少し遅きに失した感がありますが,「なでしこJAPAN」がサッカー女子ワールドカップで優勝し,世界一になったことは本当に素晴らしく,嬉しいことだと思います。けっして諦めない気持ちがあれば難しい状況でも乗り越えられることを示してくれ,日本を大いに勇気づけるビッグニュースでしたね。
さて,万葉集では秋の七草のひとつ「なでしこ」の花が26首の和歌で出てきます。その中で「行く」も併せて詠んでいる次の旋頭歌が1首あります。
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため(8-1549)
<いめたててとみのをかへのなでしこのはな ふさたをりわれはもちてゆくならひとのため>
<<跡見の岡辺に咲くなでしこ(撫子)の花をたくさん手折って持って行くことにしましょう。奈良にいるあの人へのお土産として>>
この旋頭歌は,紀女郎(きのいらつめ)の父紀鹿人(きのしかひと)が大伴旅人の弟である大伴稲公(いなぎみ)の荘園の別荘に招かれたとき詠んだとされるものです。以前にもこのブログで書きましたが,大伴一族はあちこちに荘園をもっていたようです。
そして,手おり束ねて平城京の家人におみやげとして持っていきたいほどその別荘には美しくなでしこの花が咲き乱れていることを賞賛した歌だと私は思います。
さて,奈良時代「おみやげ」のことを「づと」と呼んでいました。それを持って行くと誰でもうれしいものです。
あしひきの山行きしかば山人の我れに得しめし山づとぞこれ(20-4293)
<あしひきのやまゆきしかば やまびとのわれにえしめしやまづとぞこれ>
<<山村に行ったところ山人が余にお土産をくれたのだ。これがその土産なのだ>>
この短歌,聖武(しやうむ)天皇が即位する前の女性天皇である元正(げんしやう)天皇が詠んだとされるものです。しかし,この短歌に対して伯父の舎人親王(とねりのしんわう)が次のように返歌しています。
あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ(20-4294)
<あしひきのやまにゆきけむ やまびとのこころもしらずやまびとやたれ>
<<山村に行かれた陛下は実は山人だったのに,おっしゃっている意味が分かりませんぞ。山人が陛下でなかったらいったい誰だったのですかな?>>
元正天皇が山村に行って美味しそうな山菜,キノコ,木の実などをたくさん採ったのだけれど,天皇(まして女性天皇)がそんなはしゃいではしたない行動をしたと悟られたくなくて,現地の山人がおみやげとして渡してくれたものだと詠った。
天皇自らが山に入り,お付きの者が怪我させたら大変だと制止するのを無視していっぱい採ろうしたことが舎人親王にはバレバレで,親王はそれを婉曲に皮肉って返歌したのではないかと私は解釈します。
<万葉集勅撰論には反対>
でも,こんなやり取りの短歌が天皇が詠ったと正式な記録に残っているでしょうか。
この2首の左注には藤原仲麻呂邸で紹介され,大伴家持が記録したとあります。
これが紹介されたのは恐らく宴席で,参加者は男だけ。「女帝ばかり続くと大変なのでは?」というような話が出たとき「そうそう元正天皇のとき,こんなやり取りをしたという逸話がある」として紹介されたものではないかと私は勝手に想像します。
この2首の紹介は天平勝寶5年(753年)5月の行われたとあり,聖武天皇の次帝である孝謙天皇(女帝)の時代です。
「天武系の皇族は女性がどうしてこんなに強いのかなあ。何をおみやげに持って行けば良いか分からん」などとこの席の出席者(男達)が言っていたかどうかは,さすがの私も想像することはできません(天の川君ならするかな)。
行く(4:まとめ)に続く。
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