前回は,位が上の人に「申す」を詠まれた短歌をいくつか紹介しました。今回は,母や父の親に「申す」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
最近,親を敬うという意識が薄れているのかもしれません。子が親にタメ口を使ったり,命令したり。逆に親が子を虐待し,とても尊敬の対象とならない場合もあります。親に「申す」を使うのは,必死にモノをおねだりするときとか,日ごろの不満が溜まり『親に物申す』のときくらいでしょうか。
しかし,万葉集を見る限りにおいては,親に対して子が「申す」を使っていたことは普通だったようです。
その表現がもっとも顕著に表れているのか「防人の歌」かもしれません。防人の歌を中心に「申す」の表現を見ていきます。
最初は下野国(しもつけのくに)出身の防人で,川上老(かはかみのおゆ)という人物が詠んだとされる短歌です。
旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ(20-4376)
<たびゆきにゆくとしらずて あもししにことまをさずて いまぞくやしけ>
<<長旅に出てしまうとは知らず母父に別れの言葉も申さなかったので,今になって悔やまれることだ>>
「ちょっとした防衛の仕事。九州は難波の港から船が出ていて,楽に着ける。敵が攻めてこなければ,何もしないで金が入るよ」などと甘い言葉に乗って防人となったが,とんでもない長旅で,母父にもっと別れの言葉をきちっと言っておく(申しておく)べきだったと後悔をしている短歌です。
次は,防人自身の歌ではないですが,当時難波の港で東国から招集され,九州に旅立つ防人たちを兵部少輔(ひやうぶのせいう)として監督していた大伴家持が防人に同情して,防人の思いを詠んだ短歌です。
家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(20-4409)
<いへびとのいはへにかあらむ たひらけくふなではしぬと おやにまをさね>
<<家族のみんなが身を浄め斎ってくれたので平安な船出だったと僕の母父に申し上げてください>>
この短歌はひとつ前に家持が詠んだ長歌の反歌です。
その長歌にも「申す」が出てきますが,対象は「神への祈り」です。ただ,「祈り」の内容は,父母の健康と帰りを待つ妻への愛情です。その長歌で「申す」が出てくる後半部分のみですが紹介します。
~ 海原の畏き道を 島伝ひい漕ぎ渡りて あり廻り我が来るまでに 平けく親はいまさね つつみなく妻は待たせと 住吉の我が統め神に 幣奉り祈り申して 難波津に船を浮け据ゑ 八十楫貫き水手ととのへて 朝開き我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(20-4408)
<~ うなはらのかしこきみちを しまづたひいこぎわたりて ありめぐりわがくるまでに たひらけくおやはいまさね つつみなくつまはまたせと すみのえのあがすめかみに ぬさまつりいのりまをして なにはつにふねをうけすゑ やそかぬきかこととのへて あさびらきわはこぎでぬと いへにつげこそ>
<<~ 海原の決められた海路を島伝いに漕ぎ進んで私が生きて帰ってくるまで,平穏無事に親には生きていてほしい,何事無く妻は待っていてほしいと住吉の私たちを守ってくれるという神に幣を供えて祈り申して,難波の港に船をつけ,多くの楫を貫き通してそれを漕ぐ水夫を用意して,朝になったら出港したと実家に伝えてほしい>>
家持は,防人たちの不安や家族への心配な気持ちを少しでも和らげられるよう,役人としてできるかぎりのことをしている姿を伝えたい,そんな気持ちでこの長歌を詠んだのかもしません。
防人として九州に船で送られる側もつらいだろうが,それを見て,また防人たちの故郷や残してきた家族への思いを聞く側もつらい。彼らの気持ちをストレートに和歌に詠ませ,記録に残すことと,和歌を詠ませることで彼らの気持ちを和らげることに腐心した家持がそこにいたのではないかと私は思います。
<家持は防人に対して,単なる数字上の管理をしていただけではなかった>
家持以外の難波津の役人は,恐らく機械的に防人の人数を数え,予定した人数を九州に向け乗船させ,出港させればそれで仕事が終わったと考えていたと想像します。
現地に派遣する防人の数が予定や目標に達していれば,当時の役人は仕事を無事なしとげた,数をそろえるために必要な仕事以外,余計なことはしなかったと私は思います。
その中の役人の家持が防人たちの和歌を残したり,防人の気持ちを代弁する和歌を残した努力に対し,私は心から敬意を表したいのです。
万葉集の原型をほぼまとめたと考えるられる家持の努力だけでなく,その根底にある人に対する貴賤を排した彼の平等感をもっと評価しても良いのではと改めて,家持の防人歌から私は感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(3:まとめ)に続く。
2015年3月20日金曜日
2015年3月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1) 「もろえ」さんはモロ・ええなあ~
今回から,また動きの詞(ことば)シリーズに戻ります。今回は,今でも使う「申す」を見ていきましょう。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>
最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。
いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>
なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。
堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>
この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。
いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>
約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>
最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。
いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>
なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。
堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>
この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。
いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>
約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。
2015年3月7日土曜日
当ブログ7年目突入スペシャル(3:まとめ)‥万葉集は文学作品か,単なる情報の寄せ集めか?
7年目突入スペシャルの最後は,前回出した1)~4)の内,残った2)について,見ていくことにします。3)と4)は別の機会に取っておきます。
<律令制度の夜明け>
2)の律令制ですが,日本の律令制の確立は,私が高校の日本史で習った頃の話ですが,大化2(646)年の「大化の改新」によるものだと教科書に書かれていたようです。ちなみに,高校生の時,日本史にまったく興味の無かった私は寝る時間か内職(他の授業の宿題をやる)の時間でしたので,日本史の先生がどんなふうに教えていたか記憶にはありません。
近年は「大化の改新」は日本書紀を編纂者が大袈裟に書いただけで,実際は大宝元(701)年に発布された大宝律令で日本の律令制は本格的に行政されたという説が有力のようです。
万葉集に採録された和歌は,まさに大宝律令前の律令制黎明期からその後の律令制本格期に詠まれたと考えられる和歌が多くあります。
律令制の用語を使った万葉集の和歌はそう多くはありませんが,次のような制度を茶化したものがあります。
このころの我が恋力記し集め功に申さば五位の冠(16-3858)
<このころの あがこひぢから しるしあつめ くうにまをさば ごゐのかがふり>
<<近の私の恋に対する努力と苦労を記録してその功績を申請すれば五位の称号に値するほどだよ>>
この短歌は,以前にも紹介したものです。ここでの五位(ごゐ)は律令制の位階制度のかなり上の階級で,五位以上は貴族に属し,昇殿も許されたといいます。
壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ(16-3847)
<だにをちやしかもないひそ さとをさがえだちはたらば いましもなかむ>
<<檀家さん,そんなことを言わないくださいな。あなたの里の長が労役を出せと言ってきたら,あなたも泣きますよ>>
これも,何度が本ブログで紹介した短歌です。里長(さとをさ),課役(えだち)も律令制で使われるようになった用語だと考えられます。
住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみためと私田刈る(7-1275)
<すみのえのをだをからすこ やつこかもなき やつこあれどいもがみためと わたくしだかる>
<<住吉の小さな田んぼで稲を一人忙しそうに刈っている若者よ。下人はいないのかい? 私がその下人でさあ。妻のために自分の田の稲をせっせと刈っているんですよ>>
律令制では,原則すべての田は公田(くでん)で,私田は許されなかったようですが,区画として登録できないような小さな田や自分で開墾した田は,耕作意欲を高めるため,例外として私田が許されるようになったらしいのです。公田を貸与されたのは,貴族や国郷里の長などの金持で,多くの下人を使って耕作を行うのが一般的だったのかもしれません。
この旋頭歌では,妻との生活をより豊かにするために,私田をやっとゲットでき,農作業をするには少し上等な服を着て作業している若者の誇らしげな気持ちが伝わってきます。一人で起こしたベンチャー企業の社長さんが,背広姿でオフィスの入口前の通路を掃除しているような感じに見えたのかもしれませんね。
<有名歌人が詠んだ和歌が万葉集の代表例か?>
さて,ここまで3回にわたって万葉集が1300年後の私たちに残してくれた情報の多様さや多さの一端を見てきました。この3回でいわゆる有名歌人と呼ばれる人が詠んだ和歌はあまり出てこなかったのを皆さんはどう思われますか?
万葉集の編集者が優れた文学作品の集大成として万葉集を編纂したのか,当時の日本の多様な社会,経済,文化,生活,習慣,技術を知らしめようとしただけなのかで,万葉集の評価も大きく変わると私は見ています。
<「最も好きな歌人は?」と聞かれるのが最もツライ>
私は,常々,私が万葉集に興味があることを知った人から万葉集の「どの和歌が好きか?」とか「好きな歌人は誰?」とか「この和歌の解釈は分かれているがどちらが正しいか?」と聞かれるのが,一番つらいのです。
私は,万葉集全体が好きで,名も知らない歌人も含むすべての歌人が好きなのです。解釈が分かれた和歌があるのは,その和歌に書かれている情報が現代の我々が持つ情報からでは一定の理解ができないということに過ぎないのです。万葉集を(多少不正確なものも含む)情報の集まりとしてみるなら,万葉学者の先生方には申し訳ありませんが,あまり細かいことにこだわってもしょうがないと私は考えています。
結局,万葉集の編者が文学作品としてではなく,当時日本の姿をできるだけ多角的に残そうとして編纂したのではないか,それが私の万葉集に対する現状の見方なのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1)に続く。
<律令制度の夜明け>
2)の律令制ですが,日本の律令制の確立は,私が高校の日本史で習った頃の話ですが,大化2(646)年の「大化の改新」によるものだと教科書に書かれていたようです。ちなみに,高校生の時,日本史にまったく興味の無かった私は寝る時間か内職(他の授業の宿題をやる)の時間でしたので,日本史の先生がどんなふうに教えていたか記憶にはありません。
近年は「大化の改新」は日本書紀を編纂者が大袈裟に書いただけで,実際は大宝元(701)年に発布された大宝律令で日本の律令制は本格的に行政されたという説が有力のようです。
万葉集に採録された和歌は,まさに大宝律令前の律令制黎明期からその後の律令制本格期に詠まれたと考えられる和歌が多くあります。
律令制の用語を使った万葉集の和歌はそう多くはありませんが,次のような制度を茶化したものがあります。
このころの我が恋力記し集め功に申さば五位の冠(16-3858)
<このころの あがこひぢから しるしあつめ くうにまをさば ごゐのかがふり>
<<近の私の恋に対する努力と苦労を記録してその功績を申請すれば五位の称号に値するほどだよ>>
この短歌は,以前にも紹介したものです。ここでの五位(ごゐ)は律令制の位階制度のかなり上の階級で,五位以上は貴族に属し,昇殿も許されたといいます。
壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ(16-3847)
<だにをちやしかもないひそ さとをさがえだちはたらば いましもなかむ>
<<檀家さん,そんなことを言わないくださいな。あなたの里の長が労役を出せと言ってきたら,あなたも泣きますよ>>
これも,何度が本ブログで紹介した短歌です。里長(さとをさ),課役(えだち)も律令制で使われるようになった用語だと考えられます。
住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみためと私田刈る(7-1275)
<すみのえのをだをからすこ やつこかもなき やつこあれどいもがみためと わたくしだかる>
<<住吉の小さな田んぼで稲を一人忙しそうに刈っている若者よ。下人はいないのかい? 私がその下人でさあ。妻のために自分の田の稲をせっせと刈っているんですよ>>
律令制では,原則すべての田は公田(くでん)で,私田は許されなかったようですが,区画として登録できないような小さな田や自分で開墾した田は,耕作意欲を高めるため,例外として私田が許されるようになったらしいのです。公田を貸与されたのは,貴族や国郷里の長などの金持で,多くの下人を使って耕作を行うのが一般的だったのかもしれません。
この旋頭歌では,妻との生活をより豊かにするために,私田をやっとゲットでき,農作業をするには少し上等な服を着て作業している若者の誇らしげな気持ちが伝わってきます。一人で起こしたベンチャー企業の社長さんが,背広姿でオフィスの入口前の通路を掃除しているような感じに見えたのかもしれませんね。
<有名歌人が詠んだ和歌が万葉集の代表例か?>
さて,ここまで3回にわたって万葉集が1300年後の私たちに残してくれた情報の多様さや多さの一端を見てきました。この3回でいわゆる有名歌人と呼ばれる人が詠んだ和歌はあまり出てこなかったのを皆さんはどう思われますか?
万葉集の編集者が優れた文学作品の集大成として万葉集を編纂したのか,当時の日本の多様な社会,経済,文化,生活,習慣,技術を知らしめようとしただけなのかで,万葉集の評価も大きく変わると私は見ています。
<「最も好きな歌人は?」と聞かれるのが最もツライ>
私は,常々,私が万葉集に興味があることを知った人から万葉集の「どの和歌が好きか?」とか「好きな歌人は誰?」とか「この和歌の解釈は分かれているがどちらが正しいか?」と聞かれるのが,一番つらいのです。
私は,万葉集全体が好きで,名も知らない歌人も含むすべての歌人が好きなのです。解釈が分かれた和歌があるのは,その和歌に書かれている情報が現代の我々が持つ情報からでは一定の理解ができないということに過ぎないのです。万葉集を(多少不正確なものも含む)情報の集まりとしてみるなら,万葉学者の先生方には申し訳ありませんが,あまり細かいことにこだわってもしょうがないと私は考えています。
結局,万葉集の編者が文学作品としてではなく,当時日本の姿をできるだけ多角的に残そうとして編纂したのではないか,それが私の万葉集に対する現状の見方なのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1)に続く。
2015年3月1日日曜日
当ブログ7年目突入スペシャル(2)‥塩辛になった可哀そうな蟹?
前回は,万葉集の情報量の多さを地名の多さにより見ました。今回は,「当時としては新しい名詞が多くある」について見ていきます。
<新しい言葉とは>
「当時としては新しい言葉」とは何を指すかというと,古墳時代より前にあった言葉ではなく,その後に新しくできた言葉を意味します。動詞や形容詞はなかなか新しい言葉は生まれにくいですが,名詞は今までになかったモノが現れると新しい名前が付くはずです。
現代でも,スマホ(スマートフォンの略)という言葉は恐らく10年前には一部専門家を除き,ほとんど誰も知らなかった言葉でしょう。それは,今までになかった携帯電話の形態で,従来の携帯電話と同じ分類に置くのは合理的でないと,新しい分類に位置付けられたと考えられます。新しいものですから,従来の携帯電話と異なる分類名称が現れるのは自然な成り行きです。
なお,そのついでに従来型携帯電話のことを「ガラ携」(ガラパゴス携帯電話の略)との新しい?言葉も生まれました。大きな進化が止まった携帯電話という意味でしょうか?
<万葉時代は当然新しい言葉が埋まりるスピードは今より遅かった>
万葉集にも当時としては新しい言葉(新語)に位置付けられるものは,もちろん今の「新語大賞」のように年単位に新語が生まれ,数年前いや去年の新語はもう古いと思われるようなスピード感の新語ではありません。
万葉時代は今のような瞬時に世界中の情報が世界中の人々に共有可能なマスメディアが存在していたわけではありません。新語がさまざなところで使われて,書物に記録が残り,定着するためには,今に比べて何百倍,何千倍もの時間が掛かったのではないかと思います。
今が数か月で新語が定着するとすれば,当時の定着には何十年,何百年という期間が掛かってしまうのも当然で,新語の年あたりの発生数(海外から来た言葉も含む)も現代の何千分の一だったのかもしれません。
<万葉時代で新語が埋まれる速さ>
そのため,現代のスピード感でいうとイメージが合わないかもしれませんが,次の1)~4)の言葉は万葉時代の新語として分類して見ます。
1) 工芸・技術(主に6世紀以降大陸から導入されたと考えられるもの)の用語
2) 律令制度(律令制度は7世紀後半から日本に定着し始めたと云われている)の用語
3) 宗教(仏教,儒教,道教などの大陸伝来宗教)の用語
4) 節句行事(もともと大陸にあった行事)の用語
まず,万葉集で最も多く出てくるのが,1)でしょう。今回は1)について見ていきます。
1)の場合,全く新しい言葉ではなく,既にある言葉に付加価値を付ける言葉を合成したものが多いのは,現代と同じような気がします。
現代でいえば,スカイツリー,3Dプリンタ,ウェアラブル端末,ホットスポット,草食系男子,育メン,肉食系女子,マイナンバーなど合成語ばかりです。
万葉集では,韓臼,韓帯,韓衣,双六,倭文機(しつはた),新羅斧,白塗,陶(すゑ)人,杣(そま)人,経緯(たてぬき),織女,手臼,手(た)作り,手斧,外床,鳥網,長屋,鳴矢,貫簀(ぬきす),塗屋形,幡桙(はたほこ),科(はやし),醤酢(ひしほす),純裏(ひたうら),直さ麻(ひたさを),檜橋,船人,真鹿小矢,澪標(みをつくし),蒸衾(むしぶすま),焼太刀,夜船,麻績(をす)といったものです。
臼,帯,衣は以前から言葉としてあったけれども,韓臼,韓帯,韓衣は当時としては輸入物やそれに近い斬新なイメージのものだったのではと私は思います。さらに,陶人(陶芸家),杣人(林業家),織女(機織職人),船人(船員)は,それぞれの職業を専門にするプロフェッショナルが生まれたことを意味するのだと私は解釈します。
実際の万葉集で見ていきましょう。次は,女性歌と思われる短歌です。
韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を(11-2682)
<からころもきみにうちきせ みまくほりこひぞくらしし あめのふるひを>
<<私の韓衣をあなた様にしっかりお着せして見たいと望んでおります。夜にお逢いできることを心待ちしている今日雨降る日中を>>
この短歌の作者,夜は本当に雨が止んでほしいと願っているように思います。相手の男性が夜も雨だと妻問に来てくれない可能性があるからです。
「うち着せ」が万葉仮名からの訓読として正しければ,「韓衣君にうち着せ」は高級な衣(今で言うと打掛のようなもの)を掛布団にして共寝することをイメージしているようにも思えます。
うがった見方をすれば「親には(高級な舶来ブランドの)韓衣を買えるだけの財力があるのよ。だから今晩雨でも来てね」ということを暗に示めそうという意図も感じられませんか。
次は,陶人,韓臼,手臼が出てくる長歌(というより歌謡)の一部です。
おしてるや難波の小江に 廬作り隠りて居る 葦蟹を大君召すと 何せむに我を召すらめや ~ 今日今日と飛鳥に至り 置くとも置勿に至り つかねども都久野に至り 東の中の御門ゆ 参入り来て命受くれば ~ もむ楡を五百枝剥き垂り 天照るや日の異に干し さひづるや韓臼に搗き 庭に立つ手臼に搗き おしてるや難波の小江の初垂りを からく垂り来て 陶人の作れる瓶を 今日行きて明日取り持ち来 我が目らに塩塗りたまひ きたひはやすも きたひはやすも(16-3886)
<おしてるやなにはのをえに いほつくりなまりてをる あしがにをおほきみめすと なにせむにわをめすらめや ~ けふけふとあすかにいたり おくともおくなにいたり つかねどもつくのにいたり ひむがしのなかのみかどゆ まゐりきてみことうくれば ~ もむにれをいほえはきたり あまてるやひのけにほし さひづるやからうすにつき にはにたつてうすにつき おしてるやなにはのをえの はつたりをからくたりきて すゑひとのつくれるかめを けふゆきてあすとりもちき わがめらにしほぬりたまひ きたひはやすも きたひはやすも>
<<難波の小さな入り江に巣を作って暮らしている葦蟹の私を大君は来て欲しいと仰る。どうして私のようなものに来いと仰るのか。 ~ 急いで明日香,置勿,都久野を経由して,宮中の東門から参上して用件をお聞きしょうすると ~ 私を五百枝も剥いで吊るし,日ごとに干して,韓臼で搗き,庭に据えた手臼で搗いて粉にし,難波小さな入り江で取れた新鮮な海水の塩分を高くして混ぜ,陶工が作る瓶を今日注文し,明日運ばれて瓶に入れ,私の目にその塩を塗って,賞味なさることよ。賞味なさることよ。>>
本長歌の左注にある「哀れな葦蟹さん」と解釈するのか,当時の美味しく食べるための加工技術(2種類の新型臼で搗く)や,高級感を出すための演出(専門職人の陶人が作る瓶に入れる)がどこまで進んでいたかを示す資料と見るかで,この和歌の感じ方は大きく変わると思います。
また,蟹を生きたまま,難波から平城京まで運ぶ技術ができていたことも想像できます。さらに,瓶を今日注文して翌日届くということは,注文生産ではなく,見込生産がされ,在庫を持っていたからできたことだ私は思います。
「哀れな蟹さんのお話」と興味を引かせておいて,「天皇も食べているというこの蟹の加工品を食べたい」と一般の人に思わせる。そんなカニを加工した新食品のPRの歌だったのかもしれません。
この1首前の長歌も構成がよく似ており,対象は鹿です。狩で殺した鹿は大君によってどうされるのか,具体的には狩りで殺された鹿1頭の角,耳,目,爪,毛,皮,肉,内臓がどう加工されるのかを詠んでいます。
これも「八つ裂きにされる可哀そうな鹿さん」と見るか,鹿1頭を捨てるところなく利用し,狩で無駄に殺生をしているのではないことを示している政権側のPRと見るかで感じ方が大きく変わります。
鹿のさまざまな部位の新しい加工品が,京人が手にできる値段の高級品として市場に出回っていたことも想像できます。そして,御多分に洩れず,偽物も多く出回っていたかもですね。
当ブログ7年目突入スペシャル(3:まとめ)に続く。
<新しい言葉とは>
「当時としては新しい言葉」とは何を指すかというと,古墳時代より前にあった言葉ではなく,その後に新しくできた言葉を意味します。動詞や形容詞はなかなか新しい言葉は生まれにくいですが,名詞は今までになかったモノが現れると新しい名前が付くはずです。
現代でも,スマホ(スマートフォンの略)という言葉は恐らく10年前には一部専門家を除き,ほとんど誰も知らなかった言葉でしょう。それは,今までになかった携帯電話の形態で,従来の携帯電話と同じ分類に置くのは合理的でないと,新しい分類に位置付けられたと考えられます。新しいものですから,従来の携帯電話と異なる分類名称が現れるのは自然な成り行きです。
なお,そのついでに従来型携帯電話のことを「ガラ携」(ガラパゴス携帯電話の略)との新しい?言葉も生まれました。大きな進化が止まった携帯電話という意味でしょうか?
<万葉時代は当然新しい言葉が埋まりるスピードは今より遅かった>
万葉集にも当時としては新しい言葉(新語)に位置付けられるものは,もちろん今の「新語大賞」のように年単位に新語が生まれ,数年前いや去年の新語はもう古いと思われるようなスピード感の新語ではありません。
万葉時代は今のような瞬時に世界中の情報が世界中の人々に共有可能なマスメディアが存在していたわけではありません。新語がさまざなところで使われて,書物に記録が残り,定着するためには,今に比べて何百倍,何千倍もの時間が掛かったのではないかと思います。
今が数か月で新語が定着するとすれば,当時の定着には何十年,何百年という期間が掛かってしまうのも当然で,新語の年あたりの発生数(海外から来た言葉も含む)も現代の何千分の一だったのかもしれません。
<万葉時代で新語が埋まれる速さ>
そのため,現代のスピード感でいうとイメージが合わないかもしれませんが,次の1)~4)の言葉は万葉時代の新語として分類して見ます。
1) 工芸・技術(主に6世紀以降大陸から導入されたと考えられるもの)の用語
2) 律令制度(律令制度は7世紀後半から日本に定着し始めたと云われている)の用語
3) 宗教(仏教,儒教,道教などの大陸伝来宗教)の用語
4) 節句行事(もともと大陸にあった行事)の用語
まず,万葉集で最も多く出てくるのが,1)でしょう。今回は1)について見ていきます。
1)の場合,全く新しい言葉ではなく,既にある言葉に付加価値を付ける言葉を合成したものが多いのは,現代と同じような気がします。
現代でいえば,スカイツリー,3Dプリンタ,ウェアラブル端末,ホットスポット,草食系男子,育メン,肉食系女子,マイナンバーなど合成語ばかりです。
万葉集では,韓臼,韓帯,韓衣,双六,倭文機(しつはた),新羅斧,白塗,陶(すゑ)人,杣(そま)人,経緯(たてぬき),織女,手臼,手(た)作り,手斧,外床,鳥網,長屋,鳴矢,貫簀(ぬきす),塗屋形,幡桙(はたほこ),科(はやし),醤酢(ひしほす),純裏(ひたうら),直さ麻(ひたさを),檜橋,船人,真鹿小矢,澪標(みをつくし),蒸衾(むしぶすま),焼太刀,夜船,麻績(をす)といったものです。
臼,帯,衣は以前から言葉としてあったけれども,韓臼,韓帯,韓衣は当時としては輸入物やそれに近い斬新なイメージのものだったのではと私は思います。さらに,陶人(陶芸家),杣人(林業家),織女(機織職人),船人(船員)は,それぞれの職業を専門にするプロフェッショナルが生まれたことを意味するのだと私は解釈します。
実際の万葉集で見ていきましょう。次は,女性歌と思われる短歌です。
韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を(11-2682)
<からころもきみにうちきせ みまくほりこひぞくらしし あめのふるひを>
<<私の韓衣をあなた様にしっかりお着せして見たいと望んでおります。夜にお逢いできることを心待ちしている今日雨降る日中を>>
この短歌の作者,夜は本当に雨が止んでほしいと願っているように思います。相手の男性が夜も雨だと妻問に来てくれない可能性があるからです。
「うち着せ」が万葉仮名からの訓読として正しければ,「韓衣君にうち着せ」は高級な衣(今で言うと打掛のようなもの)を掛布団にして共寝することをイメージしているようにも思えます。
うがった見方をすれば「親には(高級な舶来ブランドの)韓衣を買えるだけの財力があるのよ。だから今晩雨でも来てね」ということを暗に示めそうという意図も感じられませんか。
次は,陶人,韓臼,手臼が出てくる長歌(というより歌謡)の一部です。
おしてるや難波の小江に 廬作り隠りて居る 葦蟹を大君召すと 何せむに我を召すらめや ~ 今日今日と飛鳥に至り 置くとも置勿に至り つかねども都久野に至り 東の中の御門ゆ 参入り来て命受くれば ~ もむ楡を五百枝剥き垂り 天照るや日の異に干し さひづるや韓臼に搗き 庭に立つ手臼に搗き おしてるや難波の小江の初垂りを からく垂り来て 陶人の作れる瓶を 今日行きて明日取り持ち来 我が目らに塩塗りたまひ きたひはやすも きたひはやすも(16-3886)
<おしてるやなにはのをえに いほつくりなまりてをる あしがにをおほきみめすと なにせむにわをめすらめや ~ けふけふとあすかにいたり おくともおくなにいたり つかねどもつくのにいたり ひむがしのなかのみかどゆ まゐりきてみことうくれば ~ もむにれをいほえはきたり あまてるやひのけにほし さひづるやからうすにつき にはにたつてうすにつき おしてるやなにはのをえの はつたりをからくたりきて すゑひとのつくれるかめを けふゆきてあすとりもちき わがめらにしほぬりたまひ きたひはやすも きたひはやすも>
<<難波の小さな入り江に巣を作って暮らしている葦蟹の私を大君は来て欲しいと仰る。どうして私のようなものに来いと仰るのか。 ~ 急いで明日香,置勿,都久野を経由して,宮中の東門から参上して用件をお聞きしょうすると ~ 私を五百枝も剥いで吊るし,日ごとに干して,韓臼で搗き,庭に据えた手臼で搗いて粉にし,難波小さな入り江で取れた新鮮な海水の塩分を高くして混ぜ,陶工が作る瓶を今日注文し,明日運ばれて瓶に入れ,私の目にその塩を塗って,賞味なさることよ。賞味なさることよ。>>
本長歌の左注にある「哀れな葦蟹さん」と解釈するのか,当時の美味しく食べるための加工技術(2種類の新型臼で搗く)や,高級感を出すための演出(専門職人の陶人が作る瓶に入れる)がどこまで進んでいたかを示す資料と見るかで,この和歌の感じ方は大きく変わると思います。
また,蟹を生きたまま,難波から平城京まで運ぶ技術ができていたことも想像できます。さらに,瓶を今日注文して翌日届くということは,注文生産ではなく,見込生産がされ,在庫を持っていたからできたことだ私は思います。
「哀れな蟹さんのお話」と興味を引かせておいて,「天皇も食べているというこの蟹の加工品を食べたい」と一般の人に思わせる。そんなカニを加工した新食品のPRの歌だったのかもしれません。
この1首前の長歌も構成がよく似ており,対象は鹿です。狩で殺した鹿は大君によってどうされるのか,具体的には狩りで殺された鹿1頭の角,耳,目,爪,毛,皮,肉,内臓がどう加工されるのかを詠んでいます。
これも「八つ裂きにされる可哀そうな鹿さん」と見るか,鹿1頭を捨てるところなく利用し,狩で無駄に殺生をしているのではないことを示している政権側のPRと見るかで感じ方が大きく変わります。
鹿のさまざまな部位の新しい加工品が,京人が手にできる値段の高級品として市場に出回っていたことも想像できます。そして,御多分に洩れず,偽物も多く出回っていたかもですね。
当ブログ7年目突入スペシャル(3:まとめ)に続く。
2015年2月22日日曜日
当ブログ7年目突入スペシャル(1)‥万葉集が記録した地名
<石和温泉でくつろぐ>
2009年2月下旬から始めたこのブログも7年目に入ろうとしています。
昨日今日と私は石和温泉駅から北東へ徒歩10分ほどの比較的小さな温泉旅館に来ています。
昨年12月から私は新しい職場に転職し,ようやく対象システムの全貌,初期開発当時の状況,その後何年にも続いた保守開発対応の経緯の詳細が見えてきました。
以前からときどき仕事の疲れを少し癒すため,都心から近いことが便利なこの温泉地を今回も選びました。旅館到着後,すぐに温泉風呂に入り,リラックスしてから,このブログを書き始めています。
今回宿泊の旅館は,初めて来た場所ですが,お風呂も泉質の異なる2種類の温泉(旅館直下で涌く温泉と,いわゆる石和温泉と呼ばれる温泉)が楽しめ,料理もなかなかしっかりしたボリュームと内容で申し分ありませんでした。写真は,お風呂(左の浴槽が温めの自噴温泉で右の浴槽が熱めの石和温泉)と夕食の料理(一部)です。
<万葉集の雑多さで万葉集の評価を下げる評論には反対>
今回のスペシャルは「万葉集が我々に残した情報は何か?」について,3回に分けて私の考えを示したいと思います。万葉集には,一見無秩序と思われるくらい,多様で多くの(飛鳥時代から奈良時代に掛けての)情報が盛り込まれています。
万葉集の解説本に「『万葉集は一人の人が編纂したのではなく,何回かに分けて編纂された歌集を集めたものである』といった学説が有力だ」という解説をよく見かけます。しかし,私はそんな解説にほとんど興味を感じません。一部がいつだれがその部分を編纂したかはどうでもよいと私は思います。
<最終編者の意図こそが万葉集の評価を決める>
最終的に20巻の万葉集として編集した人が万葉集を編纂したのです。それがたとえ寄せ集めでも,統一されていなくても,下手くそな和歌が数多く残っていたとしてもまったく問題はありません。不統一であるとか,寄せ集めであるからとか,どうでもいいような和歌がたくさんあるとかで,万葉集自体や最終編集者の評価を下げるような解説に対し「それがどうしたの?」と私は言いたくなるだけです。
<万葉集の価値はその情報量にある?>
万葉集の価値は,そこに納められた情報量の多さにこそ大きなものがあると感じます。ここで私が言う情報量とは,重複を排除(一つにして)して残ったものです。情報処理技術の分野でいうと情報のユニーク(一意)性を高めた処理後の情報の量です。それは多様性が高いほど,私の言う情報量が多いことを示しているのです。
いわゆる「優れた(?)和歌を集めた万葉集の解説本」の多さには,私は正直辟易します。『優れた』という非常にあいまい,かつ選んだ人の個人的な価値観(例えば,○○博士が選んだから優れているとか)を勝手に押し付けたものでしかないからです。
<原点に戻る>
さて,このブログを始めた時にも書きましたが,私が万葉集から収集した用語集(約6千語)があります。それを見ていくと,まず地名の多さが目立ちます。万葉集での地名と思われる用語の数は,少なくとも800以上あると私は考えます。もちろん,その数は何度も出てくる有名な地名も1として数えています(延べ数ではありせん)。
これだけ,さまざまな地名が出てくる歌集であることは,編者が当時の日本という国(本州,四国,九州)の地名を多くの人に知らしめたいといってもおかしくありません。万葉集の和歌を見た,まは聞いた人は,その地名に行ってみたいと感じる人は多かったのではないでしょうか。
特に,地名にまつわる伝説を詠んだ次の短歌などは,その伝説の地に行ってみたいと特に感じるさせる効果は高かったと私は想像します。
香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原(1-14):中大兄皇子
<かぐやまとみみなしやまと あひしときたちて みにこし いなみくにはら>
<<香具山と耳梨山とが争った時に出雲の神が立ち上がって見に来たという,ここが印南国原なのだ>>
音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山(5-883):三嶋王
<おとにききめにはいまだみず さよひめ ひれふりきとふ きみまつらやま>
<<人づてには聞いているがまだ行ったことの無いのだ(行ってみたい)。肥前の唐津にあるという佐用姫が恋人との別れを惜しみいつまでも袖を振り,帰りを待ったいう言い伝えがある松浦山に>>
人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね(14-3398):東歌
<ひとみなのことはたゆとも はにしなのいしゐのてごが ことなたえそね>
<<人の言い伝えがすべて忘れ去られても埴科(長野県北部の郡)にある石井の手児の伝説だけは絶えさせないでほしい>>
さらに,たとえば次の詠み人知らずの短歌のように,どういったことでその地名が有名かが分かる序詞や枕詞を持つ和歌も多く出てきます。
もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも(11-2714)
<もののふのやそうぢがはの はやきせにたちえぬこひも あれはするかも >
<<大勢の武士たちの勢いと素早さで移動するような宇治川の早い瀬に立っているのが非常につらいの同じほど,あなたとの恋は苦しいものとなっているようです>>
「この最初の部分は『立ちえぬ』を導く序詞(枕詞)ですから,特に意味を意識する必要ははありません。この短歌は苦しい恋をしていると言いたいだけの単純なものです。」と解説したり,現代訳したりする人に万葉集の良さを語ってほしくないというのが,私の正直な感想です。
<序詞から多くの情報が得られる>
この短歌の情報として,宇治川は勢いよく流れる早い瀬があることが分かります。しかし,宇治は交通の要所であり,その川を渡る必要があるのです。それがどれだけ大変なのかが,当時の人々の評判になっていたのだろうという確かな情報が得られるのです。また,そのつらさの情報から「憂(う)し川」⇒「宇治(うぢ)川」と呼ばれるようになったのかも知れないという推測情報が演繹可能となります。
万葉集の編者は,地名を知らしめることと,そこへ旅をする人が増えることを願ったのかもしれません。具体的には,平城京,飛鳥京,大津京,近江周辺,吉野宮,藤原京,難波宮,恭仁京,山背地域(京都府南部),瀬戸内海の島々や沿岸地域,九州北部,山陰地方,北陸地方,伊勢,東海地方,関東甲信越地域,東北南部地域などの地名が出てくること自体に,情報量としての価値を私は強く感じるのです。
万葉集に出てくる地名を見るたびに出かけたくなる,今温泉三昧中の私「たびと」でした。
当ブログ7年目突入スペシャル(2)に続く。
2009年2月下旬から始めたこのブログも7年目に入ろうとしています。
昨日今日と私は石和温泉駅から北東へ徒歩10分ほどの比較的小さな温泉旅館に来ています。
昨年12月から私は新しい職場に転職し,ようやく対象システムの全貌,初期開発当時の状況,その後何年にも続いた保守開発対応の経緯の詳細が見えてきました。
以前からときどき仕事の疲れを少し癒すため,都心から近いことが便利なこの温泉地を今回も選びました。旅館到着後,すぐに温泉風呂に入り,リラックスしてから,このブログを書き始めています。
今回宿泊の旅館は,初めて来た場所ですが,お風呂も泉質の異なる2種類の温泉(旅館直下で涌く温泉と,いわゆる石和温泉と呼ばれる温泉)が楽しめ,料理もなかなかしっかりしたボリュームと内容で申し分ありませんでした。写真は,お風呂(左の浴槽が温めの自噴温泉で右の浴槽が熱めの石和温泉)と夕食の料理(一部)です。
<万葉集の雑多さで万葉集の評価を下げる評論には反対>
今回のスペシャルは「万葉集が我々に残した情報は何か?」について,3回に分けて私の考えを示したいと思います。万葉集には,一見無秩序と思われるくらい,多様で多くの(飛鳥時代から奈良時代に掛けての)情報が盛り込まれています。
万葉集の解説本に「『万葉集は一人の人が編纂したのではなく,何回かに分けて編纂された歌集を集めたものである』といった学説が有力だ」という解説をよく見かけます。しかし,私はそんな解説にほとんど興味を感じません。一部がいつだれがその部分を編纂したかはどうでもよいと私は思います。
<最終編者の意図こそが万葉集の評価を決める>
最終的に20巻の万葉集として編集した人が万葉集を編纂したのです。それがたとえ寄せ集めでも,統一されていなくても,下手くそな和歌が数多く残っていたとしてもまったく問題はありません。不統一であるとか,寄せ集めであるからとか,どうでもいいような和歌がたくさんあるとかで,万葉集自体や最終編集者の評価を下げるような解説に対し「それがどうしたの?」と私は言いたくなるだけです。
<万葉集の価値はその情報量にある?>
万葉集の価値は,そこに納められた情報量の多さにこそ大きなものがあると感じます。ここで私が言う情報量とは,重複を排除(一つにして)して残ったものです。情報処理技術の分野でいうと情報のユニーク(一意)性を高めた処理後の情報の量です。それは多様性が高いほど,私の言う情報量が多いことを示しているのです。
いわゆる「優れた(?)和歌を集めた万葉集の解説本」の多さには,私は正直辟易します。『優れた』という非常にあいまい,かつ選んだ人の個人的な価値観(例えば,○○博士が選んだから優れているとか)を勝手に押し付けたものでしかないからです。
<原点に戻る>
さて,このブログを始めた時にも書きましたが,私が万葉集から収集した用語集(約6千語)があります。それを見ていくと,まず地名の多さが目立ちます。万葉集での地名と思われる用語の数は,少なくとも800以上あると私は考えます。もちろん,その数は何度も出てくる有名な地名も1として数えています(延べ数ではありせん)。
これだけ,さまざまな地名が出てくる歌集であることは,編者が当時の日本という国(本州,四国,九州)の地名を多くの人に知らしめたいといってもおかしくありません。万葉集の和歌を見た,まは聞いた人は,その地名に行ってみたいと感じる人は多かったのではないでしょうか。
特に,地名にまつわる伝説を詠んだ次の短歌などは,その伝説の地に行ってみたいと特に感じるさせる効果は高かったと私は想像します。
香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原(1-14):中大兄皇子
<かぐやまとみみなしやまと あひしときたちて みにこし いなみくにはら>
<<香具山と耳梨山とが争った時に出雲の神が立ち上がって見に来たという,ここが印南国原なのだ>>
音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山(5-883):三嶋王
<おとにききめにはいまだみず さよひめ ひれふりきとふ きみまつらやま>
<<人づてには聞いているがまだ行ったことの無いのだ(行ってみたい)。肥前の唐津にあるという佐用姫が恋人との別れを惜しみいつまでも袖を振り,帰りを待ったいう言い伝えがある松浦山に>>
人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね(14-3398):東歌
<ひとみなのことはたゆとも はにしなのいしゐのてごが ことなたえそね>
<<人の言い伝えがすべて忘れ去られても埴科(長野県北部の郡)にある石井の手児の伝説だけは絶えさせないでほしい>>
さらに,たとえば次の詠み人知らずの短歌のように,どういったことでその地名が有名かが分かる序詞や枕詞を持つ和歌も多く出てきます。
もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも(11-2714)
<もののふのやそうぢがはの はやきせにたちえぬこひも あれはするかも >
<<大勢の武士たちの勢いと素早さで移動するような宇治川の早い瀬に立っているのが非常につらいの同じほど,あなたとの恋は苦しいものとなっているようです>>
「この最初の部分は『立ちえぬ』を導く序詞(枕詞)ですから,特に意味を意識する必要ははありません。この短歌は苦しい恋をしていると言いたいだけの単純なものです。」と解説したり,現代訳したりする人に万葉集の良さを語ってほしくないというのが,私の正直な感想です。
<序詞から多くの情報が得られる>
この短歌の情報として,宇治川は勢いよく流れる早い瀬があることが分かります。しかし,宇治は交通の要所であり,その川を渡る必要があるのです。それがどれだけ大変なのかが,当時の人々の評判になっていたのだろうという確かな情報が得られるのです。また,そのつらさの情報から「憂(う)し川」⇒「宇治(うぢ)川」と呼ばれるようになったのかも知れないという推測情報が演繹可能となります。
万葉集の編者は,地名を知らしめることと,そこへ旅をする人が増えることを願ったのかもしれません。具体的には,平城京,飛鳥京,大津京,近江周辺,吉野宮,藤原京,難波宮,恭仁京,山背地域(京都府南部),瀬戸内海の島々や沿岸地域,九州北部,山陰地方,北陸地方,伊勢,東海地方,関東甲信越地域,東北南部地域などの地名が出てくること自体に,情報量としての価値を私は強く感じるのです。
万葉集に出てくる地名を見るたびに出かけたくなる,今温泉三昧中の私「たびと」でした。
当ブログ7年目突入スペシャル(2)に続く。
2015年2月16日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ) ウグイスの毛の色は姿を隠す保護色?
「隠る」をここまで万葉集でいろいろ見てきましたが,いよいよ今回が最後になります。最後は「隠る」の対象が今まで出てこなかったものを対象とします。
まず,鶯が木末に隠れて鳴いている様子を詠んだ短歌から見ていきましょう。
春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に(5-827)
<はるさればこぬれがくりて うぐひすぞなきていぬなる うめがしづえに>
<<春になるとこずえに隠れて鶯は鳴き姿が見えなくなるようだ。梅の下枝に>>
この短歌は,天平2(730)年1月13日に大宰府で行われた大伴旅人を主人とした梅見の宴のとき,旅人の家臣であったろう山口若麻呂という参加者の一人が詠んだとされています。
ちなみに,鶯は色は非常に地味です(花札の影響か,鮮やかな緑色のメジロを鶯と勘違いする多いといいます)。鶯の身体の色は,確かに少しだけ緑色は帯びていますが,ほとんど木の肌の色に近いのです。そのため,葉がまだ出ない梅の木の木肌色に近い色(いわゆる保護色)であり,声はするけれど鶯がどこにいるか見つけるのが困難になるのです。この短歌は,そのような情景を詠んだように私には思えます。
さて,次は坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が詠んだとされる茶目っ気のある短歌です。
佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね(4-529)
<さほがはのきしのつかさの しばなかりそね ありつつもはるしきたらば たちかくるがね>
<<佐保川の岸の小高いところに生えている柴を刈らないでほしいわ。そのままにして春になったなら,その葉陰に隠れて誰にも見られず逢えるから>>
万葉時代の佐保川近辺は,今で言えば高級住宅街です。庶民の住むスラム風の街と違い,人口密度はそれほど高くないのです。そんな閑静な住宅街で,男女が路上で逢ったり,足繁く通っている姿は非常に目立ってしまいます。何とか人に見られない済む場所として,佐保川の岸で堤防のように小高くなっているところに柴(低木の木で落葉樹)が生えていたのでしょう。
住宅から佐保川の流れを見たい人にとっては邪魔なので刈ってしまおうと思う人もいたのでしょうか。そうすると恋人と目立たないで逢える場所が無くなるでしょ,無粋なことは止めてね,といった郎女の思いでしょうね。ただ,たとえそれが刈られてしまっても,またどこか隠れて逢える場所を見つけてみますわよといった郎女の心の強さを私はこの短歌から感じます。
最後は七夕のとき,天の川の渡し舟の櫂を隠してしまうというとんでもない詠み人知らずの短歌です。
我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくて わたりもりふねかさめやも しましはありまて>
<<僕が隠したので櫂がない渡り舟だから貸すのはできないよね。もう少し待ってくれるかい>>
年に1度だけしか逢えず,やっと天の川を舟で渡ってきて逢えたけど,逢っていられる時間はあっという間に過ぎる。少しでも長く逢っていたいので,帰るための天の川の渡し舟の櫂を隠してしまった言っているのです。渡し舟の管理人は櫂の無い舟は貸せないから,まだこちらで二人で逢っていられるよねとこの短歌は詠っています。
<罪を犯してはいけません>
ところで,これって犯罪ですよね。他人の所有物を勝手に隠してしまうわけですから。現代用語の「隠す」には,他人の物の場合もそうですが,情報を内証にしておくのも少し悪いことをしているようなイメージを感じる人もいめのかもしれません。でも,そこまでしても少しでも長く逢っていたいのだということを作者はこの短歌で言いたいのです。
こういった表現(罪を犯してまで恋人と逢いたい)に似たようなもので,本当に罪を犯してしまう事件をときどき報道でみることがあります。たとえば,愛人のために何億円も会社の金を横領したとか,恋敵に対して傷害事件を起こしたとかです。
そうなるから罪を犯してもしょうがないような表現は,たとえ文学でもやめるべきだという主張があります。でも,私は賛成できません。そんな主張を受け入れたら「必死で頑張る」という表現も,極端に解釈すると必ず死ぬまでやるわけですから,ダメだという人も出てくることになってしまいます。
<表現の自由は相互の交流から成熟する>
さて,そういった表現の自由に対し,それを受け入れる側の柔軟性や寛容性をどこまで認め合うかは,最近の国際情報道を見ていて,簡単にはいかない非常に難しい面があると感じます。
特に,それまでの規律や道徳に大きな違いがある国間,宗派間,倫理観の間では,許されない表現や映像の範囲に大きな差があることも改めて分かってきたように思います。
しかし,お互いの倫理観や価値観をよく説明し合い(あくまで冷静な話し合いで),共同で何かを行う場合(例:スポーツ,国際会議,視察旅行など),どこまで許容するかの合意を取り,参加者や応援者もその合意を守るよう周知していくしかないと考えます。
大いなる侮辱を受けたから,たとえ民間人であっても暴力や武器で制裁(抹殺)しても構わない(神は許す)し,自分はその制裁行為を実施することで死ぬことがあっても良い(神に召される)という主張があるとするならば,人間尊重の考えからは,その主張はやはり肯定されるべきではないだろうと私は感じます。
当ブログ7年目突入スペシャル‥万葉集が記録したものは何か?
まず,鶯が木末に隠れて鳴いている様子を詠んだ短歌から見ていきましょう。
春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に(5-827)
<はるさればこぬれがくりて うぐひすぞなきていぬなる うめがしづえに>
<<春になるとこずえに隠れて鶯は鳴き姿が見えなくなるようだ。梅の下枝に>>
この短歌は,天平2(730)年1月13日に大宰府で行われた大伴旅人を主人とした梅見の宴のとき,旅人の家臣であったろう山口若麻呂という参加者の一人が詠んだとされています。
ちなみに,鶯は色は非常に地味です(花札の影響か,鮮やかな緑色のメジロを鶯と勘違いする多いといいます)。鶯の身体の色は,確かに少しだけ緑色は帯びていますが,ほとんど木の肌の色に近いのです。そのため,葉がまだ出ない梅の木の木肌色に近い色(いわゆる保護色)であり,声はするけれど鶯がどこにいるか見つけるのが困難になるのです。この短歌は,そのような情景を詠んだように私には思えます。
さて,次は坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が詠んだとされる茶目っ気のある短歌です。
佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね(4-529)
<さほがはのきしのつかさの しばなかりそね ありつつもはるしきたらば たちかくるがね>
<<佐保川の岸の小高いところに生えている柴を刈らないでほしいわ。そのままにして春になったなら,その葉陰に隠れて誰にも見られず逢えるから>>
万葉時代の佐保川近辺は,今で言えば高級住宅街です。庶民の住むスラム風の街と違い,人口密度はそれほど高くないのです。そんな閑静な住宅街で,男女が路上で逢ったり,足繁く通っている姿は非常に目立ってしまいます。何とか人に見られない済む場所として,佐保川の岸で堤防のように小高くなっているところに柴(低木の木で落葉樹)が生えていたのでしょう。
住宅から佐保川の流れを見たい人にとっては邪魔なので刈ってしまおうと思う人もいたのでしょうか。そうすると恋人と目立たないで逢える場所が無くなるでしょ,無粋なことは止めてね,といった郎女の思いでしょうね。ただ,たとえそれが刈られてしまっても,またどこか隠れて逢える場所を見つけてみますわよといった郎女の心の強さを私はこの短歌から感じます。
最後は七夕のとき,天の川の渡し舟の櫂を隠してしまうというとんでもない詠み人知らずの短歌です。
我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくて わたりもりふねかさめやも しましはありまて>
<<僕が隠したので櫂がない渡り舟だから貸すのはできないよね。もう少し待ってくれるかい>>
年に1度だけしか逢えず,やっと天の川を舟で渡ってきて逢えたけど,逢っていられる時間はあっという間に過ぎる。少しでも長く逢っていたいので,帰るための天の川の渡し舟の櫂を隠してしまった言っているのです。渡し舟の管理人は櫂の無い舟は貸せないから,まだこちらで二人で逢っていられるよねとこの短歌は詠っています。
<罪を犯してはいけません>
ところで,これって犯罪ですよね。他人の所有物を勝手に隠してしまうわけですから。現代用語の「隠す」には,他人の物の場合もそうですが,情報を内証にしておくのも少し悪いことをしているようなイメージを感じる人もいめのかもしれません。でも,そこまでしても少しでも長く逢っていたいのだということを作者はこの短歌で言いたいのです。
こういった表現(罪を犯してまで恋人と逢いたい)に似たようなもので,本当に罪を犯してしまう事件をときどき報道でみることがあります。たとえば,愛人のために何億円も会社の金を横領したとか,恋敵に対して傷害事件を起こしたとかです。
そうなるから罪を犯してもしょうがないような表現は,たとえ文学でもやめるべきだという主張があります。でも,私は賛成できません。そんな主張を受け入れたら「必死で頑張る」という表現も,極端に解釈すると必ず死ぬまでやるわけですから,ダメだという人も出てくることになってしまいます。
<表現の自由は相互の交流から成熟する>
さて,そういった表現の自由に対し,それを受け入れる側の柔軟性や寛容性をどこまで認め合うかは,最近の国際情報道を見ていて,簡単にはいかない非常に難しい面があると感じます。
特に,それまでの規律や道徳に大きな違いがある国間,宗派間,倫理観の間では,許されない表現や映像の範囲に大きな差があることも改めて分かってきたように思います。
しかし,お互いの倫理観や価値観をよく説明し合い(あくまで冷静な話し合いで),共同で何かを行う場合(例:スポーツ,国際会議,視察旅行など),どこまで許容するかの合意を取り,参加者や応援者もその合意を守るよう周知していくしかないと考えます。
大いなる侮辱を受けたから,たとえ民間人であっても暴力や武器で制裁(抹殺)しても構わない(神は許す)し,自分はその制裁行為を実施することで死ぬことがあっても良い(神に召される)という主張があるとするならば,人間尊重の考えからは,その主張はやはり肯定されるべきではないだろうと私は感じます。
当ブログ7年目突入スペシャル‥万葉集が記録したものは何か?
2015年2月8日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4) 偉大なあのお方が不本意にもお隠れになってしまった
現代でも尊敬する人が亡くなることを「お隠れになる」と表現する場合があります。万葉集にも人が死ぬことを「隠る」を使って表現している和歌が出てきます。たとえば現代語でいえば「岩に隠れる」「岩に籠る」という表現です。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
登録:
投稿 (Atom)
