ミシンが発明されるまでは,縫製と言えば針に糸を通して手で縫うのが一般的でした。
私の母は,ミシンもしましたが,和服の仕立てが得意で,前にも書きましたが,振袖,留袖,訪問着,僧侶の袈裟などを仕立てる内職をしていました。
私が中学生位になると,母は老眼が進み,針に糸を通すのに苦労していました。ただ,糸の先と針の孔はよく見えないのに,大概は勘で糸を通していました。
万葉集に次のような針を詠んだ短歌が出てくるのは,もう縫製用の針が一般にも使われていたことが伺えます。
草枕旅の翁と思ほして針ぞ賜へる縫はむ物もが(18-4128)
<くさまくらたびのおきなと おもほしてはりぞたまへる ぬはむものもが>
<<草を枕にして寝る旅の爺さんとお思いになって(あなたは)針を下さいました。この上は縫うためのもの(布)が欲しいものです>>
針は裁縫用具として重要な道具ですが,先がとがっているため,そのままでは肌に刺さったりして危ないものです。そのため,針を安全に保管したり,持ち運べるように針専用の袋が,上の短歌の次に載せられている短歌からすでにあったことが伺えます。
針袋取り上げ前に置き返さへばおのともおのや裏も継ぎたり(18-4129)
<はりぶくろとりあげまへにおき かへさへばおのともおのや うらもつぎたり>
<<いただきました縫い針袋を取り出して目の前に置きひっくり返してみたら何とまあご丁寧に裏にまで凝った裏地が継いでありました>>
この2首は,天平勝宝元(749)年11月12日に,国主として越中赴任中の大伴家持の補佐官である大伴池主(おほとものいけぬし)が贈った短歌4首の内の2首です。
この針や針袋などは,家持と池主だけが分かる別の何かを指していると私には思えてなりません。たとえば,針は武器で,針袋はそれを覆い隠して分からなくする船とかです。
家持の返歌が無くなっているとの注釈もあり,この返歌を残すことは家持にとって都合があまり良くなかったのかもしれません。大伴池主は7年後に発生した橘奈良麻呂の乱に加わったため,捕縛され,獄死した可能性があるようです。
最後に女性が針について詠んだ短歌を紹介します。
我が背子が着せる衣の針目おちず入りにけらしも我が心さへ(4-514)
<わがせこがけせるころもの はりめおちずいりにけらしも あがこころさへ>
<<わたしの愛しているあなたが着る衣の針目はしっかり縫い込みまれたはずよ,わたしの恋しい心も一緒にね>>
このころ,裁縫はすでに女性の嗜みとして,けっこう広まっていたのだろうとこの短歌からも感じます。
それにしても,当時の針はどんな太さで,どのくらい長かったのでしょうか。気になりましたので,Wikipediaで針を調べてみました。そうしたら,昔は木や骨を削って作ってたようです。万葉時代の針は何でできていたか,興味が尽きません。
さて,針と言えば糸が付き物ですね。次は糸について取り上げます。
今もあるシリーズ「糸(いと)」に続く
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