2015年7月28日火曜日

2015 盛夏スペシャル(3) 名張から初瀬街道を少し歩き,明日香でみかんの摘果を行う

<翌日明日香村へ>
7月26日(日)は名張の宿泊先を早朝5時前に出発し,前夜の花火大会の賑わいが嘘のように静かな名張の街を少し散策し,初瀬街道を西に向かいます。


赤目口まで,一面に青々とした田,田に水を供給する水路の水の流れる音,周囲の里山,宇陀川の清流の風景を眺めながら,朝の涼しい風を受けすがすがしい気持ちで歩くことができました。

赤目口で,また街道沿いの古い民家の中を歩き,赤目口を過ぎると,宇陀川沿いに少しずつ山間に入っていきます。そして,奈良県の宇陀市室生地区に入ります。



朝9時頃までに榛原まで初瀬街道を歩き,近鉄で橿原市岡寺駅まで行くつもりでしたが,途中風景を楽しみながらゆっくり歩いたので,榛原まではその時間までに着くのは無理を判断し,一つ手前室生口大野駅から近鉄電車に乗りました。

この判断は正解で,何せ室生口大野から榛原までは電車で6分,私鉄1駅区間運賃としては異例の260円です(営業距離 7.1㎞)。電車と違いカーブの多い道を歩くのですから,相当時間を要することが考えられます。
次回の機会にチャレンジしたいと思います。
ここで,初瀬(泊瀬)について万葉集で詠まれた何首かを紹介しましす。
最初は,柿本人麻呂歌集に出ていたという短歌です。

こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ(11-2511)
こもりくのとよはつせぢは とこなめのかしこきみちぞ こふらくはゆめ
<<泊瀬の山道は滑りやすい恐ろしい道。恋路とて同じ。あまりお急ぎめさるな>>

写真は宇陀川の川床ですが,この地帯は岩石が地表に出ていて,雨の日は街道にもすべやすいところがあったのだろうと私は想像します。

もう1首,石ころだらけの険しい道であったことを詠んだ詠み人知らずの短歌(長歌の反歌)です。

隠口の泊瀬小国に妻しあれば石は踏めどもなほし来にけり(13-3311)
こもりくのはつせをぐにに つましあればいしはふめども なほしきにけり
<<泊瀬の里に妻がいるので,石ころだらけの険しい道を踏んで,それでも僕はやってきた>>

今の初瀬街道も旧道に入ると,今にも崩れ落ちそうな岩がむき出しになり,植物の根が中に入れず,網の目のように這い覆っているところがありました。
最後は,泊瀬の山が豊かな森林おおわれていたことを思わせるこれも詠み人知らずの短歌です。

三諸つく三輪山見れば隠口の泊瀬の桧原思ほゆるかも(7-1095)
みもろつくみわやまみれば こもりくのはつせのひはら おもほゆるかも
<<三輪山を見ると,泊瀬の檜木の山林を思い出してしまうなあ>>

「三諸つく」は三輪山,「隠口の」は泊瀬に掛かる枕詞です。この作者は,泊瀬出身か,行商で今の初瀬街道を行き来した人ではないでしょうか。
ご神体として山林が手つかずの三輪山を見て,山深い泊瀬の山の山林に負けないくらい立派だと詠んだのでしょう。
さて,私は岡寺駅からはみかん畑まで,20分あまり上り坂を歩きました。この時間帯になると暑さが強烈になり始めます。水分を補給して今年も頑張ります。

いつも楽しみにしている道途中のハス池は,今年も綺麗に咲いていました。

みかん畑について,さっそく摘果を開始します。上の写真の2つの実は傷がついているので,残念ですが摘果。下の写真の実は残します。


こうやって,傷ついた実,発育の悪い実を袋いっぱいの実を摘果しました。摘果した実は,家で搾り,焼酎の炭酸割にたっぷりと入れて,爽やか味わいを存分に楽しみました。

2015 盛夏スペシャル(4)に続く。

2015年7月25日土曜日

2015 盛夏スペシャル(2) … 三重県名張に着いたぞ!

<名張に1泊>
今日も暑いですね。まさに盛夏です。私は午後自宅を出て,新幹線,近鉄線特急で三重県の名張に到着し,今晩泊まるホテルに入りました。

事前に何も調べていなかったので,名張駅に着くと浴衣姿の若い女性が沢山いました。どうも,花火大会があるようです。
駅から,宿泊先のビジネスホテル(昔の街道沿いの民家を改築したもので,オーナーは老夫婦。のどかな感じが良い)までの途中,さっそく初瀬街道の街並みを見ながらで雰囲気のある町であることが分かりました。ビジネスホテルの裏はこんな感じです。そして,花火は良い場所で見ることができました。






なぜ,名張に来たかというと,毎年この時期,奈良明日香村にある農園のみかんの木1本のオーナーになっていて,摘果(育ちの良くない実を取り去る)のために明日香村を訪れます。
今年は,明日早朝,名張から初瀬街道を歩いて,桜井市,そして明日香村に入る予定です。
初瀬街道は,万葉時代から明日香と伊勢を結ぶ街道の一つとして人々の往来があったようです。
もちろん,今の街道は当時と違い舗装されていたり,周辺の家は現代風のものにななっていますので,当時の面影はないでしょう。
ただ,山の形や川の流れ方はあまり変わっていないかもしれないので,今年はこの道をあることにしました。
初瀬街道の報告は次回にして,名張が万葉集に何首か詠われているため,今回は名張について万葉集を見ていきます。
最初は,當麻真人麻呂妻(たきまがまひとまめろのめ)が詠んだとされる短歌です。

我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ(1-43,4-511)
わがせこはいづくゆくらむ おきつものなばりのやまを けふかこゆらむ
<<私の愛しい人はどこを旅しているのだろう。名張の山を今日あたり越えるのだろうか>>

夫である當麻真人麻呂が持統天皇が伊勢に行幸したとき,お供として同行したようです。
そのとき,奈良の都で留守を守った妻が詠んだとされています。名張の山は結構厳しい峠道だったのでしょう。名張の市内は街道という感じですが,明日の山中が楽しみです。
次は,長皇子(ながのみこ)が持統天皇の伊勢行幸に同行した妻を偲んで京で詠んだとされる短歌です。

宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ(1-60)
よひにあひてあしたおもなみ なばりにかけながくいもが いほりせりけむ
<<夜に逢って翌朝恥ずかしくて顔を隠(なば)るその名張で幾日も妻は庵(行宮)に籠っているのか>>

このように,名張で詠んだのではなく,名張(もともと隠れるという意味)という場所へ行くには,大変で,それを心配して詠んだのが,この2首です。
さて,最後は,2番目の短歌のパロディーとして縁達帥(えんだちのはふし)という人物が詠んだ思われる短歌です。

宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早継げ(8-1536)
よひにあひてあしたおもなみ なばりののはぎはちりにき もみちはやつげ
<<夜に逢って翌朝恥ずかしくて顔を隠(なば)るその名張野の萩は散っても次なる黄葉よ早く継いで色づいてくれ>>

この短歌を詠んだ時期は不明ですが,恐らく巻八の時期(平城京初期)で,名張には観光や商取引で行き来が活発になった頃,黄葉がきれいだという評判が出てきたのかもしれませんね。
2015 盛夏スペシャル(3)に続く。

2015年7月21日火曜日

2015 盛夏スペシャル(1)  … 人が幸せと感じるのは他人や自分の過去との比較から?

昨年12月からの勤務先は,特に夏休み期間が設定されていません。そのため,この夏私は連続の休みを取らず,ほぼカレンダー通り勤務の予定です。このブログも,梅雨が明けたこの夏,いつものように1週間単位でアップしていく予定です。ただ,「動きの詞シリーズ」は一休みし,様々なテーマについて立秋まで投稿していきたいと考えています(恐らく,毎回かなりの長文になりそうです)。
<終わりのない仕事>
さて,プロフィールにある通り私は現役のIT技術者で,得意分野はソフトウェアの保守開発(保守対応が専門で,ときに付随する開発も行う)です。
専門の保守対応をもう少し具体的に示すと,対象のソフトウェア(稼働中)で発生した問題や要望(保守案件と呼ぶ)に対し,調査,解決策洗出し,対応作業見積,報告書・提案書作成・説明,作業(例:ユーザ操作指導,環境設定,データ整備,マニュアル整備,プログラム更新手配,プログラム追加開発手配,設計文書改訂,追加作成,品質確認,リリース説明資料作成・説明,など)です。そして,その後も次々発生するう別の保守対応を繰り返していくのです。複数の保守案件を並行して対応することも普通にあります。具体例で「○○手配」と書いた部分は,適切な手配先が無いときや緊急の場合は仲間と確認し合いながら私自身が直接作業を行う場合もあります。
保守対応では,このように各種のITスキル・知識・各種行動能力を対応者は保持の必要があります。また同時に,対象システムが存在する限り,保守対応に原則終わりはありません。
<ITシステムは生きている以上,それを維持する義務がある>
「終わりがない作業」と言った瞬間,ゲーム世代の人々にとっては,魅力を感じない仕事に映るかもしれませんね。実際に,このような保守対応をやっている若手技術者には,仕事を変わりたいと思っている人が多数いるようです。
私の考えは少し違います。システムは寿命(ライフサイクル)を持つ生き物として見た方が良いという考えです(世界的にもそう考える人は意外に多いのです)。システムが生き物なら死ぬ(その生涯を終える)まで,システム自身は生き続けなければならない(義務がある)といえるのです。生き物にとって,死ぬまで(寿命が尽きるまで)は,当たり前ですが生きていることに終わりは無く,できるだけ長生きしようとします。当然,生きる時間の方向不可逆的です(過去に戻ってやり直すことは不可能という意味で)。
結局,生き物は常にこれからどう生きていくかしか考えられない(考えない)のが本来の姿だと私は思います(その目的の達成のため,過去の失敗の反省や様々学習したことを参考にすることはあっても)。生き物が生きていることの終わり(死ぬこと)ばかり考えて生きていることは,生きていること自体が苦痛で決して幸せな生き物の生き様とは言えないでしょう。
<ITシステムにとって幸せとは?>
生き物にとって幸せとは何か? 仮に,その生き物が自分が生きる価値を自覚し,さらにより充実して生きようと努力し,他の生き物から存在を認められ,他の生き物と協力して,お互いの生きる価値をさらに高めあっている状況が,その生き物にとって幸福であるとします。
システムを生き物と考えるなら,幸せな状態(幸せに生きているシステム)にしてあげる構成要素(ヒト,モノ,カネ,情報)が必要だと私は思います。
その役割を果たす一つがが,私のようなソフトウェア保守開発技術者ではないかと考えています。その技術者が生きている対象ソフトウェアを愛情をもってケア(保守対応)していく以上,同様の保守開発対応経験が長いほど,効率,正確,丁寧な対応ができるとも考えています。
私自身は,とっくに開発専門IT技術者としての現役を退いている年齢だろうと思いますが,ソフトウェア保守開発技術者はこのような経験がものをいうため,まだまだ現役を続けることができると考えています。
<改めてITシステム屋さんの私が万葉集に魅かれる理由とは>
さて,今私が保守対応しているシステムは,割と最近のIT技術で構築されたシステムです。最近のIT技術を駆使して仕事をしている私がなぜ1300年も前に詠まれた和歌が記録されている万葉集の内容に興味を持つかは以前にも何度かこのブログで書きました。今回は,改めて別の視点で書いてみたいと思います。
万葉集を詳細に見ていくと,約1300年前の万葉時代の生活や人々の考え方,仕事の種類や仕事の進め方,様々な職種から見える産業技術のレベルが私にはいきいきとイメージできるのです。
そんな古いこと,今の我々の生活に何の関係があるのか?と思う人がいるかもしれません。
もちろん,当時コンピュータ,飛行機,エンジンやモータで動く各種の車もありません。そして,何よりも電気で動作するあらゆる機器(家電やゲーム機,携帯通信装置など)が万葉時代にはなかったのです。
今は,あらゆることが万葉時代に比べ非常に便利なっています。また,地震・津波・台風・噴火などの自然災害や失火による火災の影響もはるかに少なくて済むようになっています。手に入る品物の種類,品質指標,豊富さも今は万葉時代と比べ物にならないくらい高くなっています。
<ヒトの幸福感は技術の発展に比例して高くなっているか?>
では,人々の幸福感は万葉時代と比較してどれだけ高くなっているのか気になるところです。警察庁によりますと,昨年1年間の自殺者がここ数年少し減ったといってもまだ2万数千人います(年間交通事故で死亡する人の約6倍)。それでも,万葉時代に人々に比べて,今の人々ははるかに幸福感が増えていると言えるのでしょうか。
人々の幸福感が,仮に他人経済状況や社会一般との貧富の比較,また自分の過去との比較で生まれてくるとしたら,いくら社会が物質的に豊かになっても,貧富の格差や所得の変動(低下)発生があり得る以上,幸福感を味わえない人が残ることになります。私自身も,仮に今の所得を半分されたら恐らく幸福感を維持できないと思います。
私は国民の貧富の格差を解消したり,所得を増大させる政策の必要性を否定しません。しかし,格差の解消や所得の増加だけで全国民が幸福感を味わえるとは限らないと思っています。なぜなら,万葉時代と現代と比べ,貧富の格差の是正,平均所得の増大がはるかに進んでも幸福感を感じない人が多数(過半数?)いるからです。
人間はこのような今生きているときの周囲や自分の過去との比較で幸福感を感じるという事実が万葉時代も同じだとすれば,万葉集にで出くる悲しい,苦しい,ツライ,切ない,楽しい,愉快だ,死にたいという気持ちを和歌に託した記録が,現代の我々にも十分当てはまるのではないかと私は考えているのです。
そして,1,300年前と今と基本構造が変わらない部分(考え方やモノの見方)があるとすれば,これから100年200 年経っても基本は変わらない可能性が高いと私は予測するのです。

そんな中で,今でも人間の基本行動にあまり変化がないと思わせる万葉集の和歌を今回は何首か紹介します。
次は,昔竹取翁(たけとりのおいな)と呼ばれた老人が詠んだとされる長歌の最後の部分です。

いにしへの賢しき人も 後の世の鑑にせむと 老人を送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり(16-3791)
<~ いにしへのさかしきひとも のちのよのかがみにせむと おいひとをおくりしくるま もちかへりけり もちかへりけり
<<~ 昔の有識者も後世の教訓とするように,老人を捨てに行くために使った車を持ち帰ってきたとさ,持ち帰ってきたとさ>>

この長歌は,作者が老人(自分)を小ばかにする9人の若い娘に諭したものとされています。昔,飢饉などで食べ物が全くないとき,口減らしでやむなく家庭の老人を山に捨てに行った。その時に捨てる老人を乗せるために使った車を博物館のようなところに展示し,保存し,そのような可哀そうなことにならないよう日頃から協力し合って生活する。そんな教訓に昔の賢人はしたということを伝えたいのではないかと私は思います。
<災害時や飢饉のときの教訓は忘れてはいけない>
実際に老人を捨てたのかは別にして,このような逸話を利用し,飢饉や災害に遇ったとき,今で言えば会社が倒産して解雇されたときなどの備えを怠りなくすることの大切さを教訓として残しているのだろうと私は思います。こういったことは,今でも自分に襲い掛かる災難とそれにあったときの影響度,採れる事後的な対策(限られている)などを日ごろから考え,減災の準備をして置く必要があること,そして若い人もいずれ老人になることを教えてくれそうです。
また,今の年金受給者の実質所得を削減するマクロ経済スライド制のような制度を,老人を対象とした口減らしの一種とするならば,将来を見据えずその場最適の年金政策の結果がもたらした失敗として歴史の教訓としてしっかり残すべきだと私は思います。
さて,次は女性から男性へ怒りの意思を伝えた短歌です。

商返しめすとの御法あらばこそ我が下衣返し給はめ(16-3809)
あきかへしめすとのみのり あらばこそあがしたごろも かへしたまはめ
<<買ったものを返品できる法があるなら,私が贈った下着を返してください>>

万葉時代,女性が男性に下着を贈るのは,妻問で一夜を共にした証だとすると,このように詠んだ女性は,妻問で契りを結んだことを無かったことにしたいと思っていることになります。男性は,その後よほどひどいことを作者の女性に対してやり,怒らせてしまったのでしょうか。
今の法律では,クーリングオフ制度など,契約の取り消しが可能な取引もありますが,女性にひどいことをした男性が免責されるような法律は今の日本にはありません。取り返しのつかないようことをしてしまわないように気を付けて生きていくことは,いつの世の中でも重要なことといえるかもしれませんね。
最後は,大伴家持が痩せた老人をからかって詠んだとされる2首の短歌です。どちらも,が出てきます。

石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ(16-3853)
いはまろにわれものまをす なつやせによしといふものぞ むなぎとりめせ
<<石麻呂さんに私は申し上げます。夏痩せに効くと云われている鰻を捕ってお食べなさい>>

痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな(16-3854)
やすやすもいけらばあらむを はたやはたむなぎをとると かはにながるな
<<痩せていても生きていられれば良いではありませんか。鰻を捕るために川に入って,もしかして流されたりしないでくださいね>>

痩せた老人を本当にバカにしているのではないと私は思いたいです。前の短歌1首だけでは,鰻を捕まえようとして川に入って流されたりするといけないと気が付いた家持は後の短歌を詠んだのでしょうか。
人のためにいろいろアドバイスをするのは,実はかなり難しいことをこの短歌は私には教えてくれます。今で言えば,超肥満人に対して「エクササイズ(運動)したら痩せられるよ」と勧めても,その人が立つことだけがやっとだったらどうでしょう。「太っていても健康に問題なければ良いではありませんか。運動は少しずつ慎重にね」と言うだけにとどめる方が良いと思うかもしれません。
次回は,万葉集ゆかりの街道を25キロほど歩く予定があり,そのレポートをするつもりです。
2015 盛夏スペシャル(2)に続く。

2015年7月12日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ) 都会のみなさん,「浮子」と「沈子」の読み方を知っていますか?

「浮く」の最終回は,「船」でもなく「天の川」でもない「浮く」について,万葉集を見ていきます。
最初は,杯(さかづき)に入れた酒に梅の花を浮かせて飲む行為が宴で行われていたことを示す短歌です。作者は,天平2(730)年1月13日,大宰府大伴旅人が開催した梅見の宴の出席者が詠んだとされるものです。

春柳かづらに折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に(5-840)
はるやなぎかづらにをりし うめのはなたれかうかべし さかづきのへに
<<春柳を髪飾り用に折っているうちに,どなたかが私の盃に梅の花を浮かべたようですね>>

まあ,この梅見の宴はかなり盛り上がっていたのでしょう。作者は,頭に柳の枝を差して舞でも踊ろうとしたのでしょうか。
その間に,作者の盃になみなみとお酒が入れられ,たっぷり梅の花を浮かべて,「さあ梅の花の香りがする酒をどうぞ」と飲み干すように勧められたのかもしれません。
楽しそうな雰囲気が宴会好きな私には伝わってきますね。
さて,次は万葉時代の漁法がうかがえる詠み人知らずの短歌です。

住吉の津守網引のうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは(11-2646)
すみのえのつもりあびきのうけのをの うかれかゆかむこひつつあらずは
<<住吉港の津守が引く網の浮き紐のように,ただ浮くままにまかせよう,恋いしいと思い続けないで>>

前半はいわゆる序詞と呼ばれている部分です。
この短歌の作者が言いたいことは前半ではなく,後半にある苦しい恋を如何に自分自身でコントロールしようとしているのだが,なかなかうまく行かないという思いなのでしょうか。
万葉集の和歌を文学として見るようないわゆる有名な短歌評論家さんは,恐らくこの短歌は論評に値しない,その他雑多な短歌でしかないのかもしれません。
しかし,万葉集を当時の社会や経済の状況を表す貴重な歴史情報資産と見た場合,この短歌は非常に価値が高いと私は思います。
この短歌から,当時を使った漁法がすでに確立されており,巻網漁(まきあみりょう),刺網漁(さしあみりょう)で使う「浮子(あば)」や「沈子(いわ)」のようなものが網に付けられていたことが想像できます。
今も巻網漁,刺網漁は実際に行われており,この短歌はこれらがまさに1300年以上の歴史を持つ漁法である裏付け資料の一つとなります。
私は何度もこのブログで書いていますが,序詞枕詞を「単なるツカミ」と見るのではなく,当時の習慣や社会経済学的な背景をしっかり歴史的に分析し,万葉集の和歌を鑑賞すべきだというのが私の考えです。
最後に紹介するのは,観察眼が鋭い詠み人知らずの短歌です。

潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我はなりてしか恋ひは死なずて(11-2734)
しほみてばみなわにうかぶまなごにも わはなりてしかこひはしなずて
<<潮が満ちてくるとみなわ(水泡)に浮かぶ細かい砂のように私はなってしまったのか。恋いしさに死ぬような思いをすることだなあ>>

私が小学生のころ,両親が毎年夏になると1~2回は福井県の若狭湾などに海水浴に連れていってくれたことを以前このブログでも書きました。
そのとき,確かに潮が満ちて来るとき(波が穏やかな入り江の場合),今まで乾いた砂地に初めて海水が流れてくる先頭は少し泡が立って,乾いた海藻のかけらや小さな砂が浮いていたことを思い出しました。
この短歌は,そんな情景を詠んだと思われますが,海岸にあまり行ったことの無い京人に理解できたのか疑問に思います。
<万葉集の編者はこの短歌を万葉集に入れることで何を残したかったのか?>
少なくとも,この短歌を万葉集に残そうとした編者は,作者のこの観察眼(沈むはずの砂が死んだ人間のように浮いている状況をイメージした)を評価したのだと私は思います。
普通砂は水に沈むのに,海のある状態では砂が海水に浮くことがあると聞いた人たちは,それを見にその海岸に行ってみたいと思わないでしょうか。
今風でいえば「知的好奇心」を持った人たちの心をくすぐる効果があります。
そのような人たちにとっては,この短歌の前半に興味をもち,後半は実はどうでもいいのかもしれませんね。
万葉集の編者は誰で,その編集意図は何かをもっと広い経験者(行政長官,公務員,経営者,役職者,一般ビジネスマン,○○士と呼ばれるコンサルタント,技能者,私のような技術者,学生,専業主婦,フリーターなど),研究者(文学,哲学,心理学,宗教学,政治学,法学,歴史学,社会学,経済学,教育学,理学,工学,自然科学,医学,薬学,情報技術など)が集まり,多角的な視点で検討する機会があれば,是非参加したいと思います。
さて,次回からは動きの詞シリーズはお休みして,2015盛夏スペシャルをお送りいたします。
2015盛夏スペシャル(1)に続く。

2015年7月4日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(2) さ~,七夕だ!天の川に舟を浮かべて逢いに行こう!

「浮く」の2回目は,今の時期に合せて,万葉集には七夕の天の川に舟を浮かべて逢いに行こうとする和歌がでてきますので,それをとりあげてみます。
まず,1首目は山上憶良が神亀元(724)年7月7日に七夕について詠んだされる12首の中の1首(彦星を待つ織姫の立場で)です。

久方の天の川瀬に舟浮けて今夜か君が我がり来まさむ(8-1519)
ひさかたのあまのかはせに ふねうけてこよひかきみが わがりきまさむ
<<天の川の瀬に舟を浮かべて今夜こそあなたは私のところに来てくださるのね>>

2011年7月2日のこのブログでも取り上げていますが,憶良は七夕の謂れに対する造詣が深かかったようです。
<憶良は七夕の行事を日本に広めたかった?>
万葉時代,七夕の日に若い女性が居る家庭では,夫または恋人が妻問に来るのを今か今かと待ち望んでいるのです。
たとえしばらく妻問に来なかったとしても,七夕の謂れから年に1度は来てくれるはずだと信じたい。そんな待つ側の女性の気持ちを憶良は代弁して詠っています。
実は憶良が七夕の物語を一般市民に流行らせようとしていたのではないかと私は想像します。
七夕行事が流行れば,7月7日は確実に妻問が増え,その妻問に行くためや待つ女性が着る衣装や準備グッズが売れるはずです。
そのあたりは,2011年7月7日のこのブログでも少し取り上げています。
さて,次の1首も憶良作とされる七夕歌12首の中の1首です。同様に彦星を待つ織姫の気持ちを詠んでいます。

天の川浮津の波音騒くなり我が待つ君し舟出すらしも(8-1529)
あまのがはうきつのなみおと さわくなりわがまつきみし ふなですらしも
<<天の川に浮かんでいる船着き場の波音が騒がしくなってきました。私が待っている、あなたが舟を漕ぎ出しになったようです>>

妻問を待っている女性は家の外での物音に敏感になります。もちろん,妻問で家に近づく足音はしますし,夫または恋人が家に着くと,まず親が妻問に来る予定の人物か確認をします(妻問の前には和歌をやり取りして,妻問の事前合意)。
妻問に来た男性は,最初に親とも小声であいさつはするでしょうし,親は娘のいる場所へはどうやって行けば良いかを教えたりするでしょう。そんな情景を天の川の船が着き,船の波が岸に打ち寄せる音が騒がしくなったことに重ねて表現しているのだろうと私は解釈します。
最後は,飛鳥時代から奈良事態初期にかけて活躍した藤原房前(ふぢはらのふささき)が自宅での宴席で詠んだと伝わる七夕の長歌です。

久方の天の川に 上つ瀬に玉橋渡し 下つ瀬に舟浮け据ゑ 雨降りて風吹かずとも 風吹きて雨降らずとも 裳濡らさずやまず来ませと 玉橋渡す(9-1764)
ひさかたのあまのかはに かみつせにたまはしわたし しもつせにふねうけすゑ あめふりてかぜふかずとも かぜふきてあめふらずとも もぬらさずやまずきませと たまはしわたす
<<天の川の上流にある瀬に玉のような美しい橋を渡し,下流にある瀬に舟を浮べて舟橋を備えつけ,雨が降って風は吹かないときでも,風が吹いて雨は降らないときでも,裳を濡らさず,間を置かずお出で下さいとの気持ちを込めて玉の橋を天の川に渡す私です>>

さすがに,スケールが違いますね。房前だったらこの程度の公共工事は何でもなかったのでしょうから。
この長歌は,房前自身が作歌したのではなく,お付の人(秘書のような人)が作って,房前が宴の席で詠んだのかもしれません。
宴の出席者は,各地域や各組織の実力者ばかりで,この後玉の橋浮橋をどの川に作るかで盛り上がったのかもしれませんね。
そして,「その川はいっそのこと『天の川』に変えちゃえば?」といった話まで飛び出したりしたかもです。
結局,あまりに盛り上がり過ぎて,「浮かれた話」ばかりになったのではと私は想像しますが,いかがですか?
それでは皆さん,幸せな七夕をお過ごしください。なお,最近顔を出さない天の川君はおとなしくずっと寝ています。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ)に続く。