2012年4月29日日曜日

私の接した歌枕(15:湯河原)

<1度目の訪問>
私が大学時代に万葉集の研究クラブに所属していたことは何度もこのブログで紹介していますが,私は部長も経験しました。
私の2年後輩で私の次に部長となった部員が神奈川県湯河原に親戚がいて,温泉旅館を経営しているということで,その温泉旅館でクラブの合宿を行ったのが最初に湯河原を訪れたときです。
そして,湯河原温泉は万葉集にも詠まれている場所であることをその時初めて知りました。

あしがりの土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに子ろが言はなくに(14-3368)
あしがりのとひのかふちにいづるゆの よにもたよらにころがいはなくに
<<足柄の土肥の河内に湧き出す湯が川の流れの中にただようようなことをあの娘は言わなかったのに>>

「足柄の土肥の河内」が今の湯河原を指すのだそうです。
いずれにしても今の湯河原に温泉が豊富に湧いていることは万葉時代から知られていたようです。
最初に訪れたときの季節がいつだったかは定かではありませんが,温泉が素晴らしかったのと,クラブメイトと楽しい語らいの時間を過ごしたことを覚えています。
<2度目の訪問の前に事故>
その後(恐らく,最初訪れた2年後の年末),私は就職した会社の部門の忘年会旅行の企画を任され,湯河原の同じ旅館にしました。
金曜日,勤務先(東京都府中市)の仕事を終えてから,参加者が車に分乗して湯河原まで移動することにしました。
幹事の私も車を出すことになっており,朝から勤め先まで車で移動しました。
12月も半ばに入り,気温はそれほど寒くはなかったのですが,みぞれ交じりの雨が降っていました。
後少しで勤め先に到着する場所で信号待ちしていた私の車に灯油を運ぶ小型(8トン級)タンクローリーのトラックが後ろから急速に近づいて来たと思った瞬間,鈍い音がして車体が大きく揺れました。
後ろを振り返るとリアウィンドウの向こうにトランクを覆うボディーがせりあがっていました。
私の車はそのトラックに追突されたのです。車を降りて後ろに回ると完全にトランク潰れた状態でした。幸いなことに,旅行用具はすべて座席に置いていたので無事でした。
トラックはほとんど損傷ないようです。ただ,タイヤを見ると溝がほとんど無いように見えました。シャーベット状の路面で急ブレーキを掛けてしまったようです。
トラックの運転手(50歳代位)は「すみません。御怪我は?」と聞いてきました。車を道路の脇に停め,近くの公衆電話で事故に遭ったことを会社に知らせました。
会社の上司から「念のため,病院でムチ打ち症になっていないか,診てもらった方が良い」と助言があり,ぶつかったトラックに乗り,近くの病院で診てもらことにしました。
その後,警察に行き,事故の説明をして,会社まで送ってもらいました。私の車はトラックを所有する会社がレッカーを呼び,持って行きました。
<遅い時間の宴会>
幹事の車が事故で来れないばかりか,幹事は別の車に載せてもらう破目になりました。
夕方,勤め先を出発しましたが道が渋滞し,着いたのは夜の9時近くなりました。その後の時間からの宴会でしたが旅館の取り計らいでスムーズに実施でき,幹事の荷が下りました。
<その後は頻繁に訪問>
最近湯河原には2~3年に一回は行っています。それは会社の保養所があるからです。
冬は温泉に温まりに,夏はホタルを見に行き,秋は紅葉,春は花を楽しめます。
最近の湯河原にGW近辺に行くと,湯河原サンサン通りのハナミズキの街路樹が非常に綺麗でした。
湯河原以外に,熱海,伊東,北川(ほっかわ),熱川(あたがわ),稲取,下田,石部,堂ヶ島,宇久須,土肥(とい),戸田(へだ)などの伊豆半島を取り巻く温泉地に行った経験がありますが,やはり湯河原にはそれなりの長い歴史を感じます。
私の接した歌枕(16:三輪山)に続く。

2012年4月25日水曜日

200回特集‥高岡の集い

この前の土曜日と日曜日,富山県高岡市に大学時代活動していた万葉集の研究クラブのOB・OGが集まり,旧交を温めました。
高岡の古城公園(日本の桜百選)周辺は桜が満開でした。初日は各地から集まった参加者は午後高岡駅近くの料亭で再会の宴を楽しく行った後,古城公園を散策しました。
参加者(関東,関西,中京から参加)は,皆今年の桜の開花が遅れ,ちょうど見ごろになった幸運を喜び合ったのです。再会の宴では,私が顧問の先生の研究室にあった昔の写真などをパソコンに取り込んで,スライド投影しました。
懐かしい写真を見て,今回参加しなかったメンバーも含め,「○○に旅行に行ったときだ!」「このときの大学祭の準備はたいへんだったなあ~」「そういえばこの人どうしたのかなあ?」とっいた話が盛り上がり,時間の経過も忘れるほどでした。
その後も2次会,ホテルの部屋での語らいと夜の更けるのも忘れるくらいでした。

翌日は万葉歴史館を訪れ,大伴家持の越中での足跡を改めてたどりました。ボランティアの説明員の方が,親切に私たちに説明くださいました。歴史館の裏の高台から見た白雪をかぶった立山連邦もハッキリと見えました。
歴史館では堅香子(かたかご)の花を植えていました。歴史館に行く途中では,家の前にはコブシやモクレン,チューリップも咲いていました。その後,二上山山頂まで車で満開の桜の中をドライブして,山頂を目指しました。
家持が天平勝宝2(750)年春に越中で詠んだ峰の上の桜を詠んだ短歌があります。

今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり(19-4151)
けふのためとおもひてしめし あしひきのをのへのさくら かくさきにけり
<<今日のこの日のためにと思い,しるしをつけておいた峰の桜がこんなに綺麗に咲きました>>

山頂から家持が歩いたであろう国府の場所,また見たであろう海山川の地形をこの目で確認しました。また,山頂では(うぐいす)が鳴いていて,家持が天平19(747)年のちょうど今頃越中で詠んだ次の短歌を思い浮かべました。

玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり(17-3987)
たまくしげふたがみやまに なくとりのこゑのこひしき ときはきにけり
<<二上山に鳴く鳥の声が美しい季節がやってきたよ>>

なお,この短歌の鳥は鶯ではなく霍公鳥(ほととぎす)のようです。いずれにしても,家持が二上山で鳥がにぎやかに鳴く春の到来を喜んだのは間違いないでしょう。
こうやって,あっという間の2日間が終り,参加者はそれぞれ帰路につきました。
参加者が帰宅した後,今回の集いが大変楽しく,また越中という土地の自然の豊かさ,恵まれた環境を感じられた思い出に残るものだったとのメールを多数頂いたのです。
<事前の回遊>
ちなみに,土曜日の宴の前,私は早めに富山に到着できたので,ひとりで砺波平野の散居村展望台に車で行き,登りました。
写真はその時展望台から撮ったものです。いくつかの田んぼでは水がはられ始めていました。

富山がまさに「富んだ山」から流れてくる川の雪解け水に潤わされ,花で満たされた春爛漫と暖かい心で満たされた旧友たちと過ごした素晴らしい2日間でした。

山は雪川は速水(はやみ)と里の花 海山幸に交わす杯(さかずき)

今回も企画から準備,開催まで1年以上掛けた甲斐があったようです。
このブログ,次はGWスペシャル「私の接した歌枕」シリーズの続きをお送りします。お楽しみに。
私の接した歌枕(15)「湯河原」に続く。

2012年4月15日日曜日

投稿200回特集(「のぞみ」車窓の桜)

<大阪の困難な仕事も峠を越えた>
数日前私は仕事でお客様の本社がある大阪に出張しました。このお客様への出張は先月から数えて5回目でした。
それまでの4回は出張目的が十分果たせず,準備の苦労も回数を重ねるたびに増し,すべて日帰り出張で大変疲れ,往復の新幹線はいつも寝ているだけでした。
今回の出張は比較的良好な結果が得られ,さらに当日は大阪で1泊することが許され,ホテルで十分睡眠をとることができました。翌日は東京に帰るだけですが,いつものような疲れも無く,よい天気に恵まれ,久しぶりに爽やかな気分で帰路の新幹線に乗れました。予約で確保した座席は1E(ある号車の最後尾座席で,リクライニングを倒す時後ろを気にする必要がなく,そして山側(北側)で太陽の光が入らず,ブラインドを下げる必要のない席)です。
<帰京の「のぞみ」出発>
朝8時頃明るい朝日が射す中,新大阪が始発の「のぞみ」から,ちょうど満開の桜が沿線で良い天気に映えて綺麗に見られそうなので,車窓の景色を眺めながら過ごすことにしました(いい年をして)。好都合なことに隣の座席(1D)は誰もいません。私が窓の外ばかり見ていても,変に思う人もいないのです。
「のぞみ」は早速淀川の河川敷の桜を見せてくれました。山崎のサントリーウィスキー工場の前を通過ししたときは,その周辺の桜が山麓を染めていました。京都駅周辺や京都駅を出た直後の鴨川の桜も綺麗に見えました。直後トンネルを通過して,私の育った山科に入ると,北の山沿いに掘られた京都疎水の岸に植えられている桜,連なって咲いているのが遠くですがハッキリとピンクの帯に見えました。
<滋賀県突入>
2番目のトンネルを通過し,大津に入ると瀬田川唐橋の周辺の桜の木が可憐に花を咲かせていました。草津を過ぎたあたりから,琵琶湖の向こう側の比良山系の峰々には雪がまだ残っていて青空に白く映えていました。琵琶湖に注ぐ愛知(えち)川を渡った先の一級河川宇曽(うそ)川両岸では隣を走る近江鉄道の鉄橋と岸の桜が趣のある風景を一瞬ですが見せてくれました。
彦根城を過ぎ,佐和山城跡には桜が結構植えられているようですが,まだ十分開花していませんでした。米原付近の桜はまだつぼみが赤くなってきた程度でした。遠くに見える福井方面の山はまだまだしっかり雪に覆われているように感じました。伊吹山の山肌の残雪はまだら模様で,鳥の頭の形をした雪形もはっきり見えました。
<中部地方突入>
寒いのでまだ桜は蕾と思い期待していなかった関ヶ原の桜は意外にも5分咲き以上でした。大垣市郊外に入ると工場の周辺の桜が満開でした。以降東京まで桜は満開ばかりでした。揖斐川の河川敷の菜の花が綺麗でした。
名古屋までの長良川木曽川では桜はまったく見えません。名古屋駅を出発してようやく中電研究所周辺の満開の桜並木を近くに見つけることができました。三河安城駅の前後にある用水路には桜と菜の花が植えられていて,両方とも精一杯咲いていて,まさに春を実感する光景でした。
Panasonic電工幸田工場周辺の桜が立派でした。その先蒲郡付近から豊橋付近に掛けての山にはたくさん山桜が花を咲かせていました。豊川用水(支流)の岸辺には菜の花が緑の草に映えていました。豊橋を過ぎた幸公園の桜も見事でした。日東電工の工場の桜も見ごたえがありました。
<東海地方突入>
浜名湖周辺や浜松駅付近は残念ながら桜はほとんど見えませんでしたが,天竜川鉄橋の手前のローム(ROHM)浜松の工場の桜は目立っていました。天竜川鉄橋を越えると磐田用水という用水路がたくさんある地域では,用水路の岸に桜,菜の花が所々に植えられ,花を咲かせていました。今後も整備を進め,新幹線の車窓を楽しませてくれることを期待したいですね。NTN磐田製作所の桜も目立っていました。
いよいよ静岡の茶畑がたくさん見える地域に差し掛かりましたが,期待した茶畑の緑と満開の桜のコントラストが美しい風景は見られませんでした。桜の木を近くで並べて植えるのは茶畑にとって良くないのかも知れませんね。ただ,里(茶畑農家)には桜が結構あったように見えました。大井川鉄橋を渡ると科研製薬の工場,静岡駅手前の清掃工場には桜や菜の花が綺麗でした。
清水市からのトンネルを抜け富士市に入ると王子特殊紙,新富士駅を過ぎた後,JATCO,鈴与物流センター,UCCの工場の桜が楽しめました。三島駅の先の山麓には山桜の群落がありました。新丹那トンネルを抜け新熱海駅付近では山桜,民家や別荘の桜が綺麗に咲いていました。
<関東地方突入>
またいくつかのトンネルを抜けて小田原に近付くとみかんのような実がたくさん熟しているのか見えました。遅い品種なのでしょうか。小田原市内に入ると桜の木が多く,少し遠くの山麓にもたくさん桜の木があるように見えました。
並走する厚木小田原道路のも桜がたくさん植えられていました。東京に近付くにつれ,学校,公共施設(役所,公民館,ホールなど),お寺,神社の周辺に植えられた桜が目立つようになりました。
こうして,10時半頃品川駅に到着したのですが,この2時間半,私は万葉集に出てくる次の詠み人知らずの短歌の気持ちだったのでしょう。

見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも(10-1872)
みわたせば かすがののへに かすみたち さきにほへるは さくらばなかも
<<見渡すと春日の野辺に霞が立ったように咲誇っているのは桜の花なのでしょうか>>

そして,日本人が本当に桜好きで,遠い昔から多くの場所に桜を植え楽しんでいるのだということを私は改めて強く感じたのです。
次回は投稿200回特集の第2弾として「万葉の友,高岡の集い」をお送りします。

2012年4月10日火曜日

200号直前特集「これまでを振り返って」

<これまでの投稿を振り返る>
2009年2月28日に投稿を開始したこのブログは,万葉集に出てくる当時使われていた言葉(トークン)に焦点を当てて,その言葉をキーに万葉集を紐解きながら,私の勝手な感想を書いてきました。
3年以上,約200回の投稿ができたのは,万葉集に出てくる言葉がとにかく豊富であり,その言葉の用法(表現の仕方)を万葉集の中で見て行くと,私にとって興味ある発見が続いたからなのです。ただし,「発見」と言っても万葉集研究の専門家でない私にとっての話です。万葉集や国語学を専門に学術研究をなさっている方々にとっては,とっくに分かっていること,否定されていること,採るに足らないことの羅列かも知れません。
ブログという気軽かつ自由に自分の考えを表現できるツールができ,ITを使った関連情報の入手・整理がしやすくなったことが私のような素人でも万葉集に取り組むことができるきっかけになったことは間違いありません。
とはいうものの,多くの方が見る可能性があるブログである以上,何の裏付けも無く勝手な考え方を書くのは良くないことだと私は考えています。
時として,裏付けが乏しいけれど,推測で書きたい場合もあります。また,その推測を仮定として今後裏付けを探していきたい場合もあります。
推測である場合は推測であることをできるだけ示しつつ,表現していくことに心がけていこうとしてきました。
さて,これまで投稿してきた内容を分類すると次のような順序で進めてきました。
①テーマが定まらない時期(2009年2月~6月)
②難読漢字シリーズ(2009年6月~2010年1月)
③動詞シリーズ(2010年2月~2011年7月)
④対語シリーズ(2011年8月~現在進行中)
この間,正月,GW,七夕の時期には「私が接した歌枕シリーズ」「七夕シリーズ」を割り込ませてきました。
また,100回到達,3年目突入などでは,本ブログに関する総括的な投稿をしてきました。
体系的とはとても言えない内容ですが,自分の興味に関する部分を断片的に出すだけでなく,投稿する意図をできるだけ読む人に理解頂けるようシリーズ化して投稿してきたつもりです。
ただ,天の川君がときどきしゃしゃり出て,私の投稿意図を乱してしまうことがありますが,制御不能です。
このブログ,日本が圧倒的に多いですが,日本以外で閲覧数の多い国はアメリカ,ロシア,マレーシア,ドイツ,ラトビア,台湾の順です。アジアが意外と少なく,アフリカや中近東はほとんど閲覧がありません。
なお,ここまでで一番閲覧数が多かった記事は次の記事です。
★2011年 7月 2日(154号):天の川特集(2)‥憶良・家持は「七夕」通?
http://reverse-mannyou.blogspot.com/2011/07/2.html
また,2番目は次の記事です。
★2011年 6月26日(153号):天の川特集(1)‥万葉集は「七夕」を特別扱いしていた?
http://reverse-mannyou.blogspot.com/2010/02/3.html
どちらも昨年の七夕の時期に投稿した記事です。
これらの記事は季節がら瞬間的に閲覧数が多くなることはある程度予想していました。しかし,その後も継続的にアクセスを頂き,過去のトップ2をキープしています。
そのことから七夕という季節的な要因だけでなく,投稿内容そのものに対する興味を持って頂いたのではないかと考えています。
私が,これらの記事で一番言いたかったこと(必ずしも閲覧数が多い要因ではないかも)は,大伴氏(中心は家持)が七夕に関する和歌を利用して,七夕の行事を流行らせ,氏族が運営している製糸業,農業,製酒業,観光業,物品販売などのビジネスを活性化して,氏族の資産を増やそうとしていたのではないかということです。
そして,大伴氏がそのようなビジネスをプロモーション(営業推進)に使った和歌(口承で流行らせようしたもの)が万葉集の一部として残ったのかもしれないと考えたのです。
家持が万葉集最後の短歌の後,歌を詠んでいないように見えるのは,家持が歌を詠むのをやめたというより,和歌を使ってのビジネスプロモーションをしなくなったためではないかと私は推測しています。
だからと言って,万葉集の文学的な素晴らしさを否定するつもりはまったくありません。
紫式部清少納言吉田兼好鴨長明芥川龍之介夏目漱石太宰治志賀直哉も,結局ある種の出版ビジネスを成功させるために作品を書いのがほとんどだと私は思います。
目的はどうあれ,創作された文学作品が優れたものであれば,多くの人に支持され,ずっと歴史に残るものとなるのです。もちろん万葉集もそのひとつです。
200号特集「『のぞみ』車窓の桜」に続く。

2012年3月31日土曜日

対語シリーズ「生と死」(2)‥恋に生き,恋に死す?

万葉時代の恋愛は「うきうきする」「心が躍る」「楽しい」「幸せ」という気持ちになるものではなく,「切ない」「苦しい」「ツライ」「悩ましい」ものだったようです。その結果,「恋のために死にそう」とか「いつまでこの恋の苦しさを耐えて生きていけるのか」などという表現が万葉集の和歌には多く出てきます。
その例を次に示します。

事もなく生き来しものを老いなみにかかる恋にも我れは逢へるかも(4-559)
こともなくいきこしものを おいなみにかかるこひにも われはあへるかも
<<これまで大事もなく生きてきたが,老いてこれほどツライ恋にも私は出会ってしまうとは>>

恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ(4-560)
こひしなむのちはなにせむ いけるひのためこそいもを みまくほりすれ
<<これほどツライ恋で死んでしまったらどうしょう。今生きている日のためにこそ恋人の顔を見たいのに>>

この2首は,大伴氏のなかでも旅人や家持ほどは昇進しなかったけれども,最終的に正五位下(家持は従三位)までになった大伴百代(おほとものももよ)が,天平元(729)年頃に大宰府で詠んだものとされています。これを詠んだとき,百代は30歳~40歳位だろうと私は想像します。当時の平均寿命を考えると老いの域に達しょうとしているといってもおかしくなかったのだろうと私は受け入れます。そして,百代は大宰府の女性と許されない恋に陥り,逢いたいのだけれど思うように逢えない苦しさを感じる日々が続いたのでしょう。
さて,万葉集巻11~13の詠み人知らずの和歌にも生き死にを表現に使うほど苦しい恋の歌が多数載せられています。

いつまでに生かむ命ぞおほかたは恋ひつつあらずは死なましものを(12-2913)
いつまでにいかむいのちぞ おほかたはこひつつあらずは しなましものを
<<命には限りがある。こんなツライ恋であるなら死んだほうがましだよ>>

よしゑやし死なむよ我妹生けりともかくのみこそ我が恋ひわたりなめ(13-3298)
よしゑやし しなむよわぎも いけりとも かくのみこそあが こひわたりなめ
<<いっそ死んでしまおう。生きていたって,あなたをこんなに恋い焦がれ続けていくなら>>

<妻問い婚の面倒くささ>
当然ですが,実際に恋で本当に死んだわけではないと私は思います。その位苦しい恋だ,その位強く恋慕っているのだと伝えたいのでしょう。万葉時代の妻問い婚の慣習では,今の恋人同士のように頻繁逢えたり,逢った時に何時間もお話しができる状況はありませんでした。手紙や贈物を何回も送って,ようやく女性の親から許可が出て,寝床で逢うことができるのです(一緒に食事なんてとんでもないのです)。必死で自分の思いを伝えたい気持ちでこれを詠んでいるのです。実際には「死」や「もう生きられない」という表現を使いたくなるのも私には理解できますね。
<「死」という言葉を簡単に使う現代>
今でも「必死で頑張る」という言葉もよく使いますが,使った人はほとんど100%はその後も生きています。「ゴールを死守する」という言葉も遣いますが,やはり同じです。「死」という言葉を使うのも「生きている」状態があっての話です。そして,今「生きている」ことの真剣さ,誠実さを伝えたいために「死」という言葉を使うのです。
どんなに苦しい,悲しい,ツライ,悩ましい,生きている意味を感じないと思っても,言葉だけにして,実際に「死」を選んではいけないのです。「死」という漢字たくさん使ってもよいから,そういう苦しい気持ちを詩歌,エッセイとして書いたり,友達,友人,先輩にお話して,みんなに伝えることが実は「生きる」ことの証しだと私は思います。
万葉歌人たちも,「死」という言葉を和歌に使って表現し,歌人自身は生き続けたのです。
今生きてる人達は,中島みゆき作詞作曲「誕生」の歌詞にあるように生まれた時最初に親や親戚・知人から"Welcome"と言われて生まれてきたはずです。自分の勝手な判断で「自分は生きている価値が無い」と決めつけることがもしあるとしたら,それはあってはならないことだと私は思います。"生まれてくれてWelcome!"と思っている人がたくさんいるのですから。
200号直前特集(今までの振り返り)に続く。

2012年3月25日日曜日

対語シリーズ「生と死」(1)‥生死は繰り返す?

いまさら書くのも変ですが,ヒトは生きている状態の終了により死という状態を迎えます。一般的にヒトは死の状態に至るのを可能な限り遅らせようとして生きています(いずれは死を迎えることになりますが)。
ヒトが死に至るのを遅らせようとする(長く生きようとする)その大きな要因のひとつには,死後の状態がどんなものか分からないという恐怖心があるのかもしれません。
死に対する恐怖心はヒトの本能であり,万葉時代でも当然あったはずです。今回は万葉集で詠まれている生死観を見て行くことにしましょう。
まず,大伴旅人の有名な短歌からです。

生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
いけるもの つひにもしぬるものにあれば このよなるまはたのしくをあらな
<<我々生物はいずれ死ぬのだから生きている間は楽しく生きたいものだよね>>

解説は特に要らないでしょう。さて,次は竹取翁(万葉集に出てくる竹取の翁)が詠んだとされる短歌(長歌の反歌)です。

死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも(16-3792)
しなばこそあひみずあらめ いきてあらばしろかみこらに おひずあらめやも
<<死んでしまえば相見ることも無い。しかし,生きていれば自分の白髪や生きている子供にきっと一緒にいられるのだよ>>

これは,若い娘たちに老人を大切にするよう諭したものと私は解釈します。
若いときはとかく年寄りを大切にしない時期があるけれど,長く生きていることはそれだけで意味があることを伝えようとしているのだろうと思います。
次は仏教に出てくる「生死」というキーワードを取り扱った詠み人知らずの短歌です。

生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも(16-3849)
いきしにのふたつのうみを いとはしみしほひのやまを しのひつるかも
<<煩悩を遠ざけ仏の世界に思いをはせる>>

「生き死にの二つの海」とは,仏教用語の「生死(しやうじ)」のことで,人間に繰り返しやってくる苦悩を意味します。「煩悩(ぼんなう)」とも言います。
「潮干の山」とは潮の干満のように満ちてきては引いていく人間の煩悩から影響を受けないほど高い山のことで,煩悩から解放された仏の世界である仏界(ぶっかい)を意味します。
奈良時代では仏教の影響を受けるようになり,「死」は本当の生命体の死を意味するのではなく,「死ぬほど好き」「死ぬほど可愛い」「死ぬほど苦しい」といった,生きている間の感情の頂点を指すようになって行ったのかも知れません。
次回はそんな「死ぬほど恋しい」「恋の苦しさで死にそう」といった恋にまつわる「生と死」をみていきましょう。
対語シリーズ「生と死」(2)に続く。

2012年3月20日火曜日

対語シリーズ「多と少」‥少ない資源を大切に活かせば,多くの豊かさがやってくる?

少し投稿が滞りましたが,今回は万葉集での「多」と「少」の扱いを見て行きましょう。
万葉集で形容詞の「多し」は「おほし」と「まねし」という発音に当てられ,名詞の「多」という漢字は「さは」という発音に当てられます。
また,形容詞の「少し」は「すこし」と「すくなし」の二通りの発音に当てられます。
まず,人目(他人の目)が多いことに対して「恋路の邪魔」と嫌っている詠み人知らずの短歌2首を紹介します。

潮満てば入りぬる礒の草なれや見らく少く恋ふらくの多き(7-1394)
しほみてば いりぬるいその くさなれや みらくすくなく こふらくのおほき
<<満潮となれば海に隠れる磯辺の海草のようにあなたと逢う機会が少なくなり恋しい気持ちばかりが多くなる>>

人目多み目こそ忍ぶれすくなくも心のうちに我が思はなくに(12-2911)
ひとめおほみめこそしのぶれ すくなくもこころのうちに わがおもはなくに
<<人目が多いので目に付かぬように忍んでいますが,少なくとも心の中では私は恋慕っております>>

次は,人目のないところで二人だけで逢いたいと詠い続け「少」が3回も出てくる詠み人知らずの長歌(というより歌謡に近い?)を紹介します。

琴酒を 押垂小野ゆ 出づる水 ぬるくは出でず 寒水の 心もけやに 思ほゆる 音の少なき 道に逢はぬかも 少なきよ 道に逢はさば 色げせる 菅笠小笠 我がうなげる 玉の七つ緒 取り替へも 申さむものを 少なき道に 逢はぬかも(16-3875)
<ことさけをおしたれをのゆ いづるみづぬるくはいでず さむみづのこころもけやに おもほゆるおとのすくなき みちにあはぬかも すくなきよみちにあはさば いろげせるすげかさをがさ わがうなげるたまのななつを とりかへもまをさむものを すくなきみちにあはぬかも
<<琴酒を垂らすような野原から流れ出る水は生暖かくなく,その冷たさで心も爽やかになりますね。思うに,あなたとは人の気配が少ない道で逢いたいのです。人通りが少ない道で逢いたいのです。お似合いのあなたのスゲの小笠と,私が首に掛ける玉を飾った7本の緒の首飾りを交換したいと言わせてください。人通りが少ない道で逢いたいのです>>

次は「多」が出てくるもので,大伴家持が世の中の無常を詠んだ次の短歌があります。

うつせみの常なき見れば世の中に心つけずて思ふ日ぞ多き(19-4162)
うつせみのつねなきみれば よのなかにこころつけずて おもふひぞおほき
<<現世の無常を見るにつけ,世の中のできごとに対する心をしっかり持つことができず,ただ物思いにふけるだけの日が多いなあ>>

越中赴任中,の情勢の急変を伝える知らせを頻繁に聞くたび,家持は世の無常を感じ,今後どう対応すればよいのか,どんな生きざまをしていけば良いか,悶々とする日々が多くなっていった時期があったのだろうと私は想像します。
<財の多さと少なさ>
さて,今の私たちは多くのモノ(財)を所有することに興味を持ちます。より多くの財を所有できたとき,やはり幸福感を得る人も多いと思います。その逆に,たとえば昨年3月の震災で多くの財を失った方々は,幸福感をやはり感じることは少ないのだろうと思います。
私が大学で経済学を学ぶなかで,「経済史」という科目を教えて下さった先生が「今,中華人民共和国で文化大革命と呼ばれる思想統制が起こっている。国民はたとえば人民服という画一的な服装の着用を強いられている。しかし,いずれはその国の人々もきらびやかでコンテンポラリーなファッションに血眼になるのです。」と言われた言葉を鮮烈に覚えています。
一緒に授業を受けていた学生の多くが当時人民服だけを着た国民の姿を連日テレビで見ていたので「そんなことは絶対あり得ないよ。四人組(江青をはじめとする文化大革命を推進した4人)が失脚してもあの国でそんなことは起こらない!」と感じていたようです。
<人間は結局物質的な豊かさを最初に求める>
でも私は,「経済哲学」という別科目で「『豊かになり幸福感を味わいたい』という人間の欲求は不変である」と学んでいました。「毛沢東思想を美化し,全国民にその思想を徹底させようとしても,人間である以上,より豊かになりたいという気持ちが消えることはない」と私は感じ「経済史」の先生の言葉を素直に受け入れることができました。
そして,今の中国を見てください。その先生の予想通り,そう遠くない時期に上海などが世界の最新ファッションの発信基地になる勢いです。12億人以上の多くの人々が本気で物質的な豊かさを得ようとした時のパワーは,計り知れないものがあります。
<日本は大国主義なってはいけない?>
いっぽう,資源や人口の少ない日本が豊かになるためには大国と真正面から競争するのではなく,日本しかできないニッチな部分(少ない資源でより高い付加価値を持つ製品やサービス)をより多く見つけ,それを全世界が必要と感じるようにしていくしかないと私は考えます。

数日前,私は新潟県村上市を観光で訪れました。写真は塩引き鮭(サケ)という数百年続く村上特産の保存食を作っている(味匠喜っ川さんの)建物の中です。
鮭が内臓を抜かれ,腹を開いた形で室内や軒先にたくさん干されていますが,その多さに驚きました。
一見,残酷のようにも見えますが,鮭が昨年と同程度に遡上してくることを確認しつつ,鮭の産卵を助け,獲る量はコントロールされ,乱獲はされません(だから数百年続いているのです)。
産卵を終えた鮭はすぐに死に,川に漂い,腐敗してしまいますが,人間がその前に自然の恵みとして頂き,冬雪に閉ざされる人々に栄養を与えてきたのです。日本海側での暮らし豊かさを別の街でまた知った思いです。
対語シリーズ「生と死」に続く。