今日後わずかで2014年も終わります。今月5本の投稿を目標としていましたので,急いで投稿をしなければなりません。そんなことで,今回も解説は最小限にして,「照る」を詠んだ万葉集の歌の中で,前3回で紹介できなかった「照る」の対象を詠んだものを見ていきます。
最初は長屋王(ながやのおほきみ)が「もみじが照る」を詠んだ短歌です。秋のもみじの歌です。
味酒三輪のはふりの山照らす秋の黄葉の散らまく惜しも(8-1517)
<うまさけみわのはふりの やまてらすあきのもみちの ちらまくをしも>
<<三輪神社のご神体である山を照らすほど色づいた秋のもみじが散ってしまうのが惜しい>>
次は「天の川」が照ることを詠んだ詠み人知らず(但し,柿本人麻呂歌集から)の短歌です。
天の川水さへに照る舟泊てて舟なる人は妹と見えきや(10-1996)
<あまのがはみづさへにてる ふねはててふねなるひとは いもとみえきや>
<<天の川はその水も照り輝いている。舟は泊り場に着いた。舟人(牽牛)は恋人(織姫)と逢っただろうか>>
次は「玉が照る」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
大海の水底照らし沈く玉斎ひて採らむ風な吹きそね(7-1319)
<おほうみのみなそこてらし しづくたまいはひてとらむ かぜなふきそね>
<<大海の底を照らしている玉を取るつもりだ。海をつかさどる神に祈りるから風は吹くなよ>>
最後は「山橘の実が照る」を詠んだ大伴家持の短歌です。
この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む(19-4226)
<このゆきのけのこるときに いざゆかなやまたちばなの みのてるもみむ>
<<この雪が消えてしまわないうちに、さあ行きましょう。山橘の実が熟れて美しく照り生えているのを見に>>
これで,4回に渡って投稿してきました「照る」を締めくくります。
この1年を振り返ってみますと,結構さまざまな経験を積みました。新しい出会いがあり,寂しい別れもありました。
読者の皆さん,途中長い中断があれましたが,1年間本ブログのご愛読ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。
2015新年スペシャル(1)に続く。
2014年12月31日水曜日
2014年12月30日火曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3) 花や実は我々の心を明るく照らす?
<年末の我が家>
あっという間に年末近くになりました。庭の木の剪定と落ち葉掃除は終わりましたが,部屋は一向に片付きません。年越のゴミはかなりまた出そうです。そのためか妻はイライラしています。
3匹の我が家の猫はホットカーペットの上でおとなし寝ているのがほとんどですが,相変わらず大飯食らいです。
この前買った焼酎「天の川」はあっという間に飲んでしまいました。
私は,一昨日からスポーツジムに通い始めました。ジムで体脂肪を測ったら体脂肪がめちゃくちゃ増えていました。ショックでしたが,これでジムに通い続けられそうです。
ジムの体脂肪計は最初はワザと高く出るようにしているなんて疑いません。身体のためにそうしてくれているのかもしれませんから。今日は2回目で,ジムの女性コーチが私専用のトレーニングメニューを作ってくれるとのこと。これからいそいそと準備して通うことになりそうです。
と,こんな年末を過ごしていて,休日ですが,ブログがなかなか書けません。
<やっと本題>
さて,今回は「花が照る」「植物の実が照る」という表現で万葉集で見ていきましょうか。
分かりやすい短歌ばかりを選びましたので,解説はほとんどなしで,紹介のみしていきます。
先ず「桜」の花から行きましょう。詠み人知らずの短歌です。
あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも(10-1864)
<あしひきのやまのまてらす さくらばな このはるさめにちりゆかむかも>
<<山のきわを照らしている(映えさせている)桜の花がこの春雨で散ってゆくのだなあ>>
次は「桃」の花です。巻19の冒頭を飾る大伴家持作の有名な短歌です。
春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)
<はるのそのくれなゐにほふ もものはな したでるみちにいでたつをとめ>
<<春の庭で紅色に美しく色づいている桃の花。それが照らす下にいる乙女(がさらに美しい)>>
最後は「橘」の熟した実です。藤原八束(ふぢはらのやつか)が新嘗祭(にひなめのまつり)の宴席で詠んだ短歌です。
島山に照れる橘うずに刺し仕へまつるは卿大夫たち(19-4276)
<しまやまにてれるたちばな うずにさしつかへまつるは まへつきみたち>
<<庭園の池の島山に照り輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えするは,大君の御前の多くの官人たちであるよ>>
ところで,中国語でハナミズキのことを「四照花」と書くそうです。
日本では「花が照る」という表現は現代ではあまり使わなくなったようですが,中国では今も健在なのかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(4:まとめ)に続く。
あっという間に年末近くになりました。庭の木の剪定と落ち葉掃除は終わりましたが,部屋は一向に片付きません。年越のゴミはかなりまた出そうです。そのためか妻はイライラしています。
3匹の我が家の猫はホットカーペットの上でおとなし寝ているのがほとんどですが,相変わらず大飯食らいです。
この前買った焼酎「天の川」はあっという間に飲んでしまいました。
私は,一昨日からスポーツジムに通い始めました。ジムで体脂肪を測ったら体脂肪がめちゃくちゃ増えていました。ショックでしたが,これでジムに通い続けられそうです。
ジムの体脂肪計は最初はワザと高く出るようにしているなんて疑いません。身体のためにそうしてくれているのかもしれませんから。今日は2回目で,ジムの女性コーチが私専用のトレーニングメニューを作ってくれるとのこと。これからいそいそと準備して通うことになりそうです。
と,こんな年末を過ごしていて,休日ですが,ブログがなかなか書けません。
<やっと本題>
さて,今回は「花が照る」「植物の実が照る」という表現で万葉集で見ていきましょうか。
分かりやすい短歌ばかりを選びましたので,解説はほとんどなしで,紹介のみしていきます。
先ず「桜」の花から行きましょう。詠み人知らずの短歌です。
あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも(10-1864)
<あしひきのやまのまてらす さくらばな このはるさめにちりゆかむかも>
<<山のきわを照らしている(映えさせている)桜の花がこの春雨で散ってゆくのだなあ>>
次は「桃」の花です。巻19の冒頭を飾る大伴家持作の有名な短歌です。
春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)
<はるのそのくれなゐにほふ もものはな したでるみちにいでたつをとめ>
<<春の庭で紅色に美しく色づいている桃の花。それが照らす下にいる乙女(がさらに美しい)>>
最後は「橘」の熟した実です。藤原八束(ふぢはらのやつか)が新嘗祭(にひなめのまつり)の宴席で詠んだ短歌です。
島山に照れる橘うずに刺し仕へまつるは卿大夫たち(19-4276)
<しまやまにてれるたちばな うずにさしつかへまつるは まへつきみたち>
<<庭園の池の島山に照り輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えするは,大君の御前の多くの官人たちであるよ>>
ところで,中国語でハナミズキのことを「四照花」と書くそうです。
日本では「花が照る」という表現は現代ではあまり使わなくなったようですが,中国では今も健在なのかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(4:まとめ)に続く。
2014年12月21日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2) ♪照る照る坊主,照る坊主。♪雨,雨,降れ,降れ。
<転職先は自分に合っていた>
今月転職したばかりの新しい職場にも,かなり慣れてきました。やはり,求められるいる技術とマッチ度が高いと職場に居場所ができるのに時間をあまり必要としないことを改めて感じられ,不安感はほぼなくなりました。
16日は新職場での最初の給料が振り込まれ,翌々日には長崎県壱岐の麦焼酎「天の川 壱岐づくし 3年古酒」(写真)を成城石井で奮発して買いました。
今晩,連れの天の川君にも,たまには私が飲ませてあげようと一緒に飲むつもりです。
天の川 「もう~,たびとは~ん。早よ飲もうな~。何でそんなに焦らすねん。」
いやいや,天の川君,22日は19年ぶりの朔旦冬至(さくたんとうじ)だから,その前夜をこの焼酎で祝おうということにしたのだよ。朔旦冬至とはね,...
天の川 「そんなこと知らんでかい。19年一度,冬至に八朔(はっさく)と文旦(ぶんたん)を食べてやな,寒い冬でも風邪ひかんようにお呪いする日やんか。どや。」
間違った知識で天の川君の「どや顔」を見せられてもね。19年に一度,冬至と新月が重なる日が朔旦冬至。これから日が長くなっていく,そして同じように新しい月も最初から満ちていく。そんな意味で心が改まる冬至の日と考える人もいるようだね。
<本題>
さて,天の川君にいまさら教養を深めてもらっても仕方がないので,本題に入りましょう。今回は,「照る」の2回目で,現代の私たちにとって最も身近な「日が照る」を万葉集で見ていきます。
最初の1首は,柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が草壁皇子の死を悼んで詠んだとされる挽歌(長歌)の反歌を紹介します。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)
<あかねさすひはてらせれど ぬばたまのよわたるつきの かくらくをしも>
<<日の光はいつも照らすけれども,夜を渡る月が欠けてしまうようにお隠れになってしまわれたことが惜しまれる>>
人麻呂にとって,太陽の照らす力は満ち欠けすることはない(日蝕以外)。しかし,月には満ち欠けがあり,その照らす力は人の命のように果かないものである象徴だったのかもしれませんね。
次は,真夏の強烈な日の光に照らされることをイメージした詠み人知らずの短歌です。
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)
<みなづきのつちさへさけて てるひにもわがそでひめや きみにあはずして>
<<六月の地面が裂けてしまうほど照る日光に干しても,(涙に濡れた)私の袖が乾くことがないのです。あなたに逢わないので>>
旧暦の6月は新暦ではだいたい7月ですから,田んぼの土も干上がって,ひび割れた状態になります。そんな強烈な日光でも恋が成就しないために流す涙の多さで,涙を拭う袖を乾かせない,作者の気持ちが伝わってきます。
次は,日照りで雨乞いをしたくなるほど相手の来訪を待ち望む気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌・女歌)です。
金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも(14-3561)
<かなとだをあらがきまゆみ ひがとればあめをまとのす きみをとまとも>
<<我が家の門近くの田に荒垣で身を清めて日照りに対して雨を強く待ちたくなるように,あなた様が来られるのを心待ちにしております>>
家の近くにある門田には,自分の家の田であることを示すためや動物に荒らされないようにするため,荒垣(生垣)を植えていたのでしょう。
しかし,日照りが続くと生垣が枯れてしまう恐れがあり,身を清めて雨乞いの祈りをする気持ちが強くなります。このまま,あなた様が来てくださらないと,私の身体は干ばつの生垣のように,枯れてしまうようだと作者は訴えたいのでしょうね。
最後は,自身の孤独感を詠んだことでよく知られている大伴家持の短歌です。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらにてれるはるひに ひばりあがりこころかなしも ひとりしおもへば>
<<うららかな春の日に雲雀が上空を飛んでいる。でも,(のどかな気持ちになれずに)うら悲しい。今自分一人であることを思うと>>
家持の孤独感の原因が何か,いろいろな説があるようですが,私は越中赴任から帰任して,中央政府の中の力関係に順応することへの難しさからくるものも一つにはあったような気がします。
<私の経験に当てはめる>
私が勤めていた会社で,新入社員から15年以上,三多摩方面の事業所で働いていた後,そこでの成果を認められ,新宿区の本社技術スタッフとして配属されたことがありました。しかし,私はその後何年も本社勤めの役員や管理職とのコミュニケーションがうまく行かずに悩んだ時期が続きました。
事業所で「成果を出したやつのお手並み拝見」といった非協力的な周囲に対して,どう協力を取りつけるかに,回答が出せないとき,この家持の孤独感に共感する気持ちが表れてきました。
その後,その時悩んだ経験がさまざまな場面で協力を取り付けるスキルの向上に役立ったのは事実かもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3)に続く。
今月転職したばかりの新しい職場にも,かなり慣れてきました。やはり,求められるいる技術とマッチ度が高いと職場に居場所ができるのに時間をあまり必要としないことを改めて感じられ,不安感はほぼなくなりました。
16日は新職場での最初の給料が振り込まれ,翌々日には長崎県壱岐の麦焼酎「天の川 壱岐づくし 3年古酒」(写真)を成城石井で奮発して買いました。
今晩,連れの天の川君にも,たまには私が飲ませてあげようと一緒に飲むつもりです。
天の川 「もう~,たびとは~ん。早よ飲もうな~。何でそんなに焦らすねん。」
いやいや,天の川君,22日は19年ぶりの朔旦冬至(さくたんとうじ)だから,その前夜をこの焼酎で祝おうということにしたのだよ。朔旦冬至とはね,...
天の川 「そんなこと知らんでかい。19年一度,冬至に八朔(はっさく)と文旦(ぶんたん)を食べてやな,寒い冬でも風邪ひかんようにお呪いする日やんか。どや。」
間違った知識で天の川君の「どや顔」を見せられてもね。19年に一度,冬至と新月が重なる日が朔旦冬至。これから日が長くなっていく,そして同じように新しい月も最初から満ちていく。そんな意味で心が改まる冬至の日と考える人もいるようだね。
<本題>
さて,天の川君にいまさら教養を深めてもらっても仕方がないので,本題に入りましょう。今回は,「照る」の2回目で,現代の私たちにとって最も身近な「日が照る」を万葉集で見ていきます。
最初の1首は,柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が草壁皇子の死を悼んで詠んだとされる挽歌(長歌)の反歌を紹介します。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)
<あかねさすひはてらせれど ぬばたまのよわたるつきの かくらくをしも>
<<日の光はいつも照らすけれども,夜を渡る月が欠けてしまうようにお隠れになってしまわれたことが惜しまれる>>
人麻呂にとって,太陽の照らす力は満ち欠けすることはない(日蝕以外)。しかし,月には満ち欠けがあり,その照らす力は人の命のように果かないものである象徴だったのかもしれませんね。
次は,真夏の強烈な日の光に照らされることをイメージした詠み人知らずの短歌です。
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)
<みなづきのつちさへさけて てるひにもわがそでひめや きみにあはずして>
<<六月の地面が裂けてしまうほど照る日光に干しても,(涙に濡れた)私の袖が乾くことがないのです。あなたに逢わないので>>
旧暦の6月は新暦ではだいたい7月ですから,田んぼの土も干上がって,ひび割れた状態になります。そんな強烈な日光でも恋が成就しないために流す涙の多さで,涙を拭う袖を乾かせない,作者の気持ちが伝わってきます。
次は,日照りで雨乞いをしたくなるほど相手の来訪を待ち望む気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌・女歌)です。
金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも(14-3561)
<かなとだをあらがきまゆみ ひがとればあめをまとのす きみをとまとも>
<<我が家の門近くの田に荒垣で身を清めて日照りに対して雨を強く待ちたくなるように,あなた様が来られるのを心待ちにしております>>
家の近くにある門田には,自分の家の田であることを示すためや動物に荒らされないようにするため,荒垣(生垣)を植えていたのでしょう。
しかし,日照りが続くと生垣が枯れてしまう恐れがあり,身を清めて雨乞いの祈りをする気持ちが強くなります。このまま,あなた様が来てくださらないと,私の身体は干ばつの生垣のように,枯れてしまうようだと作者は訴えたいのでしょうね。
最後は,自身の孤独感を詠んだことでよく知られている大伴家持の短歌です。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらにてれるはるひに ひばりあがりこころかなしも ひとりしおもへば>
<<うららかな春の日に雲雀が上空を飛んでいる。でも,(のどかな気持ちになれずに)うら悲しい。今自分一人であることを思うと>>
家持の孤独感の原因が何か,いろいろな説があるようですが,私は越中赴任から帰任して,中央政府の中の力関係に順応することへの難しさからくるものも一つにはあったような気がします。
<私の経験に当てはめる>
私が勤めていた会社で,新入社員から15年以上,三多摩方面の事業所で働いていた後,そこでの成果を認められ,新宿区の本社技術スタッフとして配属されたことがありました。しかし,私はその後何年も本社勤めの役員や管理職とのコミュニケーションがうまく行かずに悩んだ時期が続きました。
事業所で「成果を出したやつのお手並み拝見」といった非協力的な周囲に対して,どう協力を取りつけるかに,回答が出せないとき,この家持の孤独感に共感する気持ちが表れてきました。
その後,その時悩んだ経験がさまざまな場面で協力を取り付けるスキルの向上に役立ったのは事実かもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3)に続く。
2014年12月14日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1) 万葉時代,月夜は今よりもっと明るかった?
<転職して2週間。一番苦しいところ>
新しい職場に勤務を開始して2週間。やっと,周りの仕事の内容が見えてきたところです。
以前にも述べましたが,私が専門としている稼働中ソフトウェアの保守開発の仕事は「たかがちょっとした修正でしょ」といった簡単なものではありません。
対象コンピュータシステムに搭載されたソフトウェアがどのようなことを重視して初期開発されたのか,その後どのような問題に遭遇し,どのような改修をされてきたのかなどの経緯が分からないと,コスト的,将来的,緊急対応度,対応困難度,対応影響範囲などの観点から,最適な対応(改修)方法を導き出すのが簡単にはできないのです。
対象システムが大規模なため,現状を理解するだけでなく,そういった今までの経緯を含めて完全に理解をするのは,まだまた時間が必要です。
しかし,すべてが理解できていなくても課題の解決を行いながら理解を深めていくことも現実的な対応で,限られた情報しかなくても最適な対応方法を素早く見つける技もプロフェッショナルとして必要な技量かもしれません。
<本題>
さて,近況はそのくらいにして,今回から「照る」について万葉集を見ていきましょう。万葉集で「照」の漢字があてられている和歌は100首以上もあります。「照る」の意味は,明るくかがやく・ひかるという意味と,つやが良いといあ意味があります。また,枕詞(高照らす,押し照る)に使われていて,それ自体に直接的な意味がない場合もあります。
その中を見ていくと,「照らしている」ものの本体は次のようなものに分類できます。
・月
・日
・花
・その他(玉,黄葉,雪,天の川などの星,天など)
今回はまず「照りかがやくものとしての月」や「月が照っている月夜」を見ていきます。これらを詠んだ和歌は50首ほど万葉集で出てきます。
1首目は,長屋王(ながやのおほきみ)の娘とされている賀茂女王(かものおほきみ)が詠んだ相聞歌1首です。
大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも(4-565)
<おほとものみつとはいはじ あかねさしてれるつくよに ただにあへりとも>
<<あなた様を見たとは言わないことにしましょう。すごく明るく月が照っている夜にあなた様と直(じか)に逢うことができたとしても>>
誰に贈ったかは不明のようですが,これも女王の他の相聞歌に出てくる大伴三依(おほとものみより)だったのではないかと私は思います。
三依はこれを受けて詠んだかどうか不明ですが,同じ巻4の中で次の短歌を詠んでいます。
照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに(4-690)
<てるつきをやみにみなして なくなみだころもぬらしつ ほすひとなしに>
<<明るい月夜が闇夜に見えるほど泣いた涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人などいないのに>>
この両短歌が女王と三依の間のものであったとしたら,ふたりの間は悲恋となったことになります。
何が二人を逢えなくさせる要因となったのか分かりませんが,政治的な問題(長屋王の変)が影響したのかもしれないと私には感じられます。
次は,志貴皇子(しきのみこ)の子であり,光仁(こうにん)天皇の弟である湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだ短歌を紹介します。
はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる(6-986)
<はしきやしまちかきさとの きみこむとおほのびにかも つきのてりたる>
<<すぐ近くの里に住むあのお方が来てくださるようだ。大きな満月が照りはえている>>
この短歌は,女性の立場で詠んだようのではないかと私は感じます。満月の夜は,道を明るく照らし,出る時間帯も日が暮れたら直ぐなので,夜に行われる妻問にはもってこいです。今夜は素晴らしく明るい満月が照っているので,あの方は今夜こそきっと来るだろうと待ち望んている女性の気持ちを詠んだのではないでしょうか。
この湯原王は,政治的にはほとんど記録に残っていない人物ですが,万葉集に19首の短歌を残しています。天武系の天皇が続く天平時代に,天智天皇系の志貴皇子の血筋をもった人たちは,和歌を詠みながら時代の変化をひたすら待っていたのかもしれません。
長屋王のように天武系であっても敵を作ってしまい,粛清の憂き目に遇うのは避けたいですからね。
最後は,詠み人知らずの短歌ですが,大伴氏の繁栄を願って詠んだと考えられるものです。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって,国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
このように月が照ることが,現代と比べ物にならないほど,当時の人々にとって大きな意味を持っていたのだろうと私は想像します。きっと,明るく照った月夜は,普通の夜と違う元気が出る夜だったのでしょう。
それは,今の季節,あちこちで通りで綺麗で豪華なイルミネーションが点灯されると,寒さなんか忘れて,出かけてみようと思う気持ちと同じかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2)に続く。
新しい職場に勤務を開始して2週間。やっと,周りの仕事の内容が見えてきたところです。
以前にも述べましたが,私が専門としている稼働中ソフトウェアの保守開発の仕事は「たかがちょっとした修正でしょ」といった簡単なものではありません。
対象コンピュータシステムに搭載されたソフトウェアがどのようなことを重視して初期開発されたのか,その後どのような問題に遭遇し,どのような改修をされてきたのかなどの経緯が分からないと,コスト的,将来的,緊急対応度,対応困難度,対応影響範囲などの観点から,最適な対応(改修)方法を導き出すのが簡単にはできないのです。
対象システムが大規模なため,現状を理解するだけでなく,そういった今までの経緯を含めて完全に理解をするのは,まだまた時間が必要です。
しかし,すべてが理解できていなくても課題の解決を行いながら理解を深めていくことも現実的な対応で,限られた情報しかなくても最適な対応方法を素早く見つける技もプロフェッショナルとして必要な技量かもしれません。
<本題>
さて,近況はそのくらいにして,今回から「照る」について万葉集を見ていきましょう。万葉集で「照」の漢字があてられている和歌は100首以上もあります。「照る」の意味は,明るくかがやく・ひかるという意味と,つやが良いといあ意味があります。また,枕詞(高照らす,押し照る)に使われていて,それ自体に直接的な意味がない場合もあります。
その中を見ていくと,「照らしている」ものの本体は次のようなものに分類できます。
・月
・日
・花
・その他(玉,黄葉,雪,天の川などの星,天など)
今回はまず「照りかがやくものとしての月」や「月が照っている月夜」を見ていきます。これらを詠んだ和歌は50首ほど万葉集で出てきます。
1首目は,長屋王(ながやのおほきみ)の娘とされている賀茂女王(かものおほきみ)が詠んだ相聞歌1首です。
大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも(4-565)
<おほとものみつとはいはじ あかねさしてれるつくよに ただにあへりとも>
<<あなた様を見たとは言わないことにしましょう。すごく明るく月が照っている夜にあなた様と直(じか)に逢うことができたとしても>>
誰に贈ったかは不明のようですが,これも女王の他の相聞歌に出てくる大伴三依(おほとものみより)だったのではないかと私は思います。
三依はこれを受けて詠んだかどうか不明ですが,同じ巻4の中で次の短歌を詠んでいます。
照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに(4-690)
<てるつきをやみにみなして なくなみだころもぬらしつ ほすひとなしに>
<<明るい月夜が闇夜に見えるほど泣いた涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人などいないのに>>
この両短歌が女王と三依の間のものであったとしたら,ふたりの間は悲恋となったことになります。
何が二人を逢えなくさせる要因となったのか分かりませんが,政治的な問題(長屋王の変)が影響したのかもしれないと私には感じられます。
次は,志貴皇子(しきのみこ)の子であり,光仁(こうにん)天皇の弟である湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだ短歌を紹介します。
はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる(6-986)
<はしきやしまちかきさとの きみこむとおほのびにかも つきのてりたる>
<<すぐ近くの里に住むあのお方が来てくださるようだ。大きな満月が照りはえている>>
この短歌は,女性の立場で詠んだようのではないかと私は感じます。満月の夜は,道を明るく照らし,出る時間帯も日が暮れたら直ぐなので,夜に行われる妻問にはもってこいです。今夜は素晴らしく明るい満月が照っているので,あの方は今夜こそきっと来るだろうと待ち望んている女性の気持ちを詠んだのではないでしょうか。
この湯原王は,政治的にはほとんど記録に残っていない人物ですが,万葉集に19首の短歌を残しています。天武系の天皇が続く天平時代に,天智天皇系の志貴皇子の血筋をもった人たちは,和歌を詠みながら時代の変化をひたすら待っていたのかもしれません。
長屋王のように天武系であっても敵を作ってしまい,粛清の憂き目に遇うのは避けたいですからね。
最後は,詠み人知らずの短歌ですが,大伴氏の繁栄を願って詠んだと考えられるものです。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって,国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
このように月が照ることが,現代と比べ物にならないほど,当時の人々にとって大きな意味を持っていたのだろうと私は想像します。きっと,明るく照った月夜は,普通の夜と違う元気が出る夜だったのでしょう。
それは,今の季節,あちこちで通りで綺麗で豪華なイルミネーションが点灯されると,寒さなんか忘れて,出かけてみようと思う気持ちと同じかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2)に続く。
2014年12月7日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ) 暑中から雪踏む季節まで休載でした
<たびとは転職しました>
このブログの読者のみなさん。今年の8月4日を最後にずっとこのブログへのアップを個人的な事情があり休止していました。申し訳ありません。
実は,この「踏む」を取り上げた初回(7月19日アップ)に書いたように,人生の分かれ道に差し掛かったのです。社会人になってからずっと勤めてきた同じ企業グループの会社から,全く別の勤め先に転職するかどうかでした。
結論としては,11月末でそれまで勤めていた会社を円満に退職し,12月から別の勤務先で勤務するようになりました。
これまでと対象のシステムは異なりますが,同じソフトウェア保守開発の仕事ですので,最初の1週間でほぼ求められる仕事をこなせる自信が大体できたのは良かったです。
8月から11月まで,休日は転職に関する検討,エントリーシート作成や面接の準備(転職経験がないので両方とも社会人になって初めての経験),内定後の諸手続きに忙殺され,ブログをアップする余裕がありませんでした。
天の川 「たびとはん。おかげさんでゆっくり休めさせてもろたわ。また,ちょこちょこちょっかい出すさかい,せいぜい頑張ってんか。」
天の川君の出番がないように頑張って見ますかね。
<このテーマの本題>
さて,「踏む」のまとめとして季節が冬になったため「雪を踏む」を取り上げたいと思います。
次は三方沙弥(みかたのさみ)という歌人が詠んだ長歌と短歌(反歌)です。ただ,長歌と言っても普通の形式ではなく,語り口調のように感じます。今で言うとラップのような感じでしょうか。
大殿の この廻りの雪な踏みそね しばしばも降らぬ雪ぞ 山のみに降りし雪ぞ ゆめ寄るな人やな踏みそね 雪は(19-4227)
<おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね しばしばもふらぬゆきぞ やまのみにふりしゆきぞ ゆめよるなひとやなふみそね ゆきは>
<<御殿の周りに降り積もった雪は踏むでないぞ。めったには降らない雪であるぞ。山にしか降らない雪であるぞ。ゆめゆめ近寄るでないぞ。人よ踏むでないぞ。この雪は>>
ありつつも見したまはむぞ大殿のこの廻りの雪な踏みそね(19-4228)
<ありつつもめしたまはむぞ おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね>
<<あるがままをご覧になられようとするのだぞ。御殿の周りの雪は踏むでないぞ>>
この大殿(御殿)の持ち主は,藤原不比等(ふぢはらのふひと)の二男である藤原房前(ふぢはらのふささき)とこの和歌の左注には書かれています。
房前が周りの侍従に指示した内容が長歌の方で,反歌は三方沙弥の考えを詠ったものかもしれません。いずれにしても,この反歌は房前が生きていたときの権力の強さを象徴している(茶化している)ようにも見えませんか?
さて,次はこのブログで何度も取り上げている次の大伴家持の短歌です。
大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し(19-4285)
<おほみやのうちにもとにも めづらしくふれるおほゆき なふみそねをし>
<<宮中の内にも外にもめずらしく大雪が降った。この白雪をどうか踏み荒らさないで頂きたいものだ。(きれいな雪景色が荒らされるのが)惜しいから>>
この短歌について,今までこのブログでいろいろ書いてきましたが,また違った視点で今回は分析します。
<家持の願い>
家持は「雪を踏まないで欲しい」の誰に言っているのでしょうか。おそらく,家持にとっては空気が読めない,自然の美しさを感じられない,無粋な人たちなのでしょうね。
もちろん,その雪を踏んだのが,門の鍵を開けた守衛だったり,朝早く納品にやってくる業者だったり,朝食を作るために出勤してきた賄いさんだったりで,自らの仕事をこなすためにやむを得ず雪を踏み荒らしたのかもしれません。
珍しい自然現象に気にも留めず,定型作業を機械的に繰り返すだけの大宮で働く多くの人たちに「もう少し美しい風景を大切にしてほしい」という家持の気持ちも分からなくはありません。
一方,働く人たち側は,雪で仕事が大変になったと積雪を恨めしく思っているかもしれません。
ちなみに私の住んでいるマンションの住込み管理人は雪が降ると,人の通り道はすぐに雪かきをしてしまいます。
ところで,踏むのが鳥だったり,リスだったり,ウサギだったり,シカだったら,家持は許せたのでしょうか。おそらく,それは許したのでしょうね。なぜなら,それは自然の営みだからです。
人間には自然に対する価値観が異なる(価値を感じない)人がいて,特に効率最優先で仕事を進めようとする人たちは自然との調和の重要性を軽視し,自然を無理に変えようとしてしまう。
歌人家持はそんな人たちが幅を利かせる効率化のみ重視する大宮の仕組み自体がこのとき許せない感じたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1)に続く。
このブログの読者のみなさん。今年の8月4日を最後にずっとこのブログへのアップを個人的な事情があり休止していました。申し訳ありません。
実は,この「踏む」を取り上げた初回(7月19日アップ)に書いたように,人生の分かれ道に差し掛かったのです。社会人になってからずっと勤めてきた同じ企業グループの会社から,全く別の勤め先に転職するかどうかでした。
結論としては,11月末でそれまで勤めていた会社を円満に退職し,12月から別の勤務先で勤務するようになりました。
これまでと対象のシステムは異なりますが,同じソフトウェア保守開発の仕事ですので,最初の1週間でほぼ求められる仕事をこなせる自信が大体できたのは良かったです。
8月から11月まで,休日は転職に関する検討,エントリーシート作成や面接の準備(転職経験がないので両方とも社会人になって初めての経験),内定後の諸手続きに忙殺され,ブログをアップする余裕がありませんでした。
天の川 「たびとはん。おかげさんでゆっくり休めさせてもろたわ。また,ちょこちょこちょっかい出すさかい,せいぜい頑張ってんか。」
天の川君の出番がないように頑張って見ますかね。
<このテーマの本題>
さて,「踏む」のまとめとして季節が冬になったため「雪を踏む」を取り上げたいと思います。
次は三方沙弥(みかたのさみ)という歌人が詠んだ長歌と短歌(反歌)です。ただ,長歌と言っても普通の形式ではなく,語り口調のように感じます。今で言うとラップのような感じでしょうか。
大殿の この廻りの雪な踏みそね しばしばも降らぬ雪ぞ 山のみに降りし雪ぞ ゆめ寄るな人やな踏みそね 雪は(19-4227)
<おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね しばしばもふらぬゆきぞ やまのみにふりしゆきぞ ゆめよるなひとやなふみそね ゆきは>
<<御殿の周りに降り積もった雪は踏むでないぞ。めったには降らない雪であるぞ。山にしか降らない雪であるぞ。ゆめゆめ近寄るでないぞ。人よ踏むでないぞ。この雪は>>
ありつつも見したまはむぞ大殿のこの廻りの雪な踏みそね(19-4228)
<ありつつもめしたまはむぞ おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね>
<<あるがままをご覧になられようとするのだぞ。御殿の周りの雪は踏むでないぞ>>
この大殿(御殿)の持ち主は,藤原不比等(ふぢはらのふひと)の二男である藤原房前(ふぢはらのふささき)とこの和歌の左注には書かれています。
房前が周りの侍従に指示した内容が長歌の方で,反歌は三方沙弥の考えを詠ったものかもしれません。いずれにしても,この反歌は房前が生きていたときの権力の強さを象徴している(茶化している)ようにも見えませんか?
さて,次はこのブログで何度も取り上げている次の大伴家持の短歌です。
大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し(19-4285)
<おほみやのうちにもとにも めづらしくふれるおほゆき なふみそねをし>
<<宮中の内にも外にもめずらしく大雪が降った。この白雪をどうか踏み荒らさないで頂きたいものだ。(きれいな雪景色が荒らされるのが)惜しいから>>
この短歌について,今までこのブログでいろいろ書いてきましたが,また違った視点で今回は分析します。
<家持の願い>
家持は「雪を踏まないで欲しい」の誰に言っているのでしょうか。おそらく,家持にとっては空気が読めない,自然の美しさを感じられない,無粋な人たちなのでしょうね。
もちろん,その雪を踏んだのが,門の鍵を開けた守衛だったり,朝早く納品にやってくる業者だったり,朝食を作るために出勤してきた賄いさんだったりで,自らの仕事をこなすためにやむを得ず雪を踏み荒らしたのかもしれません。
珍しい自然現象に気にも留めず,定型作業を機械的に繰り返すだけの大宮で働く多くの人たちに「もう少し美しい風景を大切にしてほしい」という家持の気持ちも分からなくはありません。
一方,働く人たち側は,雪で仕事が大変になったと積雪を恨めしく思っているかもしれません。
ちなみに私の住んでいるマンションの住込み管理人は雪が降ると,人の通り道はすぐに雪かきをしてしまいます。
ところで,踏むのが鳥だったり,リスだったり,ウサギだったり,シカだったら,家持は許せたのでしょうか。おそらく,それは許したのでしょうね。なぜなら,それは自然の営みだからです。
人間には自然に対する価値観が異なる(価値を感じない)人がいて,特に効率最優先で仕事を進めようとする人たちは自然との調和の重要性を軽視し,自然を無理に変えようとしてしまう。
歌人家持はそんな人たちが幅を利かせる効率化のみ重視する大宮の仕組み自体がこのとき許せない感じたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1)に続く。
2014年8月4日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3) 岩の神よ,踏んでも怒らないでね
前回は石を踏むでしたが,今回は万葉集で岩を踏むを取り上げます。
現在,岩は大きな石というような意味とされていますが,当時,石と岩とでは意味に大きな違いがあったのではないかと私は考えます。
岩は岩倉(磐座,磐倉)というように,神が宿る場所や岩そのものが神であるという古代信仰があったらしいとの説を受け入れると,岩は単なる石とは大きく異なり,神聖なものとしての認識があったと私は想像します。その岩を「踏む」ことに対しても,通常の石を踏むのとは違う感覚があるのかもしれません。
では,万葉集の訓読で「岩を踏む」が出てくる和歌を見ていきましょう。なお,訓読で「岩」も「石」も万葉仮名では「石」と記されている場合があるようです。これを「いし」と読むか「いは」と読むかは,後代の万葉学者先生による訓読の判断によります。一般的な訓読に従ってみました。
妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る(15-3590)
<いもにあはずあらばすべなみ いはねふむいこまのやまを こえてぞあがくる>
<<君に逢わずにいられないから,岩根を踏んで生駒の山を越えて僕は還って来るよ>>
この短歌は,遣新羅使が詠んだとされています。岩根は根が生えたような大きくて,上がごつごつした岩を意味するようです。生駒山自体,万葉時代には,三輪山などと同様に神の山とされていたようです。その山(神体)の岩根を踏むわけですから,大変です。実際の道の険しさよりも,神の怒りに触れないようにしてまでも彼女のために帰ってくる決意をした短歌だと私は解釈します。
次は柿本人麻呂歌集にあったという彼を待っている女性の短歌です(といっても,上の遣新羅使の短歌とは無関係です)。
来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに(11-2421)
<くるみちはいはふむやまは なくもがもわがまつきみが うまつまづくに>
<<お出でになる道に岩を踏むような険しい山がなければいいのに。私が待つあなたが乗る馬が躓いてしまわないかと>>
実際に彼の家と彼女(この短歌の作者)の家の間に岩だらけの山があったかどうかわかりません。それよりは,彼が通ってくる途中に邪魔が入ったり,障害が起ったりしないことをひたすら祈りながら彼の来るのを待っている気持ちの表れかもしれませんね。
そして,この後に出てくる次の短歌(同じく柿本人麻呂歌集にある歌)は,まさに前の短歌と呼応しているように私には思えます。
岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも(11-2422)
<いはねふみへなれるやまは あらねどもあはぬひまねみ こひわたるかも>
<<岩根を踏むような険しい山は無いのに逢えないでままの日が多いから恋しくい気持ちが募るよ>>
逢えない原因が何であるかいろいろ考えられます。いずれかの親の反対,周囲の目,仕事の忙しさ,金銭的な問題(妻問もタダではできない)などでしょうか。そういった障害がある状態の方がお互いの恋慕の情が高まることが少なくないのは不思議なことです。
いっぽう,障害や反対が無いのに,ちょっとしたことですぐに別れてしまうような関係に逆になりやすいのかもしれません。親の中には,子ども恋愛関係の強さを確かめようと,わざといったん反対のポーズをとる親があります。それは,子どもに対する親の(二人の関係をより強くするための)愛情行動の一つといえるのでしょうか。
さて,最後に同じく「岩を踏む」をテーマに娘子(をとめ)と藤井大成(ふぢゐのおほなり)が別れを惜しみ掛け合う2首を紹介します。
まず,大成が京に帰任することに対して娘子からの短歌です。
明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば(9-1778)
<あすよりはあれはこひむな なほりやまいはふみならし きみがこえいなば>
<<明日からは私ともう逢えず寂しくてならないでしょうね。名欲山の岩を踏み均してあなた様が超えていかれた後は>>
それに対して大成が返します。
命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む(9-1779)
<いのちをしまさきくもがも なほりやまいはふみならし またまたもこむ>
<<どうか達者でな。名欲山の岩を踏み均して,何度もやって来るからな>>
ここに出てくる名欲山は,大分県にある山を指すようです。奈良の京より遠いですが,別府あたりの港から船を利用して,難波港と行き来すれば,以外と楽な行路かもしれません。いずれにしても内容は「またね!」という別れの決まり文句です。
我々は,地方に赴任した大成のことを「地元の娘子とうまいことやったやん」なんて羨ましがってもいけませんよ。偶然かもしれませんが,1300年後も残るお二人の相聞歌を残せたこと自体を羨ましいと思うべきですよね~。まったく。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ)に続く。
現在,岩は大きな石というような意味とされていますが,当時,石と岩とでは意味に大きな違いがあったのではないかと私は考えます。
岩は岩倉(磐座,磐倉)というように,神が宿る場所や岩そのものが神であるという古代信仰があったらしいとの説を受け入れると,岩は単なる石とは大きく異なり,神聖なものとしての認識があったと私は想像します。その岩を「踏む」ことに対しても,通常の石を踏むのとは違う感覚があるのかもしれません。
では,万葉集の訓読で「岩を踏む」が出てくる和歌を見ていきましょう。なお,訓読で「岩」も「石」も万葉仮名では「石」と記されている場合があるようです。これを「いし」と読むか「いは」と読むかは,後代の万葉学者先生による訓読の判断によります。一般的な訓読に従ってみました。
妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る(15-3590)
<いもにあはずあらばすべなみ いはねふむいこまのやまを こえてぞあがくる>
<<君に逢わずにいられないから,岩根を踏んで生駒の山を越えて僕は還って来るよ>>
この短歌は,遣新羅使が詠んだとされています。岩根は根が生えたような大きくて,上がごつごつした岩を意味するようです。生駒山自体,万葉時代には,三輪山などと同様に神の山とされていたようです。その山(神体)の岩根を踏むわけですから,大変です。実際の道の険しさよりも,神の怒りに触れないようにしてまでも彼女のために帰ってくる決意をした短歌だと私は解釈します。
次は柿本人麻呂歌集にあったという彼を待っている女性の短歌です(といっても,上の遣新羅使の短歌とは無関係です)。
来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに(11-2421)
<くるみちはいはふむやまは なくもがもわがまつきみが うまつまづくに>
<<お出でになる道に岩を踏むような険しい山がなければいいのに。私が待つあなたが乗る馬が躓いてしまわないかと>>
実際に彼の家と彼女(この短歌の作者)の家の間に岩だらけの山があったかどうかわかりません。それよりは,彼が通ってくる途中に邪魔が入ったり,障害が起ったりしないことをひたすら祈りながら彼の来るのを待っている気持ちの表れかもしれませんね。
そして,この後に出てくる次の短歌(同じく柿本人麻呂歌集にある歌)は,まさに前の短歌と呼応しているように私には思えます。
岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも(11-2422)
<いはねふみへなれるやまは あらねどもあはぬひまねみ こひわたるかも>
<<岩根を踏むような険しい山は無いのに逢えないでままの日が多いから恋しくい気持ちが募るよ>>
逢えない原因が何であるかいろいろ考えられます。いずれかの親の反対,周囲の目,仕事の忙しさ,金銭的な問題(妻問もタダではできない)などでしょうか。そういった障害がある状態の方がお互いの恋慕の情が高まることが少なくないのは不思議なことです。
いっぽう,障害や反対が無いのに,ちょっとしたことですぐに別れてしまうような関係に逆になりやすいのかもしれません。親の中には,子ども恋愛関係の強さを確かめようと,わざといったん反対のポーズをとる親があります。それは,子どもに対する親の(二人の関係をより強くするための)愛情行動の一つといえるのでしょうか。
さて,最後に同じく「岩を踏む」をテーマに娘子(をとめ)と藤井大成(ふぢゐのおほなり)が別れを惜しみ掛け合う2首を紹介します。
まず,大成が京に帰任することに対して娘子からの短歌です。
明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば(9-1778)
<あすよりはあれはこひむな なほりやまいはふみならし きみがこえいなば>
<<明日からは私ともう逢えず寂しくてならないでしょうね。名欲山の岩を踏み均してあなた様が超えていかれた後は>>
それに対して大成が返します。
命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む(9-1779)
<いのちをしまさきくもがも なほりやまいはふみならし またまたもこむ>
<<どうか達者でな。名欲山の岩を踏み均して,何度もやって来るからな>>
ここに出てくる名欲山は,大分県にある山を指すようです。奈良の京より遠いですが,別府あたりの港から船を利用して,難波港と行き来すれば,以外と楽な行路かもしれません。いずれにしても内容は「またね!」という別れの決まり文句です。
我々は,地方に赴任した大成のことを「地元の娘子とうまいことやったやん」なんて羨ましがってもいけませんよ。偶然かもしれませんが,1300年後も残るお二人の相聞歌を残せたこと自体を羨ましいと思うべきですよね~。まったく。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ)に続く。
2014年7月28日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2) 40年ぶりに「山辺の道」を踏み歩く
<真夏の山の辺の道>
一昨日の土曜,猛暑の中,学生時代に歩いたことがある,山辺の道(やまのべのみち。天理市~桜井市たの内,天理~柳本)を歩きました。

実は,その前の金曜日は大阪への出張があり,その日は大阪市内に宿泊しました。翌朝完全な軽装に着替えをして,朝からJRで天理駅に移動し,そこから歩いたのです。
学生時代は確か2月か3月の春のうららかな日和でしたが,今回はペットボトルを離さずに熱中症にならないよう気を付けながらでした。
一緒に大阪主張に行った会社の同僚も一緒に行きたいと言ってくれたので,男二人で汗をかきながらの奮闘でした。
猛暑の中でしたが,懐かしい場所に戻ってきた感を多くの場所で持て,思い出話や歴史の話を同僚としながらの気持ち良い散策でした。
午後は同僚が東京に戻り,私一人奈良に来るとよく利用する奈良駅前の天然温泉浴場のあるビジネスホテルに宿泊しました。
<翌日はミカン農園で摘果して帰路に>
翌日の27日は毎年みかんの木のオーナーになっている明日香村の農園に行き,ミカンの実の摘果(傷ついた実や小さな実を取り去ること)を行い,午後東京に戻りました。
今回奈良で踏みしめた道や地面は,アスファルトやコンクリート,土,砂利,石を敷き詰めた路面,草地,藁をぶ厚く敷き詰めたみかん畑の地面などで,踏みしめ感がいろいろでした。
特に山辺の道で坂が急に場所には,ごつごつした石を敷き詰めいてる場所がありました。ビジネスシューズで同行した同僚には大変な苦労をさせてしまいました。
今回は,前回の巨勢道の短歌でも出てきた石を踏む場面の和歌を見ていきます。
佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか(4-525)
<さほがはのこいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは としにもあらぬか>
<<佐保川の小石を踏みながら川を渡って,黒馬が来る夜は年に一度はくらいはあっていいのではないでしょうか>>
この短歌は,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が藤原麻呂(ふしはらのまろ)に贈った内の1首です。織姫と牽牛でさえ年に1回は逢えるというのにどうしてあなた様(藤原麻呂)はなかなか来てくださらないのですか?という恨み言のように私には思えます。
藤原麻呂と郎女の家の間には佐保川が流れていて,郎女へ家へ妻問するには川を渡ってくる必要があったこと,そして,佐保川には橋が掛かっておらず,川の石を踏んで渡る必要があったことがこの短歌から見えてきます。
さて,これとよく似た詠み人知らずの短歌が巻13に出てきます。
川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも(13-3313)
<かはのせのいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは つねにあらぬかも>
<<川の瀬の石を踏んで渡って黒馬に乗ったあなた様が来る夜は常にあってほしいのです>>
実はこの短歌は長歌の反歌なのです。
直前の長歌では,泊瀬の国の天皇が作者の女性の相手だということが詠まれています。長歌では,親に知れると困るので妻問に来てくださるのは止めてほしいという内容ですが,短歌では全く逆のこと(いつも来てね)を詠っています。
さて,泊瀬の国の天皇といえば,すぐに思い浮かぶのが雄略天皇ということになります。
しかし,どう考えてもこの長短歌が雄略天皇が生きていた時に,雄略天皇に対して詠まれたとは考えにくいと私は感じます。
それよりも「女の恋心は複雑なのよ。たとえ相手がすごい天皇であっても,大好きでも,いろいろ気になって素直になれないの」といった奈良時代に巷で流行っていた歌謡ではないかと私は想像します。
最初に紹介した坂上郎女の短歌もその歌謡をパロディーしたか,逆に歌謡の作者が坂上郎女の短歌を真似たのかのどちらかが興味深いところです。
私は坂上郎女の和歌が当時一般に公開されたり,出版されたりする可能性が少ないと考えると,前者(郎女が後からまねて作歌)の可能性が高いと考えています。
さて,最後は石の多い道は馬に乗って移動するのが,万葉時代あこがれの手段だったことを思わせる詠み人知らずの短歌です。
馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ(13-3317)
<うまかはばいもかちならむ よしゑやしいしはふむとも わはふたりゆかむ>
<<馬を買うと,おまえだけが歩くことになる。石を踏んで苦労は多くとも,僕はおまえと二人で歩いて行くよ>>
夫婦愛の理想を詠ったような短歌ですね。
欲しいもの(当時の馬を今に例えれば,一人乗りのモトクロスモーターバイク)を我慢してでも一緒に同じ方向,同じスピードで暮らしていくのが理想の夫婦なのかもしれません。
ただ,今は価値観やそれまで得てきた情報の多様化・偏重によって,相手の気持ちを理解して,お互いが納得する我慢の度合いを見つけあうのが難しい時代になってきているような気がします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3)に続く。
一昨日の土曜,猛暑の中,学生時代に歩いたことがある,山辺の道(やまのべのみち。天理市~桜井市たの内,天理~柳本)を歩きました。
実は,その前の金曜日は大阪への出張があり,その日は大阪市内に宿泊しました。翌朝完全な軽装に着替えをして,朝からJRで天理駅に移動し,そこから歩いたのです。
学生時代は確か2月か3月の春のうららかな日和でしたが,今回はペットボトルを離さずに熱中症にならないよう気を付けながらでした。
一緒に大阪主張に行った会社の同僚も一緒に行きたいと言ってくれたので,男二人で汗をかきながらの奮闘でした。
猛暑の中でしたが,懐かしい場所に戻ってきた感を多くの場所で持て,思い出話や歴史の話を同僚としながらの気持ち良い散策でした。
午後は同僚が東京に戻り,私一人奈良に来るとよく利用する奈良駅前の天然温泉浴場のあるビジネスホテルに宿泊しました。
<翌日はミカン農園で摘果して帰路に>
翌日の27日は毎年みかんの木のオーナーになっている明日香村の農園に行き,ミカンの実の摘果(傷ついた実や小さな実を取り去ること)を行い,午後東京に戻りました。
今回奈良で踏みしめた道や地面は,アスファルトやコンクリート,土,砂利,石を敷き詰めた路面,草地,藁をぶ厚く敷き詰めたみかん畑の地面などで,踏みしめ感がいろいろでした。
特に山辺の道で坂が急に場所には,ごつごつした石を敷き詰めいてる場所がありました。ビジネスシューズで同行した同僚には大変な苦労をさせてしまいました。
今回は,前回の巨勢道の短歌でも出てきた石を踏む場面の和歌を見ていきます。
佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか(4-525)
<さほがはのこいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは としにもあらぬか>
<<佐保川の小石を踏みながら川を渡って,黒馬が来る夜は年に一度はくらいはあっていいのではないでしょうか>>
この短歌は,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が藤原麻呂(ふしはらのまろ)に贈った内の1首です。織姫と牽牛でさえ年に1回は逢えるというのにどうしてあなた様(藤原麻呂)はなかなか来てくださらないのですか?という恨み言のように私には思えます。
藤原麻呂と郎女の家の間には佐保川が流れていて,郎女へ家へ妻問するには川を渡ってくる必要があったこと,そして,佐保川には橋が掛かっておらず,川の石を踏んで渡る必要があったことがこの短歌から見えてきます。
さて,これとよく似た詠み人知らずの短歌が巻13に出てきます。
川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも(13-3313)
<かはのせのいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは つねにあらぬかも>
<<川の瀬の石を踏んで渡って黒馬に乗ったあなた様が来る夜は常にあってほしいのです>>
実はこの短歌は長歌の反歌なのです。
直前の長歌では,泊瀬の国の天皇が作者の女性の相手だということが詠まれています。長歌では,親に知れると困るので妻問に来てくださるのは止めてほしいという内容ですが,短歌では全く逆のこと(いつも来てね)を詠っています。
さて,泊瀬の国の天皇といえば,すぐに思い浮かぶのが雄略天皇ということになります。
しかし,どう考えてもこの長短歌が雄略天皇が生きていた時に,雄略天皇に対して詠まれたとは考えにくいと私は感じます。
それよりも「女の恋心は複雑なのよ。たとえ相手がすごい天皇であっても,大好きでも,いろいろ気になって素直になれないの」といった奈良時代に巷で流行っていた歌謡ではないかと私は想像します。
最初に紹介した坂上郎女の短歌もその歌謡をパロディーしたか,逆に歌謡の作者が坂上郎女の短歌を真似たのかのどちらかが興味深いところです。
私は坂上郎女の和歌が当時一般に公開されたり,出版されたりする可能性が少ないと考えると,前者(郎女が後からまねて作歌)の可能性が高いと考えています。
さて,最後は石の多い道は馬に乗って移動するのが,万葉時代あこがれの手段だったことを思わせる詠み人知らずの短歌です。
馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ(13-3317)
<うまかはばいもかちならむ よしゑやしいしはふむとも わはふたりゆかむ>
<<馬を買うと,おまえだけが歩くことになる。石を踏んで苦労は多くとも,僕はおまえと二人で歩いて行くよ>>
夫婦愛の理想を詠ったような短歌ですね。
欲しいもの(当時の馬を今に例えれば,一人乗りのモトクロスモーターバイク)を我慢してでも一緒に同じ方向,同じスピードで暮らしていくのが理想の夫婦なのかもしれません。
ただ,今は価値観やそれまで得てきた情報の多様化・偏重によって,相手の気持ちを理解して,お互いが納得する我慢の度合いを見つけあうのが難しい時代になってきているような気がします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3)に続く。
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