝5時前に出発し,前夜の花火大会の賑わいが嘘のように静かな名張の街を少し散策し,初瀬街道を西に向かいます。


赤目口まで,一面に青々とした田,田に水を供給する水路の水の流れる音,周囲の里山,宇陀川の清流の風景を眺めながら,朝の涼しい風を受けすがすがしい気持ちで歩くことができました。

赤目口で,また街道沿いの古い民家の中を歩き,赤目口を過ぎると,宇陀川沿いに少しずつ山間に入っていきます。そして,奈良県の宇陀市室生地区に入ります。



朝9時頃までに榛原まで初瀬街道を歩き,近鉄で橿原市岡寺駅まで行くつもりでしたが,途中風景を楽しみながらゆっくり歩いたので,榛原まではその時間までに着くのは無理を判断し,一つ手前室生口大野駅から近鉄電車に乗りました。

この判断は正解で,何せ室生口大野から榛原までは電車で6分,私鉄1駅区間運賃としては異例の260円です(営業距離 7.1㎞)。電車と違いカーブの多い道を歩くのですから,相当時間を要することが考えられます。
次回の機会にチャレンジしたいと思います。
ここで,初瀬(泊瀬)について万葉集で詠まれた何首かを紹介しましす。
最初は,柿本人麻呂歌集に出ていたという短歌です。

こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ(11-2511)
こもりくのとよはつせぢは とこなめのかしこきみちぞ こふらくはゆめ
<<泊瀬の山道は滑りやすい恐ろしい道。恋路とて同じ。あまりお急ぎめさるな>>

写真は宇陀川の川床ですが,この地帯は岩石が地表に出ていて,雨の日は街道にもすべやすいところがあったのだろうと私は想像します。

もう1首,石ころだらけの険しい道であったことを詠んだ詠み人知らずの短歌(長歌の反歌)です。

隠口の泊瀬小国に妻しあれば石は踏めどもなほし来にけり(13-3311)
こもりくのはつせをぐにに つましあればいしはふめども なほしきにけり
<<泊瀬の里に妻がいるので,石ころだらけの険しい道を踏んで,それでも僕はやってきた>>

今の初瀬街道も旧道に入ると,今にも崩れ落ちそうな岩がむき出しになり,植物の根が中に入れず,網の目のように這い覆っているところがありました。
最後は,泊瀬の山が豊かな森林おおわれていたことを思わせるこれも詠み人知らずの短歌です。

三諸つく三輪山見れば隠口の泊瀬の桧原思ほゆるかも(7-1095)
みもろつくみわやまみれば こもりくのはつせのひはら おもほゆるかも
<<三輪山を見ると,泊瀬の檜木の山林を思い出してしまうなあ>>

「三諸つく」は三輪山,「隠口の」は泊瀬に掛かる枕詞です。この作者は,泊瀬出身か,行商で今の初瀬街道を行き来した人ではないでしょうか。
ご神体として山林が手つかずの三輪山を見て,山深い泊瀬の山の山林に負けないくらい立派だと詠んだのでしょう。
さて,私は岡寺駅からはみかん畑まで,20分あまり上り坂を歩きました。この時間帯になると暑さが強烈になり始めます。水分を補給して今年も頑張ります。

いつも楽しみにしている道途中のハス池は,今年も綺麗に咲いていました。

みかん畑について,さっそく摘果を開始します。上の写真の2つの実は傷がついているので,残念ですが摘果。下の写真の実は残します。


こうやって,傷ついた実,発育の悪い実を袋いっぱいの実を摘果しました。摘果した実は,家で搾り,焼酎の炭酸割にたっぷりと入れて,爽やか味わいを存分に楽しみました。

2015 盛夏スペシャル(4)に続く。