2018年5月28日月曜日

続難読漢字シリーズ(26)…衢(ちまた)

今回は「衢(ちまた)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「ちまた」と読む漢字は「街」「港」「岐」というものもあります。
「ちまた」が出で来る万葉集の和歌の万葉仮名は意味からとった「街」「衢」が使われています。
そのため,漢字かな交じりでもこの二つの漢字がほぼそのまま使われてきたのかも知れません。今回紹介するのは「衢」の字だけです。
最初に紹介するのは,飛鳥時代の歌人といわれる三方沙弥(みかたのさみ)が園臣生羽(そののおほみいくは)の娘を娶ったが,それほど経たないうちに病に臥したときに作った3首の中の1首です。

橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして(2-125)
<たちばなのかげふむみちの やちまたにものをぞおもふ いもにあはずして>
<<橘の木蔭を踏んで行く道が八方に分かれているように思い乱れている。逢いに行くことができずに>>

橘は柑橘系の常緑樹です。万葉時代の街では,街路樹として橘を植え,夏の暑い時でも,分厚い葉で木陰を作って,快適にショッピングや散歩ができるようにしたのではないでしょうか。
木陰を選んで歩きたいが,あまりにも枝が分かれていて,どの枝の影を選べばよいか分からない。妻問に行けない自分の心の乱れは,まさにそんな気持ちだと作者は表現したいのでしょう。
さて,次に紹介するのは,時代は奈良時代の天平11(739)年8月に橘諸兄邸で行われた宴席で,高橋安麻呂が三方沙弥が詠んだ上の巻2の短歌を意識して,故人である豊島采女(とよしまのうねめ)が詠んだとして紹介した短歌のようです。

橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘の下で道を踏む影が八衢に分かれるように,あれこれと物思いをしてしまう。人に知られもしないで>>

宴席の主人である橘諸兄を意識して,橘様の下で何にお役に立てるか思い悩んでいますという諸兄へのヨイショの気持ちを表した短歌と感じてしまいます。何せ,あくまで宴席で披露された短歌ですからね。
最後に紹介するのは,車持娘子(くるまもちのいらつめ)が病に臥し,臨終のときに,ようやく訪れた夫の前で詠んだとされる長歌の反歌です。

占部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも(16-3812)
<うらへをも やそのちまたもうらとへど きみをあひむたどきしらずも>
<<占い師を招いたり道の四つ辻占いなど無用です。あの方に逢える手段など知らないのですもの>>

どんな占いに頼ってもだめでしたという諦め感が娘子を襲っています。妻問婚がどれほど妻にとって苦痛の慣習だったか,この和歌を始め万葉集に出てくる多くの妻の和歌から想像できます。
妻はただ待つだけしかできない。できることといえば,夫に和歌を送り,ただひたすら訪ねてきてほしいことを訴えるしかないのです。
夫に別の妻が何人もできたとしても,それを知る由もない。こんな理不尽なことを万葉集は多くの和歌で示しているのです。
しかし,万葉集を研究してきた人は圧倒的に男性が多く,こういった女性の苦痛を広く知らしめることは日本の風習だからとしてスルーされてきたように思います。
つい最近まで,たとえ夫婦が同じ家で暮らすようになっても,夫が外で勤め,妻が夫の帰りを何時になっても待つという専業主婦という標準家庭が前提での制度が残ってきたのです。
万葉集の編者は,律令制度などの当時としては先進的な制度の導入によって発生しうる影の部分も和歌として,客観的にそのまま残そうとしたと私には思えてなりません。
しかし,万葉集は後の為政者や研究者にとって都合よいところだけを秀歌などと称して利用され,ほんの一部の和歌だけでイメージが(編者の意図に反して)後世の人たちの好き嫌いや都合によってゆがめられて形作られてしまっているのです。
私は,これからも万葉集の和歌に優劣を付けず,先入観を排除した万葉集の和歌を情報としてリバーズエンジニアリング(あくまで現物全体から編者の意図解析)を続けていこうと考えています。
(続難読漢字シリーズ(27)につづく)

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