<終わりのない仕事>
さて,プロフィールにある通り私は現役のIT技術者で,得意分野はソフトウェアの保守開発(保守対応が専門で,ときに付随する開発も行う)です。
専門の保守対応をもう少し具体的に示すと,対象のソフトウェア(稼働中)で発生した問題や要望(保守案件と呼ぶ)に対し,調査,解決策洗出し,対応作業見積,報告書・提案書作成・説明,作業(例:ユーザ操作指導,環境設定,データ整備,マニュアル整備,プログラム更新手配,プログラム追加開発手配,設計文書改訂,追加作成,品質確認,リリース説明資料作成・説明,など)です。そして,その後も次々発生するう別の保守対応を繰り返していくのです。複数の保守案件を並行して対応することも普通にあります。具体例で「○○手配」と書いた部分は,適切な手配先が無いときや緊急の場合は仲間と確認し合いながら私自身が直接作業を行う場合もあります。
保守対応では,このように各種のITスキル・知識・各種行動能力を対応者は保持の必要があります。また同時に,対象システムが存在する限り,保守対応に原則終わりはありません。
<ITシステムは生きている以上,それを維持する義務がある>
「終わりがない作業」と言った瞬間,ゲーム世代の人々にとっては,魅力を感じない仕事に映るかもしれませんね。実際に,このような保守対応をやっている若手技術者には,仕事を変わりたいと思っている人が多数いるようです。
私の考えは少し違います。システムは寿命(ライフサイクル)を持つ生き物として見た方が良いという考えです(世界的にもそう考える人は意外に多いのです)。システムが生き物なら死ぬ(その生涯を終える)まで,システム自身は生き続けなければならない(義務がある)といえるのです。生き物にとって,死ぬまで(寿命が尽きるまで)は,当たり前ですが生きていることに終わりは無く,できるだけ長生きしようとします。当然,生きる時間の方向不可逆的です(過去に戻ってやり直すことは不可能という意味で)。
結局,生き物は常にこれからどう生きていくかしか考えられない(考えない)のが本来の姿だと私は思います(その目的の達成のため,過去の失敗の反省や様々学習したことを参考にすることはあっても)。生き物が生きていることの終わり(死ぬこと)ばかり考えて生きていることは,生きていること自体が苦痛で決して幸せな生き物の生き様とは言えないでしょう。
<ITシステムにとって幸せとは?>
生き物にとって幸せとは何か? 仮に,その生き物が自分が生きる価値を自覚し,さらにより充実して生きようと努力し,他の生き物から存在を認められ,他の生き物と協力して,お互いの生きる価値をさらに高めあっている状況が,その生き物にとって幸福であるとします。
システムを生き物と考えるなら,幸せな状態(幸せに生きているシステム)にしてあげる構成要素(ヒト,モノ,カネ,情報)が必要だと私は思います。
その役割を果たす一つがが,私のようなソフトウェア保守開発技術者ではないかと考えています。その技術者が生きている対象ソフトウェアを愛情をもってケア(保守対応)していく以上,同様の保守開発対応経験が長いほど,効率,正確,丁寧な対応ができるとも考えています。
私自身は,とっくに開発専門IT技術者としての現役を退いている年齢だろうと思いますが,ソフトウェア保守開発技術者はこのような経験がものをいうため,まだまだ現役を続けることができると考えています。
<改めてITシステム屋さんの私が万葉集に魅かれる理由とは>
さて,今私が保守対応しているシステムは,割と最近のIT技術で構築されたシステムです。最近のIT技術を駆使して仕事をしている私がなぜ1300年も前に詠まれた和歌が記録されている万葉集の内容に興味を持つかは以前にも何度かこのブログで書きました。今回は,改めて別の視点で書いてみたいと思います。
万葉集を詳細に見ていくと,約1300年前の万葉時代の生活や人々の考え方,仕事の種類や仕事の進め方,様々な職種から見える産業技術のレベルが私にはいきいきとイメージできるのです。
そんな古いこと,今の我々の生活に何の関係があるのか?と思う人がいるかもしれません。
もちろん,当時コンピュータ,飛行機,エンジンやモータで動く各種の車もありません。そして,何よりも電気で動作するあらゆる機器(家電やゲーム機,携帯通信装置など)が万葉時代にはなかったのです。
今は,あらゆることが万葉時代に比べ非常に便利なっています。また,地震・津波・台風・噴火などの自然災害や失火による火災の影響もはるかに少なくて済むようになっています。手に入る品物の種類,品質指標,豊富さも今は万葉時代と比べ物にならないくらい高くなっています。
<ヒトの幸福感は技術の発展に比例して高くなっているか?>
では,人々の幸福感は万葉時代と比較してどれだけ高くなっているのか気になるところです。警察庁によりますと,昨年1年間の自殺者がここ数年少し減ったといってもまだ2万数千人います(年間交通事故で死亡する人の約6倍)。それでも,万葉時代に人々に比べて,今の人々ははるかに幸福感が増えていると言えるのでしょうか。
人々の幸福感が,仮に他人経済状況や社会一般との貧富の比較,また自分の過去との比較で生まれてくるとしたら,いくら社会が物質的に豊かになっても,貧富の格差や所得の変動(低下)発生があり得る以上,幸福感を味わえない人が残ることになります。私自身も,仮に今の所得を半分されたら恐らく幸福感を維持できないと思います。
私は国民の貧富の格差を解消したり,所得を増大させる政策の必要性を否定しません。しかし,格差の解消や所得の増加だけで全国民が幸福感を味わえるとは限らないと思っています。なぜなら,万葉時代と現代と比べ,貧富の格差の是正,平均所得の増大がはるかに進んでも幸福感を感じない人が多数(過半数?)いるからです。
人間はこのような今生きているときの周囲や自分の過去との比較で幸福感を感じるという事実が万葉時代も同じだとすれば,万葉集にで出くる悲しい,苦しい,ツライ,切ない,楽しい,愉快だ,死にたいという気持ちを和歌に託した記録が,現代の我々にも十分当てはまるのではないかと私は考えているのです。
そして,1,300年前と今と基本構造が変わらない部分(考え方やモノの見方)があるとすれば,これから100年200 年経っても基本は変わらない可能性が高いと私は予測するのです。
そんな中で,今でも人間の基本行動にあまり変化がないと思わせる万葉集の和歌を今回は何首か紹介します。
次は,昔竹取翁(たけとりのおいな)と呼ばれた老人が詠んだとされる長歌の最後の部分です。
~ いにしへの賢しき人も 後の世の鑑にせむと 老人を送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり(16-3791)
<~ いにしへのさかしきひとも のちのよのかがみにせむと おいひとをおくりしくるま もちかへりけり もちかへりけり>
<<~ 昔の有識者も後世の教訓とするように,老人を捨てに行くために使った車を持ち帰ってきたとさ,持ち帰ってきたとさ>>
この長歌は,作者が老人(自分)を小ばかにする9人の若い娘に諭したものとされています。昔,飢饉などで食べ物が全くないとき,口減らしでやむなく家庭の老人を山に捨てに行った。その時に捨てる老人を乗せるために使った車を博物館のようなところに展示し,保存し,そのような可哀そうなことにならないよう日頃から協力し合って生活する。そんな教訓に昔の賢人はしたということを伝えたいのではないかと私は思います。
<災害時や飢饉のときの教訓は忘れてはいけない>
実際に老人を捨てたのかは別にして,このような逸話を利用し,飢饉や災害に遇ったとき,今で言えば会社が倒産して解雇されたときなどの備えを怠りなくすることの大切さを教訓として残しているのだろうと私は思います。こういったことは,今でも自分に襲い掛かる災難とそれにあったときの影響度,採れる事後的な対策(限られている)などを日ごろから考え,減災の準備をして置く必要があること,そして若い人もいずれ老人になることを教えてくれそうです。
また,今の年金受給者の実質所得を削減するマクロ経済スライド制のような制度を,老人を対象とした口減らしの一種とするならば,将来を見据えずその場最適の年金政策の結果がもたらした失敗として歴史の教訓としてしっかり残すべきだと私は思います。
さて,次は女性から男性へ怒りの意思を伝えた短歌です。
商返しめすとの御法あらばこそ我が下衣返し給はめ(16-3809)
<あきかへしめすとのみのり あらばこそあがしたごろも かへしたまはめ>
<<買ったものを返品できる法があるなら,私が贈った下着を返してください>>
万葉時代,女性が男性に下着を贈るのは,妻問で一夜を共にした証だとすると,このように詠んだ女性は,妻問で契りを結んだことを無かったことにしたいと思っていることになります。男性は,その後よほどひどいことを作者の女性に対してやり,怒らせてしまったのでしょうか。
今の法律では,クーリングオフ制度など,契約の取り消しが可能な取引もありますが,女性にひどいことをした男性が免責されるような法律は今の日本にはありません。取り返しのつかないようことをしてしまわないように気を付けて生きていくことは,いつの世の中でも重要なことといえるかもしれませんね。
最後は,大伴家持が痩せた老人をからかって詠んだとされる2首の短歌です。どちらも,鰻が出てきます。
石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ(16-3853)
<いはまろにわれものまをす なつやせによしといふものぞ むなぎとりめせ>
<<石麻呂さんに私は申し上げます。夏痩せに効くと云われている鰻を捕ってお食べなさい>>
痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな(16-3854)
<やすやすもいけらばあらむを はたやはたむなぎをとると かはにながるな>
<<痩せていても生きていられれば良いではありませんか。鰻を捕るために川に入って,もしかして流されたりしないでくださいね>>
痩せた老人を本当にバカにしているのではないと私は思いたいです。前の短歌1首だけでは,鰻を捕まえようとして川に入って流されたりするといけないと気が付いた家持は後の短歌を詠んだのでしょうか。
人のためにいろいろアドバイスをするのは,実はかなり難しいことをこの短歌は私には教えてくれます。今で言えば,超肥満人に対して「エクササイズ(運動)したら痩せられるよ」と勧めても,その人が立つことだけがやっとだったらどうでしょう。「太っていても健康に問題なければ良いではありませんか。運動は少しずつ慎重にね」と言うだけにとどめる方が良いと思うかもしれません。
次回は,万葉集ゆかりの街道を25キロほど歩く予定があり,そのレポートをするつもりです。
2015 盛夏スペシャル(2)に続く。
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