2014年12月14日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1) 万葉時代,月夜は今よりもっと明るかった?

<転職して2週間。一番苦しいところ>
新しい職場に勤務を開始して2週間。やっと,周りの仕事の内容が見えてきたところです。
以前にも述べましたが,私が専門としている稼働中ソフトウェアの保守開発の仕事は「たかがちょっとした修正でしょ」といった簡単なものではありません。
対象コンピュータシステムに搭載されたソフトウェアがどのようなことを重視して初期開発されたのか,その後どのような問題に遭遇し,どのような改修をされてきたのかなどの経緯が分からないと,コスト的,将来的,緊急対応度,対応困難度,対応影響範囲などの観点から,最適な対応(改修)方法を導き出すのが簡単にはできないのです。
対象システムが大規模なため,現状を理解するだけでなく,そういった今までの経緯を含めて完全に理解をするのは,まだまた時間が必要です。
しかし,すべてが理解できていなくても課題の解決を行いながら理解を深めていくことも現実的な対応で,限られた情報しかなくても最適な対応方法を素早く見つける技もプロフェッショナルとして必要な技量かもしれません。
<本題>
さて,近況はそのくらいにして,今回から「照る」について万葉集を見ていきましょう。万葉集で「照」の漢字があてられている和歌は100首以上もあります。「照る」の意味は,明るくかがやく・ひかるという意味と,つやが良いといあ意味があります。また,枕詞(高照らす,押し照る)に使われていて,それ自体に直接的な意味がない場合もあります。
その中を見ていくと,「照らしている」ものの本体は次のようなものに分類できます。
 ・月
 ・日
 ・花
 ・その他(玉,黄葉,雪,天の川などの星,天など)
今回はまず「照りかがやくものとしての月」や「月が照っている月夜」を見ていきます。これらを詠んだ和歌は50首ほど万葉集で出てきます。
1首目は,長屋王(ながやのおほきみ)の娘とされている賀茂女王(かものおほきみ)が詠んだ相聞歌1首です。

大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも(4-565)
おほとものみつとはいはじ あかねさしてれるつくよに ただにあへりとも
<<あなた様を見たとは言わないことにしましょう。すごく明るく月が照っている夜にあなた様と直(じか)に逢うことができたとしても>>

誰に贈ったかは不明のようですが,これも女王の他の相聞歌に出てくる大伴三依(おほとものみより)だったのではないかと私は思います。
三依はこれを受けて詠んだかどうか不明ですが,同じ巻4の中で次の短歌を詠んでいます。

照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに(4-690)
てるつきをやみにみなして なくなみだころもぬらしつ ほすひとなしに
<<明るい月夜が闇夜に見えるほど泣いた涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人などいないのに>>

この両短歌が女王と三依の間のものであったとしたら,ふたりの間は悲恋となったことになります。
何が二人を逢えなくさせる要因となったのか分かりませんが,政治的な問題(長屋王の変)が影響したのかもしれないと私には感じられます。
次は,志貴皇子(しきのみこ)の子であり,光仁(こうにん)天皇の弟である湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだ短歌を紹介します。

はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる(6-986)
はしきやしまちかきさとの きみこむとおほのびにかも つきのてりたる>
<<すぐ近くの里に住むあのお方が来てくださるようだ。大きな満月が照りはえている>>

この短歌は,女性の立場で詠んだようのではないかと私は感じます。満月の夜は,道を明るく照らし,出る時間帯も日が暮れたら直ぐなので,夜に行われる妻問にはもってこいです。今夜は素晴らしく明るい満月が照っているので,あの方は今夜こそきっと来るだろうと待ち望んている女性の気持ちを詠んだのではないでしょうか。
この湯原王は,政治的にはほとんど記録に残っていない人物ですが,万葉集に19首の短歌を残しています。天武系の天皇が続く天平時代に,天智天皇系の志貴皇子の血筋をもった人たちは,和歌を詠みながら時代の変化をひたすら待っていたのかもしれません。
長屋王のように天武系であっても敵を作ってしまい,粛清の憂き目に遇うのは避けたいですからね。
最後は,詠み人知らずの短歌ですが,大伴氏の繁栄を願って詠んだと考えられるものです。

靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって,国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>

このように月が照ることが,現代と比べ物にならないほど,当時の人々にとって大きな意味を持っていたのだろうと私は想像します。きっと,明るく照った月夜は,普通の夜と違う元気が出る夜だったのでしょう。
それは,今の季節,あちこちで通りで綺麗で豪華なイルミネーションが点灯されると,寒さなんか忘れて,出かけてみようと思う気持ちと同じかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2)に続く。

2014年12月7日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ) 暑中から雪踏む季節まで休載でした

<たびとは転職しました>
このブログの読者のみなさん。今年の8月4日を最後にずっとこのブログへのアップを個人的な事情があり休止していました。申し訳ありません。
実は,この「踏む」を取り上げた初回(7月19日アップ)に書いたように,人生の分かれ道に差し掛かったのです。社会人になってからずっと勤めてきた同じ企業グループの会社から,全く別の勤め先に転職するかどうかでした。
結論としては,11月末でそれまで勤めていた会社を円満に退職し,12月から別の勤務先で勤務するようになりました。
これまでと対象のシステムは異なりますが,同じソフトウェア保守開発の仕事ですので,最初の1週間でほぼ求められる仕事をこなせる自信が大体できたのは良かったです。
8月から11月まで,休日は転職に関する検討,エントリーシート作成や面接の準備(転職経験がないので両方とも社会人になって初めての経験),内定後の諸手続きに忙殺され,ブログをアップする余裕がありませんでした。

天の川 「たびとはん。おかげさんでゆっくり休めさせてもろたわ。また,ちょこちょこちょっかい出すさかい,せいぜい頑張ってんか。」

天の川君の出番がないように頑張って見ますかね。
<このテーマの本題>
さて,「踏む」のまとめとして季節が冬になったため「雪を踏む」を取り上げたいと思います。
次は三方沙弥(みかたのさみ)という歌人が詠んだ長歌と短歌(反歌)です。ただ,長歌と言っても普通の形式ではなく,語り口調のように感じます。今で言うとラップのような感じでしょうか。

大殿の この廻りの雪な踏みそね しばしばも降らぬ雪ぞ 山のみに降りし雪ぞ ゆめ寄るな人やな踏みそね 雪は(19-4227)
おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね しばしばもふらぬゆきぞ やまのみにふりしゆきぞ ゆめよるなひとやなふみそね ゆきは
<<御殿の周りに降り積もった雪は踏むでないぞ。めったには降らない雪であるぞ。山にしか降らない雪であるぞ。ゆめゆめ近寄るでないぞ。人よ踏むでないぞ。この雪は>>

ありつつも見したまはむぞ大殿のこの廻りの雪な踏みそね(19-4228)
ありつつもめしたまはむぞ おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね
<<あるがままをご覧になられようとするのだぞ。御殿の周りの雪は踏むでないぞ>>

この大殿(御殿)の持ち主は,藤原不比等(ふぢはらのふひと)の二男である藤原房前(ふぢはらのふささき)とこの和歌の左注には書かれています。
房前が周りの侍従に指示した内容が長歌の方で,反歌は三方沙弥の考えを詠ったものかもしれません。いずれにしても,この反歌は房前が生きていたときの権力の強さを象徴している(茶化している)ようにも見えませんか?
さて,次はこのブログで何度も取り上げている次の大伴家持の短歌です。

大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し(19-4285)
おほみやのうちにもとにも めづらしくふれるおほゆき なふみそねをし>
<<宮中の内にも外にもめずらしく大雪が降った。この白雪をどうか踏み荒らさないで頂きたいものだ。(きれいな雪景色が荒らされるのが)惜しいから>>

この短歌について,今までこのブログでいろいろ書いてきましたが,また違った視点で今回は分析します。
<家持の願い>
家持は「雪を踏まないで欲しい」の誰に言っているのでしょうか。おそらく,家持にとっては空気が読めない,自然の美しさを感じられない,無粋な人たちなのでしょうね。
もちろん,その雪を踏んだのが,門の鍵を開けた守衛だったり,朝早く納品にやってくる業者だったり,朝食を作るために出勤してきた賄いさんだったりで,自らの仕事をこなすためにやむを得ず雪を踏み荒らしたのかもしれません。
珍しい自然現象に気にも留めず,定型作業を機械的に繰り返すだけの大宮で働く多くの人たちに「もう少し美しい風景を大切にしてほしい」という家持の気持ちも分からなくはありません。
一方,働く人たち側は,雪で仕事が大変になったと積雪を恨めしく思っているかもしれません。
ちなみに私の住んでいるマンションの住込み管理人は雪が降ると,人の通り道はすぐに雪かきをしてしまいます。
ところで,踏むのが鳥だったり,リスだったり,ウサギだったり,シカだったら,家持は許せたのでしょうか。おそらく,それは許したのでしょうね。なぜなら,それは自然の営みだからです。
人間には自然に対する価値観が異なる(価値を感じない)人がいて,特に効率最優先で仕事を進めようとする人たちは自然との調和の重要性を軽視し,自然を無理に変えようとしてしまう。
歌人家持はそんな人たちが幅を利かせる効率化のみ重視する大宮の仕組み自体がこのとき許せない感じたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1)に続く。

2014年8月4日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3) 岩の神よ,踏んでも怒らないでね

前回は石を踏むでしたが,今回は万葉集で岩を踏むを取り上げます。
現在,岩は大きな石というような意味とされていますが,当時,石と岩とでは意味に大きな違いがあったのではないかと私は考えます。
岩は岩倉(磐座,磐倉)というように,神が宿る場所や岩そのものが神であるという古代信仰があったらしいとの説を受け入れると,岩は単なる石とは大きく異なり,神聖なものとしての認識があったと私は想像します。その岩を「踏む」ことに対しても,通常の石を踏むのとは違う感覚があるのかもしれません。
では,万葉集の訓読で「岩を踏む」が出てくる和歌を見ていきましょう。なお,訓読で「岩」も「石」も万葉仮名では「石」と記されている場合があるようです。これを「いし」と読むか「いは」と読むかは,後代の万葉学者先生による訓読の判断によります。一般的な訓読に従ってみました。

妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る(15-3590)
いもにあはずあらばすべなみ いはねふむいこまのやまを こえてぞあがくる
<<君に逢わずにいられないから,岩根を踏んで生駒の山を越えて僕は還って来るよ>>

この短歌は,遣新羅使が詠んだとされています。岩根は根が生えたような大きくて,上がごつごつした岩を意味するようです。生駒山自体,万葉時代には,三輪山などと同様に神の山とされていたようです。その山(神体)の岩根を踏むわけですから,大変です。実際の道の険しさよりも,神の怒りに触れないようにしてまでも彼女のために帰ってくる決意をした短歌だと私は解釈します。
次は柿本人麻呂歌集にあったという彼を待っている女性の短歌です(といっても,上の遣新羅使の短歌とは無関係です)。

来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに(11-2421)
くるみちはいはふむやまは なくもがもわがまつきみが うまつまづくに
<<お出でになる道に岩を踏むような険しい山がなければいいのに。私が待つあなたが乗る馬が躓いてしまわないかと>>

実際に彼の家と彼女(この短歌の作者)の家の間に岩だらけの山があったかどうかわかりません。それよりは,彼が通ってくる途中に邪魔が入ったり,障害が起ったりしないことをひたすら祈りながら彼の来るのを待っている気持ちの表れかもしれませんね。
そして,この後に出てくる次の短歌(同じく柿本人麻呂歌集にある歌)は,まさに前の短歌と呼応しているように私には思えます。

岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも(11-2422)
いはねふみへなれるやまは あらねどもあはぬひまねみ こひわたるかも
<<岩根を踏むような険しい山は無いのに逢えないでままの日が多いから恋しくい気持ちが募るよ>>

逢えない原因が何であるかいろいろ考えられます。いずれかの親の反対,周囲の目,仕事の忙しさ,金銭的な問題(妻問もタダではできない)などでしょうか。そういった障害がある状態の方がお互いの恋慕の情が高まることが少なくないのは不思議なことです。
いっぽう,障害や反対が無いのに,ちょっとしたことですぐに別れてしまうような関係に逆になりやすいのかもしれません。親の中には,子ども恋愛関係の強さを確かめようと,わざといったん反対のポーズをとる親があります。それは,子どもに対する親の(二人の関係をより強くするための)愛情行動の一つといえるのでしょうか。
さて,最後に同じく「岩を踏む」をテーマに娘子(をとめ)と藤井大成(ふぢゐのおほなり)が別れを惜しみ掛け合う2首を紹介します。
まず,大成が京に帰任することに対して娘子からの短歌です。

明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば(9-1778)
あすよりはあれはこひむな なほりやまいはふみならし きみがこえいなば
<<明日からは私ともう逢えず寂しくてならないでしょうね。名欲山の岩を踏み均してあなた様が超えていかれた後は>>

それに対して大成が返します。

命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む(9-1779)
いのちをしまさきくもがも なほりやまいはふみならし またまたもこむ
<<どうか達者でな。名欲山の岩を踏み均して,何度もやって来るからな>>

ここに出てくる名欲山は,大分県にある山を指すようです。奈良の京より遠いですが,別府あたりの港から船を利用して,難波港と行き来すれば,以外と楽な行路かもしれません。いずれにしても内容は「またね!」という別れの決まり文句です。
我々は,地方に赴任した大成のことを「地元の娘子とうまいことやったやん」なんて羨ましがってもいけませんよ。偶然かもしれませんが,1300年後も残るお二人の相聞歌を残せたこと自体を羨ましいと思うべきですよね~。まったく。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ)に続く。

2014年7月28日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2) 40年ぶりに「山辺の道」を踏み歩く

<真夏の山の辺の道>
一昨日の土曜,猛暑の中,学生時代に歩いたことがある,山辺の道(やまのべのみち。天理市~桜井市たの内,天理~柳本)を歩きました。

実は,その前の金曜日は大阪への出張があり,その日は大阪市内に宿泊しました。翌朝完全な軽装に着替えをして,朝からJRで天理駅に移動し,そこから歩いたのです。
学生時代は確か2月か3月の春のうららかな日和でしたが,今回はペットボトルを離さずに熱中症にならないよう気を付けながらでした。
一緒に大阪主張に行った会社の同僚も一緒に行きたいと言ってくれたので,男二人で汗をかきながらの奮闘でした。
猛暑の中でしたが,懐かしい場所に戻ってきた感を多くの場所で持て,思い出話や歴史の話を同僚としながらの気持ち良い散策でした。
午後は同僚が東京に戻り,私一人奈良に来るとよく利用する奈良駅前の天然温泉浴場のあるビジネスホテルに宿泊しました。
<翌日はミカン農園で摘果して帰路に>
翌日の27日は毎年みかんの木のオーナーになっている明日香村の農園に行き,ミカンの実の摘果(傷ついた実や小さな実を取り去ること)を行い,午後東京に戻りました。
今回奈良で踏みしめた道や地面は,アスファルトやコンクリート,土,砂利,石を敷き詰めた路面,草地,藁をぶ厚く敷き詰めたみかん畑の地面などで,踏みしめ感がいろいろでした。
特に山辺の道で坂が急に場所には,ごつごつした石を敷き詰めいてる場所がありました。ビジネスシューズで同行した同僚には大変な苦労をさせてしまいました。
今回は,前回の巨勢道の短歌でも出てきた石を踏む場面の和歌を見ていきます。

佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか(4-525)
さほがはのこいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは としにもあらぬか
<<佐保川の小石を踏みながら川を渡って,黒馬が来る夜は年に一度はくらいはあっていいのではないでしょうか>>

この短歌は,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が藤原麻呂(ふしはらのまろ)に贈った内の1首です。織姫牽牛でさえ年に1回は逢えるというのにどうしてあなた様(藤原麻呂)はなかなか来てくださらないのですか?という恨み言のように私には思えます。
藤原麻呂と郎女の家の間には佐保川が流れていて,郎女へ家へ妻問するには川を渡ってくる必要があったこと,そして,佐保川には橋が掛かっておらず,川の石を踏んで渡る必要があったことがこの短歌から見えてきます。
さて,これとよく似た詠み人知らずの短歌が巻13に出てきます。

川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも(13-3313)
かはのせのいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは つねにあらぬかも
<<川の瀬の石を踏んで渡って黒馬に乗ったあなた様が来る夜は常にあってほしいのです>>

実はこの短歌は長歌の反歌なのです。
直前の長歌では,泊瀬の国の天皇が作者の女性の相手だということが詠まれています。長歌では,親に知れると困るので妻問に来てくださるのは止めてほしいという内容ですが,短歌では全く逆のこと(いつも来てね)を詠っています。
さて,泊瀬の国の天皇といえば,すぐに思い浮かぶのが雄略天皇ということになります。
しかし,どう考えてもこの長短歌が雄略天皇が生きていた時に,雄略天皇に対して詠まれたとは考えにくいと私は感じます。
それよりも「女の恋心は複雑なのよ。たとえ相手がすごい天皇であっても,大好きでも,いろいろ気になって素直になれないの」といった奈良時代に巷で流行っていた歌謡ではないかと私は想像します。
最初に紹介した坂上郎女の短歌もその歌謡をパロディーしたか,逆に歌謡の作者が坂上郎女の短歌を真似たのかのどちらかが興味深いところです。
私は坂上郎女の和歌が当時一般に公開されたり,出版されたりする可能性が少ないと考えると,前者(郎女が後からまねて作歌)の可能性が高いと考えています。
さて,最後は石の多い道は馬に乗って移動するのが,万葉時代あこがれの手段だったことを思わせる詠み人知らずの短歌です。

馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ(13-3317)
うまかはばいもかちならむ よしゑやしいしはふむとも わはふたりゆかむ
<<馬を買うと,おまえだけが歩くことになる。石を踏んで苦労は多くとも,僕はおまえと二人で歩いて行くよ>>

夫婦愛の理想を詠ったような短歌ですね。
欲しいもの(当時の馬を今に例えれば,一人乗りのモトクロスモーターバイク)を我慢してでも一緒に同じ方向,同じスピードで暮らしていくのが理想の夫婦なのかもしれません。
ただ,今は価値観やそれまで得てきた情報の多様化・偏重によって,相手の気持ちを理解して,お互いが納得する我慢の度合いを見つけあうのが難しい時代になってきているような気がします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3)に続く。

2014年7月19日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1) ♪遠い遠いはるかな道は ~ 銀色のはるかな道

<土踏まずの役割>
人間は常時直立二足歩行する数少ない動物らしいです(鳥類やカンガルーは二足歩行ではあるが直立二足歩行でない)。その結果,人間の足の裏は立つとき,歩くとき,走るときに分けて,十分機能するような構造になっているようです。
たとえば,足の裏にある「土踏まず」は,石がゴロゴロしているような山道や悪路を素早く移動するとき,足や膝への衝撃を緩和するようために備わっているという見方があるようです。悪路を裸足で歩いたり,走ったりすることがほとんどなくなった現代では,「土踏まず」の必要性が減り,平均的に「土踏まず」は退化傾向(偏平足の人が増加傾向)となり,その結果,逆にちょっとした坂や階段の昇り降り(上り下り)で膝への負担が増すようになってきているのかもしれません。
<本題>
さて,万葉時代はどんな場所を踏んで歩いていたのでしょうか。当然,今のようなクッション性の高い靴はありませんでしたから,踏んだ時の感触や感じ方の変化は今より大きいものがあったと想像できそうです。
万葉集で「踏む」を見ていきましょう。屋外での移動で踏むものとして,まず「道」が考えられます。
まず,有名な東歌(女性作)からです。

信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(14-3399)
しなぬぢはいまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ
<<信濃への道は完成直後の道だから,木の切り株で足を踏み抜かないよう沓を履いていってね,私のあなた>>

人がまだ踏み均(なら)していない道はやはり歩きにくい道だったのでしょうね。
今は,舗装技術が発達していますので,逆に新道のほうが快適に歩き易かったりしますが,万葉時代は逆だったのでしょう。ただ,今でも登山者が歩く登山道は人が踏み均した場所を選んで上り下りした方が楽だと聞きます。
次も歩行が厳しい道を詠んだ詠み人知らず(女性作)の短歌です。

直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ(13-3320)
ただにゆかずこゆこせぢから いはせふみもとめぞわがこし こひてすべなみ
<<真っ直ぐに行かずに、あえて巨勢道の石だらけの道を踏みしめ、苦労をいとわずにわたしは来ました。あなたを恋しくてたまらなくなったので>>

巨勢道は,今の橿原市から南に御所市,五條市,橋本市まで続く,当時山中の街道で,楽な道ではなかったようですね。道は整備されておらず,石だらけの道では,その石を踏むときの痛さに耐えながら進む必要があったのでしょうか。
この道を選んで行くということは,当時はあえて苦難を覚悟で,困難な道を進むことをイメージしていたのかもしれません。作者の恋は,さまざまな苦難との戦いの連続だったけれど,相手を想う気持ちで乗り越えてきたことを伝えたい,そんな情熱的な短歌だと私は感じます。
最後は,少し政治的なにおいのする短歌です。

橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず
<<橘のもとで道を踏み歩く,その多く分かれた道にやってきて,どちらの道にいくか心の中で決めました。あの人に知られないままにして>>

この短歌は,天平11(730)年8月30日に橘諸兄邸で行われた宴席で出席者の当時,大宰府の次官である大宰大弐(だざいだいに)高橋安麻呂が古歌として紹介したと左注に記されています。さらに左注では「この古歌の作者は豊嶋采女(としまのうねめ)である」と書かれ,続いて「別の本には,この古歌の作者は三方沙弥(みかたのさみ)で,妻の苑臣(そののおみ)を恋いて詠んだ」と書かれています。また,「別の本が正しいなら,宴席でこの短歌を詠いあげたのが豊嶋采女であったのではないか」という趣旨が書かれています。
安麻呂が主人である橘諸兄にこの古歌を披露したは,「橘の木が立つ分かれ道で橘諸兄様の向かわれる方向の道に私も進む決意をしています」という忠誠心を示したものと解釈できることだと私は思います。
<どの道を選ぶか>
さて,人生において,多くの分かれ道に出会うことがあります。そして,どの道を行くかを決断をせざるを得ない時があります。行ってみなければ分からないことを行く前に決断しなければならない訳ですから,迷いもするし,後悔しないように決めたいというプレッシャーも強い状況であることは間違いありません。可能な限り情報を集め,相談できる人にはできるだけ多く相談し,そして最終的に自分の判断を信じて決めるしかないのかもしれません。
<選んだ道はまずは進むこと>
最大限の努力をして決めたのなら,たとえ最適な道でないことやまわり道だたことを後で気がついても後悔することなく,その気が付いたことを新たの情報として,以降の最適な道筋を決めていけばよいと私は思います。
一番やってはいけないことは,最適な道を選べたことで安心をしたり,努力を怠ったりすることだと思います。他人よりハンディを背負っている方が「負けるものか」という強い気持ちになり,他人よりアドバンテージを持っていると「まあ少しぐらいいいや」という弱い心境になってしまうのが人間の性(さが)ではないでしょうか。
繰り返すようですが,たとえ道の選択を間違ってハンディを背負っても,そのハンディ自体を強い気持ちを維持する糧とし,努力を惜しず未来に向かって進めば,後悔の念に打ち勝てる可能性が高くなると私は信じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2)に続く。

2014年7月14日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ) そんな重いモノまで引くの?

今回で「引く」の最終回となります。「引く」対象として,今まで取り上げてこなかった万葉集の和歌を紹介します。
まず,大伴家持坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)に贈った重い岩を引くことを例とした相聞歌です。

我が恋は千引の岩を七ばかり首に懸けむも神のまにまに(4-743)
あがこひはちびきのいはを ななばかりくびにかけむも かみのまにまに
<<私の恋は千人で引くくらい重い岩を七つも首に下げたほど苦しいものだけど,このような試練も神の意志でしょうか>>

この短歌は家持が大嬢を正妻とする相手と認識して贈った多くの相聞歌の1首と私は考えます。
ただ,なかなか靡いてくれない大嬢に対して,苦しい胸を内を大袈裟な譬えを使って表現しています。靡かないのは大嬢がマリッジブルーになっていたのか,当時の風習として正妻にする前には男性側が「好きです」「愛してます」「お願い妻になってください」という和歌をたくさん贈らないといけないという男性側にとって重い風習があったためでしょうか。
さて,次は「引板」を譬えに詠んだ短歌です。

衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し(8-1634)
ころもでにみしぶつくまで うゑしたをひきたわがはへ まもれるくるし
<<衣の袖に泥で色が変わるまで丹精込めて植えた田を,引板(鳴子)を私に張り巡らせて守もろうとするのはつらいですね>>

この短歌,ある人がに贈ったと題詞にあります。いろいろ解釈ができるのでしょうが,ここに出てくる「田」というのは尼の娘さんだという説が一般的なようです。
一生懸命育てた娘に私(作者の男性)が近づかないように守っておられるのは気になりすという歌を,母親の尼に贈ったのでしょう。結局「娘さんを僕にくれませんか?」という意味に解釈することもできるかもしれません。
さて,引板鳴子の意味だとすると,男が近づくと警報が鳴るような仕組みとは,いったいどんなものだったのか。私がすぐ思いつくのは,母(尼)が娘に対する手紙を全部先に見てチェックし,娘には見せず代って「お断りの手紙」を書くことかもしれませんね。美貌の噂が高い娘であれば,男から手紙も多くくるでしょうし,音が出る板をたくさんつけた重い鳴子を引っ張って張り巡らせるのと同じように,それは母にとって大変だったのでしょう。
最後は「都引く」を見ます。「引く」対象は「都」ですから,これ以上重いものは考えにくいですね。難波宮を造営した藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が自慢げに詠んだ短歌です。

昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり(3-312)
むかしこそなにはゐなかといはれけめ いまはみやこひきみやこびにけり
<<昔は「難波田舎」と言われたようだが,今は都を引いてきた(遷してきた)ように都らしくなったものだ>>

神亀三年(726)十月に聖武(しやうむ)天皇の命(知造難波宮事)により宇合は難波宮を造営を開始し,その完成を見て聖武天皇は天平15(744)年に平城京から遷都したのです。しかし,18年もかけて造営した難波宮も翌年の1月には都ではなくなってしまったようです。
聖武天皇はこのような遷都先の造営といった大規模な公共投資(その他に奈良の大仏建立や全国各地に国分寺・国分尼寺の建立もその一つ)を強力に引っ張る(推進する)ことによって,当時財政は膨大な赤字になったけれど,後に仏教芸術や建物を中心とする「天平文化」と呼ばれるものを残すことができたのだろうと私は思います。
今の奈良市は,そのおかげもあってか,世界文化遺産にも登録され,多くの観光収入を得ることができているわけです。
私も何度か奈良公園に行って,聖武天皇がした支出額に対する(1300年近く経っていますので)利息の何兆分の一かもしれませんが「鹿せんべい」を公園の売店で買って,シカに食べさせてあげたことがあります。

天の川 「たびとはんな。奈良に行ったら聖武さんみたいに,もっと豪勢に,パァッとお金を使わんとアカンがな。」

例が悪かったせいか,天の川君に突っ込まれてしまいました。
さて,奈良に行って感じることは,中途半端な公共投資は無駄の温床になりやすいのですが,同じやるなら歴史に長く残るようなチャレンジゃブルな公共投資はありだと思いますね。
<国家的大規模プロジェクト推進の原動力>
現代における公共投資は,土木工事や建築物だけではありません。素晴らしいディジタルコンテンツ(コンピュータ上のアートや有益な情報)やシステムを残すことも候補としてあるのだろうと私は思います。
ところで,大きな仕事をこなすチーム(プロジェクト)を引っ張るリーダは大変だというのが私の仕事上の経験(小規模プロジェクトばかりの経験ですが)からの感想です。一生懸命目標に向かって工程ごとの成果を出すようチームのメンバーに指示を出すのだけれども,思うようにチーム内のメンバーが動いてくれないことも少なくないのです。
奈良時代に(完了しなかったものも多かったと思いますが)国家的な難しい大プロジェクトをいくつも実施できた力は何処から出てきたのでしょうか?
万葉集には,前代未聞の大プロジェクトによって影響を間接的にせよ受けた側(プロジェクト実行側ではなく)の和歌のほうが多く含まれているのかもしれません。また,そのような影響を受けて嘆き悲しんだり,自分を慰めたりしている和歌のほうが現代でも多くの人たちにとって,文学的共感をえられる可能性が高いようにも感じます。
しかし,当時大きな変化を伴う国家的プロジェクトを実施した(引き起こした)ポテンシャル(潜在的な力)は,やはり東の果ての小さな島国をさまざまな面で大陸に負けない強い国家にしたいという強い意思が当時の為政者やそのブレーンにあったのだろうと思います。
その強い国家のイメージが軍事的なものではなく,産業,技術,芸術などの非軍事分野の高度化に向けられたのは,当時の仏教思想による影響が非常に大きかったのではないでしょうか。
これで4回に渡った「引く」はこれで終わりとし,次からは「踏む」について万葉集を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1)に続く。

2014年7月6日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3) 海で引くといえば何?

「引く」の3回目は,何らかのモノを引くことを詠んだ万葉集の和歌をみていきましょう。
最初は「舟(船)を引く」からです。次は山上憶良福岡にある志賀の島に住む若き漁師荒雄の遭難死の悲しさを,その妻の立場で詠んだかもしれないとされる1首です。

大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも(16-3869)
おほぶねにをぶねひきそへ かづくともしかのあらをに かづきあはめやも
<<大船に小舟を引き添えて海に潜って捜そうとも志賀の荒雄に海中で逢うことができるだろうか>>

この短歌は10首詠まれた中の最後の1首です。10首が詠まれた背景として,荒雄が出港したいきさつなどが左注として詳しく書かれています。遭難し,行方不明になった荒雄を探すため,大きな船で遭難した可能性のある海域まで行き,一緒に引いて行った小舟に素潜りができる海人が乗り移り,小舟を浮きとして潜っては浮かびを繰り返して捜索をしようとした様子が伺えます。いくら多くの舟を出しても広い海の中から沈んでいる荒雄を見つけることは困難ですが,大船に小舟を引かせることが当時行われていたことを伺わせます。
次は「網を引く」を見ましょう。

大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声(3-238)
おほみやのうちまできこゆ あびきすとあごととのふる あまのよびこゑ
<<宮殿の中まで聞こえてきます。「網を引くぞ!」と網子を指揮する漁師の呼び声が>>

この短歌は,長意吉麻呂(ながのおきまろ)が難波の宮に行幸していた天皇から和歌を詠むよう指示されて詠んだとされる1首です。難波の宮は海の近くにあり,地引網漁をしている声が宮中まで聞こえてきたのでしょう。恐らく地引網漁は行幸に来た天皇のために行ったイベントであり,網子を指揮する漁師の声が宮中まで届いたので,意吉麻呂は地引網漁が始まったことを知らせ,御簾越にご覧になることを天皇に勧めたのかもしれません。地引網漁は,奈良や飛鳥の盆地ではけっして体験できないイベントですから,さぞや盛り上がったのではないかと私は想像します。
次は「楫を引く」を見ましょう。

我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに(7-1221)
わがふねのかぢはなひきそ やまとよりこひこしこころ いまだあかなくに
<<舟の梶を引かないで欲しい。大和よりもってきた恋しい心は,まだ萎えてしまっていないのに>>

この短歌は,左注に藤原卿作とあり,藤原房前(ふささき)か藤原麻呂(まろ)のどちらかが詠んだとの説があるそうです。旅先で,舟が先に進んで大和の京から離れていくにしたがって,都に残した恋人への思いが薄くなるどころか,さらに募り,舟を止めてほしいという思いを詠んだのでしょうか。楫は舟の方向を決めるもの(舵)とは異なり,櫓(ろ)や櫂(かい)をさします。したがって「楫を引く」ということは舟を漕ぐことと同じ意味になります。
さて,次回はその他の引くものを取り上げ「引く」のまとめとします。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ)に続く。