今回は「棹(さを)」(当ブログでは基本旧かなづかいでふりがなを付けています)について,万葉集を見ていきます。棹は細い棒のことで,舟を動かすときに岸や海川などの底に差して行うときに使うものです。
最初に紹介するのは,鴨足人(かものたりひと)という人物が,藤原京の近くにあった天の香具山を詠んだ長歌です。ただし,京は廃され,平城京に遷った後を詠んだもののようです。
天降りつく天の香具山 霞立つ春に至れば 松風に池波立ちて 桜花木の暗茂に 沖辺には鴨妻呼ばひ 辺つ辺にあぢ群騒き ももしきの大宮人の 退り出て遊ぶ船には 楫棹もなくて寂しも 漕ぐ人なしに(3-257)
<あもりつくあめのかぐやま かすみたつはるにいたれば まつかぜにいけなみたちて さくらばなこのくれしげに おきへにはかもつまよばひ へつへにあぢむらさわき ももしきのおほみやひとの まかりでてあそぶふねには かぢさをもなくてさぶしも こぐひとなしに>
<<天から降ってきたという天の香具山は霞が立つ春になると,松に吹く風に池は波立ち,桜の花は桜木の下のほうまでもたくさん咲き,池の辺りでは鴨が妻を求めて鳴き,岸辺ではあじ鴨の群れが騒いでいる。大宮人がいなくなり,大宮人が遊ぶ船には楫も棹もなくて寂しいことだ。そして 漕ぐ人もいない>>
ここに出てくる池は天の香具山の北東にある古池なのでしょうか。浅い池で船遊びの舟を動かすのは棹を使っていたのでしょう。なお,楫(かぢ)は舟の方向を調整する棒状のものだったようです。
万葉集には,京が廃された後に訪れで詠んだ和歌が複数出てきます。中でも有名なのは天智天皇が造営した大津京の廃墟を柿本人麻呂が見て詠んだ長歌(1-29)と反歌(1-30,31)があります。
そこでも,大宮人は船遊びをしていたことを想像させる表現があります。
次に紹介するのは,七夕を詠んだ詠み人しらずの短歌です。
我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくてわたりもり ふねかさめやもしましはありまて>
<<わたしが隠してしまった楫棹がなくては渡し守よ舟は貸せないでしょう。楫棹を探してもう暫らく待って>>
七夕のときに舟で天の川を渡ってくるように恋人が来てくれた。楫と棹を隠してしまい,彼が帰れなくなるようにしてしまえば,いつまでも一緒にいられるという作者の気持ちでしょう。
最後は,聖武(しやうむ)天皇の前の天皇である女帝元正(げんしやう)天皇が難波宮(なにはのみや)に行幸したときに詠んだ歌を,同行していた田辺福麻呂(たなべのふくまろ)が代わって詠唱したと伝えられるものです。
夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ(18-4062)
<なつのよはみちたづたづし ふねにのりかはのせごとにさをさしのぼれ>
<<夏の夜は木々が生い茂って道を行くのが大変である。船に乗り,川の瀬ごとに棹を差して進んでいくのが良いであろう>>
確かに,夏になると路傍の草木が生い茂り,細い道なら道全体を覆って進みづらくなる経験を私の子供のとき,田舎道で頻繁に経験したことがあります。
難波宮付近は海にそそぐ川がたくさんあり,水上交通のほうが盛んだったのを意識した短歌かも知れませんね。
(続難読漢字シリーズ(20)につづく)
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