<梅雨明けの我が家周辺>
関東地方は昨年より1週間以上早く,梅雨があけてしまいました。近所の街路樹に100本ほど植えてある百日紅(サルスベリ)の花は,まだほんの数本しか咲いていません。
また,近くの観光ぶどう園では,急いで袋かけを行っているようです。
写真は今年咲き始めた百日紅の花,一部(奥)のぶどうに袋かけが終わったぶどう畑の様子です。
さて,また動きの詞シリーズに戻り,今回から数回にわたり「行く」を取りあげます。
「行く」を国語辞典で調べると多くの意味が出てきます。万葉集にも次のようないろいろなニュアンスの違いの用例が何か所にも出てきます。
朝行く(あさゆく)…朝に出かける。朝歩く。
天行く(あまゆく)…(月や太陽が)天上を行く。
打ち行く(うちゆく)…ちょっと行く。馬に乗って行く。
離り行く(かりゆく)…離れ行く。
来経行く(きへゆく)…年月が過ぎゆく。
里行く(さとゆく)…里を行く。里を歩く。
去り行く(さりゆく)…(季節などが)移り巡り行く。
携はり行く(たづさはりゆく)…連れ立って行く。
旅行く(たびゆく)…旅に出て行く。旅行する。たびたつ。
尋め行く(とめゆく)…尋ねて行く。
鳴き行く(なきゆく)…(鳥,獣などが)鳴きながら飛んでいく(彷徨う)。
泥み行く(なづみゆく)…行き悩みながら行く。
更け行く(ふけゆく)…夜が深くなって行く。
二行く(ふたゆく)…二心がある。心が両方に通う。二度繰り返す。
道行く(みちゆく)…道を行く。旅をする。
山行く(やまゆく)…山に登る。山の中を行く。
前に付く言葉によって「行く」の意味が微妙に異なっていることが分かるでしょうか。万葉時代から「行く」はいくつもの意味合いで使われてきた言葉と言えそうです。
「行く」がさまざまな意味合いを万葉時代から持っていた理由として,私はいろいろな言葉と連なって使われてきたからかもしれないのでは?と考えています。当時から「行く」という言葉は単に人がどこかに行くことのみを指しているのではなく,広い概念を持つ抽象的な言葉だったのだろうとも私は感じます。
具体的期用例を万葉集に出てくる短歌で見てみましょう。
うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む(4-733)
<うつせみの よやもふたゆく なにすとか いもにあはずて わがひとりねむ>
<<世の中を二度繰り返すことができるなどありはしない。どうして貴女と逢わないで私独りで寝ることができるだろうか>>
この短歌は大伴家持が 坂上大嬢に対して送った恋の歌です。「二行く」とは「二度繰り返す」という意味で使われています。結構激しく恋情を表した恋の歌だと私は思います。
まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩より泥み行く見れば(13-3316)
<まそかがみ もてれどわれはしるしなしき みがかちよりなづみゆくみれば>
<<澄み切った鏡を私が持っていても甲斐がありません。あなた様がお歩きになられるときの行き先をお悩みになる姿を見ますと>>
この短歌は詠み人知らずの女歌です。私の解釈ですが,「まそ鏡」は自分の純粋な相手への恋愛感情を表し,「泥み行く」は相手(男)が自分への愛情が定まっているのかどうか分からない状態を指します。
その「泥み行く」状態があまりにひどいため,自分だけが相手の男に対する純粋な愛情を持っていても仕方がないと相手の男に伝え,本気になるよう促そうとしている女性の気持ちを表現している歌だと私は解釈します。
本当は恋路を二人で一緒に手をつないで行きたいのに,なかなかそうならない。それが,昔も今も変わらない恋愛の悩ましいところなのでしょうか。
行く(2)に続く。
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