貧窮問答歌や家族愛を詠った優れた歌人山上憶良は,遣唐使の経験から仏教や中国の律令制度などさまざまな知識をもった学者肌の人であったと私は思います。
その憶良が万葉集で詠っている七夕の和歌は,長歌1首,短歌11首の計12首あります。
万葉集で七夕の和歌を同じく長歌1首,短歌12首の計13首を詠っているもうひとりの歌人がいます。それは大伴家持です。
このほかに万葉集では100首ほどの七夕の和歌が出てきますが,ほとんどが詠み人知らずの和歌です。
憶良と家持の七夕の和歌を見比べてみましょう。まず,憶良が詠んだ短歌です。
天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな(8-1518)
<あまのがはあひむきたちて あがこひしきみきますなり ひもときまけな >
<<天の川に向き合って立ってる私の恋しいあの方がいらっしゃいます。紐をほどいて寝所の準備をしましょう>>
次に家持が詠んだ類似部分のある短歌を紹介します。
秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ(20-4311)
<あきかぜに いまかいまかとひもときて うらまちをるにつきかたぶきぬ>
<< (七夕の)秋風が吹く中、あの方が今にもいらっしゃるかと紐を解)いて心待ちにしているうちに月が傾いてしまいました>>
憶良も家持も,ともに七夕に牽牛(彦星)が天の川を渡ってやってくるのを待っている織女(織姫星)の立場で詠んでいます。
憶良は牽牛が来る準備をルンルン気分で行っている織女,家持は待てども来ない牽牛に今年は来ないのかなと半ばあきらめかけている織女の気持ちを詠んでいます。
もうひと組,憶良と家持の七夕の短歌を比較してみましょう。こちらも憶良から。
袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)
<そでふらば みもかはしつべく ちかけども わたるすべなし あきにしあらねば>
<<袖を振れば、お互い見交わすこともできるほど近いけれど、(天の川を)渡るすべがない。(七夕の)秋でないので>>
次に家持の短歌です。
天の川橋渡せらばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも(18-4126)
<あまのがは はしわたせらば そのへゆも いわたらさむを あきにあらずとも>
<<天の川に橋が渡してあったなら、その上を通って渡っていらっしゃれるのに、たとえ(七夕の)秋ではなくとも>>
両方とも,七夕の時以外でも逢えること望む気持ちを詠っています。
<家持は憶良の七夕に対する思い入れを引き継いだ?>
私は憶良と家持の七夕の和歌を比較して見て,家持の七夕の和歌の多くは憶良の七夕を詠んだ12首の和歌を意識しつつ詠んでいたのではないかと思いたくなります。
憶良と家持の接点は,家持の父大伴旅人が大宰府の長官であった時,憶良は旅人の歌友として筑紫歌壇を形成した主要歌人のひとりとなっていたことに端を発するのではないかと私は考えます。
旅人は家持を大宰府に呼び寄せた可能性が高く,その時10歳足らずの家持と憶良との出会いがあったのだろうと私は想像します。
ここで,家持は父旅人と憶良から和歌に関する英才教育を受けたのかもしれません。
上でも紹介した天平元年7月7日と同2年7月8日に憶良が詠んだ七夕の和歌12首は,家持に七夕について大きな興味を抱かせた可能性がありそうです。
また,旅人が大納言になって帰京した後も,憶良は奈良で晩年の旅人を訪れ,歌論に花を咲かせたと想像できます。
青年家持は父旅人没後も憶良が主催する歌人サークル(七夕伝説も題材にしていた?)にたびたび参加して,作歌の他流試合をやった可能性があるのではないでしょうか。
憶良が編んだととされる「類聚歌林」(現存せず)には,きっと七夕の和歌がたくさん載っていたと私は想像します。
憶良没後(天平5年頃)も家持は憶良が詠った和歌を大切に保管し,憶良の歌風を参考に,当時「七夕」研究の第一人者だった憶良にも増して「七夕」について詳しく研究し,広めようとしたのではないかと私は考えます。
家持が「七夕」通であることを後世も知っていて,次の百人一首の一首が家持作とされる理由がこれで少し見えてくるような気がします。
鵲(かささぎ)の渡せる橋の 置く霜の白きを見れば 夜ぞ更けにける(百人一首6:中納言家持)
<<七夕に牽牛と織女を逢わせるために天の川にできる鵲の橋(逢瀬の橋)に冬霜が降って白く光っているのを見ると夜が更けてきたんだなあ>>
天の川特集(3:まとめ)に続く。
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