年末年始スペシャル「私が接した歌枕」シリーズ第3弾をお送りします。
毎年1月2日,3日には箱根大学駅伝(正式名称:東京箱根間往復大学駅伝競走)が開催されます。箱根駅伝の圧巻は,なんといっても1日目(往路)5区箱根の山登りと2日目(復路)6区山下りではないでしょうか。参加各大学の走者の実力差が大きく出て,順位変動が激しく入れ替わることが箱根駅伝を見る人にはたまらないのかも知れませんね。
<箱根越えのつらい記憶>
さて,私が最初に箱根の山を越えたのは,東京都小平市にある私立高校(創立初の入学試験で合格すれば1期生)の受験のため,高校3年の2月中旬,京都から小平まで父の運転(車はマツダファミリアバン)で行った時です。
「高速道路代えろうもったいないさかいな」という父は夜中の国道1号線を東京に向けてひた走りました。
三島から箱根に入る頃には夜が明けて,前方からの朝日がまぶしかったのを覚えています。父の運転する車は箱根峠を越えて,芦ノ湖畔から箱根駅伝のコース(当時は箱根駅伝のことは何も知りませんでした)と同じ山下りをしました。そのまま国道1号線で藤沢まで行き,藤沢から藤沢街道(国道467号),厚木街道(国道246号),府中街道経由で,昼過ぎに小平近辺に到着しました。
<激しい雪に見舞われる>
その日は近辺で宿泊し,翌日の入試当日は父の車で受験校まで送ってもらい,入学試験の筆記試験,面接試験を受験しました。しかし,その日は試験時間が終盤に差し掛かったころから激しい雪が降り始めたのです。すべての試験が終わって校舎の3階廊下から見た周辺の武蔵野の畑はあっという間に真っ白になっていました。
父は学校の近くまで車を持ってきて待ってくれたので,学校を出て間もなく車に乗れ,京都へ向かう帰路につこうとしたのです。しかし,雪はますます激しく降ってきています。
学校から数キロ行ったところのガソリンスタンドで給油とタイヤチェーンを購入し,早速タイヤに巻きました。そこから,府中街道を南下して,とにかく国道1号線に入ろう。そうすれば大きなトラックも走っているので雪は気にならないと思ったのですが,積雪のため車は走っては止まり,走っては止まりの連続で,なかなか進みません。
<完全にストップ>
まだ国道1号線まで10キロ以上ある地点でついに前の車はほとんど動かなくなりました。時間はすでに夜中を過ぎていましたが雪は一向に止みません。運転をする父には寝てもらい,私は前の車が少し動いたら父に起こして,前の車に追いつくようにしました。結局,朝まで数回,それぞれ数十メートル前方に進んだだけでした。
夜が明けてさすがの雪もすっかり止み,一面の銀世界を照らすように朝日が射してきました。何台か前の大型トラックが脇道に入ったので,その後に付くことができ,しばらくして国道1号線入れました。そこからは昨夜のことが嘘のように順調に進むことができました。朝のラジオのニュースでは,今回の雪は東京都心で40センチの積雪という記録的なものだとアナウンサーが言っていました。
<箱根の山越えの道は通行止め>
ただ,これでこの話は終わりません。小田原から箱根の山登りを始めて箱根湯本温泉の手前あたりで箱根は積雪で通行止めのため,これ以上進めないことがわかりました。そこで待つこと5時間以上,夕方近くになってようやく除雪が終了。チェーン装着車のみ通行可能となり,ノロノロ運転ですが山登りを開始できました。
箱根の山道,除雪後の道脇には人の背丈をはるかに超える雪が積み上げられていました。箱根越えが本当に厳しいものだということを別の形で知らされたのです。
三島に着いたのが夜の7時を過ぎていました。その後は,ひたすら国道1号線を西進し,未明にようやく京都山科の自宅にたどり着きました。運転好きの父もさすがに堪えたようで「合格したらな,その時は母さんと電車で行って~な」と言って,仮眠した後昼前には仕事に行きました。
私は残念ながら合格は叶わず,次に箱根の山を越えたのは同系列の大学の2期生として入学できたときでした。
<万葉時代の東国行き>
ところで,万葉時代の東海道は箱根の急峻を避け,関西からは御殿場⇒足柄(あしがら)峠を越えて相模(さがみ)の国に入ったのだろうと思われます。したがって,箱根に関するあくまで伝聞と思われるテーマを詠んだ東歌が万葉集に出てきます。
あしがりの箱根の嶺ろのにこ草の花つ妻なれや紐解かず寝む(14-3370)
<あしがりのはこねのねろのにこぐさの はなつつまなれやひもとかずねむ>
<<箱根の山に咲くにこ草の花と同じような(可憐な)妻だったら紐を解かずに寝るのだけれど,そうじゃないからなあ>>
この短歌を作者の妻が聞いたらとんでもないことになりますよね。紐を解いて寝るとは女性と寝ることを意味しますから,浮気を身勝手に正当化したいという気持ちを詠んだ短歌です。
私が万葉集勅撰説に靡かない理由は,こんな短歌が(例え東歌と言えども)勅撰和歌集に選ばれるはずがないと思うからです。
次は,同じ東歌ですが,もう少し際どさが少ない短歌です。
足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるをあは無くもあやし(14-3364)
<あしがらのはこねのやまに あはまきてみとはなれるを あはなくもあやし>
<<足柄の箱根の山に粟を蒔いて実らせたように私の恋も実ったはずなのに,どうして逢えないのかなあ>>
この短歌の「あは無く」は「粟無く」と「逢は無く」を掛けています。万葉時代,箱根の山は開拓が少しずつ進んでいたのでしょう。箱根は温泉があちこちから湧き出て,森林が豊富で,芦ノ湖では魚が豊富に獲れたいたのだと私は想像します。但し,農業は険しい勾配地が多く,粟といった米よりも気候の変化に強い作物がようやく実を結ぶようになったようですね。
箱根の山中で粟を育てる苦労以上に苦労している私の恋は実を結んでもよいのに,なかなか逢うこともかなわない。
この短歌はそんな気持ちのいら立ちを箱根の開墾の苦労題材に(序詞,掛詞を使い)上手に表現していると私は思います。
私の接した歌枕(12:須磨)に続く。
2011年12月29日木曜日
対語シリーズ「静と騒」‥活気のある喧騒,心を癒す静寂。私は好きです。
未曾有の出来事があった今年1年もあと数日で終わろうしています。多少騒がしくても,明るく活気あふれる辰年になればと願っています。
今回は「静」と「騒」の対語を万葉集で見て行きます。万葉集では「静」という漢字を当てる言葉は「静けし」という形容詞の使い方がほとんどです。そして,「静けし」が詠まれている万葉集の和歌は7首で,それほど多くはありません。
いっぽう「騒」の漢字を当てる言葉は「騒く」(動詞),「騒き」(名詞),「潮騒(しほさゐ)」(名詞・連語)などの多様な使い方が万葉集に出てきます。それに合わせ,「騒」の漢字を当てた万葉集の和歌は50首近くになります。
まず,「静」と「騒」の両方が出てくる短歌を紹介します。
沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける(6-939)
<おきつなみへなみしづけみ いざりすとふぢえのうらにふねぞさわける>
<<沖の波も岸辺の波も静かなので,漁に出るため藤江の浦は漁をする舟が騒いでいた>>
この短歌は,山部赤人が旅先から京(みやこ)に戻る途中,播磨(はりま:今の兵庫県)の海岸沿いの街道を進んでいる時を思い出して詠んだ長歌と短歌3首の内の最初に出てくる短歌です。
「今日は凪(なぎ)なので漁にはもってこいだぞ,さあ急いで漁に出よう」と漁師が大きな声をあげて湊(みなと)を出ようとしている様子が鮮やかに見て取れるようです。波は静かだけれど,人間(漁師)の方が騒がしい(活気がある)湊の姿。さすが赤人の表現力は素晴らしいと私は思います。
次は「静」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば(7-1237)
<しづけくも きしにはなみはよせけるか これのやとほしききつつをれば>
<<静かに岸辺に波は寄せるものだ。この家の中から聞いていると>>
この作者は旅先で漁師の家に泊まったのかも知れませんね。漁師の家は大体入江の奥に作られます。その住まいは入江の奥の湊の近くですから波は静かなのでしょう。海の波は荒々しいと思っていた作者は,意外と心地よい静かな波音が聞ける海辺の家を好きになったようです。
<伊根の舟屋>
私が大学生の時,ゼミの先輩の実家が京都府伊根町の典型的な舟屋ということで,夏休みに丹後半島を一人旅したとき寄らせて頂いたのです。写真は今Wikipediaの「舟屋」に掲載されている伊根の舟屋の全景です。
お昼を頂戴し,午後はその実家に戻っている先輩と舟屋の2階の海に面した(というより突き出た)畳の間で過ごしました。朴訥(ぼくとつ)とした先輩から舟屋の暮らしをゆっくりお聞きしながら,階下の波音を何時間も聞いていたのを思い出します。
伊根湾の海面は,その日夏の午後の太陽が鏡のようにキラキラと私の顔に反射し,舟屋の2階の下(舟を入れる場所)に寄せる波は「チャポン,チャポン」といった程度の音の繰り返しで,本当に海の上なのかと思わせる静かさでした。残念ながら,いっせいに各舟屋から出漁する光景は見られませんでしたが,そのときは最初に示した赤人の短歌のような騒がしさがきっとあるのでしょうね。
<今静かだからといって万葉時代も静かとは限らない>
続いて滋賀県高島市から琵琶湖に注ぐ安曇(あど)川の川波が「騒く」を詠んだ詠み人知らず(旅人)の短歌を紹介します。
高島の阿渡川波は騒けども我れは家思ふ宿り悲しみ(9-1690)
<たかしまのあどかはなみはさわけども われはいへおもふやどりかなしみ>
<<高島の安曇川の川波は騒がしいが,私の心は家を想うのみで旅先での寂しい泊まりが悲しい>>
当時,恐らく安曇川は今の高島市朽木(くつき)地区(旧朽木村)周辺で伐採された木材や若狭湾でとれた海の幸を若狭街道から琵琶湖へ運ぶ,舟の交通の要所だったと私は思います。この短歌を詠んだ旅人は今でいう仕事での出張ようなものだったのだのでしょう。写真は今年2月に私が撮った安曇川河口です。
当時はもっと活気があり,旅人を泊める宿も多くあったと考えます。そのため,川波が騒がしいのは春の雪解け水で水流が多い時期だったのかも知れませんが,行き交う舟が立てる波が騒がしかった可能性も否定できません。
今の風景を見て,当時も寂しい場所だっと決めつけるのは良くないことだというのが私の基本的な考えです。
藤原京から奈良時代に掛けて,全国交通網と駅(うまや)が整備され,海や川を舟が物資を運べるよう湊がたくさん作られたのです。高島の安曇川河口や北国街道西近江路が渡る場所は,この短歌が詠まれた当時はかなり活気のある湊町だったと私は想像します。
ただ,後の時代になり,若狭街道の近江今津市保坂から琵琶湖畔の今津へ抜ける街道が整備され,今津港から大型船が発着できるようになると,やがて安曇川を上り下りする舟も減り,活気も薄れて行ったのでしょう。
万葉集は当時のさまざまな状況を後世の私たちにロマン豊かに教えてくれる素晴らしいエビデンス(物証)だと,私はつねづね思うのです。
次回からは年末年始スペシャル「私の接した歌枕」のシリーズ3回目(箱根)をお送りします。
今回は「静」と「騒」の対語を万葉集で見て行きます。万葉集では「静」という漢字を当てる言葉は「静けし」という形容詞の使い方がほとんどです。そして,「静けし」が詠まれている万葉集の和歌は7首で,それほど多くはありません。
いっぽう「騒」の漢字を当てる言葉は「騒く」(動詞),「騒き」(名詞),「潮騒(しほさゐ)」(名詞・連語)などの多様な使い方が万葉集に出てきます。それに合わせ,「騒」の漢字を当てた万葉集の和歌は50首近くになります。
まず,「静」と「騒」の両方が出てくる短歌を紹介します。
沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける(6-939)
<おきつなみへなみしづけみ いざりすとふぢえのうらにふねぞさわける>
<<沖の波も岸辺の波も静かなので,漁に出るため藤江の浦は漁をする舟が騒いでいた>>
この短歌は,山部赤人が旅先から京(みやこ)に戻る途中,播磨(はりま:今の兵庫県)の海岸沿いの街道を進んでいる時を思い出して詠んだ長歌と短歌3首の内の最初に出てくる短歌です。
「今日は凪(なぎ)なので漁にはもってこいだぞ,さあ急いで漁に出よう」と漁師が大きな声をあげて湊(みなと)を出ようとしている様子が鮮やかに見て取れるようです。波は静かだけれど,人間(漁師)の方が騒がしい(活気がある)湊の姿。さすが赤人の表現力は素晴らしいと私は思います。
次は「静」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば(7-1237)
<しづけくも きしにはなみはよせけるか これのやとほしききつつをれば>
<<静かに岸辺に波は寄せるものだ。この家の中から聞いていると>>
この作者は旅先で漁師の家に泊まったのかも知れませんね。漁師の家は大体入江の奥に作られます。その住まいは入江の奥の湊の近くですから波は静かなのでしょう。海の波は荒々しいと思っていた作者は,意外と心地よい静かな波音が聞ける海辺の家を好きになったようです。
<伊根の舟屋>
私が大学生の時,ゼミの先輩の実家が京都府伊根町の典型的な舟屋ということで,夏休みに丹後半島を一人旅したとき寄らせて頂いたのです。写真は今Wikipediaの「舟屋」に掲載されている伊根の舟屋の全景です。
お昼を頂戴し,午後はその実家に戻っている先輩と舟屋の2階の海に面した(というより突き出た)畳の間で過ごしました。朴訥(ぼくとつ)とした先輩から舟屋の暮らしをゆっくりお聞きしながら,階下の波音を何時間も聞いていたのを思い出します。
伊根湾の海面は,その日夏の午後の太陽が鏡のようにキラキラと私の顔に反射し,舟屋の2階の下(舟を入れる場所)に寄せる波は「チャポン,チャポン」といった程度の音の繰り返しで,本当に海の上なのかと思わせる静かさでした。残念ながら,いっせいに各舟屋から出漁する光景は見られませんでしたが,そのときは最初に示した赤人の短歌のような騒がしさがきっとあるのでしょうね。
<今静かだからといって万葉時代も静かとは限らない>
続いて滋賀県高島市から琵琶湖に注ぐ安曇(あど)川の川波が「騒く」を詠んだ詠み人知らず(旅人)の短歌を紹介します。
高島の阿渡川波は騒けども我れは家思ふ宿り悲しみ(9-1690)
<たかしまのあどかはなみはさわけども われはいへおもふやどりかなしみ>
<<高島の安曇川の川波は騒がしいが,私の心は家を想うのみで旅先での寂しい泊まりが悲しい>>
当時,恐らく安曇川は今の高島市朽木(くつき)地区(旧朽木村)周辺で伐採された木材や若狭湾でとれた海の幸を若狭街道から琵琶湖へ運ぶ,舟の交通の要所だったと私は思います。この短歌を詠んだ旅人は今でいう仕事での出張ようなものだったのだのでしょう。写真は今年2月に私が撮った安曇川河口です。
当時はもっと活気があり,旅人を泊める宿も多くあったと考えます。そのため,川波が騒がしいのは春の雪解け水で水流が多い時期だったのかも知れませんが,行き交う舟が立てる波が騒がしかった可能性も否定できません。
今の風景を見て,当時も寂しい場所だっと決めつけるのは良くないことだというのが私の基本的な考えです。
藤原京から奈良時代に掛けて,全国交通網と駅(うまや)が整備され,海や川を舟が物資を運べるよう湊がたくさん作られたのです。高島の安曇川河口や北国街道西近江路が渡る場所は,この短歌が詠まれた当時はかなり活気のある湊町だったと私は想像します。
ただ,後の時代になり,若狭街道の近江今津市保坂から琵琶湖畔の今津へ抜ける街道が整備され,今津港から大型船が発着できるようになると,やがて安曇川を上り下りする舟も減り,活気も薄れて行ったのでしょう。
万葉集は当時のさまざまな状況を後世の私たちにロマン豊かに教えてくれる素晴らしいエビデンス(物証)だと,私はつねづね思うのです。
次回からは年末年始スペシャル「私の接した歌枕」のシリーズ3回目(箱根)をお送りします。
2011年12月23日金曜日
対語シリーズ「着ると脱ぐ」‥♪「あ~,夢~一夜~。一夜限り..」
今回は,万葉集で衣(ころも,きぬ)を「着る」と「脱ぐ」がどのように詠われているかを見ていきます。
まず,万葉集で「着る」「脱ぐ」の対象の衣(ころも,きぬ)に関連する言葉をあげると次のような言葉が出てきます。
赤衣(赤色の衣),秋さり衣(秋になって着る着物),麻衣(麻衣で作った衣,喪中に着る麻布の着物),洗い衣(取替川に掛かる枕詞),あり衣の(三重などにかかる枕詞),薄染め衣(薄い色に染めた衣服),肩衣(袖の無い庶民服),形見<かたみ>の衣(その人を思い出させる衣),皮衣(毛皮で作った防寒用の衣),唐衣・韓衣<からころも>(中国風の衣),雲の衣(織姫が空で纏う衣),恋衣(恋を常に身を離れない衣に見立てた語。恋という着物),衣手(袖),下衣(下着),塩焼き衣(潮を焼く人が着る粗末な衣服),袖付け衣(袖のある衣服),旅衣(旅できる衣服),旅行き衣(旅衣と同意),玉衣(美しい衣),露分け衣(露の多い草葉などを分けて行くときに着る衣),解き洗い衣(解いて洗い張りする着物),解き衣の(乱るにかかる枕詞),慣れ衣(普段着),布肩衣(布で作った肩衣),布衣(布製の衣服),濡れ衣(濡れた着物),藤衣(藤つるの繊維で作ったも粗末な衣),古衣(着古した着物),木綿<ゆふ>肩衣(木綿で作った肩衣)
このようにたくさん衣に関する言葉が万葉集に出てくるのは,当時「衣」の生産が急速に発展し,生産技術向上で値段も下がり,さまざまな種類のモノが手に入るようになったためだろうと私は考えます。
では「着る」を読んだ詠み人知らずの短歌から紹介します。
衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる(11-2829)
<ころもしもおほくあらなむ とりかへてきればやきみが おもわすれたる>
<<着る衣がたくさんあれぱなあ。衣をあれこれと取り替えて着ることができたら君の顔をきっと忘れることができるだろう(衣は君用の一つしかないから忘れられない)>>
この短歌は妻問をしても,なかなか逢ってくれない相手に対して贈った短歌ではないかと私は推理します。
当時は,妻問いするときに着て行く衣はお互いに決め,相互に相手の衣(下着)を贈り合って,それを下に着きるという風習があったのでしょうか。
財力や権力を多く持つ男には妻問いする相手が複数いたはずです。でも,この短歌の作者は「君用の衣しかない(君しかいない)」と「相手は君だけだ」と主張しています。
次は「脱ぐ」を詠んだ,これも詠み人知らずの短歌です。
夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに(12-2846)
<よるもねずやすくもあらず しろたへのころもはぬかじ ただにあふまでに>
<<夜も寝られず,気が休まることもない。貴女が着ていた白妙の衣は脱がずにいよう。今度本当に逢うまでは>>
この他に「脱ぐ」が出てくる短歌がもう1首ありますが,そちらも「脱がない」という否定形で,結局は「着ている」という意味になってしまいます。
相手を意識させる衣は逢わないときはいつも「着ている」ようにし,逢った時だけ「脱いで」,お互いの衣や袖を交換するという逢瀬のイメージが万葉集から感じ取れそうです。
万葉時代相手に逢うときは,フォーク歌手南こうせつが歌った「夢一夜」に出てくる「♪着て行く服がまだ決ま~らない ..」というようなことはなく,いつも同じ衣を着ていたことになりそうですね。
逆に違う衣を着て行くと別に浮気相手がいて,そちら寄ってからハシゴでこちらに寄ったと受け取られかねない時代だったと想像できそうですね。
対語シリーズ「静と騒」に続く。
まず,万葉集で「着る」「脱ぐ」の対象の衣(ころも,きぬ)に関連する言葉をあげると次のような言葉が出てきます。
赤衣(赤色の衣),秋さり衣(秋になって着る着物),麻衣(麻衣で作った衣,喪中に着る麻布の着物),洗い衣(取替川に掛かる枕詞),あり衣の(三重などにかかる枕詞),薄染め衣(薄い色に染めた衣服),肩衣(袖の無い庶民服),形見<かたみ>の衣(その人を思い出させる衣),皮衣(毛皮で作った防寒用の衣),唐衣・韓衣<からころも>(中国風の衣),雲の衣(織姫が空で纏う衣),恋衣(恋を常に身を離れない衣に見立てた語。恋という着物),衣手(袖),下衣(下着),塩焼き衣(潮を焼く人が着る粗末な衣服),袖付け衣(袖のある衣服),旅衣(旅できる衣服),旅行き衣(旅衣と同意),玉衣(美しい衣),露分け衣(露の多い草葉などを分けて行くときに着る衣),解き洗い衣(解いて洗い張りする着物),解き衣の(乱るにかかる枕詞),慣れ衣(普段着),布肩衣(布で作った肩衣),布衣(布製の衣服),濡れ衣(濡れた着物),藤衣(藤つるの繊維で作ったも粗末な衣),古衣(着古した着物),木綿<ゆふ>肩衣(木綿で作った肩衣)
このようにたくさん衣に関する言葉が万葉集に出てくるのは,当時「衣」の生産が急速に発展し,生産技術向上で値段も下がり,さまざまな種類のモノが手に入るようになったためだろうと私は考えます。
では「着る」を読んだ詠み人知らずの短歌から紹介します。
衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる(11-2829)
<ころもしもおほくあらなむ とりかへてきればやきみが おもわすれたる>
<<着る衣がたくさんあれぱなあ。衣をあれこれと取り替えて着ることができたら君の顔をきっと忘れることができるだろう(衣は君用の一つしかないから忘れられない)>>
この短歌は妻問をしても,なかなか逢ってくれない相手に対して贈った短歌ではないかと私は推理します。
当時は,妻問いするときに着て行く衣はお互いに決め,相互に相手の衣(下着)を贈り合って,それを下に着きるという風習があったのでしょうか。
財力や権力を多く持つ男には妻問いする相手が複数いたはずです。でも,この短歌の作者は「君用の衣しかない(君しかいない)」と「相手は君だけだ」と主張しています。
次は「脱ぐ」を詠んだ,これも詠み人知らずの短歌です。
夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに(12-2846)
<よるもねずやすくもあらず しろたへのころもはぬかじ ただにあふまでに>
<<夜も寝られず,気が休まることもない。貴女が着ていた白妙の衣は脱がずにいよう。今度本当に逢うまでは>>
この他に「脱ぐ」が出てくる短歌がもう1首ありますが,そちらも「脱がない」という否定形で,結局は「着ている」という意味になってしまいます。
相手を意識させる衣は逢わないときはいつも「着ている」ようにし,逢った時だけ「脱いで」,お互いの衣や袖を交換するという逢瀬のイメージが万葉集から感じ取れそうです。
万葉時代相手に逢うときは,フォーク歌手南こうせつが歌った「夢一夜」に出てくる「♪着て行く服がまだ決ま~らない ..」というようなことはなく,いつも同じ衣を着ていたことになりそうですね。
逆に違う衣を着て行くと別に浮気相手がいて,そちら寄ってからハシゴでこちらに寄ったと受け取られかねない時代だったと想像できそうですね。
対語シリーズ「静と騒」に続く。
2011年12月18日日曜日
対語シリーズ「上と下」‥敬語は難解?
慶応大学の創立者で1万円札の肖像にもなっている福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」と書いたのは,それだけ日本人には人と人の上下関係の意識が強いが,新しい文明開化の世の中ではその意識を打ち破り,平等意識を持つ必要があると考えたからなのでしょう。
<日本語の敬語類は難しい>
日本語には敬語(尊敬語,謙譲語,丁寧語)という同じ意味ではあるが伝える相手によって表現を変える用法があります。
敬語がなぜできたか?それは相手と自分との上下関係を常に意識することが是とする国民性から来たものだと考えます。諭吉がいくら近代日本を大きく変えた人だといっても,敬語のほうは今もしっかり使われています。
ところが,上下関係を意識することが少ないリベラルな思想や個人主義が定着している国で育った人達が日本語を学ぶ場合,敬語を覚えるのに苦労するとよく聞きます。
覚える価値を感じにくい訳ですから,覚える気持ち(モチベーション)が削がれるのは致し方ないことですね。
今の日本人でも敬語が正しく使えない人は結構いるようで,それだけ敬語は難しく,上下関係の意識の変化も影響しているのかも知れませんね。
<敬語は地方によっても使い方が異なる?>
実は,敬語は地方(方言)によっても使い方が微妙に違います。
たとえば,関東地方の私鉄の車掌が乗客に「降りましたら,白線の内側をお歩きください」とアナウンスします。
関西出身の私には,やはり違和感を感じます。「お降りになりましたら,白線の~」でしょう?と感じるのです。
もっとひどい事例は,駅構内アナウンスで「遅延証明書が必要な方が居(お)りましたら駅事務室までお越しください」です。お客様に「居りましたら」はないでしょう?「いらっしゃいましたら」に決まっているでしょう?と思う訳です。
ただ,関西の方言での敬語の使い方にもちょっと違和感を感じる部分もあります。
<京都の人は殺人容疑者にも敬語を使う?>
京都で育った私は,京都に暮らしていた頃に放送されたテレビの地元ニュースで,ある地区の住人が殺人犯の容疑者として逮捕されたというニュースがありました。
そのニュースでは,テレビ記者のインタビューに応じた容疑者の近くに住む主婦が「あの人が人を殺しはるやてほんまにケッタイ(不思議)やわ」と答えていました。
当時の私は,殺人容疑者に対して「殺しはる」という尊敬語を使うのは同じ京都人としても変だな?と感じたのです。
京都がさまざまな為政者によって頻繁に政権がとって変わることを経験してきた庶民が,今まで悪者とされてきた人達が突然政権を執って偉い人になる可能性が否定できない以上,一応他人には「何々しやはる」という便利で中半端な敬語を使うようになったようだと納得したのは,もっと後になってからでした。
<大阪弁はせっかち?>
ところで,天の川君に「早くして欲しい」を大阪弁で上下関係をいろいろ意識した場合の表現でやってもらいましょう。
天の川 「よっしゃ。それくらい任せといてんか。
早よせんかい(上⇒下)。
頼むわ,早よ~して~な(同等)。
早よ~にお願いますわ(下⇒上中)。
早よお願いできまへんやろか(下⇒上上)。」
「上方(かみがた)」と長い間自分立ちの方が江戸より上だと自称してきた関西の言葉も人の上下関係にはかなり敏感なようですね。
<万葉集の上と下>
さて,話を本来の万葉集に移しましょう。
出てくるのは「上(かみ)つ瀬」と「下(しも)つ瀬」,「上辺(かみへ)」と「下辺(しもべ)」,「下着(したき)」と「上着(うはき」,「雲の上」と「葉の下」,「上り(のぼり)」と「下り(くだり)」,「上紐(うはひも)」と「下紐(したひも)」,「山下」と「山上」という地理的,物理的な「上」と「下」を詠んだものがほとんどに見えます。
いくつか紹介しましょう。
あしひきの山下日陰鬘着る上にや更に梅を偲はむ(19-4278)
<あしひきの やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ>
<<山下に生える日影のかづらを髪の飾りに着けている今,なぜ山の上に咲く梅を殊更賞賛しようとしているのですか>>
この短歌は,昨年3月28日に当ブログにアップした記事でも紹介していますが,天平勝寶4年の新嘗祭の酒宴で藤原永手(ふじはらのながて)が空気を読まない歌を詠ったのに対して大伴家持が皮肉を混めて詠ったものです。
かづらの木は地味で,山の下の日陰で育ちます。梅は派手で,山の上のような日当たりのよいところで育ちます。
「あなたは出世が約束されている。でも今日は現場で苦労してつつお勤めをしている我々の日なのです」と家持は諭しているように私は感じます。
雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも(8-1575)
<くものうへに なきつるかりのさむきなへ はぎのしたばはもみちぬるかも>
<<雲の上で鳴いている雁が寒そうであるとともに萩の下の方の葉は色づいてきたのかな>>
この短歌は,天平10(738)年8月20日,その年の初めに官職ナンバー2の右大臣になったばかりの橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で行われた宴(うたげ)の歌7首の中で,諸兄自身が詠んだ1首です。
そのままの解釈は秋が深まってきたという意味ですが,宴に参加した人達に対し「これからもっと大変になるけれど,俺の時代が来たのかもな」と伝えたかったのではと私は思います。
万葉集では,身分の上下関係を「上」「下」という言葉を使って直接詠んでいる和歌はないようですが,深読みするとこの短歌のように身分の上下を意識させているようにも解釈できそうだからです。
諸兄は天平15(743)年には官職ナンバー1の左大臣になり,さらに6年後の天平感宝元(749)年には、官位が正一位となり,これより上はない地位まで上り詰めるのです。
最後は,少し艶めかしい感じの女性(詠み人知らず)の短歌を紹介します。
人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き(12-2851)
<ひとのみる うへはむすびて ひとのみぬ したひもあけて こふるひぞおほき>
<<人の目につく上着の紐は結んでおき、人から見えない下紐を結ばないようにして,お出でになるのを恋しく思う日が多いこの頃です>>
早く来てほしいと思っている私なのに貴方はなかなか来てくれない。何とか恋しい気持ちを分かってほしいけれど人目につくところでサインを出すのは恥ずかしい。
そんな外(上)には出せない内面(下)の女性心理が見え隠れするような気がします。
対語シリーズ「着ると脱ぐ」に続く。
<日本語の敬語類は難しい>
日本語には敬語(尊敬語,謙譲語,丁寧語)という同じ意味ではあるが伝える相手によって表現を変える用法があります。
敬語がなぜできたか?それは相手と自分との上下関係を常に意識することが是とする国民性から来たものだと考えます。諭吉がいくら近代日本を大きく変えた人だといっても,敬語のほうは今もしっかり使われています。
ところが,上下関係を意識することが少ないリベラルな思想や個人主義が定着している国で育った人達が日本語を学ぶ場合,敬語を覚えるのに苦労するとよく聞きます。
覚える価値を感じにくい訳ですから,覚える気持ち(モチベーション)が削がれるのは致し方ないことですね。
今の日本人でも敬語が正しく使えない人は結構いるようで,それだけ敬語は難しく,上下関係の意識の変化も影響しているのかも知れませんね。
<敬語は地方によっても使い方が異なる?>
実は,敬語は地方(方言)によっても使い方が微妙に違います。
たとえば,関東地方の私鉄の車掌が乗客に「降りましたら,白線の内側をお歩きください」とアナウンスします。
関西出身の私には,やはり違和感を感じます。「お降りになりましたら,白線の~」でしょう?と感じるのです。
もっとひどい事例は,駅構内アナウンスで「遅延証明書が必要な方が居(お)りましたら駅事務室までお越しください」です。お客様に「居りましたら」はないでしょう?「いらっしゃいましたら」に決まっているでしょう?と思う訳です。
ただ,関西の方言での敬語の使い方にもちょっと違和感を感じる部分もあります。
<京都の人は殺人容疑者にも敬語を使う?>
京都で育った私は,京都に暮らしていた頃に放送されたテレビの地元ニュースで,ある地区の住人が殺人犯の容疑者として逮捕されたというニュースがありました。
そのニュースでは,テレビ記者のインタビューに応じた容疑者の近くに住む主婦が「あの人が人を殺しはるやてほんまにケッタイ(不思議)やわ」と答えていました。
当時の私は,殺人容疑者に対して「殺しはる」という尊敬語を使うのは同じ京都人としても変だな?と感じたのです。
京都がさまざまな為政者によって頻繁に政権がとって変わることを経験してきた庶民が,今まで悪者とされてきた人達が突然政権を執って偉い人になる可能性が否定できない以上,一応他人には「何々しやはる」という便利で中半端な敬語を使うようになったようだと納得したのは,もっと後になってからでした。
<大阪弁はせっかち?>
ところで,天の川君に「早くして欲しい」を大阪弁で上下関係をいろいろ意識した場合の表現でやってもらいましょう。
天の川 「よっしゃ。それくらい任せといてんか。
早よせんかい(上⇒下)。
頼むわ,早よ~して~な(同等)。
早よ~にお願いますわ(下⇒上中)。
早よお願いできまへんやろか(下⇒上上)。」
「上方(かみがた)」と長い間自分立ちの方が江戸より上だと自称してきた関西の言葉も人の上下関係にはかなり敏感なようですね。
<万葉集の上と下>
さて,話を本来の万葉集に移しましょう。
出てくるのは「上(かみ)つ瀬」と「下(しも)つ瀬」,「上辺(かみへ)」と「下辺(しもべ)」,「下着(したき)」と「上着(うはき」,「雲の上」と「葉の下」,「上り(のぼり)」と「下り(くだり)」,「上紐(うはひも)」と「下紐(したひも)」,「山下」と「山上」という地理的,物理的な「上」と「下」を詠んだものがほとんどに見えます。
いくつか紹介しましょう。
あしひきの山下日陰鬘着る上にや更に梅を偲はむ(19-4278)
<あしひきの やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ>
<<山下に生える日影のかづらを髪の飾りに着けている今,なぜ山の上に咲く梅を殊更賞賛しようとしているのですか>>
この短歌は,昨年3月28日に当ブログにアップした記事でも紹介していますが,天平勝寶4年の新嘗祭の酒宴で藤原永手(ふじはらのながて)が空気を読まない歌を詠ったのに対して大伴家持が皮肉を混めて詠ったものです。
かづらの木は地味で,山の下の日陰で育ちます。梅は派手で,山の上のような日当たりのよいところで育ちます。
「あなたは出世が約束されている。でも今日は現場で苦労してつつお勤めをしている我々の日なのです」と家持は諭しているように私は感じます。
雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも(8-1575)
<くものうへに なきつるかりのさむきなへ はぎのしたばはもみちぬるかも>
<<雲の上で鳴いている雁が寒そうであるとともに萩の下の方の葉は色づいてきたのかな>>
この短歌は,天平10(738)年8月20日,その年の初めに官職ナンバー2の右大臣になったばかりの橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で行われた宴(うたげ)の歌7首の中で,諸兄自身が詠んだ1首です。
そのままの解釈は秋が深まってきたという意味ですが,宴に参加した人達に対し「これからもっと大変になるけれど,俺の時代が来たのかもな」と伝えたかったのではと私は思います。
万葉集では,身分の上下関係を「上」「下」という言葉を使って直接詠んでいる和歌はないようですが,深読みするとこの短歌のように身分の上下を意識させているようにも解釈できそうだからです。
諸兄は天平15(743)年には官職ナンバー1の左大臣になり,さらに6年後の天平感宝元(749)年には、官位が正一位となり,これより上はない地位まで上り詰めるのです。
最後は,少し艶めかしい感じの女性(詠み人知らず)の短歌を紹介します。
人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き(12-2851)
<ひとのみる うへはむすびて ひとのみぬ したひもあけて こふるひぞおほき>
<<人の目につく上着の紐は結んでおき、人から見えない下紐を結ばないようにして,お出でになるのを恋しく思う日が多いこの頃です>>
早く来てほしいと思っている私なのに貴方はなかなか来てくれない。何とか恋しい気持ちを分かってほしいけれど人目につくところでサインを出すのは恥ずかしい。
そんな外(上)には出せない内面(下)の女性心理が見え隠れするような気がします。
対語シリーズ「着ると脱ぐ」に続く。
2011年12月10日土曜日
対語シリーズ「新と古」‥お願い,古着のように捨てないで!
今回は前置き無しに万葉集で「新」と「古」の両方を含んだ,非常に分かりやすい詠み人知らずの短歌から紹介しましょう。
冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく(10-1884)
<ふゆすぎてはるしきたれば としつきはあらたなれども ひとはふりゆく>
<<冬が過ぎて春が来れば,年月は新しくなるけれど人はその分年をとって行く>>
この短歌,特に解説はいらないと思いますが,一休(室町時代の臨済宗大徳寺派の僧:いわゆる「一休さん」のモデル)が詠んだと伝えられている次の短歌を思い出しますよね。
門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか)めでたくもありめでたくもなし
次にこれも結構分かりやすい,同じく「新」と「古」の両方を含んだ詠み人知らず(東歌)を紹介します。
おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに(14-3452)
<おもしろきのをばなやきそ ふるくさににひくさまじり おひはおふるがに>
<<趣き深いこの野を野焼きしないで欲しい,古草の中から新草が入り交じって生えていて,これからさらに生えようとしているでしょうに>>
最後の「がに」は今でも金沢弁などで「いいがに」⇒「いいように」といった言い方で使われているようです。
奈良の若草山では,毎年1月下旬頃に山焼きが行われています。それによって堅く古い草を焼き,若草山に住んでいる鹿に春の若草を食べやすくしているのではないかと私は思います。
奈良時代には鹿を食用肉としてたべていたようで,野焼きは一種鹿の放牧の一環の作業だったのかも知れませんね。
さて,「新」を使った和歌をみていくと,「新草」の他に「新木(あらき):切り出した直後の木」「新夜(あらたよ):毎夜」「新代・新世(あらたよ):新しい御代」「新桑(にひくは):新しい桑の葉」「新防人(にひさきもり):新たに派遣された防人」「新手枕(にひたまくら):男女の初夜」「新肌(にひはだ):jまだ誰も触れていない肌」「新治(にひはり):開墾したての田など」「新室(にひむろ):新しい家や室」「新喪(にひも):新しい喪の期間」「新嘗(にふなみ):新穀を食すこと」が出てきます。
この中で,気になる「新手枕」を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに(11-2542)
<わかくさのにひたまくらをまきそめて よをやへだてむにくくあらなくに>
<<妻と初めて床を伴にしてから一夜だって別々に寝るものか愛しくてしょうがないのに>>
この短歌から,妻問い婚ではなく,夫婦ともに暮らしている状態が想像されます。妻問いは,万葉時代の慣習だったと思われますが,庶民を中心に夫婦共同生活者もかなりいたのかと私は想像します。
今度は「古」を使った和歌を見て行くことにしましょう。
13-3452の短歌で使われている「古草」の他に「古へ(いにしへ):むかし」「古江(ふるえ):古びた入江」「古枝(ふるえ):年を経た木の枝」「古幹(ふるから):古く枯れた茎」「ふるころも(古衣):古着」「古人(ふるひと):昔の人」「古家(ふるへ):古い家,元の家」「古屋(ふるや):古い家」が出てきます。
この中で,「古衣」を題材に,自分を棄てた元恋人への恨みごとを詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ(11-2626)
<ふるころもうつつるひとは あきかぜのたちくるときに ものもふものぞ>
<<古着を捨てるように私を棄てたあなたも,冷たい秋風吹きつける頃には物思いに沈むでしょう(わたしの温もりが無くなったことを知って)>>
この作者の本心は「小林よしのり」作マンガ「おぼっちゃまくん」のテレビ版エンディングテーマソングの一つ,Mi-Ke の「む~な気持ちおセンチ」の歌詞に出てくる「♪お願い,ティッシュのように捨てないで♪」ということに近いかもしれませんね。
ヒトは大切なものを失って見て,初めてそれが非常に大切だったことを気がつくことが多いのかもしれません。その気づきが人生を生きて行く過程で得るヒトの「学習」というものでしょう。
あるヒトの人生で今までいかに多くのことを失ってきて,そして失ったものの中で人生にとって何が大切なのかをよく知っている(気づいている),そんなヒトが話す言葉に重みを私は感じます。
反対に私が一番聞いて寂しいと感じるのは,多くのモノを失っていながら,その大切さに気がついていないヒトの話を聞くときです。そういうヒトの多くは,失った原因は自分にあるのではなく,原因は他人にあると決めつけてしまっていることが多いのです。
対語シリーズ「上と下」に続く。
冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく(10-1884)
<ふゆすぎてはるしきたれば としつきはあらたなれども ひとはふりゆく>
<<冬が過ぎて春が来れば,年月は新しくなるけれど人はその分年をとって行く>>
この短歌,特に解説はいらないと思いますが,一休(室町時代の臨済宗大徳寺派の僧:いわゆる「一休さん」のモデル)が詠んだと伝えられている次の短歌を思い出しますよね。
門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか)めでたくもありめでたくもなし
次にこれも結構分かりやすい,同じく「新」と「古」の両方を含んだ詠み人知らず(東歌)を紹介します。
おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに(14-3452)
<おもしろきのをばなやきそ ふるくさににひくさまじり おひはおふるがに>
<<趣き深いこの野を野焼きしないで欲しい,古草の中から新草が入り交じって生えていて,これからさらに生えようとしているでしょうに>>
最後の「がに」は今でも金沢弁などで「いいがに」⇒「いいように」といった言い方で使われているようです。
奈良の若草山では,毎年1月下旬頃に山焼きが行われています。それによって堅く古い草を焼き,若草山に住んでいる鹿に春の若草を食べやすくしているのではないかと私は思います。
奈良時代には鹿を食用肉としてたべていたようで,野焼きは一種鹿の放牧の一環の作業だったのかも知れませんね。
さて,「新」を使った和歌をみていくと,「新草」の他に「新木(あらき):切り出した直後の木」「新夜(あらたよ):毎夜」「新代・新世(あらたよ):新しい御代」「新桑(にひくは):新しい桑の葉」「新防人(にひさきもり):新たに派遣された防人」「新手枕(にひたまくら):男女の初夜」「新肌(にひはだ):jまだ誰も触れていない肌」「新治(にひはり):開墾したての田など」「新室(にひむろ):新しい家や室」「新喪(にひも):新しい喪の期間」「新嘗(にふなみ):新穀を食すこと」が出てきます。
この中で,気になる「新手枕」を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに(11-2542)
<わかくさのにひたまくらをまきそめて よをやへだてむにくくあらなくに>
<<妻と初めて床を伴にしてから一夜だって別々に寝るものか愛しくてしょうがないのに>>
この短歌から,妻問い婚ではなく,夫婦ともに暮らしている状態が想像されます。妻問いは,万葉時代の慣習だったと思われますが,庶民を中心に夫婦共同生活者もかなりいたのかと私は想像します。
今度は「古」を使った和歌を見て行くことにしましょう。
13-3452の短歌で使われている「古草」の他に「古へ(いにしへ):むかし」「古江(ふるえ):古びた入江」「古枝(ふるえ):年を経た木の枝」「古幹(ふるから):古く枯れた茎」「ふるころも(古衣):古着」「古人(ふるひと):昔の人」「古家(ふるへ):古い家,元の家」「古屋(ふるや):古い家」が出てきます。
この中で,「古衣」を題材に,自分を棄てた元恋人への恨みごとを詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。
古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ(11-2626)
<ふるころもうつつるひとは あきかぜのたちくるときに ものもふものぞ>
<<古着を捨てるように私を棄てたあなたも,冷たい秋風吹きつける頃には物思いに沈むでしょう(わたしの温もりが無くなったことを知って)>>
この作者の本心は「小林よしのり」作マンガ「おぼっちゃまくん」のテレビ版エンディングテーマソングの一つ,Mi-Ke の「む~な気持ちおセンチ」の歌詞に出てくる「♪お願い,ティッシュのように捨てないで♪」ということに近いかもしれませんね。
ヒトは大切なものを失って見て,初めてそれが非常に大切だったことを気がつくことが多いのかもしれません。その気づきが人生を生きて行く過程で得るヒトの「学習」というものでしょう。
あるヒトの人生で今までいかに多くのことを失ってきて,そして失ったものの中で人生にとって何が大切なのかをよく知っている(気づいている),そんなヒトが話す言葉に重みを私は感じます。
反対に私が一番聞いて寂しいと感じるのは,多くのモノを失っていながら,その大切さに気がついていないヒトの話を聞くときです。そういうヒトの多くは,失った原因は自分にあるのではなく,原因は他人にあると決めつけてしまっていることが多いのです。
対語シリーズ「上と下」に続く。
2011年12月4日日曜日
対語シリーズ「浮と沈」‥心の浮き沈みが起きたとき,あなたならどうする?
万葉集には「浮く」と「沈(しづ)く」を詠んだ和歌が40首ほど出てきます。また,「浮く」の別の対語として現代用語「潜る」の意味を持つ「潜(かづ)く」を入れるとさらに25首ほど増えます。
まず「浮」ですが,「浮く」の対象としては,舟,水鳥,花びら,材木,筏(いかだ),木の葉,海藻,水草,自分の心,波など,さまざまなものが万葉集で詠われています。その中で「浮」の用法として「浮寝」という言葉を使った歌が7首ほど出てきます。たとえば,次の短歌です。
我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし(11-2806)
<わぎもこにこふれにかあらむ おきにすむかものうきねのやすけくもなし>
<<彼女への恋が募っているからか,沖にいる鴨が浮寝をしているように,ふらふらと落ち着かないのです>>
この短歌作者(不詳)は,鴨が水面で寝ている(浮寝している)姿を見て,波が来ると身体が揺れて落ち着いて眠れてはいないだろうと想像し,自分が恋に落ちて心がその状態に近いと言いたいのでしょう。同じく浮寝には次のような用例もあります。
敷栲の枕ゆくくる涙にぞ浮寝をしける恋の繁きに(4-507)
<しきたへのまくらゆくくる なみたにぞうきねをしける こひのしげきに>
<<私の枕の下を流れるほどの涙なのです。そんな涙の川に浮(憂き)寝をしているほど激しく恋しています>>
この短歌の作者は駿河采女と呼ばれる女官で,自分が流した涙で川ができ,そこで浮寝ができるほど多くの涙を流してしまう今の恋は,本当に切なく苦しいものと切々と訴えています。彼女にとって,この「浮寝」はまさに苦しい「憂き寝」なのですね。
さて,「沈む」の対象としては,玉,人の心,人(入水自殺)が出てきます。「潜く」の対象としては,水鳥,海人(漁師)が多く出てきます。「沈む」も恋をモチーフにした詠み人知らずの短歌を紹介します。
近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ(11-2445)
<あふみのうみ しづくしらたま しらずして こひせしよりは いまこそまされ>
<<近江の海に沈む白玉を知らずに恋をしていたときより(白玉を知った)今はもっと恋しさが強くなっています>>
この短歌の作者は,白玉を恋人の肌に譬え,始めての妻問いで,妻の肌の美しさ,柔らかさを知ってしまい,さらに想いが増した。そんな気持ちをこの短歌は表現していると私には思えます。
<琵琶湖のカラス貝>
私が小学生の頃,琵琶湖に生息し地元ではカラス貝と呼ぶ大きな二枚貝の貝殻を大津市石山に住んでいた親戚に見せてもらったことがあります。この貝は正式にはメンカラスガイと呼ぶそうですが,貝殻の内側はアコヤガイやアワビと同じで非常に上品で綺麗な輝きを持っています。万葉時代にはこの貝を食用に捕獲していたと思われますが,貝肉や貝柱を取り出すとき,まれに天然真珠が貝の中に入っていたのだと思います。
その天然真珠は白玉として京人(みやこびと)の憧れの宝飾品であり,高く取引されのでしょう。
そのため,白玉が入っているかもしれない貝を目当てに素潜りで漁をする海人(漁師)も職業として存在していたのでしょう。そんなことを彷彿とさせるのが次の短歌です。
底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人(7-1318)
<そこきよみしづけるたまをみまくほり ちたびぞのりしかづきするあま>
<<清い海底に沈む真珠が見たい。千回も言い続けて海に潜る海人よ>>
「こんどこそは獲ってくるぞ」といって海人は何度も海に潜るのだけれど,天然の白玉はそう簡単には獲れない。実はお目当ての女性を射止めようと何度もアプローチを試みるがうまくいかない自分をそんな海人に譬え嘆いている短歌と私は解釈します。
<精神安定は現実逃避では根本解決にならない?>
これらの歌を見て,「ヒト」は気持ちが大きく浮いたとき,沈んだとき,精神的に不安定になる傾向を昔から持っているのではないかと私は感じます。精神的な安定を維持していくには,浮いた気分や沈んだ気分の状態になったとき,自分をどうコントロールできるかが重要だということになりそうです。
ところが,そのようなコントロールには,精神統一訓練,自己暗示,他との接触を断って気持ちを集中させたり,ひとりで何も考えずに過ごす時間を作ることが一般的対策として考えられますが,私は他人のとの接触,交流,連携,協調,恋愛などを避けずに精神的安定を維持できる方法を見つけるほうが良いではないかと今は考えています。
<精神的に安定しているか自分だけでは分からない?>
自分が精神的に安定しているかは,自分だけでは実は分かりにくいのです。他人と接触する過程で,複数の他人の自分に対する反応から判断する方が正確だと思うからです。
もちろんこの考えに同意しない人は多いかもしれません。他人との接触で精神が不安定になっているのに,その状況を改善せず良くなるはずがないとの異論です。
確かに,精神的に自分を不安定にする他人との接触を断ち,精神的安定を取り戻す治療を施す方が早く安定を取り戻せるかもしれません。しかし,そういう方法で精神的安定を早く取り戻したけれど,復帰した後,またすぐに元の不安定状況に戻ってしまう人を私はたくさん見てきました。他人との接触,交流,連携,協調,恋愛などを行っているメリットをもっと冷静にとらえるようにすべきだと思います。
<女性は柔軟?>
その点,女性の方が対応が男性より上手なような気がします。女性週刊誌などのキャッチコピーや女性向けソングの歌詞では「恋をする女性は美しい」「超キツイ仕事だけれど彼女は輝いている」「貴女は涙の数だけ強くなれる」といったコピーを見ると,その状況から逃げずに前向きに対応できる心の持ち方ができるのは女性の方が上手なのではないかと私は思っています。また,広島出身の女性レゲエシンガーソングライターMetisが若者に対し,気持ちが沈んでいる時,浮かれすぎている時,自分,家族,友達,恋人など「ヒト」を大切に!というメッセージ性の高いソングスを次々とリリースしています。インターネットを見ている限り,やはり女性のほうが比較的素直に受け入れているように私は感じます。
対語シリーズ「新と古」に続く。
まず「浮」ですが,「浮く」の対象としては,舟,水鳥,花びら,材木,筏(いかだ),木の葉,海藻,水草,自分の心,波など,さまざまなものが万葉集で詠われています。その中で「浮」の用法として「浮寝」という言葉を使った歌が7首ほど出てきます。たとえば,次の短歌です。
我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし(11-2806)
<わぎもこにこふれにかあらむ おきにすむかものうきねのやすけくもなし>
<<彼女への恋が募っているからか,沖にいる鴨が浮寝をしているように,ふらふらと落ち着かないのです>>
この短歌作者(不詳)は,鴨が水面で寝ている(浮寝している)姿を見て,波が来ると身体が揺れて落ち着いて眠れてはいないだろうと想像し,自分が恋に落ちて心がその状態に近いと言いたいのでしょう。同じく浮寝には次のような用例もあります。
敷栲の枕ゆくくる涙にぞ浮寝をしける恋の繁きに(4-507)
<しきたへのまくらゆくくる なみたにぞうきねをしける こひのしげきに>
<<私の枕の下を流れるほどの涙なのです。そんな涙の川に浮(憂き)寝をしているほど激しく恋しています>>
この短歌の作者は駿河采女と呼ばれる女官で,自分が流した涙で川ができ,そこで浮寝ができるほど多くの涙を流してしまう今の恋は,本当に切なく苦しいものと切々と訴えています。彼女にとって,この「浮寝」はまさに苦しい「憂き寝」なのですね。
さて,「沈む」の対象としては,玉,人の心,人(入水自殺)が出てきます。「潜く」の対象としては,水鳥,海人(漁師)が多く出てきます。「沈む」も恋をモチーフにした詠み人知らずの短歌を紹介します。
近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ(11-2445)
<あふみのうみ しづくしらたま しらずして こひせしよりは いまこそまされ>
<<近江の海に沈む白玉を知らずに恋をしていたときより(白玉を知った)今はもっと恋しさが強くなっています>>
この短歌の作者は,白玉を恋人の肌に譬え,始めての妻問いで,妻の肌の美しさ,柔らかさを知ってしまい,さらに想いが増した。そんな気持ちをこの短歌は表現していると私には思えます。
<琵琶湖のカラス貝>
私が小学生の頃,琵琶湖に生息し地元ではカラス貝と呼ぶ大きな二枚貝の貝殻を大津市石山に住んでいた親戚に見せてもらったことがあります。この貝は正式にはメンカラスガイと呼ぶそうですが,貝殻の内側はアコヤガイやアワビと同じで非常に上品で綺麗な輝きを持っています。万葉時代にはこの貝を食用に捕獲していたと思われますが,貝肉や貝柱を取り出すとき,まれに天然真珠が貝の中に入っていたのだと思います。
その天然真珠は白玉として京人(みやこびと)の憧れの宝飾品であり,高く取引されのでしょう。
そのため,白玉が入っているかもしれない貝を目当てに素潜りで漁をする海人(漁師)も職業として存在していたのでしょう。そんなことを彷彿とさせるのが次の短歌です。
底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人(7-1318)
<そこきよみしづけるたまをみまくほり ちたびぞのりしかづきするあま>
<<清い海底に沈む真珠が見たい。千回も言い続けて海に潜る海人よ>>
「こんどこそは獲ってくるぞ」といって海人は何度も海に潜るのだけれど,天然の白玉はそう簡単には獲れない。実はお目当ての女性を射止めようと何度もアプローチを試みるがうまくいかない自分をそんな海人に譬え嘆いている短歌と私は解釈します。
<精神安定は現実逃避では根本解決にならない?>
これらの歌を見て,「ヒト」は気持ちが大きく浮いたとき,沈んだとき,精神的に不安定になる傾向を昔から持っているのではないかと私は感じます。精神的な安定を維持していくには,浮いた気分や沈んだ気分の状態になったとき,自分をどうコントロールできるかが重要だということになりそうです。
ところが,そのようなコントロールには,精神統一訓練,自己暗示,他との接触を断って気持ちを集中させたり,ひとりで何も考えずに過ごす時間を作ることが一般的対策として考えられますが,私は他人のとの接触,交流,連携,協調,恋愛などを避けずに精神的安定を維持できる方法を見つけるほうが良いではないかと今は考えています。
<精神的に安定しているか自分だけでは分からない?>
自分が精神的に安定しているかは,自分だけでは実は分かりにくいのです。他人と接触する過程で,複数の他人の自分に対する反応から判断する方が正確だと思うからです。
もちろんこの考えに同意しない人は多いかもしれません。他人との接触で精神が不安定になっているのに,その状況を改善せず良くなるはずがないとの異論です。
確かに,精神的に自分を不安定にする他人との接触を断ち,精神的安定を取り戻す治療を施す方が早く安定を取り戻せるかもしれません。しかし,そういう方法で精神的安定を早く取り戻したけれど,復帰した後,またすぐに元の不安定状況に戻ってしまう人を私はたくさん見てきました。他人との接触,交流,連携,協調,恋愛などを行っているメリットをもっと冷静にとらえるようにすべきだと思います。
<女性は柔軟?>
その点,女性の方が対応が男性より上手なような気がします。女性週刊誌などのキャッチコピーや女性向けソングの歌詞では「恋をする女性は美しい」「超キツイ仕事だけれど彼女は輝いている」「貴女は涙の数だけ強くなれる」といったコピーを見ると,その状況から逃げずに前向きに対応できる心の持ち方ができるのは女性の方が上手なのではないかと私は思っています。また,広島出身の女性レゲエシンガーソングライターMetisが若者に対し,気持ちが沈んでいる時,浮かれすぎている時,自分,家族,友達,恋人など「ヒト」を大切に!というメッセージ性の高いソングスを次々とリリースしています。インターネットを見ている限り,やはり女性のほうが比較的素直に受け入れているように私は感じます。
対語シリーズ「新と古」に続く。
2011年11月27日日曜日
対語シリーズ「太と細」‥「痩せたね」と言われて嬉しく思う時代は今だけか?
「太い」「細い」は,木の幹,シャープペンシルの芯,糸や繊維,ラーメンなどの麺といったモノに対して使われるだけでなく,人間の体つきや心の安定度など形容にも使われます。
人間の心については「あいつは図太いやっちゃ」「○○君は線が細いなあ」といった使い方を今もします。
万葉集でも,人間の心が「太い」ことを詠んだ短歌が出てきます。
真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも(2-190)
<まきばしら ふときこころはありしかど このあがこころしづめかねつも>
<<太く強い心を持っていたのに,この我が心を鎮めることができないでいます>>
この短歌は,草壁皇子(くさかべのみこ)が28歳で亡くなったことに対して,宮中に仕える舎人(とねり)等が詠んだとされるものです。
草壁皇子の父は天武天皇,母は(後の)持統天皇です。草壁皇子は天武天皇の皇太子でしたが,天皇の死後4年目に(即位することなく)28歳の命で他界しました。
そのとき,草壁皇子に仕えていた舎人達の哀しみは大変なものであったはずです。何せ,草壁皇子が即位すれば天皇の仕え人になれたわけですからね。
歴史に「たら」「れば」は無いのですが,もし大津皇子(おほつのこみ)が天武天皇の後継天皇となってい「たら」,歴史は大きく変わったでしょうね。
万葉集では,心が細いという用例はなく,人の身体に関するものが出てきます。
桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ 娘子らが 手に取り持てる~ (19-4192)
<もものはなくれなゐいろに にほひたるおもわのうちに あをやぎのほそきまよねを ゑみまがりあさかげみつつ をとめらがてにとりもてる~>
<<桃の花のように紅く色づいた顔の輝きの中で,青柳のように細くしなやかな眉を曲げて微笑み,朝の面立ちを映して見ながら、少女たちが手に持っている~>>
この長歌は,大伴家持が越中で霍公鳥(ホトトギス)を詠んだものの前半部分です。霍公鳥がまったく出てきませんが,理由はこの後続く(手に持つ)鏡,鏡から霍公鳥がいる山の名前を引く序詞の部分だからです。
この歌から,当時は若い女性の眉毛は細い方が良い印象があったことが推測できます。
その若い女性が可愛く微笑むために真直ぐなその細い眉を曲げる練習をしていたのでしょうか(毎朝鏡を見ながら)。
これって,今の女性がしていることとあまり変わらないような気がしますが,どうでしょうか。
今の女性は眉毛ではなくまつ毛のお手入れ(マスカラ)であったり,鏡を見る場所は自宅ではなく通勤途中の電車の中の場合もあるようですが..。
この他に,紹介はしませんが,腰細が女性としては魅力的で美しいと詠まれている長歌があります(9-1738)。
天平時代の美女は脹(ふく)よかな女性のイメージがありましたが,腰はやはり細い方が良かったのかもしれませんね。
身体の全部または一部が痩せていることを「細い」と現代では言いますが,飽食の今痩せて細い体はどちらかというと健康的なイメージを思わせます。
しかし,戦後しばらくの日本でもそうでしたが,万葉時代はやはり身体が痩せていて細いことは,健康的ではなく,良くないイメージのようです。
もしかしたら,痩せていることを嬉しく思える国は限定されていて,またそう思える時代も長い歴史の中では,ごく僅かであるような気がします。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と思って割り切ってしまうことができるが、家で子どもを抱えて痩せてしまっているだろう妻が愛おしい>>
この短歌は,駿河(するが)の国出身の防人である玉作部廣目(たますりべのひろめ)が詠んだとされる歌です。悲しい歌です。
ちなみに,私のBMI(肥満度係数)は,この前の健康診断結果では22.0で「問題なし」でした。健康体に感謝。
対語シリーズ「浮と沈」に続く。
人間の心については「あいつは図太いやっちゃ」「○○君は線が細いなあ」といった使い方を今もします。
万葉集でも,人間の心が「太い」ことを詠んだ短歌が出てきます。
真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも(2-190)
<まきばしら ふときこころはありしかど このあがこころしづめかねつも>
<<太く強い心を持っていたのに,この我が心を鎮めることができないでいます>>
この短歌は,草壁皇子(くさかべのみこ)が28歳で亡くなったことに対して,宮中に仕える舎人(とねり)等が詠んだとされるものです。
草壁皇子の父は天武天皇,母は(後の)持統天皇です。草壁皇子は天武天皇の皇太子でしたが,天皇の死後4年目に(即位することなく)28歳の命で他界しました。
そのとき,草壁皇子に仕えていた舎人達の哀しみは大変なものであったはずです。何せ,草壁皇子が即位すれば天皇の仕え人になれたわけですからね。
歴史に「たら」「れば」は無いのですが,もし大津皇子(おほつのこみ)が天武天皇の後継天皇となってい「たら」,歴史は大きく変わったでしょうね。
万葉集では,心が細いという用例はなく,人の身体に関するものが出てきます。
桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ 娘子らが 手に取り持てる~ (19-4192)
<もものはなくれなゐいろに にほひたるおもわのうちに あをやぎのほそきまよねを ゑみまがりあさかげみつつ をとめらがてにとりもてる~>
<<桃の花のように紅く色づいた顔の輝きの中で,青柳のように細くしなやかな眉を曲げて微笑み,朝の面立ちを映して見ながら、少女たちが手に持っている~>>
この長歌は,大伴家持が越中で霍公鳥(ホトトギス)を詠んだものの前半部分です。霍公鳥がまったく出てきませんが,理由はこの後続く(手に持つ)鏡,鏡から霍公鳥がいる山の名前を引く序詞の部分だからです。
この歌から,当時は若い女性の眉毛は細い方が良い印象があったことが推測できます。
その若い女性が可愛く微笑むために真直ぐなその細い眉を曲げる練習をしていたのでしょうか(毎朝鏡を見ながら)。
これって,今の女性がしていることとあまり変わらないような気がしますが,どうでしょうか。
今の女性は眉毛ではなくまつ毛のお手入れ(マスカラ)であったり,鏡を見る場所は自宅ではなく通勤途中の電車の中の場合もあるようですが..。
この他に,紹介はしませんが,腰細が女性としては魅力的で美しいと詠まれている長歌があります(9-1738)。
天平時代の美女は脹(ふく)よかな女性のイメージがありましたが,腰はやはり細い方が良かったのかもしれませんね。
身体の全部または一部が痩せていることを「細い」と現代では言いますが,飽食の今痩せて細い体はどちらかというと健康的なイメージを思わせます。
しかし,戦後しばらくの日本でもそうでしたが,万葉時代はやはり身体が痩せていて細いことは,健康的ではなく,良くないイメージのようです。
もしかしたら,痩せていることを嬉しく思える国は限定されていて,またそう思える時代も長い歴史の中では,ごく僅かであるような気がします。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と思って割り切ってしまうことができるが、家で子どもを抱えて痩せてしまっているだろう妻が愛おしい>>
この短歌は,駿河(するが)の国出身の防人である玉作部廣目(たますりべのひろめ)が詠んだとされる歌です。悲しい歌です。
ちなみに,私のBMI(肥満度係数)は,この前の健康診断結果では22.0で「問題なし」でした。健康体に感謝。
対語シリーズ「浮と沈」に続く。
2011年11月23日水曜日
対語シリーズ「遠と近」‥浜名湖と琵琶湖,どちらが航行しやすい?
万葉集では距離や時の流れに関して「遠」「近」を詠んだ和歌がたくさん出てきます。
交通機関が発達した現代でも「やはり駅の近くに住みたい」とか「わざわざ遠くまでご足労頂きまして,..」とか,結構距離を気にかけることがあります。また,「遠い昔」とか「近い将来」とかの時の流れのなかの「遠」「近」を言うことも多くあります。
万葉時代,距離の「遠」「近」は交通機関が現代に比べ物にならないほど未発達で,生活する上で現代よりもはるかに大きな意味を持っていたのだと私は思います。また,万葉集の和歌の題詞,左註に年月日が多数出てくるように,暦や年号が日常的に使われるようになってきた時代だと私は想像します。そのため,時の流れの「遠」「近」も日数などで比較できるようになり,定量的に意識されるようになっていたのかも知れませんね。
まず,距離の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。
遠くあらば侘びてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ(4-757)
<とほくあらばわびてもあらむを さとちかくありとききつつ みぬがすべなさ>
<<遠くに住んでいるならば寂しく思うだけですが、住む里が近くにあると聞いていてもあなたと会えないなんて芸の無いことですよね>>
この短歌は,今年の1月28日の「動きの詞シリーズ(侘ぶ)」でも紹介した,大伴田村大嬢(たむらのおほをとめ)が,後に大伴家持の正妻になる異母妹の大伴坂上大嬢(さかのうえのおほをとめ)に贈った短歌です。近くに住んでいるのだから,女同士で何とかしてもっと会いましょうという提案の歌ですね。
さて,今度は距離といっても「心の距離」の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。
近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ(4-610)
<ちかくあればみねどもあるを いやとほくきみがいまさば ありかつましじ>
<<あなた様の心が近くにあるときはお目に掛からなくても心安らかでした。でも,私に対する心が本当に遠くなってしまわれたあなた様がいらっしゃる今,私はあなた様とお逢いできないと生きていることができないかもしれません>>
この短歌は笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌の中の1首で,家持の気持ちが自分から遠のいてしまったことに対する落ち込んだ気持ちを表現しています。自分への気持ちが遠のいた相手へも歌を贈る笠女郎の作歌意欲に私は以前からあこがれています。
次は,時の流れの「遠」「近」を詠んだ大伴家持が越中の自宅で開かれた宴席で詠んだ1首を紹介します。
今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも(17-3947)
<けさのあさけあきかぜさむし とほつひとかりがきなかむ ときちかみかも>
<<今朝も明け方は秋風が寒いので,雁が来て鳴く時が近いからかもしれないよ>>
「遠つ人」は雁に掛かる枕詞と言われています。遠いところからやってくる擬人化した人という「雁」ということらしいのですが,私は「遠い」を場所ではなく,時間がずっと前という意味の方が良いのかなと思います。その理由は,雁が来て鳴くのを待ち遠しい気持ち(冬が終わり雁が去ってからから遠い昔だ)がこの歌から感じ取れるからです。
冬の越中は厳しいですが,雁,鴨,鷺,白鳥,鶴などが平野の稲田,湖沼,河原に多数飛来し,それらを狙う鷹狩りにもってこいの季節なのです。家持は鷹狩りが大好きで,万葉集に自分愛用の鷹を逃がしてしまった侍従に対する怒りを詠んだ長歌(17-4011)を残しているくらいなのです。
さて,万葉集で「遠」「近」を語るとき,是非入れたいのが「遠江(とほつあふみ)」と「近江(あふみ)」です。
どちらも海(大きな湖)を前提としており,その前提は「遠江」が「浜名湖」,「近江」が「琵琶湖」のことといわれています。京(奈良)から見て近いのは琵琶湖で,遠いのが浜名湖だからだそうです。
それぞれを詠んだ短歌を最後に紹介します。両方とも詠み人知らずの歌です。
遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを(14-3429)
<とほつあふみ いなさほそえのみをつくし あれをたのめてあさましものを>
<<遠江の引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし(澪標)のように私を頼らせておきながら,結局そちらは意外と軽い気持ちだったのですね>>
近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに(7-1390)
<あふみのうみ なみかしこみとかぜまもりとしはやへなむ こぐとはなしに>
<<近江の海の波が恐ろしいと風向きをうかがうだけで年が過ぎ行きてしまいました。漕ぎ出すこともなく>>
「みをつくし」は座礁しないように船を安全な航路に導く標識です。遠江の浜名湖の奥は,海底の起伏が激しく「みをつくし」に頼って航海する必要があったのでしょう。
いっぽう,比較的深さが一定の近江の琵琶湖は湖とはいえ,風が吹くと波が激しくなり,舟の安全な航行には風のおさまるのを待つしかないこともしばしばあったのかもしれません。
この2首とも浜名湖も琵琶湖も当時航行の難しさを例にしていますが,結局は恋の行方の予測の難しさを詠っているのだと私は感じています。
対語シリーズ「太と細」に続く。
交通機関が発達した現代でも「やはり駅の近くに住みたい」とか「わざわざ遠くまでご足労頂きまして,..」とか,結構距離を気にかけることがあります。また,「遠い昔」とか「近い将来」とかの時の流れのなかの「遠」「近」を言うことも多くあります。
万葉時代,距離の「遠」「近」は交通機関が現代に比べ物にならないほど未発達で,生活する上で現代よりもはるかに大きな意味を持っていたのだと私は思います。また,万葉集の和歌の題詞,左註に年月日が多数出てくるように,暦や年号が日常的に使われるようになってきた時代だと私は想像します。そのため,時の流れの「遠」「近」も日数などで比較できるようになり,定量的に意識されるようになっていたのかも知れませんね。
まず,距離の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。
遠くあらば侘びてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ(4-757)
<とほくあらばわびてもあらむを さとちかくありとききつつ みぬがすべなさ>
<<遠くに住んでいるならば寂しく思うだけですが、住む里が近くにあると聞いていてもあなたと会えないなんて芸の無いことですよね>>
この短歌は,今年の1月28日の「動きの詞シリーズ(侘ぶ)」でも紹介した,大伴田村大嬢(たむらのおほをとめ)が,後に大伴家持の正妻になる異母妹の大伴坂上大嬢(さかのうえのおほをとめ)に贈った短歌です。近くに住んでいるのだから,女同士で何とかしてもっと会いましょうという提案の歌ですね。
さて,今度は距離といっても「心の距離」の「遠」「近」を詠んだ短歌を紹介します。
近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ(4-610)
<ちかくあればみねどもあるを いやとほくきみがいまさば ありかつましじ>
<<あなた様の心が近くにあるときはお目に掛からなくても心安らかでした。でも,私に対する心が本当に遠くなってしまわれたあなた様がいらっしゃる今,私はあなた様とお逢いできないと生きていることができないかもしれません>>
この短歌は笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌の中の1首で,家持の気持ちが自分から遠のいてしまったことに対する落ち込んだ気持ちを表現しています。自分への気持ちが遠のいた相手へも歌を贈る笠女郎の作歌意欲に私は以前からあこがれています。
次は,時の流れの「遠」「近」を詠んだ大伴家持が越中の自宅で開かれた宴席で詠んだ1首を紹介します。
今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも(17-3947)
<けさのあさけあきかぜさむし とほつひとかりがきなかむ ときちかみかも>
<<今朝も明け方は秋風が寒いので,雁が来て鳴く時が近いからかもしれないよ>>
「遠つ人」は雁に掛かる枕詞と言われています。遠いところからやってくる擬人化した人という「雁」ということらしいのですが,私は「遠い」を場所ではなく,時間がずっと前という意味の方が良いのかなと思います。その理由は,雁が来て鳴くのを待ち遠しい気持ち(冬が終わり雁が去ってからから遠い昔だ)がこの歌から感じ取れるからです。
冬の越中は厳しいですが,雁,鴨,鷺,白鳥,鶴などが平野の稲田,湖沼,河原に多数飛来し,それらを狙う鷹狩りにもってこいの季節なのです。家持は鷹狩りが大好きで,万葉集に自分愛用の鷹を逃がしてしまった侍従に対する怒りを詠んだ長歌(17-4011)を残しているくらいなのです。
さて,万葉集で「遠」「近」を語るとき,是非入れたいのが「遠江(とほつあふみ)」と「近江(あふみ)」です。
どちらも海(大きな湖)を前提としており,その前提は「遠江」が「浜名湖」,「近江」が「琵琶湖」のことといわれています。京(奈良)から見て近いのは琵琶湖で,遠いのが浜名湖だからだそうです。
それぞれを詠んだ短歌を最後に紹介します。両方とも詠み人知らずの歌です。
遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを(14-3429)
<とほつあふみ いなさほそえのみをつくし あれをたのめてあさましものを>
<<遠江の引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし(澪標)のように私を頼らせておきながら,結局そちらは意外と軽い気持ちだったのですね>>
近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに(7-1390)
<あふみのうみ なみかしこみとかぜまもりとしはやへなむ こぐとはなしに>
<<近江の海の波が恐ろしいと風向きをうかがうだけで年が過ぎ行きてしまいました。漕ぎ出すこともなく>>
「みをつくし」は座礁しないように船を安全な航路に導く標識です。遠江の浜名湖の奥は,海底の起伏が激しく「みをつくし」に頼って航海する必要があったのでしょう。
いっぽう,比較的深さが一定の近江の琵琶湖は湖とはいえ,風が吹くと波が激しくなり,舟の安全な航行には風のおさまるのを待つしかないこともしばしばあったのかもしれません。
この2首とも浜名湖も琵琶湖も当時航行の難しさを例にしていますが,結局は恋の行方の予測の難しさを詠っているのだと私は感じています。
対語シリーズ「太と細」に続く。
2011年11月12日土曜日
対語シリーズ「貸と借」‥人の命は借りモノ?
<お金の貸し借り>
人は一時的に金品が不足した場合,友人等から不足した金品を貸してもらえないかとお願いすることがあります。
その依頼を受けた側(貸し手)は,依頼者が信頼のおける人(返してくれる人)であり,一時的に貸せる金品があれば貸し与えます。
貸し与えられた側(借り手)は,しばらくして金品の不足が無くなった(必要なくなった)とき,金品を貸し手に返却します。その時,おカネの場合利息にあたる何らかのお礼を追加することがあります。
<万葉時代では?>
万葉集の和歌が詠まれた時代は「和同開珎(わどうかいちん)」という通貨が大量に流通し始めた頃とされています。しかし,少なくとも万葉集では通貨を表す「銭(ぜに)」を詠んだものはありません。
万葉集を文学とみれば,貨幣が流通していてもそれほど貨幣のことが出てこないことに違和感を感じる人は少ないかもしれません。
ただ,万葉集を当時の時代を後世に残す記録として見ると「銭」が出てこないのは「和同開珎」などの通貨がそれほど流通しておらず,物々交換がまだ主流だったのではないと私は想像します。
そのため,万葉集に出てくる「貸」「借」は,金銭ではなく品物が主流となります。なお,すべて動詞「貸す」「借る」の活用形で出てきます。
万葉集に出てくる「貸す」「借る」の対象(品物)は「衣(ころも)」「舟」「宿(やど)」がほとんどですが,最後の例のように「命」というのがあります。
まず,宿を「貸す」「借る」の両方を詠んだ詠み人しらずの短歌を紹介します。
あしひきの山行き暮らし宿借らば妹立ち待ちてやど貸さむかも(7-1242)
<あしひきの やまゆきぐらし やどからば いもたちまちて やどかさむかも>
<<山路を旅行く途中で日が暮れて今宵の宿をどうしようかと考えてたいたら,かわいい女の子が門に立って待っていて宿を誘ってくれるかもしれない>>
この短歌は「古集に出ず」とある羈旅(きりょ)を詠んだ歌群の1首です。
この短歌が万葉時代でさえ「古集」にあるということは,奈良時代以前から街道の峠などには宿泊施設(宿場)が整備されていて,旅行く人に宿を提供していたことが想像できます。おそらく,街道が整備され,日本各地の産品が行き交うようになってきたころなのでしょう。
中には泊まった時に若い女の子が世話をしてくれるような宿もあったのかもしれません。
あの宿場にはかわいい子がいっぱいいるぞという噂が旅人の間に流れていて,旅人たちは期待をもちつつ宿場へ向かうこともあったのでしょう。
そんな旅人の気持ちを詠んだ歌なのかもしれませんが,期待は外れる(宿を貸す側が求める対価と借りる側が求めるサービスの差が大きい)ことも多かっただろうと私は想像します。
この短歌から結局「宿を貸す」とは,商売(宿賃は銀など?)として泊まる場所や宿泊者へのサービスを提供することを意味します。困った旅人に慈善で泊まらせてあげるのとは意味が違います。
次に商売で貸し借りをする例ではなく,「衣」を夫に妻が「貸す」短歌を紹介します。
宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(1-75)
<うぢまやまあさかぜさむし たびにしてころもかすべき いももあらなくに>
<<宇治間山の朝の風はことに冷たい。今は旅をしているので衣を貸してくれるはずの妻もいないから>>
この1首は長屋王(ながやのおほきみ)が奈良の吉野付近にあるとされる宇治間山麓を旅の途中に通過したとき詠んだとされている短歌です。
旅先ではいくら朝の風が冷たかろうと衣を貸してくれる妻はいない。妻が恋しいなあという気持ちが伝わってくる1首です。
万葉時代は今までこのブログで何度も述べていますが,結婚後の生活は妻問い婚なのです。夫は妻の家で一夜を過ごして朝妻の家を出ます。
その時,朝の寒さが強いと夫が寒がらないように妻は衣を夫に貸します。
妻は夫が衣を返しにまた来てくれるのを心待ちにします。夫も借りた衣を返すという名目で再びやってくる口実を作るという習慣があったのかもしれないと私は思います。
最後に「命を借りる」という少し哲学的な詠み人知らず短歌(作者は女性)を紹介します。
月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ(11-2756)
<つきくさのかれるいのちにあるひとを いかにしりてかのちもあはむといふ>
<<この世に生命を借りて生まれてきた人間です。その命はいつ終わるともしれないはかないものなのにどうして「後で逢おうね」と簡単におっしゃるのですか?>>
私はこの作者は仏教の知識があったのだろうと想像します。
日本に伝わる仏教のいくつかの経典には「自分の生命が人間として生まれること,そして,たとえ人間として生まれても正しい生き方を全うすることの困難さ」を説いているものがあります。
人は皆,本当に偶然に生命を借りて生まれてきたのだから,今の一瞬を大切にしたい,大切にして欲しい。そんな思いを相手(男性)に伝えたいのかも知れませんね。
モノでさえ,カネでさえ,命でさえ,借りたものは大切に扱うようにしたいものですね。
対語シリーズ「遠と近」に続く。
人は一時的に金品が不足した場合,友人等から不足した金品を貸してもらえないかとお願いすることがあります。
その依頼を受けた側(貸し手)は,依頼者が信頼のおける人(返してくれる人)であり,一時的に貸せる金品があれば貸し与えます。
貸し与えられた側(借り手)は,しばらくして金品の不足が無くなった(必要なくなった)とき,金品を貸し手に返却します。その時,おカネの場合利息にあたる何らかのお礼を追加することがあります。
<万葉時代では?>
万葉集の和歌が詠まれた時代は「和同開珎(わどうかいちん)」という通貨が大量に流通し始めた頃とされています。しかし,少なくとも万葉集では通貨を表す「銭(ぜに)」を詠んだものはありません。
万葉集を文学とみれば,貨幣が流通していてもそれほど貨幣のことが出てこないことに違和感を感じる人は少ないかもしれません。
ただ,万葉集を当時の時代を後世に残す記録として見ると「銭」が出てこないのは「和同開珎」などの通貨がそれほど流通しておらず,物々交換がまだ主流だったのではないと私は想像します。
そのため,万葉集に出てくる「貸」「借」は,金銭ではなく品物が主流となります。なお,すべて動詞「貸す」「借る」の活用形で出てきます。
万葉集に出てくる「貸す」「借る」の対象(品物)は「衣(ころも)」「舟」「宿(やど)」がほとんどですが,最後の例のように「命」というのがあります。
まず,宿を「貸す」「借る」の両方を詠んだ詠み人しらずの短歌を紹介します。
あしひきの山行き暮らし宿借らば妹立ち待ちてやど貸さむかも(7-1242)
<あしひきの やまゆきぐらし やどからば いもたちまちて やどかさむかも>
<<山路を旅行く途中で日が暮れて今宵の宿をどうしようかと考えてたいたら,かわいい女の子が門に立って待っていて宿を誘ってくれるかもしれない>>
この短歌は「古集に出ず」とある羈旅(きりょ)を詠んだ歌群の1首です。
この短歌が万葉時代でさえ「古集」にあるということは,奈良時代以前から街道の峠などには宿泊施設(宿場)が整備されていて,旅行く人に宿を提供していたことが想像できます。おそらく,街道が整備され,日本各地の産品が行き交うようになってきたころなのでしょう。
中には泊まった時に若い女の子が世話をしてくれるような宿もあったのかもしれません。
あの宿場にはかわいい子がいっぱいいるぞという噂が旅人の間に流れていて,旅人たちは期待をもちつつ宿場へ向かうこともあったのでしょう。
そんな旅人の気持ちを詠んだ歌なのかもしれませんが,期待は外れる(宿を貸す側が求める対価と借りる側が求めるサービスの差が大きい)ことも多かっただろうと私は想像します。
この短歌から結局「宿を貸す」とは,商売(宿賃は銀など?)として泊まる場所や宿泊者へのサービスを提供することを意味します。困った旅人に慈善で泊まらせてあげるのとは意味が違います。
次に商売で貸し借りをする例ではなく,「衣」を夫に妻が「貸す」短歌を紹介します。
宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(1-75)
<うぢまやまあさかぜさむし たびにしてころもかすべき いももあらなくに>
<<宇治間山の朝の風はことに冷たい。今は旅をしているので衣を貸してくれるはずの妻もいないから>>
この1首は長屋王(ながやのおほきみ)が奈良の吉野付近にあるとされる宇治間山麓を旅の途中に通過したとき詠んだとされている短歌です。
旅先ではいくら朝の風が冷たかろうと衣を貸してくれる妻はいない。妻が恋しいなあという気持ちが伝わってくる1首です。
万葉時代は今までこのブログで何度も述べていますが,結婚後の生活は妻問い婚なのです。夫は妻の家で一夜を過ごして朝妻の家を出ます。
その時,朝の寒さが強いと夫が寒がらないように妻は衣を夫に貸します。
妻は夫が衣を返しにまた来てくれるのを心待ちにします。夫も借りた衣を返すという名目で再びやってくる口実を作るという習慣があったのかもしれないと私は思います。
最後に「命を借りる」という少し哲学的な詠み人知らず短歌(作者は女性)を紹介します。
月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ(11-2756)
<つきくさのかれるいのちにあるひとを いかにしりてかのちもあはむといふ>
<<この世に生命を借りて生まれてきた人間です。その命はいつ終わるともしれないはかないものなのにどうして「後で逢おうね」と簡単におっしゃるのですか?>>
私はこの作者は仏教の知識があったのだろうと想像します。
日本に伝わる仏教のいくつかの経典には「自分の生命が人間として生まれること,そして,たとえ人間として生まれても正しい生き方を全うすることの困難さ」を説いているものがあります。
人は皆,本当に偶然に生命を借りて生まれてきたのだから,今の一瞬を大切にしたい,大切にして欲しい。そんな思いを相手(男性)に伝えたいのかも知れませんね。
モノでさえ,カネでさえ,命でさえ,借りたものは大切に扱うようにしたいものですね。
対語シリーズ「遠と近」に続く。
2011年11月6日日曜日
対語シリーズ「晴と雨」‥晴耕雨詠?
万葉集では「雨」を詠んだ和歌が120首以上出てきます。それに対して「晴」を詠んだものは3首しかありません。その3首も併せて「雨」の文字が入っているのです。
これでは対語関係として勝負にならないですから「晴れ」を間接的に表す「日がさす」「日が照る」を詠んだ歌(枕詞として使われているものは除く)も「晴れ」側の援軍として入れるとすると何とか40首程度にはなります。
まず,「晴」を詠んだ3首の中から詠み人知らずの1首を紹介します。
思はぬに時雨の雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし(10-2227)
<おもはぬに しぐれのあめはふりたれど あまくもはれてつくよさやけし>
<<思いがけずしぐれが降ったけれど,空を覆っていた雲が晴れて月夜がさわやかだなあ>>
「晴れて」といっても夜の晴れです。雨が降った後の空気が澄んでいるので,作者には雲が取れて出てきた月がさわやかに感じられたのでしょう。
雨で清められた直後の晴れは一層さわやかさが増すように感じるのは,昔より空気がきれいだとは言えないところに住んでいる私にとって全面的に同感する感性ですね。
次に「日がさす」方の1首(東歌)を紹介しましょう。
上つ毛野まぐはし窓に朝日さしまきらはしもなありつつ見れば(14-3407)
<かみつけの まぐはしまどにあさひさし まきらはしもなありつつみれば>
<<この上野(今の群馬県)に住んでいる俺,窓に朝日がさす綺麗な光線のように眩(まばゆ)いなあ。寝床の隣のおまえを見ていると>>
私は以前にも書きましたが,18歳まで京都市内の実家にいました。京都の冬は,太陽が少し顔を出したかと思うとすぐに雲に隠れ,そして時雨(しぐれ)たと思えばまた太陽の薄日がさすような,変わりやすい天気です。
山に囲まれている盆地地形なので太陽の出る時間も平地より少なく,京都の冬は「底冷え」という言葉で表わされるように寒暖計が示す温度よりもずっと寒く感じられます。
その後,私は埼玉県南部にずっと住むようになったのですが,関東平野の冬は雲ひとつない晴れの日が多く,その晴れ方も太陽が地平線から出て沈むまで精いっぱい照ってくれることで,陽だまりでは寒暖計が示す温度に比べ,結構暖かく感じることも多くありました。
この東歌はそのような冬の晴れた朝日が窓から美しいビームのようにさしてきて,目が覚めたら隣で寝ていた妻が眩いことを素直に詠っているように私は感じます。私のように関東平野に住む人には同感しやすい歌ではないかと私は思います。
私は結婚してしばらく埼玉県南部のとある公団住宅の5階に住んでいたのですが,まさにそのような朝日がさしてきたとき,まだ寝ている妻を美しく感じたのは,ただはるか遠い昔のことですね。
天の川 「たびとはん。そんなアカンこと書いて大丈夫かいな?」
おっと,天の川君,お久しぶりだね。今はマンションの1階に住んでいるから大丈夫だよ。
天の川 「たびとはん。何を訳の分らんことを言うてんねん。住んでる階数は関係あらへんやろ。」
さっ,さて,今度は「雨」に移ります。
万葉集でたくさん詠まれている「雨」には,単に「雨」だけでなく,いろんな種類の「雨」が出てきます。
例えば,「時雨(しぐれ)」「小雨(こさめ)」「春雨(はるさめ)」「長雨」「村雨(むらさめ)」「雨霧(あまぎり)」「雨障(あまつつみ,あまさはり)」「雨間(あまま)」「雨夜(あまよ)」「夕立ち」などです。
その中から冒頭の1首とは別の時雨を詠んだ歌の中から次の1首を紹介します。
十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ(19-4259)
<かむなづきしぐれのつねか わがせこがやどのもみちば ちりぬべくみゆ>
<<10月のしぐれが降ると,いつものように貴殿のお家の色づいた梨の葉がもうすく散りゆくのでしょうね>>
この短歌は,天平勝宝3(751)年10月22日,越中赴任から戻った大伴家持が左大弁(さだいべん)紀飯麻呂(きのいひまろ)宅で行われた宴席で,庭に植えてあった梨の木を見て詠んだとされています。
旧暦の10月22日は現在の11月下旬ですから,一雨ごとに寒さが加わって行く季節です。
紅葉も雨で葉がどんどん落ち行きますが,それも季節の変化の一要素として日本人は受け入れているのかも知れません。
写真は何年か前の11月下旬に京都の銀閣寺を訪れたときに撮ったものです。散った紅葉も美しく見せるため苔を庭の地面に植え付ける庭師のテクニックだと私は思います。
この他に紹介したい万葉集の雨の歌はたくさんあるのですが,いずれ「万葉集の雨歌」特集を企画して,そこでたっぷり紹介することにします。
ところで,万葉集に雨の歌が多いのは,晴れたときは仕事が忙しいので歌を詠む暇がない。けれども雨の日はやることがないので和歌を詠む。当時まさに晴耕雨詠(私の造語)だったのでしょうか。
ただ,Uta-Net というサイト(http://www.uta-net.com/)で「雨」がタイトルの一部となっている歌(10万曲以上の中)を検索すると,なんと1,214曲もありました。一方「晴」をタイトルに含む曲(「素晴らしい」などの天気と無関係なものは除く)のほうは,わずか200曲ほどしかありませんでした。
雨の日が暇かどうかは別にして,日本人にとって「雨」は昔も今も詩歌の題材になりやすいのだなあとつくづく感じます。
対語シリーズ「貸と借」に続く。
これでは対語関係として勝負にならないですから「晴れ」を間接的に表す「日がさす」「日が照る」を詠んだ歌(枕詞として使われているものは除く)も「晴れ」側の援軍として入れるとすると何とか40首程度にはなります。
まず,「晴」を詠んだ3首の中から詠み人知らずの1首を紹介します。
思はぬに時雨の雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし(10-2227)
<おもはぬに しぐれのあめはふりたれど あまくもはれてつくよさやけし>
<<思いがけずしぐれが降ったけれど,空を覆っていた雲が晴れて月夜がさわやかだなあ>>
「晴れて」といっても夜の晴れです。雨が降った後の空気が澄んでいるので,作者には雲が取れて出てきた月がさわやかに感じられたのでしょう。
雨で清められた直後の晴れは一層さわやかさが増すように感じるのは,昔より空気がきれいだとは言えないところに住んでいる私にとって全面的に同感する感性ですね。
次に「日がさす」方の1首(東歌)を紹介しましょう。
上つ毛野まぐはし窓に朝日さしまきらはしもなありつつ見れば(14-3407)
<かみつけの まぐはしまどにあさひさし まきらはしもなありつつみれば>
<<この上野(今の群馬県)に住んでいる俺,窓に朝日がさす綺麗な光線のように眩(まばゆ)いなあ。寝床の隣のおまえを見ていると>>
私は以前にも書きましたが,18歳まで京都市内の実家にいました。京都の冬は,太陽が少し顔を出したかと思うとすぐに雲に隠れ,そして時雨(しぐれ)たと思えばまた太陽の薄日がさすような,変わりやすい天気です。
山に囲まれている盆地地形なので太陽の出る時間も平地より少なく,京都の冬は「底冷え」という言葉で表わされるように寒暖計が示す温度よりもずっと寒く感じられます。
その後,私は埼玉県南部にずっと住むようになったのですが,関東平野の冬は雲ひとつない晴れの日が多く,その晴れ方も太陽が地平線から出て沈むまで精いっぱい照ってくれることで,陽だまりでは寒暖計が示す温度に比べ,結構暖かく感じることも多くありました。
この東歌はそのような冬の晴れた朝日が窓から美しいビームのようにさしてきて,目が覚めたら隣で寝ていた妻が眩いことを素直に詠っているように私は感じます。私のように関東平野に住む人には同感しやすい歌ではないかと私は思います。
私は結婚してしばらく埼玉県南部のとある公団住宅の5階に住んでいたのですが,まさにそのような朝日がさしてきたとき,まだ寝ている妻を美しく感じたのは,ただはるか遠い昔のことですね。
天の川 「たびとはん。そんなアカンこと書いて大丈夫かいな?」
おっと,天の川君,お久しぶりだね。今はマンションの1階に住んでいるから大丈夫だよ。
天の川 「たびとはん。何を訳の分らんことを言うてんねん。住んでる階数は関係あらへんやろ。」
さっ,さて,今度は「雨」に移ります。
万葉集でたくさん詠まれている「雨」には,単に「雨」だけでなく,いろんな種類の「雨」が出てきます。
例えば,「時雨(しぐれ)」「小雨(こさめ)」「春雨(はるさめ)」「長雨」「村雨(むらさめ)」「雨霧(あまぎり)」「雨障(あまつつみ,あまさはり)」「雨間(あまま)」「雨夜(あまよ)」「夕立ち」などです。
その中から冒頭の1首とは別の時雨を詠んだ歌の中から次の1首を紹介します。
十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ(19-4259)
<かむなづきしぐれのつねか わがせこがやどのもみちば ちりぬべくみゆ>
<<10月のしぐれが降ると,いつものように貴殿のお家の色づいた梨の葉がもうすく散りゆくのでしょうね>>
この短歌は,天平勝宝3(751)年10月22日,越中赴任から戻った大伴家持が左大弁(さだいべん)紀飯麻呂(きのいひまろ)宅で行われた宴席で,庭に植えてあった梨の木を見て詠んだとされています。
旧暦の10月22日は現在の11月下旬ですから,一雨ごとに寒さが加わって行く季節です。
紅葉も雨で葉がどんどん落ち行きますが,それも季節の変化の一要素として日本人は受け入れているのかも知れません。
写真は何年か前の11月下旬に京都の銀閣寺を訪れたときに撮ったものです。散った紅葉も美しく見せるため苔を庭の地面に植え付ける庭師のテクニックだと私は思います。
この他に紹介したい万葉集の雨の歌はたくさんあるのですが,いずれ「万葉集の雨歌」特集を企画して,そこでたっぷり紹介することにします。
ところで,万葉集に雨の歌が多いのは,晴れたときは仕事が忙しいので歌を詠む暇がない。けれども雨の日はやることがないので和歌を詠む。当時まさに晴耕雨詠(私の造語)だったのでしょうか。
ただ,Uta-Net というサイト(http://www.uta-net.com/)で「雨」がタイトルの一部となっている歌(10万曲以上の中)を検索すると,なんと1,214曲もありました。一方「晴」をタイトルに含む曲(「素晴らしい」などの天気と無関係なものは除く)のほうは,わずか200曲ほどしかありませんでした。
雨の日が暇かどうかは別にして,日本人にとって「雨」は昔も今も詩歌の題材になりやすいのだなあとつくづく感じます。
対語シリーズ「貸と借」に続く。
2011年10月30日日曜日
対語シリーズ「明日と昨日」‥昨日から今日。そして今日から明日へ。
人間は日々の営みを考えながら生きている動物といえるかもしれませんね。
この「考えながら」とは,新しい1日(今日)が始まる時,当面の暮らしにとって欠かせないことを意識しつつ前の日(昨日)までのことを振り返り,次の日(明日)に向けて今日をどうするか考えていることだと私は考えています。
その「欠かせない意識」が,たとえば特定の人との関係を特別良好に保ちたいということなら,次のような万葉集の短歌をその人に贈ってみたくなるのかもしれません。
一昨日も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも(6-1014)
<をとつひもきのふもけふもみつれども あすさへみまくほしききみかも>
<<一昨日も昨日も今日もお会いしました。けれど明日も会いたい貴殿なのです>>
この歌は天平9(737)年の正月に,門部王(かどべのおほきみ)という聖武天皇に仕えた高級官僚宅において開かれた宴席で橘文成(たちばなのあやなり)という出席者が主人の門部王に贈ったとされるものです。
この前の歌(6-1013)では,主人の門部王が客人を歓迎する短歌を詠っており,橘文成の歌はその返歌という意味合いが近いようです。
ただ,橘文成の歌は宴席の儀礼的な歌にするのはもったいないと考える万葉集愛好家も多く,恋の歌に分類している万葉学者さんもいるようです。
どうでしょうか,異性の職場の同僚やクラスメイトに「一昨日も昨日も今日も見つれども...」と書いたものを贈ってみれば? 相手と恋人関係になれるかも?
さて,最初に明日と昨日をいう対語シリーズなのに両方含む万葉集の和歌を出してしまいました。次に,それぞれを詠った短歌を紹介します。
明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば(6-941)
<あかしがたしほひのみちを あすよりはしたゑましけむ いへちかづけば>
<<明石の潟の潮が引いた道を明日からは心の中で微笑みながら歩くことだろう。家が近づいているので>>
この歌は,山部赤人が播磨へ旅をした帰りに詠んだ長歌に併せ詠んだ短歌です。
野宿もある厳しい陸路を中心とした播磨(はりま)への長い旅も終わりが見えてきたとき,家に帰ったら家族と何をしようか,何を食べようか,雨風を防げる寝床でゆっくり寝られるだろうなどと考えて行くと自然と心の中でうれしい気持ちになり,明るい気持ちになってしまうのでしょう。
赤人は,明日以降明るくなるその気持ちを「下笑ましけむ」と表現しているのです。恐らく,赤人だけでなく,旅の同行者の気持ちも代弁しているのだと私は想像します。
このように万葉集で「明日」を詠んだ多くは「明日」に期待する和歌ですが,中には次のように防人(さきもり)として故郷を後にする時「明日からは妻と別れて一人で草枕するしかない」という苦しい「明日」を詠んだ歌もあります。
作者は遠江(とほたふみ)出身の國造(くにのみやつこ)の丁(よぼろ)である物部秋持(もののべのあきもち)という防人です。
畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして(20-4321)
<かしこきやみことかがふり あすゆりやかえがむたねむ いむなしにして>
<<畏れ多いことに天皇の命を受け、明日からはカヤといっしょに寝ることになるだろう。妻なしで>>
さて,次に「昨日」について見て行きましょう。
住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり(7-1149)
<すみのえにゆくといふみちに きのふみしこひわすれがひ ことにしありけり>
<<住吉に行く道で昨日見た恋忘れ貝。だけどただ名前だけだった(君に対する恋しい気持ちを忘れることができない)>>
昨日を詠ったこの詠み人知らずの短歌は,摂津(せっつ)地方を題材にしています。
私の勝手な解釈ですが,「すみのえの道」の「すみ」は「澄み」⇒「済み」からすっかり済んでしまった恋を忘れようと明日に向かう作者の気持ちだと思います。
しかし,「すみのえ」の海岸には「恋忘れ貝」という貝が棲(す)んでいて「それを見ると恋を忘れさせてくれる貝」があるというが,そういう貝の名前だけで結局効果は無かったんだよ~という嘆きの短歌だというのが私の解釈です。
昨日は通り過ぎた過去のことだが,忘れられない過去に引きずられるのも人間の性(さが)であることもこの短歌から感じられます。
<万葉集でのその他の扱い>
その他,万葉集で「昨日」について詠った和歌には「昨日も今日も変わりゃしない」「昨日はダメだっけど今日は期待したい」「昨日とは今日は違っているぞ」「今日の○○は昨日の△△があったから」というものもあります。
「明日」「昨日」を詠った万葉集の和歌を見てみると,結局「今日」を起点として「昨日」や「明日」と比較して,「今日(今)」の自分の想いを詠んでいる,そんな印象を私は持ちます。
<ライオン>
さて,ある生活用品メーカーが,来年から今の「おはようからおやすみまで、暮らしに夢をひろげる」というキャッチコピーから「今日を愛する。(life.love.)」という短いキャッチコピーに変えるそうです。
充実した「愛すべき今日」をしっかり生きて行く。そのために「昨日」をきちっと振り返り,「明日」を堅実に予測して「今日」を考える。そうして,今の不確実な時代に備えよ。そんなおもてに現れないメッセージもあるのかな?と私は感じています。
対語シリーズ「晴と雨」に続く。
この「考えながら」とは,新しい1日(今日)が始まる時,当面の暮らしにとって欠かせないことを意識しつつ前の日(昨日)までのことを振り返り,次の日(明日)に向けて今日をどうするか考えていることだと私は考えています。
その「欠かせない意識」が,たとえば特定の人との関係を特別良好に保ちたいということなら,次のような万葉集の短歌をその人に贈ってみたくなるのかもしれません。
一昨日も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも(6-1014)
<をとつひもきのふもけふもみつれども あすさへみまくほしききみかも>
<<一昨日も昨日も今日もお会いしました。けれど明日も会いたい貴殿なのです>>
この歌は天平9(737)年の正月に,門部王(かどべのおほきみ)という聖武天皇に仕えた高級官僚宅において開かれた宴席で橘文成(たちばなのあやなり)という出席者が主人の門部王に贈ったとされるものです。
この前の歌(6-1013)では,主人の門部王が客人を歓迎する短歌を詠っており,橘文成の歌はその返歌という意味合いが近いようです。
ただ,橘文成の歌は宴席の儀礼的な歌にするのはもったいないと考える万葉集愛好家も多く,恋の歌に分類している万葉学者さんもいるようです。
どうでしょうか,異性の職場の同僚やクラスメイトに「一昨日も昨日も今日も見つれども...」と書いたものを贈ってみれば? 相手と恋人関係になれるかも?
さて,最初に明日と昨日をいう対語シリーズなのに両方含む万葉集の和歌を出してしまいました。次に,それぞれを詠った短歌を紹介します。
明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば(6-941)
<あかしがたしほひのみちを あすよりはしたゑましけむ いへちかづけば>
<<明石の潟の潮が引いた道を明日からは心の中で微笑みながら歩くことだろう。家が近づいているので>>
この歌は,山部赤人が播磨へ旅をした帰りに詠んだ長歌に併せ詠んだ短歌です。
野宿もある厳しい陸路を中心とした播磨(はりま)への長い旅も終わりが見えてきたとき,家に帰ったら家族と何をしようか,何を食べようか,雨風を防げる寝床でゆっくり寝られるだろうなどと考えて行くと自然と心の中でうれしい気持ちになり,明るい気持ちになってしまうのでしょう。
赤人は,明日以降明るくなるその気持ちを「下笑ましけむ」と表現しているのです。恐らく,赤人だけでなく,旅の同行者の気持ちも代弁しているのだと私は想像します。
このように万葉集で「明日」を詠んだ多くは「明日」に期待する和歌ですが,中には次のように防人(さきもり)として故郷を後にする時「明日からは妻と別れて一人で草枕するしかない」という苦しい「明日」を詠んだ歌もあります。
作者は遠江(とほたふみ)出身の國造(くにのみやつこ)の丁(よぼろ)である物部秋持(もののべのあきもち)という防人です。
畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして(20-4321)
<かしこきやみことかがふり あすゆりやかえがむたねむ いむなしにして>
<<畏れ多いことに天皇の命を受け、明日からはカヤといっしょに寝ることになるだろう。妻なしで>>
さて,次に「昨日」について見て行きましょう。
住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり(7-1149)
<すみのえにゆくといふみちに きのふみしこひわすれがひ ことにしありけり>
<<住吉に行く道で昨日見た恋忘れ貝。だけどただ名前だけだった(君に対する恋しい気持ちを忘れることができない)>>
昨日を詠ったこの詠み人知らずの短歌は,摂津(せっつ)地方を題材にしています。
私の勝手な解釈ですが,「すみのえの道」の「すみ」は「澄み」⇒「済み」からすっかり済んでしまった恋を忘れようと明日に向かう作者の気持ちだと思います。
しかし,「すみのえ」の海岸には「恋忘れ貝」という貝が棲(す)んでいて「それを見ると恋を忘れさせてくれる貝」があるというが,そういう貝の名前だけで結局効果は無かったんだよ~という嘆きの短歌だというのが私の解釈です。
昨日は通り過ぎた過去のことだが,忘れられない過去に引きずられるのも人間の性(さが)であることもこの短歌から感じられます。
<万葉集でのその他の扱い>
その他,万葉集で「昨日」について詠った和歌には「昨日も今日も変わりゃしない」「昨日はダメだっけど今日は期待したい」「昨日とは今日は違っているぞ」「今日の○○は昨日の△△があったから」というものもあります。
「明日」「昨日」を詠った万葉集の和歌を見てみると,結局「今日」を起点として「昨日」や「明日」と比較して,「今日(今)」の自分の想いを詠んでいる,そんな印象を私は持ちます。
<ライオン>
さて,ある生活用品メーカーが,来年から今の「おはようからおやすみまで、暮らしに夢をひろげる」というキャッチコピーから「今日を愛する。(life.love.)」という短いキャッチコピーに変えるそうです。
充実した「愛すべき今日」をしっかり生きて行く。そのために「昨日」をきちっと振り返り,「明日」を堅実に予測して「今日」を考える。そうして,今の不確実な時代に備えよ。そんなおもてに現れないメッセージもあるのかな?と私は感じています。
対語シリーズ「晴と雨」に続く。
2011年10月22日土曜日
対語シリーズ「表・面と裏」‥ら・ら・ら
万葉時代「おもて」というと漢字で「面」と書き「顔」のことでした。そして,「顔」は「おもて」だけでなく「おも」とも発音していました。「外側」という意味の「表」が使われるようになったのは平安時代以降のようです。
「面(おもて)」を詠んだ万葉集に出てくる山上憶良の長歌の一部を紹介します。
~ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の面の上に いづくゆか 皺が来りし ~(4-804)
<~ ときのさかりを とどみかね すぐしやりつれ みなのわた かぐろきかみに いつのまか しものふりけむ くれなゐの おもてのうへに いづくゆか しわがきたりし ~>
<<~ 青春の盛りは留められず,やがて盛りの時期が過ぎ去ってしまうと,髪にいつの間に霜が降りたのか,顔の上にどこから皺がついて来たのか ~>>
「紅の面」は若い頃の顔色のつややかで顔色の良い状態を指しているのでしょう。
憶良は,「人は皆老人になり,思うように動けなくなる。また,若いときのような活躍もできなくなることを事実として受け入れなければならないときがくる」ことをこの長歌で詠っています。
特に,面(顔)は昔から第三者がその人の年齢を判断するのに重要な役割を示します。
例えば,たばこ自動販売機で購入者の顔の形状をコンピュータが読み取って成人かの判定をする仕組み(成人識別装置)が付いているものがあるようです。
私はたばこを吸わないので実際にやったことはありませんが,かなりの確度で識別できるようです。
次に「面隠し(おもかくし)」という言葉を使った詠み人知らずの短歌を2首(最初の作者は女性,後は男性)を紹介します。
相見ては面隠さゆるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも(11-2554)
<あひみては おもかくさゆるものからに つぎてみまくのほしききみかも>
<<お目にかかれば恥ずかしくて顔を隠したくなるのですが,あなたには何度もお目にかかりたいのです>>
玉かつま逢はむと言ふは誰れなるか逢へる時さへ面隠しする(12-2916)
<たまかつま あはむといふはたれなるか あへるときさへおもかくしする>
<<あれほど逢いたいと言っていたのはどこの誰ですか? せっかく逢えても恥ずかしいからって両手で顔を隠しているのはなぜ?>>
女性が恥ずかしいからといって顔を隠すという行為は,女性は無闇に家族以外に顔を見せてはいけないという慣習からきているのかもしれませんね。今とは比べ物にならないほど治安の悪かった昔は,若い女性がいることが分かるだけで,男が女性を奪いに来たりして家族にも危険が及ぶことがあったためでしょうか。
日本だけでなく,イスラム教の世界でも女性が顔や身体を隠すための服装(アバヤ,ブルカ,ニカーブなど)がありますが,起源は自身と家族の安全を守るためではないかと思います。
今の日本で若い女性が恥ずかしさで顔を隠すという言葉が薄れているのは,それなりに注意をすれば女性一人暮らしができ,社会で男性と同じように活躍できる平和な社会となったことが大きな要因の一つではないかと私は考えます。
それはそれでもちろん大いに結構なことだと思うのですが,11-2554と12-2916の短歌の味わいを無くしてほしくないと思うのは私の年齢のせいでしょうか。
さて,「おもて」ばかりの話で長くなってしまいましたが,「うら」の話に移りましょう。
「裏」といったとたんに大衆紙や週刊誌の活字から「裏社会」「裏取引」「裏ビデオ」「裏帳簿」のような極端に悪いイメージの言葉を思い浮かばせる方も多いかもしれません。
万葉時代「うら」は「外側」に対して「内部」や「奥」という意味が強く,「表が正しく,裏がその反対」というイメージはそれほどなかったようです。
私の勝手な考え方ですが,当時「心(こころ)」のことを「うら」と呼んでいたので,顔である面と反対の意味として心や内部という意味が「うら」となったのではないかと考えています。
ただ,「心」は移ろい(心変りし)やすいためか,こんな詠み人知らずの短歌もありますよ。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみの あはせのころも うらにせば われしひめやも きみがきまさぬ>
<< ツルバミで染めた袷(あはせ)の着物を裏返すような仕打ちをなさるなら,私は無理に来てとは言いません。あなたが来ないことに対して>>
大黒摩季の「ら・ら・ら」という歌の歌詞に「♪人の心 裏の裏は ただの表だったりして~」というのがあるのを思い出しました。
対語シリーズ「明日と昨日」に続く。
「面(おもて)」を詠んだ万葉集に出てくる山上憶良の長歌の一部を紹介します。
~ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の面の上に いづくゆか 皺が来りし ~(4-804)
<~ ときのさかりを とどみかね すぐしやりつれ みなのわた かぐろきかみに いつのまか しものふりけむ くれなゐの おもてのうへに いづくゆか しわがきたりし ~>
<<~ 青春の盛りは留められず,やがて盛りの時期が過ぎ去ってしまうと,髪にいつの間に霜が降りたのか,顔の上にどこから皺がついて来たのか ~>>
「紅の面」は若い頃の顔色のつややかで顔色の良い状態を指しているのでしょう。
憶良は,「人は皆老人になり,思うように動けなくなる。また,若いときのような活躍もできなくなることを事実として受け入れなければならないときがくる」ことをこの長歌で詠っています。
特に,面(顔)は昔から第三者がその人の年齢を判断するのに重要な役割を示します。
例えば,たばこ自動販売機で購入者の顔の形状をコンピュータが読み取って成人かの判定をする仕組み(成人識別装置)が付いているものがあるようです。
私はたばこを吸わないので実際にやったことはありませんが,かなりの確度で識別できるようです。
次に「面隠し(おもかくし)」という言葉を使った詠み人知らずの短歌を2首(最初の作者は女性,後は男性)を紹介します。
相見ては面隠さゆるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも(11-2554)
<あひみては おもかくさゆるものからに つぎてみまくのほしききみかも>
<<お目にかかれば恥ずかしくて顔を隠したくなるのですが,あなたには何度もお目にかかりたいのです>>
玉かつま逢はむと言ふは誰れなるか逢へる時さへ面隠しする(12-2916)
<たまかつま あはむといふはたれなるか あへるときさへおもかくしする>
<<あれほど逢いたいと言っていたのはどこの誰ですか? せっかく逢えても恥ずかしいからって両手で顔を隠しているのはなぜ?>>
女性が恥ずかしいからといって顔を隠すという行為は,女性は無闇に家族以外に顔を見せてはいけないという慣習からきているのかもしれませんね。今とは比べ物にならないほど治安の悪かった昔は,若い女性がいることが分かるだけで,男が女性を奪いに来たりして家族にも危険が及ぶことがあったためでしょうか。
日本だけでなく,イスラム教の世界でも女性が顔や身体を隠すための服装(アバヤ,ブルカ,ニカーブなど)がありますが,起源は自身と家族の安全を守るためではないかと思います。
今の日本で若い女性が恥ずかしさで顔を隠すという言葉が薄れているのは,それなりに注意をすれば女性一人暮らしができ,社会で男性と同じように活躍できる平和な社会となったことが大きな要因の一つではないかと私は考えます。
それはそれでもちろん大いに結構なことだと思うのですが,11-2554と12-2916の短歌の味わいを無くしてほしくないと思うのは私の年齢のせいでしょうか。
さて,「おもて」ばかりの話で長くなってしまいましたが,「うら」の話に移りましょう。
「裏」といったとたんに大衆紙や週刊誌の活字から「裏社会」「裏取引」「裏ビデオ」「裏帳簿」のような極端に悪いイメージの言葉を思い浮かばせる方も多いかもしれません。
万葉時代「うら」は「外側」に対して「内部」や「奥」という意味が強く,「表が正しく,裏がその反対」というイメージはそれほどなかったようです。
私の勝手な考え方ですが,当時「心(こころ)」のことを「うら」と呼んでいたので,顔である面と反対の意味として心や内部という意味が「うら」となったのではないかと考えています。
ただ,「心」は移ろい(心変りし)やすいためか,こんな詠み人知らずの短歌もありますよ。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみの あはせのころも うらにせば われしひめやも きみがきまさぬ>
<< ツルバミで染めた袷(あはせ)の着物を裏返すような仕打ちをなさるなら,私は無理に来てとは言いません。あなたが来ないことに対して>>
大黒摩季の「ら・ら・ら」という歌の歌詞に「♪人の心 裏の裏は ただの表だったりして~」というのがあるのを思い出しました。
対語シリーズ「明日と昨日」に続く。
2011年10月15日土曜日
対語シリーズ「深しと浅し」‥万葉時代も浅しより深しの方が好イメージ?
<現代用語の「深い」と「浅い」>
「深し」は現代用語では「深い」ですが,「深(い)」を使った今使われている言葉の例(音読みで使っているのは除く)をいくつかあげてみます。
「味わい深い」「意義深い」「疑い深い」「海が深い」「遠慮深い」「奥が深い」「感慨深い」「興味深い」「毛深い」「草深い」「親しみ深い」「嫉妬深い」「慈悲深い」「執念深い」「思慮深い」「慎み深い」「罪深い」「情け深い」「根深い」「懐が深い」「森が深い」「用心深い」「欲深い」
「深川(地名)」「深草(地名)」「深沓」「深酒」「深沢(姓)」「深染め」「深田(姓)」「深爪」「深手」「深情け」「深鍋」「深野」「深場」「深深」「深縁」「深み」「深緑(色)」「深紫(色)」「深谷(地名)」「深読み」「目深」
いっぽう「浅し」の現代用語「浅い」を同様に今使われている言葉の例をあげてみます。
「色が浅い」「海が浅い」「考えが浅い」「関係が浅い」「経験が浅い」「底が浅い」「知恵が浅い」「日が浅い」「読みが浅い」
「浅井(姓)」「浅瓜」「浅香(姓)」「浅川(地名)」「浅木」「浅黄(色)」「浅葱(色)」「浅草(地名)」「浅沓」「浅黒い」「浅事」「浅瀬」「浅田(姓)」「浅知恵」「浅葱(野菜)」「浅漬」「浅手」「浅鍋」「浅沼(姓)」「浅野(姓)」「浅場」「浅はか」「浅縹(色)」「浅間(地名)」「浅見(姓)」「浅緑(色)」「朝紫(色)」「浅蜊(貝)」「遠浅」
このように見てくると,深いと浅いはさまざまな対象に対して修飾していることがわかりますが,やはり深いの方が好イメージのように私は感じます。
<万葉集での「深し」と「浅し」>
さて,万葉集では,海や川の深い浅い,染め色の深い浅い,時が経つのが深い浅い,人の想いが深い浅いなどが出てきます。そのなかで,次のような染め色の濃淡を対照的に読んだ短歌をそれぞれ紹介します。
紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる(11-2624)
<くれなゐのこそめのころもいろふかく しみにしかばかわすれかねつる>
<< 紅で色濃く染めた衣のように心が色濃くしみたのが忘れられません>>
紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも(12-2966)
<くれなゐのうすそめころもあさらかにあひみしひとにこふるころかも>
<<紅で薄く染めた衣の色が薄いように少しだけだけど相見た女性に,今恋してしまったなあ>>
両方とも詠み人しらずの短歌で,紅(ベニバナ)で染めた衣の染め色の濃さ,薄さを序詞として異性を思う気持ちを読んでいると私は思います。
1首目は,深く紅に染めた衣のようにあの人が自分の心の中に色濃く入ってきたことが忘れられない。おそらく,相手とは今逢うことが叶わない状況だろうと私は想像します。
2首目は,薄く紅に染めた衣のように淡いつき合いだったあの人だが,しっかり恋してしまった。それぐらい魅力的な異性だったのだろうと私は感じます。
さて,次に1首の中に深しと浅しの両方が入っている短歌が万葉集に出てきます。
広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ(7-1381)
<ひろせがは そでつくばかりあさきをや こころふかめてわがおもへるらむ>
<<歩いて渡れるほど浅い広瀬川のようにあの人の私に対する心は浅いのに,心の底まで深く私はなぜこんなに思いつめているのだろう>>
これも川の浅さを片思いしている相手の自分に対する気持ちの薄さを比喩している詠み人しらずの短歌です。そして,その薄さとは正反対に自分はどれだけ深く相手を恋し慕っているかをこの短歌で訴え,自分自身を落ち着かせているのだろうと私は思います。
ところで,秋も徐々に深まってきました。近所はまだまだ秋を感じさせるのはススキ位ですが,北海道や東北,関東甲信越では山岳地帯で紅葉が始まったという情報が入るようになりました。
そんな情景を詠った短歌を紹介します。
我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし(10-2190)
<わがかどのあさぢいろづく よなばりのなみしばののの もみちちるらし>
<<我が門の浅茅は色づいたところだが,吉隠の浪柴の野の黄葉はもう散っているころだろう>>
浅茅は背の低く,疎(まば)らに生えたチガヤのことで,秋が深まると緑色から先端が赤く変色します。作者の自宅(恐らく平城京近辺)ではチガヤが色づいたので,山の方(吉隠の浪紫の野:今の桜井市長谷寺よりさらに奥)では,もう紅葉が散り始めているのだろうなと作者は想像しているのでしょう。
私は,北海道大沼公園,青森県十和田湖,奥入瀬渓谷,八甲田山,秋田県八幡平などで今頃紅葉が始まっているのかなあと想いを馳せます。いずれの場所も紅葉シーズンに過去訪れており,私にとってはその美しさが忘れられないのです。
対語シリーズ「表・面と裏」に続く。
「深し」は現代用語では「深い」ですが,「深(い)」を使った今使われている言葉の例(音読みで使っているのは除く)をいくつかあげてみます。
「味わい深い」「意義深い」「疑い深い」「海が深い」「遠慮深い」「奥が深い」「感慨深い」「興味深い」「毛深い」「草深い」「親しみ深い」「嫉妬深い」「慈悲深い」「執念深い」「思慮深い」「慎み深い」「罪深い」「情け深い」「根深い」「懐が深い」「森が深い」「用心深い」「欲深い」
「深川(地名)」「深草(地名)」「深沓」「深酒」「深沢(姓)」「深染め」「深田(姓)」「深爪」「深手」「深情け」「深鍋」「深野」「深場」「深深」「深縁」「深み」「深緑(色)」「深紫(色)」「深谷(地名)」「深読み」「目深」
いっぽう「浅し」の現代用語「浅い」を同様に今使われている言葉の例をあげてみます。
「色が浅い」「海が浅い」「考えが浅い」「関係が浅い」「経験が浅い」「底が浅い」「知恵が浅い」「日が浅い」「読みが浅い」
「浅井(姓)」「浅瓜」「浅香(姓)」「浅川(地名)」「浅木」「浅黄(色)」「浅葱(色)」「浅草(地名)」「浅沓」「浅黒い」「浅事」「浅瀬」「浅田(姓)」「浅知恵」「浅葱(野菜)」「浅漬」「浅手」「浅鍋」「浅沼(姓)」「浅野(姓)」「浅場」「浅はか」「浅縹(色)」「浅間(地名)」「浅見(姓)」「浅緑(色)」「朝紫(色)」「浅蜊(貝)」「遠浅」
このように見てくると,深いと浅いはさまざまな対象に対して修飾していることがわかりますが,やはり深いの方が好イメージのように私は感じます。
<万葉集での「深し」と「浅し」>
さて,万葉集では,海や川の深い浅い,染め色の深い浅い,時が経つのが深い浅い,人の想いが深い浅いなどが出てきます。そのなかで,次のような染め色の濃淡を対照的に読んだ短歌をそれぞれ紹介します。
紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる(11-2624)
<くれなゐのこそめのころもいろふかく しみにしかばかわすれかねつる>
<< 紅で色濃く染めた衣のように心が色濃くしみたのが忘れられません>>
紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも(12-2966)
<くれなゐのうすそめころもあさらかにあひみしひとにこふるころかも>
<<紅で薄く染めた衣の色が薄いように少しだけだけど相見た女性に,今恋してしまったなあ>>
両方とも詠み人しらずの短歌で,紅(ベニバナ)で染めた衣の染め色の濃さ,薄さを序詞として異性を思う気持ちを読んでいると私は思います。
1首目は,深く紅に染めた衣のようにあの人が自分の心の中に色濃く入ってきたことが忘れられない。おそらく,相手とは今逢うことが叶わない状況だろうと私は想像します。
2首目は,薄く紅に染めた衣のように淡いつき合いだったあの人だが,しっかり恋してしまった。それぐらい魅力的な異性だったのだろうと私は感じます。
さて,次に1首の中に深しと浅しの両方が入っている短歌が万葉集に出てきます。
広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ(7-1381)
<ひろせがは そでつくばかりあさきをや こころふかめてわがおもへるらむ>
<<歩いて渡れるほど浅い広瀬川のようにあの人の私に対する心は浅いのに,心の底まで深く私はなぜこんなに思いつめているのだろう>>
これも川の浅さを片思いしている相手の自分に対する気持ちの薄さを比喩している詠み人しらずの短歌です。そして,その薄さとは正反対に自分はどれだけ深く相手を恋し慕っているかをこの短歌で訴え,自分自身を落ち着かせているのだろうと私は思います。
ところで,秋も徐々に深まってきました。近所はまだまだ秋を感じさせるのはススキ位ですが,北海道や東北,関東甲信越では山岳地帯で紅葉が始まったという情報が入るようになりました。
そんな情景を詠った短歌を紹介します。
我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし(10-2190)
<わがかどのあさぢいろづく よなばりのなみしばののの もみちちるらし>
<<我が門の浅茅は色づいたところだが,吉隠の浪柴の野の黄葉はもう散っているころだろう>>
浅茅は背の低く,疎(まば)らに生えたチガヤのことで,秋が深まると緑色から先端が赤く変色します。作者の自宅(恐らく平城京近辺)ではチガヤが色づいたので,山の方(吉隠の浪紫の野:今の桜井市長谷寺よりさらに奥)では,もう紅葉が散り始めているのだろうなと作者は想像しているのでしょう。
私は,北海道大沼公園,青森県十和田湖,奥入瀬渓谷,八甲田山,秋田県八幡平などで今頃紅葉が始まっているのかなあと想いを馳せます。いずれの場所も紅葉シーズンに過去訪れており,私にとってはその美しさが忘れられないのです。
対語シリーズ「表・面と裏」に続く。
2011年10月9日日曜日
対語シリーズ「良しと悪(あ)し」‥指さし確認,○○ヨシ!
今回は,「良しと悪し(良いと悪い)」について万葉集を見ていきます。
<通貨論>
ところで,イギリスの財政家トーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」という法則(グレイシャムの法則)を提唱しました。
私はIT系技術者ですが大学では経済学を割と真面目に学びましたので,この程度のことは少し知っています。
今のEU(ヨーロッパ連合)の単一通過ユーロ(€)は,以前に比べて悪貨になりつつあります。すなわち,通貨の価値(信用)はその国の健全な財政によりなりたっているのでずが,EU加盟国ギリシャの国債がディフォルト(債務不履行)のリスクが高まり,そのリスクが現実のものになるとギリシャ国債を大量に保有する他のEU諸国の銀行が経営危機に陥る恐れがあり,ユーロの信用が揺らいでいます。
EU以外の国々の事業者は,価値が下がると予想されるユーロを売って(保持せず),円やドルを買おう(保持しよう)とします。その結果,ユーロはさらに安くなって市場に放出されます。
この悪循環を放置すると,次はEU以外の国々の財政も廻りまわって悪化させ,まさに「悪貨が良貨を駆逐する」状態になってしまうのです。
<万葉集の話を戻す>
経済評論家的な話はこのくらいにしましょう。万葉集で「良し」を見ますと「好し」「淑し」「吉」「よし」「宜(よろ)し」とされる場合もあります。
そんな「よし」を詠った万葉集でもっとも有名なのは次の大海人皇子が詠ったとされる短歌でしょう。
淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(1-27)
<よきひとのよしとよくみてよしといひし よしのよくみよよきひとよくみ>
<<昔の立派な人が素晴らしい所だと何度も見て,それでも素晴らしい所だと言ったというこの吉野をよく見ると良い。今の善良な人たちもこの地を何度も見てほしい>>
「よし」または「よく」が合わせい8回出てきます。大海人皇子(後の天武天皇)がどれほど吉野をこよなく愛していたことをこの短歌で示そうとしたのでしょうね。
それから「よし」は,次のように枕詞の最後に使われることがあります。
あさもよし‥紀または城に掛かる枕詞
ありねよし‥対馬に掛かる枕詞
あをによし‥奈良に掛かる枕詞
たまもよし‥讃岐に掛かる枕詞
ますげ(が)よし‥宗我に掛かる枕詞
これらは,ほとんど地名に掛かる枕詞です。たとえば「玉藻が良いという」讃岐の地というように,讃岐といえば「玉藻が良い」という決まり文句が当時あったのでしょう。
瀬戸内海に面し鳴門海峡にも近い讃岐産のワカメは品質が良く,京人の間でも評判だったのは間違いないと私は思います。
また,奈良といえば,青色や丹色(あか色)に綺麗に彩られた宮殿,社寺,邸宅,橋がたくさんあったため「青丹よし」が奈良の枕詞になったのだろうと私は思います。
あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(15-3602)
<あをによしならのみやこに たなびけるあまのしらくも みれどあかぬかも>
<<奈良の都にたなびく白い雲は見ていてもけっして見飽きないものでしよう>>
この短歌は天平8(736)年に遣新羅使の一人が詠んだものとされています。
白い雲がたなびいているのはどの地でも見られると思いますが,青色や丹色に彩られた宮殿や社寺の甍(いらか)の上をたなびく白い雲は,当時平城京以外では見られなかったと想像できます。
いっぽう「悪し」は,かなり偏った作者によって使われています。たとえば,中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)と交わした悲別(宅守が越前に流されたため)の短歌63首の中で4首に出てきます。
宅守が3首,その後娘子が1首で「悪し」を詠んでいます。
宅守は次のように越前へ行く道が「悪し(つらい)」と読んでいます。
愛しと我が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ(15-3729)
<うるはしとあがもふいもを おもひつつゆけばかもとな ゆきあしかるらむ>
<<恋しいとあなたのことを思いながら歩くからでしょうか,行きづらくて先に進まないのです>>
娘子は他国はもっと住みづらい「住み悪し」というので早く帰ってきてほしいと伝えます。
他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3748)
<ひとくにはすみあしとぞいふ すむやけくはやかへりませ こひしなぬとに>
<<異国は住みづらいといいます。すみやかに早く帰って来て下さいませ。私が恋い死にしてしまわないうちに>>
このように万葉時代の「悪し」は主につらいこと,我慢しなければならないことを指していることが多いようです。
勧善懲悪時代劇で悪代官が「○○屋,お主もなかなかの悪者よのう。」「いえいえ,代官様には到底及びませんでございやす。」といった悪者を指して「悪し」とはいっていないように私は思います。
天の川 「たびとはん。あんたさんもいいかげん悪ちゃうか?」
いえいえ,天の川様には到底...。おっと,何を言わせるのだよ天の川君。私は顔と頭は悪いが,善良な一市民だからね。
対語シリーズ「深しと浅し」に続く。
<通貨論>
ところで,イギリスの財政家トーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」という法則(グレイシャムの法則)を提唱しました。
私はIT系技術者ですが大学では経済学を割と真面目に学びましたので,この程度のことは少し知っています。
今のEU(ヨーロッパ連合)の単一通過ユーロ(€)は,以前に比べて悪貨になりつつあります。すなわち,通貨の価値(信用)はその国の健全な財政によりなりたっているのでずが,EU加盟国ギリシャの国債がディフォルト(債務不履行)のリスクが高まり,そのリスクが現実のものになるとギリシャ国債を大量に保有する他のEU諸国の銀行が経営危機に陥る恐れがあり,ユーロの信用が揺らいでいます。
EU以外の国々の事業者は,価値が下がると予想されるユーロを売って(保持せず),円やドルを買おう(保持しよう)とします。その結果,ユーロはさらに安くなって市場に放出されます。
この悪循環を放置すると,次はEU以外の国々の財政も廻りまわって悪化させ,まさに「悪貨が良貨を駆逐する」状態になってしまうのです。
<万葉集の話を戻す>
経済評論家的な話はこのくらいにしましょう。万葉集で「良し」を見ますと「好し」「淑し」「吉」「よし」「宜(よろ)し」とされる場合もあります。
そんな「よし」を詠った万葉集でもっとも有名なのは次の大海人皇子が詠ったとされる短歌でしょう。
淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(1-27)
<よきひとのよしとよくみてよしといひし よしのよくみよよきひとよくみ>
<<昔の立派な人が素晴らしい所だと何度も見て,それでも素晴らしい所だと言ったというこの吉野をよく見ると良い。今の善良な人たちもこの地を何度も見てほしい>>
「よし」または「よく」が合わせい8回出てきます。大海人皇子(後の天武天皇)がどれほど吉野をこよなく愛していたことをこの短歌で示そうとしたのでしょうね。
それから「よし」は,次のように枕詞の最後に使われることがあります。
あさもよし‥紀または城に掛かる枕詞
ありねよし‥対馬に掛かる枕詞
あをによし‥奈良に掛かる枕詞
たまもよし‥讃岐に掛かる枕詞
ますげ(が)よし‥宗我に掛かる枕詞
これらは,ほとんど地名に掛かる枕詞です。たとえば「玉藻が良いという」讃岐の地というように,讃岐といえば「玉藻が良い」という決まり文句が当時あったのでしょう。
瀬戸内海に面し鳴門海峡にも近い讃岐産のワカメは品質が良く,京人の間でも評判だったのは間違いないと私は思います。
また,奈良といえば,青色や丹色(あか色)に綺麗に彩られた宮殿,社寺,邸宅,橋がたくさんあったため「青丹よし」が奈良の枕詞になったのだろうと私は思います。
あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(15-3602)
<あをによしならのみやこに たなびけるあまのしらくも みれどあかぬかも>
<<奈良の都にたなびく白い雲は見ていてもけっして見飽きないものでしよう>>
この短歌は天平8(736)年に遣新羅使の一人が詠んだものとされています。
白い雲がたなびいているのはどの地でも見られると思いますが,青色や丹色に彩られた宮殿や社寺の甍(いらか)の上をたなびく白い雲は,当時平城京以外では見られなかったと想像できます。
いっぽう「悪し」は,かなり偏った作者によって使われています。たとえば,中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)と交わした悲別(宅守が越前に流されたため)の短歌63首の中で4首に出てきます。
宅守が3首,その後娘子が1首で「悪し」を詠んでいます。
宅守は次のように越前へ行く道が「悪し(つらい)」と読んでいます。
愛しと我が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ(15-3729)
<うるはしとあがもふいもを おもひつつゆけばかもとな ゆきあしかるらむ>
<<恋しいとあなたのことを思いながら歩くからでしょうか,行きづらくて先に進まないのです>>
娘子は他国はもっと住みづらい「住み悪し」というので早く帰ってきてほしいと伝えます。
他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3748)
<ひとくにはすみあしとぞいふ すむやけくはやかへりませ こひしなぬとに>
<<異国は住みづらいといいます。すみやかに早く帰って来て下さいませ。私が恋い死にしてしまわないうちに>>
このように万葉時代の「悪し」は主につらいこと,我慢しなければならないことを指していることが多いようです。
勧善懲悪時代劇で悪代官が「○○屋,お主もなかなかの悪者よのう。」「いえいえ,代官様には到底及びませんでございやす。」といった悪者を指して「悪し」とはいっていないように私は思います。
天の川 「たびとはん。あんたさんもいいかげん悪ちゃうか?」
いえいえ,天の川様には到底...。おっと,何を言わせるのだよ天の川君。私は顔と頭は悪いが,善良な一市民だからね。
対語シリーズ「深しと浅し」に続く。
2011年10月1日土曜日
対語シリーズ「老と若」‥今の若者は高齢者から「昔はね..」という話を聞きたがらない?
人にとって老いは避けられないものです。しかし,年を重ねても少しでも若くありたい,若く見せたいという気持ちを持つ人も少なくないようです。そのためか,最近ではアンチエイジング(抗老化医学)という考え方によって,年を重ねるごとに進む老化を防ぐ治療,施術,トレーニング,生活習慣が注目されていると聞きます。
さて,1300年前の万葉時代,「老と若」どう考えられていたのでしょうか。万葉集を見ていきます。
いにしへゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬(6-1034)
<いにしへゆひとのいひける おいひとのをつといふみづぞ なにおふたきのせ>
<<昔から言い伝えられてきた、老人が若返ると言われている水ですよ、この滝は>>
この短歌は天平10(740)年10月に大伴東人(おほとものあづまと)という人物が,大伴家持と一緒に今の岐阜県養老町にある「養老の滝」を訪れたとき詠んだとされています。
「変若つ」は「をつ」と読み,若返るという意味です。
この水を飲むか浴びると老人が若返ると伝えられている養老の滝に来て,そのままを短歌にしています。
これは,一種の観光案内,または紀行文的な短歌で,京(みやこ)にいる老いを感じる人やもっと若くいたいと思う人に勧める気持ちが込められているように思います。もしかしたら,大伴氏はそういった旅行者を警護やガイドする仕事を請け負っており,旅行者を増やすことが氏族の繁栄につながっていたのかも知れませんね。
いずれにしても,このような短歌が詠まれたのは万葉人に若返りたいという欲求が強くあったことは間違いないと私は思います。
「落水」や「落合」という姓がありますが,この元は「変若水」や「変若合」だったのではないかと私は推理します。「変若合」の方は「生まれ変わってまた逢いましょう」というロマンチックな名前だということになりますね。
続いて「若」を詠んだ短歌を紹介しましたょう。
はねかづら今する妹をうら若みいざ率川の音のさやけさ(7-1112)
<はねかづらいまするいもをうらわかみ いざいさかはのおとのさやけさ>
<<はね鬘を着けた今夜初めて自分と床を共にする彼女はうら若いので「いざ!」と心がはやるが,率川(いさかわ)の音はさわやかに聞こえているなあ>>
さあ,いよいよ彼女にとっての初夜なのです。彼女はまだ若い。作者は早く交わりたいが率川(今の近鉄奈良駅近くの場所らしい)のさわやかな音が聞こえ,心地よい瞬間を詠っているように私は感じます。
作者はおそらく今まで妻問い経験を数多くしている男性なのでしょうが,彼女の家に行くのは初めてだったのかもしれません。
傍に流れる川の音とうら若い彼女の小息の繰り返しとの相乗が作者にこの歌を詠ませたのでしょうか。
このまま書き続けると成人向けになりそうなので,もう一方の「老」について詠んだ短歌を次に紹介します
あづきなく何のたはこと今さらに童言する老人にして(11-2582)
<あづきなくなにのたはこと いまさらにわらはごとする おいひとにして>
<<ダメだなあ。何をたわ言を言っているのだ,私は。あいかわらず子供じみたことを言っている。良い年をして>>
この詠み人しらずの短歌,何か自分のことを詠っているように感じてしまいますね。ただ,万葉時代での「老人」のイメージは単にお年寄りというより,人生を十分知りつくした大人というイメージを受け取ることができます。
<現代社会での老人の見方>
いっぽう,現代社会では新しいモノや新しい生き方が次々と現れ,昔からの経験を長く積んだことが必ずしも最新の世の中でうまく生きて行けるとは限らないケースもあるように思います。
そのため,人生経験豊かな老人に対する尊敬の念は昔より薄れてしまい,世代間のコミュニケーションが明らかに減ってきているように見えます。
老人側も新しい時代の変化に追従できず,自分の世界に閉じこもってしまう人が大半であるようにも見えます。
そして,さらに深刻なことには,年齢が若い人たちの中にも時代の変化に適応できず,今の社会からあまり必要とされない(例:就職先がない)状況が深刻になっているのかもしれません。
<産業革命と情報化革命>
18世紀から19世紀にかけて起こったいわゆる産業革命でも,それまで手工業で働いていた熟練工(老若男女)の多くが職を失ったと記録されています。
そして,産業で働く人達にも,資本(経営者)側と労働者側との格差(搾取)が労働者の不満を爆発させ,ロシアなどで社会主義(プロレタリアート)革命が起こったと歴史書に書かれています。
現在のいわゆる情報化革命でも,情報化を利用し,低コストで株主に利益を還元することを第一に考えている経営側とその隙間で低賃金で長時間労働者を強いられる労働者の発生,情報や資金(富)を持つものと持たないものの格差が国を越えて拡大する姿は,まさに産業革命の時と同様ではないかと私は見ています。
そういった状況が拡大すれば,第2次世界大戦の前に起こった民族や宗教に関する超保守主義や極左のような思想が台頭し,世界の安全がさらに脅かされる事態になるのではないかと私は心配しています。
<歴史に学べ>
もちろん,産業革命は悪いことばかりではありません。富を得た人達が都市開発,芸術,文学,教育,研究などにも資金を使い,それまでに多くはいなかった公務員,運輸関係者,芸術家,文学者,教育者,研究者などいった職業の規模を,それまでとは格段に増大し,中間層という消費が旺盛な人達を作り,経済が発展したのですから。
情報化革命でも,歴史から学び,社会を豊かにする新たな職業の必要性を認識し,その職業の規模を拡大させ,適用できる人材の育成努力を社会的コンセンサスのもとで実施していくことが,長期的に世界の未来を明るいものにする要素だと私は考えたいのです。
対語シリーズ「良しと悪し」に続く。
さて,1300年前の万葉時代,「老と若」どう考えられていたのでしょうか。万葉集を見ていきます。
いにしへゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬(6-1034)
<いにしへゆひとのいひける おいひとのをつといふみづぞ なにおふたきのせ>
<<昔から言い伝えられてきた、老人が若返ると言われている水ですよ、この滝は>>
この短歌は天平10(740)年10月に大伴東人(おほとものあづまと)という人物が,大伴家持と一緒に今の岐阜県養老町にある「養老の滝」を訪れたとき詠んだとされています。
「変若つ」は「をつ」と読み,若返るという意味です。
この水を飲むか浴びると老人が若返ると伝えられている養老の滝に来て,そのままを短歌にしています。
これは,一種の観光案内,または紀行文的な短歌で,京(みやこ)にいる老いを感じる人やもっと若くいたいと思う人に勧める気持ちが込められているように思います。もしかしたら,大伴氏はそういった旅行者を警護やガイドする仕事を請け負っており,旅行者を増やすことが氏族の繁栄につながっていたのかも知れませんね。
いずれにしても,このような短歌が詠まれたのは万葉人に若返りたいという欲求が強くあったことは間違いないと私は思います。
「落水」や「落合」という姓がありますが,この元は「変若水」や「変若合」だったのではないかと私は推理します。「変若合」の方は「生まれ変わってまた逢いましょう」というロマンチックな名前だということになりますね。
続いて「若」を詠んだ短歌を紹介しましたょう。
はねかづら今する妹をうら若みいざ率川の音のさやけさ(7-1112)
<はねかづらいまするいもをうらわかみ いざいさかはのおとのさやけさ>
<<はね鬘を着けた今夜初めて自分と床を共にする彼女はうら若いので「いざ!」と心がはやるが,率川(いさかわ)の音はさわやかに聞こえているなあ>>
さあ,いよいよ彼女にとっての初夜なのです。彼女はまだ若い。作者は早く交わりたいが率川(今の近鉄奈良駅近くの場所らしい)のさわやかな音が聞こえ,心地よい瞬間を詠っているように私は感じます。
作者はおそらく今まで妻問い経験を数多くしている男性なのでしょうが,彼女の家に行くのは初めてだったのかもしれません。
傍に流れる川の音とうら若い彼女の小息の繰り返しとの相乗が作者にこの歌を詠ませたのでしょうか。
このまま書き続けると成人向けになりそうなので,もう一方の「老」について詠んだ短歌を次に紹介します
あづきなく何のたはこと今さらに童言する老人にして(11-2582)
<あづきなくなにのたはこと いまさらにわらはごとする おいひとにして>
<<ダメだなあ。何をたわ言を言っているのだ,私は。あいかわらず子供じみたことを言っている。良い年をして>>
この詠み人しらずの短歌,何か自分のことを詠っているように感じてしまいますね。ただ,万葉時代での「老人」のイメージは単にお年寄りというより,人生を十分知りつくした大人というイメージを受け取ることができます。
<現代社会での老人の見方>
いっぽう,現代社会では新しいモノや新しい生き方が次々と現れ,昔からの経験を長く積んだことが必ずしも最新の世の中でうまく生きて行けるとは限らないケースもあるように思います。
そのため,人生経験豊かな老人に対する尊敬の念は昔より薄れてしまい,世代間のコミュニケーションが明らかに減ってきているように見えます。
老人側も新しい時代の変化に追従できず,自分の世界に閉じこもってしまう人が大半であるようにも見えます。
そして,さらに深刻なことには,年齢が若い人たちの中にも時代の変化に適応できず,今の社会からあまり必要とされない(例:就職先がない)状況が深刻になっているのかもしれません。
<産業革命と情報化革命>
18世紀から19世紀にかけて起こったいわゆる産業革命でも,それまで手工業で働いていた熟練工(老若男女)の多くが職を失ったと記録されています。
そして,産業で働く人達にも,資本(経営者)側と労働者側との格差(搾取)が労働者の不満を爆発させ,ロシアなどで社会主義(プロレタリアート)革命が起こったと歴史書に書かれています。
現在のいわゆる情報化革命でも,情報化を利用し,低コストで株主に利益を還元することを第一に考えている経営側とその隙間で低賃金で長時間労働者を強いられる労働者の発生,情報や資金(富)を持つものと持たないものの格差が国を越えて拡大する姿は,まさに産業革命の時と同様ではないかと私は見ています。
そういった状況が拡大すれば,第2次世界大戦の前に起こった民族や宗教に関する超保守主義や極左のような思想が台頭し,世界の安全がさらに脅かされる事態になるのではないかと私は心配しています。
<歴史に学べ>
もちろん,産業革命は悪いことばかりではありません。富を得た人達が都市開発,芸術,文学,教育,研究などにも資金を使い,それまでに多くはいなかった公務員,運輸関係者,芸術家,文学者,教育者,研究者などいった職業の規模を,それまでとは格段に増大し,中間層という消費が旺盛な人達を作り,経済が発展したのですから。
情報化革命でも,歴史から学び,社会を豊かにする新たな職業の必要性を認識し,その職業の規模を拡大させ,適用できる人材の育成努力を社会的コンセンサスのもとで実施していくことが,長期的に世界の未来を明るいものにする要素だと私は考えたいのです。
対語シリーズ「良しと悪し」に続く。
2011年9月25日日曜日
対語シリーズ「朝と夕」(2)‥朝は悲しい別れ。夕方はまた逢えるか占う
万葉集で「朝」という漢字が単独であてはめられることがありますが,その仮名読みは「あした」です。
矢釣山木立も見えず降りまがふ雪に騒ける朝楽しも(3-262)
<やつりやま こだちもみえずふりまがふ ゆきにさわけるあしたたのしも>
<<矢釣山の木立も見えないほど降り乱れる雪の朝は皆でこうして集まり騒げて楽しいことですね>>
この短歌は柿本人麻呂が新田部皇子(にひたべのみこ)に献上した長歌の反歌です。八釣山の八釣は,現在の明日香村にある同じ地名の場所(甘樫丘の東側)だろうとのことで,藤原京に仕える皇族の邸宅があったところのようです。
当時でも飛鳥地方でひと冬に大雪が降ることは,日本海側ではないため,数回ある程度だったと思われます。積もるような大雪となった朝は宮廷は休みとなり,雪が止んだ後,家族や近所の人々と庭の木々や家の屋根に積もった美しい光景を楽しもうと考えたのかもしれません。特に,子供にとっては雪の上を走りまわったり,雪の家(かまくら)を作ったりして,日頃とは違う遊びができたのでしょう。
「あさ」と読む場合は,次のような熟語で使われているときです。
「朝寝<あさい>」「朝影<<朝,鏡や水に映った姿や景色>>」「朝霞」「朝風」「朝川<<朝渡る川>>」「朝顔<<桔梗のことか?>>」「朝烏<<朝鳴くカラス>>」「朝狩<<朝行う狩>>」「朝霧」「朝曇り」「朝明<あさけ><<明け方>>」「朝漕ぎ<<朝,舟を漕ぐこと>>」「朝東風<<朝に吹く春風>>」「朝言<<朝一番に発せられる言葉>>」「朝越ゆ<<朝に山や峠を越えて行く>>」「朝去らず<<毎朝欠かさず>>」「朝月夜<あさつくよ><<有明の月>>」「朝露」「朝戸<あさと><<朝起きて開ける戸>>」「朝床<あさとこ><<朝まだ起きていないでいる寝床>>」「朝戸出<あさとで><<朝,戸を開けて出ること⇒一夜明けて女性のもとを去ること>>」「朝菜<<朝食のおかずの野菜,海藻など>>」「朝な朝な<<毎朝>>」「朝凪ぎ<あさなぎ><<朝,海風と陸風が変わるため無風になる時間>>」「朝な夕な<あさなゆふな><<いつも>>」「朝に日に<あさにけに><<いつも>>」「朝寝髪<あさねがみ><<寝起きで乱れたままの髪>>」「朝羽振る<あさはふる><<朝,鳥が羽を振るように風や波が立つ形容>>」「朝日」「朝日影<<朝日の光>>」「朝開き<<朝の船出>>」「朝守り<<朝の宮門の守護>>」「朝宮<<朝の宮仕え>>」「朝行く<<朝出発する>>」「朝宵<あさよひ><<いつも>>」
この中から「朝戸出」を詠んだ旋頭歌を紹介しましょう。
朝戸出の君が足結を濡らす露原早く起き出でつつ我れも裳裾濡らさな(11-2357)
<あさとでのきみがあゆひをぬらすつゆはら はやくおきいでつつわれももすそぬらさな>
<<朝戸を出てゆくあなたの足結を濡らす露が降りた原。私も早く起きてそこに出てあなたと同じように裳の裾を濡らしましょう>>
妻問いを終えて帰る男性との別れを惜しむ妻(女性)の作です。妻問いでは女性は外まで出て見送ることはしません。しかし,妻は夫を恋慕う気持ちがおさまらず「早起きして一緒に外に出てお互いの足元を朝露で濡らせましょう」と詠んだ。こんな歌を贈られた男性は,またすぐ妻問いに来る気持ちになったに違いなかったと私は想像します。
さて,反対の今度は「夕」の漢字をあてる場合ですが,「夕」単独では「ゆふへ」の仮名読みが多く出てきます。
我が背子が宿なる萩の花咲かむ秋の夕は我れを偲はせ(20-4444)
<わがせこが やどなるはぎのはなさかむ あきのゆふへはわれをしのはせ>
<<あなた様の家の庭の萩(はぎ)の花が咲いた秋の夕にも私を偲んでください>>
この短歌は,天平勝寶7(755)年の5月,奈良の大伴家持の自宅で開かれた宴席で,参加者の大原今城(おほはらのいまき)が詠んだとさせれているものです。この前の短歌で,主人の家持が今城に対して,撫子(なでしこ)の初花を見ると貴殿(今城)のことが思い出されるでしょうと詠んだのです。そのお返しとして,撫子は大伴家の花,私は秋の夕方に地味に咲く萩の花を見たときに偲んでくだされば結構ですと詠んだと私は解釈します。
ところで,「夕(ゆふ)」を使った熟語も「朝」ほどではないですが,出てきます。
「夕占<ゆふうら,ゆふけ><<夕方に行う占い>>」「夕影<<夕方,物の影になるところ>>」「夕影草<<夕方の光に照らされている草>>」「夕かたまけて<<夕方になって>>」「夕川<<夕方渡る川>>」「夕狩<<夕方に行う狩>>」「夕霧」「夕越え<<夕方山や峠を越えること>>」「夕懲り<ゆふこり><<夕方になって,霜や雪が固まること>>」「夕去らず<<毎夕>>」「夕さる<<夕方になる>>」「夕潮<<夕方満ちてくる潮>>」「夕月」「夕月夜<ゆふづくよ><<夕方の月>>」「夕星<ゆふづつ><<宵の明星>>」「夕露」「夕凪」「夕波」「夕の守り<<夕方宮門の守護をすること>>」「夕羽振る<ゆうはふる><<上記「朝羽振る」参照>>」「夕宮<<夕方の御殿>>」「夕闇」
この中で「夕占」を詠んだ短歌を紹介しましょう。
夕占問ふ我が袖に置く白露を君に見せむと取れば消につつ(11-2686)
<ゆふけとふ わがそでにおくしらつゆを きみにみせむととればけにつつ>
<<夕方であなた様が逢いにに来てくださるのか占ってみました。わたしの袖に置いた白玉の露をあなた様に見せようとそっと何かに取っておけば消えないでしょうか>>
この短歌は,妻問いを待つ女性が露を自分の袖に振りかけて,その露が袖に吸い込まれて消えてしまわなければ逢えるという占いだったかも知れません。逢いたい一心で,何かの器に露を取って置けば,露は消えず,相手が来てくれて逢えるに違いないという願望が私には伝わってきます。
このように「朝と夕」を題材にした万葉集の和歌を見てきましたが,皆さんには万葉人の「朝と夕」の感じ方について少しでも伝わりましたでしょうか。
対語シリーズ「老と若」に続く。
矢釣山木立も見えず降りまがふ雪に騒ける朝楽しも(3-262)
<やつりやま こだちもみえずふりまがふ ゆきにさわけるあしたたのしも>
<<矢釣山の木立も見えないほど降り乱れる雪の朝は皆でこうして集まり騒げて楽しいことですね>>
この短歌は柿本人麻呂が新田部皇子(にひたべのみこ)に献上した長歌の反歌です。八釣山の八釣は,現在の明日香村にある同じ地名の場所(甘樫丘の東側)だろうとのことで,藤原京に仕える皇族の邸宅があったところのようです。
当時でも飛鳥地方でひと冬に大雪が降ることは,日本海側ではないため,数回ある程度だったと思われます。積もるような大雪となった朝は宮廷は休みとなり,雪が止んだ後,家族や近所の人々と庭の木々や家の屋根に積もった美しい光景を楽しもうと考えたのかもしれません。特に,子供にとっては雪の上を走りまわったり,雪の家(かまくら)を作ったりして,日頃とは違う遊びができたのでしょう。
「あさ」と読む場合は,次のような熟語で使われているときです。
「朝寝<あさい>」「朝影<<朝,鏡や水に映った姿や景色>>」「朝霞」「朝風」「朝川<<朝渡る川>>」「朝顔<<桔梗のことか?>>」「朝烏<<朝鳴くカラス>>」「朝狩<<朝行う狩>>」「朝霧」「朝曇り」「朝明<あさけ><<明け方>>」「朝漕ぎ<<朝,舟を漕ぐこと>>」「朝東風<<朝に吹く春風>>」「朝言<<朝一番に発せられる言葉>>」「朝越ゆ<<朝に山や峠を越えて行く>>」「朝去らず<<毎朝欠かさず>>」「朝月夜<あさつくよ><<有明の月>>」「朝露」「朝戸<あさと><<朝起きて開ける戸>>」「朝床<あさとこ><<朝まだ起きていないでいる寝床>>」「朝戸出<あさとで><<朝,戸を開けて出ること⇒一夜明けて女性のもとを去ること>>」「朝菜<<朝食のおかずの野菜,海藻など>>」「朝な朝な<<毎朝>>」「朝凪ぎ<あさなぎ><<朝,海風と陸風が変わるため無風になる時間>>」「朝な夕な<あさなゆふな><<いつも>>」「朝に日に<あさにけに><<いつも>>」「朝寝髪<あさねがみ><<寝起きで乱れたままの髪>>」「朝羽振る<あさはふる><<朝,鳥が羽を振るように風や波が立つ形容>>」「朝日」「朝日影<<朝日の光>>」「朝開き<<朝の船出>>」「朝守り<<朝の宮門の守護>>」「朝宮<<朝の宮仕え>>」「朝行く<<朝出発する>>」「朝宵<あさよひ><<いつも>>」
この中から「朝戸出」を詠んだ旋頭歌を紹介しましょう。
朝戸出の君が足結を濡らす露原早く起き出でつつ我れも裳裾濡らさな(11-2357)
<あさとでのきみがあゆひをぬらすつゆはら はやくおきいでつつわれももすそぬらさな>
<<朝戸を出てゆくあなたの足結を濡らす露が降りた原。私も早く起きてそこに出てあなたと同じように裳の裾を濡らしましょう>>
妻問いを終えて帰る男性との別れを惜しむ妻(女性)の作です。妻問いでは女性は外まで出て見送ることはしません。しかし,妻は夫を恋慕う気持ちがおさまらず「早起きして一緒に外に出てお互いの足元を朝露で濡らせましょう」と詠んだ。こんな歌を贈られた男性は,またすぐ妻問いに来る気持ちになったに違いなかったと私は想像します。
さて,反対の今度は「夕」の漢字をあてる場合ですが,「夕」単独では「ゆふへ」の仮名読みが多く出てきます。
我が背子が宿なる萩の花咲かむ秋の夕は我れを偲はせ(20-4444)
<わがせこが やどなるはぎのはなさかむ あきのゆふへはわれをしのはせ>
<<あなた様の家の庭の萩(はぎ)の花が咲いた秋の夕にも私を偲んでください>>
この短歌は,天平勝寶7(755)年の5月,奈良の大伴家持の自宅で開かれた宴席で,参加者の大原今城(おほはらのいまき)が詠んだとさせれているものです。この前の短歌で,主人の家持が今城に対して,撫子(なでしこ)の初花を見ると貴殿(今城)のことが思い出されるでしょうと詠んだのです。そのお返しとして,撫子は大伴家の花,私は秋の夕方に地味に咲く萩の花を見たときに偲んでくだされば結構ですと詠んだと私は解釈します。
ところで,「夕(ゆふ)」を使った熟語も「朝」ほどではないですが,出てきます。
「夕占<ゆふうら,ゆふけ><<夕方に行う占い>>」「夕影<<夕方,物の影になるところ>>」「夕影草<<夕方の光に照らされている草>>」「夕かたまけて<<夕方になって>>」「夕川<<夕方渡る川>>」「夕狩<<夕方に行う狩>>」「夕霧」「夕越え<<夕方山や峠を越えること>>」「夕懲り<ゆふこり><<夕方になって,霜や雪が固まること>>」「夕去らず<<毎夕>>」「夕さる<<夕方になる>>」「夕潮<<夕方満ちてくる潮>>」「夕月」「夕月夜<ゆふづくよ><<夕方の月>>」「夕星<ゆふづつ><<宵の明星>>」「夕露」「夕凪」「夕波」「夕の守り<<夕方宮門の守護をすること>>」「夕羽振る<ゆうはふる><<上記「朝羽振る」参照>>」「夕宮<<夕方の御殿>>」「夕闇」
この中で「夕占」を詠んだ短歌を紹介しましょう。
夕占問ふ我が袖に置く白露を君に見せむと取れば消につつ(11-2686)
<ゆふけとふ わがそでにおくしらつゆを きみにみせむととればけにつつ>
<<夕方であなた様が逢いにに来てくださるのか占ってみました。わたしの袖に置いた白玉の露をあなた様に見せようとそっと何かに取っておけば消えないでしょうか>>
この短歌は,妻問いを待つ女性が露を自分の袖に振りかけて,その露が袖に吸い込まれて消えてしまわなければ逢えるという占いだったかも知れません。逢いたい一心で,何かの器に露を取って置けば,露は消えず,相手が来てくれて逢えるに違いないという願望が私には伝わってきます。
このように「朝と夕」を題材にした万葉集の和歌を見てきましたが,皆さんには万葉人の「朝と夕」の感じ方について少しでも伝わりましたでしょうか。
対語シリーズ「老と若」に続く。
2011年9月19日月曜日
対語シリーズ「朝と夕」(1)‥朝家を出で夕戻る。それは「いつも」のこと?
<朝,早や起きが得意>
私は若い時から朝起きは強い方です。前夜ほとんど寝ていないときは目覚まし時計を掛けますが,そのときでもアラームが鳴る前に起きてしまうことの方がはるかに多く,またアラームが鳴っても起きられなかったことは一度もありません。
今は平日も休日もいつも朝5時起きが自分のペースですが,目ざまし時計のアラームは掛けなくても目が覚めます。
天の川 「それって,たびとはんがせんど(いっぱい)年取ってきただけやとちゃうんか? それにしても,お彼岸ももうすぐやちゅうのにいつまでも暑いな~。」
やれやれ,ここしばらく夏バテで静かにしてくれて助かったのについに出てきたな。私とは逆で寝るのが趣味な天の川君にはもう少し夏バテ状態で居てもらいましょう。
私は朝という時間が1日の中で大きな割合を持ちます。5時に起きるということは年の半分は暗い内に起きることを意味します。
朝だんだん明るくなっていく時間が好きです。季節によって,夜明け前後で鳥,蝉,虫,猫の鳴き声の聞こえ方に変化が感じられます。そういった落ち着いた時間を過ごした後,朝風呂かシャワーを浴び,朝食を取り,平日はいつも6時半には自宅を出て会社に向かいます(会社に7時半に着き,仕事開始)。
いっぽう夕方ですが,ITの仕事は恒常的に忙しく定時で会社を退出することはまれで,残念ながら仕事をしている内に夕方を過ぎ,夜になってしまいます。ただ,職場は周りの建物よりも高い階にあり,季節によって夕陽が沈むときの明るさの変化を感じたり,綺麗な夕焼けが見えることもあります。
朝方と夕方は私にとって,1日の変わり目を強く意識させる時間帯ですが,私の知人にはまったく朝方と夕方の時間帯に興味をまったく持たない人も多くいます。
皆さんはいかがでしょうか。
<万葉時代の朝と夕>
さて,万葉時代は今のように昼間を思わせる照明などなく,暗くなってできる作業が今よりもはるかに少なかったため,朝と夕の時間帯を今よりさらに強く感じていいたのではないかと私は思います。
その証拠に「朝」を含む万葉集の和歌の数は何と200首以上あります。また,「夕」を含んだものは160首以上もあります。その中で1首中に「朝」「夕」を両方を詠み込んだ和歌は70首近くもあります。そして,その70首近くの内で「朝夕」という言葉を含む和歌は15首にのぼります。ただし,「あさゆう」という読みはされていなかったようで「あさよひ」または「あしたゆふへ」と詠っていたようです。
あまりにも数が多いので「朝と夕」は2回に分けてお送りします。まず,「朝夕」を詠んだ15首の中で1首を見て行きましょう。
魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに(15-3767)
<たましひは あしたゆふへにたまふれど あがむねいたしこひのしげきに>
<<あなたの魂はいつも送って頂いていますが,貴方自身ではないので私の胸は切なくて苦しく,恋しさが募るばかりです>>
この短歌は狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)が越前の国に配流されることになった夫である中臣宅守(なかとみのやかもり)に贈った短歌の1首です。
「朝夕(あしたゆうへ)」は「いつも」という意味です。朝から夕方までが当時は1日のほぼすべてだったので,こういう意味に使われていたのでしょう。
中臣宅守は配流後数年で赦免され京に戻ってきた可能性があるようですが,その後の二人の和歌は残されていません。やはり恋の歌は悲恋モノが人の心を打つのでしょうか。
次に「朝」と「夕」を両方詠んだ歌を見て行きましょう。
伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして(11-2798)
<いせのあまのあさなゆふなに かづくといふ あはびのかひの かたもひにして>
<<伊勢の漁師が朝から夕方まで潜って取るというアワビの貝殻のように片思いをしています>>
私が小学生のときの修学旅行が京都から1泊2日の伊勢旅行でした。そのとき,伊勢の海女が白装束で潜って海中のものを取ってくる実演を見学したのを覚えています。
当時,万葉時代から伊勢ではアワビを獲ることが行われていたとのガイドの説明があったかどうかは,若い(といっても私より年上)海女の海水に濡れた姿に見とれていたせいか残念ながら記憶にありません。
天の川 「しかし,たびとはん。結構マセた子やったんやな~。」
天の川君! うるさいぞ!
今はこの詠み人しらずの短歌によって万葉時代では伊勢産アワビ(身の干したアワビや美しい貝殻の加工品)というプランドを多くの人が知っていたことが私には想像できます。
さて,次は植物を対象として「朝」と「夕」を詠んだ短歌を紹介しましょう。
朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ(10-2104)
<あさがほは あさつゆおひてさくといへど ゆふかげにこそさきまさりけれ>
<<世間では朝顔は朝露を付けて美しく咲くっていうが,夕方の光の陰影にもっと映えて咲くと私は思うんだ>>
この詠み人しらずの短歌から万葉集で詠まれているアサガオは現代おなじみのアサガオではなく(アサガオは夕方に萎む),別の花だという説が有力のようです。
ただ,この花は朝に朝露を付けた状態で咲いているのが非常に美しいと評判だったのでしょう。でも,この短歌の作者は朝露は消えているが夕方日光が低い位置から差す時の陰影を感じながら見るのもずっと良いよと訴えたかったのかもしれません。
このような歌を詠える作者は,朝と夕の雰囲気の違いをこまやかに意識することができる人だったと言えそうです。
次回は,「朝」のみ,「夕」のみを詠んだ和歌を見て行くことにしましょう。
対語シリーズ「朝と夕」(2)に続く。
私は若い時から朝起きは強い方です。前夜ほとんど寝ていないときは目覚まし時計を掛けますが,そのときでもアラームが鳴る前に起きてしまうことの方がはるかに多く,またアラームが鳴っても起きられなかったことは一度もありません。
今は平日も休日もいつも朝5時起きが自分のペースですが,目ざまし時計のアラームは掛けなくても目が覚めます。
天の川 「それって,たびとはんがせんど(いっぱい)年取ってきただけやとちゃうんか? それにしても,お彼岸ももうすぐやちゅうのにいつまでも暑いな~。」
やれやれ,ここしばらく夏バテで静かにしてくれて助かったのについに出てきたな。私とは逆で寝るのが趣味な天の川君にはもう少し夏バテ状態で居てもらいましょう。
私は朝という時間が1日の中で大きな割合を持ちます。5時に起きるということは年の半分は暗い内に起きることを意味します。
朝だんだん明るくなっていく時間が好きです。季節によって,夜明け前後で鳥,蝉,虫,猫の鳴き声の聞こえ方に変化が感じられます。そういった落ち着いた時間を過ごした後,朝風呂かシャワーを浴び,朝食を取り,平日はいつも6時半には自宅を出て会社に向かいます(会社に7時半に着き,仕事開始)。
いっぽう夕方ですが,ITの仕事は恒常的に忙しく定時で会社を退出することはまれで,残念ながら仕事をしている内に夕方を過ぎ,夜になってしまいます。ただ,職場は周りの建物よりも高い階にあり,季節によって夕陽が沈むときの明るさの変化を感じたり,綺麗な夕焼けが見えることもあります。
朝方と夕方は私にとって,1日の変わり目を強く意識させる時間帯ですが,私の知人にはまったく朝方と夕方の時間帯に興味をまったく持たない人も多くいます。
皆さんはいかがでしょうか。
<万葉時代の朝と夕>
さて,万葉時代は今のように昼間を思わせる照明などなく,暗くなってできる作業が今よりもはるかに少なかったため,朝と夕の時間帯を今よりさらに強く感じていいたのではないかと私は思います。
その証拠に「朝」を含む万葉集の和歌の数は何と200首以上あります。また,「夕」を含んだものは160首以上もあります。その中で1首中に「朝」「夕」を両方を詠み込んだ和歌は70首近くもあります。そして,その70首近くの内で「朝夕」という言葉を含む和歌は15首にのぼります。ただし,「あさゆう」という読みはされていなかったようで「あさよひ」または「あしたゆふへ」と詠っていたようです。
あまりにも数が多いので「朝と夕」は2回に分けてお送りします。まず,「朝夕」を詠んだ15首の中で1首を見て行きましょう。
魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに(15-3767)
<たましひは あしたゆふへにたまふれど あがむねいたしこひのしげきに>
<<あなたの魂はいつも送って頂いていますが,貴方自身ではないので私の胸は切なくて苦しく,恋しさが募るばかりです>>
この短歌は狭野茅上娘子(さののちがみのをとめ)が越前の国に配流されることになった夫である中臣宅守(なかとみのやかもり)に贈った短歌の1首です。
「朝夕(あしたゆうへ)」は「いつも」という意味です。朝から夕方までが当時は1日のほぼすべてだったので,こういう意味に使われていたのでしょう。
中臣宅守は配流後数年で赦免され京に戻ってきた可能性があるようですが,その後の二人の和歌は残されていません。やはり恋の歌は悲恋モノが人の心を打つのでしょうか。
次に「朝」と「夕」を両方詠んだ歌を見て行きましょう。
伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして(11-2798)
<いせのあまのあさなゆふなに かづくといふ あはびのかひの かたもひにして>
<<伊勢の漁師が朝から夕方まで潜って取るというアワビの貝殻のように片思いをしています>>
私が小学生のときの修学旅行が京都から1泊2日の伊勢旅行でした。そのとき,伊勢の海女が白装束で潜って海中のものを取ってくる実演を見学したのを覚えています。
当時,万葉時代から伊勢ではアワビを獲ることが行われていたとのガイドの説明があったかどうかは,若い(といっても私より年上)海女の海水に濡れた姿に見とれていたせいか残念ながら記憶にありません。
天の川 「しかし,たびとはん。結構マセた子やったんやな~。」
天の川君! うるさいぞ!
今はこの詠み人しらずの短歌によって万葉時代では伊勢産アワビ(身の干したアワビや美しい貝殻の加工品)というプランドを多くの人が知っていたことが私には想像できます。
さて,次は植物を対象として「朝」と「夕」を詠んだ短歌を紹介しましょう。
朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ(10-2104)
<あさがほは あさつゆおひてさくといへど ゆふかげにこそさきまさりけれ>
<<世間では朝顔は朝露を付けて美しく咲くっていうが,夕方の光の陰影にもっと映えて咲くと私は思うんだ>>
この詠み人しらずの短歌から万葉集で詠まれているアサガオは現代おなじみのアサガオではなく(アサガオは夕方に萎む),別の花だという説が有力のようです。
ただ,この花は朝に朝露を付けた状態で咲いているのが非常に美しいと評判だったのでしょう。でも,この短歌の作者は朝露は消えているが夕方日光が低い位置から差す時の陰影を感じながら見るのもずっと良いよと訴えたかったのかもしれません。
このような歌を詠える作者は,朝と夕の雰囲気の違いをこまやかに意識することができる人だったと言えそうです。
次回は,「朝」のみ,「夕」のみを詠んだ和歌を見て行くことにしましょう。
対語シリーズ「朝と夕」(2)に続く。
2011年9月14日水曜日
対語シリーズ「夢と現(うつつ)」‥直(じか)に逢えないなら夢で逢いましょう
万葉集で,寝ている時に見る夢について,約100首詠われています。
その多くが恋人が夢に出てきたり,恋人に夢で逢えたりすることを詠っています。
本当は直に逢いたい。でも,それが叶わないから夢で逢えたらいいなあ。また,夢で逢えたけれど心は苦しいままだなどと辛い恋の歌が多いようです。
起きている(覚めている)時を万葉時代は「現(うつつ)」と呼んでいました。そして,寝ている時の「夢」と起きている時の「現」の対語をいっしょに詠んだ和歌が万葉集には17首も出てきます。
現には逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ(5-807)
<うつつには あふよしもなし ぬばたまの よるのいめにを つぎてみえこそ>
<<現実には逢うのは無理だってわかってるの。だったらせめて私の夢に出てきてよお願いだから毎晩夢に出てきて>>
万葉時代は新しい階級制度,さまざまな格差,新しい文化の流行,都会的風習などが広がっていこうとした時代だったのではないかと私は想像します。
さまざまな出会い,ふれあう機会が増えてきたのかもしれません。そんな時代に男女は恋をし,その恋がさまざまな障害(噂,告げ口,妨害,非難。家柄など)によって思うようにならない苦しさを味わうようになったのかもしれません。
結果として,万葉集に現れる恋の歌の多くが恋の苦しさを表現するものになったのは,そのような時代背景があったためかと私は思うのです。
そして,「現(うつつ)」でうまくいかない苦しさを「夢」で癒そうとしたのが,まさにこの短歌だと私は感じます。
次は「現」が使われた成句を詠んだ詠み人しらずの短歌を紹介します。
玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ(12-3211)
<たまのをの うつしこころや やそかかけ こぎでむふねに おくれてをらむ>
<<確かな覚めた心で数多くの楫(かじ)を装着して漕ぎ出ようとするあなたの船を残って見送る私です>>
「現し心」とは「夢見心」の反対で,しっかりと覚めた心でという意味です。
去っていく恋人を心の乱れを必死にコントロールしつつ,眺めている女性の心理がこの短歌から強く私には伝わってきます。
いっぽう,「夢」に対して強い願いを訴えたこれも詠み人しらずの短歌を紹介します。
ぬばたまの夜を長みかも我が背子が夢に夢にし見えかへるらむ(12-2890)
<ぬばたまの よをながみかも わがせこが いめにいめにし みえかへるらむ>
<<長い夜はねえ,僕の恋人は繰り返し繰り返し夢の中で逢いにくるのさ>>
この男性,強がっているようにも思えますが,夜一人になると彼女のことが頭から離れない様子が手に取るように分かりますね。
<小学校の頃の話>
ところで,私が小学生の頃NHKのテレビ番組「夢であいましょう」を家族と一緒に見ていました。夜遅い番組で,当時としては少し成人向けのウィットもあり,小学生の私には刺激が強かった部分もありました。
でも,梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」,ジェリー藤尾の「遠くに行きたい」,日本航空ジャンボジェット機墜落事故でその後亡くなった若き日の坂本九の「上を向いて歩こう」など,後のスタンダードナンバーになった歌。そして,黒柳徹子,永六輔,中村八大,三木のり平,谷幹一などの軽妙なおしゃべりやコントが心に残っています。
この番組が放送されると眠さも宿題も忘れて「現(うつつ)」で見ていた小学生の私がいたのです。番組で演奏される歌の歌詞の良さ,コントの巧さなどは,大人になってから日本語に対する興味を私に強く持たせる原動力になったのかも知れませんね。
対語シリーズ「朝と夕」に続く。
その多くが恋人が夢に出てきたり,恋人に夢で逢えたりすることを詠っています。
本当は直に逢いたい。でも,それが叶わないから夢で逢えたらいいなあ。また,夢で逢えたけれど心は苦しいままだなどと辛い恋の歌が多いようです。
起きている(覚めている)時を万葉時代は「現(うつつ)」と呼んでいました。そして,寝ている時の「夢」と起きている時の「現」の対語をいっしょに詠んだ和歌が万葉集には17首も出てきます。
現には逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ(5-807)
<うつつには あふよしもなし ぬばたまの よるのいめにを つぎてみえこそ>
<<現実には逢うのは無理だってわかってるの。だったらせめて私の夢に出てきてよお願いだから毎晩夢に出てきて>>
万葉時代は新しい階級制度,さまざまな格差,新しい文化の流行,都会的風習などが広がっていこうとした時代だったのではないかと私は想像します。
さまざまな出会い,ふれあう機会が増えてきたのかもしれません。そんな時代に男女は恋をし,その恋がさまざまな障害(噂,告げ口,妨害,非難。家柄など)によって思うようにならない苦しさを味わうようになったのかもしれません。
結果として,万葉集に現れる恋の歌の多くが恋の苦しさを表現するものになったのは,そのような時代背景があったためかと私は思うのです。
そして,「現(うつつ)」でうまくいかない苦しさを「夢」で癒そうとしたのが,まさにこの短歌だと私は感じます。
次は「現」が使われた成句を詠んだ詠み人しらずの短歌を紹介します。
玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ(12-3211)
<たまのをの うつしこころや やそかかけ こぎでむふねに おくれてをらむ>
<<確かな覚めた心で数多くの楫(かじ)を装着して漕ぎ出ようとするあなたの船を残って見送る私です>>
「現し心」とは「夢見心」の反対で,しっかりと覚めた心でという意味です。
去っていく恋人を心の乱れを必死にコントロールしつつ,眺めている女性の心理がこの短歌から強く私には伝わってきます。
いっぽう,「夢」に対して強い願いを訴えたこれも詠み人しらずの短歌を紹介します。
ぬばたまの夜を長みかも我が背子が夢に夢にし見えかへるらむ(12-2890)
<ぬばたまの よをながみかも わがせこが いめにいめにし みえかへるらむ>
<<長い夜はねえ,僕の恋人は繰り返し繰り返し夢の中で逢いにくるのさ>>
この男性,強がっているようにも思えますが,夜一人になると彼女のことが頭から離れない様子が手に取るように分かりますね。
<小学校の頃の話>
ところで,私が小学生の頃NHKのテレビ番組「夢であいましょう」を家族と一緒に見ていました。夜遅い番組で,当時としては少し成人向けのウィットもあり,小学生の私には刺激が強かった部分もありました。
でも,梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」,ジェリー藤尾の「遠くに行きたい」,日本航空ジャンボジェット機墜落事故でその後亡くなった若き日の坂本九の「上を向いて歩こう」など,後のスタンダードナンバーになった歌。そして,黒柳徹子,永六輔,中村八大,三木のり平,谷幹一などの軽妙なおしゃべりやコントが心に残っています。
この番組が放送されると眠さも宿題も忘れて「現(うつつ)」で見ていた小学生の私がいたのです。番組で演奏される歌の歌詞の良さ,コントの巧さなどは,大人になってから日本語に対する興味を私に強く持たせる原動力になったのかも知れませんね。
対語シリーズ「朝と夕」に続く。
2011年9月7日水曜日
対語シリーズ「直と隈(曲)」‥自然と調和すると曲線になる?
<明日香村と関わり>
私は今年奈良県明日香村の「みかんの1本木オーナー」(http://yume9200.jp/ippongi.htm)になっています。
7月下旬,摘果(生育の悪い実や傷の付いた実を取る作業)のため,1泊2日をかけて契約農園を訪れました。お金の節約と学生時代に長距離の列車旅行を追体験したいとの気持ちで,何と埼玉県の自宅から奈良までの往復は「青春18きっぷ」を使い普通列車で移動しました。
写真はJR西日本「万葉まほろば線」香久山駅駅近くの踏切から線路を撮ったものです。真直ぐ延びる鉄道は,ローカル線といえども,やはり近代産業で形成された人工物の象徴のように感じてしまいます。
いっぽう,もう一つの写真はその日に撮った飛鳥寺近くの整備されていない道です。真直ぐではなく曲がっています。昔のこのあたりの道も真直ぐな道は少なく,曲がっていたのだろうと想像します。
古来日本では道を自然の地形,起伏に合わせたり,川や湖沼を避けたり,形の良い目印になる木を残すために迂回したりして作られるから曲がるのではないかと思います。何かを作るとき効率さを最大限求めた場合は,一般に直線や真円をベースに設計するのがベストでしょう。しかし,それは往々にして自然の形と相反することがあります。
その時,自然の形に刃向って(自然を変形させても)作るのか,自然と調和させて作るのか,それを利用する人達の考え方や暮らし方に依存するのだろうと私は考えます。
<万葉集の話>
さて,万葉集では「直」の漢字をあてる言葉として「直(ただ)」があります。「直(ただ)」は「真直ぐ」という意味のほか「直接(ちょくせつ)」という意味も万葉集では使われています。
対語が「曲」または「隈」という「まがる」という意味ですので,今回は「真直ぐ」という意味の「直」を見て行きます。
直越のこの道にしておしてるや難波の海と名付けけらしも(6-977)
<ただこえのこのみちにして おしてるやなにはのうみとなづけけらしも>
<<難波へまっすぐに越えたこの路から見て「おしてるや難波の海」と名づけられたのか>>
この短歌は神社老麻呂(かみこそのおゆまろ)が草香山(生駒山の西側)の峠を越えたときに詠んだとされる2首の内の1首です。この峠越えは大和盆地(奈良)から難波(大阪)に通じる一番短い(真直ぐな)道で,そのためこの峠を越えて双方の国に行くこと「直越(ただごえ)」と呼んでいたのでしょう。「おしてるや」は難波に掛かる枕詞(まくらことば)です。当時「おしてるや難波」は決まり文句だった私は想像しますが,作者は決まり文句になった理由がわからなかったのです。
しかし,実際に峠から難波の方面を見たところ,太陽に光って反射する海,潟,沼,田などがまさに「押し照る」(一面に照りつける)様子を見て,納得したとのでしょう。
なお,枕詞については,2009年5月24日から4回にわたって,私の考えを述べていますので,よかったら見てください。
さて,「真直ぐ」の対語は「曲がっている」です。万葉集では「曲(まがる・くま)」「隈(くま)」という漢字があてられています。
真直ぐなところは見通しが良いのですが,曲がっているところは見通しが悪く,物陰ができます。また,複雑に入り組んでいると方向が分からなくなるため,目印をつけることが必要になります。
次の成句からもその状況が読み取れます。
川隈(かはくま)‥川の折れ曲がっている所
隈処(くまと)‥物陰
隈廻(くまみ)‥曲がり角
隈も置かず‥曲がり角ごとに
隈も落ちず‥曲がり角ごとに
水隈(みぐま)‥水流が入りくんだところ
道の隈‥道の曲がった角
百隈(ももくま)‥多くの曲がり角
八十隈(やそくま)‥多くの曲がり角
その中で,次の短歌を紹介します。
後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背(2-115)
<おくれゐてこひつつあらずは おひしかむ みちのくまみにしめゆへわがせ>
<<一人残されて遠く恋しく想っているよりは追いかけて参りますから,道の角ごとに標(しるし)をつけてください,私のあなたさま>>
この短歌の作者とされる但馬皇女(たぢまのひめみこ)は,父親が同じ天武天皇の異母きょうだいである穂積皇子(ほづみのみこ)との間で激しい恋に陥ります。母親が異なるとはいえ許される恋ではなかったのでしょう,二人は引き離される運命にあり,穂積皇子が近江の志賀の山寺に遣られたときに詠んだ短歌です。
許されない恋いだからこそ燃え,引き離されようとするほど恋しい想いは募る,その気持ちの揺れがまさに「隈」という表現にぴったりなのかも知れませんね。
さて,「直」と「隈」の対比を的確に伝えるにはもっと用例(万葉集の歌)をたくさん紹介した方が良いとは思いますが,長くなるので,まずはこのくらいにしましょう。
対語シリーズ「夢と現(うつつ)」に続く。
私は今年奈良県明日香村の「みかんの1本木オーナー」(http://yume9200.jp/ippongi.htm)になっています。
7月下旬,摘果(生育の悪い実や傷の付いた実を取る作業)のため,1泊2日をかけて契約農園を訪れました。お金の節約と学生時代に長距離の列車旅行を追体験したいとの気持ちで,何と埼玉県の自宅から奈良までの往復は「青春18きっぷ」を使い普通列車で移動しました。
写真はJR西日本「万葉まほろば線」香久山駅駅近くの踏切から線路を撮ったものです。真直ぐ延びる鉄道は,ローカル線といえども,やはり近代産業で形成された人工物の象徴のように感じてしまいます。
いっぽう,もう一つの写真はその日に撮った飛鳥寺近くの整備されていない道です。真直ぐではなく曲がっています。昔のこのあたりの道も真直ぐな道は少なく,曲がっていたのだろうと想像します。
古来日本では道を自然の地形,起伏に合わせたり,川や湖沼を避けたり,形の良い目印になる木を残すために迂回したりして作られるから曲がるのではないかと思います。何かを作るとき効率さを最大限求めた場合は,一般に直線や真円をベースに設計するのがベストでしょう。しかし,それは往々にして自然の形と相反することがあります。
その時,自然の形に刃向って(自然を変形させても)作るのか,自然と調和させて作るのか,それを利用する人達の考え方や暮らし方に依存するのだろうと私は考えます。
<万葉集の話>
さて,万葉集では「直」の漢字をあてる言葉として「直(ただ)」があります。「直(ただ)」は「真直ぐ」という意味のほか「直接(ちょくせつ)」という意味も万葉集では使われています。
対語が「曲」または「隈」という「まがる」という意味ですので,今回は「真直ぐ」という意味の「直」を見て行きます。
直越のこの道にしておしてるや難波の海と名付けけらしも(6-977)
<ただこえのこのみちにして おしてるやなにはのうみとなづけけらしも>
<<難波へまっすぐに越えたこの路から見て「おしてるや難波の海」と名づけられたのか>>
この短歌は神社老麻呂(かみこそのおゆまろ)が草香山(生駒山の西側)の峠を越えたときに詠んだとされる2首の内の1首です。この峠越えは大和盆地(奈良)から難波(大阪)に通じる一番短い(真直ぐな)道で,そのためこの峠を越えて双方の国に行くこと「直越(ただごえ)」と呼んでいたのでしょう。「おしてるや」は難波に掛かる枕詞(まくらことば)です。当時「おしてるや難波」は決まり文句だった私は想像しますが,作者は決まり文句になった理由がわからなかったのです。
しかし,実際に峠から難波の方面を見たところ,太陽に光って反射する海,潟,沼,田などがまさに「押し照る」(一面に照りつける)様子を見て,納得したとのでしょう。
なお,枕詞については,2009年5月24日から4回にわたって,私の考えを述べていますので,よかったら見てください。
さて,「真直ぐ」の対語は「曲がっている」です。万葉集では「曲(まがる・くま)」「隈(くま)」という漢字があてられています。
真直ぐなところは見通しが良いのですが,曲がっているところは見通しが悪く,物陰ができます。また,複雑に入り組んでいると方向が分からなくなるため,目印をつけることが必要になります。
次の成句からもその状況が読み取れます。
川隈(かはくま)‥川の折れ曲がっている所
隈処(くまと)‥物陰
隈廻(くまみ)‥曲がり角
隈も置かず‥曲がり角ごとに
隈も落ちず‥曲がり角ごとに
水隈(みぐま)‥水流が入りくんだところ
道の隈‥道の曲がった角
百隈(ももくま)‥多くの曲がり角
八十隈(やそくま)‥多くの曲がり角
その中で,次の短歌を紹介します。
後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背(2-115)
<おくれゐてこひつつあらずは おひしかむ みちのくまみにしめゆへわがせ>
<<一人残されて遠く恋しく想っているよりは追いかけて参りますから,道の角ごとに標(しるし)をつけてください,私のあなたさま>>
許されない恋いだからこそ燃え,引き離されようとするほど恋しい想いは募る,その気持ちの揺れがまさに「隈」という表現にぴったりなのかも知れませんね。
さて,「直」と「隈」の対比を的確に伝えるにはもっと用例(万葉集の歌)をたくさん紹介した方が良いとは思いますが,長くなるので,まずはこのくらいにしましょう。
対語シリーズ「夢と現(うつつ)」に続く。
2011年8月28日日曜日
対語シリーズ「開と閉」 ‥心の扉はいつも開いていますか?
我が家のネコ達は部屋のドアや網戸を開けて出ていくことができますが,「閉める」ことはしてくれません。開けた後,丁寧に閉めてから行くことができたら,「礼儀正しいネコ」としてテレビに出られるかもしれませんね。
さて,今回は万葉集に出てくる「開」と「閉」について見て行きましょう。まず,「開」の漢字を当てる言葉として万葉集では「開(ひら)く」「開(あ)ける」の両方が出てきます。
言繁み君は来まさず霍公鳥汝れだに来鳴け朝戸開かむ(8-1499)
<ことしげみきみはきまさず ほととぎすなれだにきなけ あさとひらかむ>
<<噂が立ったので,愛する人は来てくれません。ホトトギスよ,おまえだけでも来て鳴いておくれ。朝の扉を開いておきましょう>>
「開(ひら)く」を使ったこの短歌は,大伴旅人と筑紫歌壇を形成した一人大伴四綱(よつな)が女性の立場で詠んだものです。本当は霍公鳥ではなく,「愛する君が来てくれるかも知れないから戸を開いておきたい」という本心を歌の中で見え隠れさせる高等な表現力の歌だと私は思います。
朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな(8-1579)
<あさとあけてものもふときに しらつゆのおけるあきはぎ みえつつもとな>
<<朝戸を開けて物思いにふけっている時に、白露の乗った秋萩が訳も無く目に入ってきます>>
「開(あ)く」を使ったこの短歌は,天平10年(738年)に橘諸兄宅で開かれた宴席で出席者のひとりである文忌寸馬養(ふみのいみきうまかひ)が詠ったとされているものです。秋の朝,家の戸を開けると少し冷っとした朝だったのでしょうか。作者は朝から何かを考えていたのですが,きらきらと光る朝露に彩られた秋萩がどうしても目に入り,その様子が作者の考え事に強く影響したという意味だと私は思います。宴席でこの歌を聞いた参加者は一往に「貴殿はどんな考え事をされていたのか?」という質問が出たのでしょう。
その答えは,この短歌の次に出てくる歌(8-1580)で分かります。歌の紹介はしませんが,当然,恋人のことです。
こう見てくると戸を「開(ひら)く」と「開(あ)く」のニュアンスの違いがわかるような気がします。「ひらく」は来てもらうのを待って広く戸を開けることを示し,「あく」は必要最小限のみ開けるという違いを感じます。
さて,「開」の対語「閉」の漢字を当てる言葉で万葉集に出てくるのは「閉(さ)す」だけです。
門立てて戸も閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる(12-3117)
<かどたてて ともさしてあるをいづくゆか いもがいりき いめにみえつる>
<<門を作り,その戸も鍵を掛け閉めておいたのにいったいどこからあなたは入ってきて私の夢に姿を見せたのですか>>
恋しい女性と逢いたい,逢いたい。その気持ち抑えようとする(戸をしっかり閉めるように)が,でもその女性が夢に出てくるのを防ぎようがない。そんな気持ちがこの短歌から私に強く伝わってきます。
万葉集に現れるこの「戸を閉(さ)す」から「戸閉(さ)す」,そして「閉(と)ざす」となったのでしょう。でも,心の扉は閉ざすことなく,常に開けておきたいものです。
対語シリーズ「直と曲(隈)」に続く。
さて,今回は万葉集に出てくる「開」と「閉」について見て行きましょう。まず,「開」の漢字を当てる言葉として万葉集では「開(ひら)く」「開(あ)ける」の両方が出てきます。
言繁み君は来まさず霍公鳥汝れだに来鳴け朝戸開かむ(8-1499)
<ことしげみきみはきまさず ほととぎすなれだにきなけ あさとひらかむ>
<<噂が立ったので,愛する人は来てくれません。ホトトギスよ,おまえだけでも来て鳴いておくれ。朝の扉を開いておきましょう>>
「開(ひら)く」を使ったこの短歌は,大伴旅人と筑紫歌壇を形成した一人大伴四綱(よつな)が女性の立場で詠んだものです。本当は霍公鳥ではなく,「愛する君が来てくれるかも知れないから戸を開いておきたい」という本心を歌の中で見え隠れさせる高等な表現力の歌だと私は思います。
朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな(8-1579)
<あさとあけてものもふときに しらつゆのおけるあきはぎ みえつつもとな>
<<朝戸を開けて物思いにふけっている時に、白露の乗った秋萩が訳も無く目に入ってきます>>
「開(あ)く」を使ったこの短歌は,天平10年(738年)に橘諸兄宅で開かれた宴席で出席者のひとりである文忌寸馬養(ふみのいみきうまかひ)が詠ったとされているものです。秋の朝,家の戸を開けると少し冷っとした朝だったのでしょうか。作者は朝から何かを考えていたのですが,きらきらと光る朝露に彩られた秋萩がどうしても目に入り,その様子が作者の考え事に強く影響したという意味だと私は思います。宴席でこの歌を聞いた参加者は一往に「貴殿はどんな考え事をされていたのか?」という質問が出たのでしょう。
その答えは,この短歌の次に出てくる歌(8-1580)で分かります。歌の紹介はしませんが,当然,恋人のことです。
こう見てくると戸を「開(ひら)く」と「開(あ)く」のニュアンスの違いがわかるような気がします。「ひらく」は来てもらうのを待って広く戸を開けることを示し,「あく」は必要最小限のみ開けるという違いを感じます。
さて,「開」の対語「閉」の漢字を当てる言葉で万葉集に出てくるのは「閉(さ)す」だけです。
門立てて戸も閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる(12-3117)
<かどたてて ともさしてあるをいづくゆか いもがいりき いめにみえつる>
<<門を作り,その戸も鍵を掛け閉めておいたのにいったいどこからあなたは入ってきて私の夢に姿を見せたのですか>>
恋しい女性と逢いたい,逢いたい。その気持ち抑えようとする(戸をしっかり閉めるように)が,でもその女性が夢に出てくるのを防ぎようがない。そんな気持ちがこの短歌から私に強く伝わってきます。
万葉集に現れるこの「戸を閉(さ)す」から「戸閉(さ)す」,そして「閉(と)ざす」となったのでしょう。でも,心の扉は閉ざすことなく,常に開けておきたいものです。
対語シリーズ「直と曲(隈)」に続く。
2011年8月20日土曜日
対語シリーズ「強と弱」 ‥女性は弱し?
「音楽の強弱記号」「今年のパリーグは2強4弱だ」「自然界は弱肉強食」「強きを挫き弱きを助ける」など,「強い」「弱い」が対比されることがあります。
万葉集で「強」と「弱」の漢字を当てる言葉はどのように使われているか見てみましょう。
まず「強」ですが,万葉集では「強(つよ)い」の文語形の「強し」という言葉は出てきません。「強し」は平安時代以降使われだしたようです。「強」の漢字を当てる言葉としては「強制する」という言葉の文語形「強(し)ふ」が万葉集に出てきます。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみの あはせのころもうらにせば われしひめやもきみがきまさぬ>
<<橡(クヌギ)染めの袷(あわせ)の衣(ころも)を裏にするようなことをされるなら,私はあなたに無理に来て逢ってくださいとは申しません>>
裏地を表に出すということは,自分への恋心は本心ではないという態度を指すのだろうと思います。それを露骨に見せられた作者(女性)は「逢いに来てほしい」と強く言う気持ちになれなくなったのでしょう。
でも,本当はもっと自分の方を向いてほしいという作者の強い気持ちの存在が,この短歌から私には伝わってきます。女性の心理は複雑ですね。
次に「弱」ですが,「弱い」の文語形の「弱し」を使った万葉集の和歌があります。たとえば次のものです。
玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも(12-3081)
<たまのををかたをによりてををよわみ みだるるときにこひずあらめやも>
<<玉を貫く紐をより合わすとき,片糸だけなら弱い紐となるように,片思いのあなたを心乱れずに恋することができるでしょうか>>
これも詠み人しらずの短歌です。片思いの切ない気持(気弱な気持ち)が伝わってきます。
また,慣用的な使い方として「手弱し(たよわし)」という言葉を使った和歌の例もあります。
岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく(3-419)
<いはとわるたぢからもがも たよわきをみなにしあれば すべのしらなく>
<<岩戸を打ち破る手の力があればよいのに。私はか弱い女なのでどうしてよいか分からないのです>>
この短歌は平城京遷都より前の持統天皇の世,河内王(かふちのおほきみ)が九州北部(福岡県)の鏡の山に葬られたとき,手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだ挽歌3首の1首です。
墓は岩戸で塞がれています。それをこじ開けて河内王の遺体を出して生き返らせる力が,か弱い女の私にはなく,どうしていいか分からないという葬送の短歌です。
ただ,「手弱し」の対語である「手強し」(現代では「手強い」という)は万葉集に出てきません。「強(ごは)し」の用例が平安時代にならないと出てこないようで「手強い」は後から出てきた言葉と想像できます。なぜ今後から出てきた「手強い」は残り,万葉時代からあった「手弱い」は使われなくなったのか興味があります。
最後に万葉集で9首ほどの和歌に出てくる「手弱女(たわやめ)」について書きます。
「手弱」という漢字は当て字という説もありますが,万葉仮名として「手弱女」と記されている歌もあります。いずれにしても「弱し」という意味は備わっているのでしょう。
~ 獣じもの 膝折り伏して 手弱女の 襲取り懸け かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも(3-379)
<~ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも>
<<~ 鹿のように膝を曲げ,か弱い女の衣を羽織り,せめてこのように私はお祈りいたします。あなたに逢えるかも知れないから>>
この長歌は坂上郎女が神事で詠んだものとされています。この長歌の「手弱女」の万葉仮名も「手弱女」です。「か弱い」ことが神を加護を受ける助けになると考えているのかもしれません。
「手弱女」は万葉時代女性は強い手の力(腕力)を出せないという一般的な認識があったことを表している言葉だと私は考えます。
ただ,今は女性は必ずしも「手弱」ではないこともあるようです。先日,夕食の準備中に私がつまみ食いをしようとして伸ばした手に妻がピシャッとしたときの腫れがなかなか治りません。
対語シリーズ「開と閉」に続く。
万葉集で「強」と「弱」の漢字を当てる言葉はどのように使われているか見てみましょう。
まず「強」ですが,万葉集では「強(つよ)い」の文語形の「強し」という言葉は出てきません。「強し」は平安時代以降使われだしたようです。「強」の漢字を当てる言葉としては「強制する」という言葉の文語形「強(し)ふ」が万葉集に出てきます。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみの あはせのころもうらにせば われしひめやもきみがきまさぬ>
<<橡(クヌギ)染めの袷(あわせ)の衣(ころも)を裏にするようなことをされるなら,私はあなたに無理に来て逢ってくださいとは申しません>>
裏地を表に出すということは,自分への恋心は本心ではないという態度を指すのだろうと思います。それを露骨に見せられた作者(女性)は「逢いに来てほしい」と強く言う気持ちになれなくなったのでしょう。
でも,本当はもっと自分の方を向いてほしいという作者の強い気持ちの存在が,この短歌から私には伝わってきます。女性の心理は複雑ですね。
次に「弱」ですが,「弱い」の文語形の「弱し」を使った万葉集の和歌があります。たとえば次のものです。
玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも(12-3081)
<たまのををかたをによりてををよわみ みだるるときにこひずあらめやも>
<<玉を貫く紐をより合わすとき,片糸だけなら弱い紐となるように,片思いのあなたを心乱れずに恋することができるでしょうか>>
これも詠み人しらずの短歌です。片思いの切ない気持(気弱な気持ち)が伝わってきます。
また,慣用的な使い方として「手弱し(たよわし)」という言葉を使った和歌の例もあります。
岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく(3-419)
<いはとわるたぢからもがも たよわきをみなにしあれば すべのしらなく>
<<岩戸を打ち破る手の力があればよいのに。私はか弱い女なのでどうしてよいか分からないのです>>
この短歌は平城京遷都より前の持統天皇の世,河内王(かふちのおほきみ)が九州北部(福岡県)の鏡の山に葬られたとき,手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだ挽歌3首の1首です。
墓は岩戸で塞がれています。それをこじ開けて河内王の遺体を出して生き返らせる力が,か弱い女の私にはなく,どうしていいか分からないという葬送の短歌です。
ただ,「手弱し」の対語である「手強し」(現代では「手強い」という)は万葉集に出てきません。「強(ごは)し」の用例が平安時代にならないと出てこないようで「手強い」は後から出てきた言葉と想像できます。なぜ今後から出てきた「手強い」は残り,万葉時代からあった「手弱い」は使われなくなったのか興味があります。
最後に万葉集で9首ほどの和歌に出てくる「手弱女(たわやめ)」について書きます。
「手弱」という漢字は当て字という説もありますが,万葉仮名として「手弱女」と記されている歌もあります。いずれにしても「弱し」という意味は備わっているのでしょう。
~ 獣じもの 膝折り伏して 手弱女の 襲取り懸け かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも(3-379)
<~ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも>
<<~ 鹿のように膝を曲げ,か弱い女の衣を羽織り,せめてこのように私はお祈りいたします。あなたに逢えるかも知れないから>>
この長歌は坂上郎女が神事で詠んだものとされています。この長歌の「手弱女」の万葉仮名も「手弱女」です。「か弱い」ことが神を加護を受ける助けになると考えているのかもしれません。
「手弱女」は万葉時代女性は強い手の力(腕力)を出せないという一般的な認識があったことを表している言葉だと私は考えます。
ただ,今は女性は必ずしも「手弱」ではないこともあるようです。先日,夕食の準備中に私がつまみ食いをしようとして伸ばした手に妻がピシャッとしたときの腫れがなかなか治りません。
対語シリーズ「開と閉」に続く。
2011年8月15日月曜日
対語シリーズ「東と西」 ‥東は角,西は金
<最近の出来事>
先日,気が置けない(気心が知れた)友人と東京現代美術館で「フレデリック.バック展」を見に行きました。フレデリック.バックはフランス生まれでカナダに移住し,モントリオールの放送局で活躍したイラストレータです。
展示のメインは1988年アカデミー賞短編アニメーション部門受賞作品「木を植えた男」の上映です。羊飼いの男がたった一人で荒れ果てた砂漠にドングリの実を植え続け,ついには素晴らしい潤いのある森にしていく。その地に住む砂漠のように荒れ果てていた人達の人心も潤いを取り戻すというストーリです。
途中途中の心理描写がアニメーションならではの強調性によって,私たち二人の心に強く入ってきました。
私はその作品で羊飼いの男が一粒ずつドングリを穴に埋めている姿を見て,大伴家持が和歌を1首ずつ万葉仮名でひたすら記録に残していく姿とオーパラップしてしまいました。
<大伴家持の功績‥それは「やまと言葉」を残す事>
奈良時代,和歌(ほとんどが口承)を記録に残すことに対して価値を感じる人は少なかったのではないかと私は考えます。
当時は日本の西方から中国文化が押し寄せ,漢文を読む,漢詩を詠むことが流行の最先端だったのです。したがって,和歌は古臭いもの,過去のもの,お年寄りのものという印象が持たれる中,大伴家持は誰に褒められることも無く,和歌を記録し続けたのでしょう。
父旅人や憶良の影響もあったかも知れませんが,家持はやまと言葉の美しさを残す必要性をひとり感じていたのだろうと私は想像します。
家持の地道な和歌の記録によって万葉集ができ,平安時代になって和歌の復興は叶いました。しかし,歌人家持の評価は家持没後100年以上後の古今和歌集では認められず,200年以上後の藤原公任(ふじわらのきんとう)による三十六歌仙に選ばれたあたりからとなります。
洋の東西を問わず,周りの評価に惑わされずに継続したたった一人の努力の結晶が後世になって評価されることが多いのも事実かも知れません。
<「東」と「西」>
さて,万葉集では「東」を詠んだ和歌が26首ほど出てきますが,「西」を詠んだ和歌は4首だけです。
少ない「西」から見て行くと,「西の山辺」「西の市」「西の馬屋」として「西」が使われています。
「東」は「東の野」「東人(あづまと)」「東の滝」「東の御門」「東の市」「東の国」「東女(あづまをなみ)」「東風(こち・あゆ)」「東の坂」「東の馬屋」「東路(あづまぢ)」「東男(あづまをとこ)」などが詠まれています。
「西の市」と「東の市」の短歌をそれぞれ見て行きましょう。
西の市にただ独り出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも(7-1264)
<にしのいちにただひとりいでて めならべずかひてしきぬの あきじこりかも>
<<西の市にたった独りで出かけて、いろいろ見比べもせずに買ってしまった絹は買い損ないだな>>
東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(3-310)
<ひむがしのいちのうゑきのこだるまで あはずひさしみうべこひにけり>
<<東の市の並木の枝が成長して垂れ下がるまで、ずっとあなたに逢うことができずにいたのだから、恋しく思うのもあたりまえですよ>>
平城京の東西にそれぞれ市があり,各地の物産が集まり,買い物をする京人で賑わっていたそうです。
「西の市」の短歌は,衝動買いをして,質の良くない絹の布を買ってしまったというものです。一人で行くと店の勧めに乗ってしまい買ってしまう。連れだって行くのが賢明だと言いたいのでしょうか。
「東の市」の短歌は,門部王(かどべのおほきみ)という人が詠んだとされるものです。東の市の街路樹が芽吹き始めた頃一度逢ったけれど,なかなか逢えないでいるので恋しい気持ちはさらに強くなっていくという嘆きの歌でしょうか。
この2首だけの感想ですが,「東の市」は「西の市」に比べ,おしゃれで男女の出会いの場だったのかも知れませんね。
それに対して「西の市」はおしゃれさは劣るけれど,安い品物が豊富にあったようにも思います。
今度は同じ長歌の中に「西の馬屋」と「東の馬屋」が出てくる歌がありますので紹介します。
百小竹の三野の王 西の馬屋に立てて飼ふ駒 東の馬屋に立てて飼ふ駒 草こそば取りて飼ふと言へ 水こそば汲みて飼ふと言へ 何しかも葦毛の馬のいなき立てつる(13-3327)
<ももしののみののおほきみ にしのうまやにたててかふこま ひむがしのうまやにたててかふこま くさこそばとりてかふといへ みづこそばくみてかふといへ なにしかもあしげのうまのいなきたてつる>
<<美努王(みののおほきみ)が 西の厩に飼っている馬も 東の厩に飼っている馬も 草を取って飼うというのに 水を汲んで飼うというのに どうして芦毛の馬がいなないているのだろうか>>
この長歌は,美努王が亡くなったことを弔う挽歌ですが,「西の馬屋」の万葉仮名は「金厩」,「東の馬屋」の万葉仮名は「角厩」です。
「金」を「西」と読ませるのは五行(中国古来の自然哲学:木,火,土,金,水の5要素)において,「五方(五つの方角)」との対応付けでは「木」が「東」,「火」が「南」,「土」が「中央」,「金」が「西」,「水」が「北」を表すため,「金」は「西」を意味するからとのことです。
また,「角」を「東」と読ませるのは,同じく五行において,五音(五つの音階)との対応付けでは,「木」が「角(かく)」,「火」が「徴(ち)」,「土」が「宮(きゅう)」,「金」が「商(しょう)」,「水」が「羽(う)」を表すため,「角」は「木」となり,さらに五行と五方との対応で「木」は「東」を意味するからのことです。
まさに三段論法のような読ませ方ですね。「角」ならば「木」,「木」ならば「東」,よって「角」ならば「東」というように。
この和歌を万葉仮名で記録した人は自分が中国の自然哲学に如何に詳しいか(知識人であるか)を示したかったのかも知れませんね。
美努王が亡くなったのは,家持が生まれる数年も前のこと。万葉仮名で記録したのは家持自身ではなく,もっと以前の人だったと私は思います。
対語シリーズ「強と弱」に続く。
先日,気が置けない(気心が知れた)友人と東京現代美術館で「フレデリック.バック展」を見に行きました。フレデリック.バックはフランス生まれでカナダに移住し,モントリオールの放送局で活躍したイラストレータです。
展示のメインは1988年アカデミー賞短編アニメーション部門受賞作品「木を植えた男」の上映です。羊飼いの男がたった一人で荒れ果てた砂漠にドングリの実を植え続け,ついには素晴らしい潤いのある森にしていく。その地に住む砂漠のように荒れ果てていた人達の人心も潤いを取り戻すというストーリです。
途中途中の心理描写がアニメーションならではの強調性によって,私たち二人の心に強く入ってきました。
私はその作品で羊飼いの男が一粒ずつドングリを穴に埋めている姿を見て,大伴家持が和歌を1首ずつ万葉仮名でひたすら記録に残していく姿とオーパラップしてしまいました。
<大伴家持の功績‥それは「やまと言葉」を残す事>
奈良時代,和歌(ほとんどが口承)を記録に残すことに対して価値を感じる人は少なかったのではないかと私は考えます。
当時は日本の西方から中国文化が押し寄せ,漢文を読む,漢詩を詠むことが流行の最先端だったのです。したがって,和歌は古臭いもの,過去のもの,お年寄りのものという印象が持たれる中,大伴家持は誰に褒められることも無く,和歌を記録し続けたのでしょう。
父旅人や憶良の影響もあったかも知れませんが,家持はやまと言葉の美しさを残す必要性をひとり感じていたのだろうと私は想像します。
家持の地道な和歌の記録によって万葉集ができ,平安時代になって和歌の復興は叶いました。しかし,歌人家持の評価は家持没後100年以上後の古今和歌集では認められず,200年以上後の藤原公任(ふじわらのきんとう)による三十六歌仙に選ばれたあたりからとなります。
洋の東西を問わず,周りの評価に惑わされずに継続したたった一人の努力の結晶が後世になって評価されることが多いのも事実かも知れません。
<「東」と「西」>
さて,万葉集では「東」を詠んだ和歌が26首ほど出てきますが,「西」を詠んだ和歌は4首だけです。
少ない「西」から見て行くと,「西の山辺」「西の市」「西の馬屋」として「西」が使われています。
「東」は「東の野」「東人(あづまと)」「東の滝」「東の御門」「東の市」「東の国」「東女(あづまをなみ)」「東風(こち・あゆ)」「東の坂」「東の馬屋」「東路(あづまぢ)」「東男(あづまをとこ)」などが詠まれています。
「西の市」と「東の市」の短歌をそれぞれ見て行きましょう。
西の市にただ独り出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも(7-1264)
<にしのいちにただひとりいでて めならべずかひてしきぬの あきじこりかも>
<<西の市にたった独りで出かけて、いろいろ見比べもせずに買ってしまった絹は買い損ないだな>>
東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(3-310)
<ひむがしのいちのうゑきのこだるまで あはずひさしみうべこひにけり>
<<東の市の並木の枝が成長して垂れ下がるまで、ずっとあなたに逢うことができずにいたのだから、恋しく思うのもあたりまえですよ>>
平城京の東西にそれぞれ市があり,各地の物産が集まり,買い物をする京人で賑わっていたそうです。
「西の市」の短歌は,衝動買いをして,質の良くない絹の布を買ってしまったというものです。一人で行くと店の勧めに乗ってしまい買ってしまう。連れだって行くのが賢明だと言いたいのでしょうか。
「東の市」の短歌は,門部王(かどべのおほきみ)という人が詠んだとされるものです。東の市の街路樹が芽吹き始めた頃一度逢ったけれど,なかなか逢えないでいるので恋しい気持ちはさらに強くなっていくという嘆きの歌でしょうか。
この2首だけの感想ですが,「東の市」は「西の市」に比べ,おしゃれで男女の出会いの場だったのかも知れませんね。
それに対して「西の市」はおしゃれさは劣るけれど,安い品物が豊富にあったようにも思います。
今度は同じ長歌の中に「西の馬屋」と「東の馬屋」が出てくる歌がありますので紹介します。
百小竹の三野の王 西の馬屋に立てて飼ふ駒 東の馬屋に立てて飼ふ駒 草こそば取りて飼ふと言へ 水こそば汲みて飼ふと言へ 何しかも葦毛の馬のいなき立てつる(13-3327)
<ももしののみののおほきみ にしのうまやにたててかふこま ひむがしのうまやにたててかふこま くさこそばとりてかふといへ みづこそばくみてかふといへ なにしかもあしげのうまのいなきたてつる>
<<美努王(みののおほきみ)が 西の厩に飼っている馬も 東の厩に飼っている馬も 草を取って飼うというのに 水を汲んで飼うというのに どうして芦毛の馬がいなないているのだろうか>>
この長歌は,美努王が亡くなったことを弔う挽歌ですが,「西の馬屋」の万葉仮名は「金厩」,「東の馬屋」の万葉仮名は「角厩」です。
「金」を「西」と読ませるのは五行(中国古来の自然哲学:木,火,土,金,水の5要素)において,「五方(五つの方角)」との対応付けでは「木」が「東」,「火」が「南」,「土」が「中央」,「金」が「西」,「水」が「北」を表すため,「金」は「西」を意味するからとのことです。
また,「角」を「東」と読ませるのは,同じく五行において,五音(五つの音階)との対応付けでは,「木」が「角(かく)」,「火」が「徴(ち)」,「土」が「宮(きゅう)」,「金」が「商(しょう)」,「水」が「羽(う)」を表すため,「角」は「木」となり,さらに五行と五方との対応で「木」は「東」を意味するからのことです。
まさに三段論法のような読ませ方ですね。「角」ならば「木」,「木」ならば「東」,よって「角」ならば「東」というように。
この和歌を万葉仮名で記録した人は自分が中国の自然哲学に如何に詳しいか(知識人であるか)を示したかったのかも知れませんね。
美努王が亡くなったのは,家持が生まれる数年も前のこと。万葉仮名で記録したのは家持自身ではなく,もっと以前の人だったと私は思います。
対語シリーズ「強と弱」に続く。
2011年8月13日土曜日
対語シリーズ「苦と楽」 ‥ 苦:楽=5:2
世の中,苦しいときもあれば楽しいときもあります。でも,楽しいときより苦しいときの方が多いと感ずるのは世の常でしょうか。
万葉集では「苦し」を詠んだ和歌が40首余り,「楽し」を詠んだ和歌が16首ほどで,5:2の割合で「苦し」の方が多いのです。
万葉人がどんなことで苦しいと感じたり,楽しいと感じたかを見てみることにしましょう。
まず,何と言っても戦地へ向かう旅路の苦しさは,当時と比べ物にならないくらい平和な現代人にとっても共感できる部分が多いと私は思います。
我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも(20-4406)
<わがいはろにゆかもひともが くさまくらたびはくるしとつげやらまくも>
<<私の家に行く人がいてくれたら,この旅は苦しいと告げに行ってもらうのに>>
これは大伴部櫛麻呂(おほともべのくしまろ)という上野(かみつけの:今の群馬県)出身の防人(さきもり)が詠んだ短歌です。
万葉集に選ばれた防人歌は,詠み手の素直な気持ちがしっかりと伝わってくるものを選んでいることが分かります。選者は防人たちの苦しさを何とかさまざまな人に伝え,防人政策にブレーキを掛けたいという意図を私は感じます。
また,昔も今も切ない恋も苦しく感じるもののようです。次は恋慕う苦しさと闘う自分を詠んだ短歌です。
常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ(12-2908)
<つねかくしこふればくるし しましくもこころやすめむ ことはかりせよ>
<<いつもこのように恋は募るほど切なく苦しいの。しばらくの間でもその苦しさを忘れられる計らいをたてたいわ>>
この詠み人しらずのこの短歌は,家で悶々として,苦しそうにしている女性の姿が私には伝わってきます。
それから「孤独感」の苦しさを詠んだ和歌も私たちには理解ができそうです。
都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし(3-440)
<みやこなるあれたるいへにひとりねば たびにまさりてくるしかるべし>
<<都にある荒れ果てた我が家で一人寝をするなら、今の旅寝よりもっと苦しいだろう>>
これは大伴旅人が神龜5年(天平元年:724)64歳のときに大宰府で詠んだとされる短歌です。
ようやく,近々大宰府の長官の任を解かれ,京に戻ることが決まったのだが,2年前に大宰府で妻を亡くし,誰も待つ人の居ない,荒れ果てた家に一人で住む苦しさは老体には堪える筑紫から奈良に帰る旅路の苦しさの方がまだマシだと詠んでいるのです。
旅人の妻がまだ生きていたときと思われますが,逆に旅人は「楽し」を詠んだ歌をいくつも残しています。
生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
<いけるものつひにもしぬるものにあれば このよなるまはたのしくをあらな>
<<生きているものは最後は死ぬのだから,生きている間は楽しまないとね>>
この短歌は旅人が詠んだ酒を誉むる歌13首のひとつです。解釈は酒を愛する人と飲まない人では異なるかもしれません。
私は天の川君ほどたくさん酒は飲みませんが,適量飲んだときのリラックス感からくる楽しさは肯定的に評価しています。
天の川 「たびとはん。ウワバミみたいに言わんといてんか。精々焼酎1本強空けるだけやんか。」
どう見てもウワバミだね。さて,この他,万葉集では春になったこと,梅の花が咲いた,舟遊びをしたことなどで「楽し」を詠った和歌が出てきます。
「楽し」と「苦し」の両方を詠った旅人は,妻の存在で「楽し」を詠えたのかも知れません。天平2年に京に一人で戻った旅人は大納言に昇進したのですが,翌天平3年66歳でこの世を去りました。
私も日頃「風呂,飯,寝る」くらいしか言っていない妻を少しは大切にしなければ。
天の川 「ほんまやな。それからな,僕ももうちょっと大切にしなアカンで!」
...。
対語シリーズ「東と西」に続く。
万葉集では「苦し」を詠んだ和歌が40首余り,「楽し」を詠んだ和歌が16首ほどで,5:2の割合で「苦し」の方が多いのです。
万葉人がどんなことで苦しいと感じたり,楽しいと感じたかを見てみることにしましょう。
まず,何と言っても戦地へ向かう旅路の苦しさは,当時と比べ物にならないくらい平和な現代人にとっても共感できる部分が多いと私は思います。
我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも(20-4406)
<わがいはろにゆかもひともが くさまくらたびはくるしとつげやらまくも>
<<私の家に行く人がいてくれたら,この旅は苦しいと告げに行ってもらうのに>>
これは大伴部櫛麻呂(おほともべのくしまろ)という上野(かみつけの:今の群馬県)出身の防人(さきもり)が詠んだ短歌です。
万葉集に選ばれた防人歌は,詠み手の素直な気持ちがしっかりと伝わってくるものを選んでいることが分かります。選者は防人たちの苦しさを何とかさまざまな人に伝え,防人政策にブレーキを掛けたいという意図を私は感じます。
また,昔も今も切ない恋も苦しく感じるもののようです。次は恋慕う苦しさと闘う自分を詠んだ短歌です。
常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ(12-2908)
<つねかくしこふればくるし しましくもこころやすめむ ことはかりせよ>
<<いつもこのように恋は募るほど切なく苦しいの。しばらくの間でもその苦しさを忘れられる計らいをたてたいわ>>
この詠み人しらずのこの短歌は,家で悶々として,苦しそうにしている女性の姿が私には伝わってきます。
それから「孤独感」の苦しさを詠んだ和歌も私たちには理解ができそうです。
都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし(3-440)
<みやこなるあれたるいへにひとりねば たびにまさりてくるしかるべし>
<<都にある荒れ果てた我が家で一人寝をするなら、今の旅寝よりもっと苦しいだろう>>
これは大伴旅人が神龜5年(天平元年:724)64歳のときに大宰府で詠んだとされる短歌です。
ようやく,近々大宰府の長官の任を解かれ,京に戻ることが決まったのだが,2年前に大宰府で妻を亡くし,誰も待つ人の居ない,荒れ果てた家に一人で住む苦しさは老体には堪える筑紫から奈良に帰る旅路の苦しさの方がまだマシだと詠んでいるのです。
旅人の妻がまだ生きていたときと思われますが,逆に旅人は「楽し」を詠んだ歌をいくつも残しています。
生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
<いけるものつひにもしぬるものにあれば このよなるまはたのしくをあらな>
<<生きているものは最後は死ぬのだから,生きている間は楽しまないとね>>
この短歌は旅人が詠んだ酒を誉むる歌13首のひとつです。解釈は酒を愛する人と飲まない人では異なるかもしれません。
私は天の川君ほどたくさん酒は飲みませんが,適量飲んだときのリラックス感からくる楽しさは肯定的に評価しています。
天の川 「たびとはん。ウワバミみたいに言わんといてんか。精々焼酎1本強空けるだけやんか。」
どう見てもウワバミだね。さて,この他,万葉集では春になったこと,梅の花が咲いた,舟遊びをしたことなどで「楽し」を詠った和歌が出てきます。
「楽し」と「苦し」の両方を詠った旅人は,妻の存在で「楽し」を詠えたのかも知れません。天平2年に京に一人で戻った旅人は大納言に昇進したのですが,翌天平3年66歳でこの世を去りました。
私も日頃「風呂,飯,寝る」くらいしか言っていない妻を少しは大切にしなければ。
天の川 「ほんまやな。それからな,僕ももうちょっと大切にしなアカンで!」
...。
対語シリーズ「東と西」に続く。
2011年8月6日土曜日
対語シリーズ「紅と白」 ‥万葉時代から美しい色の代表格
これからしばらく万葉集に出てくる言葉で反対語の例を示し,万葉集での言葉の使い方や万葉人の感じ方を見て行く「対語シリーズ」をお送りします。
なぜ「対語」をとりあげるのか?
人間はいつも望むべき状態とその反対(望まない状態)を常に意識している生き物だと考えています。望むべき状態が続いていてほしいが大概はそれが続かず,望まない状態になってしまうことも少なくない。
いっぽう,望まない状態が続いていると,反対の望むべき状態になることをひたすら願い,そのための努力をする。でも,それはなかなか思うようには行かない。その辛さを表現する手段のひとつとして万葉時代の日本人は和歌を利用したと私は考えます。
また,見た感じが正反対で,特徴が違っていても,両方とも望むべき状態である場合もあります。そのときは,両方を出して望むべき状態を強調することもあります。
本シリーズの最初に取りあげる対語は,現代の言葉として「紅白試合」「紅白まんじゅう」「紅白もち」「紅白幕」「紅白帽」などに出てくる「紅(くれなゐ)」と「白(しろ)」です。
「紅」と「白」は共に比較的良いイメージのことばです。
まず「紅」からですが,万葉集では「紅色」を「くれなゐいろ」という言葉で示し,「べにいろ」という音はなかったようです。
今(8月5日~7日)開催中の山形花笠まつりの花笠は「ベニバナ」をあしらったものと言われていますが,万葉時代は「末摘花(すゑつむはな)」または「くれなゐ」と呼んでいたようです。
外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも(10-1993)
<よそのみにみつつこひなむ くれなゐのすゑつむはなのいろにいでずとも>
<<(逢うこともせず)外からお姿を拝見しながら恋しているだけにしましょう。ベニバナの色ようには顔色に出さないようにして>>
この詠み人知らずの短歌は,まさに自分の「偲ふ恋」の心を素直に表現している良い歌だと私は思います。
なお,「偲ふ」については2010年3月28日から3回に渡ってこのブログに書いていますので,よかったら見てください。
相手にも,周囲にも気付かれないよう恋したうという決意と,しかし相手を見ていると偲ぶ想いと裏腹に顔が赤くなるのを止められないかもしれない。そんな葛藤(偲ふ恋の苦しさ)が私にはストレートに伝わってきます。
さて,反対の「白(しら,しろ)」を見て行くことしましょう。
「白」は単独で使われるよりも次のような修飾語として使われることが万葉集では多いです。
白髪(しらか,しろかみ),白香(しらか),白橿(しらかし),白雲(しらくも),白鷺(しらさぎ),白菅(しらすげ),白玉(しらたま),白躑躅(しらつつじ),白鳥(しらとり),白塗(しらぬり),白浜(しらはま),白髭(しらひげ),白紐(しらひも),白斑(しらふ),白砂(しらまなご),白山(しらやま),白雪(しらゆき),白酒(しろき),白栲(しろたへ)
ただ,「白」単独で使われる場合も少ないですが,あります。
矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも(19-4155)
<やかたをのましろのたかをやどにすゑ かきなでみつつかはくしよしも>
<<矢形の尾の真白な鷹を家に置いて,撫でては眺めつつ飼うことの気分は最高だ>>
この短歌は大伴家持が越中赴任中に鷹狩りの鷹をペットとして自宅で飼って,心癒される気持ちを詠ったものです。
矢の形をした尾が真っ白な珍しい鷹を手に入れ飼い始めたら,本当に可愛くて仕方がない。目を細めて,なでたり,眺めて声をかけたりしている家持の姿が目に浮かびます。
最後に,「紅」と「白」が両方出てくる長歌の一部を紹介します。
~ 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ(17-3973)
<~ はるののにすみれをつむと しろたへのそでをりかへし くれなゐのあかもすそびき をとめらはおもひみだれて きみまつとうらごひすなり こころぐしいざみにゆかなことはたなゆひ>
<<~ 春の野でスミレを摘もうと白い袖を折り返し,赤い裾を引上げた娘子たちは,心を乱して君(家持君)を待っています。心の中で恋する切ない思いで。さあ,見に行きましょう。そんな気持ちを察して>>
この長歌は,大伴池主が越中で家持に贈ったと伝えられています。
この長歌から,野で花を摘む娘子たちの姿はトップスは「白」で,ボトムズは「紅」だったようですね。まさに神社の巫女さんの装束そのものです。
「紅」と「白」のコントラストが,まさに「日の丸」に代表される日本にとって昔から美しいとされる色彩のひとつだったことは間違いありませんね。
対語シリーズ「苦と楽」に続く。
なぜ「対語」をとりあげるのか?
人間はいつも望むべき状態とその反対(望まない状態)を常に意識している生き物だと考えています。望むべき状態が続いていてほしいが大概はそれが続かず,望まない状態になってしまうことも少なくない。
いっぽう,望まない状態が続いていると,反対の望むべき状態になることをひたすら願い,そのための努力をする。でも,それはなかなか思うようには行かない。その辛さを表現する手段のひとつとして万葉時代の日本人は和歌を利用したと私は考えます。
また,見た感じが正反対で,特徴が違っていても,両方とも望むべき状態である場合もあります。そのときは,両方を出して望むべき状態を強調することもあります。
本シリーズの最初に取りあげる対語は,現代の言葉として「紅白試合」「紅白まんじゅう」「紅白もち」「紅白幕」「紅白帽」などに出てくる「紅(くれなゐ)」と「白(しろ)」です。
「紅」と「白」は共に比較的良いイメージのことばです。
まず「紅」からですが,万葉集では「紅色」を「くれなゐいろ」という言葉で示し,「べにいろ」という音はなかったようです。
今(8月5日~7日)開催中の山形花笠まつりの花笠は「ベニバナ」をあしらったものと言われていますが,万葉時代は「末摘花(すゑつむはな)」または「くれなゐ」と呼んでいたようです。
外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも(10-1993)
<よそのみにみつつこひなむ くれなゐのすゑつむはなのいろにいでずとも>
<<(逢うこともせず)外からお姿を拝見しながら恋しているだけにしましょう。ベニバナの色ようには顔色に出さないようにして>>
この詠み人知らずの短歌は,まさに自分の「偲ふ恋」の心を素直に表現している良い歌だと私は思います。
なお,「偲ふ」については2010年3月28日から3回に渡ってこのブログに書いていますので,よかったら見てください。
相手にも,周囲にも気付かれないよう恋したうという決意と,しかし相手を見ていると偲ぶ想いと裏腹に顔が赤くなるのを止められないかもしれない。そんな葛藤(偲ふ恋の苦しさ)が私にはストレートに伝わってきます。
さて,反対の「白(しら,しろ)」を見て行くことしましょう。
「白」は単独で使われるよりも次のような修飾語として使われることが万葉集では多いです。
白髪(しらか,しろかみ),白香(しらか),白橿(しらかし),白雲(しらくも),白鷺(しらさぎ),白菅(しらすげ),白玉(しらたま),白躑躅(しらつつじ),白鳥(しらとり),白塗(しらぬり),白浜(しらはま),白髭(しらひげ),白紐(しらひも),白斑(しらふ),白砂(しらまなご),白山(しらやま),白雪(しらゆき),白酒(しろき),白栲(しろたへ)
ただ,「白」単独で使われる場合も少ないですが,あります。
矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも(19-4155)
<やかたをのましろのたかをやどにすゑ かきなでみつつかはくしよしも>
<<矢形の尾の真白な鷹を家に置いて,撫でては眺めつつ飼うことの気分は最高だ>>
この短歌は大伴家持が越中赴任中に鷹狩りの鷹をペットとして自宅で飼って,心癒される気持ちを詠ったものです。
矢の形をした尾が真っ白な珍しい鷹を手に入れ飼い始めたら,本当に可愛くて仕方がない。目を細めて,なでたり,眺めて声をかけたりしている家持の姿が目に浮かびます。
最後に,「紅」と「白」が両方出てくる長歌の一部を紹介します。
~ 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ(17-3973)
<~ はるののにすみれをつむと しろたへのそでをりかへし くれなゐのあかもすそびき をとめらはおもひみだれて きみまつとうらごひすなり こころぐしいざみにゆかなことはたなゆひ>
<<~ 春の野でスミレを摘もうと白い袖を折り返し,赤い裾を引上げた娘子たちは,心を乱して君(家持君)を待っています。心の中で恋する切ない思いで。さあ,見に行きましょう。そんな気持ちを察して>>
この長歌は,大伴池主が越中で家持に贈ったと伝えられています。
この長歌から,野で花を摘む娘子たちの姿はトップスは「白」で,ボトムズは「紅」だったようですね。まさに神社の巫女さんの装束そのものです。
「紅」と「白」のコントラストが,まさに「日の丸」に代表される日本にとって昔から美しいとされる色彩のひとつだったことは間違いありませんね。
対語シリーズ「苦と楽」に続く。
2011年7月30日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…行く(4:まとめ) 「行く」と「帰る」はセット?
「行く」の最終回は,「行って帰る」「あの人は行ってしまった。でも帰ってきてほしい」「旅行く途中だけど,早く家に帰りたいな」など,「行く」は「帰る」とセットで使われることがあります。
万葉集で何らかの形で「行(く)」と「帰(る)」の両方が同じ和歌に出てくるものが36首あります。
いくつか紹介しましょう。
な行きそと帰りも来やとかへり見に行けど帰らず道の長手を(12-3132)
<なゆきそと かへりもくやと かへりみに ゆけどかへらず みちのながてを>
<<「行かないで」と。僕は「必ず帰って来るから」と振り返り振り返り家を出て行ってしまったけど,未だ帰れないこの長い道のり>>
この短歌は詠み人知らずの羈旅の歌です。行けども行けどもたどり着かない長い旅路。いったいいつ帰れるのだろう。家を出るときの別れの辛さを思い出す。
そんな心細い旅先での気持ちがこの短歌から私にはハッキリと伝わってきます。
玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我れ行く帰るさに見む(15-3706)
<たましける きよきなぎさを しほみてば あかずわれゆく かへるさにみむ>
<<玉を敷いたような清らかな渚に潮が満ちてきたならば,見て飽きないほど美しい渚を,(私たちは次の寄港地<新羅>に行くが)帰ってきたときはたのしみに見よう>>
これは,遣新羅使の阿倍継麻呂が対馬の竹敷の港に寄港したときに詠んだ短歌です。
対馬は島でありながらリアス式の海岸が多い場所です。竹敷の浦もそんな場所にあり,入江の奥深くの港で波も静かで,砂浜も白い宝石を敷き詰めたように本当に美しい渚だったのでしょう。
私は対馬にはまだ行ったことはありませんが,Googleの地図の航空写真を見ると,まさにそんな印象をもちます。航空写真は近代的な建物をあまり意識させないためか,当時の状況を想像するのに非常に便利だと私は思います。
我妹子がやどの籬を見に行かばけだし門より帰してむかも(4-777)
<わぎもこが やどのまがきをみにゆかば けだしかどよりかへしてむかも>
<<あなたの家の生垣を見に行ったら、ひっとして門から「帰ってください」と追い返そうとなさるのでしょうか>>
これの短歌は大伴家持が10歳ほど年上でバツイチの紀女郎に贈ったものです。家持は当時紀女郎にお熱を上げていたようです。結婚は難しい関係であることは紀女郎も良く分かっていて,ある一定の距離を置こうとしますが,若き家持はそんなことお構いなしです。
家持は相聞歌を何首も紀女郎に贈って強烈なアプローチをします。いっぽう紀女郎は失礼がないように「愛おしい」と返していますが「自分は年をとっています」と気付かせることも忘れていません。
紀女郎は万葉集で唯一名前(小鹿という名)が明らかになっている女性だそうです。他の女性は「○○の女性」といった呼び方で名前は出てきません。紀女郎という呼び方も「紀氏の女性」という意味ですから名前ではありません。
家持は若き日に陥った結ばれぬ恋の思い出を自分の大切な心の宝にしたかったのでしょうか。万葉集に「小鹿」の名の残したのもそのせいかも知れませんね。
さて,実はまだまだ載せたい動詞がたくさんあるのですが,今回で動きの詞シリーズは一旦お休みし,次回から新シリーズを開始します。
新しいシリーズは「対語シリーズ」です。今回紹介した「行く」と「帰る」のような関係の言葉を取りあげて,私の考えをお伝えすることをしばらく続けてみようと思います。
対語シリーズ「紅と白」に続く。
万葉集で何らかの形で「行(く)」と「帰(る)」の両方が同じ和歌に出てくるものが36首あります。
いくつか紹介しましょう。
な行きそと帰りも来やとかへり見に行けど帰らず道の長手を(12-3132)
<なゆきそと かへりもくやと かへりみに ゆけどかへらず みちのながてを>
<<「行かないで」と。僕は「必ず帰って来るから」と振り返り振り返り家を出て行ってしまったけど,未だ帰れないこの長い道のり>>
この短歌は詠み人知らずの羈旅の歌です。行けども行けどもたどり着かない長い旅路。いったいいつ帰れるのだろう。家を出るときの別れの辛さを思い出す。
そんな心細い旅先での気持ちがこの短歌から私にはハッキリと伝わってきます。
玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我れ行く帰るさに見む(15-3706)
<たましける きよきなぎさを しほみてば あかずわれゆく かへるさにみむ>
<<玉を敷いたような清らかな渚に潮が満ちてきたならば,見て飽きないほど美しい渚を,(私たちは次の寄港地<新羅>に行くが)帰ってきたときはたのしみに見よう>>
これは,遣新羅使の阿倍継麻呂が対馬の竹敷の港に寄港したときに詠んだ短歌です。
対馬は島でありながらリアス式の海岸が多い場所です。竹敷の浦もそんな場所にあり,入江の奥深くの港で波も静かで,砂浜も白い宝石を敷き詰めたように本当に美しい渚だったのでしょう。
私は対馬にはまだ行ったことはありませんが,Googleの地図の航空写真を見ると,まさにそんな印象をもちます。航空写真は近代的な建物をあまり意識させないためか,当時の状況を想像するのに非常に便利だと私は思います。
我妹子がやどの籬を見に行かばけだし門より帰してむかも(4-777)
<わぎもこが やどのまがきをみにゆかば けだしかどよりかへしてむかも>
<<あなたの家の生垣を見に行ったら、ひっとして門から「帰ってください」と追い返そうとなさるのでしょうか>>
これの短歌は大伴家持が10歳ほど年上でバツイチの紀女郎に贈ったものです。家持は当時紀女郎にお熱を上げていたようです。結婚は難しい関係であることは紀女郎も良く分かっていて,ある一定の距離を置こうとしますが,若き家持はそんなことお構いなしです。
家持は相聞歌を何首も紀女郎に贈って強烈なアプローチをします。いっぽう紀女郎は失礼がないように「愛おしい」と返していますが「自分は年をとっています」と気付かせることも忘れていません。
紀女郎は万葉集で唯一名前(小鹿という名)が明らかになっている女性だそうです。他の女性は「○○の女性」といった呼び方で名前は出てきません。紀女郎という呼び方も「紀氏の女性」という意味ですから名前ではありません。
家持は若き日に陥った結ばれぬ恋の思い出を自分の大切な心の宝にしたかったのでしょうか。万葉集に「小鹿」の名の残したのもそのせいかも知れませんね。
さて,実はまだまだ載せたい動詞がたくさんあるのですが,今回で動きの詞シリーズは一旦お休みし,次回から新シリーズを開始します。
新しいシリーズは「対語シリーズ」です。今回紹介した「行く」と「帰る」のような関係の言葉を取りあげて,私の考えをお伝えすることをしばらく続けてみようと思います。
対語シリーズ「紅と白」に続く。
2011年7月23日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…行く(3) 「おみやげ」を持って行こう♪
少し遅きに失した感がありますが,「なでしこJAPAN」がサッカー女子ワールドカップで優勝し,世界一になったことは本当に素晴らしく,嬉しいことだと思います。けっして諦めない気持ちがあれば難しい状況でも乗り越えられることを示してくれ,日本を大いに勇気づけるビッグニュースでしたね。
さて,万葉集では秋の七草のひとつ「なでしこ」の花が26首の和歌で出てきます。その中で「行く」も併せて詠んでいる次の旋頭歌が1首あります。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は,紀女郎(きのいらつめ)の父紀鹿人(きのしかひと)が大伴旅人の弟である大伴稲公(いなぎみ)の荘園の別荘に招かれたとき詠んだとされるものです。以前にもこのブログで書きましたが,大伴一族はあちこちに荘園をもっていたようです。
そして,手おり束ねて平城京の家人におみやげとして持っていきたいほどその別荘には美しくなでしこの花が咲き乱れていることを賞賛した歌だと私は思います。
さて,奈良時代「おみやげ」のことを「づと」と呼んでいました。それを持って行くと誰でもうれしいものです。
あしひきの山行きしかば山人の我れに得しめし山づとぞこれ(20-4293)
<あしひきのやまゆきしかば やまびとのわれにえしめしやまづとぞこれ>
<<山村に行ったところ山人が余にお土産をくれたのだ。これがその土産なのだ>>
この短歌,聖武(しやうむ)天皇が即位する前の女性天皇である元正(げんしやう)天皇が詠んだとされるものです。しかし,この短歌に対して伯父の舎人親王(とねりのしんわう)が次のように返歌しています。
あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ(20-4294)
<あしひきのやまにゆきけむ やまびとのこころもしらずやまびとやたれ>
<<山村に行かれた陛下は実は山人だったのに,おっしゃっている意味が分かりませんぞ。山人が陛下でなかったらいったい誰だったのですかな?>>
元正天皇が山村に行って美味しそうな山菜,キノコ,木の実などをたくさん採ったのだけれど,天皇(まして女性天皇)がそんなはしゃいではしたない行動をしたと悟られたくなくて,現地の山人がおみやげとして渡してくれたものだと詠った。
天皇自らが山に入り,お付きの者が怪我させたら大変だと制止するのを無視していっぱい採ろうしたことが舎人親王にはバレバレで,親王はそれを婉曲に皮肉って返歌したのではないかと私は解釈します。
<万葉集勅撰論には反対>
でも,こんなやり取りの短歌が天皇が詠ったと正式な記録に残っているでしょうか。
この2首の左注には藤原仲麻呂邸で紹介され,大伴家持が記録したとあります。
これが紹介されたのは恐らく宴席で,参加者は男だけ。「女帝ばかり続くと大変なのでは?」というような話が出たとき「そうそう元正天皇のとき,こんなやり取りをしたという逸話がある」として紹介されたものではないかと私は勝手に想像します。
この2首の紹介は天平勝寶5年(753年)5月の行われたとあり,聖武天皇の次帝である孝謙天皇(女帝)の時代です。
「天武系の皇族は女性がどうしてこんなに強いのかなあ。何をおみやげに持って行けば良いか分からん」などとこの席の出席者(男達)が言っていたかどうかは,さすがの私も想像することはできません(天の川君ならするかな)。
行く(4:まとめ)に続く。
さて,万葉集では秋の七草のひとつ「なでしこ」の花が26首の和歌で出てきます。その中で「行く」も併せて詠んでいる次の旋頭歌が1首あります。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は,紀女郎(きのいらつめ)の父紀鹿人(きのしかひと)が大伴旅人の弟である大伴稲公(いなぎみ)の荘園の別荘に招かれたとき詠んだとされるものです。以前にもこのブログで書きましたが,大伴一族はあちこちに荘園をもっていたようです。
そして,手おり束ねて平城京の家人におみやげとして持っていきたいほどその別荘には美しくなでしこの花が咲き乱れていることを賞賛した歌だと私は思います。
さて,奈良時代「おみやげ」のことを「づと」と呼んでいました。それを持って行くと誰でもうれしいものです。
あしひきの山行きしかば山人の我れに得しめし山づとぞこれ(20-4293)
<あしひきのやまゆきしかば やまびとのわれにえしめしやまづとぞこれ>
<<山村に行ったところ山人が余にお土産をくれたのだ。これがその土産なのだ>>
この短歌,聖武(しやうむ)天皇が即位する前の女性天皇である元正(げんしやう)天皇が詠んだとされるものです。しかし,この短歌に対して伯父の舎人親王(とねりのしんわう)が次のように返歌しています。
あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ(20-4294)
<あしひきのやまにゆきけむ やまびとのこころもしらずやまびとやたれ>
<<山村に行かれた陛下は実は山人だったのに,おっしゃっている意味が分かりませんぞ。山人が陛下でなかったらいったい誰だったのですかな?>>
元正天皇が山村に行って美味しそうな山菜,キノコ,木の実などをたくさん採ったのだけれど,天皇(まして女性天皇)がそんなはしゃいではしたない行動をしたと悟られたくなくて,現地の山人がおみやげとして渡してくれたものだと詠った。
天皇自らが山に入り,お付きの者が怪我させたら大変だと制止するのを無視していっぱい採ろうしたことが舎人親王にはバレバレで,親王はそれを婉曲に皮肉って返歌したのではないかと私は解釈します。
<万葉集勅撰論には反対>
でも,こんなやり取りの短歌が天皇が詠ったと正式な記録に残っているでしょうか。
この2首の左注には藤原仲麻呂邸で紹介され,大伴家持が記録したとあります。
これが紹介されたのは恐らく宴席で,参加者は男だけ。「女帝ばかり続くと大変なのでは?」というような話が出たとき「そうそう元正天皇のとき,こんなやり取りをしたという逸話がある」として紹介されたものではないかと私は勝手に想像します。
この2首の紹介は天平勝寶5年(753年)5月の行われたとあり,聖武天皇の次帝である孝謙天皇(女帝)の時代です。
「天武系の皇族は女性がどうしてこんなに強いのかなあ。何をおみやげに持って行けば良いか分からん」などとこの席の出席者(男達)が言っていたかどうかは,さすがの私も想像することはできません(天の川君ならするかな)。
行く(4:まとめ)に続く。
2011年7月16日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…行く(2) 行く川の流れは絶えずして...。
鴨長明(かものながあきら)が鎌倉時代に表した方丈記(はうぢやうき)には「行く川のながれはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたは、かつきえかつむすびてひさしくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくのこどし。(後略)」とあります。
方丈記は仏教の無常観を前提にしたと思われる「常なるものを求めることのはかなさ」を述べた日本三大随筆のひとつとされています。
冒頭の有名な書き出しは,行く川の水や淀みの泡沫(うたかた)を例に世の中に常なるものはないことの譬えを示しているのですが,方丈記より400年ほどさかのぼる万葉集にも行く水の行き先は分からない(常でない)ことを表現した和歌が出てきます。
~ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留めかねつも(19-4160)
<~ ふくかぜの みえぬがごとく ゆくみづの とまらぬごとく つねもなく うつろふみれば にはたづみ ながるるなみた とどめかねつ>
<<~ 吹く風の方向が見えないように,行く水が形を変え止まらず流れて行くように,世の中に常なるものがなく変わって行く姿を見れば,流れる涙を抑えることができない>>
これは大伴家持が越中で世の無常を悲しんで詠んだ長歌の後半部分です。
恐らく元気だった家臣の急死を悼んで詠んだものだと思われます。人はいつまでも良い状態であることを望むが,その通りには行かない。そのことを現実として見せつけられるとやはり悲しい。そして,涙がとめどなく流れてしまう。
この家持の長歌は,山上憶良の仏教観の影響を強く受けて詠まれたものではないかと私は感じます。
また,万葉集では方丈記の表現に使われた水に浮かぶ泡沫を見て,次のような無常観を詠った短歌も出てきます。
巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは(7-1269)
<まきむくのやまへとよみて ゆくみづのみなわのごとしよのひとわれは>
<<巻向山の麓を水音を立てて流れ行く水の泡沫が消えたりできたりするように,世の中の無常さを感じている私です>>
しかし,万葉集全体でみると,途絶えることのない流れを序とした恋の歌や,無常観を逆手にとり今は逢えない状態が続いているがそのままではない(逢える)というも歌も出てきます。
巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む(7-1100)
<まきむくのあなしのかはゆ ゆくみづのたゆることなくまたかへりみむ>
<<巻向の穴師川を流れる水のように、絶えることなく何度もまた(あなたに逢うために)見に来ましょう>>
一瀬には千たび障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも(4-699)
<ひとせにはちたびさはらひ ゆくみづののちにもあはむ いまにあらずとも>
<<川の瀬では中州や岩などの障害物だらけの中流れ行く水も後にはかならず合流するようにあなたと逢えるでしょう。今はそれができないとしても>>
後の方の短歌は万葉集に5首ほど短歌を載せている大伴像見(おほとものかたみ)という人物が詠んだもので,5月21日のこのブログでも紹介しました百人一首の崇徳院の歌とほとんど同じことを表現しているように私は感じます。
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院:77)
<<急流の瀬の岩に掛かって流れる滝の水は岩の左右に別れても岩を過ぎた後はまた合流するようにあなたとまた逢えましょう>>
万葉時代の万葉歌人は既に行く川の水や泡沫の変化を見て,いろいろなものの考え方,見方の譬え(序詞)にしょうとしていた。そして,後世の人々もその表現を利用して短歌や随筆を創作したのかも知れませんね。
行く(3)に続く。
方丈記は仏教の無常観を前提にしたと思われる「常なるものを求めることのはかなさ」を述べた日本三大随筆のひとつとされています。
冒頭の有名な書き出しは,行く川の水や淀みの泡沫(うたかた)を例に世の中に常なるものはないことの譬えを示しているのですが,方丈記より400年ほどさかのぼる万葉集にも行く水の行き先は分からない(常でない)ことを表現した和歌が出てきます。
~ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留めかねつも(19-4160)
<~ ふくかぜの みえぬがごとく ゆくみづの とまらぬごとく つねもなく うつろふみれば にはたづみ ながるるなみた とどめかねつ>
<<~ 吹く風の方向が見えないように,行く水が形を変え止まらず流れて行くように,世の中に常なるものがなく変わって行く姿を見れば,流れる涙を抑えることができない>>
これは大伴家持が越中で世の無常を悲しんで詠んだ長歌の後半部分です。
恐らく元気だった家臣の急死を悼んで詠んだものだと思われます。人はいつまでも良い状態であることを望むが,その通りには行かない。そのことを現実として見せつけられるとやはり悲しい。そして,涙がとめどなく流れてしまう。
この家持の長歌は,山上憶良の仏教観の影響を強く受けて詠まれたものではないかと私は感じます。
また,万葉集では方丈記の表現に使われた水に浮かぶ泡沫を見て,次のような無常観を詠った短歌も出てきます。
巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは(7-1269)
<まきむくのやまへとよみて ゆくみづのみなわのごとしよのひとわれは>
<<巻向山の麓を水音を立てて流れ行く水の泡沫が消えたりできたりするように,世の中の無常さを感じている私です>>
しかし,万葉集全体でみると,途絶えることのない流れを序とした恋の歌や,無常観を逆手にとり今は逢えない状態が続いているがそのままではない(逢える)というも歌も出てきます。
巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む(7-1100)
<まきむくのあなしのかはゆ ゆくみづのたゆることなくまたかへりみむ>
<<巻向の穴師川を流れる水のように、絶えることなく何度もまた(あなたに逢うために)見に来ましょう>>
一瀬には千たび障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも(4-699)
<ひとせにはちたびさはらひ ゆくみづののちにもあはむ いまにあらずとも>
<<川の瀬では中州や岩などの障害物だらけの中流れ行く水も後にはかならず合流するようにあなたと逢えるでしょう。今はそれができないとしても>>
後の方の短歌は万葉集に5首ほど短歌を載せている大伴像見(おほとものかたみ)という人物が詠んだもので,5月21日のこのブログでも紹介しました百人一首の崇徳院の歌とほとんど同じことを表現しているように私は感じます。
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院:77)
<<急流の瀬の岩に掛かって流れる滝の水は岩の左右に別れても岩を過ぎた後はまた合流するようにあなたとまた逢えましょう>>
万葉時代の万葉歌人は既に行く川の水や泡沫の変化を見て,いろいろなものの考え方,見方の譬え(序詞)にしょうとしていた。そして,後世の人々もその表現を利用して短歌や随筆を創作したのかも知れませんね。
行く(3)に続く。
2011年7月11日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…行く(1) 恋路を行くのは苦難が多い?
<梅雨明けの我が家周辺>
関東地方は昨年より1週間以上早く,梅雨があけてしまいました。近所の街路樹に100本ほど植えてある百日紅(サルスベリ)の花は,まだほんの数本しか咲いていません。
また,近くの観光ぶどう園では,急いで袋かけを行っているようです。
写真は今年咲き始めた百日紅の花,一部(奥)のぶどうに袋かけが終わったぶどう畑の様子です。
さて,また動きの詞シリーズに戻り,今回から数回にわたり「行く」を取りあげます。
「行く」を国語辞典で調べると多くの意味が出てきます。万葉集にも次のようないろいろなニュアンスの違いの用例が何か所にも出てきます。
朝行く(あさゆく)…朝に出かける。朝歩く。
天行く(あまゆく)…(月や太陽が)天上を行く。
打ち行く(うちゆく)…ちょっと行く。馬に乗って行く。
離り行く(かりゆく)…離れ行く。
来経行く(きへゆく)…年月が過ぎゆく。
里行く(さとゆく)…里を行く。里を歩く。
去り行く(さりゆく)…(季節などが)移り巡り行く。
携はり行く(たづさはりゆく)…連れ立って行く。
旅行く(たびゆく)…旅に出て行く。旅行する。たびたつ。
尋め行く(とめゆく)…尋ねて行く。
鳴き行く(なきゆく)…(鳥,獣などが)鳴きながら飛んでいく(彷徨う)。
泥み行く(なづみゆく)…行き悩みながら行く。
更け行く(ふけゆく)…夜が深くなって行く。
二行く(ふたゆく)…二心がある。心が両方に通う。二度繰り返す。
道行く(みちゆく)…道を行く。旅をする。
山行く(やまゆく)…山に登る。山の中を行く。
前に付く言葉によって「行く」の意味が微妙に異なっていることが分かるでしょうか。万葉時代から「行く」はいくつもの意味合いで使われてきた言葉と言えそうです。
「行く」がさまざまな意味合いを万葉時代から持っていた理由として,私はいろいろな言葉と連なって使われてきたからかもしれないのでは?と考えています。当時から「行く」という言葉は単に人がどこかに行くことのみを指しているのではなく,広い概念を持つ抽象的な言葉だったのだろうとも私は感じます。
具体的期用例を万葉集に出てくる短歌で見てみましょう。
うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む(4-733)
<うつせみの よやもふたゆく なにすとか いもにあはずて わがひとりねむ>
<<世の中を二度繰り返すことができるなどありはしない。どうして貴女と逢わないで私独りで寝ることができるだろうか>>
この短歌は大伴家持が 坂上大嬢に対して送った恋の歌です。「二行く」とは「二度繰り返す」という意味で使われています。結構激しく恋情を表した恋の歌だと私は思います。
まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩より泥み行く見れば(13-3316)
<まそかがみ もてれどわれはしるしなしき みがかちよりなづみゆくみれば>
<<澄み切った鏡を私が持っていても甲斐がありません。あなた様がお歩きになられるときの行き先をお悩みになる姿を見ますと>>
この短歌は詠み人知らずの女歌です。私の解釈ですが,「まそ鏡」は自分の純粋な相手への恋愛感情を表し,「泥み行く」は相手(男)が自分への愛情が定まっているのかどうか分からない状態を指します。
その「泥み行く」状態があまりにひどいため,自分だけが相手の男に対する純粋な愛情を持っていても仕方がないと相手の男に伝え,本気になるよう促そうとしている女性の気持ちを表現している歌だと私は解釈します。
本当は恋路を二人で一緒に手をつないで行きたいのに,なかなかそうならない。それが,昔も今も変わらない恋愛の悩ましいところなのでしょうか。
行く(2)に続く。
関東地方は昨年より1週間以上早く,梅雨があけてしまいました。近所の街路樹に100本ほど植えてある百日紅(サルスベリ)の花は,まだほんの数本しか咲いていません。
また,近くの観光ぶどう園では,急いで袋かけを行っているようです。
写真は今年咲き始めた百日紅の花,一部(奥)のぶどうに袋かけが終わったぶどう畑の様子です。
さて,また動きの詞シリーズに戻り,今回から数回にわたり「行く」を取りあげます。
「行く」を国語辞典で調べると多くの意味が出てきます。万葉集にも次のようないろいろなニュアンスの違いの用例が何か所にも出てきます。
朝行く(あさゆく)…朝に出かける。朝歩く。
天行く(あまゆく)…(月や太陽が)天上を行く。
打ち行く(うちゆく)…ちょっと行く。馬に乗って行く。
離り行く(かりゆく)…離れ行く。
来経行く(きへゆく)…年月が過ぎゆく。
里行く(さとゆく)…里を行く。里を歩く。
去り行く(さりゆく)…(季節などが)移り巡り行く。
携はり行く(たづさはりゆく)…連れ立って行く。
旅行く(たびゆく)…旅に出て行く。旅行する。たびたつ。
尋め行く(とめゆく)…尋ねて行く。
鳴き行く(なきゆく)…(鳥,獣などが)鳴きながら飛んでいく(彷徨う)。
泥み行く(なづみゆく)…行き悩みながら行く。
更け行く(ふけゆく)…夜が深くなって行く。
二行く(ふたゆく)…二心がある。心が両方に通う。二度繰り返す。
道行く(みちゆく)…道を行く。旅をする。
山行く(やまゆく)…山に登る。山の中を行く。
前に付く言葉によって「行く」の意味が微妙に異なっていることが分かるでしょうか。万葉時代から「行く」はいくつもの意味合いで使われてきた言葉と言えそうです。
「行く」がさまざまな意味合いを万葉時代から持っていた理由として,私はいろいろな言葉と連なって使われてきたからかもしれないのでは?と考えています。当時から「行く」という言葉は単に人がどこかに行くことのみを指しているのではなく,広い概念を持つ抽象的な言葉だったのだろうとも私は感じます。
具体的期用例を万葉集に出てくる短歌で見てみましょう。
うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む(4-733)
<うつせみの よやもふたゆく なにすとか いもにあはずて わがひとりねむ>
<<世の中を二度繰り返すことができるなどありはしない。どうして貴女と逢わないで私独りで寝ることができるだろうか>>
この短歌は大伴家持が 坂上大嬢に対して送った恋の歌です。「二行く」とは「二度繰り返す」という意味で使われています。結構激しく恋情を表した恋の歌だと私は思います。
まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩より泥み行く見れば(13-3316)
<まそかがみ もてれどわれはしるしなしき みがかちよりなづみゆくみれば>
<<澄み切った鏡を私が持っていても甲斐がありません。あなた様がお歩きになられるときの行き先をお悩みになる姿を見ますと>>
この短歌は詠み人知らずの女歌です。私の解釈ですが,「まそ鏡」は自分の純粋な相手への恋愛感情を表し,「泥み行く」は相手(男)が自分への愛情が定まっているのかどうか分からない状態を指します。
その「泥み行く」状態があまりにひどいため,自分だけが相手の男に対する純粋な愛情を持っていても仕方がないと相手の男に伝え,本気になるよう促そうとしている女性の気持ちを表現している歌だと私は解釈します。
本当は恋路を二人で一緒に手をつないで行きたいのに,なかなかそうならない。それが,昔も今も変わらない恋愛の悩ましいところなのでしょうか。
行く(2)に続く。
2011年7月7日木曜日
天の川特集(3:まとめ)‥「七夕」はビジネスチャンス?
万葉集で,山上憶良と大伴家持とは別に「天の川」や「七夕」に関して詠まれた和歌は,ほとんどが巻10に詠み人知らずの和歌として掲載されています。
これは万葉集の編者(家持)が,ただ集めたら偶然その巻にしかなかったというのではなく,意図的に(強い意志を込めて)配置したものと私は考えています。
大伴氏は旅人の時代以前から各地に大きな農園(平安時代に荘園と呼ばれたようなもの)を持っていて,さまざまな農作物(含む中国,朝鮮伝来作物)を植え,それらや,またその加工品(養蚕,製紙,酒造なども含む)を作って,また売って,富を得ていたのではないかと私は想像します。
そのため,大伴氏一族は経済的には比較的豊かで,昔からの名家としてのプライドは高かったこともあり,権力の座にどんな汚い手段を使ってでも執着することに,それほど興味がなかったのかも知れません。
<七夕は今で言えばバレンタインデー見ないなもの?>
それよりも,七夕などのような行事で,願いが叶うような供物としての野菜や花木,その加工品などを流行らせることができれば,大農園や関連手工業を営んでいる大伴氏にとって,安定的な消費が期待でき,ビジネスとして計画的な経営が行えます。
現在も,母の日にはカーネーション,クリスマスにはモミの木やポインセチア,冬至にはユズ湯,夏至にはショウブ湯,正月には松飾り,花まつりには甘茶,桃の節句には雛あられ,端午の節句には柏餅などなど,関係する生産者はその時の消費を当てこんで生産計画を立てています。
また,バレンタインデー,ホワイトデーなど,従来日本には存在しなかった外国の習慣を新たに流行させ,プレゼントなどに使う製品の消費を格段に高めようとする関係業界の経営戦術も見受けられます。
<七夕を流行らせようとした憶良と家持?>
実は憶良(遣唐使で得た知識によって大伴氏の助言役だった?)や家持が,天の川や七夕の和歌を詠み,またみんなに詠ませる機会を作り,七夕を流行させようとしたのではないかと私は想像するのです。
では,七夕(今の八月上旬)でどんなものが消費されるのか,万葉集の七夕の和歌を見て考えてみます。
天の川霧立ち上る織女の雲の衣のかへる袖かも(10-2063)
<あまのがはきりたちのぼる たなばたのくものころもの かへるそでかも>
<<天の川に霧が立ち昇っている。織女の雲の衣の風にひるがえる袖のようだ>>
織姫は長い袖を持った服装であることがこの短歌でイメージされ,意中の男性からの妻問いを待つ女性は,このような長い袖をもつ服装を着て,紐を解き,寝床で待っていたのかも知れません。
男性の方も妻問いをするときは,七夕伝説の牽牛のような出で立ちで,女性の家まで夜路を行ったと思われます。
すなわち,七夕のときはいつもと違う服装で逢瀬を迎える訳ですから,七夕は男も女も妻問いのために服装を新調する一大イベントだったのかも知れません(今でいえは夏に浴衣を新調するように)。当時,機織や裁縫は身内や自分でやるとしても,機織のために生糸や染色のための植物などの需要は確実に増えます。
繰り返しになりますが,七夕伝説を利用して男女の出会いを演出することを流行らせれば,この時期の前に確実に織物が盛んになり,生糸や染め物の材料の需要が増すはずです。
他に需要を増やすものがありそうな短歌があります。
天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に(10-2059)
<あまのがは なみはたつとも わがふねは いざこぎいでむ よのふけぬまに>
<<天の川に荒波が立とうとも,いざこの舟を漕ぎ出そう。あの娘と逢える一年で一日だけのこの夜が更けてしまわないうちに>>
この短歌は,七夕の節会で詠まれた短歌だと私は思います。歌会を伴う七夕の節会があちこちで広がると,当然ですが酒や肴の消費が増えます。この短歌の作者は酒の勢いで,この歌を詠んでいるように私には感じ取れます。
また,歌会で詠んだ歌を書く,木簡や当時超高級品だった和紙も多く使われたのではないでしょうか。節会が終わった後,妻問いする相手に作った和歌を書いて渡したことも考えられます。
天の川 「たびとはん。ところで,このブログもワイのお陰で人気が沸騰しているやんか。ワイの『天の川』ブランドの高級ドレス,シューズ,バッグ,小物なんかを通販やブティックで大々的に売りだしてな,ひと儲けしよやんか。」
この特集は「天の川」特集で「天の川君」の特集ではないと言ったのに,君はやっぱり最後に出しゃばってきたな。
確かに,最近このブログは以前に比べてかなり多くの方に見て頂いているけれど,それが君の人気のお陰だとは..ね? それに「天の川」はいろいろな製品でとっくに商標登録されいるから「天の川」プランドも残念ながら無理だね。
まあ,天の川君の夢物語には付き合わず,天の川特集はこれくらいにし,次回からはまた動きの詞シリーズに戻りましょう。今回の「天の川」特集,多くの方のご愛読をいただき,ありがとうございました。
動きの詞シリーズ…行く(1)に続く。
これは万葉集の編者(家持)が,ただ集めたら偶然その巻にしかなかったというのではなく,意図的に(強い意志を込めて)配置したものと私は考えています。
大伴氏は旅人の時代以前から各地に大きな農園(平安時代に荘園と呼ばれたようなもの)を持っていて,さまざまな農作物(含む中国,朝鮮伝来作物)を植え,それらや,またその加工品(養蚕,製紙,酒造なども含む)を作って,また売って,富を得ていたのではないかと私は想像します。
そのため,大伴氏一族は経済的には比較的豊かで,昔からの名家としてのプライドは高かったこともあり,権力の座にどんな汚い手段を使ってでも執着することに,それほど興味がなかったのかも知れません。
<七夕は今で言えばバレンタインデー見ないなもの?>
それよりも,七夕などのような行事で,願いが叶うような供物としての野菜や花木,その加工品などを流行らせることができれば,大農園や関連手工業を営んでいる大伴氏にとって,安定的な消費が期待でき,ビジネスとして計画的な経営が行えます。
現在も,母の日にはカーネーション,クリスマスにはモミの木やポインセチア,冬至にはユズ湯,夏至にはショウブ湯,正月には松飾り,花まつりには甘茶,桃の節句には雛あられ,端午の節句には柏餅などなど,関係する生産者はその時の消費を当てこんで生産計画を立てています。
また,バレンタインデー,ホワイトデーなど,従来日本には存在しなかった外国の習慣を新たに流行させ,プレゼントなどに使う製品の消費を格段に高めようとする関係業界の経営戦術も見受けられます。
<七夕を流行らせようとした憶良と家持?>
実は憶良(遣唐使で得た知識によって大伴氏の助言役だった?)や家持が,天の川や七夕の和歌を詠み,またみんなに詠ませる機会を作り,七夕を流行させようとしたのではないかと私は想像するのです。
では,七夕(今の八月上旬)でどんなものが消費されるのか,万葉集の七夕の和歌を見て考えてみます。
天の川霧立ち上る織女の雲の衣のかへる袖かも(10-2063)
<あまのがはきりたちのぼる たなばたのくものころもの かへるそでかも>
<<天の川に霧が立ち昇っている。織女の雲の衣の風にひるがえる袖のようだ>>
織姫は長い袖を持った服装であることがこの短歌でイメージされ,意中の男性からの妻問いを待つ女性は,このような長い袖をもつ服装を着て,紐を解き,寝床で待っていたのかも知れません。
男性の方も妻問いをするときは,七夕伝説の牽牛のような出で立ちで,女性の家まで夜路を行ったと思われます。
すなわち,七夕のときはいつもと違う服装で逢瀬を迎える訳ですから,七夕は男も女も妻問いのために服装を新調する一大イベントだったのかも知れません(今でいえは夏に浴衣を新調するように)。当時,機織や裁縫は身内や自分でやるとしても,機織のために生糸や染色のための植物などの需要は確実に増えます。
繰り返しになりますが,七夕伝説を利用して男女の出会いを演出することを流行らせれば,この時期の前に確実に織物が盛んになり,生糸や染め物の材料の需要が増すはずです。
他に需要を増やすものがありそうな短歌があります。
天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に(10-2059)
<あまのがは なみはたつとも わがふねは いざこぎいでむ よのふけぬまに>
<<天の川に荒波が立とうとも,いざこの舟を漕ぎ出そう。あの娘と逢える一年で一日だけのこの夜が更けてしまわないうちに>>
この短歌は,七夕の節会で詠まれた短歌だと私は思います。歌会を伴う七夕の節会があちこちで広がると,当然ですが酒や肴の消費が増えます。この短歌の作者は酒の勢いで,この歌を詠んでいるように私には感じ取れます。
また,歌会で詠んだ歌を書く,木簡や当時超高級品だった和紙も多く使われたのではないでしょうか。節会が終わった後,妻問いする相手に作った和歌を書いて渡したことも考えられます。
天の川 「たびとはん。ところで,このブログもワイのお陰で人気が沸騰しているやんか。ワイの『天の川』ブランドの高級ドレス,シューズ,バッグ,小物なんかを通販やブティックで大々的に売りだしてな,ひと儲けしよやんか。」
この特集は「天の川」特集で「天の川君」の特集ではないと言ったのに,君はやっぱり最後に出しゃばってきたな。
確かに,最近このブログは以前に比べてかなり多くの方に見て頂いているけれど,それが君の人気のお陰だとは..ね? それに「天の川」はいろいろな製品でとっくに商標登録されいるから「天の川」プランドも残念ながら無理だね。
まあ,天の川君の夢物語には付き合わず,天の川特集はこれくらいにし,次回からはまた動きの詞シリーズに戻りましょう。今回の「天の川」特集,多くの方のご愛読をいただき,ありがとうございました。
動きの詞シリーズ…行く(1)に続く。
2011年7月2日土曜日
天の川特集(2)‥憶良・家持は「七夕」通?
貧窮問答歌や家族愛を詠った優れた歌人山上憶良は,遣唐使の経験から仏教や中国の律令制度などさまざまな知識をもった学者肌の人であったと私は思います。
その憶良が万葉集で詠っている七夕の和歌は,長歌1首,短歌11首の計12首あります。
万葉集で七夕の和歌を同じく長歌1首,短歌12首の計13首を詠っているもうひとりの歌人がいます。それは大伴家持です。
このほかに万葉集では100首ほどの七夕の和歌が出てきますが,ほとんどが詠み人知らずの和歌です。
憶良と家持の七夕の和歌を見比べてみましょう。まず,憶良が詠んだ短歌です。
天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな(8-1518)
<あまのがはあひむきたちて あがこひしきみきますなり ひもときまけな >
<<天の川に向き合って立ってる私の恋しいあの方がいらっしゃいます。紐をほどいて寝所の準備をしましょう>>
次に家持が詠んだ類似部分のある短歌を紹介します。
秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ(20-4311)
<あきかぜに いまかいまかとひもときて うらまちをるにつきかたぶきぬ>
<< (七夕の)秋風が吹く中、あの方が今にもいらっしゃるかと紐を解)いて心待ちにしているうちに月が傾いてしまいました>>
憶良も家持も,ともに七夕に牽牛(彦星)が天の川を渡ってやってくるのを待っている織女(織姫星)の立場で詠んでいます。
憶良は牽牛が来る準備をルンルン気分で行っている織女,家持は待てども来ない牽牛に今年は来ないのかなと半ばあきらめかけている織女の気持ちを詠んでいます。
もうひと組,憶良と家持の七夕の短歌を比較してみましょう。こちらも憶良から。
袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)
<そでふらば みもかはしつべく ちかけども わたるすべなし あきにしあらねば>
<<袖を振れば、お互い見交わすこともできるほど近いけれど、(天の川を)渡るすべがない。(七夕の)秋でないので>>
次に家持の短歌です。
天の川橋渡せらばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも(18-4126)
<あまのがは はしわたせらば そのへゆも いわたらさむを あきにあらずとも>
<<天の川に橋が渡してあったなら、その上を通って渡っていらっしゃれるのに、たとえ(七夕の)秋ではなくとも>>
両方とも,七夕の時以外でも逢えること望む気持ちを詠っています。
<家持は憶良の七夕に対する思い入れを引き継いだ?>
私は憶良と家持の七夕の和歌を比較して見て,家持の七夕の和歌の多くは憶良の七夕を詠んだ12首の和歌を意識しつつ詠んでいたのではないかと思いたくなります。
憶良と家持の接点は,家持の父大伴旅人が大宰府の長官であった時,憶良は旅人の歌友として筑紫歌壇を形成した主要歌人のひとりとなっていたことに端を発するのではないかと私は考えます。
旅人は家持を大宰府に呼び寄せた可能性が高く,その時10歳足らずの家持と憶良との出会いがあったのだろうと私は想像します。
ここで,家持は父旅人と憶良から和歌に関する英才教育を受けたのかもしれません。
上でも紹介した天平元年7月7日と同2年7月8日に憶良が詠んだ七夕の和歌12首は,家持に七夕について大きな興味を抱かせた可能性がありそうです。
また,旅人が大納言になって帰京した後も,憶良は奈良で晩年の旅人を訪れ,歌論に花を咲かせたと想像できます。
青年家持は父旅人没後も憶良が主催する歌人サークル(七夕伝説も題材にしていた?)にたびたび参加して,作歌の他流試合をやった可能性があるのではないでしょうか。
憶良が編んだととされる「類聚歌林」(現存せず)には,きっと七夕の和歌がたくさん載っていたと私は想像します。
憶良没後(天平5年頃)も家持は憶良が詠った和歌を大切に保管し,憶良の歌風を参考に,当時「七夕」研究の第一人者だった憶良にも増して「七夕」について詳しく研究し,広めようとしたのではないかと私は考えます。
家持が「七夕」通であることを後世も知っていて,次の百人一首の一首が家持作とされる理由がこれで少し見えてくるような気がします。
鵲(かささぎ)の渡せる橋の 置く霜の白きを見れば 夜ぞ更けにける(百人一首6:中納言家持)
<<七夕に牽牛と織女を逢わせるために天の川にできる鵲の橋(逢瀬の橋)に冬霜が降って白く光っているのを見ると夜が更けてきたんだなあ>>
天の川特集(3:まとめ)に続く。
その憶良が万葉集で詠っている七夕の和歌は,長歌1首,短歌11首の計12首あります。
万葉集で七夕の和歌を同じく長歌1首,短歌12首の計13首を詠っているもうひとりの歌人がいます。それは大伴家持です。
このほかに万葉集では100首ほどの七夕の和歌が出てきますが,ほとんどが詠み人知らずの和歌です。
憶良と家持の七夕の和歌を見比べてみましょう。まず,憶良が詠んだ短歌です。
天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな(8-1518)
<あまのがはあひむきたちて あがこひしきみきますなり ひもときまけな >
<<天の川に向き合って立ってる私の恋しいあの方がいらっしゃいます。紐をほどいて寝所の準備をしましょう>>
次に家持が詠んだ類似部分のある短歌を紹介します。
秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ(20-4311)
<あきかぜに いまかいまかとひもときて うらまちをるにつきかたぶきぬ>
<< (七夕の)秋風が吹く中、あの方が今にもいらっしゃるかと紐を解)いて心待ちにしているうちに月が傾いてしまいました>>
憶良も家持も,ともに七夕に牽牛(彦星)が天の川を渡ってやってくるのを待っている織女(織姫星)の立場で詠んでいます。
憶良は牽牛が来る準備をルンルン気分で行っている織女,家持は待てども来ない牽牛に今年は来ないのかなと半ばあきらめかけている織女の気持ちを詠んでいます。
もうひと組,憶良と家持の七夕の短歌を比較してみましょう。こちらも憶良から。
袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)
<そでふらば みもかはしつべく ちかけども わたるすべなし あきにしあらねば>
<<袖を振れば、お互い見交わすこともできるほど近いけれど、(天の川を)渡るすべがない。(七夕の)秋でないので>>
次に家持の短歌です。
天の川橋渡せらばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも(18-4126)
<あまのがは はしわたせらば そのへゆも いわたらさむを あきにあらずとも>
<<天の川に橋が渡してあったなら、その上を通って渡っていらっしゃれるのに、たとえ(七夕の)秋ではなくとも>>
両方とも,七夕の時以外でも逢えること望む気持ちを詠っています。
<家持は憶良の七夕に対する思い入れを引き継いだ?>
私は憶良と家持の七夕の和歌を比較して見て,家持の七夕の和歌の多くは憶良の七夕を詠んだ12首の和歌を意識しつつ詠んでいたのではないかと思いたくなります。
憶良と家持の接点は,家持の父大伴旅人が大宰府の長官であった時,憶良は旅人の歌友として筑紫歌壇を形成した主要歌人のひとりとなっていたことに端を発するのではないかと私は考えます。
旅人は家持を大宰府に呼び寄せた可能性が高く,その時10歳足らずの家持と憶良との出会いがあったのだろうと私は想像します。
ここで,家持は父旅人と憶良から和歌に関する英才教育を受けたのかもしれません。
上でも紹介した天平元年7月7日と同2年7月8日に憶良が詠んだ七夕の和歌12首は,家持に七夕について大きな興味を抱かせた可能性がありそうです。
また,旅人が大納言になって帰京した後も,憶良は奈良で晩年の旅人を訪れ,歌論に花を咲かせたと想像できます。
青年家持は父旅人没後も憶良が主催する歌人サークル(七夕伝説も題材にしていた?)にたびたび参加して,作歌の他流試合をやった可能性があるのではないでしょうか。
憶良が編んだととされる「類聚歌林」(現存せず)には,きっと七夕の和歌がたくさん載っていたと私は想像します。
憶良没後(天平5年頃)も家持は憶良が詠った和歌を大切に保管し,憶良の歌風を参考に,当時「七夕」研究の第一人者だった憶良にも増して「七夕」について詳しく研究し,広めようとしたのではないかと私は考えます。
家持が「七夕」通であることを後世も知っていて,次の百人一首の一首が家持作とされる理由がこれで少し見えてくるような気がします。
鵲(かささぎ)の渡せる橋の 置く霜の白きを見れば 夜ぞ更けにける(百人一首6:中納言家持)
<<七夕に牽牛と織女を逢わせるために天の川にできる鵲の橋(逢瀬の橋)に冬霜が降って白く光っているのを見ると夜が更けてきたんだなあ>>
天の川特集(3:まとめ)に続く。
2011年6月26日日曜日
天の川特集(1)‥万葉集は「七夕」を特別扱いしていた?
万葉集で「天の川」という言葉が出てくる和歌が50首近くあります。ただし,その和歌の出現する巻が偏っています。巻8,巻9,巻10,巻15,巻18,巻20に出現しますが,多くは巻8と巻10に集中し,それ以外は1~2首だけです。
「天の川」(英語:the Milky Way または the Galaxy)は,ご存知の方も多いかと思いますが,我々が住む地球が属する銀河系(平べったい形)の厚い部分(星が重なって見える部分)が地球から見て星の川のように見えるからだそうです。
そのため「天の川」は一年中見られるのですが,日本近辺では夏の夜はその重なり具合が大きくなる位置(銀河系の中心方向を見る)に地球が来て,よりハッキリと川のように見えるようです。
<子供のころの思い出>
私が小学生位の頃,京都の山科ではまだ市街化された部分が少なく,晴れた夏の夜天の川がはっきり見えました。
また,七夕近くになると,子供がいる家では,玄関先に笹の木を立て,色紙を切って作った短冊(短冊に「天の川」と書くことも)に紐をつけてその笹の先に結び,また市販のきらきら光る細長い飾りを付け,七夕飾りをする家庭が多かったように記憶しています。
<万葉集では>
万葉集の「天の川」の和歌は当然かもしれませんが,次のように天の川の対岸に別れている彦星と織姫が年に一度「七夕」の夜に逢えるという伝説を題材にしているものが多いようです。
天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夜逢ふらしも(10-2029)
<あまのがはかぢのおときこゆ ひこほしとたなばたつめと こよひあふらしも>
<<天の川に梶(艪や櫂)の音が聞こえてきます。彦星と織女は今夜逢うようです>>
彦星と織女と今夜逢ふ天の川門に波立つなゆめ(10-2040)
<ひこほしとたなばたつめと こよひあふあまのかはとに なみたつなゆめ>
<<彦星と織女が逢う七夕の今宵は天の川の渡し場所よ波穏やかであれ>>
織女の今夜逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ(10-2080)
<たなばたのこよひあひなば つねのごとあすをへだてて としはながけむ>
<<織姫は七夕の今夜彦星に逢えたなら明日からいつものように離れ離れになり,一年間という長い月日を過ごすのですね>>
これらの短歌はすべて巻10に出てくる詠み人知らずの短歌で,「秋の雑歌」の「七夕」と題した98首の長短歌の中に出てくるものです。
私の訳を見て頂ければ分かるように,これらの短歌の表現したいことは非常にシンプルです。何か「七夕」や「天の川」の逸話を解説しているようだとも私には感じられます。
あの天の川君だったらきっと「アカン。そのまんまやんけ。何のひねりもあらへん。」と,私の作った短歌に対する評価と同じように酷評するかもしれませんね。
<万葉集での七夕の扱い>
万葉集にわさわざ「七夕」と分類して98首も詠み人知らずの和歌を掲載するのは万葉集の編者の意図があるのではないかと私は想像します。
・当時,「七夕」伝説を研究することを趣味とする会(複数かも)があり,年に一度「七夕」の時期に集まり,和歌を詠む(ただし,匿名で詠む)行事を行っていた。
・その会(「七夕学会」のようなもの)に所属するメンバーは「七夕」伝説にあこがれる人々が多かった。
・会のメンバーは自分の「七夕」伝説に関する知識を和歌で競い合っていた。
・編者はその会の主催者または主要メンバーであり,「七夕」伝説を広めたかった。
ここまで想像を膨らましたついでにさらに想像を膨らまします。「七夕」伝説を広めようとしていたのは,実は山上憶良と大伴家持だったのではないかと。
その心は次回でテーマとします。
天の川特集(2)に続く。
「天の川」(英語:the Milky Way または the Galaxy)は,ご存知の方も多いかと思いますが,我々が住む地球が属する銀河系(平べったい形)の厚い部分(星が重なって見える部分)が地球から見て星の川のように見えるからだそうです。
そのため「天の川」は一年中見られるのですが,日本近辺では夏の夜はその重なり具合が大きくなる位置(銀河系の中心方向を見る)に地球が来て,よりハッキリと川のように見えるようです。
<子供のころの思い出>
私が小学生位の頃,京都の山科ではまだ市街化された部分が少なく,晴れた夏の夜天の川がはっきり見えました。
また,七夕近くになると,子供がいる家では,玄関先に笹の木を立て,色紙を切って作った短冊(短冊に「天の川」と書くことも)に紐をつけてその笹の先に結び,また市販のきらきら光る細長い飾りを付け,七夕飾りをする家庭が多かったように記憶しています。
<万葉集では>
万葉集の「天の川」の和歌は当然かもしれませんが,次のように天の川の対岸に別れている彦星と織姫が年に一度「七夕」の夜に逢えるという伝説を題材にしているものが多いようです。
天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夜逢ふらしも(10-2029)
<あまのがはかぢのおときこゆ ひこほしとたなばたつめと こよひあふらしも>
<<天の川に梶(艪や櫂)の音が聞こえてきます。彦星と織女は今夜逢うようです>>
彦星と織女と今夜逢ふ天の川門に波立つなゆめ(10-2040)
<ひこほしとたなばたつめと こよひあふあまのかはとに なみたつなゆめ>
<<彦星と織女が逢う七夕の今宵は天の川の渡し場所よ波穏やかであれ>>
織女の今夜逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ(10-2080)
<たなばたのこよひあひなば つねのごとあすをへだてて としはながけむ>
<<織姫は七夕の今夜彦星に逢えたなら明日からいつものように離れ離れになり,一年間という長い月日を過ごすのですね>>
これらの短歌はすべて巻10に出てくる詠み人知らずの短歌で,「秋の雑歌」の「七夕」と題した98首の長短歌の中に出てくるものです。
私の訳を見て頂ければ分かるように,これらの短歌の表現したいことは非常にシンプルです。何か「七夕」や「天の川」の逸話を解説しているようだとも私には感じられます。
あの天の川君だったらきっと「アカン。そのまんまやんけ。何のひねりもあらへん。」と,私の作った短歌に対する評価と同じように酷評するかもしれませんね。
<万葉集での七夕の扱い>
万葉集にわさわざ「七夕」と分類して98首も詠み人知らずの和歌を掲載するのは万葉集の編者の意図があるのではないかと私は想像します。
・当時,「七夕」伝説を研究することを趣味とする会(複数かも)があり,年に一度「七夕」の時期に集まり,和歌を詠む(ただし,匿名で詠む)行事を行っていた。
・その会(「七夕学会」のようなもの)に所属するメンバーは「七夕」伝説にあこがれる人々が多かった。
・会のメンバーは自分の「七夕」伝説に関する知識を和歌で競い合っていた。
・編者はその会の主催者または主要メンバーであり,「七夕」伝説を広めたかった。
ここまで想像を膨らましたついでにさらに想像を膨らまします。「七夕」伝説を広めようとしていたのは,実は山上憶良と大伴家持だったのではないかと。
その心は次回でテーマとします。
天の川特集(2)に続く。
2011年6月21日火曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…住む(3:まとめ)
<東日本大震災の被害の甚大さがやっと見えてきた>
2011年3月11日は東日本大震災(大地震と大津波)が多くの尊い命と,さらに多くの人々の住む場所を奪ってしまった日でした。
住む場所を奪われた方々の今なお続く避難生活や仮住まいの状況をテレビのニュースやインターネットで目の当りにすると,いかに住む家の存在自体が貴重なものであったかを身にしみて感じさせてくれます。
その後発生した電力不安は今も続き,これまでの安寧(あんねい)がいつ奪われてしまうか分からない(いつまでも豊かで平和であるとは限らない)ことを今回の大災害が改めて教えてくれたのではないでしょうか。
私は仏教についてごく浅い知識しか持っていませんが,仏教が説く無常(一切のものは生滅・変化して常住<じょうじゅう>のものはない)観がまさに今の日本にとって現実のものとなっているようにも思えます。
<万葉集の仏教感>
万葉集には,当時中国(唐)などから入ってきた斬新な仏教の教えにあるそのような無常観を前提に詠んだと思われる短歌が出てきます。
世間の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも(16-3850)
<よのなかのしげきかりほにすみすみて いたらむくにのたづきしらずも>
<<この世の中のわずらわしい仮の住みかに長く住んで,いずれ行くあの世とやらがどんなものかも私にはわからない>>
この短歌は,河原寺(かわはらでら)の仏堂の裏に置かれていた琴に書いてあったと左注に書かれていますので,僧侶が琴を使ってこの内容を唄うように伝えたのかも知れません。
この短歌はさまざまな仏教の経典によって,解釈がいろいろできるかも知れませんが,私なりに解釈すると次のようになります。
私達が喧騒のこの世の中で住んでいる家は仮の庵(いおり)のようなものである(常住ではなく,いつ無くなるかも知れない)。
そんな無常な世の中を穢土(えど。けがれた場所)であると諦め,今はひたすら経文を唱え我慢して住み続けても,あの世に行ったとき西方浄土(さいほうじょうど)がどんなに極楽な場所なのか分からない。
やっぱり,仮庵と言われようが穢土と言われようが,この世の中では仏教の教えに帰依し,自らを高め,積極的に行動して住み続けて行くことしかない。
ところで,人々が苦しい暮らしの中でも前向きに生きようという気持ちを支えてくれる大きな力の一つに家族があるのではないでしょうか。
家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも(20-4419)
<いはろにはあしふたけども すみよけをつくしにいたりて こふしけもはも>
<<家では葦火を焚いていたけれど住みよかったなあ。筑紫に着いても家を恋しく思うだろうなあ>>
この短歌(防人歌)は,防人として武蔵の国から来た物部真根(もののべのまね)という人が家族あてに贈ったものとされています。
葦火(あしふ)とは,葦を燃料としたものです。炭に比べて火持ちが悪く,火をコントロールするのには小まめに燃料をくべたりする必要があるため,いつも火の周りについていなければなりません。
炭を買えず,葦火で我慢しなければならないような貧しい暮らしでも「住みよかった」と感じるのは,家族がいるからなのでしょう。
この防人の歌には,真根の妻からの愛情に満ち溢れた返歌までもが万葉集に載っています。
草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し(20-4420)
<くさまくら たびのまるねの ひもたえば あがてとつけろ これのはるもし>
<<道中,着衣のまま寝ているうちに着物の紐が切れてしまったなら,わたしの手だと思って,この針を使ってね>>
この夫婦のやり取りに私は感動するのは,私が家族の絆の価値に重きを置くからであり,「自分の好きなことができれば家族がいなくても良い」という考え方にどうしても賛成できないからなのかも知れません。
もちろん,家族を構成しようと努力した結果として,どうしても独身で暮らすことになる人はいると思います。
でも,その人は家族を構成しようとして精一杯努力した人ですから,家族の絆の価値を感じない人ではありません。その価値を感じる人はたとえ独身でも「住む」地域の絆を大切にする人のはずです。
いっぽう,気楽な生き方をしたいがためだけ,趣味や仕事を絶対に犠牲したなくないがためだけで,最初から「結婚しない」,「子供は作らない」という考え方の人は家族や「住む] 」地域の絆の価値を感じたり,共有したりすることができるのでしょうか。
<世の中は度し難いことだらけ?>
世の中には度し難いことがたくさんあります。貧富の差,世代間の格差,政治や行政の怠慢,倫理観の欠如,利己主義,地域エゴ,その場主義など,この世の中嫌なことだらけで,この世の中をまさに穢土そのものと感じ,衣食住で自分が満足できる状況に無いと感ずる方々は多いのかも知れません。
それでも世の中や自分を儚(はかな)んだり,諦(あきら)めたりしてはならないと私は思います。
穢土の中に「住み」,困難に打ち勝とう,自分の状況(仏教では「境界(きょうがい)」といいます)を少しずつでも高めようと前向きに生きて行く姿こそが,実は人として真の幸せな状態だと私は思いたいのです。
さて,そろそろ七夕が近づいてきましたので,動きの詞シリーズは小休止して,次回から3回に渡り「天の川君」特集ではなく「天の川」特集をお送りします。
天の川(1)に続く。
2011年3月11日は東日本大震災(大地震と大津波)が多くの尊い命と,さらに多くの人々の住む場所を奪ってしまった日でした。
住む場所を奪われた方々の今なお続く避難生活や仮住まいの状況をテレビのニュースやインターネットで目の当りにすると,いかに住む家の存在自体が貴重なものであったかを身にしみて感じさせてくれます。
その後発生した電力不安は今も続き,これまでの安寧(あんねい)がいつ奪われてしまうか分からない(いつまでも豊かで平和であるとは限らない)ことを今回の大災害が改めて教えてくれたのではないでしょうか。
私は仏教についてごく浅い知識しか持っていませんが,仏教が説く無常(一切のものは生滅・変化して常住<じょうじゅう>のものはない)観がまさに今の日本にとって現実のものとなっているようにも思えます。
<万葉集の仏教感>
万葉集には,当時中国(唐)などから入ってきた斬新な仏教の教えにあるそのような無常観を前提に詠んだと思われる短歌が出てきます。
世間の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも(16-3850)
<よのなかのしげきかりほにすみすみて いたらむくにのたづきしらずも>
<<この世の中のわずらわしい仮の住みかに長く住んで,いずれ行くあの世とやらがどんなものかも私にはわからない>>
この短歌は,河原寺(かわはらでら)の仏堂の裏に置かれていた琴に書いてあったと左注に書かれていますので,僧侶が琴を使ってこの内容を唄うように伝えたのかも知れません。
この短歌はさまざまな仏教の経典によって,解釈がいろいろできるかも知れませんが,私なりに解釈すると次のようになります。
私達が喧騒のこの世の中で住んでいる家は仮の庵(いおり)のようなものである(常住ではなく,いつ無くなるかも知れない)。
そんな無常な世の中を穢土(えど。けがれた場所)であると諦め,今はひたすら経文を唱え我慢して住み続けても,あの世に行ったとき西方浄土(さいほうじょうど)がどんなに極楽な場所なのか分からない。
やっぱり,仮庵と言われようが穢土と言われようが,この世の中では仏教の教えに帰依し,自らを高め,積極的に行動して住み続けて行くことしかない。
ところで,人々が苦しい暮らしの中でも前向きに生きようという気持ちを支えてくれる大きな力の一つに家族があるのではないでしょうか。
家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも(20-4419)
<いはろにはあしふたけども すみよけをつくしにいたりて こふしけもはも>
<<家では葦火を焚いていたけれど住みよかったなあ。筑紫に着いても家を恋しく思うだろうなあ>>
この短歌(防人歌)は,防人として武蔵の国から来た物部真根(もののべのまね)という人が家族あてに贈ったものとされています。
葦火(あしふ)とは,葦を燃料としたものです。炭に比べて火持ちが悪く,火をコントロールするのには小まめに燃料をくべたりする必要があるため,いつも火の周りについていなければなりません。
炭を買えず,葦火で我慢しなければならないような貧しい暮らしでも「住みよかった」と感じるのは,家族がいるからなのでしょう。
この防人の歌には,真根の妻からの愛情に満ち溢れた返歌までもが万葉集に載っています。
草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し(20-4420)
<くさまくら たびのまるねの ひもたえば あがてとつけろ これのはるもし>
<<道中,着衣のまま寝ているうちに着物の紐が切れてしまったなら,わたしの手だと思って,この針を使ってね>>
この夫婦のやり取りに私は感動するのは,私が家族の絆の価値に重きを置くからであり,「自分の好きなことができれば家族がいなくても良い」という考え方にどうしても賛成できないからなのかも知れません。
もちろん,家族を構成しようと努力した結果として,どうしても独身で暮らすことになる人はいると思います。
でも,その人は家族を構成しようとして精一杯努力した人ですから,家族の絆の価値を感じない人ではありません。その価値を感じる人はたとえ独身でも「住む」地域の絆を大切にする人のはずです。
いっぽう,気楽な生き方をしたいがためだけ,趣味や仕事を絶対に犠牲したなくないがためだけで,最初から「結婚しない」,「子供は作らない」という考え方の人は家族や「住む] 」地域の絆の価値を感じたり,共有したりすることができるのでしょうか。
<世の中は度し難いことだらけ?>
世の中には度し難いことがたくさんあります。貧富の差,世代間の格差,政治や行政の怠慢,倫理観の欠如,利己主義,地域エゴ,その場主義など,この世の中嫌なことだらけで,この世の中をまさに穢土そのものと感じ,衣食住で自分が満足できる状況に無いと感ずる方々は多いのかも知れません。
それでも世の中や自分を儚(はかな)んだり,諦(あきら)めたりしてはならないと私は思います。
穢土の中に「住み」,困難に打ち勝とう,自分の状況(仏教では「境界(きょうがい)」といいます)を少しずつでも高めようと前向きに生きて行く姿こそが,実は人として真の幸せな状態だと私は思いたいのです。
さて,そろそろ七夕が近づいてきましたので,動きの詞シリーズは小休止して,次回から3回に渡り「天の川君」特集ではなく「天の川」特集をお送りします。
天の川(1)に続く。
2011年6月18日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…住む(2)
人が住む場所を家と呼びます。
万葉集では人(自分,妻,夫,恋人,家族,故郷の人等)が住む家について読んだものが出てきます。
人が住んでいる家には,当然ですが,人が暮らして居て,近所の人や用事のある人の出入りがあり,朝夕には釜戸や囲炉裏に火が入り,さまざまな会話や子供の泣き声などが聞こえるのです。
それはあまりにも日常的で変化の無い状況の繰り返しではあるのですが,その生活から離れてしまった人達にとっては懐かしく,また戻りたいと願いたくなるものなのかもしれません。
さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君(6-955)
<さすたけのおほみやひとの いへとすむさほのやまをば おもふやもきみ>
<<大宮人が住んでいる佐保の山のことを想い起こしませんか、貴殿は?>>
この短歌は,大宰府の次官(長官は大伴旅人)であった石川足人(いしかわのたりひと)が,おそらく長官の旅人に対して尋ねている短歌ではないかと私は想像します。
佐保の山は平城京の大極殿があった場所から東に2~3Kmほど離れた丘陵地帯で,多くの大宮人(役人)が住んでいた場所だったのでしょうか。
今でいえばベッドタウンのような場所だったのかもしれません。
佐保の山では,新しい奈良の京の官吏として勤める多くの人達やその家族が近所づきあいをしながら,元気よく豊かに暮らしていた姿が目に浮かぶようです。
しかし,遠く離れた九州の近所づきあいもままならない地方赴任者にとっては,都で暮らしていたときを思い出して,望郷の念に駆られる気持ちは避けがたいものがあるのでしょう。
そういう気持ちを抑えて我慢するのではなく,都で暮らしていたときの話をみんなでしましょうというのがこの短歌の言いたいことだと私は思います。
ただ,地方赴任も5年も続くと赴任地に愛着が出てくることもありますよね。「住めば都」とはよく言ったものです。次の短歌は大伴家持が赴任期間が終わり,別れの宴で詠ったもののようです。
しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも(19-4250)
<しなざかるこしにいつとせすみすみて たちわかれまくをしきよひかも>
<<越中に五年住み続けて、ここで越中の皆さんとお別れとなってしまうのが残念な今宵です>>
大伴家持にとって越中は第二の故郷といえるほど長く暮らし,地元の人達との交流も円滑にでき,平和で心豊かな暮らしを続けられたに違いありません。
しかし,家持に対し,少納言に昇進させる帰京命令によって越中に住む暮らしが終りを告げたのです。家持33歳の秋の始まりでした。
さて,恋人や夫が異郷の地に住んで,厳しい暮らしを気遣う場合は,万葉集ではどんな和歌が詠まれているのでしょうか。
他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3748)
<ひとくにはすみあしとぞいふ すむやけくはやかへりませ こひしなぬとに>
<<異国は何かと住みにくいと人は申します。急いで早く帰って来てくださいませ。私が恋い死ぬ前に>>
この短歌は,狭野弟上娘子(さののちがみおとめ)が越前に流罪になった夫である中臣宅守(なかとみのやかもり)に送ったものです。
「早く,早く帰ってきて!!」という心の叫びが私には伝わってきます。
富山湾に比べると越前海岸は切り立った断崖ばかりで,越中の豊さに対して非常に厳しい場所です。
京にいる娘子にとって,越前に流され,おそらくあばら屋に住み,食料も乏しいた状態と想像される宅守のことが心配で心配で仕方がないのです。
この悲劇の夫婦は万葉集の中で後世読む人の多くを感動させる純粋な恋の歌を残したのです。
住む(3;まとめ)に続く。
万葉集では人(自分,妻,夫,恋人,家族,故郷の人等)が住む家について読んだものが出てきます。
人が住んでいる家には,当然ですが,人が暮らして居て,近所の人や用事のある人の出入りがあり,朝夕には釜戸や囲炉裏に火が入り,さまざまな会話や子供の泣き声などが聞こえるのです。
それはあまりにも日常的で変化の無い状況の繰り返しではあるのですが,その生活から離れてしまった人達にとっては懐かしく,また戻りたいと願いたくなるものなのかもしれません。
さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君(6-955)
<さすたけのおほみやひとの いへとすむさほのやまをば おもふやもきみ>
<<大宮人が住んでいる佐保の山のことを想い起こしませんか、貴殿は?>>
この短歌は,大宰府の次官(長官は大伴旅人)であった石川足人(いしかわのたりひと)が,おそらく長官の旅人に対して尋ねている短歌ではないかと私は想像します。
佐保の山は平城京の大極殿があった場所から東に2~3Kmほど離れた丘陵地帯で,多くの大宮人(役人)が住んでいた場所だったのでしょうか。
今でいえばベッドタウンのような場所だったのかもしれません。
佐保の山では,新しい奈良の京の官吏として勤める多くの人達やその家族が近所づきあいをしながら,元気よく豊かに暮らしていた姿が目に浮かぶようです。
しかし,遠く離れた九州の近所づきあいもままならない地方赴任者にとっては,都で暮らしていたときを思い出して,望郷の念に駆られる気持ちは避けがたいものがあるのでしょう。
そういう気持ちを抑えて我慢するのではなく,都で暮らしていたときの話をみんなでしましょうというのがこの短歌の言いたいことだと私は思います。
ただ,地方赴任も5年も続くと赴任地に愛着が出てくることもありますよね。「住めば都」とはよく言ったものです。次の短歌は大伴家持が赴任期間が終わり,別れの宴で詠ったもののようです。
しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも(19-4250)
<しなざかるこしにいつとせすみすみて たちわかれまくをしきよひかも>
<<越中に五年住み続けて、ここで越中の皆さんとお別れとなってしまうのが残念な今宵です>>
大伴家持にとって越中は第二の故郷といえるほど長く暮らし,地元の人達との交流も円滑にでき,平和で心豊かな暮らしを続けられたに違いありません。
しかし,家持に対し,少納言に昇進させる帰京命令によって越中に住む暮らしが終りを告げたのです。家持33歳の秋の始まりでした。
さて,恋人や夫が異郷の地に住んで,厳しい暮らしを気遣う場合は,万葉集ではどんな和歌が詠まれているのでしょうか。
他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3748)
<ひとくにはすみあしとぞいふ すむやけくはやかへりませ こひしなぬとに>
<<異国は何かと住みにくいと人は申します。急いで早く帰って来てくださいませ。私が恋い死ぬ前に>>
この短歌は,狭野弟上娘子(さののちがみおとめ)が越前に流罪になった夫である中臣宅守(なかとみのやかもり)に送ったものです。
「早く,早く帰ってきて!!」という心の叫びが私には伝わってきます。
富山湾に比べると越前海岸は切り立った断崖ばかりで,越中の豊さに対して非常に厳しい場所です。
京にいる娘子にとって,越前に流され,おそらくあばら屋に住み,食料も乏しいた状態と想像される宅守のことが心配で心配で仕方がないのです。
この悲劇の夫婦は万葉集の中で後世読む人の多くを感動させる純粋な恋の歌を残したのです。
住む(3;まとめ)に続く。
2011年6月13日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…住む(1)
万葉集で「住む」が詠まれている和歌は30首以上あります。
その中で,「住む」対象がヒトではなく,鳥が「住む(棲む)」ことを詠ったものが意外と多く出てきます。
今回は,「住む」対象が鳥である万葉集の和歌を見て行くことにしましょう。
どんな鳥が「住む」と詠っているのか見てみますと次のように多くの鳥が出てきます。
あぢ(偏が「有」で旁が「鳥」の漢字),鵜(う),鶯(うぐひす),鴨(かも),雁(かり),鴫(しぎ),貌鳥(にほどり),霍公鳥(ほととぎす),百鳥(ももとり),鷲(わし),小鴨(をかも),鴛鴦(をし,をしどり)
「あぢ」はアジガモのことだろうと言われています。「貌鳥」はカイツブリの古名と言われています。「百鳥」は特定の鳥のことではなく,多くの鳥という意味のようです。
では,万葉集の実例を見て行きましょう。
外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴨にあらましを (4-726)
<よそにゐてこひつつあらずは きみがいへのいけにすむといふかもにあらましを>
<<よそに住んでいてあなたを恋しているのでしたら,あなたの家の池に住んでいるという鴨になれればいいのにと存じます>>
これは,坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が聖武天皇に献上したとされている短歌です。
天皇邸の庭には大きな池があったのでしょうね。鴨たちもいっぱい飛んで来ていたに違いありません。
天皇を恋しく思うのでいっそお宅の池に住んでいる鴨になりたいという意味ですが,この短歌には儀礼的な雰囲気が色濃く出ていると私は感じます。
次は霍公鳥が「住む」を詠んだ短歌です。
橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ(17-3909)
<たちばなはとこはなにもが ほととぎすすむときなかばきかぬひなけむ>
<<橘がいつも咲いている花なら,霍公鳥が棲みに来て,その鳴き声をいつも聞くことができるのになあ>>
この短歌は大伴家持の弟の書持(ふみもち)が奈良の自宅から,恭仁京にいた家持へ贈った短歌です。
書持はこのとき既に病弱だったのだろうと私は思います(この短歌を作った5年後歿)。
自宅で療養しているとき霍公鳥が橘の花が咲くころ自宅にやってくることを楽しみにしているが,橘の花が散る頃霍公鳥が帰って行ってしまうのを惜しがっていたのでしょう。
この短歌から,書持にとって「天辺駆けたか」と明るく鳴く霍公鳥の鳴き声を大好きに感じていたのだろうと私は思います。
最後にもう一首,オシドリが「住む」を詠った短歌です。
鴛鴦の住む君がこの山斎今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも(20-4511)
<をしのすむ きみがこのしまけふみれば あしびのはなもさきにけるかも>
<<オシドリが住んでいるあなたの庭園を今日見てみれるとアセビの花も咲いていますね>>
これは三形王(みかたのおほきみ)が 中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)の庭園(嶋のあるような池を持つ庭園)を見て,ちょうど馬酔木の花が見事に咲いているを讃えた短歌3首の1首です。
この庭園は,オシドリが住むような大きな池を持つ立派な庭園なのでしょう。それを作者は褒めたたえ,その池の脇に咲いている馬酔木の花を咲いているのを今気付いたように詠い始めます。
紹介はしませんが,続く2首で馬酔木が池にはっきり映るほど見事に咲いていることを詠っているのです。
さて,鳥が「住む」を題材にした万葉集の和歌を見ていくと,鳥が「住む」ことを肯定的(一種の憧れや安定感のイメージ)にとらえている和歌が多くみられると私は感じます。
鳥が身近に住んでいる状況は,万葉人にとっても自然が豊かで,いろいろな植物が咲き,木の実が多いことの象徴だったのかもしれませんね。
住む(2)に続く。
その中で,「住む」対象がヒトではなく,鳥が「住む(棲む)」ことを詠ったものが意外と多く出てきます。
今回は,「住む」対象が鳥である万葉集の和歌を見て行くことにしましょう。
どんな鳥が「住む」と詠っているのか見てみますと次のように多くの鳥が出てきます。
あぢ(偏が「有」で旁が「鳥」の漢字),鵜(う),鶯(うぐひす),鴨(かも),雁(かり),鴫(しぎ),貌鳥(にほどり),霍公鳥(ほととぎす),百鳥(ももとり),鷲(わし),小鴨(をかも),鴛鴦(をし,をしどり)
「あぢ」はアジガモのことだろうと言われています。「貌鳥」はカイツブリの古名と言われています。「百鳥」は特定の鳥のことではなく,多くの鳥という意味のようです。
では,万葉集の実例を見て行きましょう。
外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴨にあらましを (4-726)
<よそにゐてこひつつあらずは きみがいへのいけにすむといふかもにあらましを>
<<よそに住んでいてあなたを恋しているのでしたら,あなたの家の池に住んでいるという鴨になれればいいのにと存じます>>
これは,坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が聖武天皇に献上したとされている短歌です。
天皇邸の庭には大きな池があったのでしょうね。鴨たちもいっぱい飛んで来ていたに違いありません。
天皇を恋しく思うのでいっそお宅の池に住んでいる鴨になりたいという意味ですが,この短歌には儀礼的な雰囲気が色濃く出ていると私は感じます。
次は霍公鳥が「住む」を詠んだ短歌です。
橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ(17-3909)
<たちばなはとこはなにもが ほととぎすすむときなかばきかぬひなけむ>
<<橘がいつも咲いている花なら,霍公鳥が棲みに来て,その鳴き声をいつも聞くことができるのになあ>>
この短歌は大伴家持の弟の書持(ふみもち)が奈良の自宅から,恭仁京にいた家持へ贈った短歌です。
書持はこのとき既に病弱だったのだろうと私は思います(この短歌を作った5年後歿)。
自宅で療養しているとき霍公鳥が橘の花が咲くころ自宅にやってくることを楽しみにしているが,橘の花が散る頃霍公鳥が帰って行ってしまうのを惜しがっていたのでしょう。
この短歌から,書持にとって「天辺駆けたか」と明るく鳴く霍公鳥の鳴き声を大好きに感じていたのだろうと私は思います。
最後にもう一首,オシドリが「住む」を詠った短歌です。
鴛鴦の住む君がこの山斎今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも(20-4511)
<をしのすむ きみがこのしまけふみれば あしびのはなもさきにけるかも>
<<オシドリが住んでいるあなたの庭園を今日見てみれるとアセビの花も咲いていますね>>
これは三形王(みかたのおほきみ)が 中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)の庭園(嶋のあるような池を持つ庭園)を見て,ちょうど馬酔木の花が見事に咲いているを讃えた短歌3首の1首です。
この庭園は,オシドリが住むような大きな池を持つ立派な庭園なのでしょう。それを作者は褒めたたえ,その池の脇に咲いている馬酔木の花を咲いているのを今気付いたように詠い始めます。
紹介はしませんが,続く2首で馬酔木が池にはっきり映るほど見事に咲いていることを詠っているのです。
さて,鳥が「住む」を題材にした万葉集の和歌を見ていくと,鳥が「住む」ことを肯定的(一種の憧れや安定感のイメージ)にとらえている和歌が多くみられると私は感じます。
鳥が身近に住んでいる状況は,万葉人にとっても自然が豊かで,いろいろな植物が咲き,木の実が多いことの象徴だったのかもしれませんね。
住む(2)に続く。
2011年6月7日火曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…恋ふ(5:まとめ)
「恋ふ」対象は人だけでなく,モノや場所があります。ただ,今では「故郷を恋しく思う」「昔が恋しい」「酒が恋しい」など,形容詞的な使い方の方が主流のようです。
対象が人と異なる用例は「愛する」も同じようにあります。現在では「恋う」よりも「愛する」のほうが人以外にも頻繁に使われているように私は思います。
「自分の仕事を愛している」「地元の酒を愛している」「故郷を愛してやまない」といった使い方だけでなく「愛用品」といった言葉まであります。
さて,万葉集の人以外に対する「恋ふ」の用例を見て行きましょう。最初は花を「恋ふ」の短歌です。
なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ(3-408)
<なでしこが そのはなにもが あさなさなてにとりもちて こひぬひなけむ>
<<貴女が撫子の花なら毎朝毎朝手に取って大切に可愛がらない日はないのに(毎日毎朝大切に可愛がるよ)>>
これは大伴家持が後に正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
撫子の花を毎朝可愛がることを比喩にして,早く大嬢と一緒に暮らしたいという強い気持ちを詠んでいるように私には思えますが,いかがでしょうか。
さて,次は場所を「恋ふ」用例です。
いつしかも見むと思ひし粟島を外にや恋ひむ行くよしをなみ(15-3631)
<いつしかもみむとおもひしあはしまを よそにやこひむゆくよしをなみ>
<<いつか行って見たいと思ってきた粟島を遠くから見るだけで,恋しい粟島に行く方法がない>>
この短歌は,遣新羅使の船が山口県岩国近辺の沖を通った時,瀬戸内海の美しい小島に上陸してみたいと恋しく願っていたが,私(遣新羅使)を乗せた船は通り過ぎるだけだという思いを表しているように私は感じます。
万葉時代の都会人も今と同じで,美しい離れ小島に行って,文明の利器は何もないが都会の喧騒や仕事のストレスのない生活をしてみたいと思っていたのかもしれませんね。
<「恋ふ」は非常に複雑な感情の動き?>
このように多くの「恋ふ」を詠んだ万葉集を通して「恋ふ」を見て行くと,人間が何かを「恋ふ」という心の動きは人間が生きて行くために必須な基本的活動の一つだと言えるかもしれないと改めて私は感じました。
でも,「恋ふ」対象が一つ(一人)のみに限定され,その他の対象に価値を感じなくなったとき,「恋患い」になり「心が死ぬほど恋ふ」といった少し後ろ向きの心があらわれてしまいます。
また,「恋ふ」の反対語を「嫌ふ」とします。「恋ふ」が嵩じて「恋ふ」対象以外を極端に「嫌ふ」ようになると,その人の心身を豊かにしなくなるのではないかと私は思います。
<排他的な「恋ふ」は人の輪を狭める?>
すなわち「恋ふ」対象以外(人や自然)をすべて「嫌ふ」と,結局「嫌った」相手から「嫌は(わ)れる」ことになりかねないからです。
逆に,そんな極端に「恋ふ」(大半の相手の恋人はそういう強い「恋ふ」を期待するのでしょうが)というのではなく,広く人,自然,場所などを「恋ふ」があるはずです。
このような広い対象に向けた「恋ふ」は人間を前向きにさせてくれ,いずれ「恋ふ」の対象から「恋は(わ)れる」ようになり,多くの人や自然から恩恵を受けられる心身共に豊かな人になれるような気がします。
私はこれからも多くの人や自然などを「恋ふ」人間でありたいと願い,「恋ふ」シリーズのまとめとします。
天の川 「ちょ~っと待ってんか,たびとはん。へへっ。それって自分は浮気OKやといいたいやろ?」
きれいに「恋ふ」シリーズを終わろうとしていたのに余計な突っ込みを入れてきた天の川君には,「恋ふ」の機微について改めて教えなければならないようですね(怒)。
住む(1)に続く。
対象が人と異なる用例は「愛する」も同じようにあります。現在では「恋う」よりも「愛する」のほうが人以外にも頻繁に使われているように私は思います。
「自分の仕事を愛している」「地元の酒を愛している」「故郷を愛してやまない」といった使い方だけでなく「愛用品」といった言葉まであります。
さて,万葉集の人以外に対する「恋ふ」の用例を見て行きましょう。最初は花を「恋ふ」の短歌です。
なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ(3-408)
<なでしこが そのはなにもが あさなさなてにとりもちて こひぬひなけむ>
<<貴女が撫子の花なら毎朝毎朝手に取って大切に可愛がらない日はないのに(毎日毎朝大切に可愛がるよ)>>
これは大伴家持が後に正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
撫子の花を毎朝可愛がることを比喩にして,早く大嬢と一緒に暮らしたいという強い気持ちを詠んでいるように私には思えますが,いかがでしょうか。
さて,次は場所を「恋ふ」用例です。
いつしかも見むと思ひし粟島を外にや恋ひむ行くよしをなみ(15-3631)
<いつしかもみむとおもひしあはしまを よそにやこひむゆくよしをなみ>
<<いつか行って見たいと思ってきた粟島を遠くから見るだけで,恋しい粟島に行く方法がない>>
この短歌は,遣新羅使の船が山口県岩国近辺の沖を通った時,瀬戸内海の美しい小島に上陸してみたいと恋しく願っていたが,私(遣新羅使)を乗せた船は通り過ぎるだけだという思いを表しているように私は感じます。
万葉時代の都会人も今と同じで,美しい離れ小島に行って,文明の利器は何もないが都会の喧騒や仕事のストレスのない生活をしてみたいと思っていたのかもしれませんね。
<「恋ふ」は非常に複雑な感情の動き?>
このように多くの「恋ふ」を詠んだ万葉集を通して「恋ふ」を見て行くと,人間が何かを「恋ふ」という心の動きは人間が生きて行くために必須な基本的活動の一つだと言えるかもしれないと改めて私は感じました。
でも,「恋ふ」対象が一つ(一人)のみに限定され,その他の対象に価値を感じなくなったとき,「恋患い」になり「心が死ぬほど恋ふ」といった少し後ろ向きの心があらわれてしまいます。
また,「恋ふ」の反対語を「嫌ふ」とします。「恋ふ」が嵩じて「恋ふ」対象以外を極端に「嫌ふ」ようになると,その人の心身を豊かにしなくなるのではないかと私は思います。
<排他的な「恋ふ」は人の輪を狭める?>
すなわち「恋ふ」対象以外(人や自然)をすべて「嫌ふ」と,結局「嫌った」相手から「嫌は(わ)れる」ことになりかねないからです。
逆に,そんな極端に「恋ふ」(大半の相手の恋人はそういう強い「恋ふ」を期待するのでしょうが)というのではなく,広く人,自然,場所などを「恋ふ」があるはずです。
このような広い対象に向けた「恋ふ」は人間を前向きにさせてくれ,いずれ「恋ふ」の対象から「恋は(わ)れる」ようになり,多くの人や自然から恩恵を受けられる心身共に豊かな人になれるような気がします。
私はこれからも多くの人や自然などを「恋ふ」人間でありたいと願い,「恋ふ」シリーズのまとめとします。
天の川 「ちょ~っと待ってんか,たびとはん。へへっ。それって自分は浮気OKやといいたいやろ?」
きれいに「恋ふ」シリーズを終わろうとしていたのに余計な突っ込みを入れてきた天の川君には,「恋ふ」の機微について改めて教えなければならないようですね(怒)。
住む(1)に続く。
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