<私の本業が忙しい理由>
今年はこの投稿を含め60件アップできました。今年始めの予想では70件以上いけるかなと思ったのですが,私の本業であるソフトウェア保守開発の業務が多忙で,やっとここまででした。
ところで,その業務が多忙な理由は次の通りだと私は考えています。
ソフトウェア保守開発の業務案件(以下,単に案件といいます)は,1案件単位の平均的な規模は比較的小さいのですが,規模のバラツキ(標準偏差)は結構大きいのです。また,案件発生は完全には予測不可能で,案件の発生はいわゆる「統計的な考え」に基づく必要があります。
ここでいう「統計的な考え」とは,銀行のATMの台数,駅の改札機の台数,スーパーのレジの稼働数,高速道路の料金所のゲート数などをどれだけ用意すれば,処理待ち時間がどの程度になるかという検討です。
<ATMの待ち行列で例示>
案件の発生は,ATMの例では出金,入金,振込,記帳,残高照会などを行うひとりのATM利用者の到着を指します。ソフトウェア保守開発要員数に対応するのは,ATMの設置数となります。
みなさんは,給料日前にATMコーナーに行くと空いている多くのATMを見るでしょう。いっぽう,給料日にはATMはフル稼働で,空くのを待っている人の列に出会います。
このようにバラツキが大きいのはソフトウェア保守開発案件もATMの利用者数も同じです。
また,利用者は残高照会だけして帰る人もいれば,ATM操作に慣れないのに何件もの振込をする人もいます(そんな人を見ているとイライラを感じた経験はありませんか?)。1利用者のATM専用時間のバラツキが非常に大きいのも保守開発案件対応時間と似ています。
<対応エンジニアに空きはない?>
ただ,似ていないのは,ATMはある程度利用されていない時間があっても統計学の待ち行列理論から見て最適であればOKですが,ソフトウェア保守開発の要員は空きが発生しないことが第一命題になっています。
そのため,待ち行列での最適性とは無関係に要員に空きを発生させなくする方法は,最低限の要員で体制を組み,案件が重なったときは残業でこなすということになります(私が勤める会社のように割増の残業代を払ってやるからよいだろうという経営者の発想はまだましで,残業が発生するのはお前のせいだからサービス残業で対応するんだというブラック企業もあると聞きます)。
もちろん,都度案件の外部委託も考えられますが,規模が比較的小さく,納期も短いため非効率です。結局,案件が極端に集中すると要員の残業時間が非常に多くなってしまいます。
待ち行列理論を勉強し,多少の空き時間が出来ても最適という認識になれば,空き時間は代休を取得したり,スキルアップや環境整備に回し,次の案件対応をより効率的にできることのメリットを経営サイドはもう少し理解すべきだと感じた一年でした。
<この1年のブログアップ>
さて,私事はこのくらいにして,本ブログの2012年を振り返ってみます。
年初は,(万葉集の)私の接した歌枕シリーズ「須磨」で始まりました。歌枕シリーズは福島県の「相馬」,愛媛県の「松山」と続き,1月7日からは前年(2011年)8月より続けている「対語シリーズ」戻りました。
3月末まで「対語リーズ」を続け,4月に入って,200投稿記念としてスペシャル記事を書きました。
その中でも,富山県高岡で学生時代に一緒に万葉集を研鑽したメンバーやその後輩たちと集いを持てたことは今でも印象に残っています。
その後,ゴールデンウィークスペシャルとして「私の接した歌枕」シリーズ(湯河原,三輪山,丹波,葛飾)をアップし,再び「対語シリーズ」に戻りました。
1年間連載してきた「対語シリーズ」は8月第1週で最終回としました。その後は私の夏休み近辺の状況をアップした夏休みスペシャルに入りました。
実は,今年の夏休み,私の行動力は結構すごかったと自画自賛したくなるほどです。
青春18きっぷで奈良の明日香村を往復したのは昨年でしたが,今年はそれに加えて大津から宇治まで奈良街道を夜を通して歩きました。
また,女夫淵温泉から加仁湯までや富士山本八合目(標高3,400m)までトレッキングをしました。さらに,私が会社でのポジションが変わったこともあり,多くの人たちと何度も宴で飲みました。
そんなこんなをブログにアップできたことは思い出深いことです。
そして,夏が終わり,新らたに「今もあるシリーズ」を開始しました。
その後も多忙な仕事の傍ら,8月加仁湯までしか行かなかった奥鬼怒ですが,10月上旬にはその先鬼怒沼(標高2,000m)まで登りました。秋晴れの空,筋雲,山並みが沼の水辺に映り,本当にきれいでした。
<閲覧数もアップ>
この1年のアクセス数は1年前の1.5倍に増えました。また,7月ひと月のアクセス数はこれまで1ヶ月のアクセス数の最高を40%以上上回るアクセス数となりました。そのほか特徴的なことは,海外からのアクセス比率がアップしました。特に米国からのアクセス数が今年の後半から急速に伸びています。
来年も300号を目指し,より多くの方に読んでもらえるよう,ブログアップを続けていきます。
ただ,次の有名な元興寺の僧侶が詠んだとされる旋頭歌に出てくる「白玉」を「万葉集」と考えるとその歌から諭(さと)されるため,アクセス数をあまり気にせず書き続けることにしましょう。
白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし(6-1018)
<しらたまはひとにしらえずしらずともよし しらずともわれししれらばしらずともよし>
<<白玉の本当の価値は人に知られていない。知らなくても人は困りはしない。その価値を人は知らなくても自分さえが知っていれば人が知らなくてもそれでよいのだ>>
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」に続く。
2012年12月31日月曜日
2012年12月30日日曜日
今もあるシリーズ「笠(かさ)」
<従兄の他界>
2012年(平成24年)も後わずかになりました。12月下旬は仕事が予想外に忙しく,本ブログの更新が少し滞ってしまいました。
ようやく,会社も休みに入り,さあこれから,本ブログにたくさんアップしようかと思っていた矢先,私の従兄(いとこ)が亡くなったという知らせが入りました。亡くなった従兄は,滋賀県大津市の京阪電車石山坂本線石山駅の近くで鍼灸院を営んでいた私の父の兄の長男です。享年77歳。
私が小学校高学年から中学校にかけて,近江鉄道の職員から日産自動車の営業マンに転身した従兄は,私の父に会いに頻繁に来てくれて,いろいろ面倒を見てくれたことを覚えています。会社をリタイアした後は,若いころから趣味にしていた絵画(油絵)や木工の仲間達と展覧会を開いたり,展示即売会をしたりして楽しくゆったりと過ごしていたようです。
<万葉集にでてくる笠>
さて,今回は笠をテーマに万葉集をみていきます。
笠とは頭にかぶる帽子の役目(日よけ,雨よけ,虫よけ,風で髪の乱れの防止など)をするものです。今では笠はあまり見かけなくなっていますが,広辞苑の逆引き辞典を見ると「○○笠」がたくさん出てきます。江戸時代までは外出時の日常品としてさまざまな笠が利用されていたようです。
今笠を見たければ,各地の祭り(山形:花笠まつり,徳島:阿波踊り,富山:おわら風の盆など)に行くと,踊り手がかぶっているのを見ることができます。
万葉時代,笠の材料は次の柿本人麻呂歌集に出てくる詠み人知らずの旋頭歌のように菅(すげ)を編んで作っていたことが想像できます。
はしたての倉橋川の川の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅(7-1284)
<はしたてのくらはしがはのかはのしづすげ わがかりてかさにもあまぬかはのしづすげ>
<<倉橋川の川辺にいつも生えている菅を私が刈りました。でも,刈ったままで笠に編まないままにしてあるいつも川に生えている菅なのです>>
解釈がいろいろ考えられますが,幼なじみの二人がなかなか結婚まで行けないことを滑稽に詠ったものだと私は解釈します。なお,静菅は何か特別な菅の種類を指すのではなく,「静」が「動かない」という意味から,いつも生えているという意味にしました。
なお,次の詠み人知らずの短歌のように菅の笠も地域ブランドがあったようです。
おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに(11-2819)
<おしてるなにはすがかさ おきふるしのちはたがきむ かさならなくに>
<<難波の菅笠であっても使わず放っておいたら誰かが使うでしょうか? そんな(安っぽい)笠ではないのに>>
この短歌もいろいろ解釈ができそうです。私の勝手な解釈ですが,作者は女性で,高級ブランドの難波菅笠(難波には品質の良い菅と優秀な笠職人がたくさんいた?)のようなプライドを持った人ではないでしょうか。この作者「いつまでもたっても通ってきてくれず,放っておいたら古びてしまいますわよ」と言いたげですね。
次の詠み人知らずの短歌から,そのほかにも菅笠の地域ブランドが想像できます。
人皆の笠に縫ふといふ有間菅ありて後にも逢はむとぞ思ふ(12-3064)
<ひとみなのかさにぬふといふ ありますげありてのちにも あはむとぞおもふ>
<<人が皆笠に編むという有間菅。そのように,生きていれば,いつかきっとあなたに逢えると思う>>
有馬温泉がある兵庫県南東部ではきっと良い菅が採れ,その菅を編んで作った菅笠が平城京の西の市,東の市で大量に売られていたのかもしれませんし,有馬温泉のお土産として売られていたのかもしれません。有馬(ありま)は,在り待つ(生きてひたすら待つ)を連想させる言葉だったのでしょうね。
何をやってもなかなか上手くいかないことが多い今の世の中ですが,自分が今できることを着実・地道に行い,チャンスの到来をじっと待つ忍耐力の重要さを私はこの短歌から感じ取ります。
さて,今もあるシリーズはいったんお休みし,来年1月7日までは年末年始スペシャルをお送りします。
年末年始スペシャル「今年を振り返って」に続く。
2012年(平成24年)も後わずかになりました。12月下旬は仕事が予想外に忙しく,本ブログの更新が少し滞ってしまいました。
ようやく,会社も休みに入り,さあこれから,本ブログにたくさんアップしようかと思っていた矢先,私の従兄(いとこ)が亡くなったという知らせが入りました。亡くなった従兄は,滋賀県大津市の京阪電車石山坂本線石山駅の近くで鍼灸院を営んでいた私の父の兄の長男です。享年77歳。
私が小学校高学年から中学校にかけて,近江鉄道の職員から日産自動車の営業マンに転身した従兄は,私の父に会いに頻繁に来てくれて,いろいろ面倒を見てくれたことを覚えています。会社をリタイアした後は,若いころから趣味にしていた絵画(油絵)や木工の仲間達と展覧会を開いたり,展示即売会をしたりして楽しくゆったりと過ごしていたようです。
<万葉集にでてくる笠>
さて,今回は笠をテーマに万葉集をみていきます。
笠とは頭にかぶる帽子の役目(日よけ,雨よけ,虫よけ,風で髪の乱れの防止など)をするものです。今では笠はあまり見かけなくなっていますが,広辞苑の逆引き辞典を見ると「○○笠」がたくさん出てきます。江戸時代までは外出時の日常品としてさまざまな笠が利用されていたようです。
今笠を見たければ,各地の祭り(山形:花笠まつり,徳島:阿波踊り,富山:おわら風の盆など)に行くと,踊り手がかぶっているのを見ることができます。
万葉時代,笠の材料は次の柿本人麻呂歌集に出てくる詠み人知らずの旋頭歌のように菅(すげ)を編んで作っていたことが想像できます。
はしたての倉橋川の川の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅(7-1284)
<はしたてのくらはしがはのかはのしづすげ わがかりてかさにもあまぬかはのしづすげ>
<<倉橋川の川辺にいつも生えている菅を私が刈りました。でも,刈ったままで笠に編まないままにしてあるいつも川に生えている菅なのです>>
解釈がいろいろ考えられますが,幼なじみの二人がなかなか結婚まで行けないことを滑稽に詠ったものだと私は解釈します。なお,静菅は何か特別な菅の種類を指すのではなく,「静」が「動かない」という意味から,いつも生えているという意味にしました。
なお,次の詠み人知らずの短歌のように菅の笠も地域ブランドがあったようです。
おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに(11-2819)
<おしてるなにはすがかさ おきふるしのちはたがきむ かさならなくに>
<<難波の菅笠であっても使わず放っておいたら誰かが使うでしょうか? そんな(安っぽい)笠ではないのに>>
この短歌もいろいろ解釈ができそうです。私の勝手な解釈ですが,作者は女性で,高級ブランドの難波菅笠(難波には品質の良い菅と優秀な笠職人がたくさんいた?)のようなプライドを持った人ではないでしょうか。この作者「いつまでもたっても通ってきてくれず,放っておいたら古びてしまいますわよ」と言いたげですね。
次の詠み人知らずの短歌から,そのほかにも菅笠の地域ブランドが想像できます。
人皆の笠に縫ふといふ有間菅ありて後にも逢はむとぞ思ふ(12-3064)
<ひとみなのかさにぬふといふ ありますげありてのちにも あはむとぞおもふ>
<<人が皆笠に編むという有間菅。そのように,生きていれば,いつかきっとあなたに逢えると思う>>
有馬温泉がある兵庫県南東部ではきっと良い菅が採れ,その菅を編んで作った菅笠が平城京の西の市,東の市で大量に売られていたのかもしれませんし,有馬温泉のお土産として売られていたのかもしれません。有馬(ありま)は,在り待つ(生きてひたすら待つ)を連想させる言葉だったのでしょうね。
何をやってもなかなか上手くいかないことが多い今の世の中ですが,自分が今できることを着実・地道に行い,チャンスの到来をじっと待つ忍耐力の重要さを私はこの短歌から感じ取ります。
さて,今もあるシリーズはいったんお休みし,来年1月7日までは年末年始スペシャルをお送りします。
年末年始スペシャル「今年を振り返って」に続く。
2012年12月16日日曜日
今もあるシリーズ「苗(なへ)」
先月(11月)18日の北海道は,記録的に初雪が遅かったそうです。旭川は観測史上もっとも初雪が遅かったとのことです。ところが,今月に入り気候は一変しました。冬至はまだ先だというのに真冬並みの寒波が繰り返しとやってきています。
各スキー場は営業開始予定が今週末からのところも多いですが,すでに雪は結構積もっているようですね。このまま大寒の時期になるとどんな寒さになるかちょっと心配ですし,雪国の方々にとっては長くて厳しい冬になるのかなと非常に気になります。
さて,これからさらに本格的に寒くなるという時期ですが,今回の話題は植物の苗の話です。
万葉時代,農家は今と同じ田植えをすでに行っていたことが,次の万葉集で紀女郎(きのいらつめ)が大伴家持に贈った短歌でわかります。
言出しは誰が言にあるか小山田の苗代水の中淀にして(4-776)
<ことでしはたがことにあるか をやまだのなはしろみづの なかよどにして>
<<頻繁に逢いたい言い出したの誰ですか?山奥にある田の苗代に引く水路が途中で淀んで流れなくしてしまったのは,家持君の方だよ>>
この短歌を紀女郎が家持に贈る前,家持は紀女郎に「貴女を恋い慕う気持ちは変わらないけれど,忙しくでなかなか逢う時間が作れない」という意味の短歌を贈っています。
<万葉集の苗代から見えるもの>
相聞歌としてこのやり取りは非常に興味がありますが,本日のテーマは「苗」なので,この短歌の「苗代」について考えます。
稲作は稲の実(米)を種として,薄く水を張った柔らかく,平らな土(これを苗代と呼びます)の上に均等に蒔きます。そして,10㎝ほど芽がでたら,土ごと切り取って,数株ずつ分けて,実ったとき稲刈りをする田に田植えをします。
田植えは,苗代でそのまま育てる場合,育成途中に間引きという行為を何度か行う手間が掛かります。その点,田植えの手間をいとわなければ,間引きの必要がなく,種(米)を無駄にしません(すべての種を育てます)。
<山奥の稲作の苦労と談諸関係の苦労>
この短歌でさらに興味深いのは,山奥にある田の話です。万葉時代には,稲田の開墾がかなり進み,里山深くに田ができていたということを示します。今,明日香村やその付近の里山を訪れると美しい棚田をたくさん見ることができます。もしかしたら,万葉時代もこのような棚田が数多く見られたのではないかとこの短歌で想像したくなります。
しかし,山深い場所で南国系の稲を育てるには工夫がいります。その一つが水路です。山の水をそのまま苗代に流すと水が非常に冷たく,稲の苗を痛めてしまいます。
そのため,苗代の入るまでの水路を長くして,水路を通っていくうちに水の温度が上がる仕組みを考えていたと考えられます。しかし,水路を長くすることは簡単ではありません。長ければ長いほど水路の下り傾斜を緩やかにしなければなりません。
少しでも逆勾配や落ち葉・泥などで詰まった部分があると,水はそこで止まってしまいます。管理する農家は,常に水路の泥や落ち葉をきれいにさらい,逆勾配の場所を付近の部分も含めて緩やかな下り勾配になるよう維持しなければなりません。
恋愛関係の維持するのは,そんな気の使い方が必要だと年上の紀女郎は若き家持に教えたのかもしれませんね。
次は稲以外の苗について大伴駿河麻呂(おほとものするがまろ)が大伴坂上二嬢(おほとものさかのうへのおといらつめ)を妻問う(娶る)ときに詠んだ短歌を紹介します。
春霞春日の里の植ゑ子水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ(3-407)
<はるかすみかすがのさとの うゑこなぎなへなりといひし えはさしにけむ>
<<春日の里のお家にある庭の池に植えられたコナギはまだ早苗でしたが,今は枝が分かれるほど立派に育ちましたでしょうか>>
この短歌は二嬢のお母さんである大伴坂上郎女(いらつめ)に贈ったようです。二嬢のお姉さんの大嬢は家持と結婚し,二嬢も奈良時代の大伴家としては出世した方の駿河麻呂と結婚させた母坂上郎女の手腕はなかなかのものだと改めて感心します。
さて,コナギは水生植物で育つと紫色の可憐な花を咲かせます。駿河麻呂と二嬢は幼いころから許婚(いひなづけ)であったのかもしれません。二嬢をコナギに喩えて詠んだようです。
もう1首,稲以外の苗を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠(11-2836)
<みしますげいまだなへなり ときまたばきずやなりなむ みしますがかさ>
<<難波の三島江に生えている菅はまだ苗だから,十分育つまで待とうとすると,だれかに刈り取られて結局三島菅笠ができず着けることができない>>
あきらかに菅は若い娘の喩えです。可愛いけどまだ幼いといって放っておいたら,いつの間にか別の男に取られていたということですね。そんな経験のある男性は,結構多いのではないでしょうか。
実は,私が小学校のとき好きだった同級生の女子の名前が早苗でした。その子が好きな男子生徒は結構いて,競争相手が多くて結局付き合えなかったのですが,「苗」のことを書いていて,少し思い出してしまいました。
さて,次回は三島菅笠の「笠(かさ)」を取り上げます。カサといっても雨の日に使うものではなく,どちらかというと夏のかんかん照りのときに頭にかぶる方のものです。
今もあるシリーズ「笠(かさ)」に続く。
各スキー場は営業開始予定が今週末からのところも多いですが,すでに雪は結構積もっているようですね。このまま大寒の時期になるとどんな寒さになるかちょっと心配ですし,雪国の方々にとっては長くて厳しい冬になるのかなと非常に気になります。
さて,これからさらに本格的に寒くなるという時期ですが,今回の話題は植物の苗の話です。
万葉時代,農家は今と同じ田植えをすでに行っていたことが,次の万葉集で紀女郎(きのいらつめ)が大伴家持に贈った短歌でわかります。
言出しは誰が言にあるか小山田の苗代水の中淀にして(4-776)
<ことでしはたがことにあるか をやまだのなはしろみづの なかよどにして>
<<頻繁に逢いたい言い出したの誰ですか?山奥にある田の苗代に引く水路が途中で淀んで流れなくしてしまったのは,家持君の方だよ>>
この短歌を紀女郎が家持に贈る前,家持は紀女郎に「貴女を恋い慕う気持ちは変わらないけれど,忙しくでなかなか逢う時間が作れない」という意味の短歌を贈っています。
<万葉集の苗代から見えるもの>
相聞歌としてこのやり取りは非常に興味がありますが,本日のテーマは「苗」なので,この短歌の「苗代」について考えます。
稲作は稲の実(米)を種として,薄く水を張った柔らかく,平らな土(これを苗代と呼びます)の上に均等に蒔きます。そして,10㎝ほど芽がでたら,土ごと切り取って,数株ずつ分けて,実ったとき稲刈りをする田に田植えをします。
田植えは,苗代でそのまま育てる場合,育成途中に間引きという行為を何度か行う手間が掛かります。その点,田植えの手間をいとわなければ,間引きの必要がなく,種(米)を無駄にしません(すべての種を育てます)。
<山奥の稲作の苦労と談諸関係の苦労>
この短歌でさらに興味深いのは,山奥にある田の話です。万葉時代には,稲田の開墾がかなり進み,里山深くに田ができていたということを示します。今,明日香村やその付近の里山を訪れると美しい棚田をたくさん見ることができます。もしかしたら,万葉時代もこのような棚田が数多く見られたのではないかとこの短歌で想像したくなります。
しかし,山深い場所で南国系の稲を育てるには工夫がいります。その一つが水路です。山の水をそのまま苗代に流すと水が非常に冷たく,稲の苗を痛めてしまいます。
そのため,苗代の入るまでの水路を長くして,水路を通っていくうちに水の温度が上がる仕組みを考えていたと考えられます。しかし,水路を長くすることは簡単ではありません。長ければ長いほど水路の下り傾斜を緩やかにしなければなりません。
少しでも逆勾配や落ち葉・泥などで詰まった部分があると,水はそこで止まってしまいます。管理する農家は,常に水路の泥や落ち葉をきれいにさらい,逆勾配の場所を付近の部分も含めて緩やかな下り勾配になるよう維持しなければなりません。
恋愛関係の維持するのは,そんな気の使い方が必要だと年上の紀女郎は若き家持に教えたのかもしれませんね。
次は稲以外の苗について大伴駿河麻呂(おほとものするがまろ)が大伴坂上二嬢(おほとものさかのうへのおといらつめ)を妻問う(娶る)ときに詠んだ短歌を紹介します。
春霞春日の里の植ゑ子水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ(3-407)
<はるかすみかすがのさとの うゑこなぎなへなりといひし えはさしにけむ>
<<春日の里のお家にある庭の池に植えられたコナギはまだ早苗でしたが,今は枝が分かれるほど立派に育ちましたでしょうか>>
この短歌は二嬢のお母さんである大伴坂上郎女(いらつめ)に贈ったようです。二嬢のお姉さんの大嬢は家持と結婚し,二嬢も奈良時代の大伴家としては出世した方の駿河麻呂と結婚させた母坂上郎女の手腕はなかなかのものだと改めて感心します。
さて,コナギは水生植物で育つと紫色の可憐な花を咲かせます。駿河麻呂と二嬢は幼いころから許婚(いひなづけ)であったのかもしれません。二嬢をコナギに喩えて詠んだようです。
もう1首,稲以外の苗を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠(11-2836)
<みしますげいまだなへなり ときまたばきずやなりなむ みしますがかさ>
<<難波の三島江に生えている菅はまだ苗だから,十分育つまで待とうとすると,だれかに刈り取られて結局三島菅笠ができず着けることができない>>
あきらかに菅は若い娘の喩えです。可愛いけどまだ幼いといって放っておいたら,いつの間にか別の男に取られていたということですね。そんな経験のある男性は,結構多いのではないでしょうか。
実は,私が小学校のとき好きだった同級生の女子の名前が早苗でした。その子が好きな男子生徒は結構いて,競争相手が多くて結局付き合えなかったのですが,「苗」のことを書いていて,少し思い出してしまいました。
さて,次回は三島菅笠の「笠(かさ)」を取り上げます。カサといっても雨の日に使うものではなく,どちらかというと夏のかんかん照りのときに頭にかぶる方のものです。
今もあるシリーズ「笠(かさ)」に続く。
2012年12月9日日曜日
今もあるシリーズ「稲(いね)」
<日本のコメの消費量>
総務省の家計調査によれば2011年世帯員が2人以上いる世帯において,コメの購入額が平均27,425円なのに対して,パンの購入額が28,321円となって,初めて逆転したという結果が出たということです。日本の家庭における洋食化が進んでいるということを速断するのは早いと思いますが,着実に家庭でのコメ離れが進んでいるといえるのかもしれません。
パンに比べてコメは炊く手間が掛かり,食べ終わった後や残ったものの処理が楽ではないなど,家庭での料理の手間を省きたい人にはどうしても手軽なパン食になるのかも知れまんね。ただ,外食やコンビニでは和定食,丼,チャーハン,おにぎりなど,ご飯が主体のメニューの消費は減っていないようで,日本人がコメを嫌いになったわけではなさそうです。
<蘖(ひこばえ)>
さて,今回はご飯の話は済んでいますので,ご飯のもとになる稲を取り上げます。
私はここ数年11月に車で関西に行き帰りしています。同じ時期なので,自然の風景は同じ場所では毎年それほど変わりませんが,ひとつ気になることがあります。稲刈りをした後に再生したように緑色に生え出す蘖(ひこばえ)の穭(ひつじ)田を多く見ます。昨年と同じ場所を見ると稲の蘖が心なしか大きくなっているように思うのです。
天の川 「はびとはん? 最初は「何とか省の何とか調査」なんて偉そうな資料を出したくせに,これはほんまに大雑把な話やな~。ちゃんと稲の高さを定規で長さを測らんとアカンがな」
天の川君,高速道路を走っている最中,降りて測れるわけないでしょ。それから,ちょっとした直感もけっこう当たることもあるからね。簡単に温暖化の影響かもしれないというのは良くないことかもしれませんが,やはり少し気になっています。
<コメの保管も大変>
ところで,刈り取った稲を脱穀してコメとして保管するのは,今でも結構コストがかかっています。
私の妻の親戚に埼玉県北部でおコメを作っている兼業農家があります。作っているのは80歳近いおじいさんで,息子や嫁は会社務めです。ときどきコメを分けてもらうのですが,玄米を10℃台に維持した冷蔵倉庫に保管しているそうです。妻の親戚のおじいさんが言うには「春夏に外気温と同じ温度で保管するとコメはすぐに味が落ちる」とのことでした。
もちろん,そんな冷蔵倉庫のない万葉時代,稲の保管についてこんな短歌が万葉集で詠まれています。
あらき田の鹿猪田の稲を倉に上げてあなひねひねし我が恋ふらくは(16-3848)
<あらきたのししだのいねを くらにあげてあなひねひねし あがこふらくは>
<<新しく開墾したがシカやイノシシが荒らす田の稲を倉に収納したが,月日が経ってしまったので陳(ひ)ねてしまった。私の恋と同じように>>
新しく開墾した田は土が痩せていて,シカやイノシシが植えた稲を食べたり,土を掘ったりして,稲を育てるに苦労します。ようやく収穫できたコメを倉庫に入れたが,管理が悪いまま長く置いておいたので,陳ねて味が悪くなってしまったのを嘆いています。
しかし,この短歌の稲の話は作者の恋人の譬えです。若い女性を早くから自分の恋人にしようと努力(シカやイノシシは恋敵)して,ようやく自分恋人にできた。ところが,この短歌の作者である忌部黒麻呂(いむべのくろまろ)は少し手紙のやり取りをおろそかにしただけで,その恋人との関係は冷えてしまったということらしいですね。
ただ,いずれにしても稲穂が熟して刈り取り(稲刈り)のときは,恋人をゲットできた時のように収穫の喜びで年間で一番楽しいひと時だったのでしょう。
万葉集にもこんな短歌があります。
秋の田の穂田の刈りばかか寄りあはばそこもか人の我を言成さむ(4-512)
<あきのたのほたのかりばか かよりあはばそこもかひとの わをことなさむ>
<<秋の田での稲刈りで刈る場所の担当が隣同士になったりするだけでも私たちのことをあれこれ噂をするのかな>>
この短歌,草嬢(くさのをとめ)が詠んだと題詞に書かれています。どんな女性かわかりませんが,稲刈りのとき地主に臨時に雇われた女性かもしれません。
今で言えば,たとえば税務申告時期に臨時で役所に派遣されてた女性と職員の男性が密かに良い仲になり,申告書類の分類作業で長机の隣同士になったときの会話などの雰囲気からそれを周りに悟られるのを心配している様子と似ているように思います。
小学校の頃,学校の掃除の担当(ゴミ捨て,窓ふき,雑巾がけ,机移動など)が好きな女の子と一緒になったときのことを思い出しました。
<太安万侶の墓を訪れる>
さて,日本のことを「瑞穂(みづほ)の国」(みずみずしい稲穂が実る国)といったり,古事記,日本書紀で天孫降臨の場所が高千穂(高く多くの稲穂のある場所)であるように,日本の成り立ちと稲作は密接に関係しているのだろうと私は考えます。少なくとも,古事記や日本書紀が編纂された平城京時代では,そう考えられていたのだといえそうです。
写真は,先月訪れたときに撮った古事記(今年は編纂1,300年)の編者太安万侶(おほのやすまろ)の墓とされる場所とそこから見下ろす茶畑や里山の風景です。下の田は穭田となっていて緑色に染まっています。こんな閑静で眺めの良いところに墓があるのは羨ましい限りだと私は思いました。
次回ととは稲や他の植物の「苗」ついて,万葉集を見ていくことにします。
今もあるシリーズ「苗(なへ)」に続く。
総務省の家計調査によれば2011年世帯員が2人以上いる世帯において,コメの購入額が平均27,425円なのに対して,パンの購入額が28,321円となって,初めて逆転したという結果が出たということです。日本の家庭における洋食化が進んでいるということを速断するのは早いと思いますが,着実に家庭でのコメ離れが進んでいるといえるのかもしれません。
パンに比べてコメは炊く手間が掛かり,食べ終わった後や残ったものの処理が楽ではないなど,家庭での料理の手間を省きたい人にはどうしても手軽なパン食になるのかも知れまんね。ただ,外食やコンビニでは和定食,丼,チャーハン,おにぎりなど,ご飯が主体のメニューの消費は減っていないようで,日本人がコメを嫌いになったわけではなさそうです。
<蘖(ひこばえ)>
さて,今回はご飯の話は済んでいますので,ご飯のもとになる稲を取り上げます。
私はここ数年11月に車で関西に行き帰りしています。同じ時期なので,自然の風景は同じ場所では毎年それほど変わりませんが,ひとつ気になることがあります。稲刈りをした後に再生したように緑色に生え出す蘖(ひこばえ)の穭(ひつじ)田を多く見ます。昨年と同じ場所を見ると稲の蘖が心なしか大きくなっているように思うのです。
天の川 「はびとはん? 最初は「何とか省の何とか調査」なんて偉そうな資料を出したくせに,これはほんまに大雑把な話やな~。ちゃんと稲の高さを定規で長さを測らんとアカンがな」
天の川君,高速道路を走っている最中,降りて測れるわけないでしょ。それから,ちょっとした直感もけっこう当たることもあるからね。簡単に温暖化の影響かもしれないというのは良くないことかもしれませんが,やはり少し気になっています。
<コメの保管も大変>
ところで,刈り取った稲を脱穀してコメとして保管するのは,今でも結構コストがかかっています。
私の妻の親戚に埼玉県北部でおコメを作っている兼業農家があります。作っているのは80歳近いおじいさんで,息子や嫁は会社務めです。ときどきコメを分けてもらうのですが,玄米を10℃台に維持した冷蔵倉庫に保管しているそうです。妻の親戚のおじいさんが言うには「春夏に外気温と同じ温度で保管するとコメはすぐに味が落ちる」とのことでした。
もちろん,そんな冷蔵倉庫のない万葉時代,稲の保管についてこんな短歌が万葉集で詠まれています。
あらき田の鹿猪田の稲を倉に上げてあなひねひねし我が恋ふらくは(16-3848)
<あらきたのししだのいねを くらにあげてあなひねひねし あがこふらくは>
<<新しく開墾したがシカやイノシシが荒らす田の稲を倉に収納したが,月日が経ってしまったので陳(ひ)ねてしまった。私の恋と同じように>>
新しく開墾した田は土が痩せていて,シカやイノシシが植えた稲を食べたり,土を掘ったりして,稲を育てるに苦労します。ようやく収穫できたコメを倉庫に入れたが,管理が悪いまま長く置いておいたので,陳ねて味が悪くなってしまったのを嘆いています。
しかし,この短歌の稲の話は作者の恋人の譬えです。若い女性を早くから自分の恋人にしようと努力(シカやイノシシは恋敵)して,ようやく自分恋人にできた。ところが,この短歌の作者である忌部黒麻呂(いむべのくろまろ)は少し手紙のやり取りをおろそかにしただけで,その恋人との関係は冷えてしまったということらしいですね。
ただ,いずれにしても稲穂が熟して刈り取り(稲刈り)のときは,恋人をゲットできた時のように収穫の喜びで年間で一番楽しいひと時だったのでしょう。
万葉集にもこんな短歌があります。
秋の田の穂田の刈りばかか寄りあはばそこもか人の我を言成さむ(4-512)
<あきのたのほたのかりばか かよりあはばそこもかひとの わをことなさむ>
<<秋の田での稲刈りで刈る場所の担当が隣同士になったりするだけでも私たちのことをあれこれ噂をするのかな>>
この短歌,草嬢(くさのをとめ)が詠んだと題詞に書かれています。どんな女性かわかりませんが,稲刈りのとき地主に臨時に雇われた女性かもしれません。
今で言えば,たとえば税務申告時期に臨時で役所に派遣されてた女性と職員の男性が密かに良い仲になり,申告書類の分類作業で長机の隣同士になったときの会話などの雰囲気からそれを周りに悟られるのを心配している様子と似ているように思います。
小学校の頃,学校の掃除の担当(ゴミ捨て,窓ふき,雑巾がけ,机移動など)が好きな女の子と一緒になったときのことを思い出しました。
<太安万侶の墓を訪れる>
さて,日本のことを「瑞穂(みづほ)の国」(みずみずしい稲穂が実る国)といったり,古事記,日本書紀で天孫降臨の場所が高千穂(高く多くの稲穂のある場所)であるように,日本の成り立ちと稲作は密接に関係しているのだろうと私は考えます。少なくとも,古事記や日本書紀が編纂された平城京時代では,そう考えられていたのだといえそうです。
写真は,先月訪れたときに撮った古事記(今年は編纂1,300年)の編者太安万侶(おほのやすまろ)の墓とされる場所とそこから見下ろす茶畑や里山の風景です。下の田は穭田となっていて緑色に染まっています。こんな閑静で眺めの良いところに墓があるのは羨ましい限りだと私は思いました。
次回ととは稲や他の植物の「苗」ついて,万葉集を見ていくことにします。
今もあるシリーズ「苗(なへ)」に続く。
2012年12月5日水曜日
今もあるシリーズ「杯(さかづき)」
今の世の中,忘年会シーズンですね。いくら不景気とはいえ,今週ボーナスが出る人が多いと思います。きっと,今週末から来週にかけて,あちこちの居酒屋やレストランで多くの人たちが「乾杯」をする姿が見られるのだろうと予想しています。
さて,今「杯」の漢字は訓読みで「さかずき」と読みます。次の万葉集の長歌から万葉時代では,「つき(杯または坏)」は,お酒を入れるためだけではなく,様々な飲み物,食べ物を入れる丸い形をした器を指していたようです。
鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にあへつや 目豆児の刀自 父にあへつや 身女児の刀自(16-3880)
<かしまねのつくゑのしまの しただみをいひりひもちきて いしもちつつきやぶり はやかはにあらひすすぎ からしほにこごともみ たかつきにもりつくゑにたてて ははにあへつやめづこのとじ ちちにあへつやみめこのとじ>
<<鹿島嶺近くの机島でシタダミ(巻貝)を取って帰り,石で殻を割り,早い川の流れで綺麗に洗い,辛塩でよく揉んで,脚付きの器に盛りつけて,机の上に置いて,お母さんに差し上げましたか可愛いお嫁さん,お父さんにご馳走しましたか,愛くるしいお嫁さん>>
この長歌は,今の石川県の能登地方に伝わる歌謡を万葉集で紹介しているようです。
<嫁として嫁いだ先の両親とうまくやる方法>
嫁に行った夫の家で舅,姑とうまくやる(この嫁は気が利くなあと思わせる)にはどうしたらよいか教えてくれているようです。当時,妻問婚が主流だったようですが,庶民(特に漁村)の間では,嫁取り婚の風習がある地方もあったのではないかと私は想像します。当時の都人にとってはなじみのない嫁取り婚で,女性が血のつながりのない義親とどううまくやっていくのか,興味津々でこの長歌を見たのではないでしょうか。
でも,万葉集で杯を詠んだ他の和歌は,酒を注ぐための杯ばかりです。
春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ(7-1295)
<かすがなるみかさのやまにつきのふね いづ みやびをののむさかづきにかげにみえつつ>
<<奈良春日の三笠山に船のような月が出たぞ。風流な人たちが飲む酒杯の中に映っているね>>
この旋頭歌は,月見の宴で出席者が待ち遠しい月がようやく三笠の山に出た瞬間を詠んだものだと私は感じます。出た月を杯の酒に映しながら飲むとまた格別な味がしたのでしょう。こういった趣向を楽しむ風流人が奈良の都にはたくさんいたのかもしれませんね。
さて,最後は酒は花見で一杯が定番ですが,万葉時代では桜の花見ではなく,梅の花見が盛んだったようです。
酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし(8-1656)
<さかづきにうめのはなうかべ おもふどちのみてののちは ちりぬともよし>
<<酒杯に梅の花を浮かべて友達同士で飲んだ後は,(梅の花が)散ってしまっても構いませんね>>
この短歌は,坂上郎女が詠んだとされています。花見など大勢で行う宴会ではお酒を飲んではいけないという禁酒令が出ている中,少ない人数で風流に梅の花を杯の酒に浮かべて歌でも詠みながら飲みましょう。それが許されるなら,散った後でもお酒を友達飲めますからという意味でしょうか。坂上郎女,その友人もお酒が大好きだったのですね。さすがに大伴旅人の親戚です。
次回は酒の原料である稲について取り上げます。
今もあるシリーズ「稲(いね)」に続く。
さて,今「杯」の漢字は訓読みで「さかずき」と読みます。次の万葉集の長歌から万葉時代では,「つき(杯または坏)」は,お酒を入れるためだけではなく,様々な飲み物,食べ物を入れる丸い形をした器を指していたようです。
鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にあへつや 目豆児の刀自 父にあへつや 身女児の刀自(16-3880)
<かしまねのつくゑのしまの しただみをいひりひもちきて いしもちつつきやぶり はやかはにあらひすすぎ からしほにこごともみ たかつきにもりつくゑにたてて ははにあへつやめづこのとじ ちちにあへつやみめこのとじ>
<<鹿島嶺近くの机島でシタダミ(巻貝)を取って帰り,石で殻を割り,早い川の流れで綺麗に洗い,辛塩でよく揉んで,脚付きの器に盛りつけて,机の上に置いて,お母さんに差し上げましたか可愛いお嫁さん,お父さんにご馳走しましたか,愛くるしいお嫁さん>>
この長歌は,今の石川県の能登地方に伝わる歌謡を万葉集で紹介しているようです。
<嫁として嫁いだ先の両親とうまくやる方法>
嫁に行った夫の家で舅,姑とうまくやる(この嫁は気が利くなあと思わせる)にはどうしたらよいか教えてくれているようです。当時,妻問婚が主流だったようですが,庶民(特に漁村)の間では,嫁取り婚の風習がある地方もあったのではないかと私は想像します。当時の都人にとってはなじみのない嫁取り婚で,女性が血のつながりのない義親とどううまくやっていくのか,興味津々でこの長歌を見たのではないでしょうか。
でも,万葉集で杯を詠んだ他の和歌は,酒を注ぐための杯ばかりです。
春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ(7-1295)
<かすがなるみかさのやまにつきのふね いづ みやびをののむさかづきにかげにみえつつ>
<<奈良春日の三笠山に船のような月が出たぞ。風流な人たちが飲む酒杯の中に映っているね>>
この旋頭歌は,月見の宴で出席者が待ち遠しい月がようやく三笠の山に出た瞬間を詠んだものだと私は感じます。出た月を杯の酒に映しながら飲むとまた格別な味がしたのでしょう。こういった趣向を楽しむ風流人が奈良の都にはたくさんいたのかもしれませんね。
さて,最後は酒は花見で一杯が定番ですが,万葉時代では桜の花見ではなく,梅の花見が盛んだったようです。
酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし(8-1656)
<さかづきにうめのはなうかべ おもふどちのみてののちは ちりぬともよし>
<<酒杯に梅の花を浮かべて友達同士で飲んだ後は,(梅の花が)散ってしまっても構いませんね>>
この短歌は,坂上郎女が詠んだとされています。花見など大勢で行う宴会ではお酒を飲んではいけないという禁酒令が出ている中,少ない人数で風流に梅の花を杯の酒に浮かべて歌でも詠みながら飲みましょう。それが許されるなら,散った後でもお酒を友達飲めますからという意味でしょうか。坂上郎女,その友人もお酒が大好きだったのですね。さすがに大伴旅人の親戚です。
次回は酒の原料である稲について取り上げます。
今もあるシリーズ「稲(いね)」に続く。
2012年11月28日水曜日
今もあるシリーズ「酒(さけ)」
万葉時代から酒がよく飲まれていたことが万葉集からもわかります。
大の酒好きの大伴旅人は,讃酒歌(酒を讃むる歌)13首を詠んでいます。その中の2首を紹介します。
いにしへの七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし(3-340)
<いにしへのななのさかしき ひとたちもほりせしものは さけにしあるらし>
<<その昔、竹林の七賢人が欲しがったのは,この酒であったらしい>>
価なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも(3-345)
<あたひなきたからといふとも ひとつきのにごれるさけに あにまさめやも>
<<値段が付けられないほどの価値がある宝といっても一杯の白濁した酒に勝てはしない>>
当時,酒は今の日本酒のように透明ではなく,朝鮮の伝統酒マッコリに近い色と味だったのかもしれませんね。私はどちらかというとウィスキーや焼酎といった蒸留酒の方が好きで,マッコリはあまり飲みません。でも,韓流ブームに乗っている人は好きな人も多いようですね。
ただ,万葉時代には,すでに酒におぼれて,健康を害したり,他人に迷惑をかける人が多く出たのか,禁酒令が出されることもあったようです(続日本記に記録があるとのこと)。
官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ(8-1675)
<つかさにもゆるしたまへり こよひのみのまむさけかも ちりこすなゆめ>
<<お上からも許しが出た。今夜だけ飲む酒にならないよう,梅よ散らないでほしい>>
この短歌の作者は,名前はわかりませんが坂上郎女(さかのうへのいらつめ)たちと一緒に梅見の宴に参加して,詠んだようです。おそらく,梅が咲いている間だけは,禁酒令が解除されたのでしょう。何日も飲みたいから梅にすぐ散らないでほしいと詠っているのです。
最後に,黒酒,白酒が出てくる短歌を紹介します。
天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒白酒を(19-4275)
<あめつちとひさしきまでに よろづよにつかへまつらむ くろきしろきを>
<<天地とともに幾久しく万代までもお仕えいたしましょう。黒酒・白酒をお供えして>>
この短歌は天平勝宝4(752)年11月25日に行われた新嘗祭の宴の席上,文屋真人(ふみやのまひと)という高級官僚が詠んだものです。白酒は濁り酒で黒酒は透明な酒なのかもしれません。今で言えば,赤ワインと白ワインといったところでしょうか。
いずれにしても,酒は今も昔も多くの人が愛したものだったことは間違いなさそうですね。
次回はその酒を入れて飲む,杯を万葉集で見ていくことにしましょう。
今もあるシリーズ「杯(さかづき)」に続く。
大の酒好きの大伴旅人は,讃酒歌(酒を讃むる歌)13首を詠んでいます。その中の2首を紹介します。
いにしへの七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし(3-340)
<いにしへのななのさかしき ひとたちもほりせしものは さけにしあるらし>
<<その昔、竹林の七賢人が欲しがったのは,この酒であったらしい>>
価なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも(3-345)
<あたひなきたからといふとも ひとつきのにごれるさけに あにまさめやも>
<<値段が付けられないほどの価値がある宝といっても一杯の白濁した酒に勝てはしない>>
当時,酒は今の日本酒のように透明ではなく,朝鮮の伝統酒マッコリに近い色と味だったのかもしれませんね。私はどちらかというとウィスキーや焼酎といった蒸留酒の方が好きで,マッコリはあまり飲みません。でも,韓流ブームに乗っている人は好きな人も多いようですね。
ただ,万葉時代には,すでに酒におぼれて,健康を害したり,他人に迷惑をかける人が多く出たのか,禁酒令が出されることもあったようです(続日本記に記録があるとのこと)。
官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ(8-1675)
<つかさにもゆるしたまへり こよひのみのまむさけかも ちりこすなゆめ>
<<お上からも許しが出た。今夜だけ飲む酒にならないよう,梅よ散らないでほしい>>
この短歌の作者は,名前はわかりませんが坂上郎女(さかのうへのいらつめ)たちと一緒に梅見の宴に参加して,詠んだようです。おそらく,梅が咲いている間だけは,禁酒令が解除されたのでしょう。何日も飲みたいから梅にすぐ散らないでほしいと詠っているのです。
最後に,黒酒,白酒が出てくる短歌を紹介します。
天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒白酒を(19-4275)
<あめつちとひさしきまでに よろづよにつかへまつらむ くろきしろきを>
<<天地とともに幾久しく万代までもお仕えいたしましょう。黒酒・白酒をお供えして>>
この短歌は天平勝宝4(752)年11月25日に行われた新嘗祭の宴の席上,文屋真人(ふみやのまひと)という高級官僚が詠んだものです。白酒は濁り酒で黒酒は透明な酒なのかもしれません。今で言えば,赤ワインと白ワインといったところでしょうか。
いずれにしても,酒は今も昔も多くの人が愛したものだったことは間違いなさそうですね。
次回はその酒を入れて飲む,杯を万葉集で見ていくことにしましょう。
今もあるシリーズ「杯(さかづき)」に続く。
2012年11月23日金曜日
今もあるシリーズ「橘(たちばな)」
明日香村の農園でみかん一本木のオーナーになり,この前の日曜日みかん狩りをしたと前回の投稿で書きましたが,予想以上に豊作で,みかんの実を収穫するのに妻と二人で1時間半もかかってしまいました。写真は,収穫したみかんの量です。すごいでしょう。
天の川 「たびとはん。そんなにみかんが取れたやったら,みかん酒をぎょうさん作ってや。頼んまっせ!」
すぐ酒を欲しがるのを何とかしてほしいね,天の川君。本当は,みかんをそのままたくさん食べて風邪をひかないようにしてほしいんだけどね。
さて,万葉集では「みかん」という言葉は出てきませんが,柑橘類の橘の和名「たちばな」が多くの歌で出てきます。今では,橘は人名や地名で出てくる程度でしょうか。みかん(蜜柑)は甘(柑)い橘ということ意味の柑橘類の代表格ということになります。逆に橘は甘くないということになります。
<橘は食用にされていた?>
橘が甘くない(酸味が強い)といっても程度はいろいろあり,食べられていた時期もあったかもしれません。人が好む甘さは時代や流行(はやり)によって変化しますからね。
私が幼いころ夏みかんは酸っぱくて,砂糖を大量に使ってマーマレードかジャムにするくらいでした。今,甘夏みかんとは呼ばない原種の酸味が非常に強い夏みかんをそのまま食べる人がいます。糖分の摂取を抑えたビタミンC補給源として。
甘いものが今よりも少なかった万葉時代は橘は常緑の葉,白い可憐な花,緑の美しい果実,そして甘くはないが,健康に良さそうな果実を食べる,果実のしぼり汁を飲んだり,魚などの臭みを消したり,風味を増したりしたのではないかと私は思います。万葉人の愛した橘は万葉集の多くの和歌で詠まれています。
橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
<たちばなはみさへはなさへそのはさへ えにしもふれどいやとこはのき>
<<橘は実も花もその葉も枝に霜が降ることがあっても,ますます栄える常緑の木である>>
この短歌は聖武(しやうむ)天皇が天平8(736)年11月,葛城王(かづらきのおほきみ)に橘姓を授ける際に詠んだとされるものです。葛城王は橘姓を賜って,自分の名前を橘諸兄(たちばなのもろえ)としたのです。説明など要らないほど明快な短歌で,これで橘がどんな植物かが分かります。寒さに負けず,いつも力強く繁茂している姿が目に見えるようです。
そして,この聖武天皇の短歌を意識して,越中赴任中の大伴家持が天平感宝元(749)年閏(うるふ)5月23日橘諸兄に贈ったと思われる次の短歌(長歌の反歌)があります。
橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし見が欲し(18-4112)
<たちばなははなにもみにも みつれどもいやときじくに なほしみがほし>
<<橘は花が咲く時も実が成る時も見ていますが,時を分たず見れば見るほどもっと見ていたい気になります>>
「橘諸兄様のさまざまなご活躍に対していつも注目しております。そのお姿を見れば見るほどさらに注目したいと感じるのです」といったことを家持は伝えたかったのでしょうね。
そのほか万葉集で詠まれている多くの橘の歌を見ると,5月(今の6月)に花が咲き,その後直ぐに小さな緑の実を付け,それを取って,穴を開け,細い紐を通して,女の子が首飾りにするような風習や流行があったことが伺えます。アクセサリーとしても可愛いし,いい匂いがしたのでしょうね。
では,今みかんのように,黄色になった橘は万葉人にとって関心がなかったかというと,色づいた橘の実を意識させる短歌がありました。
月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ(18-4060)
<つきまちていへにはゆかむ わがさせるあからたちばな かげにみえつつ>
<<月の出を待って家に帰ることにします。私が頭に挿している色づいた橘の実を月影に照らして>>
この短歌は,橘諸兄宅で聖武天皇に天皇の座を譲った元正(げんしやう)上皇,粟田女王(あはたのおほきみ),田辺福麻呂(たなべのさきまろ)等が集まって,宴席をした際に粟田女王が詠んだとされるものです。恐らく,聖武天皇が難波宮(なにはのみや)に都を遷した天平15(744)年頃,この宴席は持たれたのだと思います。
聖武天皇が東大寺の大仏を建立や繰り返し遷都を行い,多額の財政支出を行っていたことに対し,民衆の反発が心配されていたころです。元正上皇は,聖武天皇の補佐役であった橘諸兄を訪ねて「よろしく頼む」という意味の宴会だったのかもしれません。
そうなると,この粟田女王の短歌も意味深ですね。「聖武天皇を抑えられるのは貴殿(橘諸兄)だけ。うまくいったら橘氏を厚遇するしかないでしょう」といった意味にもとらえられるかも?ですね。
ところで,今の世の中も政治が安定していません。安定させることができる人物,政党が現れることへの期待がますます大きくなっているのではないでしょうか。
政治の安定が期待できるのは,政治家として野心がギラギラした人物ばかりの集まりではなく,今まで地道に庶民のため愚直に実績を積み重ねてきた政党ということになるだろうと私は思います。
来月16日には国政選挙(衆議院選挙)が行われます。今までの実績を冷静に評価して投票されることを期待しています。
次回は天の川君が好きな「酒」をテーマに万葉集を見ていきましょう。
今もあるシリーズ「酒(さけ)」に続く。
天の川 「たびとはん。そんなにみかんが取れたやったら,みかん酒をぎょうさん作ってや。頼んまっせ!」
すぐ酒を欲しがるのを何とかしてほしいね,天の川君。本当は,みかんをそのままたくさん食べて風邪をひかないようにしてほしいんだけどね。
さて,万葉集では「みかん」という言葉は出てきませんが,柑橘類の橘の和名「たちばな」が多くの歌で出てきます。今では,橘は人名や地名で出てくる程度でしょうか。みかん(蜜柑)は甘(柑)い橘ということ意味の柑橘類の代表格ということになります。逆に橘は甘くないということになります。
<橘は食用にされていた?>
橘が甘くない(酸味が強い)といっても程度はいろいろあり,食べられていた時期もあったかもしれません。人が好む甘さは時代や流行(はやり)によって変化しますからね。
私が幼いころ夏みかんは酸っぱくて,砂糖を大量に使ってマーマレードかジャムにするくらいでした。今,甘夏みかんとは呼ばない原種の酸味が非常に強い夏みかんをそのまま食べる人がいます。糖分の摂取を抑えたビタミンC補給源として。
甘いものが今よりも少なかった万葉時代は橘は常緑の葉,白い可憐な花,緑の美しい果実,そして甘くはないが,健康に良さそうな果実を食べる,果実のしぼり汁を飲んだり,魚などの臭みを消したり,風味を増したりしたのではないかと私は思います。万葉人の愛した橘は万葉集の多くの和歌で詠まれています。
橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
<たちばなはみさへはなさへそのはさへ えにしもふれどいやとこはのき>
<<橘は実も花もその葉も枝に霜が降ることがあっても,ますます栄える常緑の木である>>
この短歌は聖武(しやうむ)天皇が天平8(736)年11月,葛城王(かづらきのおほきみ)に橘姓を授ける際に詠んだとされるものです。葛城王は橘姓を賜って,自分の名前を橘諸兄(たちばなのもろえ)としたのです。説明など要らないほど明快な短歌で,これで橘がどんな植物かが分かります。寒さに負けず,いつも力強く繁茂している姿が目に見えるようです。
そして,この聖武天皇の短歌を意識して,越中赴任中の大伴家持が天平感宝元(749)年閏(うるふ)5月23日橘諸兄に贈ったと思われる次の短歌(長歌の反歌)があります。
橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし見が欲し(18-4112)
<たちばなははなにもみにも みつれどもいやときじくに なほしみがほし>
<<橘は花が咲く時も実が成る時も見ていますが,時を分たず見れば見るほどもっと見ていたい気になります>>
「橘諸兄様のさまざまなご活躍に対していつも注目しております。そのお姿を見れば見るほどさらに注目したいと感じるのです」といったことを家持は伝えたかったのでしょうね。
そのほか万葉集で詠まれている多くの橘の歌を見ると,5月(今の6月)に花が咲き,その後直ぐに小さな緑の実を付け,それを取って,穴を開け,細い紐を通して,女の子が首飾りにするような風習や流行があったことが伺えます。アクセサリーとしても可愛いし,いい匂いがしたのでしょうね。
では,今みかんのように,黄色になった橘は万葉人にとって関心がなかったかというと,色づいた橘の実を意識させる短歌がありました。
月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ(18-4060)
<つきまちていへにはゆかむ わがさせるあからたちばな かげにみえつつ>
<<月の出を待って家に帰ることにします。私が頭に挿している色づいた橘の実を月影に照らして>>
この短歌は,橘諸兄宅で聖武天皇に天皇の座を譲った元正(げんしやう)上皇,粟田女王(あはたのおほきみ),田辺福麻呂(たなべのさきまろ)等が集まって,宴席をした際に粟田女王が詠んだとされるものです。恐らく,聖武天皇が難波宮(なにはのみや)に都を遷した天平15(744)年頃,この宴席は持たれたのだと思います。
聖武天皇が東大寺の大仏を建立や繰り返し遷都を行い,多額の財政支出を行っていたことに対し,民衆の反発が心配されていたころです。元正上皇は,聖武天皇の補佐役であった橘諸兄を訪ねて「よろしく頼む」という意味の宴会だったのかもしれません。
そうなると,この粟田女王の短歌も意味深ですね。「聖武天皇を抑えられるのは貴殿(橘諸兄)だけ。うまくいったら橘氏を厚遇するしかないでしょう」といった意味にもとらえられるかも?ですね。
ところで,今の世の中も政治が安定していません。安定させることができる人物,政党が現れることへの期待がますます大きくなっているのではないでしょうか。
政治の安定が期待できるのは,政治家として野心がギラギラした人物ばかりの集まりではなく,今まで地道に庶民のため愚直に実績を積み重ねてきた政党ということになるだろうと私は思います。
来月16日には国政選挙(衆議院選挙)が行われます。今までの実績を冷静に評価して投票されることを期待しています。
次回は天の川君が好きな「酒」をテーマに万葉集を見ていきましょう。
今もあるシリーズ「酒(さけ)」に続く。
2012年11月19日月曜日
今もあるシリーズ「飯(いひ)」
私は,昨日明日香村でミカン狩りを行い,ミカン狩りの会場(農家)で飛鳥米の小袋をプレゼントされました。飛鳥米は明日香村の農家で作られたコメのブランドです。ミカン狩りの帰りに,村の産直市場で玄米5キロを買いました。写真はミカン狩りで収穫したミカン(ほんの一部です。実際に収穫した量は次回の投稿で紹介します)とプレゼントされた飛鳥米です。
<3度の食事は朝飯,昼飯,夕飯>
さて,朝飯,昼飯,夜飯と私たちは1日にふつう何度も食事をします。最近,1日1食で良いという人の本が出ているようですが,長年行ってきた3度の食事を減らしたりするのは,健康な人にとってどのような影響があるのか?と私は思います。
現代では,「飯」は「めし」または「はん」と発音します。そして,朝パンや昼ラーメンを食べても「朝ご飯」や「昼ご飯」と呼びます。パン,パスタ,そば,うどん,ピザ,お好み焼き,もんじゃ焼き,たこ焼き,たい焼きを3食の代わりにだべたとしても,やはりご飯と言います。
それだけ,日本人の食事にとってご飯は大きなウェイトを占めてきた証ではないでしょうか。コメのご飯を食べる場合は,あえて「米飯(べいはん)」と呼ぶほどです。
<万葉時代は?>
万葉集では米飯のことを「飯(いひ)」として出ています。
今,飯を「いひ(い)」と発音するのは名前や地名で飯田,飯島,飯塚,飯野,飯見,飯沢,飯沼,飯岡,飯倉,飯詰,飯盛,飯井,飯浦などで使われていますが,それ以外で使われることは少ないのかもしれません。
万葉集で「飯(いひ)」を詠んだ短歌でよく引用されるのが,孝徳(かうとく)天皇(在位645~654)の皇子有間皇子(ありまのみこ)が中大兄皇子(なかのおほえのわうじ。後の天智天皇)に謀反の罪により18歳で処刑される際に辞世の和歌として詠んだとされる次の短歌ではないでしょうか。
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(2-142)
<いへにあればけにもるいひを くさまくらたびにしあれば しひのはにもる>
<<家で暮らしていれば食器に盛るご飯も,旅先ではご飯を盛る器がなく,椎の葉をその代りに使って盛るしかないのだ>>
この短歌は有間皇子が処刑場に護送される旅の途中で詠んだとされているようです。
次は,飯(いひ)をわが娘に譬えた尼の短歌です。ただし,尼が詠んだのは上の句だけで,下の句は大伴家持(おほとものやかもち)が上の句に続けて読んだ蓮歌とされているものです。
佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を刈れる初飯はひとりなるべし(8-1635)
<さほがはのみづをせきあげて うゑしたをかれるはついひは ひとりなるべし>
<<佐保川の水を堰き止めて植えた稲田で(尼作)刈った新米のご飯は母親一人のものです(家持作)>>
これは,自分の娘を養女として預けたある人物から,預かっている子は外には出さない(育ての親のものだ)という意図の歌に対して返歌をしたもののようです。この後どうなったか興味がありますが,万葉集には何も書かれていません。
最後は,橘諸兄(たちばなのもろえ)の弟である佐為王(さゐのおほきみ)の家で住み込みで仕えていた娘が詠んだ長歌です。
飯食めどうまくもあらず 行き行けど安くもあらず あかねさす君が心し 忘れかねつも(16-3857)
<いひはめどうまくもあらず ゆきゆけどやすくもあらず あかねさすきみがこころし わすれかねつも>
<<飯を食べてもおいしいと感じない。忙しく働いていても心は安らかでもない。私の心に火をともす恋人が心から離れないのです>>
娘のこの歌を聞いた佐為王は,哀れと思いしばらくは住み込みを許したと伝えられていると左注に記されています。当時は使用人が主に対して要望を行う場合も和歌を使ったこともあるということでしょうか。
今も昔も他人を動かす表現力や説得力がものをいうのは変わらないという気がします。
さて,次回は今で言うならミカンということになりますが,「橘(たちばな)」を取り上げます。
今もあるシリーズ「橘(たちばな)」に続く。
<3度の食事は朝飯,昼飯,夕飯>
さて,朝飯,昼飯,夜飯と私たちは1日にふつう何度も食事をします。最近,1日1食で良いという人の本が出ているようですが,長年行ってきた3度の食事を減らしたりするのは,健康な人にとってどのような影響があるのか?と私は思います。
現代では,「飯」は「めし」または「はん」と発音します。そして,朝パンや昼ラーメンを食べても「朝ご飯」や「昼ご飯」と呼びます。パン,パスタ,そば,うどん,ピザ,お好み焼き,もんじゃ焼き,たこ焼き,たい焼きを3食の代わりにだべたとしても,やはりご飯と言います。
それだけ,日本人の食事にとってご飯は大きなウェイトを占めてきた証ではないでしょうか。コメのご飯を食べる場合は,あえて「米飯(べいはん)」と呼ぶほどです。
<万葉時代は?>
万葉集では米飯のことを「飯(いひ)」として出ています。
今,飯を「いひ(い)」と発音するのは名前や地名で飯田,飯島,飯塚,飯野,飯見,飯沢,飯沼,飯岡,飯倉,飯詰,飯盛,飯井,飯浦などで使われていますが,それ以外で使われることは少ないのかもしれません。
万葉集で「飯(いひ)」を詠んだ短歌でよく引用されるのが,孝徳(かうとく)天皇(在位645~654)の皇子有間皇子(ありまのみこ)が中大兄皇子(なかのおほえのわうじ。後の天智天皇)に謀反の罪により18歳で処刑される際に辞世の和歌として詠んだとされる次の短歌ではないでしょうか。
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(2-142)
<いへにあればけにもるいひを くさまくらたびにしあれば しひのはにもる>
<<家で暮らしていれば食器に盛るご飯も,旅先ではご飯を盛る器がなく,椎の葉をその代りに使って盛るしかないのだ>>
この短歌は有間皇子が処刑場に護送される旅の途中で詠んだとされているようです。
次は,飯(いひ)をわが娘に譬えた尼の短歌です。ただし,尼が詠んだのは上の句だけで,下の句は大伴家持(おほとものやかもち)が上の句に続けて読んだ蓮歌とされているものです。
佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を刈れる初飯はひとりなるべし(8-1635)
<さほがはのみづをせきあげて うゑしたをかれるはついひは ひとりなるべし>
<<佐保川の水を堰き止めて植えた稲田で(尼作)刈った新米のご飯は母親一人のものです(家持作)>>
これは,自分の娘を養女として預けたある人物から,預かっている子は外には出さない(育ての親のものだ)という意図の歌に対して返歌をしたもののようです。この後どうなったか興味がありますが,万葉集には何も書かれていません。
最後は,橘諸兄(たちばなのもろえ)の弟である佐為王(さゐのおほきみ)の家で住み込みで仕えていた娘が詠んだ長歌です。
飯食めどうまくもあらず 行き行けど安くもあらず あかねさす君が心し 忘れかねつも(16-3857)
<いひはめどうまくもあらず ゆきゆけどやすくもあらず あかねさすきみがこころし わすれかねつも>
<<飯を食べてもおいしいと感じない。忙しく働いていても心は安らかでもない。私の心に火をともす恋人が心から離れないのです>>
娘のこの歌を聞いた佐為王は,哀れと思いしばらくは住み込みを許したと伝えられていると左注に記されています。当時は使用人が主に対して要望を行う場合も和歌を使ったこともあるということでしょうか。
今も昔も他人を動かす表現力や説得力がものをいうのは変わらないという気がします。
さて,次回は今で言うならミカンということになりますが,「橘(たちばな)」を取り上げます。
今もあるシリーズ「橘(たちばな)」に続く。
2012年11月11日日曜日
今もあるシリーズ「床(とこ)」
「床」という漢字は「とこ」「ゆか」と両方の読みがありますが,今ではフローリングの家庭が多いせいか「床暖房」「床板」「床上浸水」「床張り」など「ゆか」と読む人が多いのかもしれません。
しかし,言葉的には「とこ」と読むほうが多いようです。今も使われる名詞系の熟語をあげます。建設用語や農業に関する用語も多く出てきます。
「鉄床」「床上げ」「床入り」「床覆い」「床飾り」「床固め」「床框(がまち)」「床挿し」「床締め」「床擦れ」「床土」「床箸」「床柱」「床払い」「床間」「床万力」「床屋」「床山」「床脇」「苗床」「寝床」「野床」
動詞形の熟語は次のようなものがあります。
「床に就く」「床をあげる」「床をとる」
万葉集では床は次のような使われ方(熟語)で出てきます。
朝床(あさとこ)‥朝まだ起きていないでいる寝床
荒床(あらとこ)‥硬くごつごつした寝床
岩床(いはとこ)‥岩の面が平になっているところ
奥床(おくとこ)‥家の奥にある寝床
玉床(たまとこ)‥寝床の美称
床じもの‥床のように
床辺(とこへ,とこのへ)‥床のあたり
外床(とどこ)‥入口に近い所にある寝床。外側の寝床。
夜床(よとこ,ゆとこ)‥寝床。
小床(をどこ)‥小さな寝床。
では,どのように床が詠われているか,万葉集からいくつか見ていきましょう。
彼方の埴生の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹(11-2683)
<をちかたのはにふのをやに こさめふりとこさへぬれぬ みにそへわぎも>
<<田舎の土でつくった小屋は,少しの雨でも降ると雨漏りが激しく寝床まで濡れてしまう。おれにぴったりと寄り添って寝て寒さを防ごうよ,おまえ>>
この短歌の作者(不詳)は,妻問いをするような中流階級以上ではなく,毎日夫婦で生活する農業を営んでいるような身分だったのだろうと私は想像します。
<当時の貧しい夫婦は?>
木や萱などで屋根を葺いた天漏れのしない家ではなく,土壁で囲い,屋根も土と藁か干し草を混ぜたようなものをのせただけで,ひび割れた個所から天漏れがひどかったのだのでしょう。でも,床で身を寄せ合って耐える仲の良い夫婦の様子が見えてきそうです。
<今は?>
今,こんな天漏れのひどい家に住んでいたら夫婦仲は仲が良くなることは恐らく無いでしょうね。不満が爆発し,喧嘩してどちらかが親元に帰るようなことになるでしょう。
現代では,結婚するまでに豊かさを満喫した経験を持つ人が多く,結婚後それより大幅に悪い暮らしになるる予想されると,たとえ大恋愛をして結婚を前提に考えようとしたとしても,結婚まで踏み切れないのかもしれません。今の世の中,独身者が多くなっているのは,そんなことが原因なのでしょうか。
<幼い頃の貧しさと豊かさ>
万葉時代の庶民は,恐らく親は子供には幼いころから過酷な仕事を手伝わせたり,喧嘩相手の兄弟が多く,今のように親に庇護され育つ家庭にように自宅が安楽の地と感じることはなかったと私は思います。そのため,子供は誰もが結婚して自分の家庭を持ち,自活することのほうが,たとえどんなに苦しく,つらい状況ても自宅で親といるより夫婦にとって幸せと感じられたのではないでしょうか。
若いころ一度豊さを味わってしまうと,それが前提となり,豊かさが少しでも減ると不幸だとどうしても感じてしまうのは人間の性と言わざるをえないのでしょうね。私は,森鴎外の「高瀬舟」に出てくる喜助のようなとことん「足るを知る」人間には到底なれませんが,喜助の話を聞いて心を動かされる庄兵衞の気持ちはよく分かります。
さて,次は東歌(女性作)で,ほのぼのさを感じる短歌です。
港の葦が中なる玉小菅刈り来我が背子床の隔しに(14-3445)
<みなとのあしがなかなる たまこすげかりこわがせこ とこのへだしに>
<<港に生い茂る葦の中から美しい菅草を刈取ってきてください。それを二人の床に敷きましょう>>
万葉時代,一般庶民の家の床は,単なる木の板を並べたものか土を固めて平らにしたものだったのかもしれません。
布団のようなものはなく,そのままでは硬くて,冷たくてとても安らかに寝られるものではなかったと私は思います。
恋人と気持ちよく共寝ができるように美しくて可愛い小菅をいっばて敷き詰めてほしいというお願いをして,相手の男性の来るのを待っている気持ちを表していると私は感じます。
最後に,柿本人麻呂が妻の死を悼み詠んだ挽歌の中に出てくる悲しい短歌を紹介します。
家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕(2-216)
<いへにきてわがやをみれば たまどこのほかにむきけり いもがこまくら>
<<家に戻り共寝した部屋を見ると,妻が寝ていた床の外側(家の入口に近い方)に置いてある妻の木枕があった。その木枕を使う妻は居ないのだ>>
妻は先に床に入り,夫は後から入るため,妻の枕は内側(入口が遠い方)に置き,夫の枕は外側(入口に近い方)に置くのが慣習だったのではないかと私は想像します。最愛の妻がこの世を去った悲しみを,共寝をした床を見るごとに「もう一緒には寝ることはできない」とい寂しさを感じ続ける自分と併せて表現しています。人麻呂のプロフェッショナルな表現力を改めて感じる秀歌です。
さて,朝床を出ると朝ご飯を食べますね。次回は飯(めし)を取り上げます。
今もあるシリーズ「飯(いひ)」に続く。
しかし,言葉的には「とこ」と読むほうが多いようです。今も使われる名詞系の熟語をあげます。建設用語や農業に関する用語も多く出てきます。
「鉄床」「床上げ」「床入り」「床覆い」「床飾り」「床固め」「床框(がまち)」「床挿し」「床締め」「床擦れ」「床土」「床箸」「床柱」「床払い」「床間」「床万力」「床屋」「床山」「床脇」「苗床」「寝床」「野床」
動詞形の熟語は次のようなものがあります。
「床に就く」「床をあげる」「床をとる」
万葉集では床は次のような使われ方(熟語)で出てきます。
朝床(あさとこ)‥朝まだ起きていないでいる寝床
荒床(あらとこ)‥硬くごつごつした寝床
岩床(いはとこ)‥岩の面が平になっているところ
奥床(おくとこ)‥家の奥にある寝床
玉床(たまとこ)‥寝床の美称
床じもの‥床のように
床辺(とこへ,とこのへ)‥床のあたり
外床(とどこ)‥入口に近い所にある寝床。外側の寝床。
夜床(よとこ,ゆとこ)‥寝床。
小床(をどこ)‥小さな寝床。
では,どのように床が詠われているか,万葉集からいくつか見ていきましょう。
彼方の埴生の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹(11-2683)
<をちかたのはにふのをやに こさめふりとこさへぬれぬ みにそへわぎも>
<<田舎の土でつくった小屋は,少しの雨でも降ると雨漏りが激しく寝床まで濡れてしまう。おれにぴったりと寄り添って寝て寒さを防ごうよ,おまえ>>
この短歌の作者(不詳)は,妻問いをするような中流階級以上ではなく,毎日夫婦で生活する農業を営んでいるような身分だったのだろうと私は想像します。
<当時の貧しい夫婦は?>
木や萱などで屋根を葺いた天漏れのしない家ではなく,土壁で囲い,屋根も土と藁か干し草を混ぜたようなものをのせただけで,ひび割れた個所から天漏れがひどかったのだのでしょう。でも,床で身を寄せ合って耐える仲の良い夫婦の様子が見えてきそうです。
<今は?>
今,こんな天漏れのひどい家に住んでいたら夫婦仲は仲が良くなることは恐らく無いでしょうね。不満が爆発し,喧嘩してどちらかが親元に帰るようなことになるでしょう。
現代では,結婚するまでに豊かさを満喫した経験を持つ人が多く,結婚後それより大幅に悪い暮らしになるる予想されると,たとえ大恋愛をして結婚を前提に考えようとしたとしても,結婚まで踏み切れないのかもしれません。今の世の中,独身者が多くなっているのは,そんなことが原因なのでしょうか。
<幼い頃の貧しさと豊かさ>
万葉時代の庶民は,恐らく親は子供には幼いころから過酷な仕事を手伝わせたり,喧嘩相手の兄弟が多く,今のように親に庇護され育つ家庭にように自宅が安楽の地と感じることはなかったと私は思います。そのため,子供は誰もが結婚して自分の家庭を持ち,自活することのほうが,たとえどんなに苦しく,つらい状況ても自宅で親といるより夫婦にとって幸せと感じられたのではないでしょうか。
若いころ一度豊さを味わってしまうと,それが前提となり,豊かさが少しでも減ると不幸だとどうしても感じてしまうのは人間の性と言わざるをえないのでしょうね。私は,森鴎外の「高瀬舟」に出てくる喜助のようなとことん「足るを知る」人間には到底なれませんが,喜助の話を聞いて心を動かされる庄兵衞の気持ちはよく分かります。
さて,次は東歌(女性作)で,ほのぼのさを感じる短歌です。
港の葦が中なる玉小菅刈り来我が背子床の隔しに(14-3445)
<みなとのあしがなかなる たまこすげかりこわがせこ とこのへだしに>
<<港に生い茂る葦の中から美しい菅草を刈取ってきてください。それを二人の床に敷きましょう>>
万葉時代,一般庶民の家の床は,単なる木の板を並べたものか土を固めて平らにしたものだったのかもしれません。
布団のようなものはなく,そのままでは硬くて,冷たくてとても安らかに寝られるものではなかったと私は思います。
恋人と気持ちよく共寝ができるように美しくて可愛い小菅をいっばて敷き詰めてほしいというお願いをして,相手の男性の来るのを待っている気持ちを表していると私は感じます。
最後に,柿本人麻呂が妻の死を悼み詠んだ挽歌の中に出てくる悲しい短歌を紹介します。
家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕(2-216)
<いへにきてわがやをみれば たまどこのほかにむきけり いもがこまくら>
<<家に戻り共寝した部屋を見ると,妻が寝ていた床の外側(家の入口に近い方)に置いてある妻の木枕があった。その木枕を使う妻は居ないのだ>>
妻は先に床に入り,夫は後から入るため,妻の枕は内側(入口が遠い方)に置き,夫の枕は外側(入口に近い方)に置くのが慣習だったのではないかと私は想像します。最愛の妻がこの世を去った悲しみを,共寝をした床を見るごとに「もう一緒には寝ることはできない」とい寂しさを感じ続ける自分と併せて表現しています。人麻呂のプロフェッショナルな表現力を改めて感じる秀歌です。
さて,朝床を出ると朝ご飯を食べますね。次回は飯(めし)を取り上げます。
今もあるシリーズ「飯(いひ)」に続く。
2012年11月4日日曜日
今もあるシリーズ「枕(まくら)」
<枕は意外と接する時間が長い>
皆さんが毎日多くの時間皮膚を接しているものに衣類がありますが,「枕」も負けていません。衣類はとっかえひっかえして着回ししますから,一つのものをずっと着ている人は,今の日本では比較的少ないのかもしれません。
しかし,枕を毎日取り換えたり,何曜日用の枕を用意てしている人は,ずっと同じ衣類を着ている人より少ないのではないでしょうか。それくらい枕は使い込むものだと私は思います。
最近出張で宿泊したビジネスホテルでは,硬い枕と柔らかい枕の両方を置いていました。また,観光でよく泊まる奈良駅前のホテルでは,ロビー階のエレベータホール前に20種類ほどの枕を用意して,宿泊客が選べるようにしています。枕にこだわる人が多くなっている証拠かもしれませんね。
<万葉集では枕が意外と出てくる>
さて,万葉集では枕を詠んだ和歌が何と60首近くも出てきます。枕単独で出てくることも圧倒的に多いですが,次のような熟語も出てきます(枕詞の用法は除きます)。
石枕(いしまくら)‥石の枕。旅先で野宿するときの枕
草枕(くさまくら)‥草を枕にするから転じて野宿,旅寝を指す
木枕(こまくら)‥木製の枕
菅枕(すがまくら)‥菅を束ねて作った枕
手枕(たまくら)‥腕で枕をすること
黄楊枕(つげまくら)‥柘植の木で作った枕
新手枕(にひたまくら)‥初夜,男女の初めての契り
枕く(まく)‥枕にする。抱いて寝る
枕片去る(まくらかたさる)‥枕を床の片方に寄せて寝る
このように,万葉集で枕は男女の共寝のイメージ,旅先でちゃんとした枕で寝られないこと(旅のつらさのイメージ)を表現するとき使われていることが想像できます。
実際の和歌を見てみましょう。
ここだくも思ひけめかも敷栲の枕片さる夢に見え来し(4-633)
<ここだくもおもひけめかも しきたへのまくらかたさる いめにみえこし>
<<こんなにたくさんいつもあなた様のことを思っております。枕を寄せておなた様が床に入ってくださるのをお待ちしているとあなた様が入ってくる夢を見ましたの>>
この短歌は,志貴皇子(しきのみこ)の子である湯原王(ゆはらのおほきみ)と娘子(をとめ)との相聞(さうもん)歌のやりとりの娘子から湯原王に贈った1首です。湯原王には正妻がいたようですが,娘子に対する恋の炎に火が付いたようです。
当時は正妻以外の女性と恋愛関係となったり,側室を持つこと法的にも社会風習的にも許されていたようです。しかし,女性側からすれば自分が最も愛されていることの確証がほしいと思うのは当然のことではないでしょうか。
さて,正妻と娘子の二股をかけている湯原王はその後のやり取りの中で次の短歌を娘子に贈っています。
我が衣形見に奉る敷栲の枕を放けずまきてさ寝ませ(4-636)
<あがころもかたみにまつる しきたへのまくらをさけず まきてさねませ>
<<私の衣を私の代わりとして差し上げます。私が来ないからといって枕を離すことなどせず、この衣を身を包んでおやすみください>>
「湯原王ちゅうのは,なんちゅう悪いやっちゃ!」と天の川君の声が聞こえてきそうですが,多少湯原王の弁護するとこのやり取り中は公務で旅の途中だったようです。ただ,湯原王と娘子との(今の感覚ではいわゆる不倫の)相聞(4-631~641)のやりとりは,私には恋の炎がメラメラ燃え立っている迫力を感じさせてくれます。
天の川 「たびとはんの奥さ~ん。たびとはんはやっぱり悪い願望持ってるさかい,気つけんとあかんで~。」
し~っ。大きな声を出すとまだ寝てる妻が起きるじゃないか。急に寒くなったのでおとなしくしているかと思ったらまた邪魔しにきたな。天の川の奴を収納に押し込んでおきましたので,先に進めましょう。
次は旅先の和歌で枕を詠んだものを紹介しましょう。
大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ(1-66)
<おほとものたかしのはまの まつがねをまくらきぬれど いへししのはゆ>
<<高師の浜の松の根を枕にして寝ていても家のことが偲ばれるなあ>>
この短歌は持統天皇が文武天皇に譲位した後(持統上皇),難波に行幸(みゆき)したときに,同行したと思われる置始東人(おきそめのあづまびと)という人物が詠んだとされています。まさか付き人は野宿をさせられということはなかったと思いますが,結構長期間の行幸でホームシックになった気持ちを「(妻の手枕ではなく)松の根を枕にする」という表現を使ったのだと私は思います。
奈良時代に入って大伴家持も同じような短歌をもっとストレートに詠んでいます。
大君の行幸のまにま我妹子が手枕まかず月ぞ経にける(6-1032)
<おほきみのみゆきのまにま わぎもこがたまくらまかず つきぞへにける>
<<行幸に従い奉るうちに恋人と手枕(共寝)にすることなくひと月が過ぎてしまったなあ>>
この短歌を詠った頃の家持は20歳代半ばだと思われます。このような気持ちになるのは当然でしょうね。
ずっと彼を待っている女性は,次の詠み人知らずの短歌の作者のような気持ちだったのかもしれませんね。
結へる紐解かむ日遠み敷栲の我が木枕は苔生しにけり(11-2630)
<ゆへるひもとかむひとほみ しきたへのわがこまくらは こけむしにけり>
<<結んだ紐を解かないまま日が過ぎるから私の木でできた枕には苔が生えているのよ>>
いずれにしても,秋の夜長,一人寝は寂しいものと感じる人は昔から多かったのかもしれません。
次回は「床」をテーマとします。次回も似たような和歌が出てきそうですが,天の川君には邪魔されないよう気をつけよう。
今もあるシリーズ「床(とこ)」に続く。
皆さんが毎日多くの時間皮膚を接しているものに衣類がありますが,「枕」も負けていません。衣類はとっかえひっかえして着回ししますから,一つのものをずっと着ている人は,今の日本では比較的少ないのかもしれません。
しかし,枕を毎日取り換えたり,何曜日用の枕を用意てしている人は,ずっと同じ衣類を着ている人より少ないのではないでしょうか。それくらい枕は使い込むものだと私は思います。
最近出張で宿泊したビジネスホテルでは,硬い枕と柔らかい枕の両方を置いていました。また,観光でよく泊まる奈良駅前のホテルでは,ロビー階のエレベータホール前に20種類ほどの枕を用意して,宿泊客が選べるようにしています。枕にこだわる人が多くなっている証拠かもしれませんね。
<万葉集では枕が意外と出てくる>
さて,万葉集では枕を詠んだ和歌が何と60首近くも出てきます。枕単独で出てくることも圧倒的に多いですが,次のような熟語も出てきます(枕詞の用法は除きます)。
石枕(いしまくら)‥石の枕。旅先で野宿するときの枕
草枕(くさまくら)‥草を枕にするから転じて野宿,旅寝を指す
木枕(こまくら)‥木製の枕
菅枕(すがまくら)‥菅を束ねて作った枕
手枕(たまくら)‥腕で枕をすること
黄楊枕(つげまくら)‥柘植の木で作った枕
新手枕(にひたまくら)‥初夜,男女の初めての契り
枕く(まく)‥枕にする。抱いて寝る
枕片去る(まくらかたさる)‥枕を床の片方に寄せて寝る
このように,万葉集で枕は男女の共寝のイメージ,旅先でちゃんとした枕で寝られないこと(旅のつらさのイメージ)を表現するとき使われていることが想像できます。
実際の和歌を見てみましょう。
ここだくも思ひけめかも敷栲の枕片さる夢に見え来し(4-633)
<ここだくもおもひけめかも しきたへのまくらかたさる いめにみえこし>
<<こんなにたくさんいつもあなた様のことを思っております。枕を寄せておなた様が床に入ってくださるのをお待ちしているとあなた様が入ってくる夢を見ましたの>>
この短歌は,志貴皇子(しきのみこ)の子である湯原王(ゆはらのおほきみ)と娘子(をとめ)との相聞(さうもん)歌のやりとりの娘子から湯原王に贈った1首です。湯原王には正妻がいたようですが,娘子に対する恋の炎に火が付いたようです。
当時は正妻以外の女性と恋愛関係となったり,側室を持つこと法的にも社会風習的にも許されていたようです。しかし,女性側からすれば自分が最も愛されていることの確証がほしいと思うのは当然のことではないでしょうか。
さて,正妻と娘子の二股をかけている湯原王はその後のやり取りの中で次の短歌を娘子に贈っています。
我が衣形見に奉る敷栲の枕を放けずまきてさ寝ませ(4-636)
<あがころもかたみにまつる しきたへのまくらをさけず まきてさねませ>
<<私の衣を私の代わりとして差し上げます。私が来ないからといって枕を離すことなどせず、この衣を身を包んでおやすみください>>
「湯原王ちゅうのは,なんちゅう悪いやっちゃ!」と天の川君の声が聞こえてきそうですが,多少湯原王の弁護するとこのやり取り中は公務で旅の途中だったようです。ただ,湯原王と娘子との(今の感覚ではいわゆる不倫の)相聞(4-631~641)のやりとりは,私には恋の炎がメラメラ燃え立っている迫力を感じさせてくれます。
天の川 「たびとはんの奥さ~ん。たびとはんはやっぱり悪い願望持ってるさかい,気つけんとあかんで~。」
し~っ。大きな声を出すとまだ寝てる妻が起きるじゃないか。急に寒くなったのでおとなしくしているかと思ったらまた邪魔しにきたな。天の川の奴を収納に押し込んでおきましたので,先に進めましょう。
次は旅先の和歌で枕を詠んだものを紹介しましょう。
大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ(1-66)
<おほとものたかしのはまの まつがねをまくらきぬれど いへししのはゆ>
<<高師の浜の松の根を枕にして寝ていても家のことが偲ばれるなあ>>
この短歌は持統天皇が文武天皇に譲位した後(持統上皇),難波に行幸(みゆき)したときに,同行したと思われる置始東人(おきそめのあづまびと)という人物が詠んだとされています。まさか付き人は野宿をさせられということはなかったと思いますが,結構長期間の行幸でホームシックになった気持ちを「(妻の手枕ではなく)松の根を枕にする」という表現を使ったのだと私は思います。
奈良時代に入って大伴家持も同じような短歌をもっとストレートに詠んでいます。
大君の行幸のまにま我妹子が手枕まかず月ぞ経にける(6-1032)
<おほきみのみゆきのまにま わぎもこがたまくらまかず つきぞへにける>
<<行幸に従い奉るうちに恋人と手枕(共寝)にすることなくひと月が過ぎてしまったなあ>>
この短歌を詠った頃の家持は20歳代半ばだと思われます。このような気持ちになるのは当然でしょうね。
ずっと彼を待っている女性は,次の詠み人知らずの短歌の作者のような気持ちだったのかもしれませんね。
結へる紐解かむ日遠み敷栲の我が木枕は苔生しにけり(11-2630)
<ゆへるひもとかむひとほみ しきたへのわがこまくらは こけむしにけり>
<<結んだ紐を解かないまま日が過ぎるから私の木でできた枕には苔が生えているのよ>>
いずれにしても,秋の夜長,一人寝は寂しいものと感じる人は昔から多かったのかもしれません。
次回は「床」をテーマとします。次回も似たような和歌が出てきそうですが,天の川君には邪魔されないよう気をつけよう。
今もあるシリーズ「床(とこ)」に続く。
2012年11月1日木曜日
今もあるシリーズ「衣(ころも)」
現代で「衣(ころも)」というと,季節の変わり目で着る服を冬服や夏服に変える「衣替え」や,てんぷらの外側に付ける小麦粉を水で溶き,卵を入れた「衣」くらいしか使わなくなっているのかもしれません。
「衣」という言葉が今はあまり使われなくなった理由として衣(衣服,着物)の種類が増えたことがあるのではないでしょうか。
たとえば,洋服,和服,スーツ,ワンピース,背広,普段着(カジュアル),礼服(フォーマル),パーティードレス,燕尾服,タキシード,作業(仕事)着,寝間着,浴衣,水着などです。
ところで,万葉集の中で「衣」を詠んだ最も有名な短歌は,百人一首にも類似の歌がでている次の持統天皇作といわれる歌でしょう。
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(1-28)
<はるすぎてなつきたるらし しろたへのころもほしたり あめのかぐやま>
<<夏が過ぎて夏が来たらしい。真っ白い衣が干されているぞよ,天の香具山に>>
万葉集に出てくる衣(ころも,きぬ)の入っている熟語には,次のようなものがあります(枕詞で使われている場合を除く)。
赤衣(あかぎぬ)‥赤い色の着物
秋さり衣(あきさりころも)‥秋になって着る着物
麻衣(あさころも)‥麻の布でできた衣服
薄染衣(うすぞめころも)‥淡い色に染めた衣服
肩衣(かたぎぬ)‥袖のない肩から布を掛けたような服。古代の庶民服。
形見の衣(かたみのころも)‥死んだ人の形見の衣服
皮衣(かはころも)‥動物の皮で作った防寒用の衣
唐衣,韓衣(からころも)‥中国風または朝鮮風の衣服。
雲の衣(くものころも)‥織姫が着ている衣を指す
衣手(ころもで)‥袖のこと
下衣(したころも)‥下着のこと
塩焼衣(しほやききぬ,しほやきころも)‥塩を焼く人(製塩作業者)が着る粗末な作業着
袖付け衣(そでつけころも)‥肩衣と対比した袖のある当時としては高価な服
旅衣(たびごろも),旅行き衣(たびゆきころも)‥旅に出るときに着る衣服
玉衣(たまきぬ)‥宝石で飾った服
露分け衣(つゆわけころも)‥草露が多い場所を歩くとき着る服装
布肩衣(ぬのかたぎぬ)‥布のまま,縫製していないような粗末な衣服
藤衣(ふぢころも)‥藤つるの繊維から作った,隙間だらけのごく粗末な衣服
古衣(ふるころも)‥着古した衣服
御衣(みけし)‥天皇が着る衣服
木綿肩衣(ゆふかたぎぬ)‥木綿の布で作った肩衣
これを見ても分かるように,万葉時代は日本古来の服装が布を首が通る部分を残して縫い合わせ,頭を通して,肩から前後に垂れ下げただけの衣服(肩衣)だったのが,唐衣のような袖を付けた服装(袖付け衣)が作られ,中流階級以上で着られるようになった時代だったことが分かります。
そんな当時のファッションが万葉人にとってどんな感覚であったか想像できる短歌をいくつか紹介します。
須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず(3-413)
<すまのあまのしほやききぬの ふぢころもまどほにしあれば いまだきなれず>
<<須磨の海女が塩焼きに着る藤衣のような私は,織目が粗いので(粗野なので)なかなか着慣れない(とっつきにくい)でしょう>>
この短歌は,大網公人(おほあみのきみひと)という人物が宴席で詠った歌と題詞にかかれています。宴会で自分を謙遜して挨拶代わりに詠ったのではないか私は思います。
海女の着る塩焼き衣の中でも藤衣はとても織り目が粗く,肌が透けて見えるほどということが当時広く知られていたのでしょう。「そんな粗野な私だけれど末永くお付き合いをお願いしたい」という意味の短歌だと私は解釈します。
次は,裏地のある豪華な衣を題材にした詠み人知らずの短歌です。
赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも(12-2972)
<あかきぬのひたうらのきぬ ながくほりあがおもふきみが みえぬころかも>
<<赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣を私が長い間いつも欲しいと願っているのと同じほど思い慕うあなた様,この頃はお見えになりませんね>>
いつの時代も女性にとってオシャレな服,豪華な服,他の人が羨ましいと思うような服を着てみたいという欲求はあまり変わらないのではないでしょうか。そんな気持ちと恋人を思う気持ちを重ね合わせたこの短歌から,万葉時代の女性が服装に対する考え方の一端が見えるかもしれませんね。
最後に,今出た赤以外の衣の色(紫色,青色,桃色)が出てくる短歌を紹介して今回の投稿を締めくくります。とにかく,当時からさまざまな色に染められた衣があったようですね。
韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも(4-569)
<からひとのころもそむといふ むらさきのこころにしみて おもほゆるかも>
<<韓人の衣を染める紫のように心に染みて思いが募ります>>
月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ(7-1339)
<つきくさにころもいろどり すらめどもうつろふいろと いふがくるしさ>
<<月草で衣を青色に染めようと思うけれど、その色はあせやすいっていう評判があるのがつらい>>
桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも(12-2970)
<ももそめのあさらのころもあさらかに おもひていもにあはむものかも>
<<桃の色に染めた薄い色の着物のように薄っぺらな気持ちであなたに会ったりはしないのですよ>>
今もあるシリーズ「枕(まくら)」に続く。
「衣」という言葉が今はあまり使われなくなった理由として衣(衣服,着物)の種類が増えたことがあるのではないでしょうか。
たとえば,洋服,和服,スーツ,ワンピース,背広,普段着(カジュアル),礼服(フォーマル),パーティードレス,燕尾服,タキシード,作業(仕事)着,寝間着,浴衣,水着などです。
ところで,万葉集の中で「衣」を詠んだ最も有名な短歌は,百人一首にも類似の歌がでている次の持統天皇作といわれる歌でしょう。
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(1-28)
<はるすぎてなつきたるらし しろたへのころもほしたり あめのかぐやま>
<<夏が過ぎて夏が来たらしい。真っ白い衣が干されているぞよ,天の香具山に>>
万葉集に出てくる衣(ころも,きぬ)の入っている熟語には,次のようなものがあります(枕詞で使われている場合を除く)。
赤衣(あかぎぬ)‥赤い色の着物
秋さり衣(あきさりころも)‥秋になって着る着物
麻衣(あさころも)‥麻の布でできた衣服
薄染衣(うすぞめころも)‥淡い色に染めた衣服
肩衣(かたぎぬ)‥袖のない肩から布を掛けたような服。古代の庶民服。
形見の衣(かたみのころも)‥死んだ人の形見の衣服
皮衣(かはころも)‥動物の皮で作った防寒用の衣
唐衣,韓衣(からころも)‥中国風または朝鮮風の衣服。
雲の衣(くものころも)‥織姫が着ている衣を指す
衣手(ころもで)‥袖のこと
下衣(したころも)‥下着のこと
塩焼衣(しほやききぬ,しほやきころも)‥塩を焼く人(製塩作業者)が着る粗末な作業着
袖付け衣(そでつけころも)‥肩衣と対比した袖のある当時としては高価な服
旅衣(たびごろも),旅行き衣(たびゆきころも)‥旅に出るときに着る衣服
玉衣(たまきぬ)‥宝石で飾った服
露分け衣(つゆわけころも)‥草露が多い場所を歩くとき着る服装
布肩衣(ぬのかたぎぬ)‥布のまま,縫製していないような粗末な衣服
藤衣(ふぢころも)‥藤つるの繊維から作った,隙間だらけのごく粗末な衣服
古衣(ふるころも)‥着古した衣服
御衣(みけし)‥天皇が着る衣服
木綿肩衣(ゆふかたぎぬ)‥木綿の布で作った肩衣
これを見ても分かるように,万葉時代は日本古来の服装が布を首が通る部分を残して縫い合わせ,頭を通して,肩から前後に垂れ下げただけの衣服(肩衣)だったのが,唐衣のような袖を付けた服装(袖付け衣)が作られ,中流階級以上で着られるようになった時代だったことが分かります。
そんな当時のファッションが万葉人にとってどんな感覚であったか想像できる短歌をいくつか紹介します。
須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず(3-413)
<すまのあまのしほやききぬの ふぢころもまどほにしあれば いまだきなれず>
<<須磨の海女が塩焼きに着る藤衣のような私は,織目が粗いので(粗野なので)なかなか着慣れない(とっつきにくい)でしょう>>
この短歌は,大網公人(おほあみのきみひと)という人物が宴席で詠った歌と題詞にかかれています。宴会で自分を謙遜して挨拶代わりに詠ったのではないか私は思います。
海女の着る塩焼き衣の中でも藤衣はとても織り目が粗く,肌が透けて見えるほどということが当時広く知られていたのでしょう。「そんな粗野な私だけれど末永くお付き合いをお願いしたい」という意味の短歌だと私は解釈します。
次は,裏地のある豪華な衣を題材にした詠み人知らずの短歌です。
赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも(12-2972)
<あかきぬのひたうらのきぬ ながくほりあがおもふきみが みえぬころかも>
<<赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣を私が長い間いつも欲しいと願っているのと同じほど思い慕うあなた様,この頃はお見えになりませんね>>
いつの時代も女性にとってオシャレな服,豪華な服,他の人が羨ましいと思うような服を着てみたいという欲求はあまり変わらないのではないでしょうか。そんな気持ちと恋人を思う気持ちを重ね合わせたこの短歌から,万葉時代の女性が服装に対する考え方の一端が見えるかもしれませんね。
最後に,今出た赤以外の衣の色(紫色,青色,桃色)が出てくる短歌を紹介して今回の投稿を締めくくります。とにかく,当時からさまざまな色に染められた衣があったようですね。
韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも(4-569)
<からひとのころもそむといふ むらさきのこころにしみて おもほゆるかも>
<<韓人の衣を染める紫のように心に染みて思いが募ります>>
月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ(7-1339)
<つきくさにころもいろどり すらめどもうつろふいろと いふがくるしさ>
<<月草で衣を青色に染めようと思うけれど、その色はあせやすいっていう評判があるのがつらい>>
桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも(12-2970)
<ももそめのあさらのころもあさらかに おもひていもにあはむものかも>
<<桃の色に染めた薄い色の着物のように薄っぺらな気持ちであなたに会ったりはしないのですよ>>
今もあるシリーズ「枕(まくら)」に続く。
2012年10月28日日曜日
今もあるシリーズ「布(ぬの)」
今ではさまざまな化学繊維をはじめ,「布」の種類は非常に多いのではないでしょうか。さらに,同じ材料の糸から作られる布も,糸の太さ,織り方,染め方で種類は何百,何千通りになるものもあると考えられます。最近では,デニムパンツのように一回新品で作ったものを色褪せをさせたり,穴を開けたり,ほつれさせたりして使い込んだように見せるなんてこともやります。
それに対して,万葉時代は布の種類も今に比べるとはるかに少なかったのだろうと容易に想像できます。当時の材料は,麻,木綿,絹などのほか,草や木の皮の繊維で布を編んでいたようです。
ただ,万葉集を調べると,織り方は手で網目を作るように編んだ布,狭く織った狭織の布,経糸と緯糸を斜めに交差させた綾織の布,色々な色の糸を織り込んで煌びやかな模様仕立てた錦織の布などが結構さまざまな工夫を施したものが見られます。織布の技術は万葉時代,すでにかなり高度なものになっていたのではないでしょうか。
ところで,今日本の代表的現役テニスプレーヤーに錦織圭(にしこり けい)選手がいます。大化の改新前から「錦織部(にしごりべ)」という錦の布を折ることを得意とした民が居たようです。したがって,錦織選手の名前は非常に歴史が古い名前だといえるのかもしれませんね。
さて,万葉集で布を詠った短歌をいくつか紹介しましょう。
荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべをなみ(5-901)
<あらたへのぬのきぬをだに きせかてにかくやなげかむ せむすべをなみ>
<<粗末な布の着物でさえも着させることが出来ない。ただこのように嘆いてばかりいて,なすすべがない>>
この短歌は山上憶良(やまのうへのおくら)が天平5(733)年6月3日,自身が老いた身に重い病気を患い,長年苦しんでいる中,貧しい子供たちを思い詠んだ7首(長歌1首,短歌6首)の中に出てくるものです。貧しい子供たちを何とかしたいが,老齢と重い病に苦しむ自分にとって何ともしがた悔しいい気持ちが私には伝わってきます。これを読んだ後継の人たちが,衣食住について劣悪な布でできた衣さえ着させてもらえない貧しい子供たちを何とか救ってほしいという願いが込められていると私は強く感じます。貧しい国には多くのストリートチルドレンがいると聞きます。現代でも憶良の和歌に心動かされるものがあります。
次は七夕の織姫を喩えに出した詠み人知らずの短歌です。
織女の五百機立てて織る布の秋さり衣誰れか取り見む(10-2034)
<たなばたのいほはたたてて おるぬののあきさりごろも たれかとりみむ>
<<織姫がたくさんの織機を使って織る布が秋の衣になったら誰が手に取ってみることでしょうか>>
この短歌は,おそらく牽牛ひとりにそんなに多くの布を織って作った衣を手に取るのは無理だろうということ詠んだのだと思います。
ただ,織姫一人がたくさんの織機を使うのではなく,大勢の機織(はたおり)娘がいっせいにたくさんの織機を使って機織りをしている姿は,まさに工場で布を大量生産している様子に似ていますね。そうすると,もしや万葉時代にすでに多くの機織娘が働く大規模な機織工場があったのかもと想像したくなります。
次は,そんなことを裏付けるような?東歌です。
筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛しき子ろが布乾さるかも(14-3351)
<つくはねにゆきかもふらる いなをかもかなしきころが にのほさるかも>
<<筑波山に雪が降ったのかな? いや,可愛い娘たちが白い布を乾しているからかもね>>
この短歌は,雪が降ったのと見間違うほど大量の布を乾した様子が伺えます。染色のため乾したのか,漂泊のため乾したのかわかりませんが,きっと大量の布を生産する場所が筑波山のふもとにもあったのではないかと私は推測します。
さて,布まで来たら次回は布でつくる衣(ころも)の話題を移ることにします。
今もあるシリーズ「衣(ころも)」に続く。
それに対して,万葉時代は布の種類も今に比べるとはるかに少なかったのだろうと容易に想像できます。当時の材料は,麻,木綿,絹などのほか,草や木の皮の繊維で布を編んでいたようです。
ただ,万葉集を調べると,織り方は手で網目を作るように編んだ布,狭く織った狭織の布,経糸と緯糸を斜めに交差させた綾織の布,色々な色の糸を織り込んで煌びやかな模様仕立てた錦織の布などが結構さまざまな工夫を施したものが見られます。織布の技術は万葉時代,すでにかなり高度なものになっていたのではないでしょうか。
ところで,今日本の代表的現役テニスプレーヤーに錦織圭(にしこり けい)選手がいます。大化の改新前から「錦織部(にしごりべ)」という錦の布を折ることを得意とした民が居たようです。したがって,錦織選手の名前は非常に歴史が古い名前だといえるのかもしれませんね。
さて,万葉集で布を詠った短歌をいくつか紹介しましょう。
荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべをなみ(5-901)
<あらたへのぬのきぬをだに きせかてにかくやなげかむ せむすべをなみ>
<<粗末な布の着物でさえも着させることが出来ない。ただこのように嘆いてばかりいて,なすすべがない>>
この短歌は山上憶良(やまのうへのおくら)が天平5(733)年6月3日,自身が老いた身に重い病気を患い,長年苦しんでいる中,貧しい子供たちを思い詠んだ7首(長歌1首,短歌6首)の中に出てくるものです。貧しい子供たちを何とかしたいが,老齢と重い病に苦しむ自分にとって何ともしがた悔しいい気持ちが私には伝わってきます。これを読んだ後継の人たちが,衣食住について劣悪な布でできた衣さえ着させてもらえない貧しい子供たちを何とか救ってほしいという願いが込められていると私は強く感じます。貧しい国には多くのストリートチルドレンがいると聞きます。現代でも憶良の和歌に心動かされるものがあります。
次は七夕の織姫を喩えに出した詠み人知らずの短歌です。
織女の五百機立てて織る布の秋さり衣誰れか取り見む(10-2034)
<たなばたのいほはたたてて おるぬののあきさりごろも たれかとりみむ>
<<織姫がたくさんの織機を使って織る布が秋の衣になったら誰が手に取ってみることでしょうか>>
この短歌は,おそらく牽牛ひとりにそんなに多くの布を織って作った衣を手に取るのは無理だろうということ詠んだのだと思います。
ただ,織姫一人がたくさんの織機を使うのではなく,大勢の機織(はたおり)娘がいっせいにたくさんの織機を使って機織りをしている姿は,まさに工場で布を大量生産している様子に似ていますね。そうすると,もしや万葉時代にすでに多くの機織娘が働く大規模な機織工場があったのかもと想像したくなります。
次は,そんなことを裏付けるような?東歌です。
筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛しき子ろが布乾さるかも(14-3351)
<つくはねにゆきかもふらる いなをかもかなしきころが にのほさるかも>
<<筑波山に雪が降ったのかな? いや,可愛い娘たちが白い布を乾しているからかもね>>
この短歌は,雪が降ったのと見間違うほど大量の布を乾した様子が伺えます。染色のため乾したのか,漂泊のため乾したのかわかりませんが,きっと大量の布を生産する場所が筑波山のふもとにもあったのではないかと私は推測します。
さて,布まで来たら次回は布でつくる衣(ころも)の話題を移ることにします。
今もあるシリーズ「衣(ころも)」に続く。
2012年10月11日木曜日
今もあるシリーズ「糸(いと)」
万葉時代,針があったことが万葉集からわかります。針があれば当然縫うための糸が必要となります。万葉集には9首の短歌で糸が出てきます。それらを見ると糸がどのように作られ,どんな色の糸があったかを知ることができます。
我が持てる三相に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき(4-516)
<わがもてる みつあひによれるいともちて つけてましものいまぞくやしき>
<<私が持っている三重によりをかけた糸で縫いつけておけば良かったのを今となってはそうしなかったのが悔しい>>
この短歌は阿部女郎(あべのいらつめ)が中臣東人(なかとみのあづまびと)に贈った短歌です。
当時は切れにくい三つよりの強い糸があったことを示します。
河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや(7-1316)
<かふちめのてそめのいとを くりかへしかたいとにあれど たえむとおもへや>
<<河内女が手染めの糸を繰り返し片撚りの糸を縒り合わせる作業は,片縒りの糸が無くならないように絶えることがないと思う>>
<万葉時代の糸の製造工場>
この詠み人知らずの短歌から,今の大阪の河内地方では糸を縒り合わせる女性たちが多く住んでいたことが想像できます。もしかしたら,河内には大きな建物にその女性たちが集まって糸を縒る工場のような場所があったのかもしれませんね。そして,河内女が縒った糸というブランドがあり,奈良の都では高級品として売られていたかもしれません。
糸の製造技術により,片糸(1本の糸)を縒り合わせて,強い糸や,またいろいろな色に染めた糸を混ぜて縒り合わせることで,遠くから見たとき単色の糸では出せない色の糸が各種作られていたのではないかと私は考えます。
さて,糸の材料ですが,木綿,麻,動物の毛,人間の髪の毛などが使われていたのではないかと私は想像します。しかし,何と言っても糸の材料としてもっともきれいで光沢のあるのは絹ではないでしょうか。万葉集に絹の糸を詠んだ歌はありませんが,絹の布や蚕を詠んだ和歌が出てきます。
<鬼怒沼ハイキング>
ところで,絹(きぬ)といえば,今週の月曜日(体育の日)に栃木県にある鬼怒川の源流と言われる鬼怒沼(きぬぬま)の湿原を散策しました。
鬼怒沼は湿原で有名な尾瀬ケ原より標高が600mも高い標高2,000mを超える場所にあり,まさに天空の湿原と言われています。社会人になった頃から一度行ってみたいと考えていた場所ですが,うん十年たってようやく実現しました。
ただし,鬼怒沼までの登山道は8月に富士山八合目まで登ったときと同じくらいつらい登り下りでしたが,幸運にも,秋晴れに恵まれ,高い山の上なのに微風で,沼の周囲では紅葉がはじまり,湿原の草は一面暖かそうな枯草模様が見られ,本当に快適な湿原の散策ができました。
その写真を紹介します。
まず,秋の雲が沼の上に映った写真です。
次は,まさに天空の湿原を思わせる風景です。
最後は沼に映った鬼怒沼山です。
そのほかにも写真をたくさん撮ってきましたが,また機会があれば紹介することにします。
さて,糸と言えば,糸で縫製する対象の布があります。次回は「布」を取り上げます。
今もあるシリーズ「布(ぬの)」に続く。
我が持てる三相に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき(4-516)
<わがもてる みつあひによれるいともちて つけてましものいまぞくやしき>
<<私が持っている三重によりをかけた糸で縫いつけておけば良かったのを今となってはそうしなかったのが悔しい>>
この短歌は阿部女郎(あべのいらつめ)が中臣東人(なかとみのあづまびと)に贈った短歌です。
当時は切れにくい三つよりの強い糸があったことを示します。
河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや(7-1316)
<かふちめのてそめのいとを くりかへしかたいとにあれど たえむとおもへや>
<<河内女が手染めの糸を繰り返し片撚りの糸を縒り合わせる作業は,片縒りの糸が無くならないように絶えることがないと思う>>
<万葉時代の糸の製造工場>
この詠み人知らずの短歌から,今の大阪の河内地方では糸を縒り合わせる女性たちが多く住んでいたことが想像できます。もしかしたら,河内には大きな建物にその女性たちが集まって糸を縒る工場のような場所があったのかもしれませんね。そして,河内女が縒った糸というブランドがあり,奈良の都では高級品として売られていたかもしれません。
糸の製造技術により,片糸(1本の糸)を縒り合わせて,強い糸や,またいろいろな色に染めた糸を混ぜて縒り合わせることで,遠くから見たとき単色の糸では出せない色の糸が各種作られていたのではないかと私は考えます。
さて,糸の材料ですが,木綿,麻,動物の毛,人間の髪の毛などが使われていたのではないかと私は想像します。しかし,何と言っても糸の材料としてもっともきれいで光沢のあるのは絹ではないでしょうか。万葉集に絹の糸を詠んだ歌はありませんが,絹の布や蚕を詠んだ和歌が出てきます。
<鬼怒沼ハイキング>
ところで,絹(きぬ)といえば,今週の月曜日(体育の日)に栃木県にある鬼怒川の源流と言われる鬼怒沼(きぬぬま)の湿原を散策しました。
鬼怒沼は湿原で有名な尾瀬ケ原より標高が600mも高い標高2,000mを超える場所にあり,まさに天空の湿原と言われています。社会人になった頃から一度行ってみたいと考えていた場所ですが,うん十年たってようやく実現しました。
ただし,鬼怒沼までの登山道は8月に富士山八合目まで登ったときと同じくらいつらい登り下りでしたが,幸運にも,秋晴れに恵まれ,高い山の上なのに微風で,沼の周囲では紅葉がはじまり,湿原の草は一面暖かそうな枯草模様が見られ,本当に快適な湿原の散策ができました。
その写真を紹介します。
まず,秋の雲が沼の上に映った写真です。
次は,まさに天空の湿原を思わせる風景です。
最後は沼に映った鬼怒沼山です。
そのほかにも写真をたくさん撮ってきましたが,また機会があれば紹介することにします。
さて,糸と言えば,糸で縫製する対象の布があります。次回は「布」を取り上げます。
今もあるシリーズ「布(ぬの)」に続く。
2012年10月7日日曜日
今もあるシリーズ「針(はり)」
ミシンが発明されるまでは,縫製と言えば針に糸を通して手で縫うのが一般的でした。
私の母は,ミシンもしましたが,和服の仕立てが得意で,前にも書きましたが,振袖,留袖,訪問着,僧侶の袈裟などを仕立てる内職をしていました。
私が中学生位になると,母は老眼が進み,針に糸を通すのに苦労していました。ただ,糸の先と針の孔はよく見えないのに,大概は勘で糸を通していました。
万葉集に次のような針を詠んだ短歌が出てくるのは,もう縫製用の針が一般にも使われていたことが伺えます。
草枕旅の翁と思ほして針ぞ賜へる縫はむ物もが(18-4128)
<くさまくらたびのおきなと おもほしてはりぞたまへる ぬはむものもが>
<<草を枕にして寝る旅の爺さんとお思いになって(あなたは)針を下さいました。この上は縫うためのもの(布)が欲しいものです>>
針は裁縫用具として重要な道具ですが,先がとがっているため,そのままでは肌に刺さったりして危ないものです。そのため,針を安全に保管したり,持ち運べるように針専用の袋が,上の短歌の次に載せられている短歌からすでにあったことが伺えます。
針袋取り上げ前に置き返さへばおのともおのや裏も継ぎたり(18-4129)
<はりぶくろとりあげまへにおき かへさへばおのともおのや うらもつぎたり>
<<いただきました縫い針袋を取り出して目の前に置きひっくり返してみたら何とまあご丁寧に裏にまで凝った裏地が継いでありました>>
この2首は,天平勝宝元(749)年11月12日に,国主として越中赴任中の大伴家持の補佐官である大伴池主(おほとものいけぬし)が贈った短歌4首の内の2首です。
この針や針袋などは,家持と池主だけが分かる別の何かを指していると私には思えてなりません。たとえば,針は武器で,針袋はそれを覆い隠して分からなくする船とかです。
家持の返歌が無くなっているとの注釈もあり,この返歌を残すことは家持にとって都合があまり良くなかったのかもしれません。大伴池主は7年後に発生した橘奈良麻呂の乱に加わったため,捕縛され,獄死した可能性があるようです。
最後に女性が針について詠んだ短歌を紹介します。
我が背子が着せる衣の針目おちず入りにけらしも我が心さへ(4-514)
<わがせこがけせるころもの はりめおちずいりにけらしも あがこころさへ>
<<わたしの愛しているあなたが着る衣の針目はしっかり縫い込みまれたはずよ,わたしの恋しい心も一緒にね>>
このころ,裁縫はすでに女性の嗜みとして,けっこう広まっていたのだろうとこの短歌からも感じます。
それにしても,当時の針はどんな太さで,どのくらい長かったのでしょうか。気になりましたので,Wikipediaで針を調べてみました。そうしたら,昔は木や骨を削って作ってたようです。万葉時代の針は何でできていたか,興味が尽きません。
さて,針と言えば糸が付き物ですね。次は糸について取り上げます。
今もあるシリーズ「糸(いと)」に続く
私の母は,ミシンもしましたが,和服の仕立てが得意で,前にも書きましたが,振袖,留袖,訪問着,僧侶の袈裟などを仕立てる内職をしていました。
私が中学生位になると,母は老眼が進み,針に糸を通すのに苦労していました。ただ,糸の先と針の孔はよく見えないのに,大概は勘で糸を通していました。
万葉集に次のような針を詠んだ短歌が出てくるのは,もう縫製用の針が一般にも使われていたことが伺えます。
草枕旅の翁と思ほして針ぞ賜へる縫はむ物もが(18-4128)
<くさまくらたびのおきなと おもほしてはりぞたまへる ぬはむものもが>
<<草を枕にして寝る旅の爺さんとお思いになって(あなたは)針を下さいました。この上は縫うためのもの(布)が欲しいものです>>
針は裁縫用具として重要な道具ですが,先がとがっているため,そのままでは肌に刺さったりして危ないものです。そのため,針を安全に保管したり,持ち運べるように針専用の袋が,上の短歌の次に載せられている短歌からすでにあったことが伺えます。
針袋取り上げ前に置き返さへばおのともおのや裏も継ぎたり(18-4129)
<はりぶくろとりあげまへにおき かへさへばおのともおのや うらもつぎたり>
<<いただきました縫い針袋を取り出して目の前に置きひっくり返してみたら何とまあご丁寧に裏にまで凝った裏地が継いでありました>>
この2首は,天平勝宝元(749)年11月12日に,国主として越中赴任中の大伴家持の補佐官である大伴池主(おほとものいけぬし)が贈った短歌4首の内の2首です。
この針や針袋などは,家持と池主だけが分かる別の何かを指していると私には思えてなりません。たとえば,針は武器で,針袋はそれを覆い隠して分からなくする船とかです。
家持の返歌が無くなっているとの注釈もあり,この返歌を残すことは家持にとって都合があまり良くなかったのかもしれません。大伴池主は7年後に発生した橘奈良麻呂の乱に加わったため,捕縛され,獄死した可能性があるようです。
最後に女性が針について詠んだ短歌を紹介します。
我が背子が着せる衣の針目おちず入りにけらしも我が心さへ(4-514)
<わがせこがけせるころもの はりめおちずいりにけらしも あがこころさへ>
<<わたしの愛しているあなたが着る衣の針目はしっかり縫い込みまれたはずよ,わたしの恋しい心も一緒にね>>
このころ,裁縫はすでに女性の嗜みとして,けっこう広まっていたのだろうとこの短歌からも感じます。
それにしても,当時の針はどんな太さで,どのくらい長かったのでしょうか。気になりましたので,Wikipediaで針を調べてみました。そうしたら,昔は木や骨を削って作ってたようです。万葉時代の針は何でできていたか,興味が尽きません。
さて,針と言えば糸が付き物ですね。次は糸について取り上げます。
今もあるシリーズ「糸(いと)」に続く
2012年9月30日日曜日
今もあるシリーズ「紐(ひも)」
<母が内職で作った和装の紐>
前回「襷(たすき)」は紐でできていると書きました。
そのことから,紐は襷より前からあったことになります。紐は一般的に細長い布を束ねただけのものもあったかもしれませんが,細長い布を縦に半分に折り,両長辺を縫いつけて作ったと考えます。
私が幼いころ,母が和服の仕立ての内職をしていたことを以前このブログでも書きましたが,母は帯紐など紐も縫っていました。
細長い布を折り,合わせた長辺の端を縫っていきます。そして,長辺すべてを縫い終えると,竹製の物差しを,縫ってできた長い筒状の布の中に入れ,ソーセージの皮がめくれるように,布を裏返していきます。
そうすることによって,縫い目が中に隠れ,綺麗な紐が出来上がります。ただ,紐の端はまだ縫っていませんから,特殊な縫い方で縫い目が表に出ないようにしていました。
母が何本も紐をきれいに縫うのを見ていたのが,私の幼いころの日課のようなものでした。
<万葉集に出てくる紐>
さて,万葉集では「紐」を読み込んだ和歌が90首ほどあります。
対語シリーズ「解くと結(ゆ)ふ」(今年6月23日投稿)で述べたように,やはり紐は「解くことが目的で,解くために結ぶ」というイメージをもつものと考えられます。
その中で,60首以上が「紐を解く」ことを詠っています。また,「紐を結ぶ(結ふ)」を詠んだ和歌が約30首出てきます。その内,紐を「結ぶ」と「解く」の両方を詠んだ和歌が20首ありますから,「紐を結ぶ」だけ詠んだ和歌は10首しかありません。残りが「結ぶ」も「解く」も含まない紐が詠まれた和歌です。
では,それぞれ1首ずつ紹介します。
まず,「結ぶ」「解く」の両方を詠んだ短歌です。
ふたりして結びし紐をひとりして我れは解きみじ直に逢ふまでは(12-2919)
<ふたりしてむすびしひもを ひとりしてあれはときみじ ただにあふまでは>
<<一夜を共にして二人で結んだ紐は一人の時に解きはしない。また直接逢えるまで>>
妻問で共寝をした後,お互いに着物の紐を結びあう習慣があったのでしょう。
この短歌は,万葉集が単なる歌集ではなく,若い人に風習やマナーを教えるテキストの役割をしていたと思わせる1首です。
次は,「紐を解く」だけが入っている短歌です。
霍公鳥懸けつつ君が松蔭に紐解き放くる月近づきぬ(20-4464)
<ほととぎすかけつつきみが まつかげにひもときさくる つきちかづきぬ>
<<ほととぎすが鳴くのを心にかけながら貴方が松(待つ)の木陰で衣の紐をほどく月が近づいた>>
これは天平勝宝8(756)年に大伴家持が詠んだ1首です。この頃には,夜外で逢引きする風習があったのだろうと私は思います。
政権では血なまぐさい権力闘争があったにせよ,平城京での暮らしは安全が保たれ,夜2人だけで逢うことも出るようになったのでしょう。
次は,「紐を結ぶ」だけが入っている柿本人麻呂が淡路島を詠んだ短歌です。
淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す(3-251)
<あはぢののしまがさきのはまかぜに いもがむすびしひもふきかへす>
<<妻が結んでくれた着物の紐を淡路の野島の岬の浜風が吹き返してゆく>>
人麻呂の奥さんが人麻呂が旅をする安全を祈って着物に結び付けた紐が淡路島の野島の岬の強い風が解けんばかりに吹き返している様子と船が無事通過できかという心の不安がうまく表現されている秀歌だと私は思います。
最後は「解く」も「結ぶ」も含まれない詠み人知らずの短歌を紹介します。
針はあれど妹しなければ付けめやと我れを悩まし絶ゆる紐の緒(12-2982)
<はりはあれどいもしなければ つけめやとわれをなやまし たゆるひものを>
<<針あるけれど妹がいないので私では付けることができず,悩ましい切れた紐の端>>
今では,「運命の赤い糸」で結ばれるといいますが,当時は紐(色はおそらく白)がその役目をしていたのかも知れませんね。
紐の緒(端)が切れる(解れる)ことは,当時恋人との関係が切れる不吉な前兆だと言われていたとすると,この短歌のように早く針と糸で修復したい気持ちになると私は想像します。
次回はその「針」についてです。
今もあるシリーズ「針」に続く
前回「襷(たすき)」は紐でできていると書きました。
そのことから,紐は襷より前からあったことになります。紐は一般的に細長い布を束ねただけのものもあったかもしれませんが,細長い布を縦に半分に折り,両長辺を縫いつけて作ったと考えます。
私が幼いころ,母が和服の仕立ての内職をしていたことを以前このブログでも書きましたが,母は帯紐など紐も縫っていました。
細長い布を折り,合わせた長辺の端を縫っていきます。そして,長辺すべてを縫い終えると,竹製の物差しを,縫ってできた長い筒状の布の中に入れ,ソーセージの皮がめくれるように,布を裏返していきます。
そうすることによって,縫い目が中に隠れ,綺麗な紐が出来上がります。ただ,紐の端はまだ縫っていませんから,特殊な縫い方で縫い目が表に出ないようにしていました。
母が何本も紐をきれいに縫うのを見ていたのが,私の幼いころの日課のようなものでした。
<万葉集に出てくる紐>
さて,万葉集では「紐」を読み込んだ和歌が90首ほどあります。
対語シリーズ「解くと結(ゆ)ふ」(今年6月23日投稿)で述べたように,やはり紐は「解くことが目的で,解くために結ぶ」というイメージをもつものと考えられます。
その中で,60首以上が「紐を解く」ことを詠っています。また,「紐を結ぶ(結ふ)」を詠んだ和歌が約30首出てきます。その内,紐を「結ぶ」と「解く」の両方を詠んだ和歌が20首ありますから,「紐を結ぶ」だけ詠んだ和歌は10首しかありません。残りが「結ぶ」も「解く」も含まない紐が詠まれた和歌です。
では,それぞれ1首ずつ紹介します。
まず,「結ぶ」「解く」の両方を詠んだ短歌です。
ふたりして結びし紐をひとりして我れは解きみじ直に逢ふまでは(12-2919)
<ふたりしてむすびしひもを ひとりしてあれはときみじ ただにあふまでは>
<<一夜を共にして二人で結んだ紐は一人の時に解きはしない。また直接逢えるまで>>
妻問で共寝をした後,お互いに着物の紐を結びあう習慣があったのでしょう。
この短歌は,万葉集が単なる歌集ではなく,若い人に風習やマナーを教えるテキストの役割をしていたと思わせる1首です。
次は,「紐を解く」だけが入っている短歌です。
霍公鳥懸けつつ君が松蔭に紐解き放くる月近づきぬ(20-4464)
<ほととぎすかけつつきみが まつかげにひもときさくる つきちかづきぬ>
<<ほととぎすが鳴くのを心にかけながら貴方が松(待つ)の木陰で衣の紐をほどく月が近づいた>>
これは天平勝宝8(756)年に大伴家持が詠んだ1首です。この頃には,夜外で逢引きする風習があったのだろうと私は思います。
政権では血なまぐさい権力闘争があったにせよ,平城京での暮らしは安全が保たれ,夜2人だけで逢うことも出るようになったのでしょう。
次は,「紐を結ぶ」だけが入っている柿本人麻呂が淡路島を詠んだ短歌です。
淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す(3-251)
<あはぢののしまがさきのはまかぜに いもがむすびしひもふきかへす>
<<妻が結んでくれた着物の紐を淡路の野島の岬の浜風が吹き返してゆく>>
人麻呂の奥さんが人麻呂が旅をする安全を祈って着物に結び付けた紐が淡路島の野島の岬の強い風が解けんばかりに吹き返している様子と船が無事通過できかという心の不安がうまく表現されている秀歌だと私は思います。
最後は「解く」も「結ぶ」も含まれない詠み人知らずの短歌を紹介します。
針はあれど妹しなければ付けめやと我れを悩まし絶ゆる紐の緒(12-2982)
<はりはあれどいもしなければ つけめやとわれをなやまし たゆるひものを>
<<針あるけれど妹がいないので私では付けることができず,悩ましい切れた紐の端>>
今では,「運命の赤い糸」で結ばれるといいますが,当時は紐(色はおそらく白)がその役目をしていたのかも知れませんね。
紐の緒(端)が切れる(解れる)ことは,当時恋人との関係が切れる不吉な前兆だと言われていたとすると,この短歌のように早く針と糸で修復したい気持ちになると私は想像します。
次回はその「針」についてです。
今もあるシリーズ「針」に続く
2012年9月26日水曜日
今もあるシリーズ「襷(たすき)」
<本来の襷は?>
今,襷といえば駅伝大会で,選手が肩から斜めに掛けて走り,次の区間の同じチームの選手に渡していくリングの紐(ひも)状のものをイメージする人が多いかもしれません。
しかし,私のようなある程度年齢が高いに人間にとっては,和服を着たお母さんたちが炊事や洗濯をするとき,和服の袖(そで)が邪魔にならないよう,襷を掛けていたのを見た記憶があります。
その襷は普通の一本の紐です(リングになっていません)。まず,紐の端を口にくわえます。紐を一方の肩から背中を肩と反対の脇腹で袖を挟み,肩の上に上げ,その肩から背中を肩の反対の脇腹でもう一方の袖を挟みます。最後は,口でくわえた紐の端と今袖を挟んだもう一方の紐の端を肩前の部分で結んで完成です。慣れた人は,この間わずか数秒で襷を付けてしまいます。
<襷がけ人事>
銀行などの合併で以前よくマスコミに取り上げられた「襷がけ人事」という言葉があります。襷を掛けた背中に紐が×型に交叉する形になるイメージと合併前の一方の銀行出身者が頭取になると,もう一方の銀行出身者が副頭取になり,次の人事異動でその逆の人事が行われていくという慣行のイメージが似ているからです。
ただ,本来の襷も割烹着(袖と胸当てがあるエプロンのようなもの)が使われるようになってからは,袖が割烹着の袖の中に収納されるため,着ける必要がなくなってしまったようです。
今では,和服で書を書く書道家,居合抜きの演技者,百人一首のかるた競技大会で和服を着た選手が襷をしている姿しかあまり見なくなりましたね。
さて,万葉集で「襷」は多くは「掛」や「畝傍」にかかる「玉たすき」という枕詞として現れます。
玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも(12-2992)
<たまたすきかけねばくるし かけたればつぎてみまくの ほしききみかも>
<<お見掛けしないと苦しいしけど,こうしてお見掛けできたら,いつまでも見続けていたい気持ちがもっと強くなるあなたなの>>
思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ(7-1335)
<おもひあま いたもすべなみ たまたすきうねびのやまに われしめゆひつ>
<<恋しさが思い余ってどうしようもないので,神の宿る畝傍山に私はあなたと結ばれたしるしを付けましょう>>
詠み人知らずのこの2首ともに「玉たすき」は枕詞で,この2首の中で意味は持ちません。ただ,当時は「玉たすき」と読み上げると次にくる言葉が「掛ける」「畝傍」かが予想できたくらい近い関係の言葉だったと私は思います。
さて,「襷」自体を詠んだ万葉集の和歌もあります。ただし,すべて長歌の中に出てきます。
大船の思ひ頼みて さな葛いや遠長く 我が思へる君によりては 言の故もなくありこそと 木綿たすき肩に取り懸け 斎瓮を斎ひ掘り据ゑ 天地の神にぞ我が祷む いたもすべなみ(13-3288)
<おほぶねのおもひたのみて さなかづらいやとほながく あがおもへるきみによりては ことのゆゑもなくありこそと ゆふたすきかたにとりかけ いはひへをいはひほりすゑ あめつちのかみにぞわがのむ いたもすべなみ>
<<心から信頼し遠くからずっとお慕いしているあなたのせいで,私は忌み言葉も口にせず,木綿でつくった襷を肩にかけ,神聖な甕を,身を清めて土を掘って置き,必死に神に拝むしかすべはないのですよ>>
万葉時代は神に祈る場合,祈りが通じるように神に通じると言われる行為を行おうとします。たとえば,この長歌に出てくるように,禁句をしゃべらない,甕を身を清めて土に埋める,そして木綿の襷を肩にかけるという行為です。
その中でも,木綿の襷を肩にかけるのは,袖を垂らしていたのでは,強い祈りが神に通じないという言い伝えが当時あったのではないかと私は思います。
その祈り強さをさらに表現している長歌があります。山上憶良が幼い我が子が危篤になって,何とか回復してほしいと祈る部分に「襷」が出てきます。長いので一部を紹介します。
~思はぬに邪しま風の にふふかに覆ひ来れば 為むすべのたどきを知らに 白栲のたすきを掛け まそ鏡手に取り持ちて 天つ神仰ぎ祈ひ祷み 国つ神伏して額つき かからずもかかりも神のまにまにと 立ちあざり我れ祈ひ祷めど しましくも吉けくはなしに やくやくにかたちつくほり 朝な朝な言ふことやみ たまきはる命絶えぬれ~(5-904)
<~おほぶねのおもひたのむに おもはぬによこしまかぜの にふふかにおほひきたれば せむすべのたどきをしらに しろたへのたすきをかけ まそかがみてにとりもちて あまつかみあふぎこひのみ くにつかみふしてぬかつき かからずもかかりも かみのまにまにと たちあざりわれこひのめど しましくもよけくはなしに やくやくにかたちつくほり あさなさないふことやみ たまきはるいのちたえぬれ~>
<<~予想もしなかった邪悪な風が突然吹いてきて(我が子が病気になり),どうすればよいか分からず,白い襷を懸け,鏡を手に持って,仰いで天の神を祈り,伏して国の神に額づき,治るか治らないか,ただもう神の御心のままにと,おろおろとして我らは祈ったが,少しも良くはならず,だんだんと顔かたちが痩せ衰え,朝が来るたびに口数が減って,とうとう息が絶えてしまったので~>>
この中で,襷は神に真剣に祈ることを示す道具として使われていたことがわかります。
後に,何かを真剣に打ち込んで行うとき,まさに神に強く祈る気持ちほど真剣に行うという意思表示のために襷をかける風習が出てきたようにも思えます。襷が,袖が垂れることによって動作の邪魔にならないようにする効果も併せもったのでしょう。
もう,背中に十文字にかける襷を見ることが少ないですが,和服を着て,襷をかけ,何かに集中する姿は残したい日本文化の一つだと私は考えます。
さて,襷は紐を使ってかけます。次回はその紐をテーマにします。
今もあるシリーズ「紐(ひも)」に続く。
今,襷といえば駅伝大会で,選手が肩から斜めに掛けて走り,次の区間の同じチームの選手に渡していくリングの紐(ひも)状のものをイメージする人が多いかもしれません。
しかし,私のようなある程度年齢が高いに人間にとっては,和服を着たお母さんたちが炊事や洗濯をするとき,和服の袖(そで)が邪魔にならないよう,襷を掛けていたのを見た記憶があります。
その襷は普通の一本の紐です(リングになっていません)。まず,紐の端を口にくわえます。紐を一方の肩から背中を肩と反対の脇腹で袖を挟み,肩の上に上げ,その肩から背中を肩の反対の脇腹でもう一方の袖を挟みます。最後は,口でくわえた紐の端と今袖を挟んだもう一方の紐の端を肩前の部分で結んで完成です。慣れた人は,この間わずか数秒で襷を付けてしまいます。
<襷がけ人事>
銀行などの合併で以前よくマスコミに取り上げられた「襷がけ人事」という言葉があります。襷を掛けた背中に紐が×型に交叉する形になるイメージと合併前の一方の銀行出身者が頭取になると,もう一方の銀行出身者が副頭取になり,次の人事異動でその逆の人事が行われていくという慣行のイメージが似ているからです。
ただ,本来の襷も割烹着(袖と胸当てがあるエプロンのようなもの)が使われるようになってからは,袖が割烹着の袖の中に収納されるため,着ける必要がなくなってしまったようです。
今では,和服で書を書く書道家,居合抜きの演技者,百人一首のかるた競技大会で和服を着た選手が襷をしている姿しかあまり見なくなりましたね。
さて,万葉集で「襷」は多くは「掛」や「畝傍」にかかる「玉たすき」という枕詞として現れます。
玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも(12-2992)
<たまたすきかけねばくるし かけたればつぎてみまくの ほしききみかも>
<<お見掛けしないと苦しいしけど,こうしてお見掛けできたら,いつまでも見続けていたい気持ちがもっと強くなるあなたなの>>
思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ(7-1335)
<おもひあま いたもすべなみ たまたすきうねびのやまに われしめゆひつ>
<<恋しさが思い余ってどうしようもないので,神の宿る畝傍山に私はあなたと結ばれたしるしを付けましょう>>
詠み人知らずのこの2首ともに「玉たすき」は枕詞で,この2首の中で意味は持ちません。ただ,当時は「玉たすき」と読み上げると次にくる言葉が「掛ける」「畝傍」かが予想できたくらい近い関係の言葉だったと私は思います。
さて,「襷」自体を詠んだ万葉集の和歌もあります。ただし,すべて長歌の中に出てきます。
大船の思ひ頼みて さな葛いや遠長く 我が思へる君によりては 言の故もなくありこそと 木綿たすき肩に取り懸け 斎瓮を斎ひ掘り据ゑ 天地の神にぞ我が祷む いたもすべなみ(13-3288)
<おほぶねのおもひたのみて さなかづらいやとほながく あがおもへるきみによりては ことのゆゑもなくありこそと ゆふたすきかたにとりかけ いはひへをいはひほりすゑ あめつちのかみにぞわがのむ いたもすべなみ>
<<心から信頼し遠くからずっとお慕いしているあなたのせいで,私は忌み言葉も口にせず,木綿でつくった襷を肩にかけ,神聖な甕を,身を清めて土を掘って置き,必死に神に拝むしかすべはないのですよ>>
万葉時代は神に祈る場合,祈りが通じるように神に通じると言われる行為を行おうとします。たとえば,この長歌に出てくるように,禁句をしゃべらない,甕を身を清めて土に埋める,そして木綿の襷を肩にかけるという行為です。
その中でも,木綿の襷を肩にかけるのは,袖を垂らしていたのでは,強い祈りが神に通じないという言い伝えが当時あったのではないかと私は思います。
その祈り強さをさらに表現している長歌があります。山上憶良が幼い我が子が危篤になって,何とか回復してほしいと祈る部分に「襷」が出てきます。長いので一部を紹介します。
~思はぬに邪しま風の にふふかに覆ひ来れば 為むすべのたどきを知らに 白栲のたすきを掛け まそ鏡手に取り持ちて 天つ神仰ぎ祈ひ祷み 国つ神伏して額つき かからずもかかりも神のまにまにと 立ちあざり我れ祈ひ祷めど しましくも吉けくはなしに やくやくにかたちつくほり 朝な朝な言ふことやみ たまきはる命絶えぬれ~(5-904)
<~おほぶねのおもひたのむに おもはぬによこしまかぜの にふふかにおほひきたれば せむすべのたどきをしらに しろたへのたすきをかけ まそかがみてにとりもちて あまつかみあふぎこひのみ くにつかみふしてぬかつき かからずもかかりも かみのまにまにと たちあざりわれこひのめど しましくもよけくはなしに やくやくにかたちつくほり あさなさないふことやみ たまきはるいのちたえぬれ~>
<<~予想もしなかった邪悪な風が突然吹いてきて(我が子が病気になり),どうすればよいか分からず,白い襷を懸け,鏡を手に持って,仰いで天の神を祈り,伏して国の神に額づき,治るか治らないか,ただもう神の御心のままにと,おろおろとして我らは祈ったが,少しも良くはならず,だんだんと顔かたちが痩せ衰え,朝が来るたびに口数が減って,とうとう息が絶えてしまったので~>>
この中で,襷は神に真剣に祈ることを示す道具として使われていたことがわかります。
後に,何かを真剣に打ち込んで行うとき,まさに神に強く祈る気持ちほど真剣に行うという意思表示のために襷をかける風習が出てきたようにも思えます。襷が,袖が垂れることによって動作の邪魔にならないようにする効果も併せもったのでしょう。
もう,背中に十文字にかける襷を見ることが少ないですが,和服を着て,襷をかけ,何かに集中する姿は残したい日本文化の一つだと私は考えます。
さて,襷は紐を使ってかけます。次回はその紐をテーマにします。
今もあるシリーズ「紐(ひも)」に続く。
2012年9月23日日曜日
今もあるシリーズ「袖(そで)」
衣服の袖は,左右それぞれの腕を通す筒型または袋型の部分です。袖は洋服では腕にぴったりくっつくように細いですが,和服では振袖のように腕の太さとは無関係に大きな袋状になっています。
和服では,昔から袖は腕を隠したり,ポケットの変わりにモノを入れたり,暑さ寒さや紫外線から肌を守るだけでなく,ファッション性をアピールする道具としても使われます。
万葉集には「袖」がたくさん詠まれています。「袖付け衣(そでつけころも)」という言葉が万葉集に出てくるくらいですから,万葉時代には袖を衣服に取り付ける縫製技術が十分進化していたのだと私は思います。
次は「袖」を詠った有名な短歌(大海人皇子と志貴皇子の作)です。あまりに有名なのと本ブログの他の記事で紹介済みなので読みと訳は省略します。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)
この袖が衣服の本体に綺麗に付くようにするには,縫製技術の高度化がないとうまくいきません。
袖を付ける製法技術がない時代は,2枚の布を頭が入る場所は縫わずに,両端を縫います。縫っていないところを頭を通し,縫ったところが両肩の上となるようします。布は身体の前(胸)と後ろ(背)に垂れます。紐で腰のあたりで結べば,もっとも原始的な衣服が出来上がります。もちろん袖はありません。
ただ,袖を付ける縫製技術が完成していても,万葉時代は今のスパンデックスのような伸び縮みする布はまだ無かったので,袖は腕の太さよりかなり大きく作らないと腕を通すことがままなりません。そのため袖は結果的に大きく作られるようになり,袖の大きさや色が着ている人の存在感を示すことになったのかもしれません。
万葉集では「袖」の前につく枕詞の多くが「白栲の」となっています。当時は袖は白が主流だったと想像できます。
また,袖は左右に別に分かれて存在しますから,万葉時代では次の1首のように「別離」を引き合いに出す言葉でもあったようです。
白栲の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも(12-3182)
<しろたへのそでのわかれはをしけども おもひみだれてゆるしつるかも>
<<袖が分かれているようにあなたとの別れはつらいけど,私の心が乱れてしまい結局あなたと別れることにしたの>>
この詠み人知らずの短歌,女性が詠んだものとして訳してみました。女性の感性をうまく表現できているでしょうか。
さて,そんな悲恋に遭遇すると悲しみのあまり,涙がとめどなく出ます。
その流れる涙を拭うのも当時袖の重要な役目であることを,次の詠み人知らずの1首が教えてくれます。
ぬばたまのその夢にだに見え継ぐや袖干る日なく我れは恋ふるを(12-2849)
<ぬばたまのそのいめにだに みえつぐやそでふるひなく あれはこふるを>
<<夜君と逢う夢だけでも見続けたい。涙で袖が乾く日がないほど私は恋しているのだから>>
袖は保温効果,紫外線予防,ファッション性や恋する気持ちをアピールする道具としての効果がありますが,垂れ下がる袖は狩りのような激しい動きには逆に邪魔になることがあります。
最後の旋頭歌は,そんな場合にどうしていたかを私たちに教えてくれる1首です。
江林に臥せる獣やも求むるによき白栲の袖巻き上げて獣待つ我が背(7-1292)
<えはやしにふせるししやももとむるによき しろたへのそでまきあげてししまつわがせ>
<<河口近くの林に隠れている獣を捕獲するために袖をたくし上げて待つ私の大好きな人>>
狩猟をするときは,大きな袖はいろんなものに引っかかって動きが悪くなるので,袖をまくりあげたりして袖が邪魔にならないようにします。でも,ただまくりあげただけの場合,身体を動かすと袖はすぐ垂れてきます。そうならないように考えられたのが紐を使って,襷(たすき)を掛ける工夫です。
次回の本シリーズは,その「襷」を取り上げます。
今もあるシリーズ「襷(たすき)」に続く。
和服では,昔から袖は腕を隠したり,ポケットの変わりにモノを入れたり,暑さ寒さや紫外線から肌を守るだけでなく,ファッション性をアピールする道具としても使われます。
万葉集には「袖」がたくさん詠まれています。「袖付け衣(そでつけころも)」という言葉が万葉集に出てくるくらいですから,万葉時代には袖を衣服に取り付ける縫製技術が十分進化していたのだと私は思います。
次は「袖」を詠った有名な短歌(大海人皇子と志貴皇子の作)です。あまりに有名なのと本ブログの他の記事で紹介済みなので読みと訳は省略します。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)
この袖が衣服の本体に綺麗に付くようにするには,縫製技術の高度化がないとうまくいきません。
袖を付ける製法技術がない時代は,2枚の布を頭が入る場所は縫わずに,両端を縫います。縫っていないところを頭を通し,縫ったところが両肩の上となるようします。布は身体の前(胸)と後ろ(背)に垂れます。紐で腰のあたりで結べば,もっとも原始的な衣服が出来上がります。もちろん袖はありません。
ただ,袖を付ける縫製技術が完成していても,万葉時代は今のスパンデックスのような伸び縮みする布はまだ無かったので,袖は腕の太さよりかなり大きく作らないと腕を通すことがままなりません。そのため袖は結果的に大きく作られるようになり,袖の大きさや色が着ている人の存在感を示すことになったのかもしれません。
万葉集では「袖」の前につく枕詞の多くが「白栲の」となっています。当時は袖は白が主流だったと想像できます。
また,袖は左右に別に分かれて存在しますから,万葉時代では次の1首のように「別離」を引き合いに出す言葉でもあったようです。
白栲の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも(12-3182)
<しろたへのそでのわかれはをしけども おもひみだれてゆるしつるかも>
<<袖が分かれているようにあなたとの別れはつらいけど,私の心が乱れてしまい結局あなたと別れることにしたの>>
この詠み人知らずの短歌,女性が詠んだものとして訳してみました。女性の感性をうまく表現できているでしょうか。
さて,そんな悲恋に遭遇すると悲しみのあまり,涙がとめどなく出ます。
その流れる涙を拭うのも当時袖の重要な役目であることを,次の詠み人知らずの1首が教えてくれます。
ぬばたまのその夢にだに見え継ぐや袖干る日なく我れは恋ふるを(12-2849)
<ぬばたまのそのいめにだに みえつぐやそでふるひなく あれはこふるを>
<<夜君と逢う夢だけでも見続けたい。涙で袖が乾く日がないほど私は恋しているのだから>>
袖は保温効果,紫外線予防,ファッション性や恋する気持ちをアピールする道具としての効果がありますが,垂れ下がる袖は狩りのような激しい動きには逆に邪魔になることがあります。
最後の旋頭歌は,そんな場合にどうしていたかを私たちに教えてくれる1首です。
江林に臥せる獣やも求むるによき白栲の袖巻き上げて獣待つ我が背(7-1292)
<えはやしにふせるししやももとむるによき しろたへのそでまきあげてししまつわがせ>
<<河口近くの林に隠れている獣を捕獲するために袖をたくし上げて待つ私の大好きな人>>
狩猟をするときは,大きな袖はいろんなものに引っかかって動きが悪くなるので,袖をまくりあげたりして袖が邪魔にならないようにします。でも,ただまくりあげただけの場合,身体を動かすと袖はすぐ垂れてきます。そうならないように考えられたのが紐を使って,襷(たすき)を掛ける工夫です。
次回の本シリーズは,その「襷」を取り上げます。
今もあるシリーズ「襷(たすき)」に続く。
2012年9月17日月曜日
今もあるシリーズ「衾(ふすま)」
今「ふすま」と言えば和室の押し入れの引き扉,または和室間を仕切る引き扉としての「襖」をイメージされるかもしれません。
しかし,ここでの「衾」は「襖」ではなく,寝るときに身体に掛けるものを意味します。すなわち,現代の「毛布」「タオルケット」「肌掛布団」のようなものを指します。
当時はまともな暖房設備もない時代ですから,当然何か身体に掛けて寝ないと寒さに耐えられないはずです。日常品ですからいろいろな種類があったことが万葉集から読み取れます。
次は万葉集にでくる衾の種類です。
・麻衾(あさぶすま)‥麻布で作った衾。保温効果は少なく,夏用か?
・麻手小衾(あさでこぶすま)‥麻衾と同。小衾は「かわいい衾」といった意味か?
・栲衾(たくぶすま)‥コウゾの繊維で作った衾。白い色で清潔感があったのかも? 「白」「新」の枕詞でもある。
・まだら衾‥まだら模様の布で作った衾。さまざまな加工を施した高級品か?
・むし衾‥「むし」の意味は諸説あり。万葉仮名が「蒸被」なので「暖かい衾」の意か?
これらを詠んだ万葉集の短歌か
らいくつか紹介しましょう。
蒸衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも(4-524)
<むしふすまなごやがしたにふせれども いもとしねねばはだしさむしも>
<<暖かくて柔らかい衾の下で寝ても,貴女と共寝をしなければ私の肌は暖まらないのだよ>>
この短歌は,藤原不比等(ふぢはらのふひと:659-720)にいた4人の息子の内,末弟であった藤原麻呂(ふぢはらのまろ:695-737)が坂上郎女(さかのうへのいらつめ)贈った3首の内の1首です。
藤原麻呂は未亡人であった坂上郎女の家へは妻問をする関係にあったようです。
今でも相手の女性に「いくら柔らかくて暖かい毛布で寝ても,君と一緒でなければ心が寒い」な~んて,使えそうですね。
天の川 「たびとはん。ええ年して何言うてんねん。あんさんにはそんな戯言使えまへん。相手が『気持ち悪いわ』ちゅうのに決まってるやんか。」
うるさいぞ,天の川君!
さて,気を取り直して次に行きましょう。詠み人知らずの(駿河地方の)東歌です。
伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に(14-3354)
<きへひとのまだらぶすまに わたさはだいりなましもの いもがをどこに>
<<伎倍(静岡県浜松市)の人が作るまだら色に染めた衾に綿として中に入ってよ,お前の可愛い床にずっと居るざあ>>
もう1首,詠まれた地域はわかりませんが,女性作と思われる東歌を紹介します。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<私の麻手小衾(麻で作られた可愛い衾)さん。今宵だけでも愛しいあの人を来させてね。麻手小衾さん>>
いろんな衾を作る産地が東国に多かったのかもしれませんね。もしかしたら「麻手小衾」は万葉時代の地域ブランド名だったりして。
今もあるシリーズ「袖(そで)」に続く。
しかし,ここでの「衾」は「襖」ではなく,寝るときに身体に掛けるものを意味します。すなわち,現代の「毛布」「タオルケット」「肌掛布団」のようなものを指します。
当時はまともな暖房設備もない時代ですから,当然何か身体に掛けて寝ないと寒さに耐えられないはずです。日常品ですからいろいろな種類があったことが万葉集から読み取れます。
次は万葉集にでくる衾の種類です。
・麻衾(あさぶすま)‥麻布で作った衾。保温効果は少なく,夏用か?
・麻手小衾(あさでこぶすま)‥麻衾と同。小衾は「かわいい衾」といった意味か?
・栲衾(たくぶすま)‥コウゾの繊維で作った衾。白い色で清潔感があったのかも? 「白」「新」の枕詞でもある。
・まだら衾‥まだら模様の布で作った衾。さまざまな加工を施した高級品か?
・むし衾‥「むし」の意味は諸説あり。万葉仮名が「蒸被」なので「暖かい衾」の意か?
これらを詠んだ万葉集の短歌か
らいくつか紹介しましょう。
蒸衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも(4-524)
<むしふすまなごやがしたにふせれども いもとしねねばはだしさむしも>
<<暖かくて柔らかい衾の下で寝ても,貴女と共寝をしなければ私の肌は暖まらないのだよ>>
この短歌は,藤原不比等(ふぢはらのふひと:659-720)にいた4人の息子の内,末弟であった藤原麻呂(ふぢはらのまろ:695-737)が坂上郎女(さかのうへのいらつめ)贈った3首の内の1首です。
藤原麻呂は未亡人であった坂上郎女の家へは妻問をする関係にあったようです。
今でも相手の女性に「いくら柔らかくて暖かい毛布で寝ても,君と一緒でなければ心が寒い」な~んて,使えそうですね。
天の川 「たびとはん。ええ年して何言うてんねん。あんさんにはそんな戯言使えまへん。相手が『気持ち悪いわ』ちゅうのに決まってるやんか。」
うるさいぞ,天の川君!
さて,気を取り直して次に行きましょう。詠み人知らずの(駿河地方の)東歌です。
伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に(14-3354)
<きへひとのまだらぶすまに わたさはだいりなましもの いもがをどこに>
<<伎倍(静岡県浜松市)の人が作るまだら色に染めた衾に綿として中に入ってよ,お前の可愛い床にずっと居るざあ>>
もう1首,詠まれた地域はわかりませんが,女性作と思われる東歌を紹介します。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<私の麻手小衾(麻で作られた可愛い衾)さん。今宵だけでも愛しいあの人を来させてね。麻手小衾さん>>
いろんな衾を作る産地が東国に多かったのかもしれませんね。もしかしたら「麻手小衾」は万葉時代の地域ブランド名だったりして。
今もあるシリーズ「袖(そで)」に続く。
2012年9月16日日曜日
今もあるシリーズ「櫛(くし)」
頭髪を整えるとき,ブラシを使うことが多くなりましたが,今もまだ多くの人が「櫛」を携帯しているようです。私もその一人で,中国で滞在したホテルのアメニティの竹製櫛を携帯しています。
もちろん,床屋さんが頭髪,ひげ,眉毛をカットする際に,必須品だと思います。ホテルのアメニティ以外に,スポーツ施設の浴場などの洗面台に置いてあるのを多く見かけます。
万葉集で櫛に関する和歌(枕詞の「玉櫛笥」も含む)は約30首あります。
その内、櫛自体を詠んだ和歌は8首と少なく,後は「櫛笥」(櫛を入れる化粧箱)または「奥」「ふ」「み」「覆ふ」「ふた」「開く」にかかる枕詞「玉櫛笥」に関するものです。
玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも(2-93)
<たまくしげおほふをやすみ あけていなばきみがなはあれど わがなしをしも>
<<二人の仲を隠す(覆う)のはたやすいと夜が明け,明るくなりきってからお帰りになるなんて、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ>>
この短歌は,鏡王女が藤原鎌足(614~669)に贈った1首です。それに対して,鎌足は同じく玉櫛笥を枕詞に次の短歌を返しています。
玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ(2-94)
<たまくしげみむろのやまの さなかづらさねずはつひに ありかつましじ>
<<三室山のさな葛ではないが、さ寝ず(共寝せず)に最後まで(夜が明けるまで)待たせるなんてありえないでしょう>>
さて,どちらの言い分が正しいのか? それとも,余りに楽しい妻問の時間であっという間に朝になり,お互い相手のせいにしてさらに楽しんでいるのかもしれませんね。
いずれにしても,枕詞に「玉櫛笥」が7世紀に使われているということは,その中に入れる「櫛」も貴族の中では日常品として使われていたのだと私は思います。
では,櫛そのものを詠んだ短歌を紹介します。
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(16-3832)
<からたちとうばらかりそけ くらたてむくそとほくまれ くしつくるとじ>
<<カラタチとイバラを刈って倉庫を建てるから,この近くでトイレをしないでほしいなあ,櫛を作るお姉さんたちよ>>
なんと,品のない短歌でしょうか。また,宴席でさまざまなものの名前を入れて即興で詠うことが流行っていたのでしょうか。
カラタチもイバラもトゲがあります。櫛やその他の工芸品などを作っている工場では,工員の女性用トイレを人が入りにくい,トゲのある植物で囲まれた場所に作っていたのかもしれません。
そうして,そのような背景を踏まえて,倉,屎,櫛とすべて「く」で始まる言葉を入れ,酒に任せて忌部首(いみべのおびと)という人物が詠んだとされています。
万葉時代には,櫛を大量に生産する手工業の工場がすでにできていたのかもしれないと私は想像します。
最後に,もう1首大伴家持が櫛を詠んだ興味深い短歌を紹介します(この短歌は昨年3月12日の投稿でも紹介しています。)。
娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも(19-4212)
<をとめらが のちのしるしと つげをぐし おひかはりおひて なびきけらしも>
<<兎原娘子(うなひをとめ)の言い伝えのしるしとして黄楊の小櫛が木に生え変わって伸び栄え風に靡いているのだ>>
この短歌から,万葉時代,櫛の材料としてツゲがあったことがわかります。ツゲは非常に成長が遅い代わりに木が固く変形しにくいため,櫛にはもってこいの木材なのです。
しかし,固い材質ほど加工が難しいですが,高度な加工技術がすでに確立し,多くの専門の刀自たちによってけっこう大量に製作されていたのでしょう。
現在も「つげ櫛」は高級な櫛の代名詞となっているようです。
今もあるシリーズ「衾(ふすま)」に続く。
もちろん,床屋さんが頭髪,ひげ,眉毛をカットする際に,必須品だと思います。ホテルのアメニティ以外に,スポーツ施設の浴場などの洗面台に置いてあるのを多く見かけます。
万葉集で櫛に関する和歌(枕詞の「玉櫛笥」も含む)は約30首あります。
その内、櫛自体を詠んだ和歌は8首と少なく,後は「櫛笥」(櫛を入れる化粧箱)または「奥」「ふ」「み」「覆ふ」「ふた」「開く」にかかる枕詞「玉櫛笥」に関するものです。
玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも(2-93)
<たまくしげおほふをやすみ あけていなばきみがなはあれど わがなしをしも>
<<二人の仲を隠す(覆う)のはたやすいと夜が明け,明るくなりきってからお帰りになるなんて、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ>>
この短歌は,鏡王女が藤原鎌足(614~669)に贈った1首です。それに対して,鎌足は同じく玉櫛笥を枕詞に次の短歌を返しています。
玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ(2-94)
<たまくしげみむろのやまの さなかづらさねずはつひに ありかつましじ>
<<三室山のさな葛ではないが、さ寝ず(共寝せず)に最後まで(夜が明けるまで)待たせるなんてありえないでしょう>>
さて,どちらの言い分が正しいのか? それとも,余りに楽しい妻問の時間であっという間に朝になり,お互い相手のせいにしてさらに楽しんでいるのかもしれませんね。
いずれにしても,枕詞に「玉櫛笥」が7世紀に使われているということは,その中に入れる「櫛」も貴族の中では日常品として使われていたのだと私は思います。
では,櫛そのものを詠んだ短歌を紹介します。
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(16-3832)
<からたちとうばらかりそけ くらたてむくそとほくまれ くしつくるとじ>
<<カラタチとイバラを刈って倉庫を建てるから,この近くでトイレをしないでほしいなあ,櫛を作るお姉さんたちよ>>
なんと,品のない短歌でしょうか。また,宴席でさまざまなものの名前を入れて即興で詠うことが流行っていたのでしょうか。
カラタチもイバラもトゲがあります。櫛やその他の工芸品などを作っている工場では,工員の女性用トイレを人が入りにくい,トゲのある植物で囲まれた場所に作っていたのかもしれません。
そうして,そのような背景を踏まえて,倉,屎,櫛とすべて「く」で始まる言葉を入れ,酒に任せて忌部首(いみべのおびと)という人物が詠んだとされています。
万葉時代には,櫛を大量に生産する手工業の工場がすでにできていたのかもしれないと私は想像します。
最後に,もう1首大伴家持が櫛を詠んだ興味深い短歌を紹介します(この短歌は昨年3月12日の投稿でも紹介しています。)。
娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも(19-4212)
<をとめらが のちのしるしと つげをぐし おひかはりおひて なびきけらしも>
<<兎原娘子(うなひをとめ)の言い伝えのしるしとして黄楊の小櫛が木に生え変わって伸び栄え風に靡いているのだ>>
この短歌から,万葉時代,櫛の材料としてツゲがあったことがわかります。ツゲは非常に成長が遅い代わりに木が固く変形しにくいため,櫛にはもってこいの木材なのです。
しかし,固い材質ほど加工が難しいですが,高度な加工技術がすでに確立し,多くの専門の刀自たちによってけっこう大量に製作されていたのでしょう。
現在も「つげ櫛」は高級な櫛の代名詞となっているようです。
今もあるシリーズ「衾(ふすま)」に続く。
2012年9月8日土曜日
今もあるシリーズ「帯(おび)」
<現代の「帯」>
着物を着る機会が少なくなっている今,若者の含め「帯」といえば浴衣を着るときに巻くのが一番ポピュラーでしょうか?
ただ,服飾系の「帯」そのものではなく「帯状のもの」となると,次のように結構いろいろな言葉として存在しているように思います。
・携帯(けいたい)‥携え持つこと。英語ではmobile(モバイル)。
・帯状疱疹(たいじょうほうしん)‥帯状に赤い発疹と小水疱が出現する皮膚疾患
・地震帯(じしんたい)・火山帯(かざんたい)‥地震や火山噴火が頻発する帯状の地域
・帯域(たいいき)‥電気通信の用語で,周波数の幅のこと。一般にこれが広いほど通信速度性能が高い。
・路側帯(ろそくたい)‥おもに歩行者用に道路端寄りに設けられた帯状の部分。
<万葉時代の「帯」>
万葉集では服飾系の「帯」を詠ったものが多いのは予想がつきますが,次の詠み人知らずの短歌のように「帯状」を詠ったものもすでに出ています。
大君の御笠の山の帯にせる細谷川の音のさやけさ(7-1102)
<おほきみのみかさのやまの おびにせるほそたにがはの おとのさやけさ>
<<大君が三笠の山の周りを帯のように巡らしている細い谷川の流れる水音がさわやかです>>
また,「携帯する」という意味の「帯びる」も万葉集で詠われています。次は防人の妻が詠ったと考えられる短歌です。
葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ(13-3345)
<あしへゆく かりのつばさを みるごとにきみがおばしし なげやしおもほゆ>
<<葦辺へ飛ぶ雁の翼を見るたびにあなたがいつももっていた投げ矢を思い出します>>
さて,万葉集に出てくる「帯」にはどんなものがあるか見てみましょう。
・靫帯ぶ(ゆきおぶ)‥靫(矢を差し込んでおく皮のケース)を持って宮廷を守った者。
・白栲の帯(しろたへのおび)‥帯(「白栲の」は枕詞)
・倭文機帯(しつはたおび)‥古代の織物の一つ。穀(かじ)・麻などの緯を青・赤などで染め,乱れ模様に織った布で作った帯。
・狭織の帯(さおりのおび)‥幅を狭く織った倭文布で作った帯。
・韓帯(からおび)‥韓風のきらびやかで豪華な帯。
・引き帯(ひきおび)‥衣服の上に用いる小帯。
この中で,倭文機帯を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介しましす。
いにしへの倭文機帯を結び垂れ誰れといふ人も君にはまさじ(11-2628)
<いにしへの しつはたおびを むすびたれ たれといふひとも きみにはまさじ>
<<あの人もこの人も素敵な倭文機帯を垂らしているけれど,あなた以上に似合う人はいないわよ>>
倭文機帯は,当時都で流行した色の違う糸を使って織った布で作った帯のようです。非常に手の込んだもので,一目で倭文機帯と分かったのではないでしょうか。
今の特定高級ブランドに多くの人が憧れたり,購入したりする社会現象と1300年前の日本の都会もあまり変わりがなかったというかもしれませんね。
今もあるシリーズ「櫛(くし)」に続く。
2012年9月2日日曜日
今もあるシリーズ「網(あみ)」
万葉集で「網(あみ)」の意味の言葉が入っている和歌は20首以上あります。
網は今でもいろいろな用途で使われていますね。
たとえば,魚,鳥,獣,虫などを捕る網,投網(とあみ),旋網(まきあみ),網場(あば,あみば),魚を焼く網,一網打尽(一回の網で捕り尽くすこと),部屋の網戸,土地などを仕切る金網や鉄条網などがあります。
また,概念的な「網」の用語として,インターネットを支える通信網,テレビの放送網,警察の情報網・監視網,スパイ組織の諜報網,人間の神経網,鉄道や道路の交通網,蜘蛛の巣を形作る円網,網目模様などがありそうです。
そして,単純に「あみ」と読まない地名もたくさんあります。網引(あびき):兵庫県,網干(あぼし):兵庫県,網代(あじろ):静岡県,網走(あばしり):北海道,網田(おうだ):熊本県,網場(あば):長崎県などです。
さて,万葉集では「網」だけで使われる場合と次のような熟語で出てくる場合があります(地名に使われている場合を除きます)。
・小網(さで)‥2本の竹を交叉して三角状として,網を張って袋状にしたもの。
・網引(あびき)‥網を引いて魚を捕ること。
・網子(あご)‥地引網を引く漁師。
・網代(あじろ)‥竹や木を編んだみのを網を引く形に立て,端に簀をあてて魚を捕る漁法。
・網代木(あじろぎ)‥網代で打つ杭。
・網代人(あじろびと)‥網代に携わる漁師。
・網目(あみめ)‥糸,竹などを編んだときにできるすきま。
・鳥網(となみ)‥鳥を捕るために張る網。
上の地名に残っているものも結構ありますね。また,呼び方は違いますが今も使っている網の道具もあります。
最初は鳥を飼うために網で囲ったケージのようなものが万葉時代にあったことを示す短歌2首を紹介しました。
霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ(17-3917)
<ほととぎすよごゑなつかし あみささばはなはすぐとも かれずかなかむ>
<<ホトトギスの夜鳴く声が心惹かれる。網の張った保護地に入れれば,季節が過ぎて橘の花が散ってしまってもどっかに行ってしまわず鳴き続けるだろう>>
橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを(17-3918)
<たちばなのにほへるそのに ほととぎすなくとひとつぐ あみささましを>
<<橘の花がきれいに咲く園でホトトギスが鳴いていると人に知らせるためにホトトギスを網の張った保護地に入れておこう>>
この短歌は大伴家持が奈良の実家で読んだ6首の内の2首です。
これを読んだ天平16年当時,26歳の家持は政争に巻き込まれそうになったのたのです。「橘」「霍公鳥」は誰のことを指しているかなど興味はありますが,ここは「網さす」にのみ注目します。
「網さす」の「さす」は「花瓶に水を差す」と同じように「網を張ったケージの中にホトトギスを入れる」の「入れる」という意味だと私は思います。
ということは,当時鳥を飼育するための網で囲われたケージのようなものがあったのだろうと想像できます。
漁業で網を使うケースでは今もテレビで見たり,観光イベントで経験できるものがあります。
大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声(3-238)
<おほみやのうちまできこゆ あびきすとあごととのふる あまのよびごゑ>
<<宮殿の中まで聞こえる「さあ地引網を引くぞ」と網子の意気を合わせようとする漁師の掛け声が>>
大宮の御殿があるところは難波の宮だと思われます。
この短歌は長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が文武天皇が難波宮に行幸したとき,招集され詠んだもののようです。
難波の大宮は海の近くにあって,天皇が行幸を歓迎するため,漁師が大勢の人を使って,音頭を取りながら地引網で魚を捕っている様子が詠まれています。
おそらく,おいしい魚がたくさんとれて,今宵の宴は天皇歓迎一色になるでしょうと天皇に詠んだものかと思われます。
魚を捕るために網を引くのはどれだけいっぱい捕れているのだろうか期待が膨らむ瞬間です。
私も中学生のとき,一度だけ若狭湾で地引網を引くのを見学したことがあります。参加者は,気持ちを合わせて網を引き,捕れた魚が見え始めたときそれが歓声に変わります。
さて,学校の校庭と外を区切るのはなぜか網状の柵でできいることが結構あります。
学校の帰り,お目当ての異性の生徒が陸上部,テニス部などに入っていて,練習している可憐な姿を網越しにいつまでも眺めていたことはないでしょうか。
そんな気持ちに通ずる短歌が次の詠み人知らずの1首です。
あらたまの寸戸が竹垣網目ゆも妹し見えなば我れ恋ひめやも(11-2530)
<あらたまのきへがたけがき あみめゆもいもしみえなば われこひめやも>
<<寸戸というところで作った竹垣の網目から中があなたが見えないなら私はこんなにあなたのことを恋慕っていたでしょうか>>
このように万葉時代では,網状のものはさまざまな用途に作られていたことがわかります。
網は英語でネットワークといいますが,私たちは今さまざまなネットワークのもとで暮らしています。
特に良い友達とのつながりを広げ,人的ネットワークを拡大することはさまざまな時に自分を助けてくれることがあります。
そして,そういう人的ネットワークを通して社会貢献を行い,公共団体のセーフティーネットに頼らざるを得ない人を少なくしていければと考えています。
今もあるシリーズ「帯(おび)」に続く。
2012年8月26日日曜日
夏休みスペシャル「富士山八合目までハイキング
<富士山の途中まで>
本日,天の川君と一緒に富士山の八合目までハイキングに行ってきました。
富士山へハイキング? 登山じゃないの? と思われる方もいらっしゃるかと思いますが,頂上まで行かないつもりだったのでハイキングとしました。
天の川君は途中「歩くのしんどいわ」「靴の中に小石が入って痛おてたまらんわ」「腹減った」「のどが渇いた」「酒が飲みたい」などうるさいことばかり言ってましたが,何とか帰りの電車に乗れ,ほっとしたところです。
今,新しいパソコンを使い,帰りの電車の中からブログアップしています(写真は後日追加)。
<工程>
今日は,朝早く家を出て,湘南新宿ラインで国府津まで行き,御殿場線で御殿場(万葉集によく出てくる足柄の次の駅),御殿場から富士登山バスに乗り,須走口に10時前につきました。
その日の御殿場駅は自衛隊の演習を見に行く人でごった返していました。危うく自衛隊の訓練施設行のバスに乗ってしまうところでした。
バスは渋滞で到着が遅れ,出発時間が20分遅れました。さらに出発後も渋滞にはまり,予定より40分ほど遅い午前11時少し前に須走口五合目につくことになってしまいました。
写真は須走口五合目の案内板です。この地図の本八合目(標高約3,400m)を目指しました。
ここからは,もちろん徒歩です。
最初は勾配が結構きついものの次の写真のような樹林の中を歩く快適なハイキングです。
当日は猛烈な台風15号が沖縄地方に近づいていて,富士山の天気や風を少し心配しました。2,500~3,000mあたりに雲が少したなびいていましたが,それより上も下も快晴でした。
次の写真は,樹林地帯を抜け,雲がたなびいているあたりの高さから見た山中湖です。
万葉集にも次のような短歌がありますが,まさにそんな感じでしたね。
富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかりたなびくものを(3-321)
<ふじのねをたかみかしこみ あまくももいゆきはばかり たなびくものを>
<< 富士山は高く恐れ多いので雲も行く手をはばまれてたなびいている>>
風は微風程度で,急勾配を登って火照った体をちょうど良い具合に冷やしてくれました。
「六合目」には順調に到着,しかし,ようやく着いた次の休憩場所が「本六合目」,その後は標高が3,000mを超えて空気が薄くなり息も絶え絶え。
次の写真はやっと着いた七合目の山小屋「太陽館」(標高3,090m)です。最近出張で新横浜プリンスホテル(シングル)のスペシャルプラン素泊まり6,300円で宿泊したのですが,ここも同じ値段ですね。競争が無いのでこの値段でも泊まる人がいるということでしょうか。
天の川君の歩行速度の遅れもあり日帰りの設定で本八合目まで行けるか少し心配になってきました。けれど,「本七合目」から「八合目」までは,それほど距離はなく,何とか遅れを取り戻し,予定の時間通りさらに上の「本八合目」に到着しました。ここが,次の写真のように吉田口登山道と合流する場所です。標高は約3,400mで頂上まで後1時間半くらいで行ける場所です。
ここの山小屋前で少し休憩し,予定通りそれ以上上には行かず下山道を下ることにしました。
今回楽しみにしていたのは,本八合目からの下山道(登りとは別のコース)でのいわゆる砂走りです。駆け足くらいのスピードで砂地の下り道を降りていくのですが,体重を後ろに倒し,足で砂を押す感じでスピードを上げます。足への負担が思ったほどなく,快適に下って行けます。
ただ,最初は調子が良かったのですが,途中から砂の層が薄くなっている下り坂があり,砂が固い石の上を潤滑油のようにすべり,何度もしりもちをつきそうになりました。
さらに,トレッキングシューズに付けていたスパッツのコムが切れ,小石がトレッキングシューズに入りこみ,何度も靴を脱いで砂を出す羽目に。その間,私より年上と思われる女性が「気をつけてね」といって,砂を巻き上げ追い抜いていきます。
富士山の下り道の怖さを少し味わいました。今度は,もっと装備を工夫してみたいと思いました。
天の川君は今回の富士ハイキングをやってみてどんな感想を持っているのかな?
天の川 「次はたびとはん一人だけで行ってんか。ワイはもうコリゴリやわ」
天の川君の今年の夏休みも思い出深いものになったようですね。さて,次回から新たなシリーズを始めます。
万葉集に出てくるモノ,風習などで現在でも形は変わっていても,その源流が引き続き残っている言葉を取り上げていきます。
新シリーズ(今もあるシリーズ「網(あみ)」)に続く。
2012年8月19日日曜日
夏休みスペシャル「最近のできごと」思い切って買いました
<パソコンを買い替え>
いよいよ,私の9日間の夏休みも今日で終わり,明日からは仕事です。
さて,今回の夏休みで私がこのブログを書くのに愛用しているパソコン(Dynabook:6年前購入)に加え,この夏休みに同じくDynabookのウルトラブックという最新型ノートパソコンを思い切って購入しました。
写真の奥が従来のノートパソコンで手前がウルトラブックパソコンです。薄さが違いを分かって頂けますでしょうか?
従来のパソコンも持ち運びできるパソコンでしたが,結構重く,電源無しで使える時間も1時間余りで持ち運んでの利用は限られていました。それでも,昨年の台湾旅行では,重いのを我慢して持っていき,台北のホテルから投稿しました。
今回購入したウルトラブックパソコンは,時間電源無しでも長く使え,スピードも速く,重さも1kg余りで持ち運びが楽で,出先でも時間があればブログのなどの原稿作成もしやすくなりました。これから,出先からや新幹線などの移動中からの投稿がもっと増えるかもしれません。
<万葉集でも新しいものが欲しい作者も>
次の万葉集の短歌のように,いくら年代を重ねても道具を新しい物に取り替えることを継続していくことも新しい経験を積むという意味で,有意義かもしれません。
物皆は新たしきよしただしくも人は古りにしよろしかるべし(10-1885)
<ものみなはあらたしきよし ただしくもひとはふりにし よろしかるべし>
<<物はみな新しいものがよいが,ただ人は年をとっている方がいろいろ経験していて良いのでしょう>>
<奥鬼怒温泉郷へ>
それから,私はこの休み中に奥鬼怒温泉郷にハイキングと日帰り温泉浴に行ってきました。自動車で女夫淵温泉まで行き,駐車場に車を停め,そこから奥鬼怒温泉郷までハイキングをして,温泉に入る計画です。
ただ,女夫淵温泉から奥鬼怒温泉郷までのハイキング道は傾斜が急なところもあり,激しい雨が降ると川のようになる部分があるとのことで,この夏思い切って買ったトレッキングシューズに履き替え,凍った水のペットボトルとゼリー菓子を保冷袋に入れて,リュックに仕舞い,準備は万端でスタートしました。
最初は急な昇り階段を上っていくことになり,こんな厳しい道かが最後まで続くのかと思いました。そしたら,向こうからサンダル履き中年夫婦がかなり辛そうに降りてきました。いくら車で気軽に来れる軽いハイキングコースと言えども,サンダル履きキツイと同情しながら「気を着けて降りてください」と声を掛けるのが精いっぱいでした。
途中からは,鬼怒川沿いのゆるやかな上り坂に変わりましたが,少しぬかるんでいる場所があり,昨日降った雨の影響かと避けながら昇って行きました。1時間余りで八丁の湯に到着。お盆後でしたので,途中すれ違ったのは5人程度でした。
<加仁湯のお風呂と帰り道>
今回は,八丁の湯からすぐ上の加仁湯で温泉に入ることにしました。ロビーで500円を払い,日帰り温泉用の露天風呂に入りました。ロビーには帰りのバスを待つ泊まり客がいましたが,露天風呂は一人占め。種類の違う4種の温泉に交互に何回か浸かりました。
いや~,いい気分でした。ただ,湯の温度が結構高いので,ほどほどで終わらせ,ロビーに戻りました。そしたら,急に激しい雨が降ってきて,ロビーで釘づけになりましたが,早く外に出なくて良かったです。
1時間以上雨が完全に止むのを待ってから,水量の増した鬼怒川を見ながら女夫淵温泉まで戻ることにしました(もう少し廻りたかったのですが,また雷雨の可能性もあったため,あきらめました)。
昇って来た道は激しい雨のため水没しているところが多く,トレッキングシューズにして大正解でした。途中,大雨に遭ったハイカーに何人か会いましたが,可哀そうにみなさんずぶ濡れでした。
雨降ればたぎつ山川岩に触れ君が砕かむ心は持たじ(10-2308)
<あめふればたぎつやまがは いはにふれきみがくだかむ こころはもたじ>
<<雨が降れば激しく流れる山川が岩にあたって砕け散るように,君の心をそうならないように心しているからね>>
山を甘く見ない方が良いことを改めて知らされた,ハイキングでした。
夏休みスペシャル「富士山八合目までハイキング」に続く。
2012年8月16日木曜日
夏休みスペシャル「最近のできごと」オリンピック競技を見て
<ロンドン五輪や過去の五輪の感想>
17日間にわたるロンドンオリンピックも終り,睡眠時間が不規則で昼間体調管理に苦労していたのが,やっと以前の状態に戻りつつあります。
日本が過去のオリンピックで一番多くのメダルを獲得したことはまずは喜びたいですね。
私が最初にオリンピックのニュースを聞いたのはローマオリンピック(1960年)です。マラソンでエチオピアのアベベ選手が裸足で走り,ぶっちぎりで優勝したというニュースです。
そして,その4年後の東京オリンピックでは,国道を走る聖火ランナーを見に小学校から先生の引率で出かけたことを覚えています。
東京オリンピックでは「より速く,より高く,より遠く」ということをオリンピックのキャッチフレーズにしていた記憶がありますが,以前このブログでシリーズ化してアップしました「動きの詞シリーズ」のように動詞にあてはめると,いろいろな動きが各種競技で現れます。
走る(陸上トラック,マラソン,トライアスロン,球技),歩く(競歩),跳ぶ(陸上フィールド競技,トランポリン,体操,飛び込み,球技),投げる(陸上フィールド競技,球技,新体操,レスリング,柔道等),蹴る(サッカー,テコンドー),引く(アーチェリー),漕ぐ(ボート,カヌー),扱ぐ(自転車,トライアスロン),泳ぐ(水泳,水球,トライアスロン),突く(フェンシング),打つ(ボクシング,ホッケー,テニス,卓球,パレーボール,バドミントン),拾う(球技),捻る(体操,水泳飛び込み,トランポリン,新体操,シンクロナイズドスイミング),潜る(競泳,シンクロナイズドスイミング),切る(卓球,セーリング),かわす(格闘技,球技),持ち上げる(ウェイトリフティング,新体操団体,シンクロナイズドスイミング),押さえる(柔道,レスリング),渡す(陸上リレー,新体操団体),刺す(フェンシング,棒高跳び),越える(陸上障害,体操),着く(体操,トランポリン),回る(体操,トランポリン,シンクロナイズドスイミング,新体操),周る(陸上トラック,競輪,マラソン,競歩,トライアスロン),乗る(馬術,ボート,カヌー,セーリング,自転車),撃つ(射撃),守る(球技),攻める(球技)
さて,この中で当ブログの「動きの詞シリーズ」に出てこなかった動詞が詠み込まれていて,面白そうな万葉集の和歌をいくつか取りあげます。
最初は,「押す」からです。
あしひきの名負ふ山菅押し伏せて君し結ばば逢はずあらめやも(11-2477)
<あしひきの なおふやますげおしふせて きみしむすばばあはずあらめやも>
<<あしひきのという枕詞がつく山菅を押し伏せても君と結ばれれば,逢うことも可能でしょうか>>
「山菅を押し伏す」とは「大変な苦労をして」という意味だと私は考えます。女性からこんな歌を返されるとは,当時の妻問い(婚活)も大変だったようですね。
次は「打つ」です。
いにしへに梁打つ人のなかりせばここにもあらまし柘の枝はも(3-387)
<いにしへにやなうつひとの なかりせばここにもあらまし つみのえだはも>
<<昔、梁を打ちかける味稲という人がいなかったら、今もここに居るかもしれない柘の枝の仙女は>>
この短歌は「仙女枝歌(やまびめつみのうた)三首」(5-385~387)の最後の歌で,若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)が詠んだとされるものです。
この三首はある伝説を題材に詠まれたと題詞,左注に記されています。
その伝説とは,吉野の人である味稲(うましね)が柘(野生の桑の一種らしい)の枝を川魚を捕る梁(川底に枝を打ちつけ魚が引っ掛かるようにした罠)を打ち掛けたところ,その枝が仙女(やまびめ)になり,味稲と結ばれたという話です。
仙女は大変魅力的だったようで,若宮年魚麻呂は「味稲が余計なことをしなかったら今ここで仙女に会えたかもしれないのによ~」と物語の落ちを詠っているようです。
若宮年魚麻呂は,伝説をモチーフに漫談調の歌を歌い庶民を楽しませていたプロ歌手だったのかも知れません。
最後は「潜る」です。
海人娘子潜き採るといふ忘れ貝世にも忘れじ妹が姿(12-3084)
<あまをとめかづきとるといふ わすれがひよにもわすれじ いもがすがたは>
<<海人娘子潜って採るという忘れ貝だけど,それを得てもあの娘のことをずっと忘れ続けることはできない>>
万葉時代も海人娘子は美しい人魚をイメージし,珍しい魚介類や真珠を採ってくれる魅力的な存在だったのでしょう。
シンクロナイズドスイミング(アーティスティックスイミング)の選手ような海人娘子だったのも知れませんね。
オリンピックは様々なスポーツの(より美しくも含めた)魅力を改めて感じさせてくれました。
夏休みスペシャル「最近のできごと」思い切って買いました に続く。
17日間にわたるロンドンオリンピックも終り,睡眠時間が不規則で昼間体調管理に苦労していたのが,やっと以前の状態に戻りつつあります。
日本が過去のオリンピックで一番多くのメダルを獲得したことはまずは喜びたいですね。
私が最初にオリンピックのニュースを聞いたのはローマオリンピック(1960年)です。マラソンでエチオピアのアベベ選手が裸足で走り,ぶっちぎりで優勝したというニュースです。
そして,その4年後の東京オリンピックでは,国道を走る聖火ランナーを見に小学校から先生の引率で出かけたことを覚えています。
東京オリンピックでは「より速く,より高く,より遠く」ということをオリンピックのキャッチフレーズにしていた記憶がありますが,以前このブログでシリーズ化してアップしました「動きの詞シリーズ」のように動詞にあてはめると,いろいろな動きが各種競技で現れます。
走る(陸上トラック,マラソン,トライアスロン,球技),歩く(競歩),跳ぶ(陸上フィールド競技,トランポリン,体操,飛び込み,球技),投げる(陸上フィールド競技,球技,新体操,レスリング,柔道等),蹴る(サッカー,テコンドー),引く(アーチェリー),漕ぐ(ボート,カヌー),扱ぐ(自転車,トライアスロン),泳ぐ(水泳,水球,トライアスロン),突く(フェンシング),打つ(ボクシング,ホッケー,テニス,卓球,パレーボール,バドミントン),拾う(球技),捻る(体操,水泳飛び込み,トランポリン,新体操,シンクロナイズドスイミング),潜る(競泳,シンクロナイズドスイミング),切る(卓球,セーリング),かわす(格闘技,球技),持ち上げる(ウェイトリフティング,新体操団体,シンクロナイズドスイミング),押さえる(柔道,レスリング),渡す(陸上リレー,新体操団体),刺す(フェンシング,棒高跳び),越える(陸上障害,体操),着く(体操,トランポリン),回る(体操,トランポリン,シンクロナイズドスイミング,新体操),周る(陸上トラック,競輪,マラソン,競歩,トライアスロン),乗る(馬術,ボート,カヌー,セーリング,自転車),撃つ(射撃),守る(球技),攻める(球技)
さて,この中で当ブログの「動きの詞シリーズ」に出てこなかった動詞が詠み込まれていて,面白そうな万葉集の和歌をいくつか取りあげます。
最初は,「押す」からです。
あしひきの名負ふ山菅押し伏せて君し結ばば逢はずあらめやも(11-2477)
<あしひきの なおふやますげおしふせて きみしむすばばあはずあらめやも>
<<あしひきのという枕詞がつく山菅を押し伏せても君と結ばれれば,逢うことも可能でしょうか>>
「山菅を押し伏す」とは「大変な苦労をして」という意味だと私は考えます。女性からこんな歌を返されるとは,当時の妻問い(婚活)も大変だったようですね。
次は「打つ」です。
いにしへに梁打つ人のなかりせばここにもあらまし柘の枝はも(3-387)
<いにしへにやなうつひとの なかりせばここにもあらまし つみのえだはも>
<<昔、梁を打ちかける味稲という人がいなかったら、今もここに居るかもしれない柘の枝の仙女は>>
この短歌は「仙女枝歌(やまびめつみのうた)三首」(5-385~387)の最後の歌で,若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)が詠んだとされるものです。
この三首はある伝説を題材に詠まれたと題詞,左注に記されています。
その伝説とは,吉野の人である味稲(うましね)が柘(野生の桑の一種らしい)の枝を川魚を捕る梁(川底に枝を打ちつけ魚が引っ掛かるようにした罠)を打ち掛けたところ,その枝が仙女(やまびめ)になり,味稲と結ばれたという話です。
仙女は大変魅力的だったようで,若宮年魚麻呂は「味稲が余計なことをしなかったら今ここで仙女に会えたかもしれないのによ~」と物語の落ちを詠っているようです。
若宮年魚麻呂は,伝説をモチーフに漫談調の歌を歌い庶民を楽しませていたプロ歌手だったのかも知れません。
最後は「潜る」です。
海人娘子潜き採るといふ忘れ貝世にも忘れじ妹が姿(12-3084)
<あまをとめかづきとるといふ わすれがひよにもわすれじ いもがすがたは>
<<海人娘子潜って採るという忘れ貝だけど,それを得てもあの娘のことをずっと忘れ続けることはできない>>
万葉時代も海人娘子は美しい人魚をイメージし,珍しい魚介類や真珠を採ってくれる魅力的な存在だったのでしょう。
シンクロナイズドスイミング(アーティスティックスイミング)の選手ような海人娘子だったのも知れませんね。
オリンピックは様々なスポーツの(より美しくも含めた)魅力を改めて感じさせてくれました。
夏休みスペシャル「最近のできごと」思い切って買いました に続く。
2012年8月14日火曜日
夏休みスペシャル「最近のできごと」飲んで歌ってまた飲んで
<飲み会連チャン>
7月から8月の前半,私はいろいろな人と飲んだり,カラオケで歌ったりする機会がいつもより多くありました。
今一緒に仕事をしている仲間(といっても私より15~30歳位若い人達),以前仕事で一緒に苦労した別部門の人,お客様や取引先の社員,定年退職した以前の上司,15年ほど前にインド・シンガポール・韓国を訪問する視察団で一緒だった人,大学時代のクラブ顧問の先生,同期生,後輩など,ほぼそれぞれ別の日に飲んだのですから,回数が多いのは想像に難くないでしょう。
そういった親しい仲間,知人と飲むのは私にとって本当に楽しいことなのです。
今一緒にやっていることに対する気持ちの共有,過去の思い出を語たり合って懐かしむ,これからの予定や生き方を示し合って連携を模索,知らないことを教え合うなど,これら飲み会で私が今後も生きていくことへのモチベーションを高めてくれる情報がいっぱい入ってきました。
「そういったことはシラフでもできるはずだ!」いう人もいるかもしれません。でも私はそうは思いません。
万葉時代から,さまざまな人との宴(うたげ)で,人々が打ち解け合うことの大切さを知っていました。それが,万葉集に出てくる次の短歌で分かりそうです。
夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るにあにしかめやも(3-346)
<よるひかるたまといふとも さけのみてこころをやるに あにしかめやも>
<<たとえ夜でも光るという高価な玉よりも酒を飲んで心をリラックスさせる価値の方が高い>>
これは大伴旅人が詠んだ讃酒歌の1首です。
さて,宴はウチアゲの転ということが広辞苑などに載っていますが,ウタイアゲ(詠い上げ)の転というのはどうでしょうか。
万葉時代では宴の席で和歌を詠うのが定番だったように私は想像します。庶民の豊作祈願や収穫を祝う宴でも和歌の前進の歌謡を詠って場を盛り上げていたのでしょう。
万葉集にも和歌ではなく,次のような詠み人知らずの民謡や歌謡に近い歌が出てきます。
はしたての熊来のやらに 新羅斧落し入れ わし かけてかけてな泣かしそね 浮き出づるやと見む わし(16-3878)
<はしたてのくまきのやらに しらきをのおとしいれ わし かけてかけてななかしそね うきいづるやとみむ わし>
<<熊来の海の底に新羅製の斧を落としてしまったのか~ ワッショイ。声を出し出しそんなに泣くなよな~ 浮いてくるかもしれん,見ててあげるからよ~ ワッショイ>>
諸説が考えられますが,ひと儲けしようと新羅から高級品の斧を輸入しようとしたが,熊来という場所(能登の国)の近くで難破して海の底に落としてしまった商人を揶揄して詠ったのだろうと思います。
<現代のウタイアゲはカラオケボックス>
今の世の中でも,会社で出世できない連中が集まり,自分達より先に出世した社員の失敗を変え歌まじりに唄うことがあるのではないでしょうか。ワッショイ。
ところで,今回の飲み会の中でも,歌の好きな連中(私もその一人)が多いと二次会はカラオケボックスへ行くことになります(居酒屋で唄うと他のお客さんの迷惑になりますからね)。カラオケボックスでは,どんなに大きな声を出してもOKで,思い切り唄えます。
私は新しい歌は分かりませんから,往年のフォークソングを中心に唄うしかありません。それもメジャーでない曲が多く,若い人達からは「知らない曲ばかり」と言われます。もちろん,私はお構いなしで唄っています。
ただ,一緒に聞いている人がいる以上,昔の曲であっても今の若い人にも通じるメッセージ性の高いものを選んで唄っているのは事実です。
それとは別に,大きな声で唄うことはストレス発散には良いことだというのは間違いないでしょう。
夏休みスペシャル「最近のできごと」オリンピック競技を見て に続く。
2012年8月12日日曜日
夏休みスペシャル「最近のできごと」宇治⇒明日香:藤原宮跡に寄る
<睡魔との闘い>
日曜日の朝,JR宇治駅から奈良行き始発電車に乗った私は,当然のごとく夜を徹して大津から宇治まで歩いた睡魔に襲われ,あっという間に奈良駅到着。
奈良駅で桜井線(万葉まほろば線)の次の電車まで10分余りしかなかったため,今まで何度も泊まっているスパーホテルLOHAS奈良駅前の1Fコンビニでパンと野菜ジュースを購入。出発までの電車の中で朝食を済ませました。
桜井線でも睡魔に襲われ,すぐに畝傍駅に到着。畝傍駅(写真)は昨年降りた香久山駅より少し大きい駅です。
そこから南の飛鳥方面に行く道は昔からの街道(写真)らしく,雰囲気が伝わってきます。
畝傍駅から南東方向に1㎞程のところに藤原宮跡(写真)の遺跡があります。
南西に畝傍山,北に耳成山,南東に香久山に囲まれた藤原宮跡で,次の万葉集の長歌(詠み人知らず)から万葉人と同じ景色を見ていることを知ることができる歓びを感じます。
やすみしし我ご大君 高照らす日の皇子 荒栲の藤井が原に 大御門始めたまひて 埴安の堤の上に あり立たし見したまへば 大和の青香具山は 日の経の大御門に 春山と茂みさび立てり 畝傍のこの瑞山は 日の緯の大御門に 瑞山と山さびいます 耳成の青菅山は 背面の大御門に よろしなへ神さび立てり 名ぐはし吉野の山は かげともの大御門ゆ 雲居にぞ遠くありける 高知るや天の御蔭 天知るや日の御蔭の 水こそばとこしへにあらめ 御井のま清水(1-52)
長くなるので現代語訳は載せませんが,藤原宮を賛美するこの長歌では三山がちゃんと詠み込まれています。また,この長歌から藤原宮は水が湧き出る池があり,水路が張り巡らされていたのかもしれないと想像します。
私は藤原宮跡を後にして,甘樫の丘の東側に沿ってさらに南下して,明日香小学校の近くの蓮池(写真)の蓮の花が見ごろで綺麗でした。
それからさらに南下し,私がミカンの木のオーナーになっている農園に到着。そこで,摘果作業を行いました。生育が悪かったり,形の悪い実を取るのが摘果作業です。摘果した実は自宅に持って帰り,焼酎を炭酸で割るときに絞って入れます。レモンやスダチよりも柔らかい酸っぱさで,まずまずの味です。
さて,摘果作業が終わった後は近鉄橿原神宮前駅までの数㎞を再びひたすら歩きました。そこからは,(青春18きっぷは使えませんが)近鉄の急行電車で京都まで行き,京都からはJRの新快速,普通を乗りついで東京まで行き,自宅に付いたのは午後11時頃でした。
みなさんは「何でこんなしんどい旅をするのか?」と思われるかも知れませんが,次の中臣宅守の歌のように万葉時代の旅は簡単ではなかったことをほんの少し追体験したいという気持ちだけでしょうか。
旅と言へば言にぞやすきすべもなく苦しき旅も言にまさめやも(15-3763)
<たびといへばことにぞやすき すべもなくくるしきたびも ことにまさめやも>
<<旅と言うだけだったら本当に簡単だが,どうしょうもなく苦しいこの旅だと言うのは誇張ではないよ>>
夏休みスペシャル「最近のできごと」飲んで歌ってまた飲んで に続く。
2012年8月11日土曜日
夏休みスペシャル「最近のできごと」大津⇒宇治:奈良街道を歩く
みなさん。立秋が過ぎましたが,今年の残暑は衰えを知りません。
私は今日から9日間夏休みです。
今年の前半は会社での業務(ソフトウェアの保守開発)がキツく,また様々な友人と関係するイベントの幹事や実行委員が重なり,忙しい状況が続いていました。しかし,7月に入って,イベントも一通り終わり,今月からは会社での立場が変わることもあり,気分的にもこれまでにないゆったりとした夏休みを過ごせそうです。
<東京から大津まで>
今回は,そんな7月下旬の土日に滋賀県のJR大津駅から京都府のJR宇治駅まで奈良街道を歩きましたので,その報告をします。
土曜日の午後2時32分東京駅発の快速アクティーに乗り,一路熱海まで行きます。きっぷは「青春18きっぷ」。駅でSuicaにグリーンチャージ(750円)をしてグリーン車に乗りました。熱海からは,JR東海の普通電車を乗り継ぎ,夕方浜松駅を出て夕食を食べました(残念ながら鰻ではなく,カレーでした)。
浜松からは大垣行きの新快速に乗り,大垣から米原,米原から大津まで普通列車を乗り継ぎ,23:20に大津駅に到着しました。
大津駅南口改札を出たところで,自宅から持ってきたワッフルや凍ったペットボトルと一緒に保冷袋に入れて持ってきた冷たい枝豆を食べ,空腹を満たし,いよいよ宇治までの歩行開始です。
<深夜奈良街道を目指す>
大津駅南口から坂や階段を上がったところを国道1号線が通っています。国道1号線を一路京都に向かって歩きます。最初に目指すのは,京阪電鉄京津線大谷駅近くの逢坂の関跡とされる場所です。
写真は逢坂の関跡を示す石碑と説明書きの看板です。
逢坂の関ができたのは万葉時代より後と書かれいますが,このブログの「歌枕シリーズ」でも紹介しましたが,この場所付近を多くの万葉人が通ったこと確かです。
写真のように大谷駅(無人駅)はまだ最終電車前のためか,照明がされていました。
そこから,再び国道1号線を京都方面に下り,次の追分駅を過ぎると京都市山科区に入ります。
名神高速道路京都東IC手前から国道1号線を離れ,同IC下を抜けて,いよいよ奈良街道に入ります。
ほどなく,2番目の目的地がやってきました。同街道から横に少し入ったところに音羽珍事町なる町名があります。以前,このブログで山科に御陵血洗町があること紹介しましたが,こちらも珍しい町名としては負けていません。この住所が書かれているものを探そうというのが2番目の目的です。
ところが,電柱にも,通りの角の壁にも,民家の表札にも住所を書いたものが見つかりません。
ようやく見つけたのが,写真の京都市の広報板の下に書かれた住所です。
何か音羽珍事町に住んでいることを隠しているようにも見えたのですが,本当の理由は分かりません。
さて,写真を撮ったので,後はひたすら奈良街道を宇治に向かって歩くだけです。
音羽の次は大塚,そして仁徳天皇の時代に建てられたと伝わる岩屋神社のある大宅(おおやけ),小野小町と関係があるとされる小野,伏見区に入って豊臣秀吉が花見をした三宝院がある醍醐(だいご),次のように万葉集で詠われている「石田の杜(いわたのもり)」がある石田(いしだ)まできました。
山科の石田の杜に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも(9-1731)
<やましなの いはたのもりにぬさおかば けだしわぎもにただにあはむかも>
<<山科の石田の社に幣を捧げて祈ったらすぐ妻に逢えないだろうか>>
石田を過ぎると,JR奈良線と地下鉄東西線の乗り換えができる六地蔵駅前に到着。時間は午前3時を回っていました。地下鉄が結ばれたことで,私が山科に住んでいた頃来た六地蔵とはまったく異なる近代的な雰囲気になっています。
奈良街道は六地蔵で木幡池を避けるため左折します。昔は宇治川の氾濫を抑えるためか,このあたり周辺には無数の池があったようで,木幡池は現存する一つだそうです。
六地蔵で左折した奈良街道はすぐに万葉集の次の短歌に出てくる木幡に入ります。
山科の木幡の山を馬はあれど徒歩より我が来し汝を思ひかねて(11-2425)
<やましなのこはたのやまを うまはあれどかちよりわがこし なをおもひかねて>
<<山科の木幡の山を馬でも行けるけれど,僕は歩いて来たんだよ,お前を思いつつ>>
木幡からは,黄檗(おうばく),そして宇治川を越えて坂道を上ってJR宇治駅に到着したのが朝4時20分でした。宇治駅前のロータリーには人の姿はほとんどなく,100羽位のムクドリの集団が木にとまり,騒がしく鳴いていました。
夏真っ盛りですが,さすがに朝4時頃は涼しい風が吹き抜け,疲れた身体を癒してくれました。
宇治はお茶で有名ですので,駅前の郵便ポストもお茶壺のイメージです。
ちはや人宇治川波を清みかも旅行く人の立ちかてにする(7-1139)
<ちはやひとうぢがはなみを きよみかもたびゆくひとの たちかてにする>
<<宇治川の川波が綺麗なので旅行く人が次の目的地に向かうのをためらっている>>
私も同じ気持ちでしたが,次の予定があり,JR奈良線の始発列車を待って奈良,飛鳥方面に向かいました。その内容は次回にご紹介します。
夏休みスペシャル「最近のできごと」宇治⇒奈良⇒明日香をめぐる に続く。
2012年8月4日土曜日
対語シリーズ「笑むと泣く」‥対語シリーズを最終回
今朝未明,なでしこジャパンがロンドンオリンピック決勝トーナメントの準々決勝でブラジルに2対0で勝利し,日本選手や日本の応援団の笑顔が印象的でした。
万葉時代の「笑む」はまさに笑顔を作る「微笑む」に近い状況を指していたのかもしれません。
相手に対して好意を持っていることを示すもっとも簡単な方法が「微笑む」であることは今もあまり変わらないと私は思います。
ただ,どの程度好意を持っているかは微笑みかけられた側の受け止め方で大きく異なります。
微笑んだ側と微笑まれた側の好意に対する認識の差が大きいと両者のコミュニケーションがなかなかうまくいかないことが出てきます。
その例として次の詠み人知らず短歌が万葉集にあります。
道の辺の草深百合の花笑みに笑みしがからに妻と言ふべしや(7-1257)
<みちのへのくさふかゆりの はなゑみにゑみしがからに つまといふべしや>
<<道の傍の草の繁みに咲く百合の花が微笑んでいるようにちょっと微笑みかけただけでもう夫婦の関係とはいえないでしょう?>>
儀礼的に微笑んだのを相手がプロポーズの意志と勘違いするが実際にあったのかもしれませんね。
ただ,相手に好意は持っているのだけれど,本当は相手をじらすためにこんな短歌を詠んだとも考えられそうです。特にこの短歌の作者が女性だった場合です。
でも,やはり微笑みかけられることは嫌なことではありません。
次の東歌がそれを物語っています。
己が命をおほにな思ひそ庭に立ち笑ますがからに駒に逢ふものを(14-3535)
<おのがををおほになおもひそ にはにたちゑますがからに こまにあふものを>
<<自分の命をいい加減に思わないでください。あなたが私の家の庭に立って微笑むだけで私は駿馬に出会った気持ちになります>>
これから旅(徴兵?)に出る恋人に向けて詠んだものなのでしょうか。無事に帰って笑顔で微笑んでほしいという気持ちが込められているように私には強く感じられます。
この短歌に出会って,昔「かぐや姫」というフォークグループが歌っていた「あの人の手紙」の歌詞(結局恋人は戦死して帰ってこなかった)を思い出しました。
「笑む」が幸せを表す言葉とすれば,「泣く」はまさにその反対の言葉でしょうか。
万葉集は泣きたくなるような悲しい気持ちを詠んだ和歌も数多く出てきます。
照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに(4-690)
<てるつきを やみにみなして なくなみだ ころもぬらしつ ほすひとなしに>
<<照る月が闇夜に見えるほど泣いた涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人がいないのに>>
この短歌は大伴三依が詠んだとされる悲別の歌です。「干してくれる人」は笑顔で逢ってくれる恋人を指しているのでしょう。
次に万葉集においてお互い計63首もやり取りをした中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)の恋歌の中から,宅守の短歌1首を紹介します。
宅守は許されない娘子と結婚することで今の福井県に流罪となってしまいます。
離れ離れになってしまう二人にとって,涙も枯れ果てるような本当に切ない気持ちを和歌に託して詠んだ63首は,万葉集を代表する悲恋の歌群なのです。
我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし(15-3762)
<わぎもこにあふさかやまをこえてきて なきつつをれどあふよしもなし>
<<最愛の人に逢えるという逢坂山を超えて,逢える術がなく私は泣いてばかりいる>>
さて,私はここ1週間いろんなできごとがありました。ブログですから本当はその都度書きたいのですが,今時間がまとまってとれず,この後の投稿で少しずつ書いていきたいと思います。
その出来事の中でも,職場の後輩から「天の川」プレミアムやCrossのボールペン・シャープペンシルなどをプレゼントしてくれたのはもっともうれしかったできごとのひとつです。
特に「天の川」プレミアムは,このブログで「美味しかった」と書いたのを見てくれて,プレゼントのひとつに選んでくれたのです。
プレゼントを受けたときの私の「笑顔」はきっと最高のものだったのでしょう。
長く続けてきました「対語シリーズ」は今回で一旦終了とします。次回からしばらく夏休みスペシャルを続け,その後新たなシリーズをお送りします。
夏休みスペシャル「最近のできごと」に続く。
2012年7月22日日曜日
対語シリーズ「夏と冬」‥夏でも寒暖の差にご注意を!
気象庁から梅雨明け宣言が出て,各地で猛暑日(最高気温が35℃を越える日)も出ています。しかし,ここ数日関東地方は涼しい日が続いていて,半袖のシャツのみでは寒いくらいに感じる日(最高気温が22℃程度の日)もあります。
「夏」と「冬」の対語テーマとしては良い気温の変化かもしれませんね。
さて,万葉集に出てくる「夏」は時期は旧暦の4月~6月(今の5月~7月)であり,若干雰囲気が異なるのかも知れません。
例えば,今の「夏」は暑さが厳しいことが強調されますが,万葉時代の「夏」は次の詠み人知らずの短歌のように草木がものすごい勢いで成長,繁茂するイメージがあるように私は思います。
我が背子に我が恋ふらくは夏草の刈り除くれども生ひしくごとし(11-2769)
<わがせこにあがこふらくは なつくさのかりそくれども おひしくごとし>
<<あなたに対する恋しい気持ちは夏草が刈っても刈っても生えてくるのと同じです>>
いっぽう,「冬」に関する万葉集の和歌の多くが,「冬」を詠んでいるのではなく,「冬が終わって春になったなあ」「冬だけれどもうすぐ春だ」といったことを詠んだものが多く見受けられます。
少ない中でも次の短歌は万葉時代の冬の情景を示している貴重な1首だと言えるかも知れません。
道の辺の草を冬野に踏み枯らし我れ立ち待つと妹に告げこそ(11-2776)
<みちのへのくさをふゆのに ふみからしわれたちまつと いもにつげこそ>
<<道端の草を冬野のように踏み枯らして私が待っていると愛する人に伝えて欲しい>>
ただし,この短歌は夏に詠んでいます。夏草が延びるのを阻止するぐらい恋人の家の前で立って待っているというのです。妻問い婚は,当然女性の両親の許可が無いと逢うことも,手紙を渡すことも許されません。
結婚という面倒くさいことは嫌だから独身でいるという現代の独身男性はどう感じるでしょうか。
さて,最後は夏と冬の両方が出てくるさらに珍しい短歌です。柿本人麻呂歌集から転載した詠み人知らずの1首です。
とこしへに夏冬行けや裘扇放たぬ山に住む人(9-1682)
<とこしへに なつふゆゆけや かはごろも あふぎはなたぬ やまにすむひと>
<<いつも夏と冬があるというのか,皮衣と扇子をいつも持っているよ,この山に住む仙人は>>
この短歌は,仙人の形を書いた巻物を見て天武天皇の皇子である忍壁皇子(おさかべのみこ)へ献上したと題詞にあります。
高い山は夏でも夜や雨が降るとけっこう寒い場合があり,いっぽう太陽が出ると直射日光が当たる尾根や岩の上は非常に暑かったりします。
仙人が皮衣を着て,扇子を持っていたと思われる絵の不思議さを皆に伝えよようとしたのかも知れませんね。
いつも夏は腹を出して裸同然で寝ている天の川君は,最近このブログにチョッカイを出す頻度が少ないようなので,私が登山に行くときに一緒に連れて行こうかな。
少しはシャキッとするかも知れないですからね。
天の川 「たびとはん。何しょうもないことを考えてんねん。このクソ暑いのに何で山なんか登らなアカンねん。たびとはんだけで勝手に行ってきたらええやんか」
い~え,もう決めました。天の川君との富士登山(ただし,同行者の気力を考えると頂上までは無理なので,途中まで)のブログ8月下旬乞うご期待。
天の川 「そんなエゲツないことせんといてほしいわ」
対語シリーズ「笑むと泣く」に続く。
2012年7月17日火曜日
対語シリーズ「海と山」‥さあ夏休み!海に行こうか?山に行こうか?
もうすぐ,日本の多くの学校が夏休みになりますね。
海に行ったり,山に行ったりする計画を立てている人も多いことでしょう。
もちろん,日本は海に囲まれた山(島)や山に囲まれた海(入江)もたくさんありますから,両方一度に行く計画の方もいらっしゃるかもしれません。
さて,万葉時代の日本も海と山に恵まれていたと思われますので,本当に多くの海や山を詠み込みだ和歌が万葉集にたくさん採録されています。
「海」または「山」の漢字が何らかの形で入る万葉集の採録和歌数は,それぞれ何と数百首ずつあります。
その中で,「海」と「山」の両方が詠み込まれている歌を紹介します。
海山も隔たらなくに何しかも目言をだにもここだ乏しき(4-689)
<うみやまもへだたらなくに なにしかもめごとをだにも ここだともしき>
<<あなた様と私は海と山ほども仕切るものはないのに,なぜこうもお目に掛かったり,言葉を交わすことが少ないのでしょうか>>
この短歌は,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が詠んだ恋の歌です。もっとお逢いしたいという強い気持ちを海と山ほどの違いがない(同じ人間)ことを強調して伝えようとしていると私は感じます。
次は,旅先で嵐の後に浜辺に打ち上げられた船旅の溺死者を見て詠んだ詠み人知らずの長歌の反歌です。
あしひきの山道は行かむ風吹けば波の塞ふる海道は行かじ(13-3338)
<あしひきのやまぢはゆかむ かぜふけばなみのささふる うみぢはゆかじ>
<<やはり山道を行こう。風が吹けば波が行くてを妨げる海路は行くまい>>
万葉時代,海路が新しい旅路の方法(楽で早く着く)として開拓され,人気が高かったのかもしれません。しかし,嵐に合うと沈没や座礁事故が発生し,多くの犠牲者を出した可能性は否定できません。
この歌の作者は,それを考えると厳しい山道を越え行く旅路を選択する方が良いと考えたのでしょう。今でも事故に遭うとほぼ命は助からない飛行機には絶対乗らないという人がいますからね。
さて,次は海と山を対比するのではなく,見上げる山と見下ろす海の常なる存在とそれに比べて人間のはかなさを詠った詠み人知らずの長歌です。
高山と海とこそば 山ながらかくもうつしく 海ながらしかまことならめ 人は花ものぞうつせみ世人(13-3332)
<たかやまとうみとこそば やまながらかくもうつしく うみながらしかまことならめ ひとははなものぞうつせみよひと>
<<高山と海こそは,山はこのように現実にあり,海もあるがまま真に存在する。しかし,人は花のようにはかない。それは世の人の常である>>
起伏に富んだ島国の日本にとって,海と山は切り離せないものです。日本に多くあるリアス式海岸線では海と山は接していますから。
しかし,当時の政治の中心であった奈良盆地は海に接していません。同じ作者が詠んだと思われる一つ前の歌を見るとやはり海より山に軍配が上がってしまうようですね。山が5回出てきます。
隠口の泊瀬の山 青旗の忍坂の山は 走出のよろしき山の 出立のくはしき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも(13-3331)
<こもりくのはつせのやま あをはたのおさかのやまは はしりでのよろしきやまの いでたちのくはしきやまぞ あたらしきやまの あれまくをしも>
<<泊瀬の山と忍坂の山は稜線がなだらかに続く形の良い山並みで,それぞれ美しい山です。ただ,放置されて荒れてしまっているのが残念ですね>>
対語シリーズ「夏と冬」に続く。
2012年7月14日土曜日
対語シリーズ「親と子」‥そう!「親孝行,したいときには親は無し」なのだ。
「親と子」は単純な対語関係と割り切れないものがあります。
でも,自分の親,自分の子のように相互に親子関係ならば,やはり何らかの意識を双方がするのが普通かと思います。
「親のことは忘れた」「あいつとは一切親子の縁を切った」などと言ったところで,何らかの「親と子」という意識があるから出る言葉でしょう。
さて,さまざまな人間模様を詠った和歌がたくさん収録されている万葉集,当然「親」や「子」を詠んだ和歌が数多く出てきます。
まず,恋路の邪魔をする親(父母)を詠んだ子どもたち(詠み人知らず)作の短歌を3首紹介します。
みさご居る荒礒に生ふるなのりそのよし名は告らじ親は知るとも(12-3077)
<みさごゐるありそにおふる なのりそのよしなはのらじ おやはしるとも>
<<みさご(大型の海鳥)の住んでいる磯に生えるなのりそ(ホンダワラ)のように,名前は伝えません。親が知ると厄介だからね>>
父母に知らせぬ子ゆゑ三宅道の夏野の草をなづみ来るかも(13-3296)
<ちちははにしらせぬこゆゑ みやけぢのなつののくさを なづみけるかも>
<<父にも母にも知らせていないが,恋しい君だから三宅道の夏野の草をかき分け,分からないように静かに通うことになるなあ>>
上つ毛野佐野の舟橋取り離し親は放くれど我は離るがへ(14-3420)
<かみつけのさののふなはし とりはなしおやはさくれど わはさかるがへ>
<<上野の佐野の舟橋を取り外ししてしまうように,親達は(貴方と私を)離そうするけれど,私別れたりなんかしないのだから>>
いつの世でも親が認める子どもの結婚相手と子どもが好きになる相手が同じでないことが少なくないようですね。
しかし,親(父母)を愛し,恋しく想う和歌も万葉集にはもちろんたくさんあります。その代表的なものが防人に関連する歌です。
最初は駿河の国出身の防人川原虫麻呂が詠んだとされる1首です。
父母え斎ひて待たね筑紫なる水漬く白玉取りて来までに(20-4340)
<とちははえいはひてまたね つくしなるみづくしらたま とりてくまでに>
<<父さん母さん、身を清めお祈りしながらお待ちください。筑紫の海底にあるという真珠を採って帰ってくる日まで>>
次は,大伴家持が防人の気持ちになって詠んだ長歌の反歌です。
家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(20-4409)
<いへびとのいはへにかあらむ たひらけくふなではしぬと おやにまをさね>
<<家族が身を浄め祈ってくれたので平安な船出だったと母父にお伝えください>>
両方とも,天平勝宝7(755)年2月に採録したとの記録が万葉集の題詞にあります。
親が防人として出兵した子どもの無事をひたすら祈っている。子どもはそのことを痛いほど分かっているわけです。
祈りを通して親子の気持ちが一つになっているのですが,今の平和な日本にそんな親子関係を大切にする気持ちが変わらずあることを祈りたいですね。
そして,子ともが帰らぬ人となったとき家族はどんなに悲しむことになるのか,次は路傍の生き倒れの死人を見ての鎮魂歌です。
母父も妻も子どもも高々に来むと待ちけむ人の悲しさ (13-3337,3340)
<おもちちもつまもこどもも たかたかにこむとまちけむ ひとのかなしさ>
<<父母も妻も子どもも今か今かと帰えりを待っているであろう家族にとって本当に悲しいことだ>>
親子がお互いに生きている間に相互に愛情を持った孝行ができるようにしたいものです。一方が死んでからではできないですからね。
対語シリーズ「海と山」に続く。
2012年7月8日日曜日
対語シリーズ「押すと引く」‥押しが強ければ引き技もきれいに決まる?
<「天の川」特集は今年も好評>
このブログの閲覧数が先月後半から急増しています。閲覧頂いているほとんどの記事が,昨年の七夕に合わせてアップした「天の川」特集の3編です。
昨年の同時期の閲覧数も急増しましたが,うれしいことに今年はそれをはるかに超える数になっています。ありがたいことですね。
多くの方々に見て頂くことは大変光栄ですし,また「天の川」特集を閲覧して頂いたことをきっかけに,当ブログの他の記事もご覧頂くことになれば幸いです。
さて,昨晩は前回の投稿で写真紹介した壱岐の「天の川酒造」が1986年の貯蔵した麦焼酎「天の川」プレミヤム25年をストレートで味わいました。アルコール度数36度にも関わらず,非常にまろやかでした。それでいて,酔い心地が良く,ゆったりした気分にしてくれました。焼酎というより,熟成したウィスキーに近い味わいのように感じました。
<相撲の押し技と引き技>
ところで,今日から大相撲名古屋場所が始まります。久々の日本人力士優勝があるか,注目をしています。私にとって,相撲は四っ相撲からの豪快な投げ技も見事と感じますが,激しい押し相撲の迫力も見ごたえを感じます。しかし,引き落とし,はたき込み,肩透かし,突き落とし,送り出しなどの鮮やかな引き技も私には魅力に感じます。引き技によって負ける力士は自分が前へ押す力を利用されて引き技に引っ掛かるのだろうと思います。
引き技をあざやかに掛けるためには,相手に(余力を持たせず)渾身の力でこちらら向かってくるように仕向けなければなりません。引き技を掛ける方もまず渾身の力で相手を押し,相手に堪える力を出させます。そして,相手がもう少し力を出せば押し返せると思った瞬間を見計らって引き技を掛ける。そうすると,労せずして相手は力余ってばったり倒れたり,土俵を割ったりします。
万葉集では,相撲の技は出てきませんが,「押す」と「引く」の言葉は多数の和歌で詠まれています。まず,「押す」を詠み込んだ詠み人知らずの東歌(作者は人妻)です。
誰れぞこの屋の戸押そぶる新嘗に我が背を遣りて斎ふこの戸を(14-3460)
<たれぞこのやのとおそぶる にふなみにわがせをやりて いはふこのとを>
<<誰だろう,家の戸を揺さぶっているのは?新嘗祭のお祝いに私の夫が出かけているのを知っていて家の戸を(揺さぶっているのは)>>
万葉時代の東国は,おおらかな習慣があったのを示したいがために,編者はこの短歌を万葉集に入れたのでしょうか。
もし,本当に女性にとって迷惑だったら歌にしないでしょうね。亭主以外と密通なんて,今でもハラハラドキドキの想像が膨らむ短歌です。もちろん,人妻の立場で東国の男性がこの短歌を創作して,宴会で歌った可能性もあるでしょうね。
ただ,当時の平城京の男性達はこの短歌を見てどう思ったでしょうか? 東国は自由でいいなあ,東国へ行ってみたいなあ,東国で暮らしたいなあ,などと思ったかもしれません。私は万葉集の編者が東国へ誘おうとする意図を感じてしまいます。
次は東歌ではないですが,駆け落ちを想像させる詠み人知らずの短歌も万葉集にはあります。
奥山の真木の板戸を押し開きしゑや出で来ね後は何せむ(11-2519)
<おくやまのまきのいたとを おしひらきしゑやいでこね のちはなにせむ>
<<この重い無垢の板戸を押し開いて,さあ出ていらっしゃい。今しかないのだ>>
何か,あれをしてはいけない,これをしてはいけないという重い慣習を思い切って押し破るイメージでしょうか。
さて,今度はもうひとつの「引く」をテーマとした少し滑稽な短歌をいくつか紹介します。
梓弓引きみ緩へみ来ずは来ず来ば来そをなぞ来ずは来ばそを(11-2640)
<あづさゆみひきみゆるへみ こずはこずこばこそをなぞ こずはこばそを>
<<弓を引く,弛めるのように,来ないのなら来ない、来るのなら来るとはっきりしてくださいな。なのに来るとか来ないとか曖昧なことばかり言って,もう!>>
弓を引くとはしっかり的を絞るという意味かも知れませんね。煮え切らない男の態度に業を煮やしたのかも。
さて,次は無精ひげを生やした僧侶達をコケにしたこれも詠み人知らずの短歌です。
法師らが鬚の剃り杭馬繋いたくな引きそ法師は泣かむ(16-3846)
<ほふしらがひげのそりくひ うまつなぎいたくなひきそ ほふしはなかむ>
<<横着して鬚を剃らないで伸びて来た坊さんの鬚に馬を繋いで強く引かせてはいけないよ。坊さん泣くだろうからね>>
万葉時代,仏教の僧侶と言えば非常に高貴であり,時代の最先端の知識を持っていたエリートでした。当時の僧侶は,頭と顔を綺麗に剃り,清潔感溢れるスターのイメージです。
しかし,着ている衣(袈裟)は同じでも,行動力,態度,知識,書,講話力,修行の重ね具合などの実力には,それぞれ差が大きかったのでしょう。こんな髭を馬に引っ張られて痛がる僧をイメージした短歌が作られるくらいですから。ただ,僧侶の方も負けていません。この短歌に対して「拙僧を馬鹿にすると,税の取り立てが厳しくなり泣くことになるぞよ」と返しています。
そのほか,「引く」を詠み込みだ万葉集の和歌は80首超でてきます。引く対象は弓や馬以外に,網(あみ,つな),舟,眉,裳,裾,水,葛,麻,花などがあります。
対語シリーズ「親と子」に続く。
2012年7月6日金曜日
対語シリーズ「逢うと別れ」‥「天の川」それは出逢いと別れの象徴?
私ごとで大変恐縮ですが,ボーナスが予想よりほんの少し多く出たので,思い切って七夕を機に壱岐の麦焼酎「天の川」プレミアム(写真)を買いました。
何と通常の焼酎ボトルの半分の量(360ml)で2,100円もします。
庶民の私にとっては,急流の天の川に飛び込むような勇気を振り絞って買った次第です。
ただ,申し訳ありませんが,味はまだ飲んでいないので分かりません。呑ん兵衛の天の川君に見つからないように隠しておいて,明日の七夕の夜に飲むことにしています。その味は次回に報告します。
さて,今回のテーマは「逢うと別れ」です。まさに明日の七夕では牽牛と織姫が年に一回逢い,そして翌日には別れ,翌年の七夕まで逢えないのです。
次は,天平2(730)年の七夕の頃,大伴旅人邸の宴席で山上憶良が詠んだとされる短歌です。
玉かぎるほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは(8-1526)
<たまかぎるほのかにみえて わかれなばもとなやこひむ あふときまでは>
<<ちらっとお逢いしただけで別れれば無性に恋しく思うでしょう。再び逢える時までは>>
1年に一度ほんの少しだけしか逢えず,すぐ別れてしまうからこそ,恋の想いがさらに募るのでしょうね。
次も七夕の「逢うと別れ」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
月日えり逢ひてしあれば別れまく惜しくある君は明日さへもがも(10-2066)
<つきひえりあひてしあれば わかれまくをしくあるきみは あすさへもがも>
<<月日はいっぱいあるけれど,今日一日と定めて逢ふのですから,別れることが捨てがたいあのお方は明日までもいて下さればよいのですが>>
織女の今夜逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ(10-2080)
<たなばたのこよひあひなば つねのごとあすをへだてて としはながけむ>
<<織姫は七夕の今夜彦星に逢えたなら,またいつものように明日から二人は離れ離れとなって一年の長い時を過ごしていくのか>>
明日には別れる定めであっても,もう一日でも長く逢っていたいのが,愛し合う二人の気持ちに違いありません。
牽牛と織姫は一年でたった一日だけでも逢える可能性があります。
ただ,遣新羅使のように船が難破して,命を落とし,二度と最愛の人に逢えない可能性があると次の短歌となります。
天平8(736)年の七夕,新羅に向かう遣新羅使が福岡で詠んだ短歌です。
年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我れにまさりて思ふらめやも(15-3657)
<としにありてひとよいもにあふ ひこほしもわれにまさりて おもふらめやも>
<<一年中で一夜だけ織姫に逢う彦星でも私以上に妻のことを想うはずがない>>
万葉時代,このようにして,さまざまな人達が七夕を通して,お互いの恋しい気持ちを確認し合っていたのかもしれません。
対語シリーズ「押すと引く」に続く。
登録:
投稿 (Atom)