2015年6月20日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ) {ほとほと参った}という使い方は昔は無かった?

今回,「参ゐる」の最終回として,過去2回で取り上げてこなかった「参ゐる」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,最初は高橋虫麻呂が天平4(732)年に藤原宇合(うまかひ)が西海道節度使(続日本記によれば,この時に節度使制度が発布)として筑紫へ赴任するときに詠んだとされる長歌です。
長いですが,一部のみに切るのはもったいない長歌なので,すべて載せます。「参ゐる」は最後の方に出てきます。

白雲の龍田の山の 露霜に色づく時に うち越えて旅行く君は 五百重山い行きさくみ 敵守る筑紫に至り 山のそき野のそき見よと 伴の部を班ち遣はし 山彦の答へむ極み たにぐくのさ渡る極み 国形を見したまひて 冬こもり春さりゆかば 飛ぶ鳥の早く来まさね 龍田道の岡辺の道に 丹つつじのにほはむ時の 桜花咲きなむ時に 山たづの迎へ参ゐ出む 君が来まさば(6-971)
しらくものたつたのやまの つゆしもにいろづくときに うちこえてたびゆくきみは いほへやまいゆきさくみ あたまもるつくしにいたり やまのそきののそきみよと とものへをあかちつかはし やまびこのこたへむきはみ たにぐくのさわたるきはみ くにかたをめしたまひて ふゆこもりはるさりゆかば とぶとりのはやくきまさね たつたぢのをかへのみちに につつじのにほはむときの さくらばなさきなむときに やまたづのむかへまゐでむ きみがきまさば
<<龍田の山が露霜で色づく頃,困難な道を越えて旅行くあなたはいくつも重なる山々を進み,防衛地の筑紫に着き、山の果て,野の果てまで防衛するように兵隊たちを分派し,山彦が聞こえる限り,ひきがえるが跳んで行く限りの場所まで,国の様子を観閲され,春になったら飛ぶ鳥のように早くお戻りくださいませ。龍田街道の岡辺道に真っ赤なつつじが咲き誇り,桜が咲くとき,お迎えに参りとう存じます。その頃,お戻りになられるご予定なので>>

宇合は30歳代後半ですでに参議(公卿)に任ぜられたほどのエリート。節度使(地方が法律を守っているのか監査する役)という大役を受けて,いざ九州への旅に出るとき,宇合に仕えていた虫麻呂が贈ったのでしょう。
虫麻呂は,帰京する予定の来春には,迎えに参りますと長歌を結んでいます。
ただ,宇合を含む彼の兄弟4人は天平9(737)年に,天然痘で死亡し,有望な将来を断たれてしまうのです。その結果,藤原家の勢いはなくなり,橘諸兄が権力を握ることになったと言われています。
主君を失った高橋虫麻呂は,羈旅の歌人となり,高橋虫麻呂歌集を作ったのかもしれません。
「参ゐる」の最後となる次の2首は,正月に詠まれた短歌です。
1首目は,天平勝宝3年1月大伴家持(当時:越中守)が,越中の内蔵縄麻呂の館で催された正月の宴で詠んだとされる短歌です。雪の中を苦労して参上したとあります。

降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(19-4230)
ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>

2首目は,天平勝宝6(754)年1月家持の従兄(年下)である大伴千室が家持(当時:少納言)の家で行われた新年の宴で詠んだものです。天候が急変したときは,すぐに駆けつけ,参上しますという決意表明のような短歌です。

霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く (20-4298)
しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります。何年も>>

これで,「参ゐる」の回は終わりますが,万葉集には,人が失敗して「参ったな~」という意味の和歌は無いようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(1)に続く。 

2015年6月14日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(2) さまざまな別れの和歌に使われる「参ゐる」

今回は,「参ゐる」を詠んだ悲しい万葉集の和歌3連発で行きます。
まず最初は,草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼んで舎人(とねり)たちが詠んだ二十三首の晩歌のうちの一首です。

一日には千たび参ゐりし東の大き御門を入りかてぬかも(2-186)
ひとひにはちたびまゐりし ひむがしのおほきみかどを いりかてぬかも
<<一日に何度も参上した東の大きな御門も,今となっては入ることができないなあ>>

この挽歌を詠んだ舎人は草壁皇子に仕えた人でしょう。訪問客の相手や連絡事項を伝えるため,草壁皇子が仕事をする建物がある東の門を何度もくぐって参上したが,その仕事も皇子が死去した今となっては必要がなくなったのですね。
次は,持統(ぢとう)天皇文武(もんむ)天皇の時代に活躍し,左大臣・大納言まで勤めた石上麻呂(いそのかみのまろ)の息子であった石上乙麻呂(おとまろ)の長歌です。

父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを
<<父君にとって私は愛おしい子である。母君にとっても私は愛おしい子である。京へ参上する多くの人々が無事を祈り手向けして越える恐坂に私が幣を奉り、長い土佐道を>>

乙麻呂は藤原宇合の妻で女官であった久米若賣(くめのわかめ)と密通した(今で言う不倫関係になった)という罪で土佐に流された際に詠んだとされるものです。この長歌に出てくる「畏の坂」はどこか分かりませんが,平城京から土佐まで行く主要街道の一つの峠だったのだと私は思います。
さて,最後は下総(今の千葉県)出身の防人雀部廣嶋(きざきべのひろしま)が詠んだとされる防人歌です。

大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを(20-4393)
おほきみのみことにされば ちちははをいはひへとおきて まゐできにしを
<<大君のご命令なので父母を斎瓶(神に捧げる壺)とともに家に置いて参り来たのだなあ>>

自分には,頼りにできる父母も,無事を祈ることができる神も家に置いて,天皇を命により防人として参上したことに対する不安がよく表れた秀歌だと私は思います。
これから何を頼りにしていけばいいのか?天皇は自分を守ってくれるのか?九州の地での自分の状況を家の父母に知らせてくれるのか?
また,父母の健康状態を九州まで知らせてくれるのか?など,不安と表に出せない怒りを精いっぱいこの短歌は表していると私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ)に続く。

2015年6月7日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(1) スクープ:大伴氏の若きプリンス,門前払いの憂き目に!!

先週から立ち上げた,ブログ「万葉集に関するクイズです」は2回目のクイズ投稿と1回目の問題の解答の掲載を6月3日に済ませています。楽しく問題を解いてみてください。

http://quiz-mannyou.blogspot.jp/

さて,こちらのブログは,今回から動詞「参ゐる」について万葉集を見ていくことにします。「参ゐる」の初回は,大伴家持作の短歌3連発を見て行きたいと思います。
最初は,紀女郎(きのいらつめ)に贈った短歌からです。

板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む(4-779)
いたぶきのくろきのやねは やまちかしあすのひとりて もちてまゐこむ
<<あなたの家は黒木の板葺屋根ですよね。わが家の近くに良い黒木の山がありますので明日にでも取って持参しましょう>>

年上の紀女郎にぞっこんだった若い家持は,なかなか逢ってくれない女郎にこんな強引な短歌を贈っています。逢うためだったら,屋根を新しく葺きかえるための木材だって持って参上しますという勢いです。女郎側はたまったものではありませんね。
2番目は,家持が別の女性に逢いに行ったら門前払いをされたので,残念な思いを相手の女性に贈った短歌です。

かくしてやなほや罷らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て(4-700)
かくしてやなほやまからむ ちかからぬみちのあひだを なづみまゐきて
<<このように門前からやはり帰るのでしょうか。遠い道のりを難儀してやっと来たのに>>

この短歌,万葉集の秀歌を集めた本には絶対選ばれない類のものだと私は思います。いくら大納言大伴旅人の息子で大伴氏のプリンス,そして多くの女性と交際していた家持であってもです。
<家持は自分の恥ずかしい経験も万葉集に載せた>
家持は思い付きで,事前の連絡もなく逢いに行ったのかもしれません。もし,そうなら,この女性の親は意地でも気軽に逢わせるのを断ったのかもしれませんし,運悪く相手の女性が体調が良くない時だったのかもしれません。断られて当然の状況で,「遠くからわざわざ来たのに,家に入れてくれないのか?」とクレームめいた短歌を贈って何になるのでしょうか。
当時の家持の未熟さがモロに分かるような恥ずかしい短歌ではないでしょうか。
ただ,こんな短歌が入っているから万葉集は駄作も含めた「単に和歌を寄せ集めたものだ」とか,「家持が自己顕示のために集めたもの」とか,「万葉集の選者は大伴家持ではない」とか,と決めつける考え方には私は反対です。
また,そんな家持等の駄作は見ないで,歴史的に有名な万葉学者先生や歌人が選んだ優れた和歌を中心に見て万葉集を鑑賞すれば,万葉集の素晴らしさが分かるはずという考え方にも私は同感できません。
<家持自身の葛藤を平安時代の文人たちは評価した?>
文学的駄作として取り上げられることが少ないが,人間の心の中のありのままを素直に表した和歌の集まりであるからこそ,その後平安時代に花開いた日記文学(更級日記,土佐日記,紫式部日記,和泉式部日記など)や歌物語(伊勢物語,大和物語など。源氏物語も歌物語だと私は思う)に少なからず影響を与えたと見ています。
仮に万葉集が秀歌のみ厳選した歌集であったなら,1首1首が鑑賞の対象になり,長い期間ではなく,どうしてもある瞬間瞬間の思いや葛藤の個々の表現にとどまります。
それでは枕草子のような随筆文学に影響を与えることはあっても,日記文学や歌物語に影響することは少なかったと私は想像します。
さて,最後は家持が越中守として越中にいた時に,京から赴任した人物に対して贈ったと思われる短歌です。

朝参の君が姿を見ず久に鄙にし住めば我れ恋ひにけり(18-4121)
あさまゐのきみがすがたを みずひさにひなにしすめば あれこひにけり
<<朝出勤される貴殿の姿を久しく見ませんでした。ずっと越中の田舎にいたものですから,そのお姿を懐かしく思います>>

30歳を超え,越中守の重責を担う家持です。前の2首とは全然違う仕事の立場上,宴席でのあいさつ的な短歌のようです。
この短歌の冒頭の「朝参の」の部分は万葉仮名では「朝参乃」となっています。これを「てうさんの」と音読みにするのか「あさまゐの」と訓読みにするのか難しいところです。
私には後者の方がしっくりいきますので,読みを訓読みにしてみました。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(2)に続く。 

2015年5月31日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(3:まとめ) 最後に新しいブログ立上げのお知らせがあります。

「栄ゆ」の最終回は,これまで出てこなかった「栄ゆ」が読み込まれている和歌について,万葉集を見ていきます。
今回の最初は,海犬養岡麻呂(あまのいぬかひのをかまろ)が宮廷で聖武(しやうむ)天皇から命じられ詠んだとされる短歌です。

御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば(6-669)
みたみわれいけるしるしあり あめつちのさかゆるときに あへらくおもへば
<<陛下の民である私は生きている有難さを感じています。天地が栄える時に偶然生まれ合わせたと思うので>>

「今の社会の繁栄は天皇のおかげ,そんな時に生まれて本当に幸せです」といった天皇礼賛(=よいしょ)の典型のような短歌でしょうか。
聖武天皇は,奈良の大仏殿や各地の国分寺国分尼寺を始めする寺院の建設,恭仁(くに)京難波(なには)京への遷都(結果は頓挫)などの公共事業を積極的に推進したようです。
政権の財政を逼迫させるような浪費にも見えますが,その結果,諸産業が活性化し,多くの人が職に就け,天平文化が開花し,栄えたとも言えそうです。
さて,次は天皇礼賛ではなく,大伴氏礼賛の短歌(この短歌はすでに何度かこのブログで紹介)です。

靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>

国の繁栄は大伴氏の武勇によるものだと言いたいのでしょう。ただ,この短歌が詠まれた平城京の時代では武勇は過去のもので,昔を懐かしんで詠まれたのかもしれません。
最後は,雨乞いをしていたら,雨が降ってきて良かったという大伴家持が天平感宝元(749)年6月4日に越中で詠んだ短歌です。

我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ(18-4124)
わがほりしあめはふりきぬ かくしあらばことあげせずとも としはさかえむ
<<我らが欲しいと願った雨はとうとう降ってきたので,もうあれこれ心配ごとを言わなくても豊作の年となるでしょう>>

実は天平感宝という元号は,この年の4月に天平21年から改元され,同じく7月には天平勝宝元年に改元されたということで,わずか3ヶ月ほどの短命な元号ということになります。
その3ヶ月間の出来事を表す時だけ使う元号となるため,一般の歴史書にはほとんど表れない元号となっているようです。
しかし,この短歌の前にある同じく家持が詠んだ雨乞いの長歌の題詞には,「天平感寶元年」とあるとのことで,正確に元号が記されていることに私は万葉集全体の内容に関する信頼性を感じます。
この長歌では,この年の5月に長く雨が降らないため(空梅雨),稲の葉が萎んでいく姿を見て,雨が降ってほしいと必死な雨乞いの気持ちを詠んでいます。
越中守の家持の下には,農家からは窮状を訴える陳情が多く寄せられていたのだと思います。
当時は海水の淡水化装置がある訳ではありませんから,こればかりは天に祈るしかなかったのでしょう。そして,6月についに雨が降ってきて,この短歌のように安堵する家持がそこにいるのです。
越中の平和で栄え豊かな生活を維持するという重い責任を負わされた家持の人間らしい側面がこの短歌には,またにじみ出いるように私には感じます。
これで,「栄ゆ」は終わります。

実は,万葉集に関する新しいブログを立ち上げました。
ブログの名称は,ブログ「万葉集に関するクイズです」です。
http://quiz-mannyou.blogspot.jp/
タイトルの通り,万葉集をテーマとしたクイズを次々と出していくブログです。
そちらも楽しんでください。なお,このブログも継続して投稿していきますよ。
このブログの次のテーマは動詞「参ゐる」を見ていく予定です。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(1)に続く。

2015年5月23日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2) 植物が元気に育つ初夏ですね。

「栄ゆ」の2回目は,植物が栄える(繁茂する)という意味で使われている万葉集の例を示します。
最初は,現在の桜井市にあったといわれる大伴氏の荘園を訪れた紀鹿人(きのしかひと)がその立派さを詠った短歌です。鹿人の属する紀氏と大伴氏との間には太い交流関係があったようです。

茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく(6-990)
しげをかにかむさびたちて さかえたるちよまつのきの としのしらなく
<<茂岡に神々しく立って栄えている千代松の木はその立派さに樹齢を推測することもできないです>>

荘園には千代松という立派で樹齢が長いシンボル的な松の木があったのでしょう。それをほめたたえることで,大伴氏が長年所有し,整備してきた荘園の価値を高く評価したのだと思います。
次は馬酔木の花(枕詞として使用)を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも(7-1128)
あしびな さかえしきみが ほりしゐのいしゐのみづは のめどあかぬかも
<<(馬酔木の白い花がたくさん咲くように)立派になられたあなた様が掘られた石井の井戸水はいくら飲んでもおいしいですね。>>

馬酔木の花・茎・葉などには毒があり,獣や虫が寄り付かない効果があるためか,井戸の周りに植え,井戸水が常にきれいであるようにしていたのかもしれません。もちろん,馬酔木の花自体も白く,見ていて清潔感があり,井戸や池の周りに植えるのに適していたと私は想像します。
最後は,草が盛んに生えることを詠んだ柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの旋頭歌です。

山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ(7-1286)
やましろのくせのやしろのくさなたをりそ わがときとたちさかゆともくさなたをりそ
<<山城の久世の社の草を手折ってはならない。我が世の盛りとばかり立ち栄えていようとも社の草を手折ってはならない>>

これは,久世にある社(神社)は雑草さえも霊験あらたかなので,むしり採っていけない。少しぐらいむしり採っても分からないくらい生い茂っていても,やはりむしってはいけないということを詠ったと素直に解釈できそうです。
しかし,この前に出てくる旋頭歌1285では,田で一人で作業をしている疲れた若者に対して,「お前には助けてくれる妻がいないから疲れているだよね」とカラかっているものがあります。
この旋頭歌1286が旋頭歌1285の続きであれば,意味が違ってきそうです。たとえば,草のことを若い妻候補の女性のこととすれば(旋頭歌1285に出てくる「若草の」は妻に掛かる枕詞),「僕にはいっぱい妻候補がいるんだ。かっさらったりするんじゃないぞ!」という内容にも思えます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(3:まとめ)に続く。

2015年5月16日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1) 「Win・Winの関係」をより進めて「栄・栄の関係」へ

<日本人はすぐに謝る?>
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。

はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>

余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。

我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>

この短歌は天武天皇持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。

天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>

奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。

2015年5月9日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ) 植物は無闇に折らず,あるがままがいいですね

我が家の庭(マンションの専用庭)に20年以上前から植えていたサクランボは,例年全く実をつけないか,つけても数粒だったのですが,今年は比較的たくさん実をつけてくれました。

手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>

馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。

我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>

恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。

暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>

きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。

妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>

この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。