「栄ゆ」の最終回は,これまで出てこなかった「栄ゆ」が読み込まれている和歌について,万葉集を見ていきます。
今回の最初は,海犬養岡麻呂(あまのいぬかひのをかまろ)が宮廷で聖武(しやうむ)天皇から命じられ詠んだとされる短歌です。
御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば(6-669)
<みたみわれいけるしるしあり あめつちのさかゆるときに あへらくおもへば>
<<陛下の民である私は生きている有難さを感じています。天地が栄える時に偶然生まれ合わせたと思うので>>
「今の社会の繁栄は天皇のおかげ,そんな時に生まれて本当に幸せです」といった天皇礼賛(=よいしょ)の典型のような短歌でしょうか。
聖武天皇は,奈良の大仏殿や各地の国分寺・国分尼寺を始めする寺院の建設,恭仁(くに)京や難波(なには)京への遷都(結果は頓挫)などの公共事業を積極的に推進したようです。
政権の財政を逼迫させるような浪費にも見えますが,その結果,諸産業が活性化し,多くの人が職に就け,天平文化が開花し,栄えたとも言えそうです。
さて,次は天皇礼賛ではなく,大伴氏礼賛の短歌(この短歌はすでに何度かこのブログで紹介)です。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
国の繁栄は大伴氏の武勇によるものだと言いたいのでしょう。ただ,この短歌が詠まれた平城京の時代では武勇は過去のもので,昔を懐かしんで詠まれたのかもしれません。
最後は,雨乞いをしていたら,雨が降ってきて良かったという大伴家持が天平感宝元(749)年6月4日に越中で詠んだ短歌です。
我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ(18-4124)
<わがほりしあめはふりきぬ かくしあらばことあげせずとも としはさかえむ>
<<我らが欲しいと願った雨はとうとう降ってきたので,もうあれこれ心配ごとを言わなくても豊作の年となるでしょう>>
実は天平感宝という元号は,この年の4月に天平21年から改元され,同じく7月には天平勝宝元年に改元されたということで,わずか3ヶ月ほどの短命な元号ということになります。
その3ヶ月間の出来事を表す時だけ使う元号となるため,一般の歴史書にはほとんど表れない元号となっているようです。
しかし,この短歌の前にある同じく家持が詠んだ雨乞いの長歌の題詞には,「天平感寶元年」とあるとのことで,正確に元号が記されていることに私は万葉集全体の内容に関する信頼性を感じます。
この長歌では,この年の5月に長く雨が降らないため(空梅雨),稲の葉が萎んでいく姿を見て,雨が降ってほしいと必死な雨乞いの気持ちを詠んでいます。
越中守の家持の下には,農家からは窮状を訴える陳情が多く寄せられていたのだと思います。
当時は海水の淡水化装置がある訳ではありませんから,こればかりは天に祈るしかなかったのでしょう。そして,6月についに雨が降ってきて,この短歌のように安堵する家持がそこにいるのです。
越中の平和で栄え豊かな生活を維持するという重い責任を負わされた家持の人間らしい側面がこの短歌には,またにじみ出いるように私には感じます。
これで,「栄ゆ」は終わります。
実は,万葉集に関する新しいブログを立ち上げました。
ブログの名称は,ブログ「万葉集に関するクイズです」です。
http://quiz-mannyou.blogspot.jp/
タイトルの通り,万葉集をテーマとしたクイズを次々と出していくブログです。
そちらも楽しんでください。なお,このブログも継続して投稿していきますよ。
このブログの次のテーマは動詞「参ゐる」を見ていく予定です。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(1)に続く。
2015年5月31日日曜日
2015年5月23日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2) 植物が元気に育つ初夏ですね。
「栄ゆ」の2回目は,植物が栄える(繁茂する)という意味で使われている万葉集の例を示します。
最初は,現在の桜井市にあったといわれる大伴氏の荘園を訪れた紀鹿人(きのしかひと)がその立派さを詠った短歌です。鹿人の属する紀氏と大伴氏との間には太い交流関係があったようです。
茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく(6-990)
<しげをかにかむさびたちて さかえたるちよまつのきの としのしらなく>
<<茂岡に神々しく立って栄えている千代松の木はその立派さに樹齢を推測することもできないです>>
荘園には千代松という立派で樹齢が長いシンボル的な松の木があったのでしょう。それをほめたたえることで,大伴氏が長年所有し,整備してきた荘園の価値を高く評価したのだと思います。
次は馬酔木の花(枕詞として使用)を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも(7-1128)
<あしびな さかえしきみが ほりしゐのいしゐのみづは のめどあかぬかも>
<<(馬酔木の白い花がたくさん咲くように)立派になられたあなた様が掘られた石井の井戸水はいくら飲んでもおいしいですね。>>
馬酔木の花・茎・葉などには毒があり,獣や虫が寄り付かない効果があるためか,井戸の周りに植え,井戸水が常にきれいであるようにしていたのかもしれません。もちろん,馬酔木の花自体も白く,見ていて清潔感があり,井戸や池の周りに植えるのに適していたと私は想像します。
最後は,草が盛んに生えることを詠んだ柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの旋頭歌です。
山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ(7-1286)
<やましろのくせのやしろのくさなたをりそ わがときとたちさかゆともくさなたをりそ>
<<山城の久世の社の草を手折ってはならない。我が世の盛りとばかり立ち栄えていようとも社の草を手折ってはならない>>
これは,久世にある社(神社)は雑草さえも霊験あらたかなので,むしり採っていけない。少しぐらいむしり採っても分からないくらい生い茂っていても,やはりむしってはいけないということを詠ったと素直に解釈できそうです。
しかし,この前に出てくる旋頭歌1285では,田で一人で作業をしている疲れた若者に対して,「お前には助けてくれる妻がいないから疲れているだよね」とカラかっているものがあります。
この旋頭歌1286が旋頭歌1285の続きであれば,意味が違ってきそうです。たとえば,草のことを若い妻候補の女性のこととすれば(旋頭歌1285に出てくる「若草の」は妻に掛かる枕詞),「僕にはいっぱい妻候補がいるんだ。かっさらったりするんじゃないぞ!」という内容にも思えます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(3:まとめ)に続く。
最初は,現在の桜井市にあったといわれる大伴氏の荘園を訪れた紀鹿人(きのしかひと)がその立派さを詠った短歌です。鹿人の属する紀氏と大伴氏との間には太い交流関係があったようです。
茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく(6-990)
<しげをかにかむさびたちて さかえたるちよまつのきの としのしらなく>
<<茂岡に神々しく立って栄えている千代松の木はその立派さに樹齢を推測することもできないです>>
荘園には千代松という立派で樹齢が長いシンボル的な松の木があったのでしょう。それをほめたたえることで,大伴氏が長年所有し,整備してきた荘園の価値を高く評価したのだと思います。
次は馬酔木の花(枕詞として使用)を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも(7-1128)
<あしびな さかえしきみが ほりしゐのいしゐのみづは のめどあかぬかも>
<<(馬酔木の白い花がたくさん咲くように)立派になられたあなた様が掘られた石井の井戸水はいくら飲んでもおいしいですね。>>
馬酔木の花・茎・葉などには毒があり,獣や虫が寄り付かない効果があるためか,井戸の周りに植え,井戸水が常にきれいであるようにしていたのかもしれません。もちろん,馬酔木の花自体も白く,見ていて清潔感があり,井戸や池の周りに植えるのに適していたと私は想像します。
最後は,草が盛んに生えることを詠んだ柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの旋頭歌です。
山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ(7-1286)
<やましろのくせのやしろのくさなたをりそ わがときとたちさかゆともくさなたをりそ>
<<山城の久世の社の草を手折ってはならない。我が世の盛りとばかり立ち栄えていようとも社の草を手折ってはならない>>
これは,久世にある社(神社)は雑草さえも霊験あらたかなので,むしり採っていけない。少しぐらいむしり採っても分からないくらい生い茂っていても,やはりむしってはいけないということを詠ったと素直に解釈できそうです。
しかし,この前に出てくる旋頭歌1285では,田で一人で作業をしている疲れた若者に対して,「お前には助けてくれる妻がいないから疲れているだよね」とカラかっているものがあります。
この旋頭歌1286が旋頭歌1285の続きであれば,意味が違ってきそうです。たとえば,草のことを若い妻候補の女性のこととすれば(旋頭歌1285に出てくる「若草の」は妻に掛かる枕詞),「僕にはいっぱい妻候補がいるんだ。かっさらったりするんじゃないぞ!」という内容にも思えます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(3:まとめ)に続く。
2015年5月16日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1) 「Win・Winの関係」をより進めて「栄・栄の関係」へ
<日本人はすぐに謝る?>
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>
余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>
この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。
天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>
奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>
余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>
この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。
天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>
奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。
2015年5月9日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ) 植物は無闇に折らず,あるがままがいいですね
我が家の庭(マンションの専用庭)に20年以上前から植えていたサクランボは,例年全く実をつけないか,つけても数粒だったのですが,今年は比較的たくさん実をつけてくれました。
手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
<いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに>
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>
馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。
我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
<わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも>
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>
恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。
暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
<いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを>
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>
きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中で平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。
妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
<いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし>
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>
この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。
手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
<いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに>
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>
馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。
我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
<わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも>
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>
恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。
暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
<いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを>
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>
きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中で平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。
妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
<いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし>
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>
この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。
2015年4月30日木曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(2) 平城京の将来は奈良麻呂様に託します
「折る」の2回目は,今の季節ではありませんが,「黄葉を折る」を見ていきます。
万葉集で黄葉がたくさん詠まれているのは,このブログでもたびたび取り上げています。
さて,なぜ「紅葉」と書かないのか?と疑問に感じる人もいらっしゃるかと思います。元の万葉仮名が「黄葉」となっていて,これを「もみち」と発音すると後世の万葉学者先生が判断したということです。私は,今のイロハモミジのような真っ赤に色づく木は少なく,ケヤキ(当時は槻:つき)などの黄色系に色づく落葉樹が多かったためかも知れないと考えています。
では,実際に「折る」を詠んだ和歌をみていきましょう。
最初は,高橋虫麻呂歌集からもってきたという筑波山に登って詠んだ長歌の反歌です。
筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな(9-1758)
<つくはねのすそみのたゐに あきたかるいもがりやらむ もみちたをらな>
<<筑波山の麓の田で稲を刈っているあの子に贈るためにモミジを手で折ってみよう>>
今は自宅で植えている自分所有のモミジ以外,勝手に折って採ったりしてはいけません。当時は人口も少なく,そんなことは少しくらいなら許されていたとお考えください。
<筑波山は万葉時代から黄葉の名所として知られていた?>
秋に筑波山に登ったら,黄葉が素晴らしく,そして眼下を見れば,黄色く染まった稲穂の田で,稲を刈っている若い娘がいるのが見える。良い光景描写ですね。奈良の都人はこの和歌を聞いて,是非筑波山に行ってみたいと思ったかもしれません。当時から筑波山は黄葉の名所との評判が高かったのでしょう。
どちらが先かは定かではありませんが,大伴旅人も夏の暑い時期に筑波山に登った様子がこの歌の何首か前に出てきます。
<本題>
さて,万葉集巻8に,天平10(738)年10月17日に当時将来が嘱望されていた橘奈良麻呂(当時18歳位か,右大臣橘諸兄の子)宅で催された宴の席(※)で参加者が「黄葉を手折る」を詠んだ短歌が何首が出てきます。
※この宴席には,大伴家持(当時20歳),大伴池主のほか家持の弟の大伴書持(ふみもち)も出席して短歌を詠んでいます。
次は,その中で,宴の主人橘奈良麻呂が最初に詠んだ2首です。
手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも(8-1581)
<たをらずてちりなばをしと わがおもひしあきのもみちを かざしつるかも>
<<折り取ってしまわずに散ってしまうと惜しいと私が思う秋の黄葉をこの手で折って,皆様にお見せしましょう>>
めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに(8-1582)
<めづらしきひとにみせむと もみちばをたをりぞわがこし あめのふらくに>
<<今日来てくださった素晴らしい皆様にお見せしようと葉を手折ってきましたよ。雨が降るのもいとわずに>>
これは,主人が来訪者に対して,歓迎の意思を表明したものと受け取っても良いでしょう。綺麗な黄葉を手で折って(剪定ばさみなどは当時なかったと思います),花瓶に生けるか,大きなお皿に飾って,出迎えたのかも知れませんね。
雨に濡れてさぞかし綺麗だったのでしょう。来客は順番にお礼の短歌を返します。
その中で,次は秦許遍麻呂(はたのこへまろ)という人物(不詳)が返した短歌です。
露霜にあへる黄葉を手折り来て妹とかざしつ後は散るとも(8-1589)
<つゆしもにあへるもみちを たをりきていもはかざしつ のちはちるとも>
<<露や霜で傷んでしまう黄葉をやさしい貴殿の手で先に折って,貴殿の奥方にお贈りになったら,後は散っても本望でしょう>>
ここで,妹は誰のことか判断に迷いますが,奈良麻呂の奥方になる予定の(恐らく同席していたうら若い)女性として訳してみました。
前年,大納言,参議に名を連ねていた藤原4兄弟(武智麻呂,房前,宇合,麻呂)が相次いで病死し,ますます父橘諸兄の力が増していた時です。
家持,池主,書持は将来,橘諸兄の後を継いで,平城京の中心人物になるとの見込みを持って,奈良麻呂邸でのこの宴に参加できたことを非常に喜んでいたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ)に続く。
万葉集で黄葉がたくさん詠まれているのは,このブログでもたびたび取り上げています。
さて,なぜ「紅葉」と書かないのか?と疑問に感じる人もいらっしゃるかと思います。元の万葉仮名が「黄葉」となっていて,これを「もみち」と発音すると後世の万葉学者先生が判断したということです。私は,今のイロハモミジのような真っ赤に色づく木は少なく,ケヤキ(当時は槻:つき)などの黄色系に色づく落葉樹が多かったためかも知れないと考えています。
では,実際に「折る」を詠んだ和歌をみていきましょう。
最初は,高橋虫麻呂歌集からもってきたという筑波山に登って詠んだ長歌の反歌です。
筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな(9-1758)
<つくはねのすそみのたゐに あきたかるいもがりやらむ もみちたをらな>
<<筑波山の麓の田で稲を刈っているあの子に贈るためにモミジを手で折ってみよう>>
今は自宅で植えている自分所有のモミジ以外,勝手に折って採ったりしてはいけません。当時は人口も少なく,そんなことは少しくらいなら許されていたとお考えください。
<筑波山は万葉時代から黄葉の名所として知られていた?>
秋に筑波山に登ったら,黄葉が素晴らしく,そして眼下を見れば,黄色く染まった稲穂の田で,稲を刈っている若い娘がいるのが見える。良い光景描写ですね。奈良の都人はこの和歌を聞いて,是非筑波山に行ってみたいと思ったかもしれません。当時から筑波山は黄葉の名所との評判が高かったのでしょう。
どちらが先かは定かではありませんが,大伴旅人も夏の暑い時期に筑波山に登った様子がこの歌の何首か前に出てきます。
<本題>
さて,万葉集巻8に,天平10(738)年10月17日に当時将来が嘱望されていた橘奈良麻呂(当時18歳位か,右大臣橘諸兄の子)宅で催された宴の席(※)で参加者が「黄葉を手折る」を詠んだ短歌が何首が出てきます。
※この宴席には,大伴家持(当時20歳),大伴池主のほか家持の弟の大伴書持(ふみもち)も出席して短歌を詠んでいます。
次は,その中で,宴の主人橘奈良麻呂が最初に詠んだ2首です。
手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも(8-1581)
<たをらずてちりなばをしと わがおもひしあきのもみちを かざしつるかも>
<<折り取ってしまわずに散ってしまうと惜しいと私が思う秋の黄葉をこの手で折って,皆様にお見せしましょう>>
めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに(8-1582)
<めづらしきひとにみせむと もみちばをたをりぞわがこし あめのふらくに>
<<今日来てくださった素晴らしい皆様にお見せしようと葉を手折ってきましたよ。雨が降るのもいとわずに>>
これは,主人が来訪者に対して,歓迎の意思を表明したものと受け取っても良いでしょう。綺麗な黄葉を手で折って(剪定ばさみなどは当時なかったと思います),花瓶に生けるか,大きなお皿に飾って,出迎えたのかも知れませんね。
雨に濡れてさぞかし綺麗だったのでしょう。来客は順番にお礼の短歌を返します。
その中で,次は秦許遍麻呂(はたのこへまろ)という人物(不詳)が返した短歌です。
露霜にあへる黄葉を手折り来て妹とかざしつ後は散るとも(8-1589)
<つゆしもにあへるもみちを たをりきていもはかざしつ のちはちるとも>
<<露や霜で傷んでしまう黄葉をやさしい貴殿の手で先に折って,貴殿の奥方にお贈りになったら,後は散っても本望でしょう>>
ここで,妹は誰のことか判断に迷いますが,奈良麻呂の奥方になる予定の(恐らく同席していたうら若い)女性として訳してみました。
前年,大納言,参議に名を連ねていた藤原4兄弟(武智麻呂,房前,宇合,麻呂)が相次いで病死し,ますます父橘諸兄の力が増していた時です。
家持,池主,書持は将来,橘諸兄の後を継いで,平城京の中心人物になるとの見込みを持って,奈良麻呂邸でのこの宴に参加できたことを非常に喜んでいたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ)に続く。
2015年4月26日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(1) 万葉時代,切り花ではなく,折り花だった?
今回から動詞「折る」について,万葉集でどのように詠まれているか見ていきたいと思います。
万葉時代の「折る」の意味は,今とほとんど変わっていないと思います。
<「折る」の定義>
「折る」は,まっすぐなものを途中で角ができる状態で二つのまっすぐなものにすることです。場合によっては,角の角度が0度(二つのまっすぐなものが並ぶ状態)のこともあります。また,角の部分が切れて二つのまっすぐなものが分離してしまう状態にすることもさします。
角を作るためには,元のまっすぐなものは一般にある程度硬いものでなければなりません。紐のような柔らかいものでは,角ができにくいし,まっすぐな状態でも全体が曲線になってしまうことになり,「折る」ではなく,「曲げる」を使います。ただ,柔らかいものでも,布や紙では「折り畳む」というように,まっすぐな状態を結果として保持できている場合,「折る」という言葉を使います。
<万葉集での用例>
万葉集では「折る」対象は次のものが多く出てきます。
木の枝(えだ),膝(ひざ),花などの茎(くき),身体(からだ),草,指,袖,心,時(←折り重なる)
今回は,その中で「花を折る」について,見ていきましょう。ただし,実際には花自体を折ると花がつぶれてしまいますので,花の茎を折ることをさしていると思います。万葉集の和歌で折られてしまう花(花にとって折られるのは迷惑?)は次のようなものが出てきます。
梅,桜,馬酔木,なでしこ,橘,萩,山吹
これは何を指しているのでしょうか?
万葉時代にもうこれだけの花を観賞用に採取していたということを指しているのではと私は感じます。では,実際に万葉集の和歌を見ていきましょうか。
最初は何と言っても万葉集で一番多く詠まれている「梅の花を折る」を詠んだ,他田廣津娘子(をさだのひろつのをとめ)が詠んだとされる短歌です。
梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり(8-1652)
<うめのはなをりもをらずもみつれども こよひのはなになほしかずけり>
<<梅の花は折って生けて見ても良いし,折らずにそのまま見ても良いのですが,今宵見る梅の花の素晴らしさには到底及びますまい>>
この娘子は,万葉集では巻8にこの短歌以外にもう1首の短歌が出てくるだけですが,掲載配置からは坂上郎女などの大伴家の女性たちと親交があったのだろうと私には想像できます。
夜の宴(女子会?)で梅の花がどのようなアレンジで演出されたのか分かりませんが,かがり火での照らし方(ライトアップ方法)に何かの工夫がされていたのかもしれませんね。
次は,木に咲く花ではなく,秋の七草の一つの撫子を「折る」を詠んだ旋頭歌です。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は2011年7月でのブログでも紹介していますが,平城京に住んでいた紀鹿人(きのしかひと)が,現在の奈良県桜井市にあったと云われる跡見の岡が見える大伴稲公(おほとものいなきみ)の家に招かれた時詠んだもののようです。稲公邸から跡見の岡に見事に咲き誇る撫子の花群の見事さに,花束にできる位いっぱい折り採って京人(みやこびと)のお土産にしたいと思ったのでしょうね。
さて,最後は橘の花を折ることを詠んだ東歌です。
小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
<をさとなるはなたちばなをひきよぢて をらむとすれどうらわかみこそ>
<<里にある花橘を引き寄せて折るつもりが,枝があまりにも若々しく折って自分のモノにできない>>
もちろん,花橘は気に入った綺麗で若い女性の譬えでしょう。するっと逃げられたのかもしれませんね。
ところで,橘は柑橘類であり,寒さに弱いとされています。この東歌の場所に寄りますが,当時すでにかなり東の方まで橘が植えられていたことが分かります。もしかしたら,この短歌は今の伊豆半島南端あたりの里で新しく植えられた橘なら,確かに枝も柔らかい可能性が高いと考えられそうです。本日現在のWikipediaのタチバナの記述によると,現在でも橘の木の北限が静岡県沼津市戸田地区とあるところから,当時でも橘を育てることが可能なギリギリの地の話だったと私は思います。
いずれにしても,万葉集に掲載された1首からいろいろなことが想像でき,興味が尽きませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(2)に続く。
万葉時代の「折る」の意味は,今とほとんど変わっていないと思います。
<「折る」の定義>
「折る」は,まっすぐなものを途中で角ができる状態で二つのまっすぐなものにすることです。場合によっては,角の角度が0度(二つのまっすぐなものが並ぶ状態)のこともあります。また,角の部分が切れて二つのまっすぐなものが分離してしまう状態にすることもさします。
角を作るためには,元のまっすぐなものは一般にある程度硬いものでなければなりません。紐のような柔らかいものでは,角ができにくいし,まっすぐな状態でも全体が曲線になってしまうことになり,「折る」ではなく,「曲げる」を使います。ただ,柔らかいものでも,布や紙では「折り畳む」というように,まっすぐな状態を結果として保持できている場合,「折る」という言葉を使います。
<万葉集での用例>
万葉集では「折る」対象は次のものが多く出てきます。
木の枝(えだ),膝(ひざ),花などの茎(くき),身体(からだ),草,指,袖,心,時(←折り重なる)
今回は,その中で「花を折る」について,見ていきましょう。ただし,実際には花自体を折ると花がつぶれてしまいますので,花の茎を折ることをさしていると思います。万葉集の和歌で折られてしまう花(花にとって折られるのは迷惑?)は次のようなものが出てきます。
梅,桜,馬酔木,なでしこ,橘,萩,山吹
これは何を指しているのでしょうか?
万葉時代にもうこれだけの花を観賞用に採取していたということを指しているのではと私は感じます。では,実際に万葉集の和歌を見ていきましょうか。
最初は何と言っても万葉集で一番多く詠まれている「梅の花を折る」を詠んだ,他田廣津娘子(をさだのひろつのをとめ)が詠んだとされる短歌です。
梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり(8-1652)
<うめのはなをりもをらずもみつれども こよひのはなになほしかずけり>
<<梅の花は折って生けて見ても良いし,折らずにそのまま見ても良いのですが,今宵見る梅の花の素晴らしさには到底及びますまい>>
この娘子は,万葉集では巻8にこの短歌以外にもう1首の短歌が出てくるだけですが,掲載配置からは坂上郎女などの大伴家の女性たちと親交があったのだろうと私には想像できます。
夜の宴(女子会?)で梅の花がどのようなアレンジで演出されたのか分かりませんが,かがり火での照らし方(ライトアップ方法)に何かの工夫がされていたのかもしれませんね。
次は,木に咲く花ではなく,秋の七草の一つの撫子を「折る」を詠んだ旋頭歌です。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は2011年7月でのブログでも紹介していますが,平城京に住んでいた紀鹿人(きのしかひと)が,現在の奈良県桜井市にあったと云われる跡見の岡が見える大伴稲公(おほとものいなきみ)の家に招かれた時詠んだもののようです。稲公邸から跡見の岡に見事に咲き誇る撫子の花群の見事さに,花束にできる位いっぱい折り採って京人(みやこびと)のお土産にしたいと思ったのでしょうね。
さて,最後は橘の花を折ることを詠んだ東歌です。
小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
<をさとなるはなたちばなをひきよぢて をらむとすれどうらわかみこそ>
<<里にある花橘を引き寄せて折るつもりが,枝があまりにも若々しく折って自分のモノにできない>>
もちろん,花橘は気に入った綺麗で若い女性の譬えでしょう。するっと逃げられたのかもしれませんね。
ところで,橘は柑橘類であり,寒さに弱いとされています。この東歌の場所に寄りますが,当時すでにかなり東の方まで橘が植えられていたことが分かります。もしかしたら,この短歌は今の伊豆半島南端あたりの里で新しく植えられた橘なら,確かに枝も柔らかい可能性が高いと考えられそうです。本日現在のWikipediaのタチバナの記述によると,現在でも橘の木の北限が静岡県沼津市戸田地区とあるところから,当時でも橘を育てることが可能なギリギリの地の話だったと私は思います。
いずれにしても,万葉集に掲載された1首からいろいろなことが想像でき,興味が尽きませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(2)に続く。
2015年4月18日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(3:まとめ) そう,自分の思いは丁寧に丁寧に言わなきゃ伝わらないのだ
「尽く」,「尽くす」の最終回は,「言葉を尽くす」について,万葉集を見ていきましょう。
まず,以前このブログでも紹介した坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の代表的な恋の短歌を紹介します。
恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば(4-661)
<こひこひてあへるときだに うるはしきことつくしてよ ながくとおもはば>
<<恋しい恋しいと思ってきて,ようやく逢えた時くらいは私が喜ぶ言葉をありったけ言い尽くしてくださいな。これからも二人の仲を長く続けようと思ってくださるならね>>
この短歌は,ありったけやさしい言葉を尽くして欲しい郎女の気持ちが強く表れています。
「好きだよ」「愛してる」「もう離さないから」「君は僕のすべてだよ」な~んて,「うるはしき」言葉を何度でも恋人の男性から聞きたいのが時代を超えた女性の心理ですよね。
さあ,世の男性諸君! 頑張って(態度だけでなく)繰り返し何度も口に出して恋しい相手に思いを告げなさい! こんなことをこの短歌は教えてくれているのかも。
次は,万葉集の巻16に出てくる竹取翁(たけとりのをきな)に対して,若い娘多たちが贈った短歌の1首です。
あにもあらじおのが身のから人の子の言も尽さじ我れも寄りなむ(16-3799)
<あにもあらじおのがみのから ひとのこのこともつくさじ われもよりなむ>
<<とはいうものの,私の身は普通の人の子でうまく言葉を尽くして表現できないですが,私もおじいさんが言う和歌の大切さに同感します>>
竹取翁といっても,かぐや姫が登場する竹取物語とは無関係で,80歳を超える老人が,若い娘たちに人の心を動かす和歌の大切さを表現した長歌・反歌2首を贈り,それに感心した娘たちが返歌をしたのです。
当時本当にこんな和歌のやり取りがあったのか,それとも教育的見地から創作されたお話なのか私には分かりません。しかし,万葉集に出てくる和歌の多様性を表すものの一つとして私は評価したいと思います。
さて,今回の最後は馬国人(うまのくにひと)という人物が天平勝宝8年,河内(今の大阪府東大阪市周辺)の自宅での宴にいた大伴家持に送った短歌の1首です。
万葉集で馬国人が詠んだとされる和歌はこの1首のみです。
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも(20-4458)
<にほどりのおきながかはは たえぬともきみにかたらむ ことつきめやも>
<<息長川の流れが絶えることはあっても、あなたにお話ししたい言葉が尽きることはありません>>
息長川は滋賀県の伊吹(息吹)山から琵琶湖に注いでいた川であったようです。現在も,滋賀県米原市に「息長」という地名が残っています。
馬国人は,家持が難波で東国から集められた防人を筑紫へ船で送る役人をしていたときに,親交があったのかもしれません。そして,家持が難波での役目を解かれたとき,この宴をセッティングした可能性があると私は考えます。
さて,万葉集は,4500首余りという和歌,そして題詞,左注を通して,膨大な言葉を「尽くして」後世の私たちに何を示そうとしたのか,私の興味はまったく尽きません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(1)に続く。
まず,以前このブログでも紹介した坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の代表的な恋の短歌を紹介します。
恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば(4-661)
<こひこひてあへるときだに うるはしきことつくしてよ ながくとおもはば>
<<恋しい恋しいと思ってきて,ようやく逢えた時くらいは私が喜ぶ言葉をありったけ言い尽くしてくださいな。これからも二人の仲を長く続けようと思ってくださるならね>>
この短歌は,ありったけやさしい言葉を尽くして欲しい郎女の気持ちが強く表れています。
「好きだよ」「愛してる」「もう離さないから」「君は僕のすべてだよ」な~んて,「うるはしき」言葉を何度でも恋人の男性から聞きたいのが時代を超えた女性の心理ですよね。
さあ,世の男性諸君! 頑張って(態度だけでなく)繰り返し何度も口に出して恋しい相手に思いを告げなさい! こんなことをこの短歌は教えてくれているのかも。
次は,万葉集の巻16に出てくる竹取翁(たけとりのをきな)に対して,若い娘多たちが贈った短歌の1首です。
あにもあらじおのが身のから人の子の言も尽さじ我れも寄りなむ(16-3799)
<あにもあらじおのがみのから ひとのこのこともつくさじ われもよりなむ>
<<とはいうものの,私の身は普通の人の子でうまく言葉を尽くして表現できないですが,私もおじいさんが言う和歌の大切さに同感します>>
竹取翁といっても,かぐや姫が登場する竹取物語とは無関係で,80歳を超える老人が,若い娘たちに人の心を動かす和歌の大切さを表現した長歌・反歌2首を贈り,それに感心した娘たちが返歌をしたのです。
当時本当にこんな和歌のやり取りがあったのか,それとも教育的見地から創作されたお話なのか私には分かりません。しかし,万葉集に出てくる和歌の多様性を表すものの一つとして私は評価したいと思います。
さて,今回の最後は馬国人(うまのくにひと)という人物が天平勝宝8年,河内(今の大阪府東大阪市周辺)の自宅での宴にいた大伴家持に送った短歌の1首です。
万葉集で馬国人が詠んだとされる和歌はこの1首のみです。
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも(20-4458)
<にほどりのおきながかはは たえぬともきみにかたらむ ことつきめやも>
<<息長川の流れが絶えることはあっても、あなたにお話ししたい言葉が尽きることはありません>>
息長川は滋賀県の伊吹(息吹)山から琵琶湖に注いでいた川であったようです。現在も,滋賀県米原市に「息長」という地名が残っています。
馬国人は,家持が難波で東国から集められた防人を筑紫へ船で送る役人をしていたときに,親交があったのかもしれません。そして,家持が難波での役目を解かれたとき,この宴をセッティングした可能性があると私は考えます。
さて,万葉集は,4500首余りという和歌,そして題詞,左注を通して,膨大な言葉を「尽くして」後世の私たちに何を示そうとしたのか,私の興味はまったく尽きません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(1)に続く。
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