2015年7月21日火曜日

2015 盛夏スペシャル(1)  … 人が幸せと感じるのは他人や自分の過去との比較から?

昨年12月からの勤務先は,特に夏休み期間が設定されていません。そのため,この夏私は連続の休みを取らず,ほぼカレンダー通り勤務の予定です。このブログも,梅雨が明けたこの夏,いつものように1週間単位でアップしていく予定です。ただ,「動きの詞シリーズ」は一休みし,様々なテーマについて立秋まで投稿していきたいと考えています(恐らく,毎回かなりの長文になりそうです)。
<終わりのない仕事>
さて,プロフィールにある通り私は現役のIT技術者で,得意分野はソフトウェアの保守開発(保守対応が専門で,ときに付随する開発も行う)です。
専門の保守対応をもう少し具体的に示すと,対象のソフトウェア(稼働中)で発生した問題や要望(保守案件と呼ぶ)に対し,調査,解決策洗出し,対応作業見積,報告書・提案書作成・説明,作業(例:ユーザ操作指導,環境設定,データ整備,マニュアル整備,プログラム更新手配,プログラム追加開発手配,設計文書改訂,追加作成,品質確認,リリース説明資料作成・説明,など)です。そして,その後も次々発生するう別の保守対応を繰り返していくのです。複数の保守案件を並行して対応することも普通にあります。具体例で「○○手配」と書いた部分は,適切な手配先が無いときや緊急の場合は仲間と確認し合いながら私自身が直接作業を行う場合もあります。
保守対応では,このように各種のITスキル・知識・各種行動能力を対応者は保持の必要があります。また同時に,対象システムが存在する限り,保守対応に原則終わりはありません。
<ITシステムは生きている以上,それを維持する義務がある>
「終わりがない作業」と言った瞬間,ゲーム世代の人々にとっては,魅力を感じない仕事に映るかもしれませんね。実際に,このような保守対応をやっている若手技術者には,仕事を変わりたいと思っている人が多数いるようです。
私の考えは少し違います。システムは寿命(ライフサイクル)を持つ生き物として見た方が良いという考えです(世界的にもそう考える人は意外に多いのです)。システムが生き物なら死ぬ(その生涯を終える)まで,システム自身は生き続けなければならない(義務がある)といえるのです。生き物にとって,死ぬまで(寿命が尽きるまで)は,当たり前ですが生きていることに終わりは無く,できるだけ長生きしようとします。当然,生きる時間の方向不可逆的です(過去に戻ってやり直すことは不可能という意味で)。
結局,生き物は常にこれからどう生きていくかしか考えられない(考えない)のが本来の姿だと私は思います(その目的の達成のため,過去の失敗の反省や様々学習したことを参考にすることはあっても)。生き物が生きていることの終わり(死ぬこと)ばかり考えて生きていることは,生きていること自体が苦痛で決して幸せな生き物の生き様とは言えないでしょう。
<ITシステムにとって幸せとは?>
生き物にとって幸せとは何か? 仮に,その生き物が自分が生きる価値を自覚し,さらにより充実して生きようと努力し,他の生き物から存在を認められ,他の生き物と協力して,お互いの生きる価値をさらに高めあっている状況が,その生き物にとって幸福であるとします。
システムを生き物と考えるなら,幸せな状態(幸せに生きているシステム)にしてあげる構成要素(ヒト,モノ,カネ,情報)が必要だと私は思います。
その役割を果たす一つがが,私のようなソフトウェア保守開発技術者ではないかと考えています。その技術者が生きている対象ソフトウェアを愛情をもってケア(保守対応)していく以上,同様の保守開発対応経験が長いほど,効率,正確,丁寧な対応ができるとも考えています。
私自身は,とっくに開発専門IT技術者としての現役を退いている年齢だろうと思いますが,ソフトウェア保守開発技術者はこのような経験がものをいうため,まだまだ現役を続けることができると考えています。
<改めてITシステム屋さんの私が万葉集に魅かれる理由とは>
さて,今私が保守対応しているシステムは,割と最近のIT技術で構築されたシステムです。最近のIT技術を駆使して仕事をしている私がなぜ1300年も前に詠まれた和歌が記録されている万葉集の内容に興味を持つかは以前にも何度かこのブログで書きました。今回は,改めて別の視点で書いてみたいと思います。
万葉集を詳細に見ていくと,約1300年前の万葉時代の生活や人々の考え方,仕事の種類や仕事の進め方,様々な職種から見える産業技術のレベルが私にはいきいきとイメージできるのです。
そんな古いこと,今の我々の生活に何の関係があるのか?と思う人がいるかもしれません。
もちろん,当時コンピュータ,飛行機,エンジンやモータで動く各種の車もありません。そして,何よりも電気で動作するあらゆる機器(家電やゲーム機,携帯通信装置など)が万葉時代にはなかったのです。
今は,あらゆることが万葉時代に比べ非常に便利なっています。また,地震・津波・台風・噴火などの自然災害や失火による火災の影響もはるかに少なくて済むようになっています。手に入る品物の種類,品質指標,豊富さも今は万葉時代と比べ物にならないくらい高くなっています。
<ヒトの幸福感は技術の発展に比例して高くなっているか?>
では,人々の幸福感は万葉時代と比較してどれだけ高くなっているのか気になるところです。警察庁によりますと,昨年1年間の自殺者がここ数年少し減ったといってもまだ2万数千人います(年間交通事故で死亡する人の約6倍)。それでも,万葉時代に人々に比べて,今の人々ははるかに幸福感が増えていると言えるのでしょうか。
人々の幸福感が,仮に他人経済状況や社会一般との貧富の比較,また自分の過去との比較で生まれてくるとしたら,いくら社会が物質的に豊かになっても,貧富の格差や所得の変動(低下)発生があり得る以上,幸福感を味わえない人が残ることになります。私自身も,仮に今の所得を半分されたら恐らく幸福感を維持できないと思います。
私は国民の貧富の格差を解消したり,所得を増大させる政策の必要性を否定しません。しかし,格差の解消や所得の増加だけで全国民が幸福感を味わえるとは限らないと思っています。なぜなら,万葉時代と現代と比べ,貧富の格差の是正,平均所得の増大がはるかに進んでも幸福感を感じない人が多数(過半数?)いるからです。
人間はこのような今生きているときの周囲や自分の過去との比較で幸福感を感じるという事実が万葉時代も同じだとすれば,万葉集にで出くる悲しい,苦しい,ツライ,切ない,楽しい,愉快だ,死にたいという気持ちを和歌に託した記録が,現代の我々にも十分当てはまるのではないかと私は考えているのです。
そして,1,300年前と今と基本構造が変わらない部分(考え方やモノの見方)があるとすれば,これから100年200 年経っても基本は変わらない可能性が高いと私は予測するのです。

そんな中で,今でも人間の基本行動にあまり変化がないと思わせる万葉集の和歌を今回は何首か紹介します。
次は,昔竹取翁(たけとりのおいな)と呼ばれた老人が詠んだとされる長歌の最後の部分です。

いにしへの賢しき人も 後の世の鑑にせむと 老人を送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり(16-3791)
<~ いにしへのさかしきひとも のちのよのかがみにせむと おいひとをおくりしくるま もちかへりけり もちかへりけり
<<~ 昔の有識者も後世の教訓とするように,老人を捨てに行くために使った車を持ち帰ってきたとさ,持ち帰ってきたとさ>>

この長歌は,作者が老人(自分)を小ばかにする9人の若い娘に諭したものとされています。昔,飢饉などで食べ物が全くないとき,口減らしでやむなく家庭の老人を山に捨てに行った。その時に捨てる老人を乗せるために使った車を博物館のようなところに展示し,保存し,そのような可哀そうなことにならないよう日頃から協力し合って生活する。そんな教訓に昔の賢人はしたということを伝えたいのではないかと私は思います。
<災害時や飢饉のときの教訓は忘れてはいけない>
実際に老人を捨てたのかは別にして,このような逸話を利用し,飢饉や災害に遇ったとき,今で言えば会社が倒産して解雇されたときなどの備えを怠りなくすることの大切さを教訓として残しているのだろうと私は思います。こういったことは,今でも自分に襲い掛かる災難とそれにあったときの影響度,採れる事後的な対策(限られている)などを日ごろから考え,減災の準備をして置く必要があること,そして若い人もいずれ老人になることを教えてくれそうです。
また,今の年金受給者の実質所得を削減するマクロ経済スライド制のような制度を,老人を対象とした口減らしの一種とするならば,将来を見据えずその場最適の年金政策の結果がもたらした失敗として歴史の教訓としてしっかり残すべきだと私は思います。
さて,次は女性から男性へ怒りの意思を伝えた短歌です。

商返しめすとの御法あらばこそ我が下衣返し給はめ(16-3809)
あきかへしめすとのみのり あらばこそあがしたごろも かへしたまはめ
<<買ったものを返品できる法があるなら,私が贈った下着を返してください>>

万葉時代,女性が男性に下着を贈るのは,妻問で一夜を共にした証だとすると,このように詠んだ女性は,妻問で契りを結んだことを無かったことにしたいと思っていることになります。男性は,その後よほどひどいことを作者の女性に対してやり,怒らせてしまったのでしょうか。
今の法律では,クーリングオフ制度など,契約の取り消しが可能な取引もありますが,女性にひどいことをした男性が免責されるような法律は今の日本にはありません。取り返しのつかないようことをしてしまわないように気を付けて生きていくことは,いつの世の中でも重要なことといえるかもしれませんね。
最後は,大伴家持が痩せた老人をからかって詠んだとされる2首の短歌です。どちらも,が出てきます。

石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ(16-3853)
いはまろにわれものまをす なつやせによしといふものぞ むなぎとりめせ
<<石麻呂さんに私は申し上げます。夏痩せに効くと云われている鰻を捕ってお食べなさい>>

痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな(16-3854)
やすやすもいけらばあらむを はたやはたむなぎをとると かはにながるな
<<痩せていても生きていられれば良いではありませんか。鰻を捕るために川に入って,もしかして流されたりしないでくださいね>>

痩せた老人を本当にバカにしているのではないと私は思いたいです。前の短歌1首だけでは,鰻を捕まえようとして川に入って流されたりするといけないと気が付いた家持は後の短歌を詠んだのでしょうか。
人のためにいろいろアドバイスをするのは,実はかなり難しいことをこの短歌は私には教えてくれます。今で言えば,超肥満人に対して「エクササイズ(運動)したら痩せられるよ」と勧めても,その人が立つことだけがやっとだったらどうでしょう。「太っていても健康に問題なければ良いではありませんか。運動は少しずつ慎重にね」と言うだけにとどめる方が良いと思うかもしれません。
次回は,万葉集ゆかりの街道を25キロほど歩く予定があり,そのレポートをするつもりです。
2015 盛夏スペシャル(2)に続く。

2015年7月12日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ) 都会のみなさん,「浮子」と「沈子」の読み方を知っていますか?

「浮く」の最終回は,「船」でもなく「天の川」でもない「浮く」について,万葉集を見ていきます。
最初は,杯(さかづき)に入れた酒に梅の花を浮かせて飲む行為が宴で行われていたことを示す短歌です。作者は,天平2(730)年1月13日,大宰府大伴旅人が開催した梅見の宴の出席者が詠んだとされるものです。

春柳かづらに折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に(5-840)
はるやなぎかづらにをりし うめのはなたれかうかべし さかづきのへに
<<春柳を髪飾り用に折っているうちに,どなたかが私の盃に梅の花を浮かべたようですね>>

まあ,この梅見の宴はかなり盛り上がっていたのでしょう。作者は,頭に柳の枝を差して舞でも踊ろうとしたのでしょうか。
その間に,作者の盃になみなみとお酒が入れられ,たっぷり梅の花を浮かべて,「さあ梅の花の香りがする酒をどうぞ」と飲み干すように勧められたのかもしれません。
楽しそうな雰囲気が宴会好きな私には伝わってきますね。
さて,次は万葉時代の漁法がうかがえる詠み人知らずの短歌です。

住吉の津守網引のうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは(11-2646)
すみのえのつもりあびきのうけのをの うかれかゆかむこひつつあらずは
<<住吉港の津守が引く網の浮き紐のように,ただ浮くままにまかせよう,恋いしいと思い続けないで>>

前半はいわゆる序詞と呼ばれている部分です。
この短歌の作者が言いたいことは前半ではなく,後半にある苦しい恋を如何に自分自身でコントロールしようとしているのだが,なかなかうまく行かないという思いなのでしょうか。
万葉集の和歌を文学として見るようないわゆる有名な短歌評論家さんは,恐らくこの短歌は論評に値しない,その他雑多な短歌でしかないのかもしれません。
しかし,万葉集を当時の社会や経済の状況を表す貴重な歴史情報資産と見た場合,この短歌は非常に価値が高いと私は思います。
この短歌から,当時を使った漁法がすでに確立されており,巻網漁(まきあみりょう),刺網漁(さしあみりょう)で使う「浮子(あば)」や「沈子(いわ)」のようなものが網に付けられていたことが想像できます。
今も巻網漁,刺網漁は実際に行われており,この短歌はこれらがまさに1300年以上の歴史を持つ漁法である裏付け資料の一つとなります。
私は何度もこのブログで書いていますが,序詞枕詞を「単なるツカミ」と見るのではなく,当時の習慣や社会経済学的な背景をしっかり歴史的に分析し,万葉集の和歌を鑑賞すべきだというのが私の考えです。
最後に紹介するのは,観察眼が鋭い詠み人知らずの短歌です。

潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我はなりてしか恋ひは死なずて(11-2734)
しほみてばみなわにうかぶまなごにも わはなりてしかこひはしなずて
<<潮が満ちてくるとみなわ(水泡)に浮かぶ細かい砂のように私はなってしまったのか。恋いしさに死ぬような思いをすることだなあ>>

私が小学生のころ,両親が毎年夏になると1~2回は福井県の若狭湾などに海水浴に連れていってくれたことを以前このブログでも書きました。
そのとき,確かに潮が満ちて来るとき(波が穏やかな入り江の場合),今まで乾いた砂地に初めて海水が流れてくる先頭は少し泡が立って,乾いた海藻のかけらや小さな砂が浮いていたことを思い出しました。
この短歌は,そんな情景を詠んだと思われますが,海岸にあまり行ったことの無い京人に理解できたのか疑問に思います。
<万葉集の編者はこの短歌を万葉集に入れることで何を残したかったのか?>
少なくとも,この短歌を万葉集に残そうとした編者は,作者のこの観察眼(沈むはずの砂が死んだ人間のように浮いている状況をイメージした)を評価したのだと私は思います。
普通砂は水に沈むのに,海のある状態では砂が海水に浮くことがあると聞いた人たちは,それを見にその海岸に行ってみたいと思わないでしょうか。
今風でいえば「知的好奇心」を持った人たちの心をくすぐる効果があります。
そのような人たちにとっては,この短歌の前半に興味をもち,後半は実はどうでもいいのかもしれませんね。
万葉集の編者は誰で,その編集意図は何かをもっと広い経験者(行政長官,公務員,経営者,役職者,一般ビジネスマン,○○士と呼ばれるコンサルタント,技能者,私のような技術者,学生,専業主婦,フリーターなど),研究者(文学,哲学,心理学,宗教学,政治学,法学,歴史学,社会学,経済学,教育学,理学,工学,自然科学,医学,薬学,情報技術など)が集まり,多角的な視点で検討する機会があれば,是非参加したいと思います。
さて,次回からは動きの詞シリーズはお休みして,2015盛夏スペシャルをお送りいたします。
2015盛夏スペシャル(1)に続く。

2015年7月4日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(2) さ~,七夕だ!天の川に舟を浮かべて逢いに行こう!

「浮く」の2回目は,今の時期に合せて,万葉集には七夕の天の川に舟を浮かべて逢いに行こうとする和歌がでてきますので,それをとりあげてみます。
まず,1首目は山上憶良が神亀元(724)年7月7日に七夕について詠んだされる12首の中の1首(彦星を待つ織姫の立場で)です。

久方の天の川瀬に舟浮けて今夜か君が我がり来まさむ(8-1519)
ひさかたのあまのかはせに ふねうけてこよひかきみが わがりきまさむ
<<天の川の瀬に舟を浮かべて今夜こそあなたは私のところに来てくださるのね>>

2011年7月2日のこのブログでも取り上げていますが,憶良は七夕の謂れに対する造詣が深かかったようです。
<憶良は七夕の行事を日本に広めたかった?>
万葉時代,七夕の日に若い女性が居る家庭では,夫または恋人が妻問に来るのを今か今かと待ち望んでいるのです。
たとえしばらく妻問に来なかったとしても,七夕の謂れから年に1度は来てくれるはずだと信じたい。そんな待つ側の女性の気持ちを憶良は代弁して詠っています。
実は憶良が七夕の物語を一般市民に流行らせようとしていたのではないかと私は想像します。
七夕行事が流行れば,7月7日は確実に妻問が増え,その妻問に行くためや待つ女性が着る衣装や準備グッズが売れるはずです。
そのあたりは,2011年7月7日のこのブログでも少し取り上げています。
さて,次の1首も憶良作とされる七夕歌12首の中の1首です。同様に彦星を待つ織姫の気持ちを詠んでいます。

天の川浮津の波音騒くなり我が待つ君し舟出すらしも(8-1529)
あまのがはうきつのなみおと さわくなりわがまつきみし ふなですらしも
<<天の川に浮かんでいる船着き場の波音が騒がしくなってきました。私が待っている、あなたが舟を漕ぎ出しになったようです>>

妻問を待っている女性は家の外での物音に敏感になります。もちろん,妻問で家に近づく足音はしますし,夫または恋人が家に着くと,まず親が妻問に来る予定の人物か確認をします(妻問の前には和歌をやり取りして,妻問の事前合意)。
妻問に来た男性は,最初に親とも小声であいさつはするでしょうし,親は娘のいる場所へはどうやって行けば良いかを教えたりするでしょう。そんな情景を天の川の船が着き,船の波が岸に打ち寄せる音が騒がしくなったことに重ねて表現しているのだろうと私は解釈します。
最後は,飛鳥時代から奈良事態初期にかけて活躍した藤原房前(ふぢはらのふささき)が自宅での宴席で詠んだと伝わる七夕の長歌です。

久方の天の川に 上つ瀬に玉橋渡し 下つ瀬に舟浮け据ゑ 雨降りて風吹かずとも 風吹きて雨降らずとも 裳濡らさずやまず来ませと 玉橋渡す(9-1764)
ひさかたのあまのかはに かみつせにたまはしわたし しもつせにふねうけすゑ あめふりてかぜふかずとも かぜふきてあめふらずとも もぬらさずやまずきませと たまはしわたす
<<天の川の上流にある瀬に玉のような美しい橋を渡し,下流にある瀬に舟を浮べて舟橋を備えつけ,雨が降って風は吹かないときでも,風が吹いて雨は降らないときでも,裳を濡らさず,間を置かずお出で下さいとの気持ちを込めて玉の橋を天の川に渡す私です>>

さすがに,スケールが違いますね。房前だったらこの程度の公共工事は何でもなかったのでしょうから。
この長歌は,房前自身が作歌したのではなく,お付の人(秘書のような人)が作って,房前が宴の席で詠んだのかもしれません。
宴の出席者は,各地域や各組織の実力者ばかりで,この後玉の橋浮橋をどの川に作るかで盛り上がったのかもしれませんね。
そして,「その川はいっそのこと『天の川』に変えちゃえば?」といった話まで飛び出したりしたかもです。
結局,あまりに盛り上がり過ぎて,「浮かれた話」ばかりになったのではと私は想像しますが,いかがですか?
それでは皆さん,幸せな七夕をお過ごしください。なお,最近顔を出さない天の川君はおとなしくずっと寝ています。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ)に続く。

2015年6月29日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(1) 万葉時代の船旅は今の豪華なクルージングとはいかず?

2011年11月にこのブログの『対語シリーズ「浮と沈」‥心の浮き沈みが起きたとき,あなたならどうする?』で取り上げた中で,「浮く」を改めて万葉集を詳しく見ていくことにします。
「浮く」の対象が何かや何の上に浮いているのかによって,イメージする情景は結構変わります。
今回は,池,海などに浮く鳥のイメージについて,万葉集に詠まれている和歌を見ていきましょう。
最初は,丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)という女性が恋人と逢えないツライ気持ちを詠んだされる短歌です。

鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに(4-711)
かもどりのあそぶこのいけに このはおちてうきたるこころ わがおもはなくに
<<鴨が遊ぶこの池に木の葉は落ちて浮かんでふらふらしているような浮ついた心で恋しいと思ってはいないのに>>

池で鴨が水面を移動したり,羽ばたいたり,飛び立ったり,着水したりすることで,木から落ちて浮いている木の葉はその影響を受け,浮いたり,沈んだり,集まったり,離れたりするのでしょう。
万葉集で,彼女の詠んだ続く2首を見ると,そんな浮き沈みのあるような弱い気持ちで恋しているのではないのに,いろいろ邪魔が入り,相手は遭ってくれないと嘆いています。
さて,次も鴨を題材に詠んだ遣新羅使作の短歌ですが,場所は池ではなく海上です。

鴨じもの浮寝をすれば蜷の腸か黒き髪に露ぞ置きにける(15-3649)
かもじものうきねをすれば みなのわたかぐろきかみに つゆぞおきにける
<<鴨のように波の上に浮寝をしていると,黒い私の髪に露が付いてしまった>>

停泊して,宿に泊まるのではなく,船中で波に揺られながら一夜を明かすと,海の湿気や波しぶきで,黒い髪に(多分塩分を含んだ)水滴が付いて濡れてしまうという情景を詠っていますが,この表現で作者の航海における不安な気持ちが何故か良く伝わってくるように私は感じます。
次は,鴨ではなく,一般の海鳥を題材にした,詠み人知らずの羈旅の短歌です。

鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも(7-1184)
とりじものうみにうきゐて おきつなみさわくをきけば あまたかなしも
<<鳥のように海に浮かんでいて,沖の波が騒がしい(荒れている)ということを聞くと大変悲しい>>

荒れた海を避けて,入江に退避している船で何日も過ごさなければならない状況となり,非常に悲しい気持ちを作者は読んでいるのでしょうか。
次も類似の気持ちを詠んだ詠み人知らずの羈旅の短歌(万葉集では古歌としている)です。

波高しいかに楫取り水鳥の浮寝やすべきなほや漕ぐべき(7-1235)
なみたかしいかにかぢとり みづとりのうきねやすべき なほやこぐべき
<<波が高いな。どうだろう船頭さん,水鳥のように浮寝をしたほうがよいかい,それともやはり漕ぎ続けるかい>>

海が荒れてきたので心配になり,「入江に避難して一晩やり過ごす」か「このまま漕ぎ続けて進む」か,船頭に聞きたいという心の動きを詠んでいると私は思います。
当然,作者である旅人は航海について詳しくはなく,海がどの程度の荒れであるかに詳しいわけでもありません。
でも,船旅に慣れていない旅人は船の揺れを思いの外大きく感じたのかもしれず,プロである船頭に聞いてしまったという情景も想像できそうです。
この旅人の問いに対して,船頭はどう答えたかは残っていません。「この位の波や揺れは大したことはないし,進んで危険はないよ」「プロに任せろ」くらいは言ったかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(2)に続く

2015年6月20日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ) {ほとほと参った}という使い方は昔は無かった?

今回,「参ゐる」の最終回として,過去2回で取り上げてこなかった「参ゐる」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,最初は高橋虫麻呂が天平4(732)年に藤原宇合(うまかひ)が西海道節度使(続日本記によれば,この時に節度使制度が発布)として筑紫へ赴任するときに詠んだとされる長歌です。
長いですが,一部のみに切るのはもったいない長歌なので,すべて載せます。「参ゐる」は最後の方に出てきます。

白雲の龍田の山の 露霜に色づく時に うち越えて旅行く君は 五百重山い行きさくみ 敵守る筑紫に至り 山のそき野のそき見よと 伴の部を班ち遣はし 山彦の答へむ極み たにぐくのさ渡る極み 国形を見したまひて 冬こもり春さりゆかば 飛ぶ鳥の早く来まさね 龍田道の岡辺の道に 丹つつじのにほはむ時の 桜花咲きなむ時に 山たづの迎へ参ゐ出む 君が来まさば(6-971)
しらくものたつたのやまの つゆしもにいろづくときに うちこえてたびゆくきみは いほへやまいゆきさくみ あたまもるつくしにいたり やまのそきののそきみよと とものへをあかちつかはし やまびこのこたへむきはみ たにぐくのさわたるきはみ くにかたをめしたまひて ふゆこもりはるさりゆかば とぶとりのはやくきまさね たつたぢのをかへのみちに につつじのにほはむときの さくらばなさきなむときに やまたづのむかへまゐでむ きみがきまさば
<<龍田の山が露霜で色づく頃,困難な道を越えて旅行くあなたはいくつも重なる山々を進み,防衛地の筑紫に着き、山の果て,野の果てまで防衛するように兵隊たちを分派し,山彦が聞こえる限り,ひきがえるが跳んで行く限りの場所まで,国の様子を観閲され,春になったら飛ぶ鳥のように早くお戻りくださいませ。龍田街道の岡辺道に真っ赤なつつじが咲き誇り,桜が咲くとき,お迎えに参りとう存じます。その頃,お戻りになられるご予定なので>>

宇合は30歳代後半ですでに参議(公卿)に任ぜられたほどのエリート。節度使(地方が法律を守っているのか監査する役)という大役を受けて,いざ九州への旅に出るとき,宇合に仕えていた虫麻呂が贈ったのでしょう。
虫麻呂は,帰京する予定の来春には,迎えに参りますと長歌を結んでいます。
ただ,宇合を含む彼の兄弟4人は天平9(737)年に,天然痘で死亡し,有望な将来を断たれてしまうのです。その結果,藤原家の勢いはなくなり,橘諸兄が権力を握ることになったと言われています。
主君を失った高橋虫麻呂は,羈旅の歌人となり,高橋虫麻呂歌集を作ったのかもしれません。
「参ゐる」の最後となる次の2首は,正月に詠まれた短歌です。
1首目は,天平勝宝3年1月大伴家持(当時:越中守)が,越中の内蔵縄麻呂の館で催された正月の宴で詠んだとされる短歌です。雪の中を苦労して参上したとあります。

降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(19-4230)
ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>

2首目は,天平勝宝6(754)年1月家持の従兄(年下)である大伴千室が家持(当時:少納言)の家で行われた新年の宴で詠んだものです。天候が急変したときは,すぐに駆けつけ,参上しますという決意表明のような短歌です。

霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く (20-4298)
しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります。何年も>>

これで,「参ゐる」の回は終わりますが,万葉集には,人が失敗して「参ったな~」という意味の和歌は無いようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(1)に続く。 

2015年6月14日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(2) さまざまな別れの和歌に使われる「参ゐる」

今回は,「参ゐる」を詠んだ悲しい万葉集の和歌3連発で行きます。
まず最初は,草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼んで舎人(とねり)たちが詠んだ二十三首の晩歌のうちの一首です。

一日には千たび参ゐりし東の大き御門を入りかてぬかも(2-186)
ひとひにはちたびまゐりし ひむがしのおほきみかどを いりかてぬかも
<<一日に何度も参上した東の大きな御門も,今となっては入ることができないなあ>>

この挽歌を詠んだ舎人は草壁皇子に仕えた人でしょう。訪問客の相手や連絡事項を伝えるため,草壁皇子が仕事をする建物がある東の門を何度もくぐって参上したが,その仕事も皇子が死去した今となっては必要がなくなったのですね。
次は,持統(ぢとう)天皇文武(もんむ)天皇の時代に活躍し,左大臣・大納言まで勤めた石上麻呂(いそのかみのまろ)の息子であった石上乙麻呂(おとまろ)の長歌です。

父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを
<<父君にとって私は愛おしい子である。母君にとっても私は愛おしい子である。京へ参上する多くの人々が無事を祈り手向けして越える恐坂に私が幣を奉り、長い土佐道を>>

乙麻呂は藤原宇合の妻で女官であった久米若賣(くめのわかめ)と密通した(今で言う不倫関係になった)という罪で土佐に流された際に詠んだとされるものです。この長歌に出てくる「畏の坂」はどこか分かりませんが,平城京から土佐まで行く主要街道の一つの峠だったのだと私は思います。
さて,最後は下総(今の千葉県)出身の防人雀部廣嶋(きざきべのひろしま)が詠んだとされる防人歌です。

大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを(20-4393)
おほきみのみことにされば ちちははをいはひへとおきて まゐできにしを
<<大君のご命令なので父母を斎瓶(神に捧げる壺)とともに家に置いて参り来たのだなあ>>

自分には,頼りにできる父母も,無事を祈ることができる神も家に置いて,天皇を命により防人として参上したことに対する不安がよく表れた秀歌だと私は思います。
これから何を頼りにしていけばいいのか?天皇は自分を守ってくれるのか?九州の地での自分の状況を家の父母に知らせてくれるのか?
また,父母の健康状態を九州まで知らせてくれるのか?など,不安と表に出せない怒りを精いっぱいこの短歌は表していると私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ)に続く。

2015年6月7日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(1) スクープ:大伴氏の若きプリンス,門前払いの憂き目に!!

先週から立ち上げた,ブログ「万葉集に関するクイズです」は2回目のクイズ投稿と1回目の問題の解答の掲載を6月3日に済ませています。楽しく問題を解いてみてください。

http://quiz-mannyou.blogspot.jp/

さて,こちらのブログは,今回から動詞「参ゐる」について万葉集を見ていくことにします。「参ゐる」の初回は,大伴家持作の短歌3連発を見て行きたいと思います。
最初は,紀女郎(きのいらつめ)に贈った短歌からです。

板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む(4-779)
いたぶきのくろきのやねは やまちかしあすのひとりて もちてまゐこむ
<<あなたの家は黒木の板葺屋根ですよね。わが家の近くに良い黒木の山がありますので明日にでも取って持参しましょう>>

年上の紀女郎にぞっこんだった若い家持は,なかなか逢ってくれない女郎にこんな強引な短歌を贈っています。逢うためだったら,屋根を新しく葺きかえるための木材だって持って参上しますという勢いです。女郎側はたまったものではありませんね。
2番目は,家持が別の女性に逢いに行ったら門前払いをされたので,残念な思いを相手の女性に贈った短歌です。

かくしてやなほや罷らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て(4-700)
かくしてやなほやまからむ ちかからぬみちのあひだを なづみまゐきて
<<このように門前からやはり帰るのでしょうか。遠い道のりを難儀してやっと来たのに>>

この短歌,万葉集の秀歌を集めた本には絶対選ばれない類のものだと私は思います。いくら大納言大伴旅人の息子で大伴氏のプリンス,そして多くの女性と交際していた家持であってもです。
<家持は自分の恥ずかしい経験も万葉集に載せた>
家持は思い付きで,事前の連絡もなく逢いに行ったのかもしれません。もし,そうなら,この女性の親は意地でも気軽に逢わせるのを断ったのかもしれませんし,運悪く相手の女性が体調が良くない時だったのかもしれません。断られて当然の状況で,「遠くからわざわざ来たのに,家に入れてくれないのか?」とクレームめいた短歌を贈って何になるのでしょうか。
当時の家持の未熟さがモロに分かるような恥ずかしい短歌ではないでしょうか。
ただ,こんな短歌が入っているから万葉集は駄作も含めた「単に和歌を寄せ集めたものだ」とか,「家持が自己顕示のために集めたもの」とか,「万葉集の選者は大伴家持ではない」とか,と決めつける考え方には私は反対です。
また,そんな家持等の駄作は見ないで,歴史的に有名な万葉学者先生や歌人が選んだ優れた和歌を中心に見て万葉集を鑑賞すれば,万葉集の素晴らしさが分かるはずという考え方にも私は同感できません。
<家持自身の葛藤を平安時代の文人たちは評価した?>
文学的駄作として取り上げられることが少ないが,人間の心の中のありのままを素直に表した和歌の集まりであるからこそ,その後平安時代に花開いた日記文学(更級日記,土佐日記,紫式部日記,和泉式部日記など)や歌物語(伊勢物語,大和物語など。源氏物語も歌物語だと私は思う)に少なからず影響を与えたと見ています。
仮に万葉集が秀歌のみ厳選した歌集であったなら,1首1首が鑑賞の対象になり,長い期間ではなく,どうしてもある瞬間瞬間の思いや葛藤の個々の表現にとどまります。
それでは枕草子のような随筆文学に影響を与えることはあっても,日記文学や歌物語に影響することは少なかったと私は想像します。
さて,最後は家持が越中守として越中にいた時に,京から赴任した人物に対して贈ったと思われる短歌です。

朝参の君が姿を見ず久に鄙にし住めば我れ恋ひにけり(18-4121)
あさまゐのきみがすがたを みずひさにひなにしすめば あれこひにけり
<<朝出勤される貴殿の姿を久しく見ませんでした。ずっと越中の田舎にいたものですから,そのお姿を懐かしく思います>>

30歳を超え,越中守の重責を担う家持です。前の2首とは全然違う仕事の立場上,宴席でのあいさつ的な短歌のようです。
この短歌の冒頭の「朝参の」の部分は万葉仮名では「朝参乃」となっています。これを「てうさんの」と音読みにするのか「あさまゐの」と訓読みにするのか難しいところです。
私には後者の方がしっくりいきますので,読みを訓読みにしてみました。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(2)に続く。