<石和温泉でくつろぐ>
2009年2月下旬から始めたこのブログも7年目に入ろうとしています。
昨日今日と私は石和温泉駅から北東へ徒歩10分ほどの比較的小さな温泉旅館に来ています。
昨年12月から私は新しい職場に転職し,ようやく対象システムの全貌,初期開発当時の状況,その後何年にも続いた保守開発対応の経緯の詳細が見えてきました。
以前からときどき仕事の疲れを少し癒すため,都心から近いことが便利なこの温泉地を今回も選びました。旅館到着後,すぐに温泉風呂に入り,リラックスしてから,このブログを書き始めています。
今回宿泊の旅館は,初めて来た場所ですが,お風呂も泉質の異なる2種類の温泉(旅館直下で涌く温泉と,いわゆる石和温泉と呼ばれる温泉)が楽しめ,料理もなかなかしっかりしたボリュームと内容で申し分ありませんでした。写真は,お風呂(左の浴槽が温めの自噴温泉で右の浴槽が熱めの石和温泉)と夕食の料理(一部)です。
<万葉集の雑多さで万葉集の評価を下げる評論には反対>
今回のスペシャルは「万葉集が我々に残した情報は何か?」について,3回に分けて私の考えを示したいと思います。万葉集には,一見無秩序と思われるくらい,多様で多くの(飛鳥時代から奈良時代に掛けての)情報が盛り込まれています。
万葉集の解説本に「『万葉集は一人の人が編纂したのではなく,何回かに分けて編纂された歌集を集めたものである』といった学説が有力だ」という解説をよく見かけます。しかし,私はそんな解説にほとんど興味を感じません。一部がいつだれがその部分を編纂したかはどうでもよいと私は思います。
<最終編者の意図こそが万葉集の評価を決める>
最終的に20巻の万葉集として編集した人が万葉集を編纂したのです。それがたとえ寄せ集めでも,統一されていなくても,下手くそな和歌が数多く残っていたとしてもまったく問題はありません。不統一であるとか,寄せ集めであるからとか,どうでもいいような和歌がたくさんあるとかで,万葉集自体や最終編集者の評価を下げるような解説に対し「それがどうしたの?」と私は言いたくなるだけです。
<万葉集の価値はその情報量にある?>
万葉集の価値は,そこに納められた情報量の多さにこそ大きなものがあると感じます。ここで私が言う情報量とは,重複を排除(一つにして)して残ったものです。情報処理技術の分野でいうと情報のユニーク(一意)性を高めた処理後の情報の量です。それは多様性が高いほど,私の言う情報量が多いことを示しているのです。
いわゆる「優れた(?)和歌を集めた万葉集の解説本」の多さには,私は正直辟易します。『優れた』という非常にあいまい,かつ選んだ人の個人的な価値観(例えば,○○博士が選んだから優れているとか)を勝手に押し付けたものでしかないからです。
<原点に戻る>
さて,このブログを始めた時にも書きましたが,私が万葉集から収集した用語集(約6千語)があります。それを見ていくと,まず地名の多さが目立ちます。万葉集での地名と思われる用語の数は,少なくとも800以上あると私は考えます。もちろん,その数は何度も出てくる有名な地名も1として数えています(延べ数ではありせん)。
これだけ,さまざまな地名が出てくる歌集であることは,編者が当時の日本という国(本州,四国,九州)の地名を多くの人に知らしめたいといってもおかしくありません。万葉集の和歌を見た,まは聞いた人は,その地名に行ってみたいと感じる人は多かったのではないでしょうか。
特に,地名にまつわる伝説を詠んだ次の短歌などは,その伝説の地に行ってみたいと特に感じるさせる効果は高かったと私は想像します。
香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原(1-14):中大兄皇子
<かぐやまとみみなしやまと あひしときたちて みにこし いなみくにはら>
<<香具山と耳梨山とが争った時に出雲の神が立ち上がって見に来たという,ここが印南国原なのだ>>
音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山(5-883):三嶋王
<おとにききめにはいまだみず さよひめ ひれふりきとふ きみまつらやま>
<<人づてには聞いているがまだ行ったことの無いのだ(行ってみたい)。肥前の唐津にあるという佐用姫が恋人との別れを惜しみいつまでも袖を振り,帰りを待ったいう言い伝えがある松浦山に>>
人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね(14-3398):東歌
<ひとみなのことはたゆとも はにしなのいしゐのてごが ことなたえそね>
<<人の言い伝えがすべて忘れ去られても埴科(長野県北部の郡)にある石井の手児の伝説だけは絶えさせないでほしい>>
さらに,たとえば次の詠み人知らずの短歌のように,どういったことでその地名が有名かが分かる序詞や枕詞を持つ和歌も多く出てきます。
もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも(11-2714)
<もののふのやそうぢがはの はやきせにたちえぬこひも あれはするかも >
<<大勢の武士たちの勢いと素早さで移動するような宇治川の早い瀬に立っているのが非常につらいの同じほど,あなたとの恋は苦しいものとなっているようです>>
「この最初の部分は『立ちえぬ』を導く序詞(枕詞)ですから,特に意味を意識する必要ははありません。この短歌は苦しい恋をしていると言いたいだけの単純なものです。」と解説したり,現代訳したりする人に万葉集の良さを語ってほしくないというのが,私の正直な感想です。
<序詞から多くの情報が得られる>
この短歌の情報として,宇治川は勢いよく流れる早い瀬があることが分かります。しかし,宇治は交通の要所であり,その川を渡る必要があるのです。それがどれだけ大変なのかが,当時の人々の評判になっていたのだろうという確かな情報が得られるのです。また,そのつらさの情報から「憂(う)し川」⇒「宇治(うぢ)川」と呼ばれるようになったのかも知れないという推測情報が演繹可能となります。
万葉集の編者は,地名を知らしめることと,そこへ旅をする人が増えることを願ったのかもしれません。具体的には,平城京,飛鳥京,大津京,近江周辺,吉野宮,藤原京,難波宮,恭仁京,山背地域(京都府南部),瀬戸内海の島々や沿岸地域,九州北部,山陰地方,北陸地方,伊勢,東海地方,関東甲信越地域,東北南部地域などの地名が出てくること自体に,情報量としての価値を私は強く感じるのです。
万葉集に出てくる地名を見るたびに出かけたくなる,今温泉三昧中の私「たびと」でした。
当ブログ7年目突入スペシャル(2)に続く。
2015年2月22日日曜日
2015年2月16日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ) ウグイスの毛の色は姿を隠す保護色?
「隠る」をここまで万葉集でいろいろ見てきましたが,いよいよ今回が最後になります。最後は「隠る」の対象が今まで出てこなかったものを対象とします。
まず,鶯が木末に隠れて鳴いている様子を詠んだ短歌から見ていきましょう。
春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に(5-827)
<はるさればこぬれがくりて うぐひすぞなきていぬなる うめがしづえに>
<<春になるとこずえに隠れて鶯は鳴き姿が見えなくなるようだ。梅の下枝に>>
この短歌は,天平2(730)年1月13日に大宰府で行われた大伴旅人を主人とした梅見の宴のとき,旅人の家臣であったろう山口若麻呂という参加者の一人が詠んだとされています。
ちなみに,鶯は色は非常に地味です(花札の影響か,鮮やかな緑色のメジロを鶯と勘違いする多いといいます)。鶯の身体の色は,確かに少しだけ緑色は帯びていますが,ほとんど木の肌の色に近いのです。そのため,葉がまだ出ない梅の木の木肌色に近い色(いわゆる保護色)であり,声はするけれど鶯がどこにいるか見つけるのが困難になるのです。この短歌は,そのような情景を詠んだように私には思えます。
さて,次は坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が詠んだとされる茶目っ気のある短歌です。
佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね(4-529)
<さほがはのきしのつかさの しばなかりそね ありつつもはるしきたらば たちかくるがね>
<<佐保川の岸の小高いところに生えている柴を刈らないでほしいわ。そのままにして春になったなら,その葉陰に隠れて誰にも見られず逢えるから>>
万葉時代の佐保川近辺は,今で言えば高級住宅街です。庶民の住むスラム風の街と違い,人口密度はそれほど高くないのです。そんな閑静な住宅街で,男女が路上で逢ったり,足繁く通っている姿は非常に目立ってしまいます。何とか人に見られない済む場所として,佐保川の岸で堤防のように小高くなっているところに柴(低木の木で落葉樹)が生えていたのでしょう。
住宅から佐保川の流れを見たい人にとっては邪魔なので刈ってしまおうと思う人もいたのでしょうか。そうすると恋人と目立たないで逢える場所が無くなるでしょ,無粋なことは止めてね,といった郎女の思いでしょうね。ただ,たとえそれが刈られてしまっても,またどこか隠れて逢える場所を見つけてみますわよといった郎女の心の強さを私はこの短歌から感じます。
最後は七夕のとき,天の川の渡し舟の櫂を隠してしまうというとんでもない詠み人知らずの短歌です。
我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくて わたりもりふねかさめやも しましはありまて>
<<僕が隠したので櫂がない渡り舟だから貸すのはできないよね。もう少し待ってくれるかい>>
年に1度だけしか逢えず,やっと天の川を舟で渡ってきて逢えたけど,逢っていられる時間はあっという間に過ぎる。少しでも長く逢っていたいので,帰るための天の川の渡し舟の櫂を隠してしまった言っているのです。渡し舟の管理人は櫂の無い舟は貸せないから,まだこちらで二人で逢っていられるよねとこの短歌は詠っています。
<罪を犯してはいけません>
ところで,これって犯罪ですよね。他人の所有物を勝手に隠してしまうわけですから。現代用語の「隠す」には,他人の物の場合もそうですが,情報を内証にしておくのも少し悪いことをしているようなイメージを感じる人もいめのかもしれません。でも,そこまでしても少しでも長く逢っていたいのだということを作者はこの短歌で言いたいのです。
こういった表現(罪を犯してまで恋人と逢いたい)に似たようなもので,本当に罪を犯してしまう事件をときどき報道でみることがあります。たとえば,愛人のために何億円も会社の金を横領したとか,恋敵に対して傷害事件を起こしたとかです。
そうなるから罪を犯してもしょうがないような表現は,たとえ文学でもやめるべきだという主張があります。でも,私は賛成できません。そんな主張を受け入れたら「必死で頑張る」という表現も,極端に解釈すると必ず死ぬまでやるわけですから,ダメだという人も出てくることになってしまいます。
<表現の自由は相互の交流から成熟する>
さて,そういった表現の自由に対し,それを受け入れる側の柔軟性や寛容性をどこまで認め合うかは,最近の国際情報道を見ていて,簡単にはいかない非常に難しい面があると感じます。
特に,それまでの規律や道徳に大きな違いがある国間,宗派間,倫理観の間では,許されない表現や映像の範囲に大きな差があることも改めて分かってきたように思います。
しかし,お互いの倫理観や価値観をよく説明し合い(あくまで冷静な話し合いで),共同で何かを行う場合(例:スポーツ,国際会議,視察旅行など),どこまで許容するかの合意を取り,参加者や応援者もその合意を守るよう周知していくしかないと考えます。
大いなる侮辱を受けたから,たとえ民間人であっても暴力や武器で制裁(抹殺)しても構わない(神は許す)し,自分はその制裁行為を実施することで死ぬことがあっても良い(神に召される)という主張があるとするならば,人間尊重の考えからは,その主張はやはり肯定されるべきではないだろうと私は感じます。
当ブログ7年目突入スペシャル‥万葉集が記録したものは何か?
まず,鶯が木末に隠れて鳴いている様子を詠んだ短歌から見ていきましょう。
春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に(5-827)
<はるさればこぬれがくりて うぐひすぞなきていぬなる うめがしづえに>
<<春になるとこずえに隠れて鶯は鳴き姿が見えなくなるようだ。梅の下枝に>>
この短歌は,天平2(730)年1月13日に大宰府で行われた大伴旅人を主人とした梅見の宴のとき,旅人の家臣であったろう山口若麻呂という参加者の一人が詠んだとされています。
ちなみに,鶯は色は非常に地味です(花札の影響か,鮮やかな緑色のメジロを鶯と勘違いする多いといいます)。鶯の身体の色は,確かに少しだけ緑色は帯びていますが,ほとんど木の肌の色に近いのです。そのため,葉がまだ出ない梅の木の木肌色に近い色(いわゆる保護色)であり,声はするけれど鶯がどこにいるか見つけるのが困難になるのです。この短歌は,そのような情景を詠んだように私には思えます。
さて,次は坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が詠んだとされる茶目っ気のある短歌です。
佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね(4-529)
<さほがはのきしのつかさの しばなかりそね ありつつもはるしきたらば たちかくるがね>
<<佐保川の岸の小高いところに生えている柴を刈らないでほしいわ。そのままにして春になったなら,その葉陰に隠れて誰にも見られず逢えるから>>
万葉時代の佐保川近辺は,今で言えば高級住宅街です。庶民の住むスラム風の街と違い,人口密度はそれほど高くないのです。そんな閑静な住宅街で,男女が路上で逢ったり,足繁く通っている姿は非常に目立ってしまいます。何とか人に見られない済む場所として,佐保川の岸で堤防のように小高くなっているところに柴(低木の木で落葉樹)が生えていたのでしょう。
住宅から佐保川の流れを見たい人にとっては邪魔なので刈ってしまおうと思う人もいたのでしょうか。そうすると恋人と目立たないで逢える場所が無くなるでしょ,無粋なことは止めてね,といった郎女の思いでしょうね。ただ,たとえそれが刈られてしまっても,またどこか隠れて逢える場所を見つけてみますわよといった郎女の心の強さを私はこの短歌から感じます。
最後は七夕のとき,天の川の渡し舟の櫂を隠してしまうというとんでもない詠み人知らずの短歌です。
我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくて わたりもりふねかさめやも しましはありまて>
<<僕が隠したので櫂がない渡り舟だから貸すのはできないよね。もう少し待ってくれるかい>>
年に1度だけしか逢えず,やっと天の川を舟で渡ってきて逢えたけど,逢っていられる時間はあっという間に過ぎる。少しでも長く逢っていたいので,帰るための天の川の渡し舟の櫂を隠してしまった言っているのです。渡し舟の管理人は櫂の無い舟は貸せないから,まだこちらで二人で逢っていられるよねとこの短歌は詠っています。
<罪を犯してはいけません>
ところで,これって犯罪ですよね。他人の所有物を勝手に隠してしまうわけですから。現代用語の「隠す」には,他人の物の場合もそうですが,情報を内証にしておくのも少し悪いことをしているようなイメージを感じる人もいめのかもしれません。でも,そこまでしても少しでも長く逢っていたいのだということを作者はこの短歌で言いたいのです。
こういった表現(罪を犯してまで恋人と逢いたい)に似たようなもので,本当に罪を犯してしまう事件をときどき報道でみることがあります。たとえば,愛人のために何億円も会社の金を横領したとか,恋敵に対して傷害事件を起こしたとかです。
そうなるから罪を犯してもしょうがないような表現は,たとえ文学でもやめるべきだという主張があります。でも,私は賛成できません。そんな主張を受け入れたら「必死で頑張る」という表現も,極端に解釈すると必ず死ぬまでやるわけですから,ダメだという人も出てくることになってしまいます。
<表現の自由は相互の交流から成熟する>
さて,そういった表現の自由に対し,それを受け入れる側の柔軟性や寛容性をどこまで認め合うかは,最近の国際情報道を見ていて,簡単にはいかない非常に難しい面があると感じます。
特に,それまでの規律や道徳に大きな違いがある国間,宗派間,倫理観の間では,許されない表現や映像の範囲に大きな差があることも改めて分かってきたように思います。
しかし,お互いの倫理観や価値観をよく説明し合い(あくまで冷静な話し合いで),共同で何かを行う場合(例:スポーツ,国際会議,視察旅行など),どこまで許容するかの合意を取り,参加者や応援者もその合意を守るよう周知していくしかないと考えます。
大いなる侮辱を受けたから,たとえ民間人であっても暴力や武器で制裁(抹殺)しても構わない(神は許す)し,自分はその制裁行為を実施することで死ぬことがあっても良い(神に召される)という主張があるとするならば,人間尊重の考えからは,その主張はやはり肯定されるべきではないだろうと私は感じます。
当ブログ7年目突入スペシャル‥万葉集が記録したものは何か?
2015年2月8日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4) 偉大なあのお方が不本意にもお隠れになってしまった
現代でも尊敬する人が亡くなることを「お隠れになる」と表現する場合があります。万葉集にも人が死ぬことを「隠る」を使って表現している和歌が出てきます。たとえば現代語でいえば「岩に隠れる」「岩に籠る」という表現です。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
2015年1月31日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(3) 山のあなたの空遠く 幸住むと人の言ふ
日本は山国です。多くの場所では遠くは見渡せません。
万葉集を読み解くに,万葉時代に奈良盆地から旅をする場合,基本的に山と山の間の峠を越えたり,山麓の曲がりくねった道を縫うように進むことがほとんどだったように想像できそうです。結局,そんな旅では,行き先は山に隠れて見えず,どんなところなのか分からない,山を越えてきたために出発した自分の家の方も見えない,そんな状況の中を我慢して進むことになります。
次は市原王(いちはらのおほきみ)が多くの山を向こうにある美しい岬で可愛い海女の子に出会ったことを忘れられない気持ちを詠んだ短歌です。
網児の山五百重隠せる佐堤の崎さで延へし子が夢にし見ゆる(4-662)
<あごのやまいほへかくせる さでのさきさではへしこが いめにしみゆる>
<<網児の山々が幾重にも隠している佐堤の崎でさで網を広げて漁をしていた海人の娘が夢に出てくる>>
いくつもの山を越えてようやく到着した佐堤の崎は突然眼前に現れ,その美しさに感動しただけでなく,そこで漁をしている娘の健康的な可愛さが本当に忘れられない,そんな思いが私には伝わってきます。
<この短歌を万葉集の編者が掲載した理由>
京の女性は色白だが,家に籠り,何重にも衣を着て,暗い夜しか逢えない不健康さが感じられるのに対し,この岬で見た娘たちは,明るい太陽のもとで,薄い衣を身に着けただけで網を引っ張っている。市原王がこの短歌のように感じるのはもっともかもしれませんね。
ただ,この短歌を聞いた京の男性はどう思うでしょうか。是非その岬に行ってみたいと思わないでしょうか。「市原王様もお薦めの「佐堤の崎」周遊ツアー募集中で~す」といったツアーエージェントの営業マンがいたかどうかは分かりませんが,山の向こうにある美しい「佐堤の崎」をイメージした人は少なくなかったと私は想像します。
万葉集には,少し裕福になった京人(市民)を旅に誘う効果があったと私は感じます。
次は山が月を隠す状況を藤原八束(ふぢはらのやつか)が詠んだとされる短歌です。
待ちかてに我がする月は妹が着る御笠の山に隠りてありけり(6-987)
<まちかてにわがするつきは いもがきるみかさのやまに こもりてありけり>
<<私がずっと待っていた月は彼女が着ける笠という御笠の山に隠れていたのだ>>
山が無ければ,もっと早く月が顔を出していたのに,山があるおかげで月の出を待つことになった。八束は月が出たら何をしようとしていたのでしょうか。今日の出を楽しみに待つ人がいるように,万葉時代は月の出も楽しみに待つ人がいたのかもしれませんね。
さて,冒頭日本は山国で遠くを見渡せる場所は少ないと書きましたが,関東平野は平地でもかなり遠くを見渡せるところがあります。次は,そんな情景を詠んだ東歌です。
妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな(14-3389)
<いもがかどいやとほそきぬ つくはやまかくれぬほとに そではふりてな>
<<彼女の家から遠くまで来てしまったなあ。筑波山が他の山で隠れて見えなくならないうちに(もう一度)袖を振っておこう>>
彼女の家は筑波山の麓にあるのでしょうか。関東平野で筑波山が見えなくなるのは相当遠くにはなれないとそうならないでしょう。筑波山が見える限り,旅に出るときに別れを告げた彼女のいる方向に間違いなく向かうことができる。関東平野での筑波山の重みは今以上に重かったのだろうと私は想像します。また,奈良の市民は「東国の筑波山でどんなにすごい山なんだろうか」と想像を掻き立てられたかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4)に続く。
万葉集を読み解くに,万葉時代に奈良盆地から旅をする場合,基本的に山と山の間の峠を越えたり,山麓の曲がりくねった道を縫うように進むことがほとんどだったように想像できそうです。結局,そんな旅では,行き先は山に隠れて見えず,どんなところなのか分からない,山を越えてきたために出発した自分の家の方も見えない,そんな状況の中を我慢して進むことになります。
次は市原王(いちはらのおほきみ)が多くの山を向こうにある美しい岬で可愛い海女の子に出会ったことを忘れられない気持ちを詠んだ短歌です。
網児の山五百重隠せる佐堤の崎さで延へし子が夢にし見ゆる(4-662)
<あごのやまいほへかくせる さでのさきさではへしこが いめにしみゆる>
<<網児の山々が幾重にも隠している佐堤の崎でさで網を広げて漁をしていた海人の娘が夢に出てくる>>
いくつもの山を越えてようやく到着した佐堤の崎は突然眼前に現れ,その美しさに感動しただけでなく,そこで漁をしている娘の健康的な可愛さが本当に忘れられない,そんな思いが私には伝わってきます。
<この短歌を万葉集の編者が掲載した理由>
京の女性は色白だが,家に籠り,何重にも衣を着て,暗い夜しか逢えない不健康さが感じられるのに対し,この岬で見た娘たちは,明るい太陽のもとで,薄い衣を身に着けただけで網を引っ張っている。市原王がこの短歌のように感じるのはもっともかもしれませんね。
ただ,この短歌を聞いた京の男性はどう思うでしょうか。是非その岬に行ってみたいと思わないでしょうか。「市原王様もお薦めの「佐堤の崎」周遊ツアー募集中で~す」といったツアーエージェントの営業マンがいたかどうかは分かりませんが,山の向こうにある美しい「佐堤の崎」をイメージした人は少なくなかったと私は想像します。
万葉集には,少し裕福になった京人(市民)を旅に誘う効果があったと私は感じます。
次は山が月を隠す状況を藤原八束(ふぢはらのやつか)が詠んだとされる短歌です。
待ちかてに我がする月は妹が着る御笠の山に隠りてありけり(6-987)
<まちかてにわがするつきは いもがきるみかさのやまに こもりてありけり>
<<私がずっと待っていた月は彼女が着ける笠という御笠の山に隠れていたのだ>>
山が無ければ,もっと早く月が顔を出していたのに,山があるおかげで月の出を待つことになった。八束は月が出たら何をしようとしていたのでしょうか。今日の出を楽しみに待つ人がいるように,万葉時代は月の出も楽しみに待つ人がいたのかもしれませんね。
さて,冒頭日本は山国で遠くを見渡せる場所は少ないと書きましたが,関東平野は平地でもかなり遠くを見渡せるところがあります。次は,そんな情景を詠んだ東歌です。
妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな(14-3389)
<いもがかどいやとほそきぬ つくはやまかくれぬほとに そではふりてな>
<<彼女の家から遠くまで来てしまったなあ。筑波山が他の山で隠れて見えなくならないうちに(もう一度)袖を振っておこう>>
彼女の家は筑波山の麓にあるのでしょうか。関東平野で筑波山が見えなくなるのは相当遠くにはなれないとそうならないでしょう。筑波山が見える限り,旅に出るときに別れを告げた彼女のいる方向に間違いなく向かうことができる。関東平野での筑波山の重みは今以上に重かったのだろうと私は想像します。また,奈良の市民は「東国の筑波山でどんなにすごい山なんだろうか」と想像を掻き立てられたかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4)に続く。
2015年1月25日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(2) ♪岬~まわるの~ 小さ~な船が~
<転職先状況>
昨年12月からの職場で対応しているシステムの詳細構造がようやくラビリンス(迷宮)状態からいくつかの道筋が見え始めました。道筋がいくつか見え始めると,その他の隠れている道筋も見つけやすくなります。なぜなら,道筋を設計するとき,ある種の統一した思想で作っているハズですから,その考えを想定して探すことで,次々と道筋が見えてくることがあります。ここまで来ると,依然として簡単ではありませんが,今までに比べて対象システムを理解する仕事は少しずつ楽になっていきます。
世の中の仕組みもそうかもしれません。みなさん,理解できない・理不尽と思える出来事やさまざまな仕組がたくさんあると感じませんか? 私は感じます。
逆に「世の中の動きや出来事の原因なんて全て承知の助(すけ)よ」という人の数は本当に少ないのではないでしょうか。その人は未来を全て予測できる人に他ならないですからね。
<複雑な世の中の仕組み(設計図)をどう理解?>
仕組みが不明な世の中でどう生きていくか?
基本は私がソフトウェアの保守開発の仕事でやっているように,とにかく世の中を不断にリバースエンジニアリングすることしかないと私は最近感じます。「世の中の仕組みのリバースエンジニアリンク」とは,発生した事件,出来事,お知らせなどを丹念にフォローし,それが発生する原因や構造を想像していく。そして,その原因や構造があるところでは,同じような事件,出来事,お知らせがいつごろ発生するか予想をするみることです。
予想が外れたら(実際は,そのケースの方が多い?),原因や構造の理解に正しくない部分があった訳なので,それがどこか再度分析を試みるという繰り返しです。そうすることによって,少しずつ世の中の仕組みや問題な部分の本質が見えてきて,間違った行動が少なくなると私は信じています。
<本題>
さて,また前置きが長くなりましたが,万葉集を見ていきます。今回は,「隠る」の2回目として「島隠る」をテーマとします。
最初の1首は,山部赤人が今の兵庫県の瀬戸内海沖を船に乗って羈旅していたとき詠んだとされる短歌からです。
島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船(6-944)
<しまがくりわがこぎくれば ともしかもやまとへのぼる まくまののふね>
<<島陰に隠れ,大波を避けて我が舟を漕いで来ると,ああ羨ましいことだ。あれは大和の方へ(真っ直線に)上って行く本物の熊野で造られた高級な船だよ>>
おそらく赤人が乗っている舟は比較的古びた小さな船で,陸から離れると危ないため,島の海岸線を伝って航行。そのため,島影に隠れたり現れたしながらの航海だったと思われます。今で言えば,お金がないのでくねくねと曲がったローカル線の各駅停車に乗らざるを得ないのだが,新幹線がピュンピュンと追い抜いて行くのを見て羨ましいなあと感じる気持ちに近いかもしれませんね。
<「熊野の船」は当時最新鋭の船?>
万葉時代は,外国からの優れた造船技術の導入と,漁業用は漁業用,輸送用は輸送用と造船の分業化・専門化が進み,経験豊かで高度な技術を持った造船技術者が専門の造船所で造船に専念する。そのことで,それまでに見たことがないような高品質で高性能な船が作られるようになった時代だと私は思います。各地には,立派な造船所がつくられ,それぞれがしのぎを削って良い船を作り,多少のシケや大波でもビクともしないような船がさっそうと航行して行ったのでしょう。造船所の地名からブランド船の一つとして「熊野の船」が知られていたのかもしれません。
次は,旅立ちの時,見送る女性の問いかけに答えた詠み人知らずの短歌です。
八十楫懸け島隠りなば我妹子が留まれと振らむ袖見えじかも(12-3212)
<やそかかけしまがくりなば わぎもこがとまれとふらむ そでみえじかも>
<<多くの櫂を舟に付けて漕ぎ出しても,島に隱れて行ったら,私の愛しい人が止れと袖を振っても,見えなくなるでしょう(この別れは致し方ないのです)>>
この短歌の作者に最初に問いかけたのは,次の短歌です。
玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ(12-3211)
<たまのをのうつしこころや やそかかけこぎでむふねに おくれてをらむ>
<<正気でいられませんよ。多くの櫂を付けた船であなたは行ってしまわれ,残された私は..>>
この短歌は,男性が出発する日まで,港近くの旅籠で過ごした遊女が別れを惜しんで詠んだものではないかと私は思います。このくらい大袈裟に詠うことで,この間あなた様との接したことは忘れられないことでしたと伝えたかったと私は思います。
さて,最後は遣新羅使が瀬戸内海を航路で西に向かうとき詠んだとされる短歌です。
海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも(15-3613)
<うなはらをやそしまがくり きぬれどもならのみやこは わすれかねつも>
<<海原をたくさんの美しい島々を縫って来たのだが,奈良の都のことはどうしても忘れられない>>
この短歌の「島隠り」は,島を縫うように進んできたことを表すと私は思います。遣新羅使として,西に向かう航路において,京(みやこ)を出発してかなりの日数が経ち,ホームシックになっている状況が私には素直に伝わってきます。
次回は「山」に関する「隠る」を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(3)に続く。
昨年12月からの職場で対応しているシステムの詳細構造がようやくラビリンス(迷宮)状態からいくつかの道筋が見え始めました。道筋がいくつか見え始めると,その他の隠れている道筋も見つけやすくなります。なぜなら,道筋を設計するとき,ある種の統一した思想で作っているハズですから,その考えを想定して探すことで,次々と道筋が見えてくることがあります。ここまで来ると,依然として簡単ではありませんが,今までに比べて対象システムを理解する仕事は少しずつ楽になっていきます。
世の中の仕組みもそうかもしれません。みなさん,理解できない・理不尽と思える出来事やさまざまな仕組がたくさんあると感じませんか? 私は感じます。
逆に「世の中の動きや出来事の原因なんて全て承知の助(すけ)よ」という人の数は本当に少ないのではないでしょうか。その人は未来を全て予測できる人に他ならないですからね。
<複雑な世の中の仕組み(設計図)をどう理解?>
仕組みが不明な世の中でどう生きていくか?
基本は私がソフトウェアの保守開発の仕事でやっているように,とにかく世の中を不断にリバースエンジニアリングすることしかないと私は最近感じます。「世の中の仕組みのリバースエンジニアリンク」とは,発生した事件,出来事,お知らせなどを丹念にフォローし,それが発生する原因や構造を想像していく。そして,その原因や構造があるところでは,同じような事件,出来事,お知らせがいつごろ発生するか予想をするみることです。
予想が外れたら(実際は,そのケースの方が多い?),原因や構造の理解に正しくない部分があった訳なので,それがどこか再度分析を試みるという繰り返しです。そうすることによって,少しずつ世の中の仕組みや問題な部分の本質が見えてきて,間違った行動が少なくなると私は信じています。
<本題>
さて,また前置きが長くなりましたが,万葉集を見ていきます。今回は,「隠る」の2回目として「島隠る」をテーマとします。
最初の1首は,山部赤人が今の兵庫県の瀬戸内海沖を船に乗って羈旅していたとき詠んだとされる短歌からです。
島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船(6-944)
<しまがくりわがこぎくれば ともしかもやまとへのぼる まくまののふね>
<<島陰に隠れ,大波を避けて我が舟を漕いで来ると,ああ羨ましいことだ。あれは大和の方へ(真っ直線に)上って行く本物の熊野で造られた高級な船だよ>>
おそらく赤人が乗っている舟は比較的古びた小さな船で,陸から離れると危ないため,島の海岸線を伝って航行。そのため,島影に隠れたり現れたしながらの航海だったと思われます。今で言えば,お金がないのでくねくねと曲がったローカル線の各駅停車に乗らざるを得ないのだが,新幹線がピュンピュンと追い抜いて行くのを見て羨ましいなあと感じる気持ちに近いかもしれませんね。
<「熊野の船」は当時最新鋭の船?>
万葉時代は,外国からの優れた造船技術の導入と,漁業用は漁業用,輸送用は輸送用と造船の分業化・専門化が進み,経験豊かで高度な技術を持った造船技術者が専門の造船所で造船に専念する。そのことで,それまでに見たことがないような高品質で高性能な船が作られるようになった時代だと私は思います。各地には,立派な造船所がつくられ,それぞれがしのぎを削って良い船を作り,多少のシケや大波でもビクともしないような船がさっそうと航行して行ったのでしょう。造船所の地名からブランド船の一つとして「熊野の船」が知られていたのかもしれません。
次は,旅立ちの時,見送る女性の問いかけに答えた詠み人知らずの短歌です。
八十楫懸け島隠りなば我妹子が留まれと振らむ袖見えじかも(12-3212)
<やそかかけしまがくりなば わぎもこがとまれとふらむ そでみえじかも>
<<多くの櫂を舟に付けて漕ぎ出しても,島に隱れて行ったら,私の愛しい人が止れと袖を振っても,見えなくなるでしょう(この別れは致し方ないのです)>>
この短歌の作者に最初に問いかけたのは,次の短歌です。
玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ(12-3211)
<たまのをのうつしこころや やそかかけこぎでむふねに おくれてをらむ>
<<正気でいられませんよ。多くの櫂を付けた船であなたは行ってしまわれ,残された私は..>>
この短歌は,男性が出発する日まで,港近くの旅籠で過ごした遊女が別れを惜しんで詠んだものではないかと私は思います。このくらい大袈裟に詠うことで,この間あなた様との接したことは忘れられないことでしたと伝えたかったと私は思います。
さて,最後は遣新羅使が瀬戸内海を航路で西に向かうとき詠んだとされる短歌です。
海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも(15-3613)
<うなはらをやそしまがくり きぬれどもならのみやこは わすれかねつも>
<<海原をたくさんの美しい島々を縫って来たのだが,奈良の都のことはどうしても忘れられない>>
この短歌の「島隠り」は,島を縫うように進んできたことを表すと私は思います。遣新羅使として,西に向かう航路において,京(みやこ)を出発してかなりの日数が経ち,ホームシックになっている状況が私には素直に伝わってきます。
次回は「山」に関する「隠る」を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(3)に続く。
2015年1月17日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1) 隠した雲が憎らしい
<自宅に隠ったこの正月>
2015年正月もあっという間に過ぎ,この前の3連休は鏡開きの餅をたくさん食べ,正月休みにジムへ通って下げた体重が元に戻ってしまいました。というのも,2月中旬にソフトウェア保守に関する丸一日コースのセミナー講師を担当する予定で,その資料作成に3連休はほぼ潰れ,身体を動かすことがあまりできなかったのです。
このブログも3連休中にはまったく書けず,今書いている状況です。いろいろやり過ぎ感はありますが,元気な証拠だと自分を納得させています。
さて,今回からは動詞「隠(かく)る」「隠(こも)る」「隠(なま)る」を取りあげ,万葉集を見ていきましょう。
現代用語としても「隠れる」「隠す」といった言葉がしっかり残っいます。
<情報は隠されるから価値が出る>
情報化時代の昨今,個人情報,企業秘密情報,先端技術情報,そして,今年制度が動き出すマイナンバー制度(社会保障・税番号制度)の個人に紐づく番号など容易に他人に知られないように隠さなければならない情報がたくさんあります。
これから,善人悪人とってどうかはさておき,情報の価値がますます高くなっていきます。お金,貴金属,宝飾品,高級ブランド品などのように金庫などに保管することで財産が守られます。しかし,価値ある情報は「他人に知られないこと=盗まれない」ということになります。
即ち,情報を隠すことが,その価値を維持する唯一の手段ということになるのです。
一方,情報は価値を生むところで使う(または売る)ことで初めて価値を生みます。ところが,情報を使う,または売る行為は,その情報が無関係の他人に知られてしまうリスクをはらみます。
情報をうまく隠しつつ,使う,売るといったスキル,ノウハウが今後ますます重要になってきます。
秘密にすることを悪に感じる人がいます。また,知らされていないことで疎外感を感じる(仲間外れにされたと感じる)人もいます。さらに,何でも人にじゃべりたがる人がいますが,近い将来主婦同士の井戸端会議も活性化されなくなるかもしれません(それで,主婦のストレスはますます高まる?)。
天の川 「あんたの奥さん,最近機嫌悪いやんか。たびとはん? なんか奥さんにぎょ~さん隠し事してるのとちゃうか」
そうそう,バレると機嫌悪くなるようなヤバイ隠し事がいっぱい... ある訳ないでしょ!
でっ,でっ,では,はじめに万葉集で使われている「隠る」が入った熟語(枕詞も含む)を見てみます。
雨隠(あまごも)る‥雨に降りこめられる
磐隠(いはがく)る‥逝去する
浦隠(うらがく)る‥入江の中に隠れる
面隠(おもかく)す‥恥ずかしくて顔を隠す
雲隠る‥雲が隠す,雲に隠れる,逝去する
木の下(このした)隠る‥木の下に隠れる
島隠(しまかく)る‥島のかげに退避する
妻隠(つまごも)る‥屋,矢,小佐保にかかる枕詞
このように,隠す対象が何かによって「隠る」の意味が微妙に変化していることが分かるような気がします。
では,万葉集の和歌の中で最初は超有名な額田王(ぬかだのおほきみ)が詠んだとされる長歌とその反歌を見ていきましょう。
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(1-17)
<うまさけみわのやま あをによしならのやまの やまのまにいかくるまで みちのくまいつもるまでに つばらにもみつつゆかむを しばしばもみさけむやまを こころなくくもの かくさふべしや>
<<三輪の山は奈良の山々の向こうに隠れるまで,道の曲り目が幾重にも重なるまで,ずっと見ながら行きたい山,目を離すことなく見続けたい山なのに,無情にも雲が隠すなんてことがあってよいものだろうか>>
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(1-18)
<みわやまをしかもかくすか くもだにもこころあらなも かくさふべしや>
<<三輪山をそんなに隠すのか。せめて雲にも情けがあるなら,隠すなんてことがあってよいだろうか>>
飛鳥宮(あすかのみや)から北に向かうと右手に三輪山が見えてきます。その姿は,何かしら荘厳で,穏やかで,心静まるものを当時の人たちは感じたのかもしれません。それを見ながら,北へ(例えば近江の大津宮へ)旅する人たちは,それを眺めながら楽しく向かいたいのだが,残念なことに雲が隠して見えない。この長短歌は,そんな情景を詠んだのかもしれませんね。
次は柿本人麻呂が詠んだとされる短歌です。
大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます(3-235)
<おほきみはかみにしませば くもがくるいかづちやまに みやしきいます>
<<大君は神であらせられるため,雷の丘に雲に隠れるほど高く,立派な宮をお造りになっておられる>>
この短歌は,同じ番号が振られている次の短歌の異本に出ていおり,忍壁皇子に贈ったとの伝説があると題詞にあります。
大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも(3-235)
<おほきみはかみにしませば あまくものいかづちのうへに いほりせるかも>
<<大君は神にあらせられるため,雷の丘の上に天雲にとどくほど高く立派な別荘を造られたなあ>>
今明日香村に伝わっている雷の丘は非常に低い山です。そこで,この短歌について,あまりにも「よいしょ」した天皇賛美の歌で,人麻呂らしくない和歌だと評価する人もいるようです。私は,無理筋と云われるかもしれませんが,「天雲」「雲隠る」は「宮」または「庵」に係るとして訳しました。
そうすると,実際に山が低いとか高いとかはどうでも良くなり,「天皇は最高の神であり,まさに雷の神さえ従えているのです」と人麻呂はこの短歌で言いたかったのかもしれません。また,当時としてはよほど荘厳な建物が完成したのでしょうね。
今回は,隠す対象が「山」で,隠す側が「雲」を中心に見ていきました。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(2)に続く。
2015年正月もあっという間に過ぎ,この前の3連休は鏡開きの餅をたくさん食べ,正月休みにジムへ通って下げた体重が元に戻ってしまいました。というのも,2月中旬にソフトウェア保守に関する丸一日コースのセミナー講師を担当する予定で,その資料作成に3連休はほぼ潰れ,身体を動かすことがあまりできなかったのです。
このブログも3連休中にはまったく書けず,今書いている状況です。いろいろやり過ぎ感はありますが,元気な証拠だと自分を納得させています。
さて,今回からは動詞「隠(かく)る」「隠(こも)る」「隠(なま)る」を取りあげ,万葉集を見ていきましょう。
現代用語としても「隠れる」「隠す」といった言葉がしっかり残っいます。
<情報は隠されるから価値が出る>
情報化時代の昨今,個人情報,企業秘密情報,先端技術情報,そして,今年制度が動き出すマイナンバー制度(社会保障・税番号制度)の個人に紐づく番号など容易に他人に知られないように隠さなければならない情報がたくさんあります。
これから,善人悪人とってどうかはさておき,情報の価値がますます高くなっていきます。お金,貴金属,宝飾品,高級ブランド品などのように金庫などに保管することで財産が守られます。しかし,価値ある情報は「他人に知られないこと=盗まれない」ということになります。
即ち,情報を隠すことが,その価値を維持する唯一の手段ということになるのです。
一方,情報は価値を生むところで使う(または売る)ことで初めて価値を生みます。ところが,情報を使う,または売る行為は,その情報が無関係の他人に知られてしまうリスクをはらみます。
情報をうまく隠しつつ,使う,売るといったスキル,ノウハウが今後ますます重要になってきます。
秘密にすることを悪に感じる人がいます。また,知らされていないことで疎外感を感じる(仲間外れにされたと感じる)人もいます。さらに,何でも人にじゃべりたがる人がいますが,近い将来主婦同士の井戸端会議も活性化されなくなるかもしれません(それで,主婦のストレスはますます高まる?)。
天の川 「あんたの奥さん,最近機嫌悪いやんか。たびとはん? なんか奥さんにぎょ~さん隠し事してるのとちゃうか」
そうそう,バレると機嫌悪くなるようなヤバイ隠し事がいっぱい... ある訳ないでしょ!
でっ,でっ,では,はじめに万葉集で使われている「隠る」が入った熟語(枕詞も含む)を見てみます。
雨隠(あまごも)る‥雨に降りこめられる
磐隠(いはがく)る‥逝去する
浦隠(うらがく)る‥入江の中に隠れる
面隠(おもかく)す‥恥ずかしくて顔を隠す
雲隠る‥雲が隠す,雲に隠れる,逝去する
木の下(このした)隠る‥木の下に隠れる
島隠(しまかく)る‥島のかげに退避する
妻隠(つまごも)る‥屋,矢,小佐保にかかる枕詞
このように,隠す対象が何かによって「隠る」の意味が微妙に変化していることが分かるような気がします。
では,万葉集の和歌の中で最初は超有名な額田王(ぬかだのおほきみ)が詠んだとされる長歌とその反歌を見ていきましょう。
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(1-17)
<うまさけみわのやま あをによしならのやまの やまのまにいかくるまで みちのくまいつもるまでに つばらにもみつつゆかむを しばしばもみさけむやまを こころなくくもの かくさふべしや>
<<三輪の山は奈良の山々の向こうに隠れるまで,道の曲り目が幾重にも重なるまで,ずっと見ながら行きたい山,目を離すことなく見続けたい山なのに,無情にも雲が隠すなんてことがあってよいものだろうか>>
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(1-18)
<みわやまをしかもかくすか くもだにもこころあらなも かくさふべしや>
<<三輪山をそんなに隠すのか。せめて雲にも情けがあるなら,隠すなんてことがあってよいだろうか>>
飛鳥宮(あすかのみや)から北に向かうと右手に三輪山が見えてきます。その姿は,何かしら荘厳で,穏やかで,心静まるものを当時の人たちは感じたのかもしれません。それを見ながら,北へ(例えば近江の大津宮へ)旅する人たちは,それを眺めながら楽しく向かいたいのだが,残念なことに雲が隠して見えない。この長短歌は,そんな情景を詠んだのかもしれませんね。
次は柿本人麻呂が詠んだとされる短歌です。
大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます(3-235)
<おほきみはかみにしませば くもがくるいかづちやまに みやしきいます>
<<大君は神であらせられるため,雷の丘に雲に隠れるほど高く,立派な宮をお造りになっておられる>>
この短歌は,同じ番号が振られている次の短歌の異本に出ていおり,忍壁皇子に贈ったとの伝説があると題詞にあります。
大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも(3-235)
<おほきみはかみにしませば あまくものいかづちのうへに いほりせるかも>
<<大君は神にあらせられるため,雷の丘の上に天雲にとどくほど高く立派な別荘を造られたなあ>>
今明日香村に伝わっている雷の丘は非常に低い山です。そこで,この短歌について,あまりにも「よいしょ」した天皇賛美の歌で,人麻呂らしくない和歌だと評価する人もいるようです。私は,無理筋と云われるかもしれませんが,「天雲」「雲隠る」は「宮」または「庵」に係るとして訳しました。
そうすると,実際に山が低いとか高いとかはどうでも良くなり,「天皇は最高の神であり,まさに雷の神さえ従えているのです」と人麻呂はこの短歌で言いたかったのかもしれません。また,当時としてはよほど荘厳な建物が完成したのでしょうね。
今回は,隠す対象が「山」で,隠す側が「雲」を中心に見ていきました。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(2)に続く。
2015年1月4日日曜日
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(3:まとめ)」 東国からの防人徴集は家持がやめさせた?
本スペシャルの最後は,万葉集で天平勝宝7(755)年:乙未(きのとひつじ)に詠まれたとされる和歌について見ていきます。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>
2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。
今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>
3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。
天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>
最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>
2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。
今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>
3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。
天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>
最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。
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