<日本の桜は海外でも評判が高い>
東京都心では,桜の花が5分咲き位までになったところがあります。多くの人たちが春の到来を悦ぶように目を細めて,桜の花を見上げたり,写真に収めたりしています。
この季節になると海外から多くの外国人観光客の人々が日本の桜の美しさを見ようと来日します。
もちろん,その方々がお住まいのお国にも日本の桜に負けないくらい美しい花の咲く場所があり,その花を愛でに行かれることあろうかと思います。
でも,日本の桜の開花時期に訪れた方々は,また違った感動を感じられているようで,リピータ(何度も桜を見に来日される方)が多いと聞きます。そのリピータがネット上の口コミなどに投稿し,新たにこの季節に日本にお見えになる海外の人も増えているらしいのです。
<日本人が桜の花を好んでいたのは1300年前も同じ>
ところで,万葉集の和歌に出てくる桜の花,見事に咲いて,あっという間に散っていく,そのかたくなな姿やはかなさに感銘して詠んだ和歌も多く見られます。少なくとも,万葉集の和歌が詠まれた1300年程前から,日本人にとって桜の花はそれなりの存在感をもって受け入れられていたのだと思います。
そして,これまで桜の木をさまざまな場所に植えてきた日本人。その経験,桜の植栽技術,品種改良技術,美しく見せる技(わざ)の蓄積から,桜の花と似合う光景が日本人の心の中にイメージされてきたのでしょう。たとえば,仏閣(寺院の建物)の境内に植えて,比較的黒い色の本堂や伽藍と桜のコントラストで桜の美しさを強調したり,川の堤や街道沿いに桜をほぼ一定間隔に植えて,堤や街道を歩くと何層にも重なった桜の花に一層のボリューム感を与え,見事さを強調するようなことをしてきました(川の堤だと川の水に映し出された桜も楽しめます)。
<桜の花は少し懐かしい風景によく似合う>
また,桜の枝は横に広がる性質があります。学校の校庭の周りや校舎の横に植えると桜が満開になったとき,校舎や校庭の黒ずんだ汚れなどを隠したり,桜に目が行き,入学のときなどイメージの良い学校に思える効果があります。そして,何よりも樹齢100年以上にも及ぶ大きな1本桜(枝垂桜が多い?)が各地に残っており,それぞれが持つ,立地条件(背景の遠くの山,里山,海,湖,茶畑,菜の花畑,レンゲ畑,牧草地など)による独特の全容がまた,珍しさを見る人に与えてくれます。
このように,日本には一生に一度は見たいと思う立派な桜の1本木や列植が全国津々浦々本当に数えきれないほどあるのです。この桜の名所の選手層?の厚さ(メジャー,3A,2A..)は,恐らく日本以外に見られないと私は思います。結局,桜の木の植え方・品種,背景の建物・風景,見る日の天候,開花状況,散るとき桜吹雪などの多様さを,一度日本に来ただけではとても味わえるものではありません。リピータが多くなるのも頷けますね。
<日本人でさえ桜の名所をすべて回れない>
私のようにずっと日本に住んでする日本人でも,一度は見に行きたい思う桜の名所で,まだこの季節に行けていない場所が本当に多数あるのです。是非,桜を見に来られた海外の観光客の皆さんには,ツアー会社が紹介する有名な場所以外にも,お国では見られないような素晴らしい桜の隠れた名所(例えば,このブログでも紹介した東京都中部に流れる野川の桜⇒次の写真など)が本当に多数あることをご理解いただきたいと私は思います。
そして,そういった隠れた名所(大体が入場料無料です)を見つけ,ネットで紹介してもらえるような旅もしていただきたいですね。
<本題>
さて,万葉集で「申す」を詠んだ和歌には,ユーモア,ウィット,ジョーク性,風刺性などに富んだものが多数みられます。
「申す」の最終回として,そういったものを,まず私のコメントを最小限にしてご紹介します(すでにこのブログ紹介されたモノを含みます)。
最初は,柿本人麻呂歌集から転載したという旋頭歌です。若い男女が集まって,新築祝いをしている楽しい雰囲気が伝わってきそうです。
新室を踏み鎮む子が手玉鳴らすも玉のごと照らせる君を内にと申せ(11-2352)
<にひむろをふみしづむこが ただまならすも たまのごとてらせるきみを うちにとまをせ>
<<新しい家の土間を足で踏んで平らにする祝いの儀式で,乙女たちが手に持った玉を鳴らしているよ。そんな玉のようなイケメン男性に「どうぞ中にお入りくださいな」を申し上げよ>>
次は,池田朝臣(いけだのあそみ)が,餓鬼のような貧相な大神朝臣(おほかみのあそみ)をからかって詠んだ短歌です。
寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼賜りてその子産まはむ(16-3840)
<てらてらのめがきまをさく おほかみのをがきたばりて そのこうまはむ>
<<あちこちの寺にいてる女餓鬼たちが申すには大神の男餓鬼を夫にして子供を生みたいそうだ(それくらいあなたは餓鬼にそっくりだ)>>
次は大伴家持が石麻呂(いはまろ)とあだ名された人物があまりにも痩せていたので,夏痩せによく効くというウナギをたべるように薦める短歌です。
石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ (16-3853)
<いはまろにわれものまをす なつやせによしといふものぞ むなぎとりめせ>
<<石麻呂さんに私は申し上げます。夏痩せに効くと云われている鰻を捕ってお食べなさいと>>
最後は,自分が恋に浸ってしまい,仕事が手につかないことを自虐した詠み人知らずの短歌です。
このころの我が恋力記し集め功に申さば五位の冠(16-3858)
<このころのあがこひぢから しるしあつめくうにまをさば ごゐのかがふり>
<<最近の私の恋に対する努力と苦労を記録してその功績を申請すれば五位の称号に値するほどだよ>>
このように見ていくと「申す」は,当時においてはかなり大袈裟な行為(言い方)に使われていたように感じます。
皆さんはどう感じられたでしょうか。
動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(1)に続く。
2015年3月28日土曜日
2015年3月20日金曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2) 難波の港で多くの防人を見た家持はナンバ感じトカ?
前回は,位が上の人に「申す」を詠まれた短歌をいくつか紹介しました。今回は,母や父の親に「申す」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
最近,親を敬うという意識が薄れているのかもしれません。子が親にタメ口を使ったり,命令したり。逆に親が子を虐待し,とても尊敬の対象とならない場合もあります。親に「申す」を使うのは,必死にモノをおねだりするときとか,日ごろの不満が溜まり『親に物申す』のときくらいでしょうか。
しかし,万葉集を見る限りにおいては,親に対して子が「申す」を使っていたことは普通だったようです。
その表現がもっとも顕著に表れているのか「防人の歌」かもしれません。防人の歌を中心に「申す」の表現を見ていきます。
最初は下野国(しもつけのくに)出身の防人で,川上老(かはかみのおゆ)という人物が詠んだとされる短歌です。
旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ(20-4376)
<たびゆきにゆくとしらずて あもししにことまをさずて いまぞくやしけ>
<<長旅に出てしまうとは知らず母父に別れの言葉も申さなかったので,今になって悔やまれることだ>>
「ちょっとした防衛の仕事。九州は難波の港から船が出ていて,楽に着ける。敵が攻めてこなければ,何もしないで金が入るよ」などと甘い言葉に乗って防人となったが,とんでもない長旅で,母父にもっと別れの言葉をきちっと言っておく(申しておく)べきだったと後悔をしている短歌です。
次は,防人自身の歌ではないですが,当時難波の港で東国から招集され,九州に旅立つ防人たちを兵部少輔(ひやうぶのせいう)として監督していた大伴家持が防人に同情して,防人の思いを詠んだ短歌です。
家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(20-4409)
<いへびとのいはへにかあらむ たひらけくふなではしぬと おやにまをさね>
<<家族のみんなが身を浄め斎ってくれたので平安な船出だったと僕の母父に申し上げてください>>
この短歌はひとつ前に家持が詠んだ長歌の反歌です。
その長歌にも「申す」が出てきますが,対象は「神への祈り」です。ただ,「祈り」の内容は,父母の健康と帰りを待つ妻への愛情です。その長歌で「申す」が出てくる後半部分のみですが紹介します。
~ 海原の畏き道を 島伝ひい漕ぎ渡りて あり廻り我が来るまでに 平けく親はいまさね つつみなく妻は待たせと 住吉の我が統め神に 幣奉り祈り申して 難波津に船を浮け据ゑ 八十楫貫き水手ととのへて 朝開き我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(20-4408)
<~ うなはらのかしこきみちを しまづたひいこぎわたりて ありめぐりわがくるまでに たひらけくおやはいまさね つつみなくつまはまたせと すみのえのあがすめかみに ぬさまつりいのりまをして なにはつにふねをうけすゑ やそかぬきかこととのへて あさびらきわはこぎでぬと いへにつげこそ>
<<~ 海原の決められた海路を島伝いに漕ぎ進んで私が生きて帰ってくるまで,平穏無事に親には生きていてほしい,何事無く妻は待っていてほしいと住吉の私たちを守ってくれるという神に幣を供えて祈り申して,難波の港に船をつけ,多くの楫を貫き通してそれを漕ぐ水夫を用意して,朝になったら出港したと実家に伝えてほしい>>
家持は,防人たちの不安や家族への心配な気持ちを少しでも和らげられるよう,役人としてできるかぎりのことをしている姿を伝えたい,そんな気持ちでこの長歌を詠んだのかもしません。
防人として九州に船で送られる側もつらいだろうが,それを見て,また防人たちの故郷や残してきた家族への思いを聞く側もつらい。彼らの気持ちをストレートに和歌に詠ませ,記録に残すことと,和歌を詠ませることで彼らの気持ちを和らげることに腐心した家持がそこにいたのではないかと私は思います。
<家持は防人に対して,単なる数字上の管理をしていただけではなかった>
家持以外の難波津の役人は,恐らく機械的に防人の人数を数え,予定した人数を九州に向け乗船させ,出港させればそれで仕事が終わったと考えていたと想像します。
現地に派遣する防人の数が予定や目標に達していれば,当時の役人は仕事を無事なしとげた,数をそろえるために必要な仕事以外,余計なことはしなかったと私は思います。
その中の役人の家持が防人たちの和歌を残したり,防人の気持ちを代弁する和歌を残した努力に対し,私は心から敬意を表したいのです。
万葉集の原型をほぼまとめたと考えるられる家持の努力だけでなく,その根底にある人に対する貴賤を排した彼の平等感をもっと評価しても良いのではと改めて,家持の防人歌から私は感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(3:まとめ)に続く。
最近,親を敬うという意識が薄れているのかもしれません。子が親にタメ口を使ったり,命令したり。逆に親が子を虐待し,とても尊敬の対象とならない場合もあります。親に「申す」を使うのは,必死にモノをおねだりするときとか,日ごろの不満が溜まり『親に物申す』のときくらいでしょうか。
しかし,万葉集を見る限りにおいては,親に対して子が「申す」を使っていたことは普通だったようです。
その表現がもっとも顕著に表れているのか「防人の歌」かもしれません。防人の歌を中心に「申す」の表現を見ていきます。
最初は下野国(しもつけのくに)出身の防人で,川上老(かはかみのおゆ)という人物が詠んだとされる短歌です。
旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ(20-4376)
<たびゆきにゆくとしらずて あもししにことまをさずて いまぞくやしけ>
<<長旅に出てしまうとは知らず母父に別れの言葉も申さなかったので,今になって悔やまれることだ>>
「ちょっとした防衛の仕事。九州は難波の港から船が出ていて,楽に着ける。敵が攻めてこなければ,何もしないで金が入るよ」などと甘い言葉に乗って防人となったが,とんでもない長旅で,母父にもっと別れの言葉をきちっと言っておく(申しておく)べきだったと後悔をしている短歌です。
次は,防人自身の歌ではないですが,当時難波の港で東国から招集され,九州に旅立つ防人たちを兵部少輔(ひやうぶのせいう)として監督していた大伴家持が防人に同情して,防人の思いを詠んだ短歌です。
家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(20-4409)
<いへびとのいはへにかあらむ たひらけくふなではしぬと おやにまをさね>
<<家族のみんなが身を浄め斎ってくれたので平安な船出だったと僕の母父に申し上げてください>>
この短歌はひとつ前に家持が詠んだ長歌の反歌です。
その長歌にも「申す」が出てきますが,対象は「神への祈り」です。ただ,「祈り」の内容は,父母の健康と帰りを待つ妻への愛情です。その長歌で「申す」が出てくる後半部分のみですが紹介します。
~ 海原の畏き道を 島伝ひい漕ぎ渡りて あり廻り我が来るまでに 平けく親はいまさね つつみなく妻は待たせと 住吉の我が統め神に 幣奉り祈り申して 難波津に船を浮け据ゑ 八十楫貫き水手ととのへて 朝開き我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(20-4408)
<~ うなはらのかしこきみちを しまづたひいこぎわたりて ありめぐりわがくるまでに たひらけくおやはいまさね つつみなくつまはまたせと すみのえのあがすめかみに ぬさまつりいのりまをして なにはつにふねをうけすゑ やそかぬきかこととのへて あさびらきわはこぎでぬと いへにつげこそ>
<<~ 海原の決められた海路を島伝いに漕ぎ進んで私が生きて帰ってくるまで,平穏無事に親には生きていてほしい,何事無く妻は待っていてほしいと住吉の私たちを守ってくれるという神に幣を供えて祈り申して,難波の港に船をつけ,多くの楫を貫き通してそれを漕ぐ水夫を用意して,朝になったら出港したと実家に伝えてほしい>>
家持は,防人たちの不安や家族への心配な気持ちを少しでも和らげられるよう,役人としてできるかぎりのことをしている姿を伝えたい,そんな気持ちでこの長歌を詠んだのかもしません。
防人として九州に船で送られる側もつらいだろうが,それを見て,また防人たちの故郷や残してきた家族への思いを聞く側もつらい。彼らの気持ちをストレートに和歌に詠ませ,記録に残すことと,和歌を詠ませることで彼らの気持ちを和らげることに腐心した家持がそこにいたのではないかと私は思います。
<家持は防人に対して,単なる数字上の管理をしていただけではなかった>
家持以外の難波津の役人は,恐らく機械的に防人の人数を数え,予定した人数を九州に向け乗船させ,出港させればそれで仕事が終わったと考えていたと想像します。
現地に派遣する防人の数が予定や目標に達していれば,当時の役人は仕事を無事なしとげた,数をそろえるために必要な仕事以外,余計なことはしなかったと私は思います。
その中の役人の家持が防人たちの和歌を残したり,防人の気持ちを代弁する和歌を残した努力に対し,私は心から敬意を表したいのです。
万葉集の原型をほぼまとめたと考えるられる家持の努力だけでなく,その根底にある人に対する貴賤を排した彼の平等感をもっと評価しても良いのではと改めて,家持の防人歌から私は感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(3:まとめ)に続く。
2015年3月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1) 「もろえ」さんはモロ・ええなあ~
今回から,また動きの詞(ことば)シリーズに戻ります。今回は,今でも使う「申す」を見ていきましょう。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>
最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。
いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>
なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。
堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>
この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。
いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>
約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。
万葉集の万葉仮名から,万葉時代「申す」は「まをす」と発音していたようです。ただ,一部には「まうす」とも発音していたことも考えられます。
万葉時代での「申す」の意味は今と同じ「言う」「告げる」の謙譲語であること以外に「政事を執奏(しっそう)する」といった意味もあったようです。
具体的な万葉集の和歌を見ていきましょう。次の短歌は志斐嫗(しひのをうな)と呼ばれた老女が,持統天皇の問いかけた短歌に答えたものです。
いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る(3-237)
<いなといへどかたれかたれと のらせこそしひいはまをせ しひかたりとのる>
<<遠慮しますと言っておりますのに,陛下が語れ語れと指示され,私に申すように強制しておきながら,それを「私が勝手に話したいと思って話したお話」とおっしゃるなんて,それはあんまりです>>
最初の「言う」は謙譲語ではないので,天皇に直接言ったのではなく,使者に「お断りしたい」言ったのでしょう。それでも,持統天皇は志斐嫗の話がききたくて,家臣に語らせよ,語らせよと指示をした。そうして,結局「申す」とあるように,直接天皇に語りをすることになったのです。
そうすると,この短歌の前に持統天皇がどんな短歌を志斐嫗に贈ったか気になりますね。
いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり(3-236)
<いなといへどしふるしひのが しひかたりこのころきかずて あれこひにけり>
<<特別聞きたくもないと言うのに志斐の婆さんがどうしても話したいといって以前話してくれた語り。それが最近は聞かれなくて物足りないのよね>>
なるほど,天皇は志斐嫗の面白い話を聞きたいが,立場上直接命令するのは律令に反する。だから,志斐嫗が乗り込んできてどうしても話したいということにしたかったのでしょうか。しかし,志斐嫗も負けてはいません。「陛下の方こそ私の話をすごくお聞きになりたいのでしょ?」とやり返します。
<オモロイ話はいつでも聞きたいもの>
万葉時代,テレビもラジオもインターネットもない時代です。文字すらも特別な役人だけのモノでした。そんなとき,人気の語り部(今で言えば,落語家,漫談家,講談師,ピン芸人などに当る)の話を聞くのが,多くの人たちの娯楽の一つとなっていたと私は思います。
志斐嫗は,皇室専属ではなく,当時有名な語り部だったのかもしれません。なので,なかなかスケジュールの調整が付かず,持統天皇もしばらく聞けなかったのでしょう。
さて,次は年が大きく下りますが,聖武天皇が難波宮に行幸したとき,元正上皇を囲んだ宴席で,そのとき権力の中枢にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)を出席者が讃嘆する和歌が残っています。
その中の1首(誰が詠んだか未詳)に「申す」が出てきます。
堀江より水脈引きしつつ御船さすしつ男の伴は川の瀬申せ(18-4061)
<ほりえよりみをびきしつつ みふねさすしつをのともは かはのせまうせ>
<<堀江を川岸から綱で御船を曳き操る下男たちは,いつまでも御船に伴って川の浅瀬にご注意あれと申すようにいたします>>
この短歌に出てくる「しつ男」は,橘諸兄に対して謙遜した参加者たちを指しているように思えます。「我々は諸兄様の下人で,みんなで船にお乗りになっている諸兄様をお守りいたします」といった意味でしょうか。
この後の短歌では,みんなで一緒に船に乗って,竿をさして浅瀬に注意して無事な航行を達成していくといった短歌が続きます。いずれにしても,橘諸兄に対する忠誠心を表した短歌であることは間違いないでしょう。
今回の最後は,前首よりさらに年は下ります。大伴家持が越中守を解かれ,帰京する途中(天平勝宝3(751)年8月),帰京後の後継人として期待している橘諸兄宛てに贈るために詠んだとされる短歌です。
いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね(19-4256)
<いにしへにきみがみよへて つかへけりあがおほぬしは ななよまをさね>
<<昔天皇の三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたもの(政権をとった藤原不比等)がいたのですが,わが主君(橘諸兄様)はどうか七代もお仕え(政権をおとり)下さいますよう申し上げたいのです>>
約4年も越中で過ごし,京に帰任する家持にとって,自分を守ってくれる権力者が欲しかったのでしょう。最後の「申さね」という言葉が,橘諸兄にすがりたい家持の気持ちを強く表れしていると私は感じます。
家持は,この短歌を実際に諸兄に贈ったかどうかは分かりません。でも,その当時の家持の不安な気持ちを表すものとして,家持は記録し,万葉集に残したのだろうと私は思います。
しかし,諸兄の威光はこのころから下り坂で,藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)が勢力を伸ばしていきます。
越中での比較的穏やかな生活は終わりを告げ,京での家持の試練が待っているのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2)に続く。
2015年3月7日土曜日
当ブログ7年目突入スペシャル(3:まとめ)‥万葉集は文学作品か,単なる情報の寄せ集めか?
7年目突入スペシャルの最後は,前回出した1)~4)の内,残った2)について,見ていくことにします。3)と4)は別の機会に取っておきます。
<律令制度の夜明け>
2)の律令制ですが,日本の律令制の確立は,私が高校の日本史で習った頃の話ですが,大化2(646)年の「大化の改新」によるものだと教科書に書かれていたようです。ちなみに,高校生の時,日本史にまったく興味の無かった私は寝る時間か内職(他の授業の宿題をやる)の時間でしたので,日本史の先生がどんなふうに教えていたか記憶にはありません。
近年は「大化の改新」は日本書紀を編纂者が大袈裟に書いただけで,実際は大宝元(701)年に発布された大宝律令で日本の律令制は本格的に行政されたという説が有力のようです。
万葉集に採録された和歌は,まさに大宝律令前の律令制黎明期からその後の律令制本格期に詠まれたと考えられる和歌が多くあります。
律令制の用語を使った万葉集の和歌はそう多くはありませんが,次のような制度を茶化したものがあります。
このころの我が恋力記し集め功に申さば五位の冠(16-3858)
<このころの あがこひぢから しるしあつめ くうにまをさば ごゐのかがふり>
<<近の私の恋に対する努力と苦労を記録してその功績を申請すれば五位の称号に値するほどだよ>>
この短歌は,以前にも紹介したものです。ここでの五位(ごゐ)は律令制の位階制度のかなり上の階級で,五位以上は貴族に属し,昇殿も許されたといいます。
壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ(16-3847)
<だにをちやしかもないひそ さとをさがえだちはたらば いましもなかむ>
<<檀家さん,そんなことを言わないくださいな。あなたの里の長が労役を出せと言ってきたら,あなたも泣きますよ>>
これも,何度が本ブログで紹介した短歌です。里長(さとをさ),課役(えだち)も律令制で使われるようになった用語だと考えられます。
住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみためと私田刈る(7-1275)
<すみのえのをだをからすこ やつこかもなき やつこあれどいもがみためと わたくしだかる>
<<住吉の小さな田んぼで稲を一人忙しそうに刈っている若者よ。下人はいないのかい? 私がその下人でさあ。妻のために自分の田の稲をせっせと刈っているんですよ>>
律令制では,原則すべての田は公田(くでん)で,私田は許されなかったようですが,区画として登録できないような小さな田や自分で開墾した田は,耕作意欲を高めるため,例外として私田が許されるようになったらしいのです。公田を貸与されたのは,貴族や国郷里の長などの金持で,多くの下人を使って耕作を行うのが一般的だったのかもしれません。
この旋頭歌では,妻との生活をより豊かにするために,私田をやっとゲットでき,農作業をするには少し上等な服を着て作業している若者の誇らしげな気持ちが伝わってきます。一人で起こしたベンチャー企業の社長さんが,背広姿でオフィスの入口前の通路を掃除しているような感じに見えたのかもしれませんね。
<有名歌人が詠んだ和歌が万葉集の代表例か?>
さて,ここまで3回にわたって万葉集が1300年後の私たちに残してくれた情報の多様さや多さの一端を見てきました。この3回でいわゆる有名歌人と呼ばれる人が詠んだ和歌はあまり出てこなかったのを皆さんはどう思われますか?
万葉集の編集者が優れた文学作品の集大成として万葉集を編纂したのか,当時の日本の多様な社会,経済,文化,生活,習慣,技術を知らしめようとしただけなのかで,万葉集の評価も大きく変わると私は見ています。
<「最も好きな歌人は?」と聞かれるのが最もツライ>
私は,常々,私が万葉集に興味があることを知った人から万葉集の「どの和歌が好きか?」とか「好きな歌人は誰?」とか「この和歌の解釈は分かれているがどちらが正しいか?」と聞かれるのが,一番つらいのです。
私は,万葉集全体が好きで,名も知らない歌人も含むすべての歌人が好きなのです。解釈が分かれた和歌があるのは,その和歌に書かれている情報が現代の我々が持つ情報からでは一定の理解ができないということに過ぎないのです。万葉集を(多少不正確なものも含む)情報の集まりとしてみるなら,万葉学者の先生方には申し訳ありませんが,あまり細かいことにこだわってもしょうがないと私は考えています。
結局,万葉集の編者が文学作品としてではなく,当時日本の姿をできるだけ多角的に残そうとして編纂したのではないか,それが私の万葉集に対する現状の見方なのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1)に続く。
<律令制度の夜明け>
2)の律令制ですが,日本の律令制の確立は,私が高校の日本史で習った頃の話ですが,大化2(646)年の「大化の改新」によるものだと教科書に書かれていたようです。ちなみに,高校生の時,日本史にまったく興味の無かった私は寝る時間か内職(他の授業の宿題をやる)の時間でしたので,日本史の先生がどんなふうに教えていたか記憶にはありません。
近年は「大化の改新」は日本書紀を編纂者が大袈裟に書いただけで,実際は大宝元(701)年に発布された大宝律令で日本の律令制は本格的に行政されたという説が有力のようです。
万葉集に採録された和歌は,まさに大宝律令前の律令制黎明期からその後の律令制本格期に詠まれたと考えられる和歌が多くあります。
律令制の用語を使った万葉集の和歌はそう多くはありませんが,次のような制度を茶化したものがあります。
このころの我が恋力記し集め功に申さば五位の冠(16-3858)
<このころの あがこひぢから しるしあつめ くうにまをさば ごゐのかがふり>
<<近の私の恋に対する努力と苦労を記録してその功績を申請すれば五位の称号に値するほどだよ>>
この短歌は,以前にも紹介したものです。ここでの五位(ごゐ)は律令制の位階制度のかなり上の階級で,五位以上は貴族に属し,昇殿も許されたといいます。
壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ(16-3847)
<だにをちやしかもないひそ さとをさがえだちはたらば いましもなかむ>
<<檀家さん,そんなことを言わないくださいな。あなたの里の長が労役を出せと言ってきたら,あなたも泣きますよ>>
これも,何度が本ブログで紹介した短歌です。里長(さとをさ),課役(えだち)も律令制で使われるようになった用語だと考えられます。
住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみためと私田刈る(7-1275)
<すみのえのをだをからすこ やつこかもなき やつこあれどいもがみためと わたくしだかる>
<<住吉の小さな田んぼで稲を一人忙しそうに刈っている若者よ。下人はいないのかい? 私がその下人でさあ。妻のために自分の田の稲をせっせと刈っているんですよ>>
律令制では,原則すべての田は公田(くでん)で,私田は許されなかったようですが,区画として登録できないような小さな田や自分で開墾した田は,耕作意欲を高めるため,例外として私田が許されるようになったらしいのです。公田を貸与されたのは,貴族や国郷里の長などの金持で,多くの下人を使って耕作を行うのが一般的だったのかもしれません。
この旋頭歌では,妻との生活をより豊かにするために,私田をやっとゲットでき,農作業をするには少し上等な服を着て作業している若者の誇らしげな気持ちが伝わってきます。一人で起こしたベンチャー企業の社長さんが,背広姿でオフィスの入口前の通路を掃除しているような感じに見えたのかもしれませんね。
<有名歌人が詠んだ和歌が万葉集の代表例か?>
さて,ここまで3回にわたって万葉集が1300年後の私たちに残してくれた情報の多様さや多さの一端を見てきました。この3回でいわゆる有名歌人と呼ばれる人が詠んだ和歌はあまり出てこなかったのを皆さんはどう思われますか?
万葉集の編集者が優れた文学作品の集大成として万葉集を編纂したのか,当時の日本の多様な社会,経済,文化,生活,習慣,技術を知らしめようとしただけなのかで,万葉集の評価も大きく変わると私は見ています。
<「最も好きな歌人は?」と聞かれるのが最もツライ>
私は,常々,私が万葉集に興味があることを知った人から万葉集の「どの和歌が好きか?」とか「好きな歌人は誰?」とか「この和歌の解釈は分かれているがどちらが正しいか?」と聞かれるのが,一番つらいのです。
私は,万葉集全体が好きで,名も知らない歌人も含むすべての歌人が好きなのです。解釈が分かれた和歌があるのは,その和歌に書かれている情報が現代の我々が持つ情報からでは一定の理解ができないということに過ぎないのです。万葉集を(多少不正確なものも含む)情報の集まりとしてみるなら,万葉学者の先生方には申し訳ありませんが,あまり細かいことにこだわってもしょうがないと私は考えています。
結局,万葉集の編者が文学作品としてではなく,当時日本の姿をできるだけ多角的に残そうとして編纂したのではないか,それが私の万葉集に対する現状の見方なのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(1)に続く。
2015年3月1日日曜日
当ブログ7年目突入スペシャル(2)‥塩辛になった可哀そうな蟹?
前回は,万葉集の情報量の多さを地名の多さにより見ました。今回は,「当時としては新しい名詞が多くある」について見ていきます。
<新しい言葉とは>
「当時としては新しい言葉」とは何を指すかというと,古墳時代より前にあった言葉ではなく,その後に新しくできた言葉を意味します。動詞や形容詞はなかなか新しい言葉は生まれにくいですが,名詞は今までになかったモノが現れると新しい名前が付くはずです。
現代でも,スマホ(スマートフォンの略)という言葉は恐らく10年前には一部専門家を除き,ほとんど誰も知らなかった言葉でしょう。それは,今までになかった携帯電話の形態で,従来の携帯電話と同じ分類に置くのは合理的でないと,新しい分類に位置付けられたと考えられます。新しいものですから,従来の携帯電話と異なる分類名称が現れるのは自然な成り行きです。
なお,そのついでに従来型携帯電話のことを「ガラ携」(ガラパゴス携帯電話の略)との新しい?言葉も生まれました。大きな進化が止まった携帯電話という意味でしょうか?
<万葉時代は当然新しい言葉が埋まりるスピードは今より遅かった>
万葉集にも当時としては新しい言葉(新語)に位置付けられるものは,もちろん今の「新語大賞」のように年単位に新語が生まれ,数年前いや去年の新語はもう古いと思われるようなスピード感の新語ではありません。
万葉時代は今のような瞬時に世界中の情報が世界中の人々に共有可能なマスメディアが存在していたわけではありません。新語がさまざなところで使われて,書物に記録が残り,定着するためには,今に比べて何百倍,何千倍もの時間が掛かったのではないかと思います。
今が数か月で新語が定着するとすれば,当時の定着には何十年,何百年という期間が掛かってしまうのも当然で,新語の年あたりの発生数(海外から来た言葉も含む)も現代の何千分の一だったのかもしれません。
<万葉時代で新語が埋まれる速さ>
そのため,現代のスピード感でいうとイメージが合わないかもしれませんが,次の1)~4)の言葉は万葉時代の新語として分類して見ます。
1) 工芸・技術(主に6世紀以降大陸から導入されたと考えられるもの)の用語
2) 律令制度(律令制度は7世紀後半から日本に定着し始めたと云われている)の用語
3) 宗教(仏教,儒教,道教などの大陸伝来宗教)の用語
4) 節句行事(もともと大陸にあった行事)の用語
まず,万葉集で最も多く出てくるのが,1)でしょう。今回は1)について見ていきます。
1)の場合,全く新しい言葉ではなく,既にある言葉に付加価値を付ける言葉を合成したものが多いのは,現代と同じような気がします。
現代でいえば,スカイツリー,3Dプリンタ,ウェアラブル端末,ホットスポット,草食系男子,育メン,肉食系女子,マイナンバーなど合成語ばかりです。
万葉集では,韓臼,韓帯,韓衣,双六,倭文機(しつはた),新羅斧,白塗,陶(すゑ)人,杣(そま)人,経緯(たてぬき),織女,手臼,手(た)作り,手斧,外床,鳥網,長屋,鳴矢,貫簀(ぬきす),塗屋形,幡桙(はたほこ),科(はやし),醤酢(ひしほす),純裏(ひたうら),直さ麻(ひたさを),檜橋,船人,真鹿小矢,澪標(みをつくし),蒸衾(むしぶすま),焼太刀,夜船,麻績(をす)といったものです。
臼,帯,衣は以前から言葉としてあったけれども,韓臼,韓帯,韓衣は当時としては輸入物やそれに近い斬新なイメージのものだったのではと私は思います。さらに,陶人(陶芸家),杣人(林業家),織女(機織職人),船人(船員)は,それぞれの職業を専門にするプロフェッショナルが生まれたことを意味するのだと私は解釈します。
実際の万葉集で見ていきましょう。次は,女性歌と思われる短歌です。
韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を(11-2682)
<からころもきみにうちきせ みまくほりこひぞくらしし あめのふるひを>
<<私の韓衣をあなた様にしっかりお着せして見たいと望んでおります。夜にお逢いできることを心待ちしている今日雨降る日中を>>
この短歌の作者,夜は本当に雨が止んでほしいと願っているように思います。相手の男性が夜も雨だと妻問に来てくれない可能性があるからです。
「うち着せ」が万葉仮名からの訓読として正しければ,「韓衣君にうち着せ」は高級な衣(今で言うと打掛のようなもの)を掛布団にして共寝することをイメージしているようにも思えます。
うがった見方をすれば「親には(高級な舶来ブランドの)韓衣を買えるだけの財力があるのよ。だから今晩雨でも来てね」ということを暗に示めそうという意図も感じられませんか。
次は,陶人,韓臼,手臼が出てくる長歌(というより歌謡)の一部です。
おしてるや難波の小江に 廬作り隠りて居る 葦蟹を大君召すと 何せむに我を召すらめや ~ 今日今日と飛鳥に至り 置くとも置勿に至り つかねども都久野に至り 東の中の御門ゆ 参入り来て命受くれば ~ もむ楡を五百枝剥き垂り 天照るや日の異に干し さひづるや韓臼に搗き 庭に立つ手臼に搗き おしてるや難波の小江の初垂りを からく垂り来て 陶人の作れる瓶を 今日行きて明日取り持ち来 我が目らに塩塗りたまひ きたひはやすも きたひはやすも(16-3886)
<おしてるやなにはのをえに いほつくりなまりてをる あしがにをおほきみめすと なにせむにわをめすらめや ~ けふけふとあすかにいたり おくともおくなにいたり つかねどもつくのにいたり ひむがしのなかのみかどゆ まゐりきてみことうくれば ~ もむにれをいほえはきたり あまてるやひのけにほし さひづるやからうすにつき にはにたつてうすにつき おしてるやなにはのをえの はつたりをからくたりきて すゑひとのつくれるかめを けふゆきてあすとりもちき わがめらにしほぬりたまひ きたひはやすも きたひはやすも>
<<難波の小さな入り江に巣を作って暮らしている葦蟹の私を大君は来て欲しいと仰る。どうして私のようなものに来いと仰るのか。 ~ 急いで明日香,置勿,都久野を経由して,宮中の東門から参上して用件をお聞きしょうすると ~ 私を五百枝も剥いで吊るし,日ごとに干して,韓臼で搗き,庭に据えた手臼で搗いて粉にし,難波小さな入り江で取れた新鮮な海水の塩分を高くして混ぜ,陶工が作る瓶を今日注文し,明日運ばれて瓶に入れ,私の目にその塩を塗って,賞味なさることよ。賞味なさることよ。>>
本長歌の左注にある「哀れな葦蟹さん」と解釈するのか,当時の美味しく食べるための加工技術(2種類の新型臼で搗く)や,高級感を出すための演出(専門職人の陶人が作る瓶に入れる)がどこまで進んでいたかを示す資料と見るかで,この和歌の感じ方は大きく変わると思います。
また,蟹を生きたまま,難波から平城京まで運ぶ技術ができていたことも想像できます。さらに,瓶を今日注文して翌日届くということは,注文生産ではなく,見込生産がされ,在庫を持っていたからできたことだ私は思います。
「哀れな蟹さんのお話」と興味を引かせておいて,「天皇も食べているというこの蟹の加工品を食べたい」と一般の人に思わせる。そんなカニを加工した新食品のPRの歌だったのかもしれません。
この1首前の長歌も構成がよく似ており,対象は鹿です。狩で殺した鹿は大君によってどうされるのか,具体的には狩りで殺された鹿1頭の角,耳,目,爪,毛,皮,肉,内臓がどう加工されるのかを詠んでいます。
これも「八つ裂きにされる可哀そうな鹿さん」と見るか,鹿1頭を捨てるところなく利用し,狩で無駄に殺生をしているのではないことを示している政権側のPRと見るかで感じ方が大きく変わります。
鹿のさまざまな部位の新しい加工品が,京人が手にできる値段の高級品として市場に出回っていたことも想像できます。そして,御多分に洩れず,偽物も多く出回っていたかもですね。
当ブログ7年目突入スペシャル(3:まとめ)に続く。
<新しい言葉とは>
「当時としては新しい言葉」とは何を指すかというと,古墳時代より前にあった言葉ではなく,その後に新しくできた言葉を意味します。動詞や形容詞はなかなか新しい言葉は生まれにくいですが,名詞は今までになかったモノが現れると新しい名前が付くはずです。
現代でも,スマホ(スマートフォンの略)という言葉は恐らく10年前には一部専門家を除き,ほとんど誰も知らなかった言葉でしょう。それは,今までになかった携帯電話の形態で,従来の携帯電話と同じ分類に置くのは合理的でないと,新しい分類に位置付けられたと考えられます。新しいものですから,従来の携帯電話と異なる分類名称が現れるのは自然な成り行きです。
なお,そのついでに従来型携帯電話のことを「ガラ携」(ガラパゴス携帯電話の略)との新しい?言葉も生まれました。大きな進化が止まった携帯電話という意味でしょうか?
<万葉時代は当然新しい言葉が埋まりるスピードは今より遅かった>
万葉集にも当時としては新しい言葉(新語)に位置付けられるものは,もちろん今の「新語大賞」のように年単位に新語が生まれ,数年前いや去年の新語はもう古いと思われるようなスピード感の新語ではありません。
万葉時代は今のような瞬時に世界中の情報が世界中の人々に共有可能なマスメディアが存在していたわけではありません。新語がさまざなところで使われて,書物に記録が残り,定着するためには,今に比べて何百倍,何千倍もの時間が掛かったのではないかと思います。
今が数か月で新語が定着するとすれば,当時の定着には何十年,何百年という期間が掛かってしまうのも当然で,新語の年あたりの発生数(海外から来た言葉も含む)も現代の何千分の一だったのかもしれません。
<万葉時代で新語が埋まれる速さ>
そのため,現代のスピード感でいうとイメージが合わないかもしれませんが,次の1)~4)の言葉は万葉時代の新語として分類して見ます。
1) 工芸・技術(主に6世紀以降大陸から導入されたと考えられるもの)の用語
2) 律令制度(律令制度は7世紀後半から日本に定着し始めたと云われている)の用語
3) 宗教(仏教,儒教,道教などの大陸伝来宗教)の用語
4) 節句行事(もともと大陸にあった行事)の用語
まず,万葉集で最も多く出てくるのが,1)でしょう。今回は1)について見ていきます。
1)の場合,全く新しい言葉ではなく,既にある言葉に付加価値を付ける言葉を合成したものが多いのは,現代と同じような気がします。
現代でいえば,スカイツリー,3Dプリンタ,ウェアラブル端末,ホットスポット,草食系男子,育メン,肉食系女子,マイナンバーなど合成語ばかりです。
万葉集では,韓臼,韓帯,韓衣,双六,倭文機(しつはた),新羅斧,白塗,陶(すゑ)人,杣(そま)人,経緯(たてぬき),織女,手臼,手(た)作り,手斧,外床,鳥網,長屋,鳴矢,貫簀(ぬきす),塗屋形,幡桙(はたほこ),科(はやし),醤酢(ひしほす),純裏(ひたうら),直さ麻(ひたさを),檜橋,船人,真鹿小矢,澪標(みをつくし),蒸衾(むしぶすま),焼太刀,夜船,麻績(をす)といったものです。
臼,帯,衣は以前から言葉としてあったけれども,韓臼,韓帯,韓衣は当時としては輸入物やそれに近い斬新なイメージのものだったのではと私は思います。さらに,陶人(陶芸家),杣人(林業家),織女(機織職人),船人(船員)は,それぞれの職業を専門にするプロフェッショナルが生まれたことを意味するのだと私は解釈します。
実際の万葉集で見ていきましょう。次は,女性歌と思われる短歌です。
韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を(11-2682)
<からころもきみにうちきせ みまくほりこひぞくらしし あめのふるひを>
<<私の韓衣をあなた様にしっかりお着せして見たいと望んでおります。夜にお逢いできることを心待ちしている今日雨降る日中を>>
この短歌の作者,夜は本当に雨が止んでほしいと願っているように思います。相手の男性が夜も雨だと妻問に来てくれない可能性があるからです。
「うち着せ」が万葉仮名からの訓読として正しければ,「韓衣君にうち着せ」は高級な衣(今で言うと打掛のようなもの)を掛布団にして共寝することをイメージしているようにも思えます。
うがった見方をすれば「親には(高級な舶来ブランドの)韓衣を買えるだけの財力があるのよ。だから今晩雨でも来てね」ということを暗に示めそうという意図も感じられませんか。
次は,陶人,韓臼,手臼が出てくる長歌(というより歌謡)の一部です。
おしてるや難波の小江に 廬作り隠りて居る 葦蟹を大君召すと 何せむに我を召すらめや ~ 今日今日と飛鳥に至り 置くとも置勿に至り つかねども都久野に至り 東の中の御門ゆ 参入り来て命受くれば ~ もむ楡を五百枝剥き垂り 天照るや日の異に干し さひづるや韓臼に搗き 庭に立つ手臼に搗き おしてるや難波の小江の初垂りを からく垂り来て 陶人の作れる瓶を 今日行きて明日取り持ち来 我が目らに塩塗りたまひ きたひはやすも きたひはやすも(16-3886)
<おしてるやなにはのをえに いほつくりなまりてをる あしがにをおほきみめすと なにせむにわをめすらめや ~ けふけふとあすかにいたり おくともおくなにいたり つかねどもつくのにいたり ひむがしのなかのみかどゆ まゐりきてみことうくれば ~ もむにれをいほえはきたり あまてるやひのけにほし さひづるやからうすにつき にはにたつてうすにつき おしてるやなにはのをえの はつたりをからくたりきて すゑひとのつくれるかめを けふゆきてあすとりもちき わがめらにしほぬりたまひ きたひはやすも きたひはやすも>
<<難波の小さな入り江に巣を作って暮らしている葦蟹の私を大君は来て欲しいと仰る。どうして私のようなものに来いと仰るのか。 ~ 急いで明日香,置勿,都久野を経由して,宮中の東門から参上して用件をお聞きしょうすると ~ 私を五百枝も剥いで吊るし,日ごとに干して,韓臼で搗き,庭に据えた手臼で搗いて粉にし,難波小さな入り江で取れた新鮮な海水の塩分を高くして混ぜ,陶工が作る瓶を今日注文し,明日運ばれて瓶に入れ,私の目にその塩を塗って,賞味なさることよ。賞味なさることよ。>>
本長歌の左注にある「哀れな葦蟹さん」と解釈するのか,当時の美味しく食べるための加工技術(2種類の新型臼で搗く)や,高級感を出すための演出(専門職人の陶人が作る瓶に入れる)がどこまで進んでいたかを示す資料と見るかで,この和歌の感じ方は大きく変わると思います。
また,蟹を生きたまま,難波から平城京まで運ぶ技術ができていたことも想像できます。さらに,瓶を今日注文して翌日届くということは,注文生産ではなく,見込生産がされ,在庫を持っていたからできたことだ私は思います。
「哀れな蟹さんのお話」と興味を引かせておいて,「天皇も食べているというこの蟹の加工品を食べたい」と一般の人に思わせる。そんなカニを加工した新食品のPRの歌だったのかもしれません。
この1首前の長歌も構成がよく似ており,対象は鹿です。狩で殺した鹿は大君によってどうされるのか,具体的には狩りで殺された鹿1頭の角,耳,目,爪,毛,皮,肉,内臓がどう加工されるのかを詠んでいます。
これも「八つ裂きにされる可哀そうな鹿さん」と見るか,鹿1頭を捨てるところなく利用し,狩で無駄に殺生をしているのではないことを示している政権側のPRと見るかで感じ方が大きく変わります。
鹿のさまざまな部位の新しい加工品が,京人が手にできる値段の高級品として市場に出回っていたことも想像できます。そして,御多分に洩れず,偽物も多く出回っていたかもですね。
当ブログ7年目突入スペシャル(3:まとめ)に続く。
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