2019年4月3日水曜日

特別号:「令和」は万葉集の歌ではなく,序の漢文から!

皆さん,お久しぶりです。
4月1日に「平成」に代わって新元号が「令和」と決まりました。
今までの元号は,中国の古典を参考に決められてきたことが多かったようです。今回は日本の古典「日本書紀」「古事記」「万葉集」などを参考にされる可能性があると3月下旬の朝のNHKニュースで見たとき,万葉集からの可能性が一番高いと私は心の中で予想していました。
結果的に予想は当たり(「後付け言っているだけだろ?」と言われれば,そうでない証明はできませんが),大伴旅人が筑紫の大宰府長官であったとき,自宅で梅見の宴を主催(旅人は主人)で集まった人々が詠んだ32首の題詞(序)に次の漢文があります。

(梅花歌卅二首[并序] / 天平二年正月十三日  萃于帥老之宅  申宴會也  于時初春令月  氣淑風和梅披鏡前之粉  蘭薫珮後之香  加以  曙嶺移雲  松掛羅而傾盖  <中略>  宜賦園梅聊成短詠)

この中の「 于時初春令月  氣淑風和梅披鏡前之粉(「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」)」の部分にある「令」「和」が採用されたとのことです。
万葉集を見ている私(ペンネーム:たびと)としてはうれしいかぎりです。ただ,残念ながら,万葉集の歌そのものからではなく,漢字の音読み言葉からも脱することはできなかったようです。文字数の制約もあると思いますが,万葉集を引用するなら日本語本来の言葉である訓読み言葉も今後は検討して欲しいですね。
さて,この序文の「令月」と「風和」にもっともふさわしいと感じる対象の32首の短歌から紹介します。
まず,「令月」についてですが,旧暦の正月(13日)に開かれた宴で,めでたい月であることを詠んだ32首冒頭の1首です。
作者は紀男人(きのをひと)です。主人に歌を詠むように促され,最初に手を挙げた人でしょうか。

正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ(5-815)
<むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ>
<<正月(令月)になって,春が来たら,このように梅の花を愛でて楽しさが尽きないですね>>

次は「風和」にふさわしいと私が思う1首目です。作者は小野田守(をののたもり)です。

霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(5-846)
<かすみたつながきはるひをかざせれどいやなつかしきうめのはなかも>
<<霞が立つような長くなった春の日が差してきたが,何と愛おしいと感じさせる梅の花だあ>>

冬の冷たい風が強く吹いているとすっきり晴れ渡るのですが,霞が立つということはその風が和らいだ証拠でしょうね。
次は「風和」にふさわしいと私が思う2首目です。作者は史大原(ふひとのおほはら)です。

うち靡く春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか分かむ(5-826)
<うちなびくはるのやなぎとわがやどのうめのはなとをいかにかわかむ>
<<風に吹かれてさらさらと靡く春の柳と我々がいるお宅の庭に植えられている梅の花と,どちらが優れているか判断が難しいです>>

冬には葉が無い柳の枝の葉が緑色に伸びてきて,風に吹かれて細い枝が揺らぐ姿から,吹く風は暖かい風を連想させてくれます。
春を感じさせる柳の葉や梅の花,一度にやってきて何を一番と考えるのに悩むのは,季節に敏感であり,それぞれの植物の良さを良く知っている日本人の独特の感性なのかもしれませんね。
(特別号終わり)

2019年1月2日水曜日

続難読漢字シリーズ(35)…懇(ねもころ)

新年明けましておめでとうございます。
また,大変長い間アップが途絶えてしまいました。
正月で少し時間ができたので,このシリーズのアップを続けます。
今回は以前このブログ開始当初(2009年11月2日)に紹介した難読漢字「懇(ねもころ)」について,もう少し詳しく万葉集をみていきます。
現代ではあまり使われなくなった「真心を込めてするさま」という意味の「懇(ねんごろ」という言葉の万葉時代での発音(読み)です。
まず最初の1首から見ていきましょう。

思ふらむ人にあらなくに懇に心尽して恋ふる我れかも(4-682)
<おもふらむひとにあらなくに ねもころにこころつくして こふるあれかも>
<<思ってくれる人でもないのに真心を尽くして恋い慕う私がいますよね>>

大伴家持が友人との別れに贈った1首です。
それほど付き合いが深くなかった相手に対し,失礼が無いように「私のことはお忘れかもしれませんが,私はあなたの熱烈なファンだったんですよ」とのメッセージと捉えるのが良いと私は思います。
2首目は,吉野の宮があった吉野川の美しさを讃えた短歌です。

かわづ鳴く六田の川の川柳の懇見れど飽かぬ川かも(9-1723)
<かはづなくむつたのかはの かはやぎのねもころみれど あかぬかはかも>
<<カエルが鳴く六田付近の吉野川の岸に生えている綺麗な川柳,しみじみといつまでも見ていたい川だなあ>>

川岸に柳が生えている川は,水がきれいな川に見えるようです。よりきれいな川に見せるため,万葉時代から川岸を整備し,柳を植栽し,剪定などの手入れが行われていたのかも知れません。
現代では,柳川市の柳川城堀,京都市の高瀬川,倉敷市のくらしき川,香取市佐原の小野川,栃木市の巴波(うずま)川などには,両岸や片岸に柳の木が植えられて,風情がある風景を醸し出し,人気の観光スポットになっているようです。
さて,最後に紹介するのは,片思いの気持ちを詠んだ短歌です。

懇に片思ひすれかこのころの我が心どの生けるともなき(11-2525)
<ねもころにかたもひすれか このころのあがこころどの いけるともなき>
<<心底片思いしてしまったのか,この頃の我が心ときたら死んだみたいだ>>

恋愛をしているときに,好きな人のことが気になりすぎて,心が弱り病気のような状態になるという,まさに「恋煩い」の状態だと自分で感じて詠んだ短歌でしょうか。
ただ,この短歌を詠んだ作者は,自分を客観視できている人なのかもしれません。
自分を客観視可能な状態は,まだメンタル(精神)面の疲れや傷を冷静に修復できる力が自身に残っている証拠です。
自分の状況を第三者の目で評価し,和歌に詠むことは精神の健康上良い効果も期待できるかもしれませんね。

さて,突然ですが,話を私の本職であるITの話をします。
今ITエンジニアの不足が非常に深刻です。もちろん,他の業界でも人手不足は深刻なのですが,IT業界は空前の仕事量が発生しているのに対して全然ITエンジニアが足りません。例えば,新元号対応,消費税率変更対応,その他今国会で成立した法律改正対応,犯罪・事故・災害を防ぐシステムの対応強化,スマホアプリの新サービス(さまざまなネット通販,ゲームソフトの新製品や人気製品の更新版,店舗クーポン情報,その他の情報提供など)の拡大対応,自動車などの自動運転・AIによるさまざまな作業省力化・ロボットによる自動化(オートメーション)・家電などのIoT(何でもインターネットに接続して利用)の拡大対応などです。
これらに対応できるITエンジニアの育成が全く追いついていないのです。
さらに,これらの対応作業は一から開発する作業より,すでに動いているシステムのソフトウェアを改修・改善する作業のほうが実際ははるかに多いのです。そうすると,単にプログラムを言われた通りに作る能力だけでなく,出来上がって動いているシステムの作りを理解して改修を行う能力が必要となります。
そういったことができるITエンジニアの育成は時間がかかりますが,さらにそれを体系的に育成する仕組みは今はありません。外国のITエンジニアに来てもらうにしても,日本語で書かれた膨大な,そして更新されていない設計文書や要件を読み込み,最新の状態が何かを理解するのは容易ではありません。
そして,稼働中システムの中には初期開発されて稼働を始めて20年以上経つシステムも非常に多くあります。それら古いシステム(遺産システムという意味でレガシーシステムと呼ぶことがあります)への対応は,そのシステムの中身や当時採用された古い技術を知って,対応できるエンジニアが必要です。しかし,その人たちはどんどん年齢を重ねて減っていき,結局中身を知らない慣れない技術者が対応せざるを得ず,時間と費用が余計に掛かかり,ITエンジニア不足の深刻さに拍車を掛けているという状況が指摘されています。
たとえば,経済産業省が設置したIT有識者と呼ばれる人たちが集まってできた研究会は,昨年9月,早急に古いシステムを刷新し,新しいシステムに変えないと大変なことになるという報告(通称「DX報告」)を出ています。この報告では,2025年には,ほとんどの古いシステムで内容を分かって対応できる人はいなくなり,システムはブラックボックス化し,社会の変化に対し迅速に対応できなくなるとの警告を出しています。
しかし,私はいまさらそんな警告を出しても完全に遅きに失し,現実を見ていない乱暴な報告だと評価してしまいます。
なぜなら,今すぐに慌ててシステムを刷新することは,そうでなくてもITエンジニア不足状況なのに,システムの刷新を別に行うのですから,ITエンジニアの不足をその間さらに深刻化させてしまいます。
システムの刷新と言っても,一般的に企画段階から本稼働まで数年(5年以上もざらに)かかります。そして,その間,最初から最後までずっと対応しなければならないITエンジニアは経験豊富で高度な対応力をもった人たちです。
今本当に不足しているITエンジニアは,そういった経験豊富で高度な対応能力をもった人たちです。もし刷新を一斉にやるとそういった人たちの奪い合いが始まり,そして,結局経験の少ない人が刷新プロジェクト運営を担当して,途中で破たんするプロジェクトが多発する恐れがあります。
私は,この手遅れ状態の解消には,古いシステム(レガシーシステム)をしっかり対応できる人材をまず総合的に育てる必要があると考えます。システムのオーナーはレガシーシステム対応技術者の処遇を改善し,研究機関はレガシーシステムの効率的改修技術の高度化研究に力を注ぎ,ITの教育機関はレガシーシステムの改修技術をしっかり教えるのです。
そして,その人たちがレガシーシステムの中身を多くのITエンジニアが理解できる形式知化(ホワイトボックス化)した後,十分な検討の上に構築された刷新体制と計画で刷新プロジェクトを実施していくしかないと考えます。
私の意見は一見ものものずこく遠回りのように見えるかもしれません。
しかし,たとえばできちゃった子供が大人になり,それなりに働いてはくれてはいるが,何を考えているか理解できない,言うことをまったく聞かないと嘆く初老の親たちに「その子を無視・放置・虐待しても良いから,まだ間に合うので次の子を早急に産み,そちらに期待しましょうよ」と指導する国の政策は,過去の自国がやってきた政策の間違いを反省だにしない発展途上国のレベルにも達しないような国のものなのかもしれません。
少なくとも,先進国でそんな政策をとったら,「人権後進国だ!」と国連などで強く糾弾されてしまいます。
稼働中のITシステムは国民(人)ではないので,人権はありません。しかし,ある一つのシステムが稼働してから役目を終えるまでに掛かるITエンジニアの手間は,ある人が生まれてから一生において必要な本人以外(親,医療機関・教育機関・行政機関・就職先企業・介護機関などの人たち)から受ける手間のモデル(既に国際規格になっているシステムやソフトウェアのライフサイクルモデル)とよく似ているというのが,私の40数年に渡るIT業務の経験からの結論です。
結論として,闇雲にシステムの刷新を急がせるだけの施策は,そのモデルを無視した(人であれば人権を無視した)薄っぺらなものでしかないと私は感じてしまうのです。
このブログの趣旨とは乖離しましたが,年頭の投稿としてお許しください。
(続難読漢字シリーズ(36)につづく)

2018年9月21日金曜日

続難読漢字シリーズ(34)…乍(なが)ら

しばらくアップが途絶えてしまいました。
8月7日,6カ月超の病気休職から職場復帰を果たしたのですが,やはりIT業務における約半年のブランクを埋めるのは結構大変でした。ようやく職場復帰も軌道に乗ってきたのでアップする時間が何とか作れました。
プロスポーツ選手や音楽のプロ演奏家が6カ月まったくその仕事や練習に関わらなかったら,すぐ元に戻らないのと同じかも知れません。
特に,既存システムのソフトウェア保守をやっていると,半年の間にシステムの稼働環境やアプリの更新が結構進んでいて,多数の更新の内容,理由,運用への影響,各種文書の更新状況も把握する必要があり,時間がとられたこともあります。何せ,40数年間ITの仕事をしてきて,仕事を離れたのは結婚のときに約2週間休んだのが最長で,6カ月間以上まったくITの仕事を休むなんてことは初めてだったこともありました。
アップできなかった言い訳はこのくらいにして,今回は「乍(なが)ら」について万葉集をみていきます。
「音楽を聞き乍ら,仕事をする」といった使い方をする「ながら」です。「ながら族」という言葉が流行った時代もありましたが,若い人は知らないかも知れません。
最初は,もっとも多く万葉集に出てくる「神乍(かむなが)ら」という言葉が使われている,持統天皇が吉野に何度目かはわかりませんが行幸(みゆき)したとき柿本人麻呂が詠んだとされる長歌の反歌を紹介します。

山川も依りて仕ふる神乍らたぎつ河内に舟出せすかも(1-39)
<やまかはもよりてつかふる かむながらたぎつかふちにふなでせすかも>
<<山川の神も同様に服従する大君は,激流の川を抱えた宮地より舟出なさる>>

「神乍(かむなが)ら」とは,神と同じという意味ととらえられます。これは「天皇は神と同じ」という讃嘆の意味で宮廷歌人たちが儀礼的に使用する言葉だったのでしょう。
次に紹介するのは,仏教の無常観を色濃く詠んだと思われる短い長歌風の和歌です。

高山と海とこそば 山乍らかくもうつしく 海乍らしかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人(13-3332)
<たかやまとうみとこそば やまながらかくもうつしく うみながらしかまことならめ ひとははなものぞ うつせみよひと>
<<高山と海はまさに,山は山として存在し,海は海としてあるがままに存在する。
ところが,人は花がすぐ散るように,はかなくこの世に生きているのである>>

人があっけなく死んでしまうことが多かった万葉時代ですから,こんな和歌を詠ませたのかも知れません。ただ,作者は人の命の「はかなさ」を花にたとえているのですから,また咲いてくれることを想定していると私は感じます。そのことを意識して詠んだとすれば,作者は「生命は死んだら終わり」という考えを持っていない可能性があります。
仏教には「生命は永遠である」と教える経典もあります。前世,現世,来世(三世)というように,生命はずっと続くというのです。
作者が知っていたかどうかは定かではないですが,前世が終わって,現世に生まれてくることは非常に稀有なことだから,現世での命を大切にし,世のために尽くして,充実した人生を歩むことが,来世も幸福な生命として産まれてくるために大切と説く仏教の経典もあります。
さて,次に紹介するのは,越後で詠まれたという仏足石歌体(五・七・五・七・七・七)という珍しい歌体の和歌です。万葉集では,この歌体とされるのは,この1首のみです。

弥彦の神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮衣着て角つき乍ら(16-3884)
<いやひこの かみのふもとに  けふらもか しかのふすらむ かはころもきて つのつきながら>
<<弥彦の神山の麓に今日もまた鹿がひれ伏しているのか,皮衣を着て角をつけたまま >>

この和歌は「神の使いである鹿が,霊験あらたかな弥彦山の神に山麓でひれ伏しいる。まさにそれは鹿で,皮の色も鹿の模様で角もちゃんとあったよ」といったくらいの軽い意味にとらえておけばよいと私は考えます。
作者が今の新潟県にある弥彦山に旅で寄った時,麓で休んでいる鹿を見て感じたことを(最後の七文字)も付け加えたくて作ったのでしょう。「そういえば鹿だから角もあったことも入れないとね」といった具合に。
最後に紹介するのは,大伴池主が越中で,大伴家持から贈り物としてもらった針袋に対して返答した短歌の1首です。

針袋帯び続け乍ら里ごとに照らさひ歩けど人も咎めず(18-4130)
<はりぶくろおびつつけながら さとごとにてらさひあるけど ひともとがめず>
<<針袋を腰につけたままいろいろ里を歩いてみましたが,誰も取り立てて話しかけてくれませんでしたよ>>

この短歌は,非常に難解だと私は感じます。
大伴池主と家持との間柄は,通常の親戚との付き合いではなく,特殊な関係があったかもしれないと感じるからです。
池主が家持からもらった針袋(旅のときに携帯するためのものの一つ)について,返答の歌を贈っていであることは分かりますが,それにしては,あまり有難さを伝えようとした感じがありません。
「私は越中にいるが家持殿と違い現地の人からまだ受け入れられず,旅の途中の人とみられているから,旅の用具を身につけても何も里人から変に思われない」ということか?
将又(はたまた)「家持殿からこれを贈られたのは,『早く旅立って京に帰れ』という指示で,里人もそのことを知っており,私が旅の携帯品の針袋を持って歩いていても,何も言わない」ということか?
いずれにしても,この二人の関係は儀礼的な感謝の気持ちを返すだけの関係でなかったことだけは確かでしょう。
(続難読漢字シリーズ(35)につづく)

2018年8月4日土曜日

続難読漢字シリーズ(33)…響む(とよむ)

今回は「響(とよ)む」について万葉集をみていきます。大きな音を発して,うるさい状況を表す意味です。現在では「ひびく」と読みますが,万葉時代は「とよむ」という言葉が多く使われていたようです。。
「とよむ」はその後「どよめく」という言葉に変化していったのかもと私は想像します。
万葉集で「響む」の代表格は「霍公鳥(ほととぎす)」がうるさく鳴く表現が12首ほどに出てきます。今回は「霍公鳥」の鳴き声の「響む」は取り上げず,その他の音に関する「響む」について詠まれているものを取り上げます。
最初は,大きな音ではないのに「響む」を使った女性作の短歌です。

敷栲の枕響みて寐ねらえず物思ふ今夜早も明けぬかも(11-2593)
<しきたへのまくらとよみて いねらえず ものもふこよひはやもあけぬかも>
<<あなたの枕が大きな音を立て寝られない。物思いにふけった今夜も もうじき朝になるのね>>

「枕が大きな音を立てる」というのはどう解釈すればよいのでしょうか。
私の勝手な解釈ですが,夫の妻問いを待つため,夫用の枕を自分の枕の横に用意しているけれど,一向に夫は来ない。
使われていない夫用の枕(当時は木製?)を,うつらうつらしている間に誤って触って倒すと大きな音がする。その音に目が覚め,その後は「なぜ夫は来ないのか」と物思いにふけっていると,夜が明けてしまいそうだという情景です。
さて,次に紹介するのは,波の潮騒が響くことを詠んだ,これも女性作の短歌とされるものです。

牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ(11-2731)
<うしまどのなみのしほさゐ しまとよみよそりしきみは あはずかもあらむ>
<<牛窓の波の潮騒が島全体に響くように周囲が騒がしいようです。寄りそうあなた様としばらく逢えないかもしれません>>

牛窓は,瀬戸内海に面した今の岡山県牛窓町付近とされているようです。
牛窓には前島などいくつかの島がすぐ前にあり,島間の海流が激しく,潮騒の音が大きく響くことで京にも知られた場所だったのかもしれません。
この短歌の作者がここを訪れたわけではなく,牛窓の瀬の地域情報を序詞に引用して作歌したと私は思います。それにしても,どれだけ二人は関係は騒がれたのでしょうか。
最後に紹介するのは,東歌です。

植ゑ竹の本さへ響み出でて去なばいづし向きてか妹が嘆かむ(14-3474)
<うゑだけのもとさへとよみ いでていなばいづしむきてか いもがなげかむ>
<<竹林の根元まで響くように大騒ぎして私が旅立った後,どこを居ても妻は嘆くことだろう>>

おそらくですが,作者(夫)が徴兵か徴用で遠くへ旅立つ際の見送りのとき,近所の人たちが集まり,みんなで旅の無事や引き立てられた仕事の活躍と幸運を祈り,チャンスが来たことを祝い,盛大に見送ったのでしょう。
見送る側は,作者の名前を連呼し,飛び上がってバンザイのようなことをしたのかも知れません。その見送り時の人が飛び跳ねる音は,竹林も揺るがすような大きな音だったと作者は感じたのです。
しかし,妻だけは,そんな大騒ぎの陰で自分が居なくなったことに悲しみ暮れるだろうと思われることがツライ。そんな気持ちが伝わってきます。
日本人は「響む」ような大きい音に対して,その反対の静けさをも大切にする割と少数の民族かもしれないと私は感じます。場所にもよりますが,お隣の韓国や中国の人々は大声で話をするほうがポジティブに感じるようです。しかし,日本人は周りに気を遣い,空気を読んで静かに話すほうがポジティブに感じる人が多いのではないでしょうか。
日本人が静けさを大切にするのは,実はさまざまな小さな「音」(例:笹の葉が微風に揺らされ擦れ合う音,池に小さなカエルが跳び込む音,小川のせせらぎの音など)に対して,繊細で敏感な感性を持っているからかも知れません。そのヒントが万葉集を分析すれば分かるかもしれませんが,今後の課題ですね。
(続難読漢字シリーズ(34)につづく)

2018年7月17日火曜日

続難読漢字シリーズ(32)…艫(とも)

今回は「艫(とも)」について万葉集をみていきます。船の後方,船尾の意味です。船の前方である船首は舳先(または単に舳)といいます。舳先(へさき)は,今でもよく使いますので,読める人は多いかもしれませんが,艫はさすがに難読でしょうね。
最初に紹介するのは,船の前後にどんな波が寄せてくることを序詞に詠んだ詠み人しらずの短歌です。

大船の艫にも舳にも寄する波寄すとも我れは君がまにまに(11-2740)
<おほぶねのともにもへにも よするなみよすともわれは きみがまにまに>
<<大船の船首や船尾にも波は打ち寄せる波のように嫌な噂が大きく立っていますが,私はあなたの想いのままに従います>>

万葉時代大きい船といっても,今の外洋船に比べたら,ごく小さな船だったでしょうね。
転覆しないように,船は波の線の垂直方向に向かって進まないと,横波を受けて簡単に沈没する恐れが高くなります。
波に垂直に向かって進むことが安全とはいえ,波が大きいと船の先端や後尾は大きく上下に揺れます。この短歌の作者は,そんな荒れた海で船旅をしたことがあるのでしょうか。
さて,次に紹介するのは,最初に紹介した短歌とよく似ているように見えますが,東歌です。

大船を舳ゆも艫ゆも堅めてし許曽の里人あらはさめかも(14-3559)
<おほぶねを へゆもともゆもかためてし こそのさとびとあらはさめかも>
<<大船を船首や船尾も綱で固く結んであるように,地元の里人も見ない振りをしてくれるだろうよ>>

恋の歌を示すものはどこにも出てこないのですが,この短歌は一つ前の女性作と思われる短歌への返歌と考えられます。二人の仲がしっかり結ばれていることを相手に伝えたい思いからの作でしょうね。

逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも(14-3558)
<あはずしてゆかばをしけむ まくらがのこがこぐふねに きみもあはぬかも>
<<遭わないで都に行ってしまわれるのは残念です。まだ,枕香が残る古河を行く船でお逢いできないものでしょうか>>

最後に紹介するのは,天平5年に遣唐使が航路の安全を難波の住吉の神に祈願したと伝承された長歌の一部です。

~ 住吉の我が大御神 船の舳に領きいまし 船艫にみ立たしまして さし寄らむ礒の崎々 漕ぎ泊てむ泊り泊りに 荒き風波にあはせず 平けく率て帰りませ もとの朝廷に(19-4245)
<~ すみのえのわがおほみかみ ふなのへにうしはきいまし ふなともにみたたしまして さしよらむいそのさきざき こぎはてむとまりとまりに あらきかぜなみにあはせず たひらけくゐてかへりませ もとのみかどに>
<<~ 住吉の我らの大御神様,船の舳先をなすがままにされるべく艫に立たれ,立ち寄る磯の崎々へすべて無事に着き,停泊ができますように。停泊する崎々で暴風や荒波に遇うことなく,どうか平穏に帰れますように,もとの朝廷に>>

遣唐使は大阪の南にある住吉津(すみのえのつ)にあった港から出港し,出港の前には奈良の京から大勢の人が大和川を下って見送りに来て,航海の安全を祈願するために建てられたであろう住吉神社(現:住吉大社)に,皆で海路の安全を祈願に詣で,旅立つ人を盛大に見送ったのだろうと想像できます。
住吉津は,古墳時代から国内外の多くの人や荷物を扱う港として大いに繁栄したと考えられます。その豊かさで,百舌鳥(もづ)古墳群や黒姫山古墳のような古墳群を作る財力と,人力が集まったのだと私は思います。
後の堺(さかい)という都市の大きな発展は,こういった地の利の良さも大きな要因だと私は考えてしまいます。
(続難読漢字シリーズ(33)につづく)

2018年7月3日火曜日

続難読漢字シリーズ(31)…常滑(とこなめ)

今回は「常滑(とこなめ)」について万葉集をみていきます。常滑焼という陶器を知っている人や愛知県常滑市をご存知の方にはすぐ読める漢字でしょうね。
早速,最初に紹介するのは,柿本人麻呂が,何度か行われた持統天皇の吉野行幸のうちで詠んだといわれる有名な短歌(長歌の反歌)です。

見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む(1-37)
<みれどあかぬよしののかはの とこなめのたゆることなく またかへりみむ>
<<見飽きることのない吉野の川底が常に滑らかであるように、絶えることなくまた見ましょう>>

奈良盆地の川は,吉野の川に比べて,川床に泥が堆積し,草木も生えて「常滑」とはいえなかったのでしょう。
その点,天武天皇ゆかりの地で,避暑地で別荘地の吉野の川は,激しい水流に洗われた川床や岩は「常滑」にふさわしいものだったとこの短歌からは読み取れます。
さて,次に紹介するのは,柿本人麻呂歌集から転載されたという短歌です。

妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも(9-1695)
<いもがかど いりいづみがはのとこなめに みゆきのこれりいまだふゆかも>
<<妻の家の門を入って出る(いず)という泉川の常滑の石の上には,雪が解けずに残っているので,このあたりの季節はまだ私の心のように寒い冬なんだなあ>>

作者は,奈良の京から旅に出て,木津川あたりでこの短歌を詠んだとされています。
木津川あたりにまで来ると,これから人家の少ない心細い道を行くことになるため,少しのことで寒さを感じたのでしょうか。
最後も,二番目に紹介した短歌とは別の巻に出てきますが,柿本人麻呂歌集から転載されたという短歌です。

こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ(11-2511)
<こもりくのとよはつせぢは とこなめのかしこきみちぞ こふらくはゆめ>
<<山に囲まれたが立派な泊瀬街道は,初瀬川を渡る箇所が多くあり,水の上に出た岩の上は滑りやすいので,渡るときは注意が必要な道です。恋の道も渡る時も(滑りやすいので)油断しないことが肝要>>

なかなか教訓的な短歌ですね。「万葉集教訓歌」という本を出すと選ばれそうな気がします。
私が初瀬街道を歩いた経験と写真を2015年7月28日投稿しています。この短歌も載せていますが,その時感じた新鮮さで訳しています。今回はその奥にある教訓めいた部分を強調するために,背景的な訳も入れて訳してみました。
以上3首のように,万葉時代「常滑」の状態というのは,いつも清水に洗われているツルツルした岩をイメージしていたのでしょう。
また,そんないつもきれいに磨き上げられた表面に万葉人は憧れていたと私は想像します。常滑の岩以外にも,磨き上げられた手鏡や仏像,大黒柱や床柱,琴の板や太鼓の胴,磁器やガラス器,漆塗りの箱や厨子,宝石でできた玉や瓶など,表面が「常滑」に感じられるものの価値は高かったのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(32)につづく)

2018年6月24日日曜日

続難読漢字シリーズ(30)…常磐(ときは)

今回は「常磐(ときは)」について万葉集をみていきます。現代では,常磐は「ときわ」または音読みで単に「じょうばん」と読み,意味として,常陸の国と磐城の国の併称,福島県いわき市,その地域の施設(常磐公園=偕楽園)や史跡(常磐神社=偕楽園内にある水戸光圀を祀る神社)を指す言葉として使われているようです。
しかし,万葉集では別のいくつかの意味で詠まれています。
最初に紹介するのは,山上憶良が世の無常を神亀5(728)年7月21日に太宰府で詠んだとされる短歌です。

常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(5-805)
<ときはなすかくしもがもと おもへども よのことなればとどみかねつも>
<<大きな岩のようにいつまでも変わらずにいて欲しいと思いたいが,世の中のことはひと時も変わらないことがない>>

憶良は仏教の無常観から「無常」の反対語として「常磐」という言葉を使い,この短歌を詠んだのだろうと私は思います。
人間は「常磐」のように絶対的に変化しない状態(真実は一つ)がいつまでも続いてほしいと願うものである。その絶対的なものにすがることが安心・安寧な幸せな人生だと考える人が多いが,世の中は「生老病死」という苦悩が常にいろいろな形で予断無くやってきて,それを許してくれないと。
ところで,万葉時代は「生老病死」の苦悩の中でも「老病死」の比率が高かったと想像できます。ただ,今の時代では「生きる」の苦悩の比率が高いのかも知れません。
人間関係の悪化,他人との比較での落胆,人生の目的や夢の喪失,仕事のスキルアンマッチなどにより,社会の中で「生きる」こと自体が苦しいと感じ,場合によっては精神疾患になる人が少なくない現代社会になっているような気がします。
「これだけをやっておけば大丈夫」というもの(宣伝文句によく使われる?)を求め,面倒なことを避けたり,今やるべきことを先送りしていた結果,あるとき「こんなはずではなかった」と気が付いてしまうのです。その失敗を繰り返し,(悪いのは他人だと思いつつも)失敗の後悔が重なることで「生きる」苦悩が強くなり,「生きている今の自分」を「その自分」が責め,苦しめることになってしまうのです。そして,自殺を選んだ人の中にはそんな「生きている自分」に対し,自分自身が作る苦悩に耐えられなくなった人も多いのでしょうか。
私は,世の中は無常(常に変化するもの)が前提と考え,常に状況の変化を注視し,先の変化を的確に予測できる能力を磨いていく努力が,「生きる」苦悩を乗り越え,「生きる」楽しさを得る有効な道の一つだと考えています。
さて,次に紹介するのは,常緑樹の橘の葉を形容として「常磐」を使い,大伴家持が高岡で元正(げんしやう)上皇崩御を悼み,その後見役の橘諸兄(たちばなのもろえ)に期待する短歌です。

大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして(18-4064)
<おほきみはときはにまさむ たちばなのとののたちばな ひたてりにして>
<<太上天皇は常磐の橘の葉ようにそのお力は不変です。橘様の橘もいつも照り輝き続けています>>

京では藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)の力が増大し,強引なやり方をセーブする役割として諸兄にいつまでも(常磐に)期待している家持の気持ちが表れた短歌だと私は感じます。
最後に紹介するのは,同じく家持が天平宝字2(758)年2月に式部大輔(しきぷのたいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)宅の宴で,変わらぬ結束の誓いを詠んだ短歌です。

八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな(20-4501)
<やちくさのはなはうつろふ ときはなるまつのさえだを われはむすばな>
<<いろんな花がありますが,みないずれ色あせてしまいますが,いつまでも変わらぬ色の葉を持つ松の枝のように私たちは友情を結び合いましょう>>

家持より10歳以上年上だが将来は大臣になると目される清麻呂との関係を強く持ちたいという家持の思いがこの短歌から読み取れます。この10年余り後,家持が光仁朝になって昇進を速めるのですが,その当時清麻呂は右大臣に昇進していたのです。家持の期待通り,清麻呂と家持の関係は比較的良かったのではないかと私は思います。
ところで,広辞苑で「常磐」を引いてみると,この3首が3つの意味の違いの用例として出ているのです。約1300年前に「ときは」という言葉が,どのような異なる意味で使われていたかを万葉集はそれぞれ別用例で示してくれているのです。
万葉集は,五十音順などの並び順でないことを気にしなければ,まるで当時の日本語(ヤマト言葉)の辞書か文法書のような目的で編纂されたのではないかと感じてしまう私がいます。
(続難読漢字シリーズ(31)につづく)

2018年6月14日木曜日

続難読漢字シリーズ(29)…黄楊(つげ)

今回は「黄楊(つげ)」について万葉集をみていきます。「黄楊」は植物の名前です。小さな丸みのある葉の常緑樹で。丸い形に剪定して庭木などにします。私の庭にもまだ幼木ですが植えています。
ツゲは漢字で「柘植」とも書きますが,万葉集の万葉仮名ではツゲを詠んだすべての和歌で「黄楊」が使われています。「柘植」は三重県などに地名としてありますので読める人も結構いらっしゃるかも知れませんが,「黄楊」はなかなかの難読漢字でしょうか。
さて,最初に紹介するのは,播磨地方(今の兵庫県)に着任していた役人の石川大夫が京に選任され(帰任),地元を離れるときに地元の娘子が別れを惜しんで贈ったされる短歌です。

君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず(9-1777)
<きみなくはなぞみよそはむ くしげなるつげのをぐしも とらむともおもはず>
<<あなた様が京に帰られたたら,私は身を装いましょうか。化粧箱の黄楊の櫛を取ろうとさえ思いませんわ>>

黄楊の幹は非常に硬く,櫛の歯のような細い切り込み加工をしても,歯が折れたりすることがすくなく,万葉時代から櫛の材料として非常に重宝されていたのです。高級なツゲの櫛ももう使う必要なくなりましたという歌意でしょう。
なお,今でも国産のツゲの木で作った櫛は,最高級品で2万円以上していそうですが,それでも購入して利用する人がいるようです。
次に紹介するのは,柿本人麻呂歌集に出ていたという,黄楊の枕を詠んだ短歌です。

夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき(11-2503)
<ゆふさればとこのへさらぬ つげまくらなにしかなれが ぬしまちかたき>
<<夕方になると夜床の傍らから離しはしないぞ黄楊の枕よ。何か彼女を夢に見させておくれ>>

黄楊の木を細かくしたものの角を削り丸くしたチップを枕に入れると,頭に当てて寝返りをするとサラサラと音がして気持ちが良かったのかも知れませんね。今でも,木片やプラスチックのチップ,そば殻などを枕の中に入れたものが売られています。
最後に紹介するのは,やはり黄楊の櫛に関するものですが,黄楊の産地が分かるものです。

朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ(11-2500)
<あさづきのひむかつげくし ふりぬれどなにしかきみが みれどあかざらむ>
<<日向の黄楊櫛は使い古して古くなりましたが,どうしてあなたはいつ見ても見飽きないのでしょう>>

日向(ひむか)はどこの場所か私は知りませんが,良い櫛の材料となる黄楊の木がたくさん生えていて,日向黄楊櫛は万葉時代長持ちする櫛の高級ブランドだったのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(30)につづく)

2018年6月6日水曜日

続難読漢字シリーズ(28)…搗く(つく)

今回は「搗く(つく)」について万葉集をみていきます。意味は杵(きね)や棒の先で打って押しつぶす動作です。「餅を杵で搗く」「戦時中の疎開先で,一升瓶に入れた玄米を棒で搗いて白米にした」といった使い方をします。
最初に紹介するのは東歌で「搗く」がでくるものです。

おしていなと稲は搗かねど波の穂のいたぶらしもよ昨夜ひとり寝て(14-3550)
<おしていなといねはつかねど なみのほのいたぶらしもよ きぞひとりねて>
<<強いて嫌だと思って稲を搗いてあなたを待っていたのではないのよ。せっかく搗いたのに搗く前の稲穂が揺れるように心が不安定になっているの。昨夜はひとりで寝ることになってしまったから>>

何もしないで彼が来るのを待っているのは,時間の流れが遅いので,辛い力仕事だけど稲を搗いて待っていた彼女たけれど,結局来てくれなくて昨晩は一人で寝ることになった。搗く前の稲穂のように心がゆれ「待っている時間にやっていた稲を搗いた作業が無駄になったのよ」という彼女の気持ちが私には伝わってきますね。
次に紹介するのは,過去のブログでも何回か紹介している短歌です。

醤酢に蒜搗きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱の羹(16-3829)
<ひしほすにひるつきかてて たひねがふわれになみえそ なぎのあつもの>
<<醤に酢を入れ,蒜を潰して和えた鯛の膾(なます)を食べたいと願っている私に,頼むからミズアオイの葉っぱしか入っていない熱い吸い物を見せないでくれよ>>

この短歌の説明は2009年11月15日の投稿をご覧ください。前半の部分は「なめろう」のような料理をイメージしている料理だったのでしょうか。期待していたその料理が出ずに,〆の吸い物が出そうなので,作者は非常に残念がっている表現力に私は感心します。
さて,最後に紹介するのは,長歌の一部です。

~ 天照るや日の異に干し さひづるや韓臼に搗き 庭に立つ手臼に搗き ~(16-3886)
<~ あまてるやひのけにほし さひづるやからうすにつき にはにたつてうすにつき ~>
<<~ 日ごとに干して,韓臼で搗き,庭に据えた手臼で搗いて粉にし ~>>

干した蟹を粉々にするために搗く部分です。なんでそんなことをするのかは,2015年3月1日の投稿で詳しく私の考察を述べています。
この長歌全体を是非見てほしいと私はお薦めします。
(続難読漢字シリーズ(29)につづく)

2018年5月30日水曜日

続難読漢字シリーズ(27)…官(つかさ)

今回は「官(つかさ)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「つかさ」と読む漢字は「司」「寮」というものもあります。意味は,役所や官庁,官職,役人などの意味で万葉集では使われています。
最初に紹介するのは,禁酒令を今晩は許してほしいという詠み人しらずの短歌です。敢て作者名を隠しているのかも知れませんね。

官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ(8-1657)
<つかさにもゆるしたまへり こよひのみのまむさけかも ちりこすなゆめ>
<<お上からお許しが出たぞ。今夜だけ飲める酒になってしまうのか。梅の花よ散らないほしい>>

万葉時代の花見といえば「梅見」です。禁酒令が出ているのですが,梅の花が咲いているときの「梅見」では多少飲んでも良いということになっていたのでしょうか。それとも,「きっと許してくれるに違いない」と勝手な解釈をして詠んだのかも。
明日も飲みたいから,名残の梅の花は散らないでほしいという酒好きの偽らざる気持ちをストレートに詠んだに違いないと私は思います。
さて,日本人が比較的寛容な民族なのは,移ろいゆく季節の変化と実は関係があるような気がします。季節の変化で長く同じ状態が続かないのだから,たとえば花見ができる今の時期だけは少し大目にみてあげようという気持ちになるというのがこの持論です。
次に紹介するのは,大宰府で山上憶良が対馬海峡で水難に遭い亡くなった志賀白水郎という船人を悼んで詠んだ10首の和歌の中の1首です。

官こそさしても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る(16-3964)
<つかさこそさしてもやらめ さかしらにゆきしあらをら なみにそでふる>
<<お役所の仕事なら命じて遣わすだろうけれど,自らの意思で海に出たあの勇者たち,波をものともせず袖を振っていた>>

本当は,お役所が責任をもってやるべき危険な仕事を民間の若者が買って出て,尊い命を落としてしまった。
現代でも,よく役所が怠慢で住民がケガをしたとか,役所がやらないので善意でやったら勝手なことをしたと訴えられたとか,同じようなことがありそうですね。
為政者による社会の制度は,あくまで全体としての社会システムの効率化に帰する目的で作られますが,法律や規則で規定されている以外のことには役所は手を出そうとしないのは基本的に今も昔も変わらないのかも知れません。
三権分立が確立された現代では,法律の内容や行政の実行不備は立法府や司法によって是正されますが,万葉時代ではなかなか役所は動いてくれなかったのは想像に難くありません。
有識者の憶良なら,そんな制度上の問題も意識して作歌していたのでしょうね。
最後に紹介するのは,天平感宝元(749)年閏(うるふ)5月に越中で大伴家持が詠んだ長歌の冒頭の一部です。

大君の遠の朝廷と 任きたまふ官のまにま み雪降る越に下り来 あらたまの年の五年~(18-4113)
<おほきみのとほのみかどと まきたまふつかさのまにま みゆきふるこしにくだりき あらたまのとしのいつとせ~>
<<天皇に任命された職務の内容により,雪がたくさん降る越中に下って来て5年の間~>>

天平感宝は,天平21年4月14日に改元され,約3か月半後(閏月含む)の天平感宝元年7月2日に天平勝宝に改元されてしまいます。
この短い間に家持は何首もの和歌を詠んでいます。越中にもそういった情報がかなりの早さで伝わり,それを記録しつつ作歌する家持の几帳面さを感じてしまいます。
この長歌は,家持には珍しく「越中のど田舎に5年も住んでもう飽きた」という内容で終わっています。
改元が頻繁に行われるような京の急な動きが気になっているので,のんびりとした越中にいる家持をなおさらそんな気にさせているのでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(28)につづく)

2018年5月28日月曜日

続難読漢字シリーズ(26)…衢(ちまた)

今回は「衢(ちまた)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「ちまた」と読む漢字は「街」「港」「岐」というものもあります。
「ちまた」が出で来る万葉集の和歌の万葉仮名は意味からとった「街」「衢」が使われています。
そのため,漢字かな交じりでもこの二つの漢字がほぼそのまま使われてきたのかも知れません。今回紹介するのは「衢」の字だけです。
最初に紹介するのは,飛鳥時代の歌人といわれる三方沙弥(みかたのさみ)が園臣生羽(そののおほみいくは)の娘を娶ったが,それほど経たないうちに病に臥したときに作った3首の中の1首です。

橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして(2-125)
<たちばなのかげふむみちの やちまたにものをぞおもふ いもにあはずして>
<<橘の木蔭を踏んで行く道が八方に分かれているように思い乱れている。逢いに行くことができずに>>

橘は柑橘系の常緑樹です。万葉時代の街では,街路樹として橘を植え,夏の暑い時でも,分厚い葉で木陰を作って,快適にショッピングや散歩ができるようにしたのではないでしょうか。
木陰を選んで歩きたいが,あまりにも枝が分かれていて,どの枝の影を選べばよいか分からない。妻問に行けない自分の心の乱れは,まさにそんな気持ちだと作者は表現したいのでしょう。
さて,次に紹介するのは,時代は奈良時代の天平11(739)年8月に橘諸兄邸で行われた宴席で,高橋安麻呂が三方沙弥が詠んだ上の巻2の短歌を意識して,故人である豊島采女(とよしまのうねめ)が詠んだとして紹介した短歌のようです。

橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘の下で道を踏む影が八衢に分かれるように,あれこれと物思いをしてしまう。人に知られもしないで>>

宴席の主人である橘諸兄を意識して,橘様の下で何にお役に立てるか思い悩んでいますという諸兄へのヨイショの気持ちを表した短歌と感じてしまいます。何せ,あくまで宴席で披露された短歌ですからね。
最後に紹介するのは,車持娘子(くるまもちのいらつめ)が病に臥し,臨終のときに,ようやく訪れた夫の前で詠んだとされる長歌の反歌です。

占部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも(16-3812)
<うらへをも やそのちまたもうらとへど きみをあひむたどきしらずも>
<<占い師を招いたり道の四つ辻占いなど無用です。あの方に逢える手段など知らないのですもの>>

どんな占いに頼ってもだめでしたという諦め感が娘子を襲っています。妻問婚がどれほど妻にとって苦痛の慣習だったか,この和歌を始め万葉集に出てくる多くの妻の和歌から想像できます。
妻はただ待つだけしかできない。できることといえば,夫に和歌を送り,ただひたすら訪ねてきてほしいことを訴えるしかないのです。
夫に別の妻が何人もできたとしても,それを知る由もない。こんな理不尽なことを万葉集は多くの和歌で示しているのです。
しかし,万葉集を研究してきた人は圧倒的に男性が多く,こういった女性の苦痛を広く知らしめることは日本の風習だからとしてスルーされてきたように思います。
つい最近まで,たとえ夫婦が同じ家で暮らすようになっても,夫が外で勤め,妻が夫の帰りを何時になっても待つという専業主婦という標準家庭が前提での制度が残ってきたのです。
万葉集の編者は,律令制度などの当時としては先進的な制度の導入によって発生しうる影の部分も和歌として,客観的にそのまま残そうとしたと私には思えてなりません。
しかし,万葉集は後の為政者や研究者にとって都合よいところだけを秀歌などと称して利用され,ほんの一部の和歌だけでイメージが(編者の意図に反して)後世の人たちの好き嫌いや都合によってゆがめられて形作られてしまっているのです。
私は,これからも万葉集の和歌に優劣を付けず,先入観を排除した万葉集の和歌を情報としてリバーズエンジニアリング(あくまで現物全体から編者の意図解析)を続けていこうと考えています。
(続難読漢字シリーズ(27)につづく)

2018年5月25日金曜日

続難読漢字シリーズ(25)…携ふ(たづさふ)

今回は「携ふ(たづさふ)」について万葉集をみていきます。同伴する,連れ立つ,互いに手を取るといった意味に万葉集では使われています。現代仮名遣いでは「携える(たずさえる)」が多用されます。
最初に紹介するのは,恋人と手を携えて床を共にしたい気持ちを詠んだ詠み人しらずの短歌です。

人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば(10-1983)
<ひとごとは なつののくさのしげくとも いもとあれとしたづさはりねば>
<<夏野の草が刈ってもすぐ出てくるように他人の噂が五月蠅いけど,お前と私が手をとって寝てしまえばよいのさ>>

この作者,かなりやけっぱちになっていそうですね。彼女の手を携えて,それから共に寝たら,誰が何を言おうと幸せだという願いが伝わってきます。
次に紹介する短歌は,柿本人麻呂歌集に出てくる初冬の紀伊の国の浜辺で詠まれたとされるものです。

黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし礒を見れば悲しも(9-1796)
<もみちばのすぎにしこらと たづさはりあそびしいそを みればかなしも>
<<もみじの葉が散るように死んでしまった子と手を取り合って遊んだ磯を見うると悲しい>>

この作者は,幼いころ遊んだ懐かしい磯に来たが,そのとき手をつないで遊んだ子は今は死んでいない。その悲しさがこみあげて,この短歌を詠んだのでしょうか。
最後に紹介するのは,最愛の妻が亡くなったことに対する夫の慟哭の長歌(作者不詳)です。

天地の神はなかれや 愛しき我が妻離る 光る神鳴りはた娘子 携はりともにあらむと 思ひしに心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに 木綿たすき肩に取り懸け 倭文幣を手に取り持ちて な放けそと我れは祈れど 枕きて寝し妹が手本は 雲にたなびく(19-4236)
<あめつちのかみはなかれや うつくしきわがつまさかる ひかるかみなりはたをとめ たづさはりともにあらむと おもひしにこころたがひぬ いはむすべせむすべしらに ゆふたすきかたにとりかけ しつぬさをてにとりもちて なさけそとわれはいのれど まきてねしいもがたもとは くもにたなびく>
<<天地に神が無いのか,愛おしい妻は去ってしまった。光る神のような美しい機織り娘だった。手に手を取って共に生きようと思ったのに願いは通じなかった。言うべき言葉もなく,為すすべも知らずに,木綿襷を肩に掛け倭織の幣を手に持ち,僕たちを離れ離れにしないでと祈ったが,抱いて寝た妻の腕は雲のように白く横たわっている>>

おそらく病気で妻は亡くなったのでしょう,妻の最期に寄り添った夫の無念さが本当に伝わってくる長歌です。
現代では,病気の治療技術や予防技術により,若いうちに病気で死亡する人の割合が100年,200年前に比べ格段に減っています。マスコミ等で若くして亡くなった人の報道がされますが,それはニュースになるから敢てとりあげられているのであって,10万人あたりといった全体統計では,昔に比べて大きく減っているのは事実です。そのため,生命保険の保険料も値下げになっているくらいです。
ただし,比率は減っても,ゼロではありません。私の友人にお子さんまだ幼いうちに夫を急病で亡くされた女性がいます。また,私も今回大病を患い,想定寿命を見直し,余生をどう過ごすか,再検討をしているところです。
生きていることの大切さと,いつ終わるか分からない生きているとき何を生きがいとして,幸福感をもって誰と生きていくか,定期的に考えることが求められる状況になりました。
ただ,それはそれで,いろんな選択肢があり,想像力を働かせ,どれが最適か私は前向きに取り組んでいます。
(続難読漢字シリーズ(26)につづく)

2018年5月21日月曜日

続難読漢字シリーズ(24)…激る(はしる)激つ(だきつ)

今回は「激る(はしる)激つ(だきつ)」について万葉集をみていきます。「激つ(だきつ)」は現代仮名遣いでは「激る(たぎる)」となります。なお,現在では「水がはしる」という言い方はしなくなったようです。「激流」「激水」「激浪」「激端」などの音読み言葉ばかりで,この訓読みは両方とも思い出しにくいかもしれません。
今回は,「激る(はしる)」「激つ(だきつ)」が使われている,それぞれ長歌を紹介します。
最初に紹介する長歌は,「激る(はしる)」が詠み込まれている柿本人麻呂が吉野の離宮を賛美したものです。持統天皇が吉野に行幸したときに詠んだとされています。

やすみしし我が大君の きこしめす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太敷きませば ももしきの大宮人は 舟並めて朝川渡る 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆることなく この山のいや高知らす 水激る瀧の宮処は 見れど飽かぬかも(1-36)
<やすみししわがおほきみの きこしめすあめのしたに くにはしもさはにあれども やまかはのきよきかふちと みこころをよしののくにの はなぢらふあきづののへに みやばしらふとしきませば ももしきのおほみやひとは ふねなめてあさかはわたる ふなぎほひゆふかはわたる このかはのたゆることなく このやまのいやたかしらす みづはしるたきのみやこは みれどあかぬかも>
<<今の我が君が統治されている土地は天の下に多くあるけれど,山も川も清き河内の地とお好きな吉野の国の花散る秋津の野辺に,宮柱も太き宮殿を建立され,多くの大宮人は舟を浮かべて朝川を渡り,舟を競って夕川を渡っている。この川が絶えることのないように,この山がいつまでも高くそびえ立つように,我が君も永遠に高々と統治されることだ。水が大変な速さで走るように流れるこの滝の都はいくら見ても素晴らしい>>

吉野は,天武天皇のゆかりの地であり,暑い奈良盆地の夏の時期の避暑地として離宮を整備したのだと思います。
避暑地である吉野に到着した持統天皇一向に対して,人麻呂は吉野の素晴らしさを読み上げ,「素敵な吉野での避暑をお過ごしください」と,ここまでの旅の疲れをこの和歌で癒したのでしょうか。奈良盆地に流れる川と比較にならない水量,流の早さ,水の冷たさ,清らかさが,きっと天皇の心を潤すに違いないとこの長歌は締めているように私は解釈します。
紹介するもう一つの長歌は,「激つ(だきつ)」が詠み込まれた大伴家持が越中で詠んだとされるものです。

あらたまの年行きかはり 春されば花のみにほふ あしひきの山下響み 落ち激ち流る辟田の 川の瀬に鮎子さ走る 島つ鳥鵜養伴なへ 篝さしなづさひ行けば 我妹子が形見がてらと 紅の八しほに染めて おこせたる衣の裾も 通りて濡れぬ(19-4156)
<あらたまのとしゆきかはり はるさればはなのみにほふ あしひきのやましたとよみ おちたぎちながるさきたの かはのせにあゆこさばしる しまつとりうかひともなへ かがりさしなづさひゆけば わぎもこがかたみがてらと くれなゐのやしほにそめて おこせたるころものすそも とほりてぬれぬ>
<<年があらたまって春になると花々が美しく咲く。(雪解け水で)山のふもとを轟かして激しく流れくだる辟田川。(夏になると)その川の瀬では鮎の元気に泳ぐ姿が見える。(夏の夜)鵜飼仲間と伴って,篝火をかざして川を行くと,我が妻が形見と思ってと,紅色に幾度も染めて送ってくれた着物がすっかり水に濡れてしまった>>

この長歌から家持は越中の春から夏にかけての自然を謳歌している気持ちが私に伝わってきます。特に,鵜飼は家持にとって大変楽しみな夏の夜にみんなで興じるスポーツだったのです。
妻が気を付けてほしいという気持ちで作らせた女性が着るような派手な着物も,楽しくてしょうがない鵜飼に興じているうちに,スプ濡れになったのでしょう。
水量が「激る」ほど豊かで,アユがたくさんいる辟田川の自然がどれたけ家持の気持ちを癒したか,私には共感するものが多くあります。
(続難読漢字シリーズ(25)につづく)

2018年5月13日日曜日

続難読漢字シリーズ(23)…験(しるし)

今回は「験(しるし)」について万葉集をみていきます。漢字体から見ると馬を識別するために確認したマークを付けるような意味でしょうか。
最初に紹介するのは,坂上郎女が詠んだ短歌です。

まそ鏡磨ぎし心をゆるしてば後に言ふとも験あらめやも(4-673)
<まそかがみとぎしこころを ゆるしてば のちにいふともしるしあらめやも>
<<磨きあげた鏡のような無垢な気持ちをゆるめてしまったら,後で悔やんでみても意味がないのです>>

実は坂上郎女が詠んだ和歌には「験」を詠み込んでものがいくつかあります。郎女は「験」という言葉に何らかの思い入れがあったのかも知れません。
次は,海犬養岡麻呂(あまのいぬかひのをかまろ)という官僚が聖武天皇を称え天平6(735)年に詠んだとされる短歌です。

御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば(6-996)
<みたみわれいけるしるしあり あめつちの、かゆるときに あへらくおもへば>
<<陛下のもとに生まれた私は生きがいを確実に感じております。天地が栄えているこの時に生まれ合わせたことを思いますとなお更でございます>>

「験あり」を「確実に」と訳してみました。天平文化が最高潮に達した時代を良くあらわした天皇ヨイショの短歌ですね。
最後は,遣新羅使(けんしらぎし)の一人が,天平8年に北九州の港に船が立ち寄り停泊しているときに詠んだという短歌です。

秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験なし旅にしあれば(15-3677)
<あきののをにほはすはぎはさけれども みるしるしなしたびにしあれば>
<<秋の野に美しく萩は咲いている時期だが,私には見る当てがない。旅の途中なので>>

遣新羅使の「旅」の意味は,今の観光旅行とは全然違いのでしょう。
新羅がある朝鮮半島までは,壱岐,対島を経由すれば,そう遠距離でない船旅ですが,対馬海峡は波が比較的穏やかな瀬戸内海とは違い,当時の造船技術では難破する事故が絶えなかったのだろうと推測されます。
美しく咲いているだろう秋萩を,遣新羅使にとっては楽しんでゆっくり観る余裕なんかないという気持ちが伝わってきます。
(続難読漢字シリーズ(24)につづく)

2018年5月10日木曜日

続難読漢字シリーズ(22)…標(しめ)

今回は「標(しめ)」について万葉集をみていきます。標縄を「しめなわ」と読める人には,難読漢字に入らないかも知れませんね。
意味は,「記憶,記録,区別のために何らかの印しを残しておいたもの」というような意味です。
最初に紹介するのは,「標」について詠んだ万葉集の和歌の中で一番有名だと言っても良い額田王(ぬかだのおほきみ)が大海人皇子(後の天武天皇)に向けて詠んだものです。このブログでも何度か紹介しています。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
<あかねさす むらさきのゆきしめのゆき のもりはみずやきみがそでふる>
<<薬草園に行ったときも猟地に行ったときも番人が見ているにも関わらず貴方がお袖をお振りになる>>

ここに出てくる「標野」は,後続の猟場であることを柵や溝などで区切ってあり,それで区切られた中の野のことだと思われます。
このように何らかの意味を持たせた区切りを示すものも「標」と呼んだことが想定できます。
次に紹介するのは山部赤人が春の野に出て春菜を摘みに出ようとしたときに詠んだ短歌です。

明日よりは春菜摘まむと標し野に昨日も今日も雪は降りつつ(8-1427)
<あすよりははるなつまむと しめしのにきのふもけふも ゆきはふりつつ>
<<季節は春になったので,明日あたりから春菜を摘もうと,自分用の野に出ようとしているが,昨日も今日も雪が降り続いている>>

ワラビ,ゼンマイ,ツクシ,フキノトウ,タケノコ,ウド,フキ,カタクリ,ヨモギ,セリ,ワサビ,タラの芽などの春菜は,万葉時代どこまでどんな料理方法で食べられていたか分かりませんが,春を恵みをいただくという意味で,待ち遠しいのは今と変わらない気がします。
ところが,季節が冬に逆戻りして,雪が降ってしまい,春菜を摘みに出られない赤人の残念な気持ちが表れています。
この短歌で「標し野」とあるように,どこで春菜を摘んでも良いというわけではなく,自分用に所有または借用している区画があったことが分かります。
最後に紹介するのは,大伴家持が越中で平城京の人を懐かしんで詠んだ短歌です。

あをによし奈良人見むと我が背子が標けむ紅葉地に落ちめやも(19-4223)
<あをによしならひとみむと わがせこがしめけむもみち つちにおちめやも>
<<奈良の人に見せようと我が友が標を結った黄葉です。地に散って落ちて朽ち果てることなどないですよ>>

富山の黄葉は見事だったのでしょう。それを奈良にいる人に見せたい。友人にここの黄葉の木が最高だよと標を付けてもらった。
きっと,毎年見事な黄葉を見せてくれるに違いないという家持の感動を詠んだものと私は解釈します。
(続難読漢字シリーズ(23)につづく)

2018年5月6日日曜日

続難読漢字シリーズ(21)…撓ふ(しなふ)

今回は「撓ふ」について万葉集をみていきます。現代仮名遣いでは「撓る」です。
「枝が撓る」「竿が撓る」「弓が撓る」などと使われ,まっすぐなものが元の形に戻る力を保って(弾力性を維持し)曲がる様子を表します。
では,最初に紹介するのは,小田事(をだのつかふ)という歌人が藤原京末期に旅で和歌山県の勢能山を越えるときに詠んだといわれる短歌1首です。

真木の葉の撓ふ背の山偲はずて我が越え行けば木の葉知りけむ(3-291)
<まきのはのしなふせのやま しのはずてわがこえゆけば このはしりけむ>
<<真木の葉が少し曲がっている。勢能山の山深さが心細いが,山を越えて行くとき,その曲がっている木の葉がこれから行く道を知っているで安心だ>>

訳は,次の論文を参考に,自分なりに現代語にしました。
http://manyo-world.com/files/TakefuMS-2010-005a.pdf
葉が曲がっているのは人が踏んだ後だと解釈すれば,そこを歩けば,道に迷わずに済むということのようです。
次は,緩やかに揺れ曲がった合歓木の花を彼女に見立てた詠み人しらずの短歌です。

我妹子を聞き都賀野辺の撓ひ合歓木我れは忍びず間なくし思へば(11-2752)
<わぎもこをききつがのへのしなひねぶ われはしのびずまなくしおもへば>
<<あの娘の噂を聞いては、都賀野辺にしなやかに揺れて咲いている合歓の花のようなあの娘に恋している気持ちを隠すことができない>>

男性から見て魅力的な女性はやはり直線イメージはなく,曲線イメージといっていいでしょう。合歓木の枝がそよ風に揺れて,そこに咲く花がより美しく見える姿を彼女の顔の美しさに喩えたのでしょうか。残念ながら,当時の服装では,体の曲線美はよく見えなかったと思われますので。
最後に紹介するのは,京に向かう上総国郡司大原今城(かみふさのくにのこほりのつかさ おほはらのいまき)の妻が見送るときに詠んだ歌です。

立ち撓ふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ(20-4441)
<たちしなふきみがすがたを わすれずはよのかぎりにや こひわたりなむ>
<<あなたのしなやかに立つお姿を忘れられないで,いつまでも恋い慕いながらずっと過ごしていくのよ>>

「しなやかに立つ」は夫の優しさも含めて,表現しているのでしょうか。
夫の今城は郡司ですから,地元トップの要人です。一人で旅をするわけではなく,お付きの人も多く付くはずです。ただ,今の千葉県から奈良県までの旅は,万葉時代,整備されていない道もあり,陸路では1カ月以上掛かったかも知れません。その間,夫が病気になる,ケガをする,盗賊に遭う,道に迷って行き倒れになるなど,妻にとっては心配なことだらけでしょう。
今では,旅行や外出などの移動中に事故や事件に遭う確率と,自宅にいて,災害,事故,事件に遭う確率にあまり差は無くなっている時代なのかも知れません。
それでも,家から出かけたり,帰る途中の家族に「気を付けてね」という気持ちと言葉は忘れたくないものですね。
(続難読漢字シリーズ(22)につづく)

2018年4月27日金曜日

続難読漢字シリーズ(20)…柵(しがらみ)

今回は「柵(しがらみ)」について,万葉集を見ていきます。柵は水流をせき止めるために、川の中に杭を打ち並べて、それに木の枝や竹などを横に結びつけたもののことで,水の流れを堰き止めるために使われたと言われています。現代語で使われる「過去のしがらみで」という使い方のように「邪魔するもの」という意味の元の意味です。
最初は,柿本人麻呂が,文武(もんむ)天皇4(700)年4月,天智(てんぢ)天皇の皇女である明日香皇女(あすかのひめみこ)が亡くなったことへの挽歌(長歌)に併せて詠んだ短歌です。

明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし(2-197)
<あすかがは しがらみわたしせかませば ながるるみづものどにかあらまし>
<<明日香川に柵(しがらみ)を渡して水の流れを堰き止めたら,流れる水も緩やかになるのに>>

明日香皇女を明日香川の水に喩え,流れ去る水を皇女の寿命とすれば,柵を渡し,もう少し皇女の寿命が去るのを延ばせたのではないかと人麻呂は詠んだのでしょうか。
次は,もう一首明日香川と柵を詠んだ恋の短歌です。

明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに(7-1380)
<あすかがはせぜにたまもはおひたれど しがらみあればなびきあはなくに>
<<明日香川の瀬ごとにきれいな藻が生えているけれど,柵があるので靡くこともできない>>

明日香川は,流れを緩やかにするため,または魚を獲るためなどに柵をあちこちに作っていたのでしょうか。
本当は柵がなく淀むことなくスムーズに水が流れるように,順調に自分たちの恋が進めばよいのに,堰き止める(邪魔する)ものがあるので,うまく進まない。そんな作者の恋の苦しみが私には伝わってきます。
最後は,恋の柵(邪魔もの)何するものぞという詠み人しらずの短歌です。

我妹子に我が恋ふらくは水ならばしがらみ越して行くべく思ほゆ(11-2709)
<わぎもこにあがこふらくは みづならばしがらみこして ゆくべくおもほゆ>
<<吾が妻を恋しいと思う気持ちを水の流れに喩えれば,どんな柵も通りこしてゆく激流のように思える>>

実は,人間を強い気持ちにさせていくには,少し抵抗や邪魔があったほうが良いのかも知れません。
仕事や付き合いで「やりにくいなあ」と感じたとき,「すごく嫌だな」と考えるか,自分のメンタル面を強くする材料と考えるかで,生きていく上での前向きさに差が出てくるような気がします。
4月からあたらしい環境に入った人たちには,慣れないために発生する様々な壁や嫌なことにぶつかるかも知れません。
その壁を成長のチャンスと感じられることが多いことを祈りたいですね。
(続難読漢字シリーズ(21)につづく)

2018年4月25日水曜日

続難読漢字シリーズ(19)…棹(さを)

今回は「棹(さを)」(当ブログでは基本旧かなづかいでふりがなを付けています)について,万葉集を見ていきます。棹は細い棒のことで,舟を動かすときに岸や海川などの底に差して行うときに使うものです。
最初に紹介するのは,鴨足人(かものたりひと)という人物が,藤原京の近くにあった天の香具山を詠んだ長歌です。ただし,京は廃され,平城京に遷った後を詠んだもののようです。

天降りつく天の香具山  霞立つ春に至れば  松風に池波立ちて  桜花木の暗茂に  沖辺には鴨妻呼ばひ  辺つ辺にあぢ群騒き  ももしきの大宮人の  退り出て遊ぶ船には  楫棹もなくて寂しも 漕ぐ人なしに(3-257)
<あもりつくあめのかぐやま かすみたつはるにいたれば まつかぜにいけなみたちて さくらばなこのくれしげに おきへにはかもつまよばひ へつへにあぢむらさわき ももしきのおほみやひとの まかりでてあそぶふねには かぢさをもなくてさぶしも こぐひとなしに>
<<天から降ってきたという天の香具山は霞が立つ春になると,松に吹く風に池は波立ち,桜の花は桜木の下のほうまでもたくさん咲き,池の辺りでは鴨が妻を求めて鳴き,岸辺ではあじ鴨の群れが騒いでいる。大宮人がいなくなり,大宮人が遊ぶ船には楫も棹もなくて寂しいことだ。そして 漕ぐ人もいない>>

ここに出てくる池は天の香具山の北東にある古池なのでしょうか。浅い池で船遊びの舟を動かすのは棹を使っていたのでしょう。なお,楫(かぢ)は舟の方向を調整する棒状のものだったようです。
万葉集には,京が廃された後に訪れで詠んだ和歌が複数出てきます。中でも有名なのは天智天皇が造営した大津京の廃墟を柿本人麻呂が見て詠んだ長歌(1-29)と反歌(1-30,31)があります。
そこでも,大宮人は船遊びをしていたことを想像させる表現があります。
次に紹介するのは,七夕を詠んだ詠み人しらずの短歌です。

我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくてわたりもり ふねかさめやもしましはありまて>
<<わたしが隠してしまった楫棹がなくては渡し守よ舟は貸せないでしょう。楫棹を探してもう暫らく待って>>

七夕のときに舟で天の川を渡ってくるように恋人が来てくれた。楫と棹を隠してしまい,彼が帰れなくなるようにしてしまえば,いつまでも一緒にいられるという作者の気持ちでしょう。
最後は,聖武(しやうむ)天皇の前の天皇である女帝元正(げんしやう)天皇が難波宮(なにはのみや)に行幸したときに詠んだ歌を,同行していた田辺福麻呂(たなべのふくまろ)が代わって詠唱したと伝えられるものです。

夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ(18-4062)
<なつのよはみちたづたづし ふねにのりかはのせごとにさをさしのぼれ>
<<夏の夜は木々が生い茂って道を行くのが大変である。船に乗り,川の瀬ごとに棹を差して進んでいくのが良いであろう>>

確かに,夏になると路傍の草木が生い茂り,細い道なら道全体を覆って進みづらくなる経験を私の子供のとき,田舎道で頻繁に経験したことがあります。
難波宮付近は海にそそぐ川がたくさんあり,水上交通のほうが盛んだったのを意識した短歌かも知れませんね。
(続難読漢字シリーズ(20)につづく)

2018年4月22日日曜日

続難読漢字シリーズ(18)…鞘(さや)

今回は「鞘(さや)」について,万葉集を見ていきます。鞘は刀剣の刀身の部分を入れる筒のことです。
最初に紹介するのは,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が恋人の男性に贈った短歌です。

人言を繁みか君が二鞘の家を隔てて恋ひつつまさむ(4-685)
<ひとごとをしげみかきみが ふたさやのいへをへだてて こひつつまさむ>
<<人の噂が五月蠅いので,二鞘の中に隔てがあるように家を隔て(私に接することなく)恋い焦がれていらっしゃる>>

「二鞘」は2本の刀を一緒に入れることのできる鞘で,中に隔てがあるところから,「二鞘の」は「隔つ」にかかる枕詞とするようです。私は枕詞とはせず,そのまま現代訳にしてみました。
郎女は他人の噂を気にしてなかなか逢いに来てくれないことを嘆いて詠んだのでしょうか。
次は,柿本人麻呂歌集に出てくる旋頭歌を紹介します。

大刀の後鞘に入野に葛引く我妹真袖もち着せてむとかも夏草刈るも(7-1272)
<たちのしりさやにいりのにくずひくわぎも まそでもちきせてむとかもなつくさかるも>
<<太刀を使った後で鞘に入れることで思い出す入野で葛を引いているお前。あなたに袖付きの衣を作って着せてあげたいれで夏草を刈っているのよ>>

旋頭歌なので,男女の掛け合い(前半が男,後半が女)で現代語訳をしてみました。入野が地名なのか,入ることが許されている土地なのかは不明だそうです。その入野を引くために鞘がこの旋頭歌では使われています。
最後は,詠み人しらずの羇旅の長歌の一部です。

~ 道の隈八十隈ごとに 嘆きつつ我が過ぎ行けば  いや遠に里離り来ぬ  いや高に山も越え来ぬ  剣太刀鞘ゆ抜き出でて  伊香胡山いかにか我がせむ ゆくへ知らずて(13-3240)
<~ みちのくまやそくまごとに なげきつつわがすぎゆけば いやとほにさとさかりきぬ いやたかにやまもこえきぬ つるぎたちさやゆぬきいでて いかごやまいかにかわがせむ ゆくへしらずて>
<<~ 道の曲がり角や沢山の曲がり角でも, それごとに京を離れることを嘆きつつ我が旅行くと,なんと遠くまで住んでいた里を離れて来たことか,なんと高い山を越えて来たことか,剣太刀を鞘から抜くように速く,急いで旅してきた,伊香胡の山よこれから私はいかにしょうか,これからの道に迷って>>

この長歌の作者は本当に道に迷ったのか分かりませんが,故郷の近江の唐崎(次の反歌で詠まれている)のことが忘れられない気持ちの強さをどうしても表現したかったのでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(19)につづく)

2018年4月19日木曜日

続難読漢字シリーズ(17)…細れ(さざれ)

今回は「細れ(さざれ)」について,万葉集を見ていきます。「細」を「さざれ」と読むのは,難読としました。「細れ」というと思い出すのが,日本国歌に「~さざれ石の~」として出てくる言葉です。
万葉集でも「細れ石」を詠んだ東歌があります。最初にそれを紹介します。

細れ石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりかも(14-3542)
<さざれいしにこまをはさせて こころいたみあがもふいもが いへのあたりかも>
<<小石だらけの道に馬を走らせて馬が大変だと心が痛むほどに思い詰めている彼女の家は多分ここらあたりかな>>

悪路の近道を選んで馬を走らせたのかも知れません。それだけ「早く彼女に逢いたい。馬には悪いが」といった作者の意図でしょうか。
さて,次は同じく細れ石を詠んだ東歌ですが,詠み方が「さざれし」となっています。東国の一部の方言かもしれません。

信濃なる千曲の川の細れ石も君し踏みてば玉と拾はむ(14-3400)
<しなぬなるちぐまのかはの さざれしもきみしふみてば たまとひろはむ>
<<信濃の国にある千曲川の小石も,あなた様が踏んだならば玉のように大切に思って拾おう>>

状況がよくわからず,想像に任せるしかないこの短歌ですが,住んでいる場所が千曲川の近くで,恋人は何らかの事情で旅立った。その時,千曲川を渡ったか,千曲川の河原に沿って下っていったのかも知れません。残された女性が詠んだ短歌と私は考えます。
最後は,「細れ波」を詠んだ短歌ですが,初瀬川には海にある磯が無くて残念だという長歌の反歌を紹介します。

さざれ波浮きて流るる泊瀬川寄るべき礒のなきが寂しさ(13-3226)
<さざれなみうきてながるる はつせがはよるべきいその なきがさぶしさ>
<<さざ波を水面に浮べて流れる初瀬川 だが釣り舟を寄せられそうな磯のないのが何とも寂く物足りない>>

山の中や盆地を流れる初瀬川に海の磯のような平らな場所を求めても無駄に決まっているのに,なぜこんな長歌と反歌を詠んだのかわかりません。作者が伊勢まで行くことが遠くて叶わず嘆いて詠んだのかも知れないと私は想像します。
(続難読漢字シリーズ(18)につづく)