人が住む場所を家と呼びます。
万葉集では人(自分,妻,夫,恋人,家族,故郷の人等)が住む家について読んだものが出てきます。
人が住んでいる家には,当然ですが,人が暮らして居て,近所の人や用事のある人の出入りがあり,朝夕には釜戸や囲炉裏に火が入り,さまざまな会話や子供の泣き声などが聞こえるのです。
それはあまりにも日常的で変化の無い状況の繰り返しではあるのですが,その生活から離れてしまった人達にとっては懐かしく,また戻りたいと願いたくなるものなのかもしれません。
さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君(6-955)
<さすたけのおほみやひとの いへとすむさほのやまをば おもふやもきみ>
<<大宮人が住んでいる佐保の山のことを想い起こしませんか、貴殿は?>>
この短歌は,大宰府の次官(長官は大伴旅人)であった石川足人(いしかわのたりひと)が,おそらく長官の旅人に対して尋ねている短歌ではないかと私は想像します。
佐保の山は平城京の大極殿があった場所から東に2~3Kmほど離れた丘陵地帯で,多くの大宮人(役人)が住んでいた場所だったのでしょうか。
今でいえばベッドタウンのような場所だったのかもしれません。
佐保の山では,新しい奈良の京の官吏として勤める多くの人達やその家族が近所づきあいをしながら,元気よく豊かに暮らしていた姿が目に浮かぶようです。
しかし,遠く離れた九州の近所づきあいもままならない地方赴任者にとっては,都で暮らしていたときを思い出して,望郷の念に駆られる気持ちは避けがたいものがあるのでしょう。
そういう気持ちを抑えて我慢するのではなく,都で暮らしていたときの話をみんなでしましょうというのがこの短歌の言いたいことだと私は思います。
ただ,地方赴任も5年も続くと赴任地に愛着が出てくることもありますよね。「住めば都」とはよく言ったものです。次の短歌は大伴家持が赴任期間が終わり,別れの宴で詠ったもののようです。
しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも(19-4250)
<しなざかるこしにいつとせすみすみて たちわかれまくをしきよひかも>
<<越中に五年住み続けて、ここで越中の皆さんとお別れとなってしまうのが残念な今宵です>>
大伴家持にとって越中は第二の故郷といえるほど長く暮らし,地元の人達との交流も円滑にでき,平和で心豊かな暮らしを続けられたに違いありません。
しかし,家持に対し,少納言に昇進させる帰京命令によって越中に住む暮らしが終りを告げたのです。家持33歳の秋の始まりでした。
さて,恋人や夫が異郷の地に住んで,厳しい暮らしを気遣う場合は,万葉集ではどんな和歌が詠まれているのでしょうか。
他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに(15-3748)
<ひとくにはすみあしとぞいふ すむやけくはやかへりませ こひしなぬとに>
<<異国は何かと住みにくいと人は申します。急いで早く帰って来てくださいませ。私が恋い死ぬ前に>>
この短歌は,狭野弟上娘子(さののちがみおとめ)が越前に流罪になった夫である中臣宅守(なかとみのやかもり)に送ったものです。
「早く,早く帰ってきて!!」という心の叫びが私には伝わってきます。
富山湾に比べると越前海岸は切り立った断崖ばかりで,越中の豊さに対して非常に厳しい場所です。
京にいる娘子にとって,越前に流され,おそらくあばら屋に住み,食料も乏しいた状態と想像される宅守のことが心配で心配で仕方がないのです。
この悲劇の夫婦は万葉集の中で後世読む人の多くを感動させる純粋な恋の歌を残したのです。
住む(3;まとめ)に続く。
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