前回は降る対象が「時雨(しぐれ)」でした。今回は「春雨(はるさめ)」です。
「しぐれ」が「かき氷」の別称だったように,「春雨」は中国由来の乾麺「粉条(フェンティアオ)」の日本での名前です。
「麻婆春雨」「春雨サラダ」という料理が有名で,「春巻き」の具(ぐ)になったり,てんぷらの衣に入れて触感に変化を与える「春雨揚げてんぷら」に使われることもあります。
食品の「春雨」の生産が盛んなのは,万葉集にも縁が強い奈良県の桜井市だそうです。三輪そうめんや葛きりの技術がいきているのかもしれませんね。
さて,本題の雨の方の「春雨が降る」を詠んだ万葉集の和歌を紹介します。「春雨が降る」を詠んだ万葉集の和歌は10首ほど出てきます。
最初は「桜」と「春雨」の組合せた短歌2首です。最初1首は前回アップしたブログにも法会で演奏をしたとして出てきた河邊東人が詠んだとされています。2首目は詠み人知らずの短歌です。
春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ(8-1440)
<はるさめのしくしくふるに たかまとのやまのさくらは いかにかあるらむ>
<<春雨がしとしと降続いているので,高円の山の桜はどんなふうになっているのでしょうか>>
春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも(10-1870)
<はるさめはいたくなふりそ さくらばないまだみなくに ちらまくをしも>
<< 春雨よ,そんなに降らないでくれ。桜の花をまだ見ないで散ってしまったら惜しいから>>
春雨が降ると桜を早く散らしてしまい,桜の花を楽しみにしている人には邪魔な存在だったのでしょうね。
では,梅はどうでしょうか。次の短歌は梅の花をも散らす強い春雨に,旅先の夫(?)を心配する詠み人知らずのものです。
梅の花散らす春雨いたく降る旅にや君が廬りせるらむ(10-1918)
<うめのはなちらすはるさめ いたくふるたびにやきみが いほりせるらむ>
<<梅の花を散らしてしまうほど春雨が強く降っている。旅先のあなたは雨を防ぐ庵を見つけられているのだろうか>>
桜は弱い春雨でもすぐ散ってしまうのですが,梅はなかなか散らないので,相当強い雨だったのでしょうね。旅先の夫を心配する気持ちは分かろうというものです。
最後は,やはり恋心に対して「春雨が降る」ことがどう影響するかを表現した詠み人知らずの女性が詠んだ短歌2首で締めくくります。
春雨に衣はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや(10-1917)
<はるさめにころもはいたく とほらめやなぬかしふらば なぬかこじとや>
<<春雨は着物をそんなに濡らしてしまうのですか?春雨が7日間降ったらその7日は来ないつもりなのですか?>>
春雨のやまず降る降る我が恋ふる人の目すらを相見せなくに(10-1932)
<はるさめのやまずふるふる あがこふるひとのめすらを あひみせなくに>
<<春雨が止むことなしに降り続いている。私が恋してるあの方お目にかかることすらさせてくれないのです>>
春になって,寒い冬に比べ,彼が逢いにくる可能性が高くなる季節のはずが,春雨が邪魔をしてなかなか逢いに来てくれないという作者のいら立ちが見られますね。
今,日本は秋雨前線が停滞して,夏の太陽が終わってしまったと思えるほどうっとしい天候が続いています。
夏の暑さを期待して夏物商品の売上増,農産物の豊作,熱い恋の進展を期待している人々にとっては邪魔な秋雨ですが,残念ながら万葉集に秋雨という言葉を使った和歌は出てきません。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(4)に続く。
2015年8月29日土曜日
2015年8月25日火曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(2) …「抹茶金時アイスしぐれ」に,スイカとメロンをトッピングね!
今回は「降る」対象が「時雨(しぐれ)」の場合,万葉集ではどう詠まれているかを見ていきましょう。
「時雨」とは,広辞苑によると「秋の末から冬の初め頃に,降ったりやんだりする雨」というように書かれています。
ただ,この季節に雨が降ったりやんだりするまさに「時雨」の状況が見られる地域は限られていると私は思います。時雨が頻繁に観測できるのは,初期の冬型気圧配置で日本海側から湿った風が高くはないが複雑な山の間を一部がすり抜け,そのため微妙に雨が降る地域に限られるような気がします。
私は京都生まれ京都育ちですが,成人になった以降は東京都八王子市や埼玉県川口市などに住むようになりました。関東南部では京都で見慣れたような「時雨」に出会うことがほとんど無くなりました。
まれにそのような天気に遭遇して,地元の人に「今日は時雨れていますね」と言おうものなら「何それ?」という顔をされることが多かったように思います。
万葉集などに出てくる「時雨」を詠んだ和歌を鑑賞しようとしても,「時雨」自体に遭遇することが少ない地域に住んでいる人には雰囲気が理解しにくい面があるのではないかと私は考えてしまいます。
<京都では気候だけでなく,かき氷でもポピュラー>
京都では,「時雨」が非常に身近なものですから,「時雨」を使った言葉がたくさんあります。
たとえば,私の小さいころ京都では「かき氷」のことを「しぐれ」と呼んでいました。
「抹茶金時ミルクしぐれ」のかき氷を美味しそうに食べている人を横目に,小遣いに不自由していた私は抹茶しぐれで我慢したのを覚えています。
また,京都では「北山(きたやま)時雨」という言葉を使います。名前が示す通り京都の北にある山懐に「北山」という地名があります。
こで植林されている杉は「北山杉」というブランドで出荷されています。植林された杉は1本1本真っ直ぐになるよう手入れがされ,すべての木の枝葉は下から上部10%部分のみに綺麗に剪定されています。
その風景がまた絵になることから,京都の観光名所の一つになっています。
この北山での時雨は,直立して並ぶ北山杉の深緑をさっと白い細かい雨でぼやかせたと思うと,すぐに止んでまた元の北山杉の林立が現れます。
この予測ができない(雨の強弱,降る/止むの間隔,風の向きや強弱,時より雲間から入る太陽光の強弱などの組合せによる)千差万別の変化は,1枚の写真や短時間の動画ではとても表現しきれないものだと私は感じます。
ところで,京都の他の場所での時雨は大したことが無いかというと,そんなことは全然ないというのが私の感想です。
<京都の散策は12月30日がおススメ>
「北山時雨」のような特別な名前が無い理由は,「北山時雨」は背景が北山や北山杉に限られているので差別(ブランド)化ができるのですが,京都の市街地に入ると有名な背景があまりに多すぎて差別化できないためではないかと私は考えます。
嵯峨野・嵐山の時雨,東山の時雨,金閣寺の時雨など,その瞬間を是非味わいたいために,私は若いころ年末・年始京都に帰省すると,京都のあちこちを歩いたことを思いだします。
特に,12月30日の午前中は,観光客や参拝客も非常に少なく,地元の人たちだけが正月の準備に忙しくは動いている姿を見ながら,時雨が降る古都を歩くのは私にとって無上に好きな雰囲気の一つでした。
さて,万葉集で「時雨が降る」を詠んだ何首かを紹介します。
万葉時代では時雨は黄葉を一層進めるという考え方があったようです。次は市原王(いちはらのおほきみ)が詠んだそんな短歌です。
時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ(8-1551)
<ときまちてふれるしぐれの あめやみぬあけむあしたか やまのもみたむ>
<<ようやく降り出したしぐれの雨が上がった。明日の朝には山が黄葉しているだろうか>>
もう1首は,寺の法会(ほうえ)で唄いあげたという詠み人知らずの短歌です。
時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも(8-1594)
<しぐれのあめまなくなふりそ くれなゐににほへるやまの ちらまくをしも>
<<時雨の雨よ休む間もなく降らないでくれ。紅色に映えている山の木の葉の散るのが惜しいから>>
この短歌の左注には,このとき琴を弾いたのが市原王,忍坂王(おさかのおほきみ,後に大原真人と呼ばれた)で,唄ったのは田口家守(たぐちのやかもり),河邊東人(かはへのあづまと),置始長谷(おきそめのはせ)等,十数人であったと記されているとのことです。
何せこの法会は1日中行われたとその左注に記されているとのことで,かなり盛大な音楽イベントだったと想像できます。
こういう楽しみをプログラムに入れて多くの参加者を集め,最後は僧侶が参加者に仏経典の説法した(この短歌からは世の無常を説いた)のかもしれませんね。
ところで,現代アメリカのキリスト教教会が黒人や若者の参加者を集めるためにやったミサの前のゴスペルコーラスも似たような演出のような気がします。
さて,時雨は黄葉以外に萩と結び付けて詠まれた万葉集の短歌もあります。次は柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの1首です。
さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも(10-2029)
<さをしかのこころあひおもふ あきはぎのしぐれのふるに ちらくしをしも>
<<牡鹿が心に思う秋萩が時雨が降って散るのが惜しいことだ>>
最期は,恋愛で時雨が関わる短歌2首です。2首とも柿本人麻呂歌集から転載の詠み人知らずの短歌です。
一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む(10-2234)
<ひとひにはちへしくしくに あがこふるいもがあたりに しぐれふれみむ>
<<一日のうち何度しくしくと時雨が降り続くように恋いしく思い続けることか,彼女が住むあたりに時雨よ降って僕の気持ちを見せてくれ>>
玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ(10-2236)
<たまたすきかけぬときなし あがこひはしぐれしふらば ぬれつつもゆかむ>
<<成就を願わぬこと時がない私の恋は,たとえ時雨が降って濡れることがあっても続けていくんだ>>
時雨が降る多様な情景が,人間の感性の多様さを表す手段の一つとして,万葉時代から存在したことは事実のようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(3)に続く。
「時雨」とは,広辞苑によると「秋の末から冬の初め頃に,降ったりやんだりする雨」というように書かれています。
ただ,この季節に雨が降ったりやんだりするまさに「時雨」の状況が見られる地域は限られていると私は思います。時雨が頻繁に観測できるのは,初期の冬型気圧配置で日本海側から湿った風が高くはないが複雑な山の間を一部がすり抜け,そのため微妙に雨が降る地域に限られるような気がします。
私は京都生まれ京都育ちですが,成人になった以降は東京都八王子市や埼玉県川口市などに住むようになりました。関東南部では京都で見慣れたような「時雨」に出会うことがほとんど無くなりました。
まれにそのような天気に遭遇して,地元の人に「今日は時雨れていますね」と言おうものなら「何それ?」という顔をされることが多かったように思います。
万葉集などに出てくる「時雨」を詠んだ和歌を鑑賞しようとしても,「時雨」自体に遭遇することが少ない地域に住んでいる人には雰囲気が理解しにくい面があるのではないかと私は考えてしまいます。
<京都では気候だけでなく,かき氷でもポピュラー>
京都では,「時雨」が非常に身近なものですから,「時雨」を使った言葉がたくさんあります。
たとえば,私の小さいころ京都では「かき氷」のことを「しぐれ」と呼んでいました。
「抹茶金時ミルクしぐれ」のかき氷を美味しそうに食べている人を横目に,小遣いに不自由していた私は抹茶しぐれで我慢したのを覚えています。
また,京都では「北山(きたやま)時雨」という言葉を使います。名前が示す通り京都の北にある山懐に「北山」という地名があります。
こで植林されている杉は「北山杉」というブランドで出荷されています。植林された杉は1本1本真っ直ぐになるよう手入れがされ,すべての木の枝葉は下から上部10%部分のみに綺麗に剪定されています。
その風景がまた絵になることから,京都の観光名所の一つになっています。
この北山での時雨は,直立して並ぶ北山杉の深緑をさっと白い細かい雨でぼやかせたと思うと,すぐに止んでまた元の北山杉の林立が現れます。
この予測ができない(雨の強弱,降る/止むの間隔,風の向きや強弱,時より雲間から入る太陽光の強弱などの組合せによる)千差万別の変化は,1枚の写真や短時間の動画ではとても表現しきれないものだと私は感じます。
ところで,京都の他の場所での時雨は大したことが無いかというと,そんなことは全然ないというのが私の感想です。
<京都の散策は12月30日がおススメ>
「北山時雨」のような特別な名前が無い理由は,「北山時雨」は背景が北山や北山杉に限られているので差別(ブランド)化ができるのですが,京都の市街地に入ると有名な背景があまりに多すぎて差別化できないためではないかと私は考えます。
嵯峨野・嵐山の時雨,東山の時雨,金閣寺の時雨など,その瞬間を是非味わいたいために,私は若いころ年末・年始京都に帰省すると,京都のあちこちを歩いたことを思いだします。
特に,12月30日の午前中は,観光客や参拝客も非常に少なく,地元の人たちだけが正月の準備に忙しくは動いている姿を見ながら,時雨が降る古都を歩くのは私にとって無上に好きな雰囲気の一つでした。
さて,万葉集で「時雨が降る」を詠んだ何首かを紹介します。
万葉時代では時雨は黄葉を一層進めるという考え方があったようです。次は市原王(いちはらのおほきみ)が詠んだそんな短歌です。
時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ(8-1551)
<ときまちてふれるしぐれの あめやみぬあけむあしたか やまのもみたむ>
<<ようやく降り出したしぐれの雨が上がった。明日の朝には山が黄葉しているだろうか>>
もう1首は,寺の法会(ほうえ)で唄いあげたという詠み人知らずの短歌です。
時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも(8-1594)
<しぐれのあめまなくなふりそ くれなゐににほへるやまの ちらまくをしも>
<<時雨の雨よ休む間もなく降らないでくれ。紅色に映えている山の木の葉の散るのが惜しいから>>
この短歌の左注には,このとき琴を弾いたのが市原王,忍坂王(おさかのおほきみ,後に大原真人と呼ばれた)で,唄ったのは田口家守(たぐちのやかもり),河邊東人(かはへのあづまと),置始長谷(おきそめのはせ)等,十数人であったと記されているとのことです。
何せこの法会は1日中行われたとその左注に記されているとのことで,かなり盛大な音楽イベントだったと想像できます。
こういう楽しみをプログラムに入れて多くの参加者を集め,最後は僧侶が参加者に仏経典の説法した(この短歌からは世の無常を説いた)のかもしれませんね。
ところで,現代アメリカのキリスト教教会が黒人や若者の参加者を集めるためにやったミサの前のゴスペルコーラスも似たような演出のような気がします。
さて,時雨は黄葉以外に萩と結び付けて詠まれた万葉集の短歌もあります。次は柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの1首です。
さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも(10-2029)
<さをしかのこころあひおもふ あきはぎのしぐれのふるに ちらくしをしも>
<<牡鹿が心に思う秋萩が時雨が降って散るのが惜しいことだ>>
最期は,恋愛で時雨が関わる短歌2首です。2首とも柿本人麻呂歌集から転載の詠み人知らずの短歌です。
一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む(10-2234)
<ひとひにはちへしくしくに あがこふるいもがあたりに しぐれふれみむ>
<<一日のうち何度しくしくと時雨が降り続くように恋いしく思い続けることか,彼女が住むあたりに時雨よ降って僕の気持ちを見せてくれ>>
玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ(10-2236)
<たまたすきかけぬときなし あがこひはしぐれしふらば ぬれつつもゆかむ>
<<成就を願わぬこと時がない私の恋は,たとえ時雨が降って濡れることがあっても続けていくんだ>>
時雨が降る多様な情景が,人間の感性の多様さを表す手段の一つとして,万葉時代から存在したことは事実のようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(3)に続く。
2015年8月18日火曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(1) …雨よ私の恋の邪魔をしないでね!
先週は通勤時間帯の交通機関乗客数も非常に少なく,通勤がすごく楽でした。
さて,動きの詞シリーズを再開します。今回からしばらくは「降る」について,万葉集を見ていきしょう。
「降る」は「○○が降る」というように「降る」対象があります。
ポピュラーなものとしては,雨,雪あたりでしょうか。
その他のモノとして,霜,霰,露,神(降臨)といったところでしょうか。
まずは普通の「雨が降る」を見ていきます。
実は雨にもいろいろ種類があります。
万葉集で出くる「降る」雨には,単なる雨の他,春雨,小雨,村雨(しきりに強く降る雨),時雨(しぐれ),長雨,夕立の雨などがあります。
今回は,万葉集で多く詠まれている(単に)雨が降る情景について,何首か見ていくことにします。
旅の途中に雨に降られるといやなものですね。天候が良ければ心も軽やかに旅路も進みますが,雨だと我慢の連続となりますね。
最初は,そんな旅先(紀州の新宮あたり?)の憂鬱な気持ちを詠んだ長意吉麻呂(ながのおきまろ)の短歌です。
苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに(3-265)
<くるしくもふりくるあめか みわのさきさののわたりに いへもあらなくに>
<<苦しい旅路に輪をかけて降って来る雨だよ。三輪の崎の狭野のあたりに雨宿りする家なんかあるわけないのに>>
昔の僻地を通る旅は大変だったのが窺い知れます。
次は,雨の降る日,家にじっとしていると恋人のことばかり考えてしまう気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を(11-2682)
<からころもきみにうちきせ みまくほりこひぞくらしし あめのふるひを>
<<韓衣を着た姿をあなたに見せてあげたたいと恋しい気持ちでおります。この雨の降る日を>>
いろいろな解釈ができる1首ですが,女性が夫が恋人が来るのをきれいな着物に着替えて待っているが,雨なので来てもらえそうにない残念な気持ちを詠んだのではないかと私は解釈しました。
最後は,「雨ニモ負ケズ」ではないけれど,雨が降るような障害となることがあってもあなたへの気持ちは変わらないと詠んだ情熱的な短歌です。
紅に染めてし衣雨降りてにほひはすともうつろはめやも(16-3877)
<くれなゐにそめてしころも あめふりてにほひはすとも うつろはめやも>
<<紅色に染めた衣,雨が降って濡れてしまっても,紅色が一層鮮やかになり,紅色がぼやけてしまうようなことはないですよ>>
この短歌は,九州の豊後國(今の大分県あたり)の白水郎と呼ばれた人物が詠んだとされています。
衣は自分の気持ち,紅色は相手に対する気持ち,雨が降ることは周囲の反対や環境上の障害でしょうか。
一途な恋をしているときはどんな反対を受けても,恋の気持ちはより強くなることはあっても弱くなることはないという気持ちになるのでしょうね。
ただ,人の心は実は「うつろはめやも」とは反対に「うつろいやすい」ことも事実。熱くなり過ぎず冷静な気持ちで相手をしっかりする恋愛も重要だとこの短歌は教えているのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(2)に続く。
さて,動きの詞シリーズを再開します。今回からしばらくは「降る」について,万葉集を見ていきしょう。
「降る」は「○○が降る」というように「降る」対象があります。
ポピュラーなものとしては,雨,雪あたりでしょうか。
その他のモノとして,霜,霰,露,神(降臨)といったところでしょうか。
まずは普通の「雨が降る」を見ていきます。
実は雨にもいろいろ種類があります。
万葉集で出くる「降る」雨には,単なる雨の他,春雨,小雨,村雨(しきりに強く降る雨),時雨(しぐれ),長雨,夕立の雨などがあります。
今回は,万葉集で多く詠まれている(単に)雨が降る情景について,何首か見ていくことにします。
旅の途中に雨に降られるといやなものですね。天候が良ければ心も軽やかに旅路も進みますが,雨だと我慢の連続となりますね。
最初は,そんな旅先(紀州の新宮あたり?)の憂鬱な気持ちを詠んだ長意吉麻呂(ながのおきまろ)の短歌です。
苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに(3-265)
<くるしくもふりくるあめか みわのさきさののわたりに いへもあらなくに>
<<苦しい旅路に輪をかけて降って来る雨だよ。三輪の崎の狭野のあたりに雨宿りする家なんかあるわけないのに>>
昔の僻地を通る旅は大変だったのが窺い知れます。
次は,雨の降る日,家にじっとしていると恋人のことばかり考えてしまう気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を(11-2682)
<からころもきみにうちきせ みまくほりこひぞくらしし あめのふるひを>
<<韓衣を着た姿をあなたに見せてあげたたいと恋しい気持ちでおります。この雨の降る日を>>
いろいろな解釈ができる1首ですが,女性が夫が恋人が来るのをきれいな着物に着替えて待っているが,雨なので来てもらえそうにない残念な気持ちを詠んだのではないかと私は解釈しました。
最後は,「雨ニモ負ケズ」ではないけれど,雨が降るような障害となることがあってもあなたへの気持ちは変わらないと詠んだ情熱的な短歌です。
紅に染めてし衣雨降りてにほひはすともうつろはめやも(16-3877)
<くれなゐにそめてしころも あめふりてにほひはすとも うつろはめやも>
<<紅色に染めた衣,雨が降って濡れてしまっても,紅色が一層鮮やかになり,紅色がぼやけてしまうようなことはないですよ>>
この短歌は,九州の豊後國(今の大分県あたり)の白水郎と呼ばれた人物が詠んだとされています。
衣は自分の気持ち,紅色は相手に対する気持ち,雨が降ることは周囲の反対や環境上の障害でしょうか。
一途な恋をしているときはどんな反対を受けても,恋の気持ちはより強くなることはあっても弱くなることはないという気持ちになるのでしょうね。
ただ,人の心は実は「うつろはめやも」とは反対に「うつろいやすい」ことも事実。熱くなり過ぎず冷静な気持ちで相手をしっかりする恋愛も重要だとこの短歌は教えているのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(2)に続く。
2015年8月9日日曜日
2015 盛夏スペシャル(5:まとめ)…万葉集に出てくる神々について
残暑お見舞い申し上げます。今年は8月8日が立秋となります。
立秋を過ぎても「盛夏スペシャル」とはこれ如何に? まあ,,,細かいことは言わずにご覧ください。
場所によっては,まだまだ猛暑日がやってきそうですからね(言い訳)。
さて,盛夏スペシャルの最後は,「神」について万葉集を見ていくことにします。
私は,仏教については少し勉強していますが,日本の神道については知識がほとんどなく,今回調べながらの記述になります。
<神風特攻隊の「神風」>
終戦の日を間近にして,太平洋戦争終盤では「神風特攻隊」なるゼロ式戦闘機(ゼロ戦)による自爆特別攻撃隊が結成され,その無謀な実行で,双方多くの兵士が犠牲になったといいます。
「神風特別攻撃隊」を調べてみると,この「神風」は万葉集に出てくる「かむかぜ」から採った名前ではないとのことのようで,万葉集を愛好している私は少し安心をしました。
万葉集に入る前に,日本の神の一般的な話として「八万(やよろづ)の神」というほど,たくさんの神の存在が認識されます。
神を祀る神社には,「浅間」「稲荷」「鹿島」「春日」「香取」「熊野」「神明」「住吉」「諏訪」「天神」「八幡」「氷川」「日吉」なとなどの名前が頭についたものがあり,それぞれメインで祀られている神が違うとのことです。
皆さんが住んでいる近くにも,このような名前を持つ神社(分社)や地名があるかもしれません。
<日本では誰でも神になれる?>
また,Wikipediaを見ると日本で神と呼ばれている名称や人が,数百は出てきます(八万件はでてきませんが)。
日本の神の場合は,歴史上の人物も神になって祀られ,その神社まで作られている人物もいます。
神とされている歴史上の人物で一番有名と私が思うのは,天神(天満宮)として祀られている平安時代の貴族,政治家であった菅原道真(学問の神)でしょうか。
また,比較的新しく神と呼ばれるようになった歴史上有名な人物は,明治時代の軍人・教育者であった乃木希典(のぎまれすけ)でしょうか。
希典を神として祀った乃木神社が各地にあり,東京の神社近くでは乃木坂という坂の名称まで作られ,2010年代に入り「乃木坂46」というアイドルグループまでもが結成されています。「乃木坂46」のメンバーは特に乃木神社の氏子ではないと思いますが...。
さらに,神として祀られている中には,大阪では有名な「ビリケン」のような海外のキャラクターから出た神も拝まれています。
このように,日本の神はその歴史的な重みや権威づけもさまざまなようですが,逆に日本人にとってはいろいろな願いを気楽に祈願できる身近な存在になっているのかもしれません。
<大阪では偉大な神もお友達?>
ちなみに,大阪では神のことを「神様」とは言わず,「神さん」と言っていることのほうが多いようです。また,神社や神の名も「天神さん」「住吉さん」「お稲荷さん」「八幡(はちまん)さん」「戎(えびっ)さん」「弁天さん」「布袋(ほてい)さん」「ビリケンさん」などと親しみを込めた言い方で呼ぶようです。
この神の考え方,捉え方は,キリスト教やイスラム教といった,どちらかというと一神教に属するといわれている宗教とは大きく異なる神のイメージがあるのかもしれませんね。
実は,万葉集でもすでにいろいろな神が出てきます。天皇(神としての),山,海,道,雷,風,国が神だったりします。
今の神社がある地名もたくさん出てきます。たとえば,伊勢(三重),石田(京都),鹿島(茨城),近江・多賀(滋賀),春日・三輪・石上・橿原(奈良),熊野(和歌山),住吉(大阪)などです。
では,神が出てくる多数の万葉集の和歌から少し見ていきましょう。
最初は,詠み人知らずの恋の苦しさを詠んだ短歌です。
いかにして恋やむものぞ天地の神を祈れど我れは思ひ増す(13-3306)
<いかにしてこひやむものぞ あめつちのかみをいのれど われはおもひます>
<<どうしたらあなたを恋しい気持ちを止めることができるのだろう。止められるよう天地の神々に祈ってみても,恋しさがますます増えて行くばかり>>
天や地上にいるあらゆる神に恋しい気持ちを抑えたいと祈ったけれど,ダメなんだという短歌です。
さて,この短歌の作者には,相手に対する恋心を抑えなければならない何らかの理由があるのでしょうね。それは,身分の違い,氏素性の違い,仕事上の制約,地理的な問題,倫理上許されない恋など,いろいろ考えられるかもしれません。
そういったことで,神でもこれは止められないという気持ち。当時はどう受け止められたのでしょうか。万葉集の編者は同感する部分が多かったから採録したのでしょう。
次は,新婚の結婚式または披露宴で詠まれたのではないかと考えられるお祝いの長歌です。
葦原の瑞穂の国に 手向けすと天降りましけむ 五百万千万神の 神代より言ひ継ぎ来る 神なびのみもろの山は 春されば春霞立つ 秋行けば紅にほふ 神なびのみもろの神の 帯ばせる明日香の川の 水脈早み生しためかたき 石枕苔生すまでに 新夜の幸く通はむ 事計り夢に見せこそ 剣太刀斎ひ祭れる 神にしませば(13-3227)
<あしはらのみづほのくにに たむけすとあもりましけむ いほよろづちよろづかみの かむよよりいひつぎきたる かむなびのみもろのやまは はるさればはるかすみたつ あきゆけばくれなゐにほふ かむなびのみもろのかみの おばせるあすかのかはの みをはやみむしためかたき いしまくらこけむすまでに あらたよのさきくかよはむ ことはかりいめにみせこそ つるぎたちいはひまつれる かみにしませば>
<<瑞穂の国に手向け(ご利益)を与えるため,無数の神々が神代から降臨したと言い継いで来た神々が宿るという三諸の山は,春になると春霞が立ち秋になると紅葉が美しい。三諸山の神々が帯にしている明日香川の水流が速く生えるのが難しい石枕に苔が生えるまでの長い期間,新婚の時のような気持ちで毎夜過ごせる計らいを鎮座まします神々よ,どうか夢でお示し下され。 私がこんなに大切にお祭りしている神でいらっしゃるのですから>>
この長歌から窺い知れることは,万葉時代から日本には(その三諸山だけでも)神々が無数にいたと信じられていたということしょうね。新婚夫婦に対して「行く末永くお幸せであられんことをと神々に祈ったよ」と祝福している様子が見てとれますね。
最後は,吉田宜(よしだのよろし)という大伴旅人の臣下が平城京から大宰府に赴任している旅人に贈ったといわれている短歌です。
君が行き日長くなりぬ奈良道なる山斎の木立も神さびにけり(5-867)
<きみがゆきけながくなりぬ ならぢなるしまのこだちも かむさびにけり>
<<旅人様が大宰府へ旅立たれてから長い月日が経ちましたので,京に通じる道沿いの山の木立も鬱蒼として神々しくなりましたよ>>
旅人は平城京に通っていたころ,通勤に事故が無いよう,家臣たちは道の周辺を整備(木々も綺麗に剪定)をしていたのでしょう。
旅人が九州に赴任して,その道は整備する必要がなくなって,気がつけば荒れ放題になっている様子を伝え,早いお帰りをお待ちしているという気持ちを旅人に伝えようとしている1首だと私には思えます。
そうすると,神々が宿るように見えるということは,手つかずの自然のままのような場所ということになります。今でも,神体とされている三輪山(奈良)や,最近2017年世界遺産登録候補地として選出された沖ノ島(福岡)は一般の人の立ち入りが厳しく規制されていて,人間が関わることを忌み嫌っているようです。
<日本人にとっての神は自然やヒトと簡単に同一視されてきた>
日本の神は自然と一体で,多様な日本の自然や気候変化のため,自然の多様さごと(海,山,川,里,道,木々,雷,風,雨,動物,農業の収穫物,季節など)に対応した神々が数多くいると信じられてきたのでないかと私は思います。その中に住むヒト(例:天皇)さえも神になりえる存在だったのでしょう。
そして,神々への畏敬の念から,自然を破壊するのではなく,神に祈りながら(=自然と語り合いながら)村の生活を豊かにしていくことを日本人は目指してきたのだろうと思うのです。
しかし,生活が豊かになり,人口が増え,その地域の自然だけではより豊かになるのは難しい状況になってくると,村と村,氏と氏,国と国の覇権の争い(土地の奪い合い)が始まります。
そしてもっとミクロな個人間の恋人の奪い合いも同じで,奪ってでもより良い配偶者を得ようとする人間の性なのです。
そういった覇権争いに万葉集に出てくる神々はほとんど力を持ちません。なぜなら多くは自然をベースにした神(「全知全能の神」ではない)だからです。実際に,覇権争いの結果,敗れた人や場所を詠んだ和歌には「神と言われていたのだけれど」「神に祈ったけれど」「神の力が無くなり」などの表現がでてきます。
<明治政府は天皇を全知全能の神にしてしまった>
さて,明治維新後のいわゆる日本帝国は日本人が信じてきた諸々の神々を階層化(格付け)し,頂点の神を作り,それを自然とは遊離した一神教のように国民に崇めさせたのです。他国への侵略にその神を利用し(指示として正当化し),国民に対して日本が選民国家だということを宣揚,太平洋戦争に至るまで戦争への道を歩ませてしまったのではないかと私は思います。
今,終戦70周年を迎えて,地球という限られた資源の奪い合いが続く限り,自然の破壊,戦争,紛争,テロなどの脅威は避けられません。
口だけでいくら”平和・平和”と言っていても,より豊かになりたいという人間の性(本能)がなくならない以上,それらのリスクは減りません。特に,国間,地域間,世代間などの格差がこれ以上拡大すると,さらに戦争,紛争,テロなどのリスクは高まります。
そのような中でいわゆる「積極的平和主義」というものが今の日本としてベストな選択肢であるかは私には分かりません。ただし,いろいな人々の検討・検証・諸外国との調整を経た結果における一つの対応案(もちろんリスクもある)であるという事実は間違いありません。
<核について>
そして,核の無い世界を目指すことに何の異論も私にはありません。しかし,核廃絶に向かって既に各国が努力していること(うまく行っていない部分も多)に無関心ではいられないでしょう。
核を持ってしまった国が核を捨てるストーリ(監視も含む)を誰が作るのですか? 「我々は平和憲法をもっているから核廃絶には関わりません。誰かがやれよ!」と言うだけで紛争が解決するなら世界はとっくに平和になっている気がします。
今回の安全保障法案に対し「反対」だけを主張する人がいます。世界での戦争などの発生リスク解消への具体的代替案及びそのメリット・デメリット,さらにその案を実施するために今まで諸外国ととごまで調整してきたか,実績を示さないとすれば,無責任な発言だと私には映ります。
マスコミもそういった反対活動をことさら大きく取り上げるなら,(日本がアメリカなどとの友好国との関係を度外視してでもできる)戦争や紛争に巻き込まれない策(計画)を具体的に提示すること。そして,その策で世界が同調してくれる実現可能性(フィージビリティ・スタディ)を積極的に示すべきです。責任と調整行動のない批評だけなら誰でもできそうです。
<隣の芝(日本)は青く見える>
日本の豊かで多様な自然,(多様なそれぞれを「神」と呼ぶかは別として)それらと調和した精神的・物質的に豊かな生活は,今のグローバルな時代に何もしないで守れるものではありません。
これまで,国内でそのような環境を実現するために国民一人一人が多くの大変な努力をして築き上げてきました。それが,諸外国から見てどう映るでしょうか?
日本の豊かさがネットを通じて広まると(日本にも貧困にあえぐヒトはたくさんいますが諸外国からは隣の芝は青く見えるのです),侵略やテロ,難民流入の標的にされる可能性も高ると私は想像します。
これまでの努力で実現した綺麗な水と空気,清潔な都市や街,信頼性の高い社会インフラ,整然と統制された秩序,交通事故死者数の激減,殺人・強盗・窃盗などの犯罪数の減少などが,当たり前に実現されている日本は,世界の中でも稀有な国であることを知るべきです。
今後もこれらを維持し,さらに向上する国内での努力と,外国からの侵犯や攻撃を受けないようにする努力をバランスさせて進めていくしかない時代(豊さの代償を払う時代)に入ったと私は思います。
以上で「2015盛夏スペシャル」は終わり,次回からは「動きの詞シリーズ」に戻ります。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(1)に続く。
立秋を過ぎても「盛夏スペシャル」とはこれ如何に? まあ,,,細かいことは言わずにご覧ください。
場所によっては,まだまだ猛暑日がやってきそうですからね(言い訳)。
さて,盛夏スペシャルの最後は,「神」について万葉集を見ていくことにします。
私は,仏教については少し勉強していますが,日本の神道については知識がほとんどなく,今回調べながらの記述になります。
<神風特攻隊の「神風」>
終戦の日を間近にして,太平洋戦争終盤では「神風特攻隊」なるゼロ式戦闘機(ゼロ戦)による自爆特別攻撃隊が結成され,その無謀な実行で,双方多くの兵士が犠牲になったといいます。
「神風特別攻撃隊」を調べてみると,この「神風」は万葉集に出てくる「かむかぜ」から採った名前ではないとのことのようで,万葉集を愛好している私は少し安心をしました。
万葉集に入る前に,日本の神の一般的な話として「八万(やよろづ)の神」というほど,たくさんの神の存在が認識されます。
神を祀る神社には,「浅間」「稲荷」「鹿島」「春日」「香取」「熊野」「神明」「住吉」「諏訪」「天神」「八幡」「氷川」「日吉」なとなどの名前が頭についたものがあり,それぞれメインで祀られている神が違うとのことです。
皆さんが住んでいる近くにも,このような名前を持つ神社(分社)や地名があるかもしれません。
<日本では誰でも神になれる?>
また,Wikipediaを見ると日本で神と呼ばれている名称や人が,数百は出てきます(八万件はでてきませんが)。
日本の神の場合は,歴史上の人物も神になって祀られ,その神社まで作られている人物もいます。
神とされている歴史上の人物で一番有名と私が思うのは,天神(天満宮)として祀られている平安時代の貴族,政治家であった菅原道真(学問の神)でしょうか。
また,比較的新しく神と呼ばれるようになった歴史上有名な人物は,明治時代の軍人・教育者であった乃木希典(のぎまれすけ)でしょうか。
希典を神として祀った乃木神社が各地にあり,東京の神社近くでは乃木坂という坂の名称まで作られ,2010年代に入り「乃木坂46」というアイドルグループまでもが結成されています。「乃木坂46」のメンバーは特に乃木神社の氏子ではないと思いますが...。
さらに,神として祀られている中には,大阪では有名な「ビリケン」のような海外のキャラクターから出た神も拝まれています。
このように,日本の神はその歴史的な重みや権威づけもさまざまなようですが,逆に日本人にとってはいろいろな願いを気楽に祈願できる身近な存在になっているのかもしれません。
<大阪では偉大な神もお友達?>
ちなみに,大阪では神のことを「神様」とは言わず,「神さん」と言っていることのほうが多いようです。また,神社や神の名も「天神さん」「住吉さん」「お稲荷さん」「八幡(はちまん)さん」「戎(えびっ)さん」「弁天さん」「布袋(ほてい)さん」「ビリケンさん」などと親しみを込めた言い方で呼ぶようです。
この神の考え方,捉え方は,キリスト教やイスラム教といった,どちらかというと一神教に属するといわれている宗教とは大きく異なる神のイメージがあるのかもしれませんね。
実は,万葉集でもすでにいろいろな神が出てきます。天皇(神としての),山,海,道,雷,風,国が神だったりします。
今の神社がある地名もたくさん出てきます。たとえば,伊勢(三重),石田(京都),鹿島(茨城),近江・多賀(滋賀),春日・三輪・石上・橿原(奈良),熊野(和歌山),住吉(大阪)などです。
では,神が出てくる多数の万葉集の和歌から少し見ていきましょう。
最初は,詠み人知らずの恋の苦しさを詠んだ短歌です。
いかにして恋やむものぞ天地の神を祈れど我れは思ひ増す(13-3306)
<いかにしてこひやむものぞ あめつちのかみをいのれど われはおもひます>
<<どうしたらあなたを恋しい気持ちを止めることができるのだろう。止められるよう天地の神々に祈ってみても,恋しさがますます増えて行くばかり>>
天や地上にいるあらゆる神に恋しい気持ちを抑えたいと祈ったけれど,ダメなんだという短歌です。
さて,この短歌の作者には,相手に対する恋心を抑えなければならない何らかの理由があるのでしょうね。それは,身分の違い,氏素性の違い,仕事上の制約,地理的な問題,倫理上許されない恋など,いろいろ考えられるかもしれません。
そういったことで,神でもこれは止められないという気持ち。当時はどう受け止められたのでしょうか。万葉集の編者は同感する部分が多かったから採録したのでしょう。
次は,新婚の結婚式または披露宴で詠まれたのではないかと考えられるお祝いの長歌です。
葦原の瑞穂の国に 手向けすと天降りましけむ 五百万千万神の 神代より言ひ継ぎ来る 神なびのみもろの山は 春されば春霞立つ 秋行けば紅にほふ 神なびのみもろの神の 帯ばせる明日香の川の 水脈早み生しためかたき 石枕苔生すまでに 新夜の幸く通はむ 事計り夢に見せこそ 剣太刀斎ひ祭れる 神にしませば(13-3227)
<あしはらのみづほのくにに たむけすとあもりましけむ いほよろづちよろづかみの かむよよりいひつぎきたる かむなびのみもろのやまは はるさればはるかすみたつ あきゆけばくれなゐにほふ かむなびのみもろのかみの おばせるあすかのかはの みをはやみむしためかたき いしまくらこけむすまでに あらたよのさきくかよはむ ことはかりいめにみせこそ つるぎたちいはひまつれる かみにしませば>
<<瑞穂の国に手向け(ご利益)を与えるため,無数の神々が神代から降臨したと言い継いで来た神々が宿るという三諸の山は,春になると春霞が立ち秋になると紅葉が美しい。三諸山の神々が帯にしている明日香川の水流が速く生えるのが難しい石枕に苔が生えるまでの長い期間,新婚の時のような気持ちで毎夜過ごせる計らいを鎮座まします神々よ,どうか夢でお示し下され。 私がこんなに大切にお祭りしている神でいらっしゃるのですから>>
この長歌から窺い知れることは,万葉時代から日本には(その三諸山だけでも)神々が無数にいたと信じられていたということしょうね。新婚夫婦に対して「行く末永くお幸せであられんことをと神々に祈ったよ」と祝福している様子が見てとれますね。
最後は,吉田宜(よしだのよろし)という大伴旅人の臣下が平城京から大宰府に赴任している旅人に贈ったといわれている短歌です。
君が行き日長くなりぬ奈良道なる山斎の木立も神さびにけり(5-867)
<きみがゆきけながくなりぬ ならぢなるしまのこだちも かむさびにけり>
<<旅人様が大宰府へ旅立たれてから長い月日が経ちましたので,京に通じる道沿いの山の木立も鬱蒼として神々しくなりましたよ>>
旅人は平城京に通っていたころ,通勤に事故が無いよう,家臣たちは道の周辺を整備(木々も綺麗に剪定)をしていたのでしょう。
旅人が九州に赴任して,その道は整備する必要がなくなって,気がつけば荒れ放題になっている様子を伝え,早いお帰りをお待ちしているという気持ちを旅人に伝えようとしている1首だと私には思えます。
そうすると,神々が宿るように見えるということは,手つかずの自然のままのような場所ということになります。今でも,神体とされている三輪山(奈良)や,最近2017年世界遺産登録候補地として選出された沖ノ島(福岡)は一般の人の立ち入りが厳しく規制されていて,人間が関わることを忌み嫌っているようです。
<日本人にとっての神は自然やヒトと簡単に同一視されてきた>
日本の神は自然と一体で,多様な日本の自然や気候変化のため,自然の多様さごと(海,山,川,里,道,木々,雷,風,雨,動物,農業の収穫物,季節など)に対応した神々が数多くいると信じられてきたのでないかと私は思います。その中に住むヒト(例:天皇)さえも神になりえる存在だったのでしょう。
そして,神々への畏敬の念から,自然を破壊するのではなく,神に祈りながら(=自然と語り合いながら)村の生活を豊かにしていくことを日本人は目指してきたのだろうと思うのです。
しかし,生活が豊かになり,人口が増え,その地域の自然だけではより豊かになるのは難しい状況になってくると,村と村,氏と氏,国と国の覇権の争い(土地の奪い合い)が始まります。
そしてもっとミクロな個人間の恋人の奪い合いも同じで,奪ってでもより良い配偶者を得ようとする人間の性なのです。
そういった覇権争いに万葉集に出てくる神々はほとんど力を持ちません。なぜなら多くは自然をベースにした神(「全知全能の神」ではない)だからです。実際に,覇権争いの結果,敗れた人や場所を詠んだ和歌には「神と言われていたのだけれど」「神に祈ったけれど」「神の力が無くなり」などの表現がでてきます。
<明治政府は天皇を全知全能の神にしてしまった>
さて,明治維新後のいわゆる日本帝国は日本人が信じてきた諸々の神々を階層化(格付け)し,頂点の神を作り,それを自然とは遊離した一神教のように国民に崇めさせたのです。他国への侵略にその神を利用し(指示として正当化し),国民に対して日本が選民国家だということを宣揚,太平洋戦争に至るまで戦争への道を歩ませてしまったのではないかと私は思います。
今,終戦70周年を迎えて,地球という限られた資源の奪い合いが続く限り,自然の破壊,戦争,紛争,テロなどの脅威は避けられません。
口だけでいくら”平和・平和”と言っていても,より豊かになりたいという人間の性(本能)がなくならない以上,それらのリスクは減りません。特に,国間,地域間,世代間などの格差がこれ以上拡大すると,さらに戦争,紛争,テロなどのリスクは高まります。
そのような中でいわゆる「積極的平和主義」というものが今の日本としてベストな選択肢であるかは私には分かりません。ただし,いろいな人々の検討・検証・諸外国との調整を経た結果における一つの対応案(もちろんリスクもある)であるという事実は間違いありません。
<核について>
そして,核の無い世界を目指すことに何の異論も私にはありません。しかし,核廃絶に向かって既に各国が努力していること(うまく行っていない部分も多)に無関心ではいられないでしょう。
核を持ってしまった国が核を捨てるストーリ(監視も含む)を誰が作るのですか? 「我々は平和憲法をもっているから核廃絶には関わりません。誰かがやれよ!」と言うだけで紛争が解決するなら世界はとっくに平和になっている気がします。
今回の安全保障法案に対し「反対」だけを主張する人がいます。世界での戦争などの発生リスク解消への具体的代替案及びそのメリット・デメリット,さらにその案を実施するために今まで諸外国ととごまで調整してきたか,実績を示さないとすれば,無責任な発言だと私には映ります。
マスコミもそういった反対活動をことさら大きく取り上げるなら,(日本がアメリカなどとの友好国との関係を度外視してでもできる)戦争や紛争に巻き込まれない策(計画)を具体的に提示すること。そして,その策で世界が同調してくれる実現可能性(フィージビリティ・スタディ)を積極的に示すべきです。責任と調整行動のない批評だけなら誰でもできそうです。
<隣の芝(日本)は青く見える>
日本の豊かで多様な自然,(多様なそれぞれを「神」と呼ぶかは別として)それらと調和した精神的・物質的に豊かな生活は,今のグローバルな時代に何もしないで守れるものではありません。
これまで,国内でそのような環境を実現するために国民一人一人が多くの大変な努力をして築き上げてきました。それが,諸外国から見てどう映るでしょうか?
日本の豊かさがネットを通じて広まると(日本にも貧困にあえぐヒトはたくさんいますが諸外国からは隣の芝は青く見えるのです),侵略やテロ,難民流入の標的にされる可能性も高ると私は想像します。
これまでの努力で実現した綺麗な水と空気,清潔な都市や街,信頼性の高い社会インフラ,整然と統制された秩序,交通事故死者数の激減,殺人・強盗・窃盗などの犯罪数の減少などが,当たり前に実現されている日本は,世界の中でも稀有な国であることを知るべきです。
今後もこれらを維持し,さらに向上する国内での努力と,外国からの侵犯や攻撃を受けないようにする努力をバランスさせて進めていくしかない時代(豊さの代償を払う時代)に入ったと私は思います。
以上で「2015盛夏スペシャル」は終わり,次回からは「動きの詞シリーズ」に戻ります。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(1)に続く。
2015年8月2日日曜日
2015 盛夏スペシャル(4) … 万葉集は戦争をどう扱っているのか?
第二次世界大戦が終わって70年になろうとしています。
万葉集は,太平洋戦争中に発表された愛国百人一首で多くの短歌が採録されたり,大伴家持が詠んだとされる長歌の次の部分が,軍歌の歌詞として使われました。
~ 海行かば 水漬く屍(しかばね) 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと ~(18-4094)
このような事実から,万葉集は軍国主義的や国粋主義的な色彩の和歌が多いというイメージがあるのでは思っておられる人がいるとすれば,その人の見方は間違っていると私は申し上げたいのです。
<切り取り引用の典型>
なぜなら,軍歌の歌詞として引用されているこの長歌全体を見ると分るのですが,海へ行くのは誰か,山へ行くのは誰か,それは天皇なのです。
天皇が海に行くことがあっても,山に行くことがあっても,お供し,命を賭して,命を顧みず,お守りしますということを家持は詠んでいるのです(詠んだのは恐らく儀礼的な儀式のときでしょう)。
天皇のために,自らが海でも山でも出兵し,敵国をなぎ倒し,領土を拡大し,日本帝国確立のためには,命なんて惜しくありませんなどとはどこにも詠まれていません。
愛国百人一首に採録された万葉集の短歌も,国防や天皇のガード,国を讃えることを詠んだものがあっても,侵略的なものはありません。
万葉集を戦争に関係しそうな言葉(「いくさ」「敵」「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」「争」)で検索してみても,他国を侵略するとか,覇権を争うとか,敵国を殲滅するといった軍事力による領土拡大を勇ましく鼓舞するような和歌は出てきません。
精々,軍事的な意識の和歌があったしても,国や天皇を守るといった防衛の方向に向いてるのみです。
多くは,「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」といった兵器も,何かの例え話として和歌に出てきたり(例:次の長屋王の短歌),狩に使うことを想定して詠まれているようなもの(例:その次の宴で紹介された伝誦歌)が大半のようです。
焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
<やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり>
<<焼き鍛えた大刀のかどを打ち合わせるような勇士が祝うこの美酒に私はすっかり酔ってしまった>>
手束弓手に取り持ちて朝狩りに君は立たしぬ棚倉の野に(19-4257)
<たつかゆみてにとりもちて あさがりにきみはたたしぬ たなくらののに>
<<手束弓を手に持ち天皇は朝狩にお立ちになった棚倉の野に>>
万葉集の和歌の作者も,大伴家持を始め,戦争は望んでおらず,まして,外国を侵略し,日本が世界を牛耳るようなことを夢見ている人は私には見当たりません。
国の中が平和であってほしいと望み,国内の争い(「○○の変」「○○の乱」など)も悲しい出来事と思う人が万葉集の和歌を詠んだのだと,万葉集と接して私は心から感じるのです。
たとえば,万葉集の「防人の歌」に,「軍隊に参加して良かった。兵士はカッコいい。天皇のために念願の兵隊さんになった。」などとPRしているようなものは一つもありません(次は防人の歌の例)。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と割り切ることもできるが,家にいて子どもを抱えて痩せていくだろう妻のことを想うと切ない>>
「防人の歌」と同じ東国の人が詠んでいる「東歌」と比較してみると「東歌」の方がはるかに穏やかで幸せに満ちたものであり,平城京の人が東国に行ってみて,地元の人と話してみたいと思うくらい明るい和歌が多いと感じます(次は東歌の例)。
うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も(14-3505)
<うちひさつみやのせがはの かほばなのこひてかぬらむ きぞもこよひも>
<<宮能瀬川のかほ花のように(可愛い妻の顔を見て)昨夜も今夜も恋しいと思いながら寝るでしょう>>
中大兄皇子(後の天智天皇)が朝鮮半島の白村江の戦い(天智2<663>年8月)に大敗し,甚大な打撃を受けたことに対する反省(島国日本が当時の大国唐と戦うことのむなしさ)が意識のベースにあるのかも知れないと私は思います。663>
そして,天武天皇以降の朝廷は,さまざまな葛藤(内政的な混乱)を乗り越えて,白村江の戦いの敵だった,中国の唐や朝鮮半島の新羅に遣唐使,遣新羅使を送り,関係改善に努めたのです。
もちろん各国と関係が改善されるまでは,中国や調整半島の別の国から攻められると大変なことになるため,防衛部隊(例:防人)を配したと考えられます。
奈良時代にかけて,その関係改善への方針転換の努力が功を奏し,良い面,悪い面はあるにせよ,中国や朝鮮半島の優れた思想・文化・芸術・技術などが日本に取り入れられ,日本の風土や国民性の中で根付き,独自の進化を遂げることができたではないかと私は思います。
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(3-328)
<あをによしならのみやこは さくはなのにほふがごとく いまさかりなり>
<<奈良の都は満開の花が素晴らしいように今大変繁栄していますよ>>
さて,第二次世界大戦後,日本が復興を遂げることができたのも,外国との関係改善と日本人が持つ戦争で自らが失ったものを回復させようという若い人たちの強い心があったからではないでしょうか。
<戦争相手の日米は協力して敗戦国日本の復興を支援した>
1960年日米安保闘争があり,多くの若者がデモ活動などに参加し,そのデモは,デモ隊に加わった女子学生の一人が死亡したほど激しいものでした。
その一方で,若者の多くは欧米の楽曲(ジャズ,ロック,フォーク,ポップスなど)に酔いしれ,子供たちはウォルトディズニーが提供する漫画やドキュメンタリー(特に宇宙ものが人気)の日本語吹き替え版を熱心に見ていたのです(私もその一人ですが)。
戦争と関係ないもの,平和的なもの,品質が優れたものは,たとえ太平洋戦争で徹底的に日本人を殺した相手の国のものであっても日本の人々は受け入れたのです。
そこには国家同士の憎しみという意識は薄れ,良いものは取り入れ,参考にし,自分たちの復興のために利用できるものはしていくという人々のしたたかさがあったと私は分析します。
しかし,それができたのも,戦後の日本がさまざまな国から侵略される脅威が少なかったからできた訳で,日本国だけの力(何の努力もせず,平和という言葉に酔いしれただけ)でできた訳では無いでしょう。
外国の支援や外国の勢力バランスの影響なども含む様々な要素が影響しあって,(敗戦直後に比べて)結果として今の日本の驚異的な繁栄がもたらされたのだといえるのだと私は思います。
今,そのような総合的な見方をせず,日本の自衛権について,反対/賛成,正しい/正しくない,あり得る/絶対ない,違憲/合憲,戦争法案/平和維持法案,というような二元的な(○×のみの)議論がされていることに,私は大きな違和感を感じてしまいます。
さまざまな考え方のメリットやデメリットを総合的に議論をしない二元的な議論がインターネット上で広まり,冷静さを失った結論ありきの行動による社会的混乱が起こらないか正直私は戦後70年を迎える夏に危惧せざるを得ません。
2015 盛夏スペシャル(5:まとめ)に続く。
万葉集は,太平洋戦争中に発表された愛国百人一首で多くの短歌が採録されたり,大伴家持が詠んだとされる長歌の次の部分が,軍歌の歌詞として使われました。
~ 海行かば 水漬く屍(しかばね) 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと ~(18-4094)
このような事実から,万葉集は軍国主義的や国粋主義的な色彩の和歌が多いというイメージがあるのでは思っておられる人がいるとすれば,その人の見方は間違っていると私は申し上げたいのです。
<切り取り引用の典型>
なぜなら,軍歌の歌詞として引用されているこの長歌全体を見ると分るのですが,海へ行くのは誰か,山へ行くのは誰か,それは天皇なのです。
天皇が海に行くことがあっても,山に行くことがあっても,お供し,命を賭して,命を顧みず,お守りしますということを家持は詠んでいるのです(詠んだのは恐らく儀礼的な儀式のときでしょう)。
天皇のために,自らが海でも山でも出兵し,敵国をなぎ倒し,領土を拡大し,日本帝国確立のためには,命なんて惜しくありませんなどとはどこにも詠まれていません。
愛国百人一首に採録された万葉集の短歌も,国防や天皇のガード,国を讃えることを詠んだものがあっても,侵略的なものはありません。
万葉集を戦争に関係しそうな言葉(「いくさ」「敵」「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」「争」)で検索してみても,他国を侵略するとか,覇権を争うとか,敵国を殲滅するといった軍事力による領土拡大を勇ましく鼓舞するような和歌は出てきません。
精々,軍事的な意識の和歌があったしても,国や天皇を守るといった防衛の方向に向いてるのみです。
多くは,「鉾」「楯」「剣」「刀」「弓」「矢」といった兵器も,何かの例え話として和歌に出てきたり(例:次の長屋王の短歌),狩に使うことを想定して詠まれているようなもの(例:その次の宴で紹介された伝誦歌)が大半のようです。
焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
<やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり>
<<焼き鍛えた大刀のかどを打ち合わせるような勇士が祝うこの美酒に私はすっかり酔ってしまった>>
手束弓手に取り持ちて朝狩りに君は立たしぬ棚倉の野に(19-4257)
<たつかゆみてにとりもちて あさがりにきみはたたしぬ たなくらののに>
<<手束弓を手に持ち天皇は朝狩にお立ちになった棚倉の野に>>
万葉集の和歌の作者も,大伴家持を始め,戦争は望んでおらず,まして,外国を侵略し,日本が世界を牛耳るようなことを夢見ている人は私には見当たりません。
国の中が平和であってほしいと望み,国内の争い(「○○の変」「○○の乱」など)も悲しい出来事と思う人が万葉集の和歌を詠んだのだと,万葉集と接して私は心から感じるのです。
たとえば,万葉集の「防人の歌」に,「軍隊に参加して良かった。兵士はカッコいい。天皇のために念願の兵隊さんになった。」などとPRしているようなものは一つもありません(次は防人の歌の例)。
我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(20-4343)
<わろたびはたびとおめほど いひにしてこめちやすらむ わがみかなしも>
<<私の旅は旅と割り切ることもできるが,家にいて子どもを抱えて痩せていくだろう妻のことを想うと切ない>>
「防人の歌」と同じ東国の人が詠んでいる「東歌」と比較してみると「東歌」の方がはるかに穏やかで幸せに満ちたものであり,平城京の人が東国に行ってみて,地元の人と話してみたいと思うくらい明るい和歌が多いと感じます(次は東歌の例)。
うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も(14-3505)
<うちひさつみやのせがはの かほばなのこひてかぬらむ きぞもこよひも>
<<宮能瀬川のかほ花のように(可愛い妻の顔を見て)昨夜も今夜も恋しいと思いながら寝るでしょう>>
中大兄皇子(後の天智天皇)が朝鮮半島の白村江の戦い(天智2<663>年8月)に大敗し,甚大な打撃を受けたことに対する反省(島国日本が当時の大国唐と戦うことのむなしさ)が意識のベースにあるのかも知れないと私は思います。663>
そして,天武天皇以降の朝廷は,さまざまな葛藤(内政的な混乱)を乗り越えて,白村江の戦いの敵だった,中国の唐や朝鮮半島の新羅に遣唐使,遣新羅使を送り,関係改善に努めたのです。
もちろん各国と関係が改善されるまでは,中国や調整半島の別の国から攻められると大変なことになるため,防衛部隊(例:防人)を配したと考えられます。
奈良時代にかけて,その関係改善への方針転換の努力が功を奏し,良い面,悪い面はあるにせよ,中国や朝鮮半島の優れた思想・文化・芸術・技術などが日本に取り入れられ,日本の風土や国民性の中で根付き,独自の進化を遂げることができたではないかと私は思います。
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(3-328)
<あをによしならのみやこは さくはなのにほふがごとく いまさかりなり>
<<奈良の都は満開の花が素晴らしいように今大変繁栄していますよ>>
さて,第二次世界大戦後,日本が復興を遂げることができたのも,外国との関係改善と日本人が持つ戦争で自らが失ったものを回復させようという若い人たちの強い心があったからではないでしょうか。
<戦争相手の日米は協力して敗戦国日本の復興を支援した>
1960年日米安保闘争があり,多くの若者がデモ活動などに参加し,そのデモは,デモ隊に加わった女子学生の一人が死亡したほど激しいものでした。
その一方で,若者の多くは欧米の楽曲(ジャズ,ロック,フォーク,ポップスなど)に酔いしれ,子供たちはウォルトディズニーが提供する漫画やドキュメンタリー(特に宇宙ものが人気)の日本語吹き替え版を熱心に見ていたのです(私もその一人ですが)。
戦争と関係ないもの,平和的なもの,品質が優れたものは,たとえ太平洋戦争で徹底的に日本人を殺した相手の国のものであっても日本の人々は受け入れたのです。
そこには国家同士の憎しみという意識は薄れ,良いものは取り入れ,参考にし,自分たちの復興のために利用できるものはしていくという人々のしたたかさがあったと私は分析します。
しかし,それができたのも,戦後の日本がさまざまな国から侵略される脅威が少なかったからできた訳で,日本国だけの力(何の努力もせず,平和という言葉に酔いしれただけ)でできた訳では無いでしょう。
外国の支援や外国の勢力バランスの影響なども含む様々な要素が影響しあって,(敗戦直後に比べて)結果として今の日本の驚異的な繁栄がもたらされたのだといえるのだと私は思います。
今,そのような総合的な見方をせず,日本の自衛権について,反対/賛成,正しい/正しくない,あり得る/絶対ない,違憲/合憲,戦争法案/平和維持法案,というような二元的な(○×のみの)議論がされていることに,私は大きな違和感を感じてしまいます。
さまざまな考え方のメリットやデメリットを総合的に議論をしない二元的な議論がインターネット上で広まり,冷静さを失った結論ありきの行動による社会的混乱が起こらないか正直私は戦後70年を迎える夏に危惧せざるを得ません。
2015 盛夏スペシャル(5:まとめ)に続く。
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