2011年7月16日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…行く(2)  行く川の流れは絶えずして...。

鴨長明(かものながあきら)が鎌倉時代に表した方丈記(はうぢやうき)には「行く川のながれはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたは、かつきえかつむすびてひさしくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくのこどし。(後略)」とあります。
方丈記は仏教の無常観を前提にしたと思われる「常なるものを求めることのはかなさ」を述べた日本三大随筆のひとつとされています。
冒頭の有名な書き出しは,行く川の水や淀みの泡沫(うたかた)を例に世の中に常なるものはないことの譬えを示しているのですが,方丈記より400年ほどさかのぼる万葉集にも行く水の行き先は分からない(常でない)ことを表現した和歌が出てきます。

~  吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留めかねつも(19-4160)
<~ ふくかぜの みえぬがごとく ゆくみづの とまらぬごとく つねもなく うつろふみれば にはたづみ ながるるなみた とどめかねつ
<<~ 吹く風の方向が見えないように,行く水が形を変え止まらず流れて行くように,世の中に常なるものがなく変わって行く姿を見れば,流れる涙を抑えることができない>>

これは大伴家持が越中で世の無常を悲しんで詠んだ長歌の後半部分です。
恐らく元気だった家臣の急死を悼んで詠んだものだと思われます。人はいつまでも良い状態であることを望むが,その通りには行かない。そのことを現実として見せつけられるとやはり悲しい。そして,涙がとめどなく流れてしまう。
この家持の長歌は,山上憶良の仏教観の影響を強く受けて詠まれたものではないかと私は感じます。

また,万葉集では方丈記の表現に使われた水に浮かぶ泡沫を見て,次のような無常観を詠った短歌も出てきます。

巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは(7-1269)
まきむくのやまへとよみて ゆくみづのみなわのごとしよのひとわれは
<<巻向山の麓を水音を立てて流れ行く水の泡沫が消えたりできたりするように,世の中の無常さを感じている私です>>

しかし,万葉集全体でみると,途絶えることのない流れを序とした恋の歌や,無常観を逆手にとり今は逢えない状態が続いているがそのままではない(逢える)というも歌も出てきます。

巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む(7-1100)
まきむくのあなしのかはゆ ゆくみづのたゆることなくまたかへりみむ
<<巻向の穴師川を流れる水のように、絶えることなく何度もまた(あなたに逢うために)見に来ましょう>>

一瀬には千たび障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも(4-699)
ひとせにはちたびさはらひ ゆくみづののちにもあはむ いまにあらずとも
<<川の瀬では中州や岩などの障害物だらけの中流れ行く水も後にはかならず合流するようにあなたと逢えるでしょう。今はそれができないとしても>>

後の方の短歌は万葉集に5首ほど短歌を載せている大伴像見(おほとものかたみ)という人物が詠んだもので,5月21日のこのブログでも紹介しました百人一首崇徳院の歌とほとんど同じことを表現しているように私は感じます。

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院:77)
<<急流の瀬の岩に掛かって流れる滝の水は岩の左右に別れても岩を過ぎた後はまた合流するようにあなたとまた逢えましょう>>

万葉時代の万葉歌人は既に行く川の水や泡沫の変化を見て,いろいろなものの考え方,見方の譬え(序詞)にしょうとしていた。そして,後世の人々もその表現を利用して短歌や随筆を創作したのかも知れませんね。
行く(3)に続く。

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