しばらくお休みにしていました「今もあるシリーズ」にまた戻ります。
さて,現代一般的に使われている鏡の多くがガラスに金属を吹き付けて,その面で光を反射させるものです。しかし,万葉時代の鏡は金属の板を磨いて姿が映るようにしたものでした。
鏡の大きさは,手のひらで持てるほどから,せいぜい両手で持てるほどの大きさの円形です。写真は,千葉県佐倉市にある国立民族博物館に展示されている古墳時代の鏡(裏側)です。
当時の鏡で見られるのは,その大きさから身体の顔や頭など一部のみでした。また,当時の鏡は神聖なものとして扱われ,三種の神器の一つにもなっています(残りは玉と剣)。
そのため,鏡は化粧用の小物として一般にも使われるだけでなく,祭事用として特別な存在だった様子は次の万葉集の東歌でもわかります。
山鳥のをろの初麻に鏡懸け唱ふべみこそ汝に寄そりけめ(14-3468)
<やまとりのをろのはつをに かがみかけとなふべみこそ なによそりけめ>
<<山鳥の尾のように長い初麻に鏡にかけて唱えて祈ったからこそあなたと寄り添えたのよ>>
当時の東国では,その年最初に収穫した麻の繊維に鏡を掛けて願いをかけると叶うという言い伝えがあったのでしょう。
また,次の詠み人知らずの短歌から,当時鏡は美しいものの象徴だったことが読み取れます。
住吉の小集楽に出でてうつつにもおの妻すらを鏡と見つも(16-3808)
<すみのえのをづめにいでて うつつにもおのづますらを かがみとみつも>
<<住吉で行われる野遊びに出かけてみると,本当に僕の妻が鏡のように美しく見えるよ>>
今では,美しい女性のことを,たとえば「花のように美しい」と言いますが,当時は「鏡のように美しい」と言っていたのかもしれませんね。
このように万葉集では鏡を題材にした歌も多くありますが,35首以上もの和歌に出てくる「まそ鏡」という言葉です。その中で「まそ鏡」の用法の多くは,非常に美しい鏡という意味から,清き、磨ぐ、照る、見る、面、床、掛くにかかる枕詞です。
次は枕詞「まそ鏡」が出てくる1首です。
まそ鏡磨ぎし心をゆるしてば後に言ふとも験あらめやも(4-673)
<まそかがみとぎしこころを ゆるしてばのちにいふとも しるしあらめやも>
<<(まそ鏡のように)研ぎ澄ました心を一度緩めてしまったなら、後で(真剣に恋していたと)言っても無意味ですわ>>
これは,坂上郎女が詠んだ短歌で,真剣な恋の気持ちをよくできた一点の曇りもない鏡に譬えているのでしょう。また,この短歌から当時の高級品の鏡は,鏡用の円形の金属の板を熟練した製造工が丹念に歪みなく研磨をしていた様子が伺えます。もしかしたら,「○○という製造工が磨いた鏡」というブランド品も出回っていたのかもしれません。
さて,次は「まそ鏡」が枕詞ではなく,本来の意味で使われている1首です。
まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩よりなづみ行く見れば(13-3316)
<まそかがみもてれどわれは しるしなしきみがかちより なづみゆくみれば>
<<まそ鏡を持っていても私にとっては何の価値もないのよ。旅先で苦労しながら一歩ずつ歩いているあなたの姿を思い起こせば>>
この短歌は旅に出た恋人の帰りを待つ女性が詠んだもののようです。
現在にあてはめれば「あなたが無事に帰ってくれたなら,ダイヤもルビーもいらないわ」といった意味でしょうか。恋人と比較されるくらいですから「まそ鏡」は,万葉時代まさに女性にとってあこがれの品だった可能性を感じます。
天の川 「鏡よ鏡よ鏡さん。この世で一番美しい女性は誰?」
魔法の鏡 「それはたびとの奥さんじゃ」
天の川 「あのな~,たびとはん。 鏡の後ろに隠れて何を訳の分からんこと言うてんねん?」
今もあるシリーズ「釣舟(つりふね)」に続く。
2013年3月24日日曜日
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(9):(まとめ)柿本人麻呂」
このシリーズも今回がまとめになります。
万葉集の羈旅に関する和歌の中で際立った輝きを発しているのは,やはりこのシリーズ最後を飾るにふさわしい柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)だろうと私は思います。
万葉集の彼の和歌は,どれも情景表現,心情表現共に印象に残る和歌ばかりではないでしょうか。
燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず(3-254)
<ともしびのあかしおほとに いらむひやこぎわかれなむ いへのあたりみず>
<<明石の海峡に船が入る日には本当の別れを告げることになるのか。家族の住む家のあたりから見える山々も見えなくなるから>>
この短歌は,人麻呂が明石海峡を東から西へ向かって通過するときに詠んだ1首でしょう。ここを通過すると淡路島が視界を遮り,大阪と奈良を隔てる生駒山系が見えなくなるのです。奈良に住む家族が生駒山に上り,山頂から手を振ったとしても,もう物理的に見ることはできないほど遠くに来てしまったという人麻呂の実感が関西に土地勘のある私には明確に伝わってきます。
<旅先で危険が多いのは今も同じ>
でも,この短歌を悲嘆に暮れている心情のみでしょうか。万葉時代の旅は非常に危険で,旅先で命を落とす人も多かった。だから,旅は不安であり,助け合う家族がそばにいない寂しさが募ってしょうがない。そんな気持ちが今よりも多かったのは事実でしょう。
ただ,この現代でも,2月中旬に起こったグアム通り魔殺人事件,2月下旬に起こったエジプトの熱気球墜落事故,3月下旬起こったカンボジアのジェットコースターに乗った邦人女性の転落事故のように旅先で命を落とす人はゼロではありません。今回の私のイタリア旅行でも,明らかにスリや置き引きを狙っているような人物の気配を有名観光地や大きな鉄道の駅で感じました。
<万葉時代でも街道筋は比較的安全だった?>
いっぽう,街道や実績のある船と船頭を使うのであれば,万葉時代でもそれほど危険はなかったのではないかと私は想像します。なぜなら,街道や航行では毎日多くの物資が運ばれ,そのほとんどは無事目的地についているはずだからです。毎日何らかの事故で人が死んでいたら,運送業は成り立ちませんから。
現代でも「危険であったか,それともなかったか」という○か×かで物事を判断するのではなく,「危険である確率」で物事を冷静に判断することが重要だと私は思います。
<今のマスコミは珍しいことだけを取り上げる?>
話は横道にそれますが,今のマスコミの報道は,事故や事件の発生確率について一般の人が正当に判断することを阻害するものが多すぎると私は感じます。マスコミは注目度が高くなるようなニュースを報道する必要性から,珍しいことや重大なことばかり選んで報道する傾向があります。しかし,その報道を受け取った側はそれが珍しいこととは思わず,いつの間にかそのような事件や事故が日常的なこと,普通のことと勘違いをしてしまうことが珍しくありません。その結果,世の中を必要以上に危険と感じる,必要以上に人との接触を避ける,必要以上に臆病になるようにさせてしまっているのではないかと私は危惧します。
<人麻呂の羇旅の歌に戻すと>
さて,話を人麻呂に戻して,この短歌では「遠くまで来たんだなあ」ということを詠んではいますが,人麻呂の旅の行程自体は順調だったのかもしれませんね。
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(3-266)
<あふみのうみゆふなみちどり ながなけばこころもしのに いにしへおもほゆ>
<<近江の海(琵琶湖)の夕波に集う千鳥よ,君が鳴くと心がしみじみとなり昔のことを思い出すんだよ>>
人麻呂は,この短歌を詠んだとき,琵琶湖のほとりの宿まる場所が決まり,夕方湖岸を散歩をしていたのでしょうか。その時,千鳥(チドリではなく多くの鳥の意か?)が湖面に集まる姿を見て,昔(天智天皇が大津に京を置いていた頃)湖面に大宮人が船を多数浮かべてにぎやかに宴をしていた姿を思い出した(人麻呂も参加)に違いありません。
大津京(近江京ともいう)は天智天皇死後壬申の乱によって,天武天皇が奈良の明日香に京を遷したことによって廃墟だけが残り,大宮人もいなくなり,寂しくなってしまったのでしょう。人麻呂はその静かな湖畔で多くの鳥が集まって騒いでいる情景に遭遇し,この歌を詠んだといえそうです。
次は,海岸で詠んだものです。
み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(4-496)
<みくまののうらのはまゆふ ももへなすこころはもへど ただにあはぬかも>
<<熊野の浦の浜木綿が幾重にも重なり合っているように,心では繰り返し慕っているのだけれど,直接は逢えないのですね>>
この短歌は人麻呂が紀の国(今の和歌山県)の熊野灘に面した海岸で詠んだと考えられる4首のうちの1首です。浜木綿は,木綿の綿のように折り重なった白い細い花弁のようなものが特徴で,その数ほど恋人を恋い慕っているが,恋人の家から遠く離れた旅先なので直ぐ逢いに行くことができないと嘆いている。当然読む人にそんな人麻呂の寂しい気持ちを感じる短歌となっているでしょう。
<人麻呂は熊野灘に面したこの海岸の美しさを紹介している?>
ただ,私の解釈は少しひねくれています。この短歌は,少なくとも万葉集の編者にとっては,熊野の浜には遠くから見るとまるで木綿の花のように見える美しい浜木綿の群落があることを伝える目的で選んだのではないかと。
万葉集で,この短歌のように序詞を使っている和歌では,序詞に続く句がその和歌が伝えたい本体部分だと解釈されるようです。しかし,私は序詞の方が少なくとも万葉集の編者にとっては重要だったのではないかと感じるときがあるのです。
<万葉集は観光ガイドも兼ねている?>
今回の羈旅シリーズを書いてみて,出てくる言葉は,その土地の名前だけでなく,その土地の自然・風光,生き物,産物,そこで仕事する人々などです。多くの和歌は旅の寂しさ,苦しさ,不安感,恋人・家族の想いなどを伝えようとしていますが,序詞に出てくる言葉も含め単純に並べてみれば,何か各地の観光ガイドに引けをとらない内容に見えてきました。
私が万葉集の愛好家や研究者の方々の前で「万葉集の一部は旅の観光ガイドかも」というようなことを言おうものなら,「万葉集が何かの打算で編集されたなんて,考えられないし,考えたくもない」と一蹴されるのが落ちかもしれません。
でも,私が万葉集に対してこんな見方をしたからといって万葉集の価値が下がるわけではありません。また,私はそう感じたと書いているだけで,そうだと断言しているわけでもありません。
さて,羈旅リーズのまとめとしてもう少し書きたい部分もありますが,このくらいにして,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
今もあるシリーズ「鏡(かがみ)」に続く。
万葉集の羈旅に関する和歌の中で際立った輝きを発しているのは,やはりこのシリーズ最後を飾るにふさわしい柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)だろうと私は思います。
万葉集の彼の和歌は,どれも情景表現,心情表現共に印象に残る和歌ばかりではないでしょうか。
燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず(3-254)
<ともしびのあかしおほとに いらむひやこぎわかれなむ いへのあたりみず>
<<明石の海峡に船が入る日には本当の別れを告げることになるのか。家族の住む家のあたりから見える山々も見えなくなるから>>
この短歌は,人麻呂が明石海峡を東から西へ向かって通過するときに詠んだ1首でしょう。ここを通過すると淡路島が視界を遮り,大阪と奈良を隔てる生駒山系が見えなくなるのです。奈良に住む家族が生駒山に上り,山頂から手を振ったとしても,もう物理的に見ることはできないほど遠くに来てしまったという人麻呂の実感が関西に土地勘のある私には明確に伝わってきます。
<旅先で危険が多いのは今も同じ>
でも,この短歌を悲嘆に暮れている心情のみでしょうか。万葉時代の旅は非常に危険で,旅先で命を落とす人も多かった。だから,旅は不安であり,助け合う家族がそばにいない寂しさが募ってしょうがない。そんな気持ちが今よりも多かったのは事実でしょう。
ただ,この現代でも,2月中旬に起こったグアム通り魔殺人事件,2月下旬に起こったエジプトの熱気球墜落事故,3月下旬起こったカンボジアのジェットコースターに乗った邦人女性の転落事故のように旅先で命を落とす人はゼロではありません。今回の私のイタリア旅行でも,明らかにスリや置き引きを狙っているような人物の気配を有名観光地や大きな鉄道の駅で感じました。
<万葉時代でも街道筋は比較的安全だった?>
いっぽう,街道や実績のある船と船頭を使うのであれば,万葉時代でもそれほど危険はなかったのではないかと私は想像します。なぜなら,街道や航行では毎日多くの物資が運ばれ,そのほとんどは無事目的地についているはずだからです。毎日何らかの事故で人が死んでいたら,運送業は成り立ちませんから。
現代でも「危険であったか,それともなかったか」という○か×かで物事を判断するのではなく,「危険である確率」で物事を冷静に判断することが重要だと私は思います。
<今のマスコミは珍しいことだけを取り上げる?>
話は横道にそれますが,今のマスコミの報道は,事故や事件の発生確率について一般の人が正当に判断することを阻害するものが多すぎると私は感じます。マスコミは注目度が高くなるようなニュースを報道する必要性から,珍しいことや重大なことばかり選んで報道する傾向があります。しかし,その報道を受け取った側はそれが珍しいこととは思わず,いつの間にかそのような事件や事故が日常的なこと,普通のことと勘違いをしてしまうことが珍しくありません。その結果,世の中を必要以上に危険と感じる,必要以上に人との接触を避ける,必要以上に臆病になるようにさせてしまっているのではないかと私は危惧します。
<人麻呂の羇旅の歌に戻すと>
さて,話を人麻呂に戻して,この短歌では「遠くまで来たんだなあ」ということを詠んではいますが,人麻呂の旅の行程自体は順調だったのかもしれませんね。
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(3-266)
<あふみのうみゆふなみちどり ながなけばこころもしのに いにしへおもほゆ>
<<近江の海(琵琶湖)の夕波に集う千鳥よ,君が鳴くと心がしみじみとなり昔のことを思い出すんだよ>>
人麻呂は,この短歌を詠んだとき,琵琶湖のほとりの宿まる場所が決まり,夕方湖岸を散歩をしていたのでしょうか。その時,千鳥(チドリではなく多くの鳥の意か?)が湖面に集まる姿を見て,昔(天智天皇が大津に京を置いていた頃)湖面に大宮人が船を多数浮かべてにぎやかに宴をしていた姿を思い出した(人麻呂も参加)に違いありません。
大津京(近江京ともいう)は天智天皇死後壬申の乱によって,天武天皇が奈良の明日香に京を遷したことによって廃墟だけが残り,大宮人もいなくなり,寂しくなってしまったのでしょう。人麻呂はその静かな湖畔で多くの鳥が集まって騒いでいる情景に遭遇し,この歌を詠んだといえそうです。
次は,海岸で詠んだものです。
み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(4-496)
<みくまののうらのはまゆふ ももへなすこころはもへど ただにあはぬかも>
<<熊野の浦の浜木綿が幾重にも重なり合っているように,心では繰り返し慕っているのだけれど,直接は逢えないのですね>>
この短歌は人麻呂が紀の国(今の和歌山県)の熊野灘に面した海岸で詠んだと考えられる4首のうちの1首です。浜木綿は,木綿の綿のように折り重なった白い細い花弁のようなものが特徴で,その数ほど恋人を恋い慕っているが,恋人の家から遠く離れた旅先なので直ぐ逢いに行くことができないと嘆いている。当然読む人にそんな人麻呂の寂しい気持ちを感じる短歌となっているでしょう。
<人麻呂は熊野灘に面したこの海岸の美しさを紹介している?>
ただ,私の解釈は少しひねくれています。この短歌は,少なくとも万葉集の編者にとっては,熊野の浜には遠くから見るとまるで木綿の花のように見える美しい浜木綿の群落があることを伝える目的で選んだのではないかと。
万葉集で,この短歌のように序詞を使っている和歌では,序詞に続く句がその和歌が伝えたい本体部分だと解釈されるようです。しかし,私は序詞の方が少なくとも万葉集の編者にとっては重要だったのではないかと感じるときがあるのです。
<万葉集は観光ガイドも兼ねている?>
今回の羈旅シリーズを書いてみて,出てくる言葉は,その土地の名前だけでなく,その土地の自然・風光,生き物,産物,そこで仕事する人々などです。多くの和歌は旅の寂しさ,苦しさ,不安感,恋人・家族の想いなどを伝えようとしていますが,序詞に出てくる言葉も含め単純に並べてみれば,何か各地の観光ガイドに引けをとらない内容に見えてきました。
私が万葉集の愛好家や研究者の方々の前で「万葉集の一部は旅の観光ガイドかも」というようなことを言おうものなら,「万葉集が何かの打算で編集されたなんて,考えられないし,考えたくもない」と一蹴されるのが落ちかもしれません。
でも,私が万葉集に対してこんな見方をしたからといって万葉集の価値が下がるわけではありません。また,私はそう感じたと書いているだけで,そうだと断言しているわけでもありません。
さて,羈旅リーズのまとめとしてもう少し書きたい部分もありますが,このくらいにして,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
今もあるシリーズ「鏡(かがみ)」に続く。
2013年3月21日木曜日
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(8):東歌」
私は今大阪のお客様へ出張した帰りの新幹線の中からこの投稿をアップしています。今回の出張目的は十分果たせ,気持ちよくこのブログを書いています。
さて,私の住む関東南部では桜が満開近くになりました。まだ,3月末まで1週間以上あります。私の住むマンションでは4月7日に恒例の花見会を行う予定ですが,間違いなく桜ではない花見会となりそうです。
ところで,「東歌」は万葉集が持つ多様性の根拠になるものの一つだと私は感じています。「東歌」が詠まれただろう年代は京が今の奈良地方にあった時代です。「東歌」を京から離れた田舎の人が詠んだ和歌と位置付けて集めたとすれば,奈良より西の地方の人が詠んだたとえば「西歌」という歌群があってもよさそうです。しかし,そのような分類は万葉集には見当たりません。
万葉集の編者は「東歌」を単なる田舎の人が詠んだ和歌という位置づけだけでなく何か別の意図をもって巻14に集めたのではないかと私は考えています。「東歌」から私が感じる編者の意図は,東国に誘(いざな)うこと,そして東国に行く場合に知っておきたい地形,風習,方言などを伝えたいという意図です。東国との交流を活発にすることで,東国の労働力,食糧や原材料の生産力,京付近で生産されている付加価値の高い製品の購買力などが高まり,ヤマト国家全体の経済連携と国力の充実が望めたためではないと私は考えるのですが,考えすぎでしょうか。
関西圏より格段に広大な東国には,さまざまな国や郡が昔からあります。ちなみに,群馬県や埼玉県には4世紀~6世紀のものと言われる数多くの古墳が発見されています。
それぞれの国や郡の間でも盛んな行き来があります。そのような行き来の旅を詠んだ東歌も少なくありません。
最初は,上野の国から信濃の国へ旅立った夫を見送る妻の1首です。
日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ(14-3402)
<ひのぐれにうすひのやまを こゆるひはせなのがそでも さやにふらしつ>
<<日暮れ時に碓氷の山を越えていかれた日,あなたの袖もはっきりと振ってくださったのが見えましたよ>>
この短歌から,妻は家から見送ったのではなく,碓氷峠の麓まで夫と一緒に行き,そこから夫の峠越えを見送ったのだろうと私は思います。
次は,駿河(するが)の国,庵原(いほはら)の郡,蒲原(かんばら)で旅をする人が詠んだといわれる1首です。
東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに(14-3442)
<あづまぢのてごのよびさか こえがねてやまにかねむも やどりはなしに>
<<東国へ向かう手児の呼坂をどうしても越えられなくて,山の中で寝るしかないのか,宿泊する場所がないので>>
手児の呼坂が非常に険しい坂道だから登り越えられないのではなく,越えることが心理的に厳しいことがあるのだとと私は感じます。すなわち,この坂道を越えてしまうと残してきた妻とはもう二度と逢えないかもしれないという心理的な抵抗感です。さて,蒲原と言えば江戸時代東海道五十三次の一つであることは,歌川広重の浮世絵からもご存知の方は多いかもしれません。約1,300年前の万葉時代にすでに蒲原は,手児の呼坂を超える前や登った後に体を休める宿場町の一つだったのでしょうか。手児の呼坂は今の薩埵峠(さったとうげ))の近くに当時あったと街道かもしれません。
最後は,常陸の国の筑波山をいつも見て育った男性が,地元から旅立つときに詠んだと思われる1首です。
さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ(14-3394)
<さごろものをづくはねろの やまのさきわすらこばこそ なをかけなはめ>
<<筑波山の峰々の山の先の形を忘れて来たなら,おまえのことをまったく気に掛けていないことになるのだが>>
反語を使った婉曲な表現の短歌です。作者は筑波山を毎日見ながら育ったのでしょう。その山の形を忘れることは考えられない。それと同じくらいおまえのことを気に懸けないことはないという気持ちを詠んだのだと私には伝わってきます。
さて,思いのほか長く続いた羈旅シリーズも次回でいったん終わりとなります。締めくくりは羈旅の和歌では欠かせない大物歌人「柿本人麻呂」をとりあげます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(9):(まとめ)柿本人麻呂」に続く。
さて,私の住む関東南部では桜が満開近くになりました。まだ,3月末まで1週間以上あります。私の住むマンションでは4月7日に恒例の花見会を行う予定ですが,間違いなく桜ではない花見会となりそうです。
ところで,「東歌」は万葉集が持つ多様性の根拠になるものの一つだと私は感じています。「東歌」が詠まれただろう年代は京が今の奈良地方にあった時代です。「東歌」を京から離れた田舎の人が詠んだ和歌と位置付けて集めたとすれば,奈良より西の地方の人が詠んだたとえば「西歌」という歌群があってもよさそうです。しかし,そのような分類は万葉集には見当たりません。
万葉集の編者は「東歌」を単なる田舎の人が詠んだ和歌という位置づけだけでなく何か別の意図をもって巻14に集めたのではないかと私は考えています。「東歌」から私が感じる編者の意図は,東国に誘(いざな)うこと,そして東国に行く場合に知っておきたい地形,風習,方言などを伝えたいという意図です。東国との交流を活発にすることで,東国の労働力,食糧や原材料の生産力,京付近で生産されている付加価値の高い製品の購買力などが高まり,ヤマト国家全体の経済連携と国力の充実が望めたためではないと私は考えるのですが,考えすぎでしょうか。
関西圏より格段に広大な東国には,さまざまな国や郡が昔からあります。ちなみに,群馬県や埼玉県には4世紀~6世紀のものと言われる数多くの古墳が発見されています。
それぞれの国や郡の間でも盛んな行き来があります。そのような行き来の旅を詠んだ東歌も少なくありません。
最初は,上野の国から信濃の国へ旅立った夫を見送る妻の1首です。
日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ(14-3402)
<ひのぐれにうすひのやまを こゆるひはせなのがそでも さやにふらしつ>
<<日暮れ時に碓氷の山を越えていかれた日,あなたの袖もはっきりと振ってくださったのが見えましたよ>>
この短歌から,妻は家から見送ったのではなく,碓氷峠の麓まで夫と一緒に行き,そこから夫の峠越えを見送ったのだろうと私は思います。
次は,駿河(するが)の国,庵原(いほはら)の郡,蒲原(かんばら)で旅をする人が詠んだといわれる1首です。
東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに(14-3442)
<あづまぢのてごのよびさか こえがねてやまにかねむも やどりはなしに>
<<東国へ向かう手児の呼坂をどうしても越えられなくて,山の中で寝るしかないのか,宿泊する場所がないので>>
手児の呼坂が非常に険しい坂道だから登り越えられないのではなく,越えることが心理的に厳しいことがあるのだとと私は感じます。すなわち,この坂道を越えてしまうと残してきた妻とはもう二度と逢えないかもしれないという心理的な抵抗感です。さて,蒲原と言えば江戸時代東海道五十三次の一つであることは,歌川広重の浮世絵からもご存知の方は多いかもしれません。約1,300年前の万葉時代にすでに蒲原は,手児の呼坂を超える前や登った後に体を休める宿場町の一つだったのでしょうか。手児の呼坂は今の薩埵峠(さったとうげ))の近くに当時あったと街道かもしれません。
最後は,常陸の国の筑波山をいつも見て育った男性が,地元から旅立つときに詠んだと思われる1首です。
さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ(14-3394)
<さごろものをづくはねろの やまのさきわすらこばこそ なをかけなはめ>
<<筑波山の峰々の山の先の形を忘れて来たなら,おまえのことをまったく気に掛けていないことになるのだが>>
反語を使った婉曲な表現の短歌です。作者は筑波山を毎日見ながら育ったのでしょう。その山の形を忘れることは考えられない。それと同じくらいおまえのことを気に懸けないことはないという気持ちを詠んだのだと私には伝わってきます。
さて,思いのほか長く続いた羈旅シリーズも次回でいったん終わりとなります。締めくくりは羈旅の和歌では欠かせない大物歌人「柿本人麻呂」をとりあげます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(9):(まとめ)柿本人麻呂」に続く。
2013年3月16日土曜日
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(7):大伴旅人」
イタリア旅行から帰り,3月11日からは通常の会社務めが再開しました。しかし,年齢のせいが,時差ボケがなかなか治らず,ようやく13日の水曜日あたりから少しずつ正常に戻ってきました。
週の始めは,周りから「休養十分なのでもっと頑張れるのでは?」みたいな目で見られていましたが,いかんともしがたい状況が続きました。時差ボケ恐るべしですね。
お土産も職場に配りおわり,仕事も通常の忙しさが戻ってきています。ブログも,週1回のペースに戻しますので,よろしくお願いします。
さて,今回は大伴旅人に関する万葉集に出てくる羈旅の和歌をご紹介します。
まず,旅人が九州大宰府の長官だったとき,大宰府から九州内を旅した際に詠んだとされる1首です。
いざ子ども香椎の潟に白栲の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ(6-957)
<いざこどもかしひのかたに しろたへのそでさへぬれて あさなつみてむ>
<<さあ君たち。この香椎の潟で,波に白栲の衣の袖を濡しても構わないから、朝食のおかずにする海藻を摘もうではないか>>
この短歌は,今の福岡市東区にある新設された香椎宮(かしひのみや)に参拝した際,近くの(恐らく今の博多湾に面した)海岸で家臣に向けて詠んだものかと私は想像します。
楽しそうな旅人の気持ちが伝わってきます。
次は,旅人が大宰府長官の任を解かれて帰京する旅路で詠んだ1首です。
礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか(3-448)
<いそのうへにねばふむろのき みしひとをいづらととはば かたりつげむか>
<<磯の上(の岩)に根を延ばしている杜松の木よ。かつて見た人(私の妻)は今どこにいるかと問えば,教えてくれるだろうか>>
この短歌は,大宰府で妻を亡くし,帰京の旅路の途中,鞆の浦(広島県福山市鞆町付近か?)で,亡き妻がいないことを悲しんで詠ったものです。旅人は,帰京後1年と経たない内に,あの世に旅立ちます。先に亡くなった妻とあの世で逢えたでしょうか。
年月は逆戻りしますが,旅人が大宰府赴任直前,吉野へ聖武天皇の行幸に同行したときに詠んだと思われる長短歌があります。次はその反歌を紹介します。
昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも(3-316)
<むかしみしきさのをがはを いまみればいよよさやけく なりにけるかも>
<<昔来て見た象の小川は,今見ればいよいよ美しくなったことよ>>
旅人は,以前も吉野の象の小川に来たことがあり,その時その小川の美しさに感動したが,今回天皇と同行して改めて見ると更に美しさが増していることを詠いあげているように感じます。当時,吉野は天皇家の別荘地のような場所だったのだろうと私は思います。
さて,最後は旅人自身が詠んだ和歌ではないようですが,題詞に旅人が東国常陸の国鹿島の郡へ行ったときの様子を詠んだ高橋虫麻呂歌集の1首(詠み人知らず)です。
海つ道のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや(9-1781)
<うみつぢのなぎなむときも わたらなむかくたつなみに ふなですべしや>
<<海路の凪ぐ時まで待って渡られればいいものを。このように立つ波の折りに船出すべきでしょうか>>
この短歌も,この前に詠まれた長歌の反歌です。旅人は,これから奈良の京に帰る時間になったのですが,見送る人が「波も立っているので,まだお帰りにならなくても。もう少しゆっくりしていかれたら?」といった別れを惜しむ気持ちを詠ったものだと私は思います。
さて,羈旅シリーズも後2回を残すのみとなりました。次回は東歌の中に出てくる羈旅の歌を見ていきましょう。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(8):東歌」に続く。
週の始めは,周りから「休養十分なのでもっと頑張れるのでは?」みたいな目で見られていましたが,いかんともしがたい状況が続きました。時差ボケ恐るべしですね。
お土産も職場に配りおわり,仕事も通常の忙しさが戻ってきています。ブログも,週1回のペースに戻しますので,よろしくお願いします。
さて,今回は大伴旅人に関する万葉集に出てくる羈旅の和歌をご紹介します。
まず,旅人が九州大宰府の長官だったとき,大宰府から九州内を旅した際に詠んだとされる1首です。
いざ子ども香椎の潟に白栲の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ(6-957)
<いざこどもかしひのかたに しろたへのそでさへぬれて あさなつみてむ>
<<さあ君たち。この香椎の潟で,波に白栲の衣の袖を濡しても構わないから、朝食のおかずにする海藻を摘もうではないか>>
この短歌は,今の福岡市東区にある新設された香椎宮(かしひのみや)に参拝した際,近くの(恐らく今の博多湾に面した)海岸で家臣に向けて詠んだものかと私は想像します。
楽しそうな旅人の気持ちが伝わってきます。
次は,旅人が大宰府長官の任を解かれて帰京する旅路で詠んだ1首です。
礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか(3-448)
<いそのうへにねばふむろのき みしひとをいづらととはば かたりつげむか>
<<磯の上(の岩)に根を延ばしている杜松の木よ。かつて見た人(私の妻)は今どこにいるかと問えば,教えてくれるだろうか>>
この短歌は,大宰府で妻を亡くし,帰京の旅路の途中,鞆の浦(広島県福山市鞆町付近か?)で,亡き妻がいないことを悲しんで詠ったものです。旅人は,帰京後1年と経たない内に,あの世に旅立ちます。先に亡くなった妻とあの世で逢えたでしょうか。
年月は逆戻りしますが,旅人が大宰府赴任直前,吉野へ聖武天皇の行幸に同行したときに詠んだと思われる長短歌があります。次はその反歌を紹介します。
昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも(3-316)
<むかしみしきさのをがはを いまみればいよよさやけく なりにけるかも>
<<昔来て見た象の小川は,今見ればいよいよ美しくなったことよ>>
旅人は,以前も吉野の象の小川に来たことがあり,その時その小川の美しさに感動したが,今回天皇と同行して改めて見ると更に美しさが増していることを詠いあげているように感じます。当時,吉野は天皇家の別荘地のような場所だったのだろうと私は思います。
さて,最後は旅人自身が詠んだ和歌ではないようですが,題詞に旅人が東国常陸の国鹿島の郡へ行ったときの様子を詠んだ高橋虫麻呂歌集の1首(詠み人知らず)です。
海つ道のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや(9-1781)
<うみつぢのなぎなむときも わたらなむかくたつなみに ふなですべしや>
<<海路の凪ぐ時まで待って渡られればいいものを。このように立つ波の折りに船出すべきでしょうか>>
この短歌も,この前に詠まれた長歌の反歌です。旅人は,これから奈良の京に帰る時間になったのですが,見送る人が「波も立っているので,まだお帰りにならなくても。もう少しゆっくりしていかれたら?」といった別れを惜しむ気持ちを詠ったものだと私は思います。
さて,羈旅シリーズも後2回を残すのみとなりました。次回は東歌の中に出てくる羈旅の歌を見ていきましょう。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(8):東歌」に続く。
2013年3月10日日曜日
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(6):高市黒人」
<イタリア旅行報告6>
2月28日から3月9日までのイタリア旅行も終わり,時差ボケと戦いながら自宅からこのブログをアップしています。
観光最終日に回ったベローナとミラノは対照的でした。ベローナはジュリエットのベランダで有名ですが,町の歴史は古く,ローマ時代の円形競技場,ロマネスク,ルネサンス,バロックの各様式の建築物などが状態よく保存されているのが特に印象的でした。写真上はベローナ市街のアディジェ川に掛かる橋から写したものです。
ミラノの大聖堂(ドュオモウ)の外壁の彫刻はこれでもか,これでもかというほどの圧倒的な数と精密さを後世の我々に訴えかけています。膨大な大理石と大理石彫刻家が何百年という歳月を費やして作成した勢いが当時のミラノにはあったということをしてみてくれます。そして,私の尊敬するレオナルドダビンチの大理石像がミラノの歴史を象徴するように建ててありました(写真下)。
ただ,今回余りにも弾丸ツアーだったので,旅行の整理はこれからです。整理ができたら,また特集したいと思います。
<羈旅シリーズ(6)>
さて,今回の羈旅シリーズは高市黒人(たけちのくろひと)をとりあげます。
万葉集で羈旅シリーズで黒人取り上げないわけには行かないくらい,黒人は羈旅の歌人として有名です。黒人は山部赤人より先輩の歌人のようです。赤人は黒人を意識していたようです。次は赤人が意識していたという黒人の短歌です。
桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る(3-271)
<さくらだへたづなきわたる あゆちがたしほひにけらし たづなきわたる>
<<桜田のほうへ鶴が鳴き渡っていく。年魚市潟は潮がひいたようだなあ>>
この1首は,愛知県名古屋市付近の田で,鶴が田から離れて年魚市潟の方へ鳴きわたっていく姿を見て,年魚市潟の潮がひいて潟ができ,餌を啄ばめる状態になったのだろうと想像している短歌です。
赤人はこの短歌を知ったうえで,次の有名な短歌を作ったとされています。
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(6-919)
これは,桜田にいる黒人とは逆で,潟にいる赤人は潮が満ちてきたので鶴が潟から飛び去っていくことを表現しています。
次の黒人の1首は,同じく鶴の動きを近江の海(琵琶湖)の港の情景を通して,船上から詠んだ短歌です。
磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く(3-273)
<いそのさきこぎたみゆけば あふみのうみやそのみなとに たづさはになく>
<<岬を漕ぎ廻ってゆくと,近江の湖の多数の港で鶴がたくさん群れて鳴いている>>
羈旅シリーズ(4)の女性作のときにも書きましたが,当時琵琶湖は物資を船で運ぶための重要な水路であり,多くの港が作られ,多くの船が航行していたと考えられます。港では物資仲買人,水夫,陸送人夫,船客向けの食堂や,宿泊設備が整備されます。人の食べ残しや,買い手の付かなかった魚などを捨てる場所に鳥が集まってきます。黒人は,船上から琵琶湖のあちこち(恐らく琵琶湖の西側)に作られた港と,そこに群れる鶴(その他の鳥も含む)から,その賑わいを表現していると私は思います。
黒人は旅の際,妻を同伴させることもあったようです。今回のイタリアツアーも熟年夫婦で参加されている方々も多くいらっしゃいました。
ご主人が現役をリタイアされてから,何回も海外旅行にご夫婦で参加され,さまざまな思い出作りをされているご夫婦が大半でした。私は,その面では完全にビギナーでした。
次は黒人が同行の妻に贈ったと想像できる短歌です。
我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ(3-279)
<わぎもこにゐなのはみせつ なすきやまつののまつばら いつかしめさむ>
<<私の妻に猪名野は見せたよ,次は名次山角の松原をいつか見せようか>>
黒人は妻に播磨の国(今の兵庫県南部)にある猪名野という野は見せてあげたが,名次山という山や角の松原という海岸を今度一緒に旅に出た時,見せてあげようという夫黒人の優しい一面が見えます。
今回,長年の罪滅ぼしにイタリア旅行に妻と行きましたが,いつになるかわかりませんが,今度また妻とイタリアに行く機会があったら,ローマ,ベローナをゆっくり回りたいですね。そして,今回コースになかったトリノ,ボローニア,カゼルタ,シチリアの各地も訪問し,二人でイタリアの歴史をさらに感じられたと思います。
イタリア旅行は終わりましたが,まだまだ羈旅シリーズは続きます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(7):大伴旅人」
2月28日から3月9日までのイタリア旅行も終わり,時差ボケと戦いながら自宅からこのブログをアップしています。
観光最終日に回ったベローナとミラノは対照的でした。ベローナはジュリエットのベランダで有名ですが,町の歴史は古く,ローマ時代の円形競技場,ロマネスク,ルネサンス,バロックの各様式の建築物などが状態よく保存されているのが特に印象的でした。写真上はベローナ市街のアディジェ川に掛かる橋から写したものです。
ミラノの大聖堂(ドュオモウ)の外壁の彫刻はこれでもか,これでもかというほどの圧倒的な数と精密さを後世の我々に訴えかけています。膨大な大理石と大理石彫刻家が何百年という歳月を費やして作成した勢いが当時のミラノにはあったということをしてみてくれます。そして,私の尊敬するレオナルドダビンチの大理石像がミラノの歴史を象徴するように建ててありました(写真下)。
ただ,今回余りにも弾丸ツアーだったので,旅行の整理はこれからです。整理ができたら,また特集したいと思います。
<羈旅シリーズ(6)>
さて,今回の羈旅シリーズは高市黒人(たけちのくろひと)をとりあげます。
万葉集で羈旅シリーズで黒人取り上げないわけには行かないくらい,黒人は羈旅の歌人として有名です。黒人は山部赤人より先輩の歌人のようです。赤人は黒人を意識していたようです。次は赤人が意識していたという黒人の短歌です。
桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る(3-271)
<さくらだへたづなきわたる あゆちがたしほひにけらし たづなきわたる>
<<桜田のほうへ鶴が鳴き渡っていく。年魚市潟は潮がひいたようだなあ>>
この1首は,愛知県名古屋市付近の田で,鶴が田から離れて年魚市潟の方へ鳴きわたっていく姿を見て,年魚市潟の潮がひいて潟ができ,餌を啄ばめる状態になったのだろうと想像している短歌です。
赤人はこの短歌を知ったうえで,次の有名な短歌を作ったとされています。
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(6-919)
これは,桜田にいる黒人とは逆で,潟にいる赤人は潮が満ちてきたので鶴が潟から飛び去っていくことを表現しています。
次の黒人の1首は,同じく鶴の動きを近江の海(琵琶湖)の港の情景を通して,船上から詠んだ短歌です。
磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く(3-273)
<いそのさきこぎたみゆけば あふみのうみやそのみなとに たづさはになく>
<<岬を漕ぎ廻ってゆくと,近江の湖の多数の港で鶴がたくさん群れて鳴いている>>
羈旅シリーズ(4)の女性作のときにも書きましたが,当時琵琶湖は物資を船で運ぶための重要な水路であり,多くの港が作られ,多くの船が航行していたと考えられます。港では物資仲買人,水夫,陸送人夫,船客向けの食堂や,宿泊設備が整備されます。人の食べ残しや,買い手の付かなかった魚などを捨てる場所に鳥が集まってきます。黒人は,船上から琵琶湖のあちこち(恐らく琵琶湖の西側)に作られた港と,そこに群れる鶴(その他の鳥も含む)から,その賑わいを表現していると私は思います。
黒人は旅の際,妻を同伴させることもあったようです。今回のイタリアツアーも熟年夫婦で参加されている方々も多くいらっしゃいました。
ご主人が現役をリタイアされてから,何回も海外旅行にご夫婦で参加され,さまざまな思い出作りをされているご夫婦が大半でした。私は,その面では完全にビギナーでした。
次は黒人が同行の妻に贈ったと想像できる短歌です。
我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ(3-279)
<わぎもこにゐなのはみせつ なすきやまつののまつばら いつかしめさむ>
<<私の妻に猪名野は見せたよ,次は名次山角の松原をいつか見せようか>>
黒人は妻に播磨の国(今の兵庫県南部)にある猪名野という野は見せてあげたが,名次山という山や角の松原という海岸を今度一緒に旅に出た時,見せてあげようという夫黒人の優しい一面が見えます。
今回,長年の罪滅ぼしにイタリア旅行に妻と行きましたが,いつになるかわかりませんが,今度また妻とイタリアに行く機会があったら,ローマ,ベローナをゆっくり回りたいですね。そして,今回コースになかったトリノ,ボローニア,カゼルタ,シチリアの各地も訪問し,二人でイタリアの歴史をさらに感じられたと思います。
イタリア旅行は終わりましたが,まだまだ羈旅シリーズは続きます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(7):大伴旅人」
2013年3月8日金曜日
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(5):防人作」
<イタリア旅行報告5>
今日,ミラノ空港から日本に戻ります。
あっという間のツアーでした。とにかく,イタリアの歴史,自然,食事を十分に満喫できた旅でした。
イタリアからの最後の投稿になります。天の川君もワインの飲み過ぎで暴れることもなく,帰国できそうです。ところで,今回のツアーの参加者は40名近い人数でした。たくさん日本からのツアーも来ていましたが,こんなに多くの参加者による別のツアーは見かけませんでした。ミラノでレオナルドダビンチ作の「最後の晩餐」を確実にみられるツアーであったことも満席になった理由かもしれません。
私のツアーの参加者は日本各地からの(23歳から80歳の)老若男女でした。その方々との語らいも大変楽しかったです。
ピサ(男性)とベローナ(女性)の現地人ガイドは素晴らしかったです。お二人とも日本語の発音をわざとイタリア人風に訛らせて,全員を笑わせるうまいジョークを随所に交えながら解説してくれました。日本人ガイドも見習うべきだろうと感じました。
フィレンツェの展望(天の川君がフレームのつもりで手を出していますが,ご容赦を)と天使の足が倒れるのを防いでいるピサの斜塔の写真をアップします。
さて,羈旅シリーズは第5弾まできました。旅の情景を詠んだ防人歌を紹介します。
まず,旅の長さを詠んだ1首からです。
百隈の道は来にしをまたさらに八十島過ぎて別れか行かむ(20-4349)
<ももくまのみちはきにしを またさらにやそしますぎて わかれかゆかむ>
<<いくつも曲がった道を来て,またさらに多くの島を過ぎて,愛しい家族から遠くに別れ行くのだ>>
この短歌の作者は,安房の国出身の刑部三野(をさかべのみつの)というリーダ格の助丁(すけのよぼろ)です。本当は,悲しい,寂しい,不安だ,怖いなどと心情を詠みたいのでけれど,リーダらしく事実だけを詠んでいます。が,それがかえって旅路の厳しさを私には教えてくれます。
次は,防人歌では珍しい長歌です。
足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く 荒し夫も 立しやはばかる 不破の関 越えて我は行く 馬の爪 筑紫の崎に 留まり居て 我れは斎はむ 諸々は 幸くと申す 帰り来までに(20-4372)
<あしがらのみさかたまはり かへりみずあれはくえゆく あらしをもたしやはばかる ふはのせきくえてわはゆく むまのつめつくしのさきに ちまりゐてあれはいははむ もろもろはさけくとまをす かへりくまでに>
<<足柄の神坂で振り返りもせず,私は越えて行く,荒くれ男も立ちはばかる不破の関も私は越えて行く,筑紫の崎では立ち止まって私は慎み祈る。私が帰って戻るまで,いろいろ幸運が残した家族に多くありますようにと>>
この長歌は,倭文部可良麻呂(しとりべのからまろ)という,常陸の国(今の茨城県)出身の防人が詠ったものとされています。この作者,特に何の役職も記されていませんが,なかなかの歌人だと私は思います。また,旅の途中の場所や云われをよく記録(記憶)している頭の良い防人だとも私は想像します。
私は,今ミラノ空港にいます。イタリアの各地や隣国を回ってきたいくつかツアーが同じ飛行機に乗ります。添乗員も顔見知りがいるらしく,情報交換をしています。
しかし,成田空港では10日間一緒にいたツアー参加者ともお別れです。国内線に乗り継ぐ人,スカイライナーや成田エクスプレスで帰る人,空港リムジンバスで帰る人など様々な方面に向かい,明日からの通常の人生の旅にわかれていきます。
最後は,そんな雰囲気を伝える下野の国(今の栃木県)出身の神麻續部嶋麻呂(かますべのしままろ)が詠んだとされる防人歌です。
国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし(20-4381)
<くにぐにのさきもりつどひ ふなのりてわかるをみれば いともすべなし>
<<各地の防人が集い船に乗り別れて行くのを見るのはなんとも切ない>>
さあ,ミラノから成田への飛行機の搭乗時間が近づきました。次は日本に着いたらアップします。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(6):高市黒人」に続く。
今日,ミラノ空港から日本に戻ります。
あっという間のツアーでした。とにかく,イタリアの歴史,自然,食事を十分に満喫できた旅でした。
イタリアからの最後の投稿になります。天の川君もワインの飲み過ぎで暴れることもなく,帰国できそうです。ところで,今回のツアーの参加者は40名近い人数でした。たくさん日本からのツアーも来ていましたが,こんなに多くの参加者による別のツアーは見かけませんでした。ミラノでレオナルドダビンチ作の「最後の晩餐」を確実にみられるツアーであったことも満席になった理由かもしれません。
私のツアーの参加者は日本各地からの(23歳から80歳の)老若男女でした。その方々との語らいも大変楽しかったです。
ピサ(男性)とベローナ(女性)の現地人ガイドは素晴らしかったです。お二人とも日本語の発音をわざとイタリア人風に訛らせて,全員を笑わせるうまいジョークを随所に交えながら解説してくれました。日本人ガイドも見習うべきだろうと感じました。
フィレンツェの展望(天の川君がフレームのつもりで手を出していますが,ご容赦を)と天使の足が倒れるのを防いでいるピサの斜塔の写真をアップします。
さて,羈旅シリーズは第5弾まできました。旅の情景を詠んだ防人歌を紹介します。
まず,旅の長さを詠んだ1首からです。
百隈の道は来にしをまたさらに八十島過ぎて別れか行かむ(20-4349)
<ももくまのみちはきにしを またさらにやそしますぎて わかれかゆかむ>
<<いくつも曲がった道を来て,またさらに多くの島を過ぎて,愛しい家族から遠くに別れ行くのだ>>
この短歌の作者は,安房の国出身の刑部三野(をさかべのみつの)というリーダ格の助丁(すけのよぼろ)です。本当は,悲しい,寂しい,不安だ,怖いなどと心情を詠みたいのでけれど,リーダらしく事実だけを詠んでいます。が,それがかえって旅路の厳しさを私には教えてくれます。
次は,防人歌では珍しい長歌です。
足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く 荒し夫も 立しやはばかる 不破の関 越えて我は行く 馬の爪 筑紫の崎に 留まり居て 我れは斎はむ 諸々は 幸くと申す 帰り来までに(20-4372)
<あしがらのみさかたまはり かへりみずあれはくえゆく あらしをもたしやはばかる ふはのせきくえてわはゆく むまのつめつくしのさきに ちまりゐてあれはいははむ もろもろはさけくとまをす かへりくまでに>
<<足柄の神坂で振り返りもせず,私は越えて行く,荒くれ男も立ちはばかる不破の関も私は越えて行く,筑紫の崎では立ち止まって私は慎み祈る。私が帰って戻るまで,いろいろ幸運が残した家族に多くありますようにと>>
この長歌は,倭文部可良麻呂(しとりべのからまろ)という,常陸の国(今の茨城県)出身の防人が詠ったものとされています。この作者,特に何の役職も記されていませんが,なかなかの歌人だと私は思います。また,旅の途中の場所や云われをよく記録(記憶)している頭の良い防人だとも私は想像します。
私は,今ミラノ空港にいます。イタリアの各地や隣国を回ってきたいくつかツアーが同じ飛行機に乗ります。添乗員も顔見知りがいるらしく,情報交換をしています。
しかし,成田空港では10日間一緒にいたツアー参加者ともお別れです。国内線に乗り継ぐ人,スカイライナーや成田エクスプレスで帰る人,空港リムジンバスで帰る人など様々な方面に向かい,明日からの通常の人生の旅にわかれていきます。
最後は,そんな雰囲気を伝える下野の国(今の栃木県)出身の神麻續部嶋麻呂(かますべのしままろ)が詠んだとされる防人歌です。
国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし(20-4381)
<くにぐにのさきもりつどひ ふなのりてわかるをみれば いともすべなし>
<<各地の防人が集い船に乗り別れて行くのを見るのはなんとも切ない>>
さあ,ミラノから成田への飛行機の搭乗時間が近づきました。次は日本に着いたらアップします。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(6):高市黒人」に続く。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(4):女性作」
<イタリア旅行報告4>
ローマを出発した今回のツアーも南イタリアが終わり,イタリア中央の都市フィレンツェ,ピサ,ヴェネチアに続き,ベローナ,ミラノとスペシャル強行軍でアップする時間がありませんでした。あっいう間に,最終宿泊地のミラノとなり,そこからアップしています。
3月4日のアマルフィー海岸観光で撮ったエメラルドの洞窟とアマルフィの写真の一部をアップします。
5日は,シエーナとフィレンツェ観光をしてきました。どちらも,バロック,ルネサンスの素晴らしい宗教建築・絵画・彫刻をこれでもかと見せつけられました。
ナポリに比べて,シエナもフィレンツェの街は非常にきれいです。添乗員の聞くところによるとフィレンツェとナポリは今も対抗意識が強く,お互いの悪いところを反面教師のように改善しているとのことだそうです。ただ,恐らくですが物価はナポリの方がフィレンツェに比べて断然安いのかなと思います。
その後のピサ,ヴェネチア,ベローナ,ミラノは雨男の私のせいで,すべて雨でした。その内容は後日報告します。
<羇旅シリーズ(4)>
さて,万葉時代は女性は妻問婚のため,家にいて夫の訪問を待つ習慣があった訳ですが,女性も立場によって旅をします。
たとえば,女性天皇は天皇である以上行幸(みゆき)を行う必要があります。お連れの女性も多く行幸に同行したのでしょう。
額田王のように皇族の狩りや行軍に同行して場を盛り上げる和歌を詠う場合,旅をすることになったと思われます。
また,たとえば伊勢神宮の斎宮として選ばれた女性とその下女は,京から伊勢神宮へ向かう旅をすることになります。
斎宮の任期が終了すると京に戻ることができますので,旅の機会はこの時にも訪れます。
まず,持統天皇が紀伊の国に行幸に行ったさい,同行した天智天皇の第四皇女で,文武天皇,元正天皇の母であったという阿閇皇女(後の元明天皇)が詠んだ短歌を紹介します。
これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背の山(1-35)
<これやこのやまとにしては あがこふるきぢにありといふ なにおふせのやま>
<<これこそまさしく大和において私がなんとか見たいと思っていた紀伊路にあるという名高い背の山なのか>>
この短歌は,皇女の夫である草壁皇子が,本来天皇になるはずが他界してしまったのです。そして,自分の夫(我が背)を偲ぶ紀の国にある背の山をみて詠んだものです。
次は,坂上郎女が福岡の大宰府から京に帰る旅路で詠んだ1首です。
我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝(6-964)
<わがせこにこふればくるし いとまあらばひりひてゆかむ こひわすれがひ>
<<あなたを恋しく思えば辛い。道中暇があったら拾って行きましょう,恋忘貝を>>
道中,郎女は難波の住吉(すみのえ)に到着した際,恋忘貝の話を聞き,この短歌を詠ったのでしょうか。夫は他界していて,その夫を偲んで詠んだものかと私は想像します。
最後は同じく,坂上郎女が京都の賀茂神社に参拝した後,近江に立ち寄った際,逢坂山を超えた時に詠んだ1首です。
木綿畳手向の山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ我れ(6-1017)
<ゆふたたみたむけのやまを けふこえていづれののへに いほりせむわれ>
<<手向の山を今日越えて今夜どこの野辺で仮寝をすることになるのだろうか私は>>
郎女がこの短歌を詠んだ頃,逢坂山を超えた近江の国は宿もないような田舎という評判があったのだろうと思います。しかし,実際はそんなことはなく,大津は北国からの物資(特に日本海で獲れた魚など)の船が発着でにぎわっていたと私は思います。でも,行ったことがない場所へ行くのは不安になります。坂上郎女といえども,旅先がどんなところかという不安を詠みたくなったのでしょうか。
さて,次回は遠く東国から九州まで出兵のため旅をすることを余儀なくされた防人が詠んだ羈旅の歌を紹介します。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(5):防人作」に続く。
ローマを出発した今回のツアーも南イタリアが終わり,イタリア中央の都市フィレンツェ,ピサ,ヴェネチアに続き,ベローナ,ミラノとスペシャル強行軍でアップする時間がありませんでした。あっいう間に,最終宿泊地のミラノとなり,そこからアップしています。
3月4日のアマルフィー海岸観光で撮ったエメラルドの洞窟とアマルフィの写真の一部をアップします。
5日は,シエーナとフィレンツェ観光をしてきました。どちらも,バロック,ルネサンスの素晴らしい宗教建築・絵画・彫刻をこれでもかと見せつけられました。
ナポリに比べて,シエナもフィレンツェの街は非常にきれいです。添乗員の聞くところによるとフィレンツェとナポリは今も対抗意識が強く,お互いの悪いところを反面教師のように改善しているとのことだそうです。ただ,恐らくですが物価はナポリの方がフィレンツェに比べて断然安いのかなと思います。
その後のピサ,ヴェネチア,ベローナ,ミラノは雨男の私のせいで,すべて雨でした。その内容は後日報告します。
<羇旅シリーズ(4)>
さて,万葉時代は女性は妻問婚のため,家にいて夫の訪問を待つ習慣があった訳ですが,女性も立場によって旅をします。
たとえば,女性天皇は天皇である以上行幸(みゆき)を行う必要があります。お連れの女性も多く行幸に同行したのでしょう。
額田王のように皇族の狩りや行軍に同行して場を盛り上げる和歌を詠う場合,旅をすることになったと思われます。
また,たとえば伊勢神宮の斎宮として選ばれた女性とその下女は,京から伊勢神宮へ向かう旅をすることになります。
斎宮の任期が終了すると京に戻ることができますので,旅の機会はこの時にも訪れます。
まず,持統天皇が紀伊の国に行幸に行ったさい,同行した天智天皇の第四皇女で,文武天皇,元正天皇の母であったという阿閇皇女(後の元明天皇)が詠んだ短歌を紹介します。
これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背の山(1-35)
<これやこのやまとにしては あがこふるきぢにありといふ なにおふせのやま>
<<これこそまさしく大和において私がなんとか見たいと思っていた紀伊路にあるという名高い背の山なのか>>
この短歌は,皇女の夫である草壁皇子が,本来天皇になるはずが他界してしまったのです。そして,自分の夫(我が背)を偲ぶ紀の国にある背の山をみて詠んだものです。
次は,坂上郎女が福岡の大宰府から京に帰る旅路で詠んだ1首です。
我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝(6-964)
<わがせこにこふればくるし いとまあらばひりひてゆかむ こひわすれがひ>
<<あなたを恋しく思えば辛い。道中暇があったら拾って行きましょう,恋忘貝を>>
道中,郎女は難波の住吉(すみのえ)に到着した際,恋忘貝の話を聞き,この短歌を詠ったのでしょうか。夫は他界していて,その夫を偲んで詠んだものかと私は想像します。
最後は同じく,坂上郎女が京都の賀茂神社に参拝した後,近江に立ち寄った際,逢坂山を超えた時に詠んだ1首です。
木綿畳手向の山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ我れ(6-1017)
<ゆふたたみたむけのやまを けふこえていづれののへに いほりせむわれ>
<<手向の山を今日越えて今夜どこの野辺で仮寝をすることになるのだろうか私は>>
郎女がこの短歌を詠んだ頃,逢坂山を超えた近江の国は宿もないような田舎という評判があったのだろうと思います。しかし,実際はそんなことはなく,大津は北国からの物資(特に日本海で獲れた魚など)の船が発着でにぎわっていたと私は思います。でも,行ったことがない場所へ行くのは不安になります。坂上郎女といえども,旅先がどんなところかという不安を詠みたくなったのでしょうか。
さて,次回は遠く東国から九州まで出兵のため旅をすることを余儀なくされた防人が詠んだ羈旅の歌を紹介します。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(5):防人作」に続く。
2013年3月5日火曜日
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(3):遣新羅使」
<イタリア旅行報告3>
今回はナポリ発のユーロスターの車内からアップしています。
一昨日はカプリ島観光の後,マテーラの洞窟住所を見学しました。冷たい風と雨が時々降ってきて非常に寒かったのですが,実際に住んでいる洞窟住居はなかなか見ものでした。
昨日は朝から快晴で,アルベロベッロのホテルから徒歩でトゥルリ(トンガリ屋根の家)を散策しました(写真上)。
そして,ポンペイへ移動し,広い遺跡の中を丁寧に快適に歩いて見学できました。見学後地元産と思われるレモン風味のジェラートを美味しく食しました。また,アルベロベッロからポンペイまでのバス移動(約4時間)もアドリア海にそって北上する高速道路から地平線彼方に続く南イタリアの田園風景(一面のオリーブ畑,ブドウ畑)の広大さに感動の連続でした(写真下)。
高速道路のサービスエリアの売店でビールやワインを売っているのはさすがにお国柄だとも感じました。地元南イタリア産ワイン(もちろんコルク栓)3本セットがたった10ユーロ(約1,250円)で売っていました。イタリア人のツアーバスの運転手もその安さに驚いていました。酒好きの天の川君が時差ボケでバスの中で寝ていてくれて助かりました。ナポリに戻った夕食のレストランでは地元ワインをハーフボトルで頼みました。陶器でできたデキャンタで500ml以上は確実ありそうなほど並々と入れて持ってきてくれました。レストランのハウスワインなので7ユーロ(約900円)は超お得でした。ただ,半分以上は天の川に飲まれてしまいましたが。
今日も快晴で暖かく,アマルフィ海岸を快適にドライブし,アマルフィで散策しました。そのとき,日本人のカップルが結構式を挙げているところに遭遇し,びっくりしました。夕方にはナポリに戻り,ナポリ駅からユーロスターでフィレンツェに向かっています。
<羇旅シリーズ(3)>
さて,今回の羈旅シリーズは遣新羅使を扱います。遣新羅使は当然新羅の国へ行くわけですから,長い旅をするに決まっています。
万葉集で遣新羅使とその妻が詠んだの旅にまつわる和歌の数は約140首もあり,そのすべてが巻15に収められています。
その中から,まず残してきた彼女に純心を誓う1首からです。
はろはろに思ほゆるかもしかれども異しき心を我が思はなくに(15-3588)
<はろはろにおもほゆるかも しかれどもけしきこころを あがもはなくに>
<<何度も貴女は物思いをするかも知れませんが、旅先で浮気をする考えはまったく持っていません>>
これに対する妻の返歌はありません。こんな短歌を詠んで送ったら,相手は余計に心配するに決まっています。この短歌の作者は,優秀だが女性の気持ちを理解できていない人生経験が不足した新羅使だったのかもしれませんね。
さて,次は潮待ちの後,ようやく夜中出航となった情景を詠んだ1首です。
我れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり(15-3624)
<われのみやよふねはこぐと おもへれば おきへのかたにかぢのおとすなり>
<<私たちのみが夜中に出航するのだと思っていたが,すでに沖の方で櫂の音がしているなあ>>
今回のイタリアツアーの行く先々で日本人観光客ツアーにホテル・観光地でけっこう遭遇します。
みんな同じ行動スケジュールの場合も多く,添乗員やガイド同士もよく知った間柄で,微妙に混まないように行動スケジュールを調整している様子が感じられます。そんな状況を知らないのは,初めて参加するツアー客のみという状況ですが,この短歌もそんな情景を感じさせますね。
旅では,帰ったとき,家族や知人へのお土産のことが課題のひとつです。遣新羅使の旅の歌にもそんな1首があります。
家づとに貝を拾ふと沖辺より寄せ来る波に衣手濡れぬ(15-3709)
<いへづとにかひをひりふと おきへよりよせくるなみに ころもでぬれぬ>
<<帰りのお土産にと貝を拾おうとしていたら,沖の方から寄せてきた波に衣と手が濡れてしまった>>
今でも旅先でお土産によさそうだと思い,自分だけの考えで急いで買うと結局高いものを買ってしまうことがよくあります。この遣新羅使は,お土産にできそうなきれいな貝がありそうだから,自分で取りに行ったら波をかぶり大切な衣を濡らしてしまったのです。この場合は,やはり採り慣れた人が採ったものをお金を出して買った方がよかったのかもしれません。旅先でのお土産は難しいですね。
次回は,万葉時代の女性が旅をして詠んだ和歌を紹介します。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(4):女性作」
今回はナポリ発のユーロスターの車内からアップしています。
一昨日はカプリ島観光の後,マテーラの洞窟住所を見学しました。冷たい風と雨が時々降ってきて非常に寒かったのですが,実際に住んでいる洞窟住居はなかなか見ものでした。
昨日は朝から快晴で,アルベロベッロのホテルから徒歩でトゥルリ(トンガリ屋根の家)を散策しました(写真上)。
そして,ポンペイへ移動し,広い遺跡の中を丁寧に快適に歩いて見学できました。見学後地元産と思われるレモン風味のジェラートを美味しく食しました。また,アルベロベッロからポンペイまでのバス移動(約4時間)もアドリア海にそって北上する高速道路から地平線彼方に続く南イタリアの田園風景(一面のオリーブ畑,ブドウ畑)の広大さに感動の連続でした(写真下)。
高速道路のサービスエリアの売店でビールやワインを売っているのはさすがにお国柄だとも感じました。地元南イタリア産ワイン(もちろんコルク栓)3本セットがたった10ユーロ(約1,250円)で売っていました。イタリア人のツアーバスの運転手もその安さに驚いていました。酒好きの天の川君が時差ボケでバスの中で寝ていてくれて助かりました。ナポリに戻った夕食のレストランでは地元ワインをハーフボトルで頼みました。陶器でできたデキャンタで500ml以上は確実ありそうなほど並々と入れて持ってきてくれました。レストランのハウスワインなので7ユーロ(約900円)は超お得でした。ただ,半分以上は天の川に飲まれてしまいましたが。
今日も快晴で暖かく,アマルフィ海岸を快適にドライブし,アマルフィで散策しました。そのとき,日本人のカップルが結構式を挙げているところに遭遇し,びっくりしました。夕方にはナポリに戻り,ナポリ駅からユーロスターでフィレンツェに向かっています。
<羇旅シリーズ(3)>
さて,今回の羈旅シリーズは遣新羅使を扱います。遣新羅使は当然新羅の国へ行くわけですから,長い旅をするに決まっています。
万葉集で遣新羅使とその妻が詠んだの旅にまつわる和歌の数は約140首もあり,そのすべてが巻15に収められています。
その中から,まず残してきた彼女に純心を誓う1首からです。
はろはろに思ほゆるかもしかれども異しき心を我が思はなくに(15-3588)
<はろはろにおもほゆるかも しかれどもけしきこころを あがもはなくに>
<<何度も貴女は物思いをするかも知れませんが、旅先で浮気をする考えはまったく持っていません>>
これに対する妻の返歌はありません。こんな短歌を詠んで送ったら,相手は余計に心配するに決まっています。この短歌の作者は,優秀だが女性の気持ちを理解できていない人生経験が不足した新羅使だったのかもしれませんね。
さて,次は潮待ちの後,ようやく夜中出航となった情景を詠んだ1首です。
我れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり(15-3624)
<われのみやよふねはこぐと おもへれば おきへのかたにかぢのおとすなり>
<<私たちのみが夜中に出航するのだと思っていたが,すでに沖の方で櫂の音がしているなあ>>
今回のイタリアツアーの行く先々で日本人観光客ツアーにホテル・観光地でけっこう遭遇します。
みんな同じ行動スケジュールの場合も多く,添乗員やガイド同士もよく知った間柄で,微妙に混まないように行動スケジュールを調整している様子が感じられます。そんな状況を知らないのは,初めて参加するツアー客のみという状況ですが,この短歌もそんな情景を感じさせますね。
旅では,帰ったとき,家族や知人へのお土産のことが課題のひとつです。遣新羅使の旅の歌にもそんな1首があります。
家づとに貝を拾ふと沖辺より寄せ来る波に衣手濡れぬ(15-3709)
<いへづとにかひをひりふと おきへよりよせくるなみに ころもでぬれぬ>
<<帰りのお土産にと貝を拾おうとしていたら,沖の方から寄せてきた波に衣と手が濡れてしまった>>
今でも旅先でお土産によさそうだと思い,自分だけの考えで急いで買うと結局高いものを買ってしまうことがよくあります。この遣新羅使は,お土産にできそうなきれいな貝がありそうだから,自分で取りに行ったら波をかぶり大切な衣を濡らしてしまったのです。この場合は,やはり採り慣れた人が採ったものをお金を出して買った方がよかったのかもしれません。旅先でのお土産は難しいですね。
次回は,万葉時代の女性が旅をして詠んだ和歌を紹介します。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(4):女性作」
2013年3月2日土曜日
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(2):高橋虫麻呂」
<イタリア旅行報告2>
私は,今イタリアのカプリ島からナポリ港へ向かう揺れの激しい船の中からこのブログをアップしています。
昨日は,ヴァチカン市国(ヴァチカン美術館,システィーナ礼拝堂,サンピエトロ寺院・広場)で彫刻・絵画・建物のものすごさに圧倒され,ローマ市内(真実の口,コロセッオ,スペイン階段,トレビの泉,その他遺跡のバス車窓見学など)の観光を1日かけて行いました。特にヴァチカンは,コンクラーベ(法王選挙)がまだ始まっておらず,コンクラーベが行われるシスティーナ礼拝堂をこの特別な時期に見学できるチャンスに恵まれました。
昨日のツアーガイドさんはローマに住んでいる日本人の方で,いささか興奮気味(ご本人も初めて経験だった)にこの時期(コンクラーベ)の珍しさを解説してくれていました。
なお,「ローマは1日にしてならず」のパロディーとしてまさに「ローマは1日にして回れず」が結論そのものです。5日間くらいのローマ滞在型ツアーに参加すれば,ローマを少しは回れたということになるでしょうか?
今朝はカプリ島に行ってきましたが,波が荒く,残念ながら青の洞窟には行けませんでした。
<羇旅シリーズ(2)>
さて,万葉集の羈旅シリーズ(2)は高橋虫麻呂をとりあげます。
前回の山部赤人が有名な田子の浦付近から見た有名な富士山の歌がありますが,虫麻呂も富士を讃える長歌1首とそれに対する反歌2首を詠んでいます。
少し,長いですが長歌も紹介します。
なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河の国と こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる富士の高嶺は 天雲もい行きはばかり 飛ぶ鳥も飛びも上らず 燃ゆる火を雪もち消ち 降る雪を火もち消ちつつ 言ひも得ず名付けも知らず くすしくもいます神かも せの海と名付けてあるも その山のつつめる海ぞ 富士川と人の渡るも その山の水のたぎちぞ 日の本のやまとの国の 鎮めともいます神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも(3-319)
<なまよみのかひのくに うちよするするがのくにと こちごちのくにのみなかゆ いでたてるふじのたかねは あまくももいゆきはばかり とぶとりもとびものぼらず もゆるひをゆきもちけち ふるゆきをひもちけちつつ いひもえずなづけもしらず くすしくもいますかみかも せのうみとなづけてあるも そのやまのつつめるうみぞ ふじかはとひとのわたるも そのやまのみづのたぎちぞ ひのもとのやまとのくにの しづめともいますかみかも たからともなれるやまかも するがなるふじのたかねはみれどあかぬかも>
<<甲斐と駿河の国,そしてたくさんの国の真ん中にそびえ立つ富士の高嶺は,天雲もその前を躊躇して通り過ぎ,飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれず,燃える火を雪が消し,逆に降り積もる雪を火が消し続けている。言い難く形容し難く,霊妙な神のようでもある。せの海と名付けは富士山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも富士山の地下水が溢れ出た川だからである。日本全体の重鎮となる神のようであり,まさに国の宝であるよ。駿河にある富士の高嶺はいくら見ても見飽きないことよ>>
これが,1300年近く前に詠まれたと思うと,この描写力を私は讃嘆するしかありません。長歌に出てくる「せの海」は,万葉時代今の本栖湖,西湖,精進湖あたりにあった大きな湖を指すといわれています。
高橋虫麻呂自身でこの長歌を作ったとしたら,虫麻呂は富士山博士号が取得できるくらい富士山を何度も訪れ,研究をしていたことが容易に想像できます。虫麻呂には,旅で訪れる場所について可能な限り勉強や事前の調査をして臨むことが,旅の価値を高めるという姿勢があったのではないかと私は感じます。
これの長歌で当時どれだけ多くの人が富士山を見てみたいと思ったことでしょう。
さて,その反歌を紹介します。
富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり(3-320)
<ふじのねにふりおくゆきは みなづきのもちにけぬれば そのよふりけり>
<<富士の高嶺に降る積もった雪は6月15日に一応消えるけども、その夜にまた雪がふった>>
富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかりたなびくものを(3-321)
<ふじのねをたかみかしこみ あまくももいゆきはばかり たなびくものを>
<<富士の嶺が高く威厳があるため,天の雲も通り過ぎるのを憚って,たなびいてしまっているよ>>
長歌に対する反歌とは,長歌で述べた状況から,結論または導出された内容を短歌として詠います。特に,解説もいらないと思います。
高橋虫麻呂は高橋虫麻呂歌集として万葉集に載せている歌群があります。
この中で,私の住む埼玉を詠った旋頭歌がありますので,紹介させてください。
埼玉の小埼の沼に 鴨ぞ羽霧る おのが尾に降り置ける 霜を掃ふとならし(9-1744)
<さきたまのをさきのぬまにかもぞはねきる おのがをにふりおけるしもをはらふとにあらし>
<<埼玉の小埼の沼で鴨が羽ばたいてしぶきを飛ばしているわ。自分の尾に降り付いた霜を掃いのけようとしているのかもね>>
埼玉の比較的東部には,たくさんの沼があります。小崎の沼が埼玉県のどこにあったかは不明ですが,そこには冬になるとカモがたくさん飛来していたのでしょう。
それを見に行った二人(虫麻呂と彼女?)が,その光景を見て,詠んだのかもしれません。
この旋頭歌の前半で彼女が質問し,後半で虫麻呂がそれに答えているように私には感じとれます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(3):遣新羅使」に続く。
私は,今イタリアのカプリ島からナポリ港へ向かう揺れの激しい船の中からこのブログをアップしています。
昨日は,ヴァチカン市国(ヴァチカン美術館,システィーナ礼拝堂,サンピエトロ寺院・広場)で彫刻・絵画・建物のものすごさに圧倒され,ローマ市内(真実の口,コロセッオ,スペイン階段,トレビの泉,その他遺跡のバス車窓見学など)の観光を1日かけて行いました。特にヴァチカンは,コンクラーベ(法王選挙)がまだ始まっておらず,コンクラーベが行われるシスティーナ礼拝堂をこの特別な時期に見学できるチャンスに恵まれました。
昨日のツアーガイドさんはローマに住んでいる日本人の方で,いささか興奮気味(ご本人も初めて経験だった)にこの時期(コンクラーベ)の珍しさを解説してくれていました。
なお,「ローマは1日にしてならず」のパロディーとしてまさに「ローマは1日にして回れず」が結論そのものです。5日間くらいのローマ滞在型ツアーに参加すれば,ローマを少しは回れたということになるでしょうか?
今朝はカプリ島に行ってきましたが,波が荒く,残念ながら青の洞窟には行けませんでした。
<羇旅シリーズ(2)>
さて,万葉集の羈旅シリーズ(2)は高橋虫麻呂をとりあげます。
前回の山部赤人が有名な田子の浦付近から見た有名な富士山の歌がありますが,虫麻呂も富士を讃える長歌1首とそれに対する反歌2首を詠んでいます。
少し,長いですが長歌も紹介します。
なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河の国と こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる富士の高嶺は 天雲もい行きはばかり 飛ぶ鳥も飛びも上らず 燃ゆる火を雪もち消ち 降る雪を火もち消ちつつ 言ひも得ず名付けも知らず くすしくもいます神かも せの海と名付けてあるも その山のつつめる海ぞ 富士川と人の渡るも その山の水のたぎちぞ 日の本のやまとの国の 鎮めともいます神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも(3-319)
<なまよみのかひのくに うちよするするがのくにと こちごちのくにのみなかゆ いでたてるふじのたかねは あまくももいゆきはばかり とぶとりもとびものぼらず もゆるひをゆきもちけち ふるゆきをひもちけちつつ いひもえずなづけもしらず くすしくもいますかみかも せのうみとなづけてあるも そのやまのつつめるうみぞ ふじかはとひとのわたるも そのやまのみづのたぎちぞ ひのもとのやまとのくにの しづめともいますかみかも たからともなれるやまかも するがなるふじのたかねはみれどあかぬかも>
<<甲斐と駿河の国,そしてたくさんの国の真ん中にそびえ立つ富士の高嶺は,天雲もその前を躊躇して通り過ぎ,飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれず,燃える火を雪が消し,逆に降り積もる雪を火が消し続けている。言い難く形容し難く,霊妙な神のようでもある。せの海と名付けは富士山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも富士山の地下水が溢れ出た川だからである。日本全体の重鎮となる神のようであり,まさに国の宝であるよ。駿河にある富士の高嶺はいくら見ても見飽きないことよ>>
これが,1300年近く前に詠まれたと思うと,この描写力を私は讃嘆するしかありません。長歌に出てくる「せの海」は,万葉時代今の本栖湖,西湖,精進湖あたりにあった大きな湖を指すといわれています。
高橋虫麻呂自身でこの長歌を作ったとしたら,虫麻呂は富士山博士号が取得できるくらい富士山を何度も訪れ,研究をしていたことが容易に想像できます。虫麻呂には,旅で訪れる場所について可能な限り勉強や事前の調査をして臨むことが,旅の価値を高めるという姿勢があったのではないかと私は感じます。
これの長歌で当時どれだけ多くの人が富士山を見てみたいと思ったことでしょう。
さて,その反歌を紹介します。
富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり(3-320)
<ふじのねにふりおくゆきは みなづきのもちにけぬれば そのよふりけり>
<<富士の高嶺に降る積もった雪は6月15日に一応消えるけども、その夜にまた雪がふった>>
富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかりたなびくものを(3-321)
<ふじのねをたかみかしこみ あまくももいゆきはばかり たなびくものを>
<<富士の嶺が高く威厳があるため,天の雲も通り過ぎるのを憚って,たなびいてしまっているよ>>
長歌に対する反歌とは,長歌で述べた状況から,結論または導出された内容を短歌として詠います。特に,解説もいらないと思います。
高橋虫麻呂は高橋虫麻呂歌集として万葉集に載せている歌群があります。
この中で,私の住む埼玉を詠った旋頭歌がありますので,紹介させてください。
埼玉の小埼の沼に 鴨ぞ羽霧る おのが尾に降り置ける 霜を掃ふとならし(9-1744)
<さきたまのをさきのぬまにかもぞはねきる おのがをにふりおけるしもをはらふとにあらし>
<<埼玉の小埼の沼で鴨が羽ばたいてしぶきを飛ばしているわ。自分の尾に降り付いた霜を掃いのけようとしているのかもね>>
埼玉の比較的東部には,たくさんの沼があります。小崎の沼が埼玉県のどこにあったかは不明ですが,そこには冬になるとカモがたくさん飛来していたのでしょう。
それを見に行った二人(虫麻呂と彼女?)が,その光景を見て,詠んだのかもしれません。
この旋頭歌の前半で彼女が質問し,後半で虫麻呂がそれに答えているように私には感じとれます。
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(3):遣新羅使」に続く。
2013年3月1日金曜日
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(1):山部赤人」
<イタリア旅行>
私は,今イタリアのローマ郊外にあるホテルの部屋からこのブログをアップしています。
成田空港から13時間のフライトで数時間前にローマに到着しました。日本でレンタルしてきた海外で使えるWi-fiは快調に使えています。
日本時間は3月1日ですが,現地はまだ2月28日の最後の時間です。明日(3月1日)は午前はバチカン,午後はローマ市内を観光し,夜はナポリに宿泊予定です。
そういえば,2月28日でローマ法王ベネディクト16世が退任し,次期法王がコンクラーベで選出されるまでは,不在という珍しい時期に私たちは訪れることになりました。
それに加え,退任した元法王が存命であることは600年前以来とのことで,それもまたこの旅の思い出話のひとつになりそうです。
私はキリスト教徒ではありませんが,いろいろな国の歴史にも興味をもつひとりとして,案内してくださる方に種々聞いてみることを予定しており,明日を非常に楽しみにしています。
<羇旅シリーズの最初>
さて,今回の万葉集羈旅シリーズのトップバッターとして,旅の和歌をたくさん詠んでいる山部赤人(やまべのあかひと)をおいてほかにふさわしい歌人はいないと私は思いました。
赤人は百人一首にも出てきていますので,万葉歌人の中でも一番よく知られた歌人のひとりでしょう。万葉集における赤人が優れた歌人であるのは,大伴家持が「山柿の門(さんしのもん)」として,柿本人麻呂と同等に並び称したことからもわかります。
「山柿」の「山」は山部赤人,「柿」は柿本人麻呂をさしているといいます。また,古今和歌集の序で紀貫之(きのつらゆき)も赤人と人麻呂は両者とも甲乙つけがたいと書いています。
では,いくつか赤人の旅の歌を紹介していきましょう。
朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし(6-934)
<あさなぎにかぢのおときこゆ みけつくにのしまのあまのふねにしあるらし>
<<朝なぎに舵の音が聞こえています。きっと宮中に食糧を供給する国にある野島(淡路島)の海人の舟なのでしょう>>
私は海の近くの旅館・保養所・研修所に今まで何度も泊まっていますが,やはり夜明けのころに,波が静かな海で漁師が漁をしている舟を見ることがあります。そこで獲れた魚は早朝の市場で競りに掛けられ,その日の宿泊場所(連泊の場合)の夕食になるのかなあと想像したことがあります。
この赤人の短歌もそんな思いがあったのかもしれません。ただし,その魚は,宮中で出すためのものだろうと赤人は想像していると私は思います。西国からの厳しい旅も,難波に地がづいてほっと一息つけた感が私には伝わってきます。
次は,西国へ向かうもっと厳しい旅の情景を詠んだものです。
風吹けば波か立たむとさもらひに都太の細江に浦隠り居り(6-945)
<かぜふけばなみかたたむと さもらひにつだのほそえに うらがくりをり>
<<風が吹くと波が立つだろうかと様子をみるため都太の細江の浦に隠れている>>
船の旅は,当時なかなか大変でした。今日私が13時間かけてイタリアに飛行機(もちろんエコノミークラス)で飛んだときの大変さとは比べ物にならないです。
当時は,気象の変化に対して,常に気を付けて航行する必要があったのだと思います。波が高くなると,波が静かな入り江の島影に隠れて,波が静まるのを待つしかなかったのでしょう。
赤人の羈旅の歌で最後に紹介するのは,土地礼賛の1首です。
沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも(6-918)
<おきつしまありそのたまも しほひみちいかくりゆかば おもほえむかも>
<<沖つ島の荒磯に生える玉藻は,潮が満ちたら隠れていくので,より美しく思えるようだ>>
旅というものは,苦労もあれば,新たな発見で感慨にふけることもあります。
ただ,ヨーロッパ旅行は,今行っておかないともっと年を取ってからでは,きついことを初日でまず感じました。飛行機もホテルも。
そうだよね,天の川君?
天の川 「飛行機で出たワインを飲み過ぎてもた。もう寝るわ。ほな,たびとはんブオナノッテ~。」
なんで,天の川の口からイタリア語で「おやすみなさい」が出てくるのだ。さては,天の川のやつ,イタリア女性に声をかけようと勉強してきたかな?
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(2):高橋虫麻呂」に続く。
私は,今イタリアのローマ郊外にあるホテルの部屋からこのブログをアップしています。
成田空港から13時間のフライトで数時間前にローマに到着しました。日本でレンタルしてきた海外で使えるWi-fiは快調に使えています。
日本時間は3月1日ですが,現地はまだ2月28日の最後の時間です。明日(3月1日)は午前はバチカン,午後はローマ市内を観光し,夜はナポリに宿泊予定です。
そういえば,2月28日でローマ法王ベネディクト16世が退任し,次期法王がコンクラーベで選出されるまでは,不在という珍しい時期に私たちは訪れることになりました。
それに加え,退任した元法王が存命であることは600年前以来とのことで,それもまたこの旅の思い出話のひとつになりそうです。
私はキリスト教徒ではありませんが,いろいろな国の歴史にも興味をもつひとりとして,案内してくださる方に種々聞いてみることを予定しており,明日を非常に楽しみにしています。
<羇旅シリーズの最初>
さて,今回の万葉集羈旅シリーズのトップバッターとして,旅の和歌をたくさん詠んでいる山部赤人(やまべのあかひと)をおいてほかにふさわしい歌人はいないと私は思いました。
赤人は百人一首にも出てきていますので,万葉歌人の中でも一番よく知られた歌人のひとりでしょう。万葉集における赤人が優れた歌人であるのは,大伴家持が「山柿の門(さんしのもん)」として,柿本人麻呂と同等に並び称したことからもわかります。
「山柿」の「山」は山部赤人,「柿」は柿本人麻呂をさしているといいます。また,古今和歌集の序で紀貫之(きのつらゆき)も赤人と人麻呂は両者とも甲乙つけがたいと書いています。
では,いくつか赤人の旅の歌を紹介していきましょう。
朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし(6-934)
<あさなぎにかぢのおときこゆ みけつくにのしまのあまのふねにしあるらし>
<<朝なぎに舵の音が聞こえています。きっと宮中に食糧を供給する国にある野島(淡路島)の海人の舟なのでしょう>>
私は海の近くの旅館・保養所・研修所に今まで何度も泊まっていますが,やはり夜明けのころに,波が静かな海で漁師が漁をしている舟を見ることがあります。そこで獲れた魚は早朝の市場で競りに掛けられ,その日の宿泊場所(連泊の場合)の夕食になるのかなあと想像したことがあります。
この赤人の短歌もそんな思いがあったのかもしれません。ただし,その魚は,宮中で出すためのものだろうと赤人は想像していると私は思います。西国からの厳しい旅も,難波に地がづいてほっと一息つけた感が私には伝わってきます。
次は,西国へ向かうもっと厳しい旅の情景を詠んだものです。
風吹けば波か立たむとさもらひに都太の細江に浦隠り居り(6-945)
<かぜふけばなみかたたむと さもらひにつだのほそえに うらがくりをり>
<<風が吹くと波が立つだろうかと様子をみるため都太の細江の浦に隠れている>>
船の旅は,当時なかなか大変でした。今日私が13時間かけてイタリアに飛行機(もちろんエコノミークラス)で飛んだときの大変さとは比べ物にならないです。
当時は,気象の変化に対して,常に気を付けて航行する必要があったのだと思います。波が高くなると,波が静かな入り江の島影に隠れて,波が静まるのを待つしかなかったのでしょう。
赤人の羈旅の歌で最後に紹介するのは,土地礼賛の1首です。
沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも(6-918)
<おきつしまありそのたまも しほひみちいかくりゆかば おもほえむかも>
<<沖つ島の荒磯に生える玉藻は,潮が満ちたら隠れていくので,より美しく思えるようだ>>
旅というものは,苦労もあれば,新たな発見で感慨にふけることもあります。
ただ,ヨーロッパ旅行は,今行っておかないともっと年を取ってからでは,きついことを初日でまず感じました。飛行機もホテルも。
そうだよね,天の川君?
天の川 「飛行機で出たワインを飲み過ぎてもた。もう寝るわ。ほな,たびとはんブオナノッテ~。」
なんで,天の川の口からイタリア語で「おやすみなさい」が出てくるのだ。さては,天の川のやつ,イタリア女性に声をかけようと勉強してきたかな?
当ブログ5年目突入スペシャル「羈旅シリーズ(2):高橋虫麻呂」に続く。
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