2016年3月21日月曜日

改めて枕詞シリーズ…いさなとり(2:まとめ) 海は別れの場,死の危険も潜む場?

枕詞「いさなとり」の1回目(前半)は短歌,旋頭歌,長歌のそれぞれで使われている例を万葉集から紹介しました。後半はすべて長歌で使われている例を紹介しますが,長い長歌ばかりですので,それぞれ一部の紹介に留めます。
まず最初は,柿本人麻呂石見(いはみ)の国で仲の良い妻の一人とされている依羅娘子(よさみのをとめ)との別れを詠んだ長歌です。

鯨魚取り海辺を指して 和多津の荒礒の上に か青なる玉藻沖つ藻 朝羽振る風こそ寄せめ 夕羽振る波こそ来寄れ~(2-131)
<~いさなとりうみへをさして にきたづのありそのうへに かあをなるたまもおきつも あさはふるかぜこそよせめ ゆふはふるなみこそきよれ~>
<<~海の沖から海辺に向け和多津の荒磯の上に青々と生える美しい藻,そこでは朝は強い風が寄せ、夕方には強い波が寄せて来る~>>

この長歌は,美しく藻が強い風で寄ってくるように,いつも寄り添っていた妻と別れなければならない感情を詠っています。「いさなとり」を前に置くことによって,海辺の長さと海の大きさを表していると私は感じます。妻と愛し合った時間の長さと寄り添って生きた幸せの大きさを示すのに「いさなとり」は相応しい枕詞でしょう。
次も人麻呂の長歌です。人麻呂が讃岐(さぬき)の国の沙弥島(さみねのしま)に行ったとき,海岸で横たわる死人を見て詠んだ1首です。

沖見ればとゐ波立ち 辺見れば白波騒く 鯨魚取り海を畏み 行く船の梶引き折りて をちこちの島は多けど 名ぐはし狭岑の島の~(2-220)
<~おきみればとゐなみたち へみればしらなみさわく いさなとりうみをかしこみ ゆくふねのかぢひきをりて をちこちのしまはおほけど なぐはしさみねのしまの~>
<<~沖を見るとうねりが立ち,岸辺を見ると白波がいっぱい立っている。大海を恐み,航行する船の梶を引込め,あちらこちらに島は多いが,名も麗しい狭岑の島の~>>

この島のごつごつした岩床に臥す死人の家を知っていれば家族に知らせることもできるが,何も答えてくれない。キミの奥さんはキミの帰りを心待ちにしているだろうにと悔やみの言葉を詠んでいるのです。
今も飛行機事故で犠牲になる人がいますが,万葉時代は海難で死ぬ人が多かったのでしょう。捜索もできず,流れ着いた死骸で事故の様子を想像するしかなかった時代です。でも,より豊かな暮らしをするために,ヒトやモノを輸送したり,漁業をする船(舟)と船乗り(海人)は,いつも危険と隣り合わせの職業として必要だったでしょう。そして,その人たちによる交易や生業によって,別に潤う人が多くいたに違いありません。
<経済学的に見て見れば>
経済が発展する過程で,事故などによる犠牲者をゼロにすることは不可能ではないですが,ゼロにすることイコール経済の成長を止めることにほかなりません。経済の成長が止まっても犠牲者をゼロにすべきと考える人がいるかもしれません。しかし,経済の成長を止めると,間違いなく経済学用語でいう縮小再生産(リセッション)に入ります。
その結果として,事業が破たんして多くの失業者を出し,その結果ローンが払えない,食べるものが買えない,医療費が払えないなどで自ら命を絶つ人が増える可能性が高くなります。リセッションも犠牲者を出すことになります。
亡くなられた方のご遺族の悲しみの深さを理解し,場合によっては寄り添って助けることも必要かもしれません。ただ,その犠牲が出たことだけをとりあげ,人類の未来をマクロに豊かにする研究や投資を否定したり,何でも反対するだけという行為に私は賛同できません。
<万葉集から見える万葉時代の社会>
万葉集に私が興味を持つことの一つとして,万葉時代には今の日本の礎となる大改革を当時の為政者が行い,その結果のメリット/デメリットがどんなものかを想像できる情報がちりばめられているからなのです。たいへんな痛みを伴ったけれども,結果として今の日本文化はその改革が無かったら,もっと違ったものになっていたかもしれないだけでなく,日本という国が今はないかもしれないと私は思うのです。
特に,律令制度や大陸の技術の導入,そして仏教の導入の影響は大きかったと私は思うのです。
今,起源がインド,中国,朝鮮半島という何らかのものでも,日本が導入し,独自の発展と高度化(改善)により,本家よりも魅力的になっているモノが多くあります。
さらに,戦後においてもアメリカの品質管理やコンビニのノウハウが日本に導入され,本家よりも優れた状態となり,逆にその成果が世界に広まっている状況です。
さて,最後は笠金村(かさのかねむら)が越前の敦賀湾の奥にある港から船に乗った時に詠んだ長歌です。

越の海の角鹿の浜ゆ 大船に真楫貫き下ろし 鯨魚取り海道に出でて 喘きつつ我が漕ぎ行けば~(3-366)
こしのうみのつのがのはまゆ おほぶねにまかぢぬきおろし いさなとりうみぢにいでて あへきつつわがこぎゆけば ~>
<<越前の敦賀の浜を通って,大船のメインオールを下して大きな海道に出て,オールを漕ぐ水夫の喘ぎ声を聞きながら進むと~>>

船旅は始まったばかりなのでしょう。行き先は越前の北の方か,能登半島を周って越中なのかは分かりませんが,この後に金村は南の方にある大和に連なる山を見て,望郷の思いを詠っています。
私は京都に住んでいた中学生・高校生の頃,何度も敦賀湾に海水浴に行きました。そのとき,苫小牧との間を結ぶ大型フェリーを見て,ここが海の交通の要所であることを感じていました。
そのため「いさなとり」が枕詞としてこの長歌で使われていても,特に違和感を感じることはありません。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(1)に続く。

2016年3月14日月曜日

改めて枕詞シリーズ…いさなとり(1) ♪海は広いな~,大きいな~

万葉集には枕詞と呼ばれる言葉が出てきます。
枕詞という分類は万葉時代にあった訳では無く,後世の人が名づけた分類用語です。その言葉自体の意味よりも,それに続く詞を導く言葉として修飾の一形態として分類されているようです。
しかし,枕詞を和歌が伝えたいことの修飾語あり,読み飛ばしても作者の意図と大きく違わないという考え方には私は同意しかねます。枕詞を文学的表現の技法として見ないからです。
万葉集の作者が表現をどう考えて,あくまで後世の人が分類した「枕詞」を使ったか。あまり先入観を持たずに見ていこうとするのが,情報を扱うIT技術者が書くこのシリーズの目的です。
なお,万葉集で枕詞と呼ばれる言葉がいくつも出てくるのは長歌であるため,長歌の一部のみを引用する場合もあることをご了承ください。
今回は「いさなとり」という「海」や海に関連する言葉に掛かる枕詞を2回で渡り取りあげます。
「いさな」とは今「鯨(くじら)」と呼んでいるものです。漢字では「鯨魚」と書きます。
まず,以前にも紹介した有名な旋頭歌からです。

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ(16-3852)
いさなとりうみやしにするやまやしにする しぬれこそうみはしほひてやまはかれすれ
<<大海は死ぬのか? 山々も死ぬのか? 死ぬからこそ,海は潮が干いて,山は枯れる>>

「いさなとり」が枕詞として使われているのは,旋頭歌として最初の5字を整えるためだけでないと思います。やはり,その後に続く「海」は鯨が獲れるような大海をイメージしているのだろうと思いたいですね。
この旋頭歌の意味は,常にあるようなものでも死ぬのだという仏教でいう無常観を意識して詠まれたもとと私は解釈します。この考えを暗いと考えるのではなく,世の中は変化をしていること,その変化の先をしっかり読み取って,生きることが重要と諭している和歌だといえそうです。
次は天平2(730)年11月に大宰府から大納言となって帰任するため,瀬戸内海を船で移動する道中の大伴旅人に随行した付き人が詠んだ短歌です。

昨日こそ船出はせしか鯨魚取り比治奇の灘を今日見つるかも(17-3893)
きのふこそふなではせしか いさなとりひぢきのなだを けふみつるかも
<<昨日に船出して,今日には比治奇の灘が見えるところまできましたね>>

比治奇の灘は瀬戸内海のどこかは定かではありませんが,位置的には周防灘が一番合っているように思います。周防灘は瀬戸内海でも最も広く,大海に出たような雰囲気から「いさなとり」の枕詞が使われたのかもしれません。冬の季節風に乗って進めば,博多あたりから出向して,翌日には周防灘を航行ということも十分可能でしょう。
この短歌の作者は,帰京の旅が順調であることを示して,旅人を始め,同行者を元気づけようとしたと考えることができそうですね。
今回の最後は,車持千年(くるまもちのちとせ)が天皇と難波の宮に行幸した際,住吉(すみのえ)の浜を讃嘆した長歌です。

鯨魚取り浜辺を清み うち靡き生ふる玉藻に 朝なぎに千重波寄せ 夕なぎに五百重波寄す 辺つ波のいやしくしくに 月に異に日に日に見とも 今のみに飽き足らめやも 白波のい咲き廻れる住吉の浜(6-931)
いさなとりはまへをきよみ うちなびきおふるたまもに あさなぎにちへなみよせ ゆふなぎにいほへなみよす へつなみのいやしくしくに つきにけにひにひにみとも いまのみにあきだらめやも しらなみのいさきめぐれるすみのえのはま
<<浜辺は清く,なびき揺れて生えている玉藻に,朝なぎにや夕なぎにも幾重も波が寄せている。この岸辺の波のように,何度も何度も月を重ねて日に日に見てもずっと飽き足りることはないだろう。白波の花が咲き続ける住吉の浜は>>

浜辺への枕詞に「いさなとり」を使っているのは,やはり浜辺がずっと続いているほどの規模をイメージしているからだと私は思います。
浜辺には,綺麗な海藻がたくさん生えていて,それが朝なぎ,夕なぎに寄せるさざ波にきらきらと輝きながら揺れる姿は,海が無い平城京から来た人たちにとって,心安らぐ光景だったのでしょう。
住吉の浜は,万葉時代では「リゾート地」だったのでしょうか。鯨が獲れるような海だけれど,本当にきれいな風景の浜辺もあるよということを作者は表現したかったのではないか私は想像します。
改めて枕詞シリーズ…いさなとり(2:まとめ)に続く。

2016年3月5日土曜日

当ブログ8年目突入スペシャル(2)…八からは多数と同じ?

我が家の庭に20年ほど前から植えてあるサクランボの木の花のつぼみが昨年よりもはるかに多く膨らんできました。
今年はより多くの実が成りそうで楽しみにしています。


8年目突入スペシャルの最後は,「八」という数字について万葉集を見ていきます。
万葉時代では,「七」は「秋の七草」や仏教の経典(法華経や無量寿経)に出てくる「七宝(しっぽう)」のように,7つの名前がはっきり定義されいる。
しかし,「八」となったとたん,8種類の名前が何かはどうでもよくなって,多くという意味に近づいてきます。
八方という言葉も,北,東,南,西と北東,東南,南西,西北の八つの意味を表すより,八方美人,八方ふさがり,八宝菜のように8つの内容は気にしない使われ方が急に増えます。
万葉集で八の使われ方の例をいくつか見ます。
次は,遣新羅使対馬に着いた時に詠んだ短歌です。

竹敷の宇敝可多山は紅の八しほの色になりにけるかも(15-3703)
たかしきのうへかたやまは くれなゐのやしほのいろに なりにけるかも>
<<対馬の竹敷にある宇敝可多山は,黄葉が紅色を何度も染めたような鮮やかな色になっている>>

「八しほ」というのは,何とも染色液に漬けることを指します。この場合8回という意味ではないようです。
次は,天平16(744)年に難波の地の橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で開かれた宮中の人たちが集まる宴である肆宴(とよのあかり)で元正(げんしやう)天皇が橘家を寿ぎ詠んだ短歌です。

橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を(18-4075)
たちばなのとをのたちばな やつよにもあれはわすれじ このたちばなを
<<めでたい橘の中でも,たくさん実ったこの橘。いつの代までも私は忘れないだろう,この橘を>>

この短歌の「八つ代にも」は「何代にも」という意味で使われていると私は思います。
最後は,11年後の天平勝宝7(755)年に丹比国人(たぢひのくにひと)宅で催された宴席で橘諸兄が国人の健勝を願って詠んだ短歌です。

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(20-4448)
あぢさゐのやへさくごとく やつよにをいませわがせこ みつつしのはむ
<<紫陽花が八重に咲くように何代も健勝でいらしてください。紫陽花を眺めては貴方を思い出しましょう>>

この八重も八つに重なっているわけではなく,花びらが多く重なっているという意味に近いと感じます。
そのほか,「八」を多くの意味とする言葉としては万葉集には次のものが出てきます。

八尺(やさか)‥長いさま
八島(やしま)‥多くの島の意。日本の国
八十(やそ)‥もっと多い,多くの
八度(やたび)‥何度も
八千(やち)‥非常に多くの
八衢(やちまた)‥多くの分かれ道(市街地)
八百(やほ)‥相当多くの

これで,当ブログ開設8年目スペシャルを終わります。
次回からは,しばらくの間万葉集で使われる枕詞を順次紹介し,その役割と時代背景について考えていきたいと思います。
改めて枕詞シリーズ…いさなとり(1)に続く。

2016年2月28日日曜日

当ブログ8年目突入スペシャル(1)‥万葉時代の人々の宗教観はいかに?

いよいよ,このブログも満7年を過ぎ,8年目に入ろうとしています。
ここまで来ると,何か無理してブログを書くというより,私にとって生活の習慣になってきているのかもしれません。ただ,いいかげんに書いているかというとそうでもありません。もう一人の自分がいて,他人の目としておかしいところがないかをチェックしてからアップしているつもりです。
それでも,後から表現に誤解を与えそうだと感じて直す,間違いだと気付いて直している個所もあります。そのあたりの努力を感じて頂けると嬉しいですね。
さて,前年の7年目突入スペシャルでは万葉時代に生まれたであろう新語について述べました。
<万葉集と宗教>
その時に候補としてあげておきながら触れていなかった宗教用語について,今回は少し触れることにします。
今,何で宗教用語?」「宗教なんて自分の生活にとっていちばん遠い世界の話さ」「初詣や旅行などで有名な寺社を訪れた時,御利益があるというので(みんながそう言っているので)お参り,おみくじを引いたり,御朱印を押してもらうことはあるけど,教義や宗派の違いに興味なんかはない」などのコメントをするくらいが,宗教を職業にしていない現代の日本人(※)の多くの感想なのかもしれません。
 ※ あえて日本人と書いたのは,日本以外の国やで暮らす人々の中には宗教が日常生活の中に強く入り込んでいるところもたくさんあるからです。

<万葉時代は外来の宗教が怒涛のように入ってきた>
1,300年前の万葉時代には宗教に関するエポックが発生し,人々の精神的支柱となる根本の考え方に大きな変化が起こった時代だったと私は考えます。
万葉時代より前の時代では,大陸からの文化の流入がまだ少なく,せいぜい一部の農業,土木,輸送などに関する技術が民間や地方レベルで流入していた程度だったのではないかと私は想像します。
しかし,万葉時代に入り,遣隋使遣唐使遣新羅使などを派遣し,大陸や朝鮮半島にある技術的な要素だけではなく,広い意味の文化や思想を国をあげて流入させ,日本にも根付かせようとした時代だったと私は思います。
その中で,宗教的な教えの流入は,それまで信じていた日本古来のいわゆる神道(神道は後からつけられた名前)に対する人々の信仰心に大きな影響を与えたのは間違いないと私は考えます。宗教の流入を図った万葉時代の為政者は,神道を否定するのではなく,そこに示される神と外来宗教との融合を考慮しつつ行ったように感じます。
たとえば,各地にある八幡(やわた,はちまん)神社に祭られている八幡神は,仁徳天皇の前の天皇とされる応神天皇が神として祀られているといいます。八幡神は万葉時代,武家の守護神として,武家の熱い信仰を受けたが,伝来した仏教で説かれる守護神として日本では外来した仏教との関係が非常に強くなっていたようです。
奈良時代の後半には,八幡神は八幡大菩薩とも呼ばれるようになり,当時の日本仏教で,仏の次の境地である菩薩の一員(それも大幹部級)となってしまったのです。その結果か,各地の八幡神社には,神宮寺と呼ばれる寺院も配置されるようになったのです(神社の中にお寺が存在!)。
当時の日本の為政者が広めようとした仏教には,守護神(諸天)の存在が説かれていたため,日本の神々も仏教の守護神として排斥せず,仏教と仲良く導入(神仏習合)することができたのだろうと私は思います。
それでは,万葉集で仏教にまつわる和歌を紹介しますが,仏教の思想を万葉集の和歌に広く取り入れて詠んだの歌人の一人は山上憶良です。
次は,憶良が自分の子供「古日」が病気で死んだことに対する悲しみを詠んだ長歌の反歌です。

布施置きて我れは祈ひ祷むあざむかず直に率行きて天道知らしめ(5-906)
ふせおきてわれはこひのむ あざむかずただにゐゆきて あまぢしらしめ
<<布施を捧げ祈ります。惑わず,まっすぐに行ける天への道を教えてやって下さい>>

布施は仏教用語で,人に施すことを表す言葉です。
天道は死んで仏に成るための道を表し,布施はいくらでもするから,その道から外れ迷界に落ちないようにと,父である憶良は願ったのでしょう。
次は,奈良県明日香村に万葉時代大寺院としてあったという川原寺の仏堂の裏に置かれてあった琴に書かれていたという短歌2首を紹介します。

生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも(16-3849)
いきしにのふたつのうみを いとはしみしほひのやまを しのひつるかも
<<生と死の二つの海(今の苦しい生活)が嫌で,潮干の山(あの世)のことが偲ばれる>>

世間の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも(16-3850)
よのなかのしげきかりほに すみすみていたらむくにの たづきしらずも
<<世の中の煩わしい仮の住家に長く住んでいると,いずれ行く国(あの世)がどんなものかもわからない>>

この2首は世の中は穢(けが)れていて,生死(しょうじ)の苦しみに満ちている。「生き死の」は生きた時から死ぬまでの一生という意味で,仏教の別の経典で人間は一生のうちに生老病死という四つの苦しみを受ける運命にあると説いていることをベースに詠んだと私は思います。
万葉時代は仏教のさまざまな経典の教えが一度に大量に入ってきて,どの経典から理解するかが,当時の人たちにとってとても大きな課題だったのだろうと私は想像します。
仏教の経典の中には,世の中が穢れていても,その中で生きていく中で仏に成れると説くものもあります。すなわち,死んで仏に成る(成仏する)のは方便(真実ではなく仮の教え)であると説く経典もあるのです。
私は,決して死んでからなるものではなく,生きている間に仏に成るための修行をして,仏に近づくという考え方に賛同しています。死後に仏に成るということが正しいなら,苦しみから解放されるのは死ぬしかないという理論になってしまいかねないかと思うからです。
当ブログ8年目突入スペシャル(2)に続く。

2016年2月21日日曜日

今もあるシリーズ「池(4:まとめ)」…水鳥にとって池は天国!

「池」に関するテーマの最終回は,万葉集から池に集まる鳥について取り上げます。
今は全国各地の池にハクチョウが飛来するシーズンです。新潟県には10箇所以上のハクチョウが飛来する湖沼や池があるようです。関東圏の茨城県でも水戸市にある大塚池を始め,飛来数は新潟県より比較的少ないですが,ハクチョウが飛来する池や沼が複数あるようです。
そのほか,北海道や東北の湖沼や池にもハクチョウが飛来して,貴重な冬の観光資源として訪れる人の目を楽しませていることでしょう。
さて,万葉集で池に来る水鳥についてどんな種類が出てくるでしょうか。まず,池で遊ぶ鴨を詠んだ丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)の短歌1首です。

鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに(4-711)
かもどりのあそぶこのいけに このはおちてうきたるこころ わがおもはなくに
<<鴨鳥が遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮かぶような浮いた心でわたしはあなた慕っているわけではないのです>>

相手に対する強い思いを詠んだ作者には大変失礼ですが,ここでは「鴨」に注目します。
季節は晩秋。飛来した鴨が水に浮かびながら羽をバタバタすると鴨の身体が動き水面に波ができます。それに木の葉が落ちると,水面に浮いた木の葉は揺れ動きます。こんな情景がこの短歌から伝わってきます。
次は,「鳰鳥(にほどり)」(今はカイツブリと呼ぶ鳥)を詠んで,聖武(しやうむ)天皇へ献上したという坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の短歌1首です。

鳰鳥の潜く池水心あらば君に我が恋ふる心示さね(4-725)
にほどりのかづくいけみづ こころあらばきみにあがこふる こころしめさね
<<にほ鳥の潜る池の水よ,心があるなら私が大君を恋ふる気持ちを伝えてください>>

この池は聖武天皇も好んで見に行くところなのでしょうか。池の水は透き通っていて鳰鳥が潜って何をしているか透けて見える。だから私の心の中も知って,天皇に思いを透かして示してほしい。郎女はそんな気持ちを表現したのだと私は思います。
カイツブリは潜って魚などを捕るのが得意な鳥ですが,当時からそのことは知られていたと考えてもよいでしょうね。
鳥の名はないのですが,鴨でも鳰鳥でもなさそうな鳥を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし(10-2166)
いもがてをとろしのいけの なみのまゆとりがねけになく あきすぎぬらし
<<妻の手を取るという取石の池の波の間を過ぎた鳥の声が急に異様に鳴り響いた。秋が過ぎたようだ>>

異様な鳴き声が秋に渡る前に鳴く鳥となると,夏に日本に来て,冬に南に帰る水鳥を指しているのかもしれません。どんな鳥なのか想像してみるのも面白いですね。
これで「池」をテーマに万葉集を見ていきましたが,「池」に関する和歌だけでも,万葉時代の状況が万葉集からいろいろ分かりました。
日本で見ることができる自然の現象や生き物の生態の中で,万葉時代から認識されていたものを整理し,観光資源として活用することで,海外からくる人々にアピールできるポイントになると私は感じます。
さて,次は,このブログが満7年続き,8年目に入る節目として,スペシャル記事をアップします。
当ブログ8年目突入スペシャル(1)に続く。

2016年2月14日日曜日

今もあるシリーズ「池(3)」…池の中で生きている植物はどうだ?

「池」の3回目は池の水に生えている植物(水生植物など)を万葉集で見ていきます。
万葉時代に池が多く作られたり,自然の池が憩いの場として注目されるようになってきたためか,池の周りに生えているまたは植えられた植物だけでなく,池の水生植物についても万葉集で詠まれた和歌が出てきます。
たとえば,山部赤人奈良で詠んだとされる次の短歌です。

いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり(3-378)
いにしへのふるきつつみは としふかみいけのなぎさに みくさおひにけり
<<昔からあるの古い堤は幾年も経て,池の渚に水草が生えていた>>

この短歌の題詞には「山部宿祢赤人詠故太上大臣藤原家之山池歌一首」とあるとのことです。
この題詞,亡くなった太政大臣の藤原家の庭園に造られた築山の池についての歌という意味でしょうか。
太政大臣とは持統天皇時代から頭角を現した藤原不比等(ふぢはらのふひと)のようです。
赤人は「藤原家の歴史を感じる」といいたかったのか,それとも「手入れがされていない」といいたかったのか私の想像力では確定ができません。
いずれにしても,水草がどんな種類で,どんな感じで繁茂していたか知たくなる短歌です。
次は,柿本朝臣人麻呂歌集から転載したという池に生息する菱について詠んだ短歌です。

君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも(7-1249)
きみがためうきぬのいけの ひしつむとわがそめしそで ぬれにけるかも
<<君のために浮沼の池の菱を摘んだので,私の染めた袖を濡らしてしまいました>>

の実を茹でるか蒸したものは,万葉時代から健康食として食べられていたようです。
浮沼の池」は島根県大田市にある池との説が有力のようで,そこに旅で訪れたとき,残してきた妻に贈ろうと菱の実を採ろうとしたのでしょう。
そうしたら,私のきれいに染めてある(染めてくれたのは妻)袖が濡れてしまった。
その結果,ますます妻のことが恋しくなったという思いを詠んだ短歌だと私は思います。
ところで,菱形は菱の葉か実の形から名付けられたとといいます。
また,三菱グループのロゴマークは白い菱形が三つで,長い方の1点が同じ位置にあり,それぞれ三方(上,左下,右下)に広がった形をしています。
他の大きな企業グループのロゴマークがある程度の年数が立つと変えられるのに対して,三菱グループのロゴマークがずっと変わらないのは正直すごいことだなと私は感心しています。
ところで,3月のひな祭りには菱餅がひな壇に飾られますが,菱形をした餅なので菱餅と呼ばれるようになったのでしょう。
次は,皆さんが池でよく見るものとして「蓮」を詠んだ女性(詠み人知らず)の長歌です。

み佩かしを剣の池の 蓮葉に溜まれる水の ゆくへなみ我がする時に 逢ふべしと逢ひたる君を な寐ねそと母聞こせども 我が心清隅の池の 池の底我れは忘れじ 直に逢ふまでに(13-3289)
みはかしをつるぎのいけの はちすばにたまれるみづの ゆくへなみわがするときに あふべしとあひたるきみを ないねそとははきこせども あがこころきよすみのいけの いけのそこわれはわすれじ ただにあふまでに
<<剣の池の蓮の葉に溜まっている水がころころとどちらこぼれるか予測できないように,私がどうすれば迷っていると「逢いなさい」と神のお告げがあったの。でも,お母さんは彼に体を許しちゃだめだっていうから,私の心は清隅の池の池の底に沈んだよう。でも,あなたのこと絶対忘れない。本当に逢えるまでは>>

なかなか,具体的な表現の相聞歌ですね。
池に蓮の葉が立派に現れるのは夏です。夏が終わるころに妻問が活発になります。それを待つ女性の気持ちでしょう,この長歌は。
最後は池に生える「菅(すげ)」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

真野の池の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか(11-2772)
まののいけのこすげをかさに ぬはずしてひとのとほなを たつべきものか
<<真野の池に生える小菅を笠に縫わないのに(契りもしていないのに),世間の人は二人の浮き名を立てるものだ>>

は湿地,池,湖沼,川沿いの浅い場所など水が多い場所を好んで生育するようです。
ここで出てくる「真野の池」には,たくさんの菅が生えていたのでしょう。
その菅の小さいのを使って笠を編んで送り合うような深い関係にまだなっていないのに,世間の人はいろいろあらぬことを噂して,二人が愛を深め行くプロセスの邪魔をしていることを嘆いた短歌のような気がします。
このように池に生える植物も多様なものが万葉集に出てきて,当時の人が池に対する見方の多様性が改めて確認できたかもしれません。
今もあるシリーズ「池(4:まとめ)」に続く。

2016年2月8日月曜日

今もあるシリーズ「池(2)」…池のほとりに植えられた木は訪問者に安らぎを与える?

「池」の2回目は,池の周りに植えられていた植物について,見てみましょう。
当時,庭に掘った池やため池の周りには,植物を植えていたことが,万葉集から分かります。
さっそくその例を紹介します。まず,天平宝字2(758)年2月中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)邸の宴で甘南備伊香(かむなびのいかご)が詠んだとされる池の周りの馬酔木からです。

礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも(20-4513)
いそかげのみゆるいけみづ てるまでにさけるあしびの ちらまくをしも
<<磯影の映っている池の水面を照らすように咲いている馬酔木の花が散ってしまうのは惜しいですね>>

清麻呂邸の庭園の池の傍に植えられた馬酔木の白い可憐な花が満開で見事だったのでしょうね。
この前の短歌でも大伴家持が同様にその馬酔木を賛美して詠っています。
さて,次は池の傍に柳を植えることを詠んだ東歌です。

小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも(14-3492)
をやまだのいけのつつみに さすやなぎなりもならずも なとふたりはも
<<小山田の池の堤に挿し木した柳の小枝が,根を張り成長するかどうかのように,この恋が成るか成らないかはあなたと私のふたりが決めることですね>>

当時,も挿し木で増やすことが可能であることを知っており,池の堤に植えられた柳は挿し木で植えられた可能性を示唆する短歌だと私は思います。
それから,この恋人同士が挿した柳が育っていって,二人が結婚し,子供ができ,その子共たちに「この木がお父さんとお母さんが出逢ったときに植えた柳の木なんだよ」なんて話をする光景があるといいですね。
今度は短歌の作者は分からないが,聖武(しあうむ)天皇が池の傍で冬に開いた宴席で阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)が覚えていて,伝誦したという池の松を詠んだという1首です。

池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
いけのへのまつのうらばに ふるゆきはいほへふりしけ あすさへもみむ
<<池のほとりの松の葉先に降る雪は幾重にも積ってほしいですね。明日も見られますから>>

あまり雪が降らない平城京で,珍しく雪が降ったのでしょうか。池の傍で雪見の宴を催したのでしょうね。
池の傍に植えられた松の葉に雪が積もって,普段とは違う美しさを感じたのでしょうか。
最後は,池の傍に生えているケヤキの古名のが出くる柿本人麻呂歌集よりの旋頭歌です。

池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ(7-1276)
いけのへのをつきのしたのしのなかりそね それをだにきみがかたみにみつつしのはむ>
<<池のそばの槻の下の小竹を刈らないでぐたさいな。それだけでもあなたと見て,逢ったときのことを思い出すでしょう>>

恋人と池のほとりのケヤキの木の下で逢ったのでしょうか。
下に生えていた小竹を採って,恋人は渡してくれた。そんな思い出があったのに,それを刈ってしまってはその時のことが偲ばれなくなってしまうという気持ちが私には伝わってきます。
今も公園の池のほとりのベンチは恋人どうしが逢って話をする場所です。また,木蔭を作るためにいろいろな木を植えている状況は,当時は今と同じような雰囲気だったかもしれませんね。
今もあるシリーズ「池(3)」に続く。