<大伴家持という不思議な人物>
私が大学で万葉集の研究クラブに参加していた4年間,一番興味を持った歌人は大伴家持でした。学部は経済学部でしたが,私は本来理系に向いている人間と学生時代は勝手に思っていましたので,数字に対するこだわりがありました。
家持が詠んだという和歌の数が万葉集内で最も多くある。その数は2位以下を寄せ付けないほど圧倒的である。
万葉集最後の和歌が家持作となっている。数学(数列)的には,最初や最後の数字には特別な意味を持つ。
万葉集の和歌には題詞,左注が詳細に書かれている場合が少なくない。万葉集を単なる和歌集(文学)ととらえるべきではなく,万葉集を編纂した人物にスポットライトを当てるべき。
<万葉集における家持の位置>
万葉集に登場する人物,その人物の立場,出現する言葉,和歌の情景や背景,和歌が伝えたいことが非常に多様である(多様性を持つ)。多様性のイメージ(全体像)は統計学の母集団分布を推計する方法などで推測することが可能である。
そう考えたとき,万葉集における家持の存在の大きさがナンバーワンであることは数字(数学)的に有意であることが容易に想像され,私は家持を突っ込んで研究テーマとしたいと考えました。
しかし,創立2年目に入学した大学では,学生数も少なく,建学の精神を早く実現の道筋をつけていくためには,学生としてもさまざまな活動を掛け持ちしても足らない状況でした。
当然のことですが,人間としてもまったく未熟な私は,問題意識(テーマ)はいろいろ持っていても,そのテーマに対してどれ一つ本格的な行動を起こすことが大学時代はできませんでした。
<家持研究の再開>
その後IT企業に勤め,ITの仕事にのめり込んだ私は,結局5~6年前まで万葉集に関することは何一つできませんでした。
万葉集を再び見てみようと考えたとき,学生時代とはまったく状況が変わっていました。まさに,インターネットによって万葉集自体やその時代の様子を研究したものを見ることが非常にやりやすくなっているではありませんか。
これなら,ITの仕事をしながら万葉集を見ることができると判断し,その過程で感じたことを「万葉集をリバースエンジニアリングする」というブログを立ち上げ,投稿するようにしたのです。
では,本投稿の主題に入りましょう。
光仁(こうにん)天皇は,平安京遷都を断行した桓武(かんむ)天皇の前天皇で桓武天皇の父です。また,志貴皇子の子でもあります。
志貴皇子は,光仁天皇が即位したとき,春日宮御宇天皇(または田原天皇)という称号を追号されたのです。
写真は,奈良市田原地区にある志貴皇子(写真上)及び光仁天皇(写真下)のものとされる陵です。
光仁天皇は天皇になる前,万葉集に歌を残していませんが,志貴皇子は6首短歌を残しています。次はその中の1首です。
神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ(8-1466)
<かむなびのいはせのもりの ほととぎすけなしのをかに いつかきなかむ>
<<石瀬の森の霍公鳥よ,毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか>>
また,笠金村が志貴皇子が霊亀元(715)年に亡くなった際,挽歌(長歌,短歌)を作っています。次はその中の短歌1首です。
御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに(2-232)
<みかさやまのへゆくみちは こきだくもしげくあれたるか ひさにあらなくに>
<<御笠山の野辺を行く道はこんなにも雑草がいっぱい生えて荒れ果てたのだろうか,皇子が亡くなってそんなに経ってもいないのにもかかわらず>>
ところで,平安時代初期に編纂された勅撰史書である続日本記(延暦16<797>年刊)には,志貴皇子は霊亀2年に亡くなったと記されているそうです。
万葉集とは1年の差があります。この差は私とっては無視ができません。どちらが正しいのか,それともどちらも間違っているのか,非常に気になります。
私は万葉集の方が正しいような気がします(単なる直感ですが)。続日本記では,どうしても志貴皇子は霊亀元年(元正天皇即位時)に死んだとすると何か都合の悪い理由があったのではないかと感じます。
話を志貴皇子の子とされる光仁天皇に戻しましょう。宝亀元(770)年10月に62歳という非常に高齢で即位し, 天応元(781)年4月まで10年半に渡って天皇を務めたと続日本記には出ているそうです。
同記によれば,家持はこの間にそれまでにない異常なスピードで昇進をどけているのです。
天平17(745)年に従五位下となった後,宝亀元年に正五位下になるまでの25年の間,一つしか官位が上がらなかった家持ですが,宝亀2年には従四位下へ2段階昇進。
宝亀8年には従四位上,同9年には正四位下に昇進。同11年には参議に。天応元年に正四位上,同年従三位に昇進し,延暦2(783)年中納言となり,左大臣,右大臣に次ぐナンバー3の公卿となるのです。
これを見ると家持がいかに光仁天皇に気に入られていたかが想像できます。
光仁天皇の時代は天変地異(地震,噴火,干ばつ,風水害,疫病,飢饉など)が多数発生し,宮廷にとっても対応にかなり苦慮したい時期であったと考えられます。このような時,政争や権力闘争ばかりに走る野心家より,さまざまな地方で苦労をしてきて,大伴氏をしっかりまとめている家持のような経験豊かな人材が必要だったのではないでしょうか。
そして,家持は光仁天皇時代,天皇の後援を受け,家臣や役人を使い天平宝字3(759)年まで自らが収集していた和歌やその注釈を万葉集の形にまとめたと私は勝手に仮想しています。
万葉集の和歌には,天武系の皇族が力を持っている時代には,とても公表できないような和歌がいっぱいあると私は感じています。
光仁天皇と万葉集(家持)との関係について,私はこれからも興味を持って調べてみようかと考えているのです。
2013夏休みスペシャル‥「山梨市の万葉の森を訪ねる」に続く。797>
2013年8月13日火曜日
2013年8月10日土曜日
2013夏休みスペシャル‥「明日香路を眠さと暑さに耐えてひたすら歩く」
<真夏の明日香村>
7月28日朝6時47分近鉄南大阪線二上山駅から吉野駅行の電車に乗り,橿原神宮前駅まで移動しました。涼しい電車に乗るとすぐに眠気が襲ってきて,爆睡状態に。気が付いたのが,下車予定の橿原神宮前駅でドアが閉まりかける直前でした。何とかホームに飛び出し,乗り過ごしを防ぐことができました。
南大阪線吉野方面行ホームのベンチ朝の涼しい風に当たりながら,自宅から持ってきて,途中少しずつ食べながら来た冷凍枝豆の残りを平らげました。冷凍枝豆は昨年夏奈良街道を歩いた時も持参しました。昼に自宅を出るとき,完全凍った状態にして保冷剤を入れた保冷袋に入れておくと,夜中にはちょうど解凍された状態になり,保冷剤で朝までよく冷えた枝豆が食べられます。
冷凍枝豆は塩分を含んでいて,ミネラルウォータ(これも自宅を出るときは凍らせています)を飲みながら食べると熱中症の予防,空腹感の防止に効果があると私は考えています。残った枝豆をすべて平らげると,ホームで小休止し,駅の売店でパンとミネラルウォータを補充して,いよいよ酷暑の昼間に明日香に向かいます。
橿原神宮前駅を東の方向に進むと剣池(石川池)のそばに出ました。万葉時代「軽の池」と呼ばれていたとのことで「軽の池」を詠んだ紀皇女の短歌が紹介されています。
軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに(3-390)
<かるのいけのうらみゆきみる かもすらにたまものうへに ひとりねなくに>
<<写真参照>>
ここから,甘樫の丘にショートカットで行こうと,橿原市菖蒲町の住宅街に入りました。一戸建ての結構敷地の広い家が整然と並んでいて,私の感覚では高級住宅街です。ところが,余りにも整然と並んでいて,行き止まり(袋小路)ばかりで,道に迷ってしまいました。
庭の手入れをしている居住者の方に「甘樫の丘にはどう行けばよいですか?」と聞くのですが,そこに住んでいる人は甘樫の丘に歩いて行ったことはないらしく,遠回りの幹線道路を使っていく道しかご存知なようで,こちらの望む細い道は教えてもらえませんでした。
結局,午前中とはいえ,酷暑の中,遠回りの幹線道路に戻って歩くことになり,甘樫の丘の麓の飛鳥川にほとりにある「飛鳥」バス停に着くまで30分以上時間をロスしました。
そこには,明日香を訪れると必ずと言ってよいほど寄る農産物直売所「あすか夢の楽市」があり,今回も寄ることにしました。中は冷房がよく効いていてまるで砂漠の中のオアシスといった感じがしました。
そこで,冷たい紫蘇ジュースを試飲させてもらい,自宅へのお土産(古代米をブレンドしたコメ)を買い,リュックに詰めて,亀石方面に向かって歩き出します。
みかん農園に行く途中に,去年も写真を掲示した蓮の花がきれいに咲いている池があり,今年も写真を撮りました。
ただ,猛烈な暑さで,次の詠み人知らずの短歌のようにざっと雨でも降ればと思いつつ。
ひさかたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む(16-3837)
<ひさかたのあめもふらぬか はちすばにたまれるみづの たまににたるみむ>
<<雨が降らないかあ。蓮の葉の上にとどまっている水滴が宝石のように見えるから>>
10時前にみかん農園手前の急な坂道を登り,ようやく農園に到着(写真はみかん農園から見た明日香村方面)。
受付を済ませて,自分がオーナーになっているみかんの木に行って,摘果を開始しました。大きいものはそのままにして,小さい実,傷ついた実,周りに実がいっぱいあって日が当たらない実などを摘果していきます。
数十個は摘果して,今年の摘果作業は30分ほどで終わりました。その後,農園が用意してくださった,摘果した実のジュースを飲みと冷えたスイカを食べ,農園を後にしました。
農園から10分ほど下ったところに明日香村循環の赤かめバスの健康福祉センターというバス停があり,そこからバスに乗って,近鉄吉野線飛鳥駅まで向かいました。
<農園からの帰路>
ただ,バスには乗客は誰も乗っていませんでした。酷暑の夏真っ盛りに明日香村を徒歩で観光で訪れる人はほとんどいないということかもしれませんね。
飛鳥駅に着くと,次の電車まで25分ほどあり(乗る電車時刻を無視したバスダイヤ!),25分眠さを堪え,炎天下のホームで待つより,2駅先の橿原神宮前駅まで歩くことにしました。
駅の待合室から戻る私の姿をみて,開店休業のレンタサイクル店のお姉さん(私より年上という意味)が「お兄さん,自転車乗られへんか?」と声を掛けられました。「もう家に帰る時間やさかい,今日はええわ」といって,中街道(国道165号線)を北に向かいました。
なんとか,20分程度歩いて橿原神宮前駅に到着し,11時7分発京都駅行急行の最前部の車両に乗りました。近鉄京都駅はターミナル駅で,最前部が改札に最も近いことを知っているからです。
電車が走りだして,当然ですがすぐ睡魔が襲い,気が付いたときは京都駅の2駅前でした。
京都駅からは再び28日の青春18きっぷでJRのお世話になります。12時30分発のJR西日本の長浜駅行新快速に乗り,米原へ向かいます。快適な片側2列ずつのシートで,ここでもぐっすりと寝られました。
米原からはJR東海の大垣行,大垣からは豊橋行新快速,豊橋からは浜松行,浜松からは熱海行に乗り継いで,行きました。途中,ずっと一緒の電車で移動しているリュックを持った女性の団体や同じくリュックを持った男性の一人旅(私もその一人)が結構いました。青春18きっぷを使い,関西から関東に移動する最適な列車だったのかもしれませんね。
熱海からは,JR東日本の列車で,グリーン券チャージ(750円)をしてグリーン車でビールを飲みながら旅の最後,ゆったりと流れる東京の夜景を見ながら過ごしました。
自宅に戻り,7月28日の歩数計をみると,長尾街道分も含めなんと5万9千歩に達していました。少し苦しい時間帯もありましたが,地に足が付いた充実したひとり旅ができたと実感。もちろん,翌日は普通に会社に出勤し,いつもと同じように仕事をこなしたことも付け加えておきます。
2013夏休みスペシャル‥「光仁天皇と大伴家持」に続く。
7月28日朝6時47分近鉄南大阪線二上山駅から吉野駅行の電車に乗り,橿原神宮前駅まで移動しました。涼しい電車に乗るとすぐに眠気が襲ってきて,爆睡状態に。気が付いたのが,下車予定の橿原神宮前駅でドアが閉まりかける直前でした。何とかホームに飛び出し,乗り過ごしを防ぐことができました。
南大阪線吉野方面行ホームのベンチ朝の涼しい風に当たりながら,自宅から持ってきて,途中少しずつ食べながら来た冷凍枝豆の残りを平らげました。冷凍枝豆は昨年夏奈良街道を歩いた時も持参しました。昼に自宅を出るとき,完全凍った状態にして保冷剤を入れた保冷袋に入れておくと,夜中にはちょうど解凍された状態になり,保冷剤で朝までよく冷えた枝豆が食べられます。
冷凍枝豆は塩分を含んでいて,ミネラルウォータ(これも自宅を出るときは凍らせています)を飲みながら食べると熱中症の予防,空腹感の防止に効果があると私は考えています。残った枝豆をすべて平らげると,ホームで小休止し,駅の売店でパンとミネラルウォータを補充して,いよいよ酷暑の昼間に明日香に向かいます。
橿原神宮前駅を東の方向に進むと剣池(石川池)のそばに出ました。万葉時代「軽の池」と呼ばれていたとのことで「軽の池」を詠んだ紀皇女の短歌が紹介されています。
軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに(3-390)
<かるのいけのうらみゆきみる かもすらにたまものうへに ひとりねなくに>
<<写真参照>>
ここから,甘樫の丘にショートカットで行こうと,橿原市菖蒲町の住宅街に入りました。一戸建ての結構敷地の広い家が整然と並んでいて,私の感覚では高級住宅街です。ところが,余りにも整然と並んでいて,行き止まり(袋小路)ばかりで,道に迷ってしまいました。
庭の手入れをしている居住者の方に「甘樫の丘にはどう行けばよいですか?」と聞くのですが,そこに住んでいる人は甘樫の丘に歩いて行ったことはないらしく,遠回りの幹線道路を使っていく道しかご存知なようで,こちらの望む細い道は教えてもらえませんでした。
結局,午前中とはいえ,酷暑の中,遠回りの幹線道路に戻って歩くことになり,甘樫の丘の麓の飛鳥川にほとりにある「飛鳥」バス停に着くまで30分以上時間をロスしました。
そこには,明日香を訪れると必ずと言ってよいほど寄る農産物直売所「あすか夢の楽市」があり,今回も寄ることにしました。中は冷房がよく効いていてまるで砂漠の中のオアシスといった感じがしました。
そこで,冷たい紫蘇ジュースを試飲させてもらい,自宅へのお土産(古代米をブレンドしたコメ)を買い,リュックに詰めて,亀石方面に向かって歩き出します。
みかん農園に行く途中に,去年も写真を掲示した蓮の花がきれいに咲いている池があり,今年も写真を撮りました。
ただ,猛烈な暑さで,次の詠み人知らずの短歌のようにざっと雨でも降ればと思いつつ。
ひさかたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む(16-3837)
<ひさかたのあめもふらぬか はちすばにたまれるみづの たまににたるみむ>
<<雨が降らないかあ。蓮の葉の上にとどまっている水滴が宝石のように見えるから>>
10時前にみかん農園手前の急な坂道を登り,ようやく農園に到着(写真はみかん農園から見た明日香村方面)。
受付を済ませて,自分がオーナーになっているみかんの木に行って,摘果を開始しました。大きいものはそのままにして,小さい実,傷ついた実,周りに実がいっぱいあって日が当たらない実などを摘果していきます。
数十個は摘果して,今年の摘果作業は30分ほどで終わりました。その後,農園が用意してくださった,摘果した実のジュースを飲みと冷えたスイカを食べ,農園を後にしました。
農園から10分ほど下ったところに明日香村循環の赤かめバスの健康福祉センターというバス停があり,そこからバスに乗って,近鉄吉野線飛鳥駅まで向かいました。
<農園からの帰路>
ただ,バスには乗客は誰も乗っていませんでした。酷暑の夏真っ盛りに明日香村を徒歩で観光で訪れる人はほとんどいないということかもしれませんね。
飛鳥駅に着くと,次の電車まで25分ほどあり(乗る電車時刻を無視したバスダイヤ!),25分眠さを堪え,炎天下のホームで待つより,2駅先の橿原神宮前駅まで歩くことにしました。
駅の待合室から戻る私の姿をみて,開店休業のレンタサイクル店のお姉さん(私より年上という意味)が「お兄さん,自転車乗られへんか?」と声を掛けられました。「もう家に帰る時間やさかい,今日はええわ」といって,中街道(国道165号線)を北に向かいました。
なんとか,20分程度歩いて橿原神宮前駅に到着し,11時7分発京都駅行急行の最前部の車両に乗りました。近鉄京都駅はターミナル駅で,最前部が改札に最も近いことを知っているからです。
電車が走りだして,当然ですがすぐ睡魔が襲い,気が付いたときは京都駅の2駅前でした。
京都駅からは再び28日の青春18きっぷでJRのお世話になります。12時30分発のJR西日本の長浜駅行新快速に乗り,米原へ向かいます。快適な片側2列ずつのシートで,ここでもぐっすりと寝られました。
米原からはJR東海の大垣行,大垣からは豊橋行新快速,豊橋からは浜松行,浜松からは熱海行に乗り継いで,行きました。途中,ずっと一緒の電車で移動しているリュックを持った女性の団体や同じくリュックを持った男性の一人旅(私もその一人)が結構いました。青春18きっぷを使い,関西から関東に移動する最適な列車だったのかもしれませんね。
熱海からは,JR東日本の列車で,グリーン券チャージ(750円)をしてグリーン車でビールを飲みながら旅の最後,ゆったりと流れる東京の夜景を見ながら過ごしました。
自宅に戻り,7月28日の歩数計をみると,長尾街道分も含めなんと5万9千歩に達していました。少し苦しい時間帯もありましたが,地に足が付いた充実したひとり旅ができたと実感。もちろん,翌日は普通に会社に出勤し,いつもと同じように仕事をこなしたことも付け加えておきます。
2013夏休みスペシャル‥「光仁天皇と大伴家持」に続く。
2013年8月3日土曜日
2013夏休みスペシャル‥長尾街道を歩く
今年も奈良県明日香村のみかん農園で私が年間オーナであるみかんの木(一本)を摘果する季節になり,昨年と同様に埼玉の自宅最寄り駅からJR青春18きっぷを使い,移動することにしました。
昨年は摘果の前日の夜,JR東海道線大津駅(滋賀県)から奈良街道をJR奈良線宇治駅(京都府)まで歩きました。始発を待ち,桜井線香具山駅(奈良県)までJRで移動,同駅からは藤原京跡経由で農園までまた徒歩で移動しました。
<今年のコース>
今回は27日午後JR快速や普通列車を乗り継ぎ,途中浜松駅では夕食の浜松餃子定食を食べました。
その後も普通電車を乗り継ぎ,24時過ぎにようやく大阪市住吉区のJR阪和線我孫子町(あびこちょう)駅に着きました。
同駅より紀州街道,長尾街道(堺大和路線)などを徒歩で移動,28日朝6時47分奈良県の近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線二上山(にじょうさん)駅まで至りました。そこから電車で橿原神宮前駅に向かい,また徒歩でなじみになった農園に移動したのです。
投稿は2回に分けます。今回は我孫子町駅から二上山駅まで歩いた内容をお知らせします。
我孫子町駅から南海電鉄高野線我孫子前駅を通り過ぎました。
さらに阪堺電気軌道阪堺線我孫子道駅を通り過ぎます。
この先,紀州街道との交差点までの西に行く間,途中に住宅街はありますが,けっこう商店街が続きます。平日の夕暮れ時はさぞや活気ある商店街ではないかと想像しながら,夜中静かな商店街を歩くのもおつなものでした。ここで,交差する紀州街道を左に折れ,南行しますが,北行側にはまた商店街がありました。商店街がなんと多い地区だなと感じました。
南行側は昼間でも静かな雰囲気を感じさせてくれる昔風の街道沿いをイメージできる雰囲気でした。
万葉時代の頃には,この紀州街道より西側はすぐ海で,松林などがあったのだろうと私は想像します。次の万葉集の短歌も紀州街道あたりから詠まれたのかもしれませんね。
住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ (7-1159)
<すみのえのきしのまつがねうちさらし よせくるなみのおとのさやけさ>
<<ここ住之江では寄せ来る波が岸の松の根を洗い出し寄せ来る波音のなんと清々しいことよ >>
さらに南行すると,大和川(上流は奈良県)に掛かる大和橋に差し掛かりました。
今は大和川の上流・下流にたくさんの橋ができていますが,昔はこの近辺にはここしか橋がなく,この橋の両側は大変な賑わいだったのだろうと私は想像します。
この橋を渡ると大阪市住之江区から堺市堺区に変わります。さらに紀州街道を南下すると,街道沿いの面影が残る場所が続きます。
やがて阪堺線が道路の中央を走る大通りと合流します。この大通りを阪堺線駅を3つ分ほど歩くと花田口駅にたどり着きます。
ここが奈良方面(東方)に向かう長尾街道の起点だそうです。紀州街道を歩くのはここまで。左折し,今回の主目的である長尾街道を歩き出します。時間は午前1時半を超えていました。
長尾街道の最初は道幅の広い幹線道路(堺大和路線:県道12号)として整備されていました。
歩道を進んでいくと南海高野線堺東駅のそばを渡り,さらに行くと前方に高層マンションが見えてきました。JR阪和線堺市駅周辺にあるマンション群だと近づくに従い分かりました。
堺市駅の手前から県道12号と長尾街道が別の道になります。私はもちろん静かな長尾街道を行きます。長尾街道を歩くと立派な倉を持つ大きな家にいくつも出会います。
この街道が昔いかににぎやかな街道で,行きかう物資や人で多くの富を得た人たちが多かったのだろうと私は感じました。
ところが,しばらく街道を東行するとまた高層マンションが見えてきました。堺市中心部から離れていくのに変だな思いつつ。このマンションの近くに地下鉄御堂筋線北花田駅があるからのようです。大阪市の中心部まで30分も掛からず行けますから,居住地として人気が高そうなのはうなづけます。
そこから,さらに行くとようやく松原市に入りました。4時近くになっていました。歩いてみると堺市の広さが身で持ってわかりました。
松原市に入ると商店街がまた見えてきました。近鉄南大阪線布忍(ぬのせ)駅の前を通ります。
時間は4時半を過ぎていました。かなり疲れ始めていましたので,このままこの駅で始発を待てばすぐ橿原神宮前まで行けるなあ~という誘惑を振り払い先に進みます。
松原市街地を抜けると羽曳野(はびきの)市に入り,しばらく行くと雄略陵古墳の池の周りを通ります。
万葉集の冒頭の長歌を詠んだとされる雄略天皇の墓とされる古墳がここにあるのはこの地が「そらみつやまとのくに」との近さを感じさせます。
そこからすぐ藤井寺市に入ります。藤井寺市は,私にとって以前プロ野球球団として存在してた近鉄バッファローズのホーム球場があった場所くらいしか印象に残っていません。ただし,こんな立派な家が街道沿いに続きます。
藤井寺市内で長尾街道はまた県道12号と合流します。このあたりになると朝が白み始め,徹夜で歩いたのとだんだん上り勾配がきつくなってきたため疲れがさらに溜まってきました。
そこへ近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅が見えてきて「ここで電車に乗れば楽になるやんか」という今回一緒には連れてこなかった天の川君が誘惑したら負けそうに状況をじっと我慢して進みました。
近鉄道明寺駅付近の石川(いかわ)橋を越えて,更に進むと柏原市の近鉄大阪線河内国分(かわちこくぶ)駅まできました。
ここでも「大和八木駅で乗り換えれば,...」という誘惑を振り払い,広い国道165号を南行します。
道の昇り勾配はますますきつくなり,なかなか体が前に進みません。
藤井寺市を過ぎ柏原(かしわら)市に入り近鉄大阪線大阪教育大前駅までくると山間部で歩道がほとんどありません。
しかし,車はピュンピュン飛ばして私のすぐそばを走りすぎます。この車の中に,もしかしたら昨夜(土曜の夜)からずつと飲酒して帰る運転手がいるかもしれないと思うと結構強い恐怖心が湧いてきました。呼気にアルコールを検出するとエンジンがかからない自動車を発明してほしいと正直思いつつひたすら車に気を付けながら歩きました。
ほどなくすると奈良県香芝(かしば)市との県境に差し掛かり,ここで後は下りだけと思っていたら,また田尻峠を越えがまっています。
そして峠を下ったと思ったら穴虫という所から目的地の二上山駅までの最後のだらだらとした昇りは本当につらく長く感じました。
ようやく二上山駅に着いたのは朝7時近くになっていました。
ホームのベンチに倒れこみ,次の大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が謀反の疑いで処刑されたのを受け二上山(ふたかみやま)を詠んだ有名な挽歌を思い出す余裕は私にはありませんでした。
うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
<うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ>
<<この世の私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>
次回は橿原神宮前から帰宅までをお伝えします。
2013夏休みスペシャル‥「明日香を眠さと暑さに耐えてひたすら歩く」に続く。
昨年は摘果の前日の夜,JR東海道線大津駅(滋賀県)から奈良街道をJR奈良線宇治駅(京都府)まで歩きました。始発を待ち,桜井線香具山駅(奈良県)までJRで移動,同駅からは藤原京跡経由で農園までまた徒歩で移動しました。
<今年のコース>
今回は27日午後JR快速や普通列車を乗り継ぎ,途中浜松駅では夕食の浜松餃子定食を食べました。
その後も普通電車を乗り継ぎ,24時過ぎにようやく大阪市住吉区のJR阪和線我孫子町(あびこちょう)駅に着きました。
同駅より紀州街道,長尾街道(堺大和路線)などを徒歩で移動,28日朝6時47分奈良県の近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線二上山(にじょうさん)駅まで至りました。そこから電車で橿原神宮前駅に向かい,また徒歩でなじみになった農園に移動したのです。
投稿は2回に分けます。今回は我孫子町駅から二上山駅まで歩いた内容をお知らせします。
我孫子町駅から南海電鉄高野線我孫子前駅を通り過ぎました。
さらに阪堺電気軌道阪堺線我孫子道駅を通り過ぎます。
この先,紀州街道との交差点までの西に行く間,途中に住宅街はありますが,けっこう商店街が続きます。平日の夕暮れ時はさぞや活気ある商店街ではないかと想像しながら,夜中静かな商店街を歩くのもおつなものでした。ここで,交差する紀州街道を左に折れ,南行しますが,北行側にはまた商店街がありました。商店街がなんと多い地区だなと感じました。
南行側は昼間でも静かな雰囲気を感じさせてくれる昔風の街道沿いをイメージできる雰囲気でした。
万葉時代の頃には,この紀州街道より西側はすぐ海で,松林などがあったのだろうと私は想像します。次の万葉集の短歌も紀州街道あたりから詠まれたのかもしれませんね。
住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ (7-1159)
<すみのえのきしのまつがねうちさらし よせくるなみのおとのさやけさ>
<<ここ住之江では寄せ来る波が岸の松の根を洗い出し寄せ来る波音のなんと清々しいことよ >>
さらに南行すると,大和川(上流は奈良県)に掛かる大和橋に差し掛かりました。
今は大和川の上流・下流にたくさんの橋ができていますが,昔はこの近辺にはここしか橋がなく,この橋の両側は大変な賑わいだったのだろうと私は想像します。
この橋を渡ると大阪市住之江区から堺市堺区に変わります。さらに紀州街道を南下すると,街道沿いの面影が残る場所が続きます。
やがて阪堺線が道路の中央を走る大通りと合流します。この大通りを阪堺線駅を3つ分ほど歩くと花田口駅にたどり着きます。
ここが奈良方面(東方)に向かう長尾街道の起点だそうです。紀州街道を歩くのはここまで。左折し,今回の主目的である長尾街道を歩き出します。時間は午前1時半を超えていました。
長尾街道の最初は道幅の広い幹線道路(堺大和路線:県道12号)として整備されていました。
歩道を進んでいくと南海高野線堺東駅のそばを渡り,さらに行くと前方に高層マンションが見えてきました。JR阪和線堺市駅周辺にあるマンション群だと近づくに従い分かりました。
堺市駅の手前から県道12号と長尾街道が別の道になります。私はもちろん静かな長尾街道を行きます。長尾街道を歩くと立派な倉を持つ大きな家にいくつも出会います。
この街道が昔いかににぎやかな街道で,行きかう物資や人で多くの富を得た人たちが多かったのだろうと私は感じました。
ところが,しばらく街道を東行するとまた高層マンションが見えてきました。堺市中心部から離れていくのに変だな思いつつ。このマンションの近くに地下鉄御堂筋線北花田駅があるからのようです。大阪市の中心部まで30分も掛からず行けますから,居住地として人気が高そうなのはうなづけます。
そこから,さらに行くとようやく松原市に入りました。4時近くになっていました。歩いてみると堺市の広さが身で持ってわかりました。
松原市に入ると商店街がまた見えてきました。近鉄南大阪線布忍(ぬのせ)駅の前を通ります。
時間は4時半を過ぎていました。かなり疲れ始めていましたので,このままこの駅で始発を待てばすぐ橿原神宮前まで行けるなあ~という誘惑を振り払い先に進みます。
松原市街地を抜けると羽曳野(はびきの)市に入り,しばらく行くと雄略陵古墳の池の周りを通ります。
万葉集の冒頭の長歌を詠んだとされる雄略天皇の墓とされる古墳がここにあるのはこの地が「そらみつやまとのくに」との近さを感じさせます。
そこからすぐ藤井寺市に入ります。藤井寺市は,私にとって以前プロ野球球団として存在してた近鉄バッファローズのホーム球場があった場所くらいしか印象に残っていません。ただし,こんな立派な家が街道沿いに続きます。
藤井寺市内で長尾街道はまた県道12号と合流します。このあたりになると朝が白み始め,徹夜で歩いたのとだんだん上り勾配がきつくなってきたため疲れがさらに溜まってきました。
そこへ近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅が見えてきて「ここで電車に乗れば楽になるやんか」という今回一緒には連れてこなかった天の川君が誘惑したら負けそうに状況をじっと我慢して進みました。
近鉄道明寺駅付近の石川(いかわ)橋を越えて,更に進むと柏原市の近鉄大阪線河内国分(かわちこくぶ)駅まできました。
ここでも「大和八木駅で乗り換えれば,...」という誘惑を振り払い,広い国道165号を南行します。
道の昇り勾配はますますきつくなり,なかなか体が前に進みません。
藤井寺市を過ぎ柏原(かしわら)市に入り近鉄大阪線大阪教育大前駅までくると山間部で歩道がほとんどありません。
しかし,車はピュンピュン飛ばして私のすぐそばを走りすぎます。この車の中に,もしかしたら昨夜(土曜の夜)からずつと飲酒して帰る運転手がいるかもしれないと思うと結構強い恐怖心が湧いてきました。呼気にアルコールを検出するとエンジンがかからない自動車を発明してほしいと正直思いつつひたすら車に気を付けながら歩きました。
ほどなくすると奈良県香芝(かしば)市との県境に差し掛かり,ここで後は下りだけと思っていたら,また田尻峠を越えがまっています。
そして峠を下ったと思ったら穴虫という所から目的地の二上山駅までの最後のだらだらとした昇りは本当につらく長く感じました。
ようやく二上山駅に着いたのは朝7時近くになっていました。
ホームのベンチに倒れこみ,次の大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が謀反の疑いで処刑されたのを受け二上山(ふたかみやま)を詠んだ有名な挽歌を思い出す余裕は私にはありませんでした。
うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
<うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ>
<<この世の私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>
次回は橿原神宮前から帰宅までをお伝えします。
2013夏休みスペシャル‥「明日香を眠さと暑さに耐えてひたすら歩く」に続く。
2013年7月27日土曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「まく欲し」
今回は現代の日常会話ではほとんどまず使わないだろう「まく欲し」について,万葉集を見ていきます。「まく欲し」は「強く~したい」という願望の形容詞です。万葉集では「見まく欲し」(見たい)という使い方が何首か出てきます。
次は山部赤人が旅の途中に詠んだとされる長歌です。
御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ 間使も 遣らずて我れは 生けりともなし(6/946)
<みけむかふあはぢのしまに ただむかふみぬめのうらの おきへにはふかみるとり うらみにはなのりそかる ふかみるのみまくほしけど なのりそのおのがなをしみ まつかひもやらずてわれは いけりともなし>
<<淡路の島に直ぐ向う敏馬の浦の沖あたりでは,深い海底にある海松(みる)を採り,浦辺ではなのりそを刈る。海松のように君の顔を見たいと思うけれど,そんなことをするとつ(なのりそ)のように自分の名の評判が下がるのではないかと思い,使いも遣ることができず,私は生きた気がしない>>
赤人は瀬戸内海の淡路島の直面する駿馬の浦では,海藻の採取が盛んであることを知ります。
その海藻には海松とかなのりそという名付けられたものがあることを知り,妻への想いが蘇り,これを詠んだのだろうと私は考えます。この長歌の吟詠を聞いた京人は,そんな面白い名前の海藻を見てみたい,現地に行ってみたい,採れたての海藻を食べてみたいと思ったに違いないと私は思います。
次の「まく欲し」の形容として出てくるのが,「懸けまく欲し」というものてす。これは,「言葉に出して言いたい」といった意味です。
栲領巾の懸けまく欲しき妹が名をこの背の山に懸けばいかにあらむ(3-285)
<たくひれ かけまくほしき いもがなをこのせのやまに かけばいかにあらむ >
<<声をかけたい妻の名をこの背の山になぞらえてみたらどうだろう>>
この短歌は丹比笠麻呂(たぢひのかさまろ)という羈旅の歌を5首ほど万葉集に残す官吏が紀伊の国(和歌山)を旅したときに詠んだものです。背は夫という意味があるようです。背の山を自分に懸けて,妻の名を懸ける(声を出して呼ぶ)ことを欲する気持ち(まく欲し)を詠んだと私は解釈します。
最後は「守らまく欲し」という用例の短歌(詠み人知らず)を紹介します。
うつたへに鳥は食まねど縄延へて守らまく欲しき梅の花かも(10-1585)
<うつたへにとりははまねど なははへてもらまくほしき うめのはなかも>
<<全部鳥が食べてしまうようなことはないと思いますが,しめ縄を一面に張ってしっかり守りたいほど見事な梅の花です>>
ここまで万葉集に出てくる「まく欲し」を見てきましたが,読者の皆さんが「見まく欲し」といつも感じて頂けるような内容のブログに,これからもして「行かまく欲し」と考えています。
さて,次回から「心が動いた詞(ことば)シリーズ」はお休みにして少し早いですが,夏休みスペシャルに入ります。
夏休みスペシャル「長尾街道を歩く」に続く。
次は山部赤人が旅の途中に詠んだとされる長歌です。
御食向ふ 淡路の島に 直向ふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松採り 浦廻には なのりそ刈る 深海松の 見まく欲しけど なのりその おのが名惜しみ 間使も 遣らずて我れは 生けりともなし(6/946)
<みけむかふあはぢのしまに ただむかふみぬめのうらの おきへにはふかみるとり うらみにはなのりそかる ふかみるのみまくほしけど なのりそのおのがなをしみ まつかひもやらずてわれは いけりともなし>
<<淡路の島に直ぐ向う敏馬の浦の沖あたりでは,深い海底にある海松(みる)を採り,浦辺ではなのりそを刈る。海松のように君の顔を見たいと思うけれど,そんなことをするとつ(なのりそ)のように自分の名の評判が下がるのではないかと思い,使いも遣ることができず,私は生きた気がしない>>
赤人は瀬戸内海の淡路島の直面する駿馬の浦では,海藻の採取が盛んであることを知ります。
その海藻には海松とかなのりそという名付けられたものがあることを知り,妻への想いが蘇り,これを詠んだのだろうと私は考えます。この長歌の吟詠を聞いた京人は,そんな面白い名前の海藻を見てみたい,現地に行ってみたい,採れたての海藻を食べてみたいと思ったに違いないと私は思います。
次の「まく欲し」の形容として出てくるのが,「懸けまく欲し」というものてす。これは,「言葉に出して言いたい」といった意味です。
栲領巾の懸けまく欲しき妹が名をこの背の山に懸けばいかにあらむ(3-285)
<たくひれ かけまくほしき いもがなをこのせのやまに かけばいかにあらむ >
<<声をかけたい妻の名をこの背の山になぞらえてみたらどうだろう>>
この短歌は丹比笠麻呂(たぢひのかさまろ)という羈旅の歌を5首ほど万葉集に残す官吏が紀伊の国(和歌山)を旅したときに詠んだものです。背は夫という意味があるようです。背の山を自分に懸けて,妻の名を懸ける(声を出して呼ぶ)ことを欲する気持ち(まく欲し)を詠んだと私は解釈します。
最後は「守らまく欲し」という用例の短歌(詠み人知らず)を紹介します。
うつたへに鳥は食まねど縄延へて守らまく欲しき梅の花かも(10-1585)
<うつたへにとりははまねど なははへてもらまくほしき うめのはなかも>
<<全部鳥が食べてしまうようなことはないと思いますが,しめ縄を一面に張ってしっかり守りたいほど見事な梅の花です>>
ここまで万葉集に出てくる「まく欲し」を見てきましたが,読者の皆さんが「見まく欲し」といつも感じて頂けるような内容のブログに,これからもして「行かまく欲し」と考えています。
さて,次回から「心が動いた詞(ことば)シリーズ」はお休みにして少し早いですが,夏休みスペシャルに入ります。
夏休みスペシャル「長尾街道を歩く」に続く。
2013年7月20日土曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「なつかし」
私のように年齢を重ねると最近次のような経験で「懐かしい」と感じることが多くあります。
・ BSで放送された「二十四の瞳」を久しぶりに観た。
・ 10何年以上前,勤務先近くで頻繁に通っていたが事業所が変わりその後行かなくなった飲み屋に久しぶりに行ってみた。
・ 名神高速道路(一部)が最初に開通して50年という記事を読み,58年10月京都市山科区(当時京都市東山区山科)蚊ヶ瀬で行われた起工式に,会場のすぐそばまでちっちゃな自転車に乗って見物に行ったことを思い出した。
さて,本題の万葉集ですが,「なつかし」を詠んだ和歌が18首ほどでてきます。その中で「なつかし」の対象となるものは,次のようにいろいろあります。
秋の山辺,秋山の色,梅の花,君,木の葉,妻,妻の子,鳥の鳴き声,鳥の初声,野原, 藤波の花,山,我妹。
万葉集で出てくる「なつかし」の意味は,現代のようにかなり遠い過去の「思い出」と強く結びつく言葉だけではなかったようです。例を見てみましょう。
さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし(19-4181)
<さよふけてあかときつきに かげみえてなくほととぎす きけばなつかし>
<<夜が更けて夜明け前の月に姿を見せて鳴くほととぎすの鳴き声を聞くと心がを癒される>>
この短歌は大伴家持が越中で詠んだ1首です。家持は前の晩からストレスか悩みで眠れなかったのでしょうか。でも,夜明け前に「キキョ,キキョ」とホトトギスの鳴き声で心静かになったようです。ここの「なつかし」は「心が和む」「心が癒される」といった意味になりそうです。
次の1首は柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの短歌です。
見れど飽かぬ人国山の木の葉をし我が心からなつかしみ思ふ(7-1305)
<みれどあかぬひとくにやまの このはをしわがこころから なつかしみおもふ>
<<ずっと見ていたい人国山(故郷)の木の葉(人たち)のことを心から慕わしく思っています>>
ここでの「なつかし」は「人を慕う」という意味かと思います。次は,大伴家持が越中赴任後1年ほどした天平19年,平城京に一時的に帰って状況を報告するため,越中を出発する前,盟友の大伴池主が家持に贈った長歌の反歌です。
玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ(17-4009)
<たまほこのみちのかみたち まひはせむあがおもふきみを なつかしみせよ>
<<道の神たちよ,賽物(さいもつ)を捧げましょう。私が慕っている家持殿を親しみをもって迎えてください>>
この「なつかし」も,その前の2首とはニュアンスが少し異なっいると私は感じます。最後は,大宰府で大伴旅人がホストとなり,大勢のゲストを集めた梅見の宴(天平2年春開催)でゲストのひとりの小野氏淡理(をののうぢのたもり,小野田守)が詠んだ短歌です。
霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(5-846)
<かすみたつながきはるひを かざせれどいやなつかしき うめのはなかも>
<<霞立つ長い春の日をかざしていても,(飽きることなく)ますます心がひかれる梅の花ですね>>
梅が咲くころ,日照時間が冬至の頃と比べて長くなってきます。そんな柔らかい春の日がずっと当たっていても,梅の花はどうしてこんなに魅力的なのかという気持ちを詠いあげています。このとき「なつかし」という形容詞がこの短歌における表現のキーワードになっていると私は感じます。
この年,旅人は6年間務めた大宰府長官の任を解かれ,「懐かしい」平城京に戻るのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「まく欲し」に続く。
・ BSで放送された「二十四の瞳」を久しぶりに観た。
・ 10何年以上前,勤務先近くで頻繁に通っていたが事業所が変わりその後行かなくなった飲み屋に久しぶりに行ってみた。
・ 名神高速道路(一部)が最初に開通して50年という記事を読み,58年10月京都市山科区(当時京都市東山区山科)蚊ヶ瀬で行われた起工式に,会場のすぐそばまでちっちゃな自転車に乗って見物に行ったことを思い出した。
さて,本題の万葉集ですが,「なつかし」を詠んだ和歌が18首ほどでてきます。その中で「なつかし」の対象となるものは,次のようにいろいろあります。
秋の山辺,秋山の色,梅の花,君,木の葉,妻,妻の子,鳥の鳴き声,鳥の初声,野原, 藤波の花,山,我妹。
万葉集で出てくる「なつかし」の意味は,現代のようにかなり遠い過去の「思い出」と強く結びつく言葉だけではなかったようです。例を見てみましょう。
さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし(19-4181)
<さよふけてあかときつきに かげみえてなくほととぎす きけばなつかし>
<<夜が更けて夜明け前の月に姿を見せて鳴くほととぎすの鳴き声を聞くと心がを癒される>>
この短歌は大伴家持が越中で詠んだ1首です。家持は前の晩からストレスか悩みで眠れなかったのでしょうか。でも,夜明け前に「キキョ,キキョ」とホトトギスの鳴き声で心静かになったようです。ここの「なつかし」は「心が和む」「心が癒される」といった意味になりそうです。
次の1首は柿本人麻呂歌集から万葉集に転載したという詠み人知らずの短歌です。
見れど飽かぬ人国山の木の葉をし我が心からなつかしみ思ふ(7-1305)
<みれどあかぬひとくにやまの このはをしわがこころから なつかしみおもふ>
<<ずっと見ていたい人国山(故郷)の木の葉(人たち)のことを心から慕わしく思っています>>
ここでの「なつかし」は「人を慕う」という意味かと思います。次は,大伴家持が越中赴任後1年ほどした天平19年,平城京に一時的に帰って状況を報告するため,越中を出発する前,盟友の大伴池主が家持に贈った長歌の反歌です。
玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ(17-4009)
<たまほこのみちのかみたち まひはせむあがおもふきみを なつかしみせよ>
<<道の神たちよ,賽物(さいもつ)を捧げましょう。私が慕っている家持殿を親しみをもって迎えてください>>
この「なつかし」も,その前の2首とはニュアンスが少し異なっいると私は感じます。最後は,大宰府で大伴旅人がホストとなり,大勢のゲストを集めた梅見の宴(天平2年春開催)でゲストのひとりの小野氏淡理(をののうぢのたもり,小野田守)が詠んだ短歌です。
霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(5-846)
<かすみたつながきはるひを かざせれどいやなつかしき うめのはなかも>
<<霞立つ長い春の日をかざしていても,(飽きることなく)ますます心がひかれる梅の花ですね>>
梅が咲くころ,日照時間が冬至の頃と比べて長くなってきます。そんな柔らかい春の日がずっと当たっていても,梅の花はどうしてこんなに魅力的なのかという気持ちを詠いあげています。このとき「なつかし」という形容詞がこの短歌における表現のキーワードになっていると私は感じます。
この年,旅人は6年間務めた大宰府長官の任を解かれ,「懐かしい」平城京に戻るのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「まく欲し」に続く。
2013年7月14日日曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ゆゆし」
<郡上八幡への訪問>
この前の月曜日から水曜日まで,コンピュータソフトウェアに関する学会のシンポジウムに参加するため,岐阜市に行ってきました。岐阜市は35度以上の猛暑が続いていましたが,会場や宿泊先のホテルで冷房が効いていて快適に過ごせました。
そのシンポジウムは毎年場所を代えて開催されているのですが,私は本当に久しぶりの参加でした。学会の幹事の方や大学の先生方と久しぶり再会できた人も多く,懇親会では初めて名刺を交換した人だけでなく,そういった方々とも楽しくソフトウェア工学の研究動向についてお話ができました。
また,岐阜市に行ったついでに親しい参加者数人と車で郡上八幡を訪れました。
郡上おどりはまだ始まっていませんでしたが,天気に恵まれ,静かな郡上八幡の城下町,清流だけど水量豊かな吉田川,八幡城から眺めた街並みや青々とした山並みは本当に素晴らしいと感じました。
郡上八幡は,食品サンプル(レストランの入り口横に飾ってある料理のイミテーション)の創始者とも称される岩崎瀧三の出身地で,食品サンプルを作る産業が盛んだそうです。郡上八幡で作られた食品サンプルの全国シェアは60%もあるらしく,時間の関係でちら見しかできませんでしたが,街には食品サンプルを売る店やサンプル作成の体験ができる工房もありす。
昼食で食べた郡上八幡城下町エリアのお店の「うな重」は最高でした。ここのウナギはミネラル分豊かな郡上八幡の湧水で何日も過ごしてからさばかれているのかもしれませんね。
天の川 「たびとはん。わいに黙って,自分だけウナギを食べたんか! えろ~,ゆゆしいこっちゃ!」
天の川君,ちょうど今回のテーマの「ゆゆし」を使ってくれてありがとう。素晴らしい連携プレイだね。
天の川 「褒めてごまかしてもアカンで。わいにもウナギ,ウナギや,ちゅうねん!」
<本題>
無視して本題に移りましょう。「ゆゆし」は,天の川君が「うとましい」「いやだ」という意味で言ったように,現在でも「ゆゆしい」として使われています。
しかし,広辞苑には「神聖また不浄なものを触れてはならないものとして強く畏怖する気持ちを表すのが原義」とあります。
万葉集では,当然ですがその原義に近い意味で使われている和歌がでてきます。
かけまくもあやに畏し 言はまくもゆゆしきかも 我が大君皇子の命 万代に見したまはまし 大日本久邇の都は うち靡く春さりぬれば 山辺には花咲きををり 川瀬には鮎子さ走り いや日異に栄ゆる時に およづれのたはこととかも 白栲に舎人よそひて 和束山御輿立たして ひさかたの天知らしぬれ 臥いまろびひづち泣けども 為むすべもなし(3-475)
<かけまくもあやにかしこし いはまくもゆゆしきかも わがおほきみみこのみこと よろづよにめしたまはまし おほやまとくにのみやこは うちなびくはるさりぬれば やまへにははなさきををり かはせにはあゆこさばしり いやひけにさかゆるときに およづれのたはこととかも しろたへにとねりよそひて わづかやまみこしたたして ひさかたのあめしらしぬれ こいまろびひづちなけども せむすべもなし>
<<言葉をかけるのもたいへん畏れ多く、言ってみるのもはばかれることだが,私が仕へる天子(聖武天皇)の皇子(安積親王)が永遠にお治めなさるべき恭仁の都は,春が來ると山の辺には枝もたわわに花が咲き,川の瀬にはアユの子が走るように泳いでいる。日に日に段々と隆盛していく中、悪い噂の呪いの言葉とも思はれるような評判が聞こえてきた。それは御身に使える舍人達が白い栲の着物に着替えて、和束山をば輿に乗って出発され,天を治めにお登りなされた(お亡くなりになった)ので、舍人達は倒れころげて,絶え間ない涙に濡れて泣いている。何とも仕方がないことだ>>
この長歌は,大伴家持が恭仁(くに)京の造営に携わっていた天平16年,聖武(しやうむ)天皇の第二皇子である安積親王(あさかしんわう)が若くして亡くなったことを悼んで詠んだものです。
ここに出てくる「ゆゆしきかも」は「神聖であるからお名前も言ってはいけないほど」といった意味でしょうか。
さて,次は少し違う意味の「ゆゆし」を詠んだ詠み人知らずの女性の短歌です。
朝去にて夕は来ます君ゆゑにゆゆしくも我は嘆きつるかも(12-2893)
<あしたいにてゆふへはきます きみゆゑにゆゆしくもわは なげきつるかも>
<<朝にお帰りになって,夕方またお見えになるあなた様だから,いらっしゃらない昼は,うとましいほど私は嘆いてしまうことでしょう>>
「あなたとずっといたいのよ」というこの短歌を見た男性は,早めに女性宅に来るようになったでしょうか。
さて,次は高級官僚である中臣東人(なかとみのあづまひと)が阿倍女郎(あべのいらつめ)に贈った相聞歌です。
ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみと為むすべ知らに音のみしぞ泣く(4-515)
<ひとりねてたえにしひもを ゆゆしみとせむすべしらに ねのみしぞなく>
<<ひとりで寢ていたら,あなたが結んでくれた紐が切れた。それは不吉な兆しというけれど,どうすけばよいのか分からず泣くばかりなのです>>
これに対して,阿倍女郎は次のように返歌しています。
我が持てる三相に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき(4-516)
<わがもてるみつあひによれる いともちてつけてましもの いまぞくやしき>
<<私が持っている三本に縒った丈夫な糸で紐を縫いつけてあげればよかった。今では悔いています>>
さて,東人が「ゆゆし」といった不吉な前兆を女郎はどう解釈したのでしょうか。
東人さんは,もう二人は別れなければならないので泣いているのか? それとも,何としても別れたくないので泣いているのか? 女郎にとってはそこを見極めなければならいでしょう。
そこで,女郎は返歌では悔いていることを別れとは無関係の紐をつなぐ糸に絞って詠い,相手の反応を見ようとしたのではないかと私は思います。
これに対する東人の返歌は万葉集に残っていないようです。二人はこの相聞をもって別れてしまったのでしょうか。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「なつかし」に続く。
この前の月曜日から水曜日まで,コンピュータソフトウェアに関する学会のシンポジウムに参加するため,岐阜市に行ってきました。岐阜市は35度以上の猛暑が続いていましたが,会場や宿泊先のホテルで冷房が効いていて快適に過ごせました。
そのシンポジウムは毎年場所を代えて開催されているのですが,私は本当に久しぶりの参加でした。学会の幹事の方や大学の先生方と久しぶり再会できた人も多く,懇親会では初めて名刺を交換した人だけでなく,そういった方々とも楽しくソフトウェア工学の研究動向についてお話ができました。
また,岐阜市に行ったついでに親しい参加者数人と車で郡上八幡を訪れました。
郡上おどりはまだ始まっていませんでしたが,天気に恵まれ,静かな郡上八幡の城下町,清流だけど水量豊かな吉田川,八幡城から眺めた街並みや青々とした山並みは本当に素晴らしいと感じました。
郡上八幡は,食品サンプル(レストランの入り口横に飾ってある料理のイミテーション)の創始者とも称される岩崎瀧三の出身地で,食品サンプルを作る産業が盛んだそうです。郡上八幡で作られた食品サンプルの全国シェアは60%もあるらしく,時間の関係でちら見しかできませんでしたが,街には食品サンプルを売る店やサンプル作成の体験ができる工房もありす。
昼食で食べた郡上八幡城下町エリアのお店の「うな重」は最高でした。ここのウナギはミネラル分豊かな郡上八幡の湧水で何日も過ごしてからさばかれているのかもしれませんね。
天の川 「たびとはん。わいに黙って,自分だけウナギを食べたんか! えろ~,ゆゆしいこっちゃ!」
天の川君,ちょうど今回のテーマの「ゆゆし」を使ってくれてありがとう。素晴らしい連携プレイだね。
天の川 「褒めてごまかしてもアカンで。わいにもウナギ,ウナギや,ちゅうねん!」
<本題>
無視して本題に移りましょう。「ゆゆし」は,天の川君が「うとましい」「いやだ」という意味で言ったように,現在でも「ゆゆしい」として使われています。
しかし,広辞苑には「神聖また不浄なものを触れてはならないものとして強く畏怖する気持ちを表すのが原義」とあります。
万葉集では,当然ですがその原義に近い意味で使われている和歌がでてきます。
かけまくもあやに畏し 言はまくもゆゆしきかも 我が大君皇子の命 万代に見したまはまし 大日本久邇の都は うち靡く春さりぬれば 山辺には花咲きををり 川瀬には鮎子さ走り いや日異に栄ゆる時に およづれのたはこととかも 白栲に舎人よそひて 和束山御輿立たして ひさかたの天知らしぬれ 臥いまろびひづち泣けども 為むすべもなし(3-475)
<かけまくもあやにかしこし いはまくもゆゆしきかも わがおほきみみこのみこと よろづよにめしたまはまし おほやまとくにのみやこは うちなびくはるさりぬれば やまへにははなさきををり かはせにはあゆこさばしり いやひけにさかゆるときに およづれのたはこととかも しろたへにとねりよそひて わづかやまみこしたたして ひさかたのあめしらしぬれ こいまろびひづちなけども せむすべもなし>
<<言葉をかけるのもたいへん畏れ多く、言ってみるのもはばかれることだが,私が仕へる天子(聖武天皇)の皇子(安積親王)が永遠にお治めなさるべき恭仁の都は,春が來ると山の辺には枝もたわわに花が咲き,川の瀬にはアユの子が走るように泳いでいる。日に日に段々と隆盛していく中、悪い噂の呪いの言葉とも思はれるような評判が聞こえてきた。それは御身に使える舍人達が白い栲の着物に着替えて、和束山をば輿に乗って出発され,天を治めにお登りなされた(お亡くなりになった)ので、舍人達は倒れころげて,絶え間ない涙に濡れて泣いている。何とも仕方がないことだ>>
この長歌は,大伴家持が恭仁(くに)京の造営に携わっていた天平16年,聖武(しやうむ)天皇の第二皇子である安積親王(あさかしんわう)が若くして亡くなったことを悼んで詠んだものです。
ここに出てくる「ゆゆしきかも」は「神聖であるからお名前も言ってはいけないほど」といった意味でしょうか。
さて,次は少し違う意味の「ゆゆし」を詠んだ詠み人知らずの女性の短歌です。
朝去にて夕は来ます君ゆゑにゆゆしくも我は嘆きつるかも(12-2893)
<あしたいにてゆふへはきます きみゆゑにゆゆしくもわは なげきつるかも>
<<朝にお帰りになって,夕方またお見えになるあなた様だから,いらっしゃらない昼は,うとましいほど私は嘆いてしまうことでしょう>>
「あなたとずっといたいのよ」というこの短歌を見た男性は,早めに女性宅に来るようになったでしょうか。
さて,次は高級官僚である中臣東人(なかとみのあづまひと)が阿倍女郎(あべのいらつめ)に贈った相聞歌です。
ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみと為むすべ知らに音のみしぞ泣く(4-515)
<ひとりねてたえにしひもを ゆゆしみとせむすべしらに ねのみしぞなく>
<<ひとりで寢ていたら,あなたが結んでくれた紐が切れた。それは不吉な兆しというけれど,どうすけばよいのか分からず泣くばかりなのです>>
これに対して,阿倍女郎は次のように返歌しています。
我が持てる三相に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき(4-516)
<わがもてるみつあひによれる いともちてつけてましもの いまぞくやしき>
<<私が持っている三本に縒った丈夫な糸で紐を縫いつけてあげればよかった。今では悔いています>>
さて,東人が「ゆゆし」といった不吉な前兆を女郎はどう解釈したのでしょうか。
東人さんは,もう二人は別れなければならないので泣いているのか? それとも,何としても別れたくないので泣いているのか? 女郎にとってはそこを見極めなければならいでしょう。
そこで,女郎は返歌では悔いていることを別れとは無関係の紐をつなぐ糸に絞って詠い,相手の反応を見ようとしたのではないかと私は思います。
これに対する東人の返歌は万葉集に残っていないようです。二人はこの相聞をもって別れてしまったのでしょうか。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「なつかし」に続く。
2013年7月6日土曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ともし」
気象庁によりますと関東甲信越地方がいつもより早めに梅雨明けをしたとみられるそうです。明日は七夕です。短冊に願いを書いて笹に結び付けた幼いころを思い出します。
このブログも七夕を扱った投稿がいくつかあり,それらの閲覧数はおかげさまで例年以上にうなぎのぼりです。
さて,今回は「ともし」について万葉集を見ていきたいと思います。「ともし」は漢字で「乏し」または「羨し」と書きます。一見,「物足らない」とか「劣っている」という印象を持つ漢字ですが,万葉集に出てくる意味は少し違います。何回か前に経済学の話を書きましたが,まさに稀少性を絵にかいたような言葉で,「珍しくて心が引かれる」という意味です。
実際に万葉集で詠まれているものをみていきましょう。
夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ(15-3658)
<ゆふづくよかげたちよりあひ あまのがはこぐふなびとを みるがともしさ>
<<夕月が出ている夜に身を寄せ合って天の川を漕いで渡る舟人を見るのが珍しく羨ましい>>
夕日も見える美しい天の川をふたりだけで舟に乗って,肩を寄せ合って舟を漕ぐのは,本当にロマンチックなんだろうなと作者は感じて詠ったのかもしれませんね。この短歌は天平8(736)年の七夕に,遣新羅使のひとりが詠んだものとされています。
次も七夕詠んだ,柿本人麻呂歌集に出ていたという詠み人知らずの短歌です。
恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに(10-2017)
<こひしくはけながきものを いまだにもともしむべしや あふべきよだに>
<<恋い慕いながら長い日々を過ごしてきたのです。今だけでも貴重な時間を過ごさせてほしいのです。逢うはずのこの夜だけでも>>
「ともし」を貴重な時間の修飾語と訳してみました。
妻問婚はなかなか大変です。気軽に「今晩は」といって妻宅に入れてもらえるものではありません。何度も手紙や使いの者を出してもなかなか許されないことも多かったようです。その間,夫は妻問いが許される日を待ち続けます。それが,年に1回しか逢えない牽牛と織姫の物語とオーバラップしてしまうのは容易に想像できます。そして,ようやく妻問いが許されたら,労いの言葉や癒しの言葉をかけてほしいと願う気持ちはわかる気が私にはします。
次は,妻問を待つ女性側の立場て詠んだ短歌です。
己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに(10-2004)
<おのづまにともしきこらは はてむつのありそまきてねむ きみまちかてに>
<<自分夫となかなか逢えない私は舟泊りして港の荒磯をめぐりながら寝ます。あなたを待ちきれずに>>
「ともし」をなかなか逢えない形容として訳しました。
夫は牽牛,自分は織姫になぞらえています。夫がなかなか逢いに来ないので,私は天の川の港にある舟に乗って,舟を港の周りをくるくるさせながら待ちきれず寝てしまいますよという意味と私は解釈しました。
明日の七夕なのでデートをするカップルが待ち合わせるのは,東京スカイツリーでしょうか? 東京ディズニーリゾートでしょうか? ホークスタウン(福岡)でしょうか? ユニバーサルスタジオジャパン(大阪)でしょうか? 東京ドームシティーアトラクションズでしょうか? 八景島シーパラダイス(横浜)でしょうか?
みなさま,Goodな七夕をお過ごしください。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ゆゆし」に続く。
このブログも七夕を扱った投稿がいくつかあり,それらの閲覧数はおかげさまで例年以上にうなぎのぼりです。
さて,今回は「ともし」について万葉集を見ていきたいと思います。「ともし」は漢字で「乏し」または「羨し」と書きます。一見,「物足らない」とか「劣っている」という印象を持つ漢字ですが,万葉集に出てくる意味は少し違います。何回か前に経済学の話を書きましたが,まさに稀少性を絵にかいたような言葉で,「珍しくて心が引かれる」という意味です。
実際に万葉集で詠まれているものをみていきましょう。
夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ(15-3658)
<ゆふづくよかげたちよりあひ あまのがはこぐふなびとを みるがともしさ>
<<夕月が出ている夜に身を寄せ合って天の川を漕いで渡る舟人を見るのが珍しく羨ましい>>
夕日も見える美しい天の川をふたりだけで舟に乗って,肩を寄せ合って舟を漕ぐのは,本当にロマンチックなんだろうなと作者は感じて詠ったのかもしれませんね。この短歌は天平8(736)年の七夕に,遣新羅使のひとりが詠んだものとされています。
次も七夕詠んだ,柿本人麻呂歌集に出ていたという詠み人知らずの短歌です。
恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに(10-2017)
<こひしくはけながきものを いまだにもともしむべしや あふべきよだに>
<<恋い慕いながら長い日々を過ごしてきたのです。今だけでも貴重な時間を過ごさせてほしいのです。逢うはずのこの夜だけでも>>
「ともし」を貴重な時間の修飾語と訳してみました。
妻問婚はなかなか大変です。気軽に「今晩は」といって妻宅に入れてもらえるものではありません。何度も手紙や使いの者を出してもなかなか許されないことも多かったようです。その間,夫は妻問いが許される日を待ち続けます。それが,年に1回しか逢えない牽牛と織姫の物語とオーバラップしてしまうのは容易に想像できます。そして,ようやく妻問いが許されたら,労いの言葉や癒しの言葉をかけてほしいと願う気持ちはわかる気が私にはします。
次は,妻問を待つ女性側の立場て詠んだ短歌です。
己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに(10-2004)
<おのづまにともしきこらは はてむつのありそまきてねむ きみまちかてに>
<<自分夫となかなか逢えない私は舟泊りして港の荒磯をめぐりながら寝ます。あなたを待ちきれずに>>
「ともし」をなかなか逢えない形容として訳しました。
夫は牽牛,自分は織姫になぞらえています。夫がなかなか逢いに来ないので,私は天の川の港にある舟に乗って,舟を港の周りをくるくるさせながら待ちきれず寝てしまいますよという意味と私は解釈しました。
明日の七夕なのでデートをするカップルが待ち合わせるのは,東京スカイツリーでしょうか? 東京ディズニーリゾートでしょうか? ホークスタウン(福岡)でしょうか? ユニバーサルスタジオジャパン(大阪)でしょうか? 東京ドームシティーアトラクションズでしょうか? 八景島シーパラダイス(横浜)でしょうか?
みなさま,Goodな七夕をお過ごしください。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「ゆゆし」に続く。
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