現代で「衣(ころも)」というと,季節の変わり目で着る服を冬服や夏服に変える「衣替え」や,てんぷらの外側に付ける小麦粉を水で溶き,卵を入れた「衣」くらいしか使わなくなっているのかもしれません。
「衣」という言葉が今はあまり使われなくなった理由として衣(衣服,着物)の種類が増えたことがあるのではないでしょうか。
たとえば,洋服,和服,スーツ,ワンピース,背広,普段着(カジュアル),礼服(フォーマル),パーティードレス,燕尾服,タキシード,作業(仕事)着,寝間着,浴衣,水着などです。
ところで,万葉集の中で「衣」を詠んだ最も有名な短歌は,百人一首にも類似の歌がでている次の持統天皇作といわれる歌でしょう。
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(1-28)
<はるすぎてなつきたるらし しろたへのころもほしたり あめのかぐやま>
<<夏が過ぎて夏が来たらしい。真っ白い衣が干されているぞよ,天の香具山に>>
万葉集に出てくる衣(ころも,きぬ)の入っている熟語には,次のようなものがあります(枕詞で使われている場合を除く)。
赤衣(あかぎぬ)‥赤い色の着物
秋さり衣(あきさりころも)‥秋になって着る着物
麻衣(あさころも)‥麻の布でできた衣服
薄染衣(うすぞめころも)‥淡い色に染めた衣服
肩衣(かたぎぬ)‥袖のない肩から布を掛けたような服。古代の庶民服。
形見の衣(かたみのころも)‥死んだ人の形見の衣服
皮衣(かはころも)‥動物の皮で作った防寒用の衣
唐衣,韓衣(からころも)‥中国風または朝鮮風の衣服。
雲の衣(くものころも)‥織姫が着ている衣を指す
衣手(ころもで)‥袖のこと
下衣(したころも)‥下着のこと
塩焼衣(しほやききぬ,しほやきころも)‥塩を焼く人(製塩作業者)が着る粗末な作業着
袖付け衣(そでつけころも)‥肩衣と対比した袖のある当時としては高価な服
旅衣(たびごろも),旅行き衣(たびゆきころも)‥旅に出るときに着る衣服
玉衣(たまきぬ)‥宝石で飾った服
露分け衣(つゆわけころも)‥草露が多い場所を歩くとき着る服装
布肩衣(ぬのかたぎぬ)‥布のまま,縫製していないような粗末な衣服
藤衣(ふぢころも)‥藤つるの繊維から作った,隙間だらけのごく粗末な衣服
古衣(ふるころも)‥着古した衣服
御衣(みけし)‥天皇が着る衣服
木綿肩衣(ゆふかたぎぬ)‥木綿の布で作った肩衣
これを見ても分かるように,万葉時代は日本古来の服装が布を首が通る部分を残して縫い合わせ,頭を通して,肩から前後に垂れ下げただけの衣服(肩衣)だったのが,唐衣のような袖を付けた服装(袖付け衣)が作られ,中流階級以上で着られるようになった時代だったことが分かります。
そんな当時のファッションが万葉人にとってどんな感覚であったか想像できる短歌をいくつか紹介します。
須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず(3-413)
<すまのあまのしほやききぬの ふぢころもまどほにしあれば いまだきなれず>
<<須磨の海女が塩焼きに着る藤衣のような私は,織目が粗いので(粗野なので)なかなか着慣れない(とっつきにくい)でしょう>>
この短歌は,大網公人(おほあみのきみひと)という人物が宴席で詠った歌と題詞にかかれています。宴会で自分を謙遜して挨拶代わりに詠ったのではないか私は思います。
海女の着る塩焼き衣の中でも藤衣はとても織り目が粗く,肌が透けて見えるほどということが当時広く知られていたのでしょう。「そんな粗野な私だけれど末永くお付き合いをお願いしたい」という意味の短歌だと私は解釈します。
次は,裏地のある豪華な衣を題材にした詠み人知らずの短歌です。
赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも(12-2972)
<あかきぬのひたうらのきぬ ながくほりあがおもふきみが みえぬころかも>
<<赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣を私が長い間いつも欲しいと願っているのと同じほど思い慕うあなた様,この頃はお見えになりませんね>>
いつの時代も女性にとってオシャレな服,豪華な服,他の人が羨ましいと思うような服を着てみたいという欲求はあまり変わらないのではないでしょうか。そんな気持ちと恋人を思う気持ちを重ね合わせたこの短歌から,万葉時代の女性が服装に対する考え方の一端が見えるかもしれませんね。
最後に,今出た赤以外の衣の色(紫色,青色,桃色)が出てくる短歌を紹介して今回の投稿を締めくくります。とにかく,当時からさまざまな色に染められた衣があったようですね。
韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも(4-569)
<からひとのころもそむといふ むらさきのこころにしみて おもほゆるかも>
<<韓人の衣を染める紫のように心に染みて思いが募ります>>
月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ(7-1339)
<つきくさにころもいろどり すらめどもうつろふいろと いふがくるしさ>
<<月草で衣を青色に染めようと思うけれど、その色はあせやすいっていう評判があるのがつらい>>
桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも(12-2970)
<ももそめのあさらのころもあさらかに おもひていもにあはむものかも>
<<桃の色に染めた薄い色の着物のように薄っぺらな気持ちであなたに会ったりはしないのですよ>>
今もあるシリーズ「枕(まくら)」に続く。
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