対象が人と異なる用例は「愛する」も同じようにあります。現在では「恋う」よりも「愛する」のほうが人以外にも頻繁に使われているように私は思います。
「自分の仕事を愛している」「地元の酒を愛している」「故郷を愛してやまない」といった使い方だけでなく「愛用品」といった言葉まであります。
さて,万葉集の人以外に対する「恋ふ」の用例を見て行きましょう。最初は花を「恋ふ」の短歌です。
なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ(3-408)
<なでしこが そのはなにもが あさなさなてにとりもちて こひぬひなけむ>
<<貴女が撫子の花なら毎朝毎朝手に取って大切に可愛がらない日はないのに(毎日毎朝大切に可愛がるよ)>>
これは大伴家持が後に正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
撫子の花を毎朝可愛がることを比喩にして,早く大嬢と一緒に暮らしたいという強い気持ちを詠んでいるように私には思えますが,いかがでしょうか。
さて,次は場所を「恋ふ」用例です。
いつしかも見むと思ひし粟島を外にや恋ひむ行くよしをなみ(15-3631)
<いつしかもみむとおもひしあはしまを よそにやこひむゆくよしをなみ>
<<いつか行って見たいと思ってきた粟島を遠くから見るだけで,恋しい粟島に行く方法がない>>
この短歌は,遣新羅使の船が山口県岩国近辺の沖を通った時,瀬戸内海の美しい小島に上陸してみたいと恋しく願っていたが,私(遣新羅使)を乗せた船は通り過ぎるだけだという思いを表しているように私は感じます。
万葉時代の都会人も今と同じで,美しい離れ小島に行って,文明の利器は何もないが都会の喧騒や仕事のストレスのない生活をしてみたいと思っていたのかもしれませんね。
<「恋ふ」は非常に複雑な感情の動き?>
このように多くの「恋ふ」を詠んだ万葉集を通して「恋ふ」を見て行くと,人間が何かを「恋ふ」という心の動きは人間が生きて行くために必須な基本的活動の一つだと言えるかもしれないと改めて私は感じました。
でも,「恋ふ」対象が一つ(一人)のみに限定され,その他の対象に価値を感じなくなったとき,「恋患い」になり「心が死ぬほど恋ふ」といった少し後ろ向きの心があらわれてしまいます。
また,「恋ふ」の反対語を「嫌ふ」とします。「恋ふ」が嵩じて「恋ふ」対象以外を極端に「嫌ふ」ようになると,その人の心身を豊かにしなくなるのではないかと私は思います。
<排他的な「恋ふ」は人の輪を狭める?>
すなわち「恋ふ」対象以外(人や自然)をすべて「嫌ふ」と,結局「嫌った」相手から「嫌は(わ)れる」ことになりかねないからです。
逆に,そんな極端に「恋ふ」(大半の相手の恋人はそういう強い「恋ふ」を期待するのでしょうが)というのではなく,広く人,自然,場所などを「恋ふ」があるはずです。
このような広い対象に向けた「恋ふ」は人間を前向きにさせてくれ,いずれ「恋ふ」の対象から「恋は(わ)れる」ようになり,多くの人や自然から恩恵を受けられる心身共に豊かな人になれるような気がします。
私はこれからも多くの人や自然などを「恋ふ」人間でありたいと願い,「恋ふ」シリーズのまとめとします。
天の川 「ちょ~っと待ってんか,たびとはん。へへっ。それって自分は浮気OKやといいたいやろ?」
きれいに「恋ふ」シリーズを終わろうとしていたのに余計な突っ込みを入れてきた天の川君には,「恋ふ」の機微について改めて教えなければならないようですね(怒)。
住む(1)に続く。
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