2017年1月14日土曜日

序詞再発見シリーズ(4) ‥ 東歌の序詞にはまだまだ植物が出てきます

前回は東歌序詞に出てくる比較的有用な植物について紹介しましたが,そのほかにもいろいろ植物の名(楢,葛,ねっこぐさ,薦<まこも>,いはいつら,藤,麦,草,玉藻,わかめ,など)が万葉集に出てきます。
最初は,の木が出てくる短歌です。

下つ毛野みかもの山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ(14-3423)
しもつけのみかものやまの こならのすまぐはしころは たがけかもたむ
<<下野のみかもの山に生える楢の若木のよう可愛いあの娘たちは誰のための食器を持つのか>>

今の栃木県栃木市にある三毳山(標高229m)と言われています。当時ここには,楢の群生地があり,伐採した後の切り株から,また苗木がきれいにたくさん出ていたのかもしれませんね。この短歌作者は,若い女の子たちを見て,三毳山の楢の苗木の若々しさを思い浮かべたのでしょうか。
栃木県の南部は比較的平坦で,水耕に適しており,山には楢などの広葉樹がたくさん生え,枯葉を肥料にしたり,焚き木や炭に使える木も豊富で,伐採した後からまた若木が生えていくのです。
次は,葛粉,葛切り,葛餅,葛根湯などで今でも知られているを詠んだ短歌です。

上つ毛野久路保の嶺ろの葛葉がた愛しけ子らにいや離り来も(14-3412)
かみつけのくろほのねろのくずはがた かなしけこらにいやざかりくも
<<上野の黒保根の葛の葉が大きくなるのと同じほど愛しいあの娘からかなり遠く離れたところにきてしまった>>

群馬県桐生市にある黒保根町(以前は1889年から黒保根村として村立し,2005年桐生市に併合された)の黒保根という村名はこの短歌に由来して名付けられたそうです。
今の黒保根地区の場所であれば赤城山の南東斜面であり,日当たりもよく,植物はよく育つ場所だったと想像できます。成長が早いクズもさらに速いスピードで成長したのではないかと思います。
なお,時代が平安時代想定に進みますが「葛の葉」という人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本があります。白狐が「葛の葉」という名の人間の若い女性に化け,狐の時自分を助けてくれた若者と結婚するというストーリです。その子供があの陰陽師で有名な安倍晴明という奇想天外なものです。クズの葉の形が見方によっては若い女性を示すものとして,万葉時代からイメージされていてもおかしくないと私は思っています。
最後は地面に生える草系の「いはゐつら」を詠んだ短歌です。

入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね(14-3378)
いりまぢのおほやがはらの いはゐつらひかばぬるぬる わになたえそね>
<<入間道の於保屋が原に生えている「いはゐつら」をやさしく引っ張ると切れずにするすると引けるように私との間が切れることがにいようにね>>

入間道於保屋が原は場所が特定されていないようで,入間市やその近辺にこの短歌の歌碑がいくつも立てられているようです。
「いはゐつら」は食用や薬草にもなる「スベリヒユ」の仲間という説が有力のようです。
確かに,スベリヒユがある程度育った全体の形を見ると「削りかけ」をした「いはゐぎ(祝い木)」(アイヌや神道の儀式に使う)に似ていなくもありませんね。
いずれにしても,東歌の序詞から,東国に魅力的な植物が豊富にあることをアピールしているように私は感じてしまいます。
(序詞再発見シリーズ(5)に続く)

2017年1月11日水曜日

序詞再発見シリーズ(3) ‥ 東歌の序詞は東国の高価値植物案内?

今回も前回に引き続き,東歌で使われている序詞について万葉集を見ていくことにします。
前回は地名でしたが,今回は植物の名が出てくる東歌の序詞にポイントを絞ります。

我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを(14-3379)
わがせこをあどかもいはむ むざしののうけらがはなの ときなきものを
<<あの子がいう武蔵野のうけらの花のように目立つようなそぶりを出さずにいられようか>>

ここに出てくる「うけら」は,後に「を(お)けら」と呼ばれ,大晦日から元旦にかけて京都の八坂神社に詣でる「おけら詣り」,また正月の屠蘇散(正月に飲む薬)の原料(漢方)の一つとして根が使われ,根を焼いた煙は蚊取り線香の煙のように夏の虫よけにもなっていたらしいというものです。
「うけら」は万葉集ではこの他に2首に出てきますが,どれも東歌です。
薬効のある「うけら」が関東の武蔵野という地に群生していた可能性が万葉集から想像できます。
仮に「うけら」が万葉時代では貴重な薬効植物で,常に不足している状態とすれば,東国は不足資源の供給地として注目されることになります。
次は,について詠んだ短歌です。

上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ
<<上野(かみつけ)の安蘇の地で採れる麻の束を抱くようにお前を抱いて寝るのをずっと続けたい。俺はどうしたらよいのか>>

上野(今の群馬県か栃木県の一部)の安蘇の地は,栃木県に以前あった安蘇郡との関係もあるかもしれません。
その地では,麻の栽培が盛んだったことがこの短歌からうかがえます。
この地にヤマト民族は東国に先住していたアイヌ民族を追い払うという侵略を行い,入植し,開墾,広い土地に農作物の大量に栽培をしていたのでしょうか。
特に,麻は成長が早く,衣類,漁網,工作物,そして高い薬効など,その用途も広く,需要は絶えることは無かったと想像します。
最後は「大藺草」(「イグサ」の大きいものではなく「フトイ」という植物らしい)を詠んだ短歌です。

上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ(14-3417)
かみつけのいならのぬまのおほゐぐさ よそにみしよはいまこそまされ
<<上野の伊奈良の沼に生えている大藺草が遠くで見るより近くで見るほう美しいように,今近くで見ているお前がずうっと恋しく幸せだよ>>

この短歌の「伊奈良の沼」は,今の群馬県の南東部にあり,そして近くには大きな渡良瀬遊水地がある板倉町あたりに当時あった沼のことらしいです。
この短歌の主人公の男性は「大蘭草」を近くで見て形の良いものを選別して刈り取り,束ね揃えて出荷する仕事をしていたのかもしれません。
また,「大藺草」は遠くからは目立たない小さい花を咲かせるため,その花を見るには近くで見る必要があったようです。

天の川 「たびとはんな。わてにも顔の真ん中に可憐な小さなハナがあるで。近こう来て見て~な。」

天の川君の顔は,できるだけ遠くから眺めることにしましょう。
さて,「大蘭草」(フトイ)は乾燥させて,すだれ,行李(旅行鞄),部屋の仕切りや屋根葺きの材料,夏の敷物,着火性の良い燃料,かがり火,松明などに使われる好材料だったのだと私は思います。
これらの短歌を当時の中国大陸朝鮮半島の人たちが見ると,日本はヤマト朝廷の京(みやこ)がある近辺だけでなく,その東方に有用な植物資源が豊富にある土地が広くあり,日本はそれらの輸入先として貿易相手国になるえると考えたかもしれません。
その結果,万葉時代の東国からは,近畿へ多くの物資が陸路・海路で送られ,その中には朝鮮,中国に輸出されたものもたくさんあったと私は思いを巡らせるのです。
(序詞再発見シリーズ(4)に続く)

2017年1月6日金曜日

序詞再発見シリーズ(2) ‥ 東歌の序詞は立派な観光案内?

正月休みはあっという間に終わり,私「たびと」は本業のソフトウェア保守開発の職場に出勤しています。今日は通院のため午前休暇で,ついでにこのブログをアップしています。
相変わらず,私の本業の仕事は無くなりません。ただ,つき合っている人たちのモチベーションがソフトの保守というだけで,下がってしまうのは何とかしてほしいですね。
本業のブログ( http://ameblo.jp/tabito-2016/  )も年明け快調にアップしていますよ。
さて,序詞再発見の2回目からしばらくは,巻14の東歌を見ていくことにします。
東歌で序詞に出てくるものはいろいろありますが,地名がたくさん使われていることが特徴の一つだと私は思います。
たとえば,次の短歌です。

鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ(14-3365)
かまくらのみごしのさきの いはくえのきみがくゆべき こころはもたじ
<<鎌倉の見越しの崎の岩が崩れるような,この恋が崩れてあなたが悔やむような気持は一切ないよ>>

ここから東国には鎌倉(可麻久良)と呼ばれる地がある。その近くに海岸があり,見越しの崎( 美胡之能佐吉)と呼ばれる場所がある。
見越しの崎は長年の浸食によって,今にも崩れそうな奇岩があることが見えます。
少なくとも,奈良にいる京人は「今にも崩れそうな奇岩とはどんなものだろう」と興味を持つのではないかと私は想像します。
その結果,鎌倉と見越しの埼という地名は京人にインプットされ,東国へ出張する役人に「見てきてほしい」と頼む人が出てくるかもしれません。
東歌にはそのような事例が他にも多くあります。

相模道の余綾の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも(14-3372)
さがむぢのよろぎのはまの まなごなすこらはかなしく おもはるるかも
<<相模街道に面した余綾の浜のきれいな砂が無数にあるのように,あの娘のことが限りなくい恋しく思われるなあ>>

相模道という街道があって,その街道は海岸沿いに通っている。
海岸には余綾の浜(余呂伎能波麻)という砂浜が延々と続いている場所(現在の大磯近辺?)がある。
その砂浜はきれいな砂でずっと被われている。
こんか風光明媚な場所であることが想像できます。

筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに(14-3392)
つくはねのいはもとどろに おつるみづよにもたゆらに わがおもはなくに
<<筑波嶺で岩をも響かせる滝の水の跳ねる方向が定まらないような私の気持ちではないのに>>

筑波嶺という大きな山があり,そこには硬い岩をも響かせるような大きな滝がある。
滝の水は勢いがよく四方八方に飛び散っている。
ところが,現在の筑波山には残念ながら大きな滝がないのです。万葉時代は今とは違っていたかもしれませんが,地形が大きく変わっていないとすれば大きな滝があった可能性は低そうです。
もしかして,この短歌は誇大広告だったのかも?

天の川 「そんなことは,ようあることやんか。ベルギーの『小便小僧』,デンマークの『人魚姫』,シンガポールの『マーライオン』おまけに大阪の『通天閣』なんか,初めて見た人は『がっかり』するそうやで。」

天の川君は意外と物知りだね。感心したよ。

天の川 「ちょっと前にパソコンをええやつに変えてな,ネットに「ねっとり」はまってんねん。まあ,その受け売りやねっと。」

天の川君のくだらないダジャレはスルーしましょう。
東歌にはそのほかにもたくさん地名が出てくる序詞があります。東歌は京人に東国へいざなう観光ガイドブックではないかと私が感じるゆえんです。
多くの人が東国と行き来すれば,東国の発展が促されるだけでなく,途中の街道の宿場町なども活気づくわけですからね。
(序詞再発見シリーズ(3)に続く)

2017年1月1日日曜日

序詞再発見シリーズ(1) ‥ 序詞は添え物か?

あけましておめでとうございます。たびとです。
8か月間もこのブログへの新しい投稿をしていませんでした。申し訳ありません。
体調が悪かったわけではなく,本業の多忙さ,本業のITに関係する学会での発表準備,本業をテーマとしたソフトウェア保守に関するブログ(アメブロ上)の開始などが重なり,手が回らなかったのです。
その間,国内,国外からこのブログに過去投稿した記事に対して,継続した閲覧,時として大量の閲覧を頂きました。あまり長くお休みするのも申し訳なく,再開を決意しました。
ただ,上記の忙しさは今年もあまり変わりそうにないので,再開しても毎週記事をアップするのは難しいかもしれません。
できるだけ,1回の記事の量を少なくして軽い読み物にしたいのですが,文章が下手なものですから,やはり冗長なものになってしまうかもしれません。
さて,昨年途中で終わった万葉集の「枕詞シリーズ」は中断し,今年から気分を変えて新しいシリーズを始めることにします。
そのシリーズは「序詞再発見シリーズ」というものです。

天の川 「な~んや,『枕詞』が『序詞』に変わっただけやんか。」

そうそう,このシリーズでは,あの関西弁でうるさくチャチャを入れる「天の川君」も再登場してまいります。

天の川 「天の川ファンのみんななあ,おまっとうさん。「たびと」はんの記事にこれからめっちゃ突っ込みを入れていきまっせ。」

お手柔らかに願いたいね。天の川君。
さて,枕詞も序詞も文学的表現からいうと付け足しのようなもので,それ自体訳さない解説本も多いかもしれません。
特に,序詞に至っては,枕詞に比べ文字数が多く,序詞を除いた部分が俳句の文字数にも満たない短歌もあります。
序詞はさらに説明調であり,文学的表現から見て稚拙な和歌な印象を拭うことができなさそうです。
短歌のように文字数が限られているため,情景や想いを少ない文字に詰め込んで表現しようとする歌人にとっては,なんともったいない,初級の作歌方法だと思われてしまうかもしれません。結局,序詞を含む和歌は,即興で読んだり,和歌を作る能力が未熟な人が読んだもので,文学的評価をするに足らないと万葉集の解説本にもあまり出てこないようです。しかし,私はそんな序詞に注目します。
序詞が使われた和歌が比較的多く出てくる万葉集の巻は,巻14,巻11,巻12です。
巻14は東歌の巻で,その巻に出てくる短歌の30%近くが序詞を含むものです。
巻11,12は両方とも恋の気持ちを詠んだ巻ですが,出で来る短歌の20%以上が序詞を含むものです。
他の巻には序詞を含む和歌の比率が極端に少なく,巻5,巻9には1首も序詞を含む和歌が出てこないようです。
このように,序詞が含む和歌の出現する巻が偏っているように私には見えます。
そこに,編者の意図を私は感じます。
それを探るのが,このシリーズの目的です。
さて,最初に巻11の1首を紹介します。

宇治川の水泡さかまき行く水の事かへらずぞ思ひ染めてし(11-2430)
うぢかはのみなあわさかまき ゆくみづのことかへらずぞおもひそめてし
<<宇治川の水の泡が逆巻くように激しく流れるように(以上序詞),もとに静かな思い帰ることができなくなってしまった。貴女への激しい恋心で>>

私は何度もこのブログで,万葉時代には京都の宇治川の流れが激しいことが一般に知られていたということを述べてきましたが,これもそれを裏付ける1首です。
今の宇治川も結構な水量で流れが速いのですが,上流の南郷洗堰(なんごうあらいぜき)や天ケ瀬(あまがせ)ダムで,水量の平準化と周辺への利水などを行っていてのことです。
そんなダムがなかった万葉時代の宇治川は,たとえば琵琶湖でまとまった雨が降ると宇治川の流れの激しさは恐ろしいほどのものがあったと考えられそうです。
宇治平等院があるところより下流の平らな万葉集にも出てくる木幡(こはた,こばた,こわた)地区の宇治川沿いなどは,洪水の常襲地帯だったようです。
私が小学生のころ,一度ですが宇治川にかかる観月橋付近で大きな洪水が発生したというラジオのニュースで聞き,近くの椥辻(なぎつじ)という京阪バスのバス停から終点の六地蔵(ろくじぞう)までバスで行き,後片付けの野次馬をした記憶がよみがえります。

天の川 「たびとはんは,ちっこい頃から,名神高速の起工式や,こんな洪水の野次馬が好きやったんやね。興味の塊みたいな坊主やったんか?」

天の川君の言う通りかもね。何か珍しいものに興味をもったし,結構今も覚えていることも多いね。
保育園にいたころだと思うけど,天ケ瀬ダムができる前まで渓谷を走っていた「おとぎ電車」に両親と一緒に乗った楽しい記憶が乗っているんだよ。
何年か後に「また乗れへんか?」と両親に言ったら「ダムができて線路は水の下になるよって,もうて乗れへんね」と言われ,大変残念だったことも記憶しているね。

天の川 「その割には,たびとはんは最近のことをよう忘れるようになったんと違うか?」
‥。
(序詞再発見シリーズ(2)に続く)

2016年4月30日土曜日

改めて枕詞シリーズ…うつせみの(3:まとめ) 他人はあなたの普段と違う行動を見ている?

2016年もGWに入りましたね。忙しくでなかなかゆっくりする時間がなかったのですが,少しだけ羽を伸ばしています。
さて,枕詞「うつせみの」の最後は,人の噂に関する万葉集の和歌を集めてみました。
特に若い男女の仲の噂です。貴族たちがそういった和歌を詠み,たしなんだのは,幼少のときから正しい日本語(やまと言葉)を身に着けるための教育手段として作歌を教えられていた可能性があると私は感じます。
東歌防人の歌をみれば分かりますが,地方の若い人たちも上手い/下手はあったとしても和歌が詠めるのであれば,和歌の作歌教育は受けている可能性が高いと思われます。
万葉集は,上は天皇から下は乞食までの和歌が治められているということは,和歌に対する教育が多くの階層の人たちに行われていたことに私は注目したいのです。
そして,その作歌教育の内容における最低ラインは基本的に貴賤の隔てがないとすると,共通的に教育が行なわれていたのでしょう。
その教育の結果として,万葉集を編むことができたとしたら,歴史には残っていないどんな人がその教育を考え,実行に移したのか,その背景に大きな興味をもつのです。
私はオリンピックなど大きなイベントの素晴らしい演出やエンターテインメントを見て感動することも当然あります。
ただ,目に見える部分ではないところでどんなスタッフが本番の支援や準備段階で動いているかがいつも気になるのです。彼らの多くは公式記録には残らないかもしれません。
そんなスタッフたちの優秀な働きがなければ,いくら有名タレントを担ぎ出しても高度なイベントの成功は難しいかもですね。
さて,最初は詠み人知らずの短歌です。

うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けりともなし(12-3107)
うつせみのひとめをしげみ あはずしてとしのへぬれば いけりともなし
<<(世の中の)人目が多くあり,お逢いしないようにして年が過ぎていくことは生きている意味を感じないくらいだ>>

今で言えば有名タレントの男女が人目を避けて付き合っているような状況でしょうか。
これがいわゆる不倫となれば,ますます人目を避けなければいけないのかもですね。よくわかりませんが..。
次の詠み人知らずの短歌などはもっと危ない間柄でしょうか。

心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも(12-2932)
こころにはもえておもへど うつせみのひとめをしげみ いもにあはぬかも
<<心が燃えるほどあの人を恋しているのに,(世の)人目がいっぱいで,いつまでも逢えないままでいるのか>>

なかなか逢えないほど逢いたいと思うのは,無粋な話ですが,私が大学で専攻した経済学でいう稀少価値の原理ですね。
<希少性に価値がある>
レアなほど価値を感じる。なかなか逢えないから逢うことに対し大きな価値を感じる。
逆に,スマホでお互いの声が聞けたり,お互いの動画がいつでも見られる状況では,恋人同士でもただ逢うだけというのば価値が下がってしまっているのかもしれませんね。
だから昔の方が良かったなんて言うつもりはありません。ただ,そんなコミュニケーション手段が高度化した今でも孤独感に陥る人は多いと聞きます。
結局,人が孤独感から解放される状態とは,楽しいと感じる時間を共に過ごせる人がたくさんいることが必要なのかもしれません。
最後に紹介するのは,相手の言葉がどこまで本心か(自分のことを恋しいと思っているのか)を確かめようとする詠み人知らず女性が詠んだ短歌1首です。

うつせみの常のことばと思へども継ぎてし聞けば心惑ひぬ(12-2961)
うつせみのつねのことばと おもへどもつぎてしきけば こころまどひぬ
<<世の中のどなたに対しても普通に仰る言葉と分かってはおりますが,何ども「好きだ」と仰られるのを聞けば,心が乱れてしまいます>>

こうやって,この短歌の作者は相手の男性の気持ちを探ろうとしているのでしょう。
さて,今は男女平等の世の中です。相手の女性の本心がどうなのか,探る手立てを男性も熟練するためにいろいろ練習してみる必要があるのではないでしょうか。
女心が分からないと何もしないで待っているだけでは良い女性は見つかりません。一発で決める事ばかり考えず,いろいろ試しにウィットに富んだ問いかけをしてみませんか?
改めて枕詞シリーズ…あしひきの(1)に続く。

2016年4月26日火曜日

改めて枕詞シリーズ…うつせみの(2) ずっと一緒にいたい気持ちは世の中が許さない?

仕事の期初の忙しさやソフトウェア保守関連の所属学会の活動が忙しく,アップがしばらく滞ってしまいました。
<世の中の変化に無頓着な人>
最近の話ですが,世の中の大きな変化に気づかず,自分の考え方が世の中の実態から大きく遊離してしまっていることにまったく無頓着な人がまだまだいることを改めて知る事態に遭遇しました。
そういう人たちは世の中に何か絶対的なモノがあることを期待し,それを信じて生きたいと思う人なのかもしれません。しかし,今の激変の世の中では,サーフィン(波乗り)のようにさまざまな世の中の変化を予測し柔軟に対応できる柔らかい頭と能力が必要なのだと私は思うのです。
頭の固く,気が付いた時には変化の影響をまともに受け,苦労している人が多いのが本当に残念です。何とか気づかせてあげたいと考えるのですが,ご本人の高いプライドがそれを許さないようでなかなかうまく行きません。
<本題>
さて,枕詞「うつせみの」の2回目です。
前回の最後の短歌は大伴家持の側室が亡くなったことを悲しむものでしたが,今回の最初は家持の正室となる坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)が家持に贈った短歌からです。

玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻きかたし(4-729)
たまならばてにもまかむを うつせみのよのひとなれば てにまきかたし
<<玉だったら手に巻いてもいいけど,でもこの世の人だとね,(うるさく詮索するので)手に巻く(あなたのことを言う)わけにもいかない>>

この「うつせみの」は「世の人」に掛かると考えられます。
<万葉時代は情報戦の時代?>
「世の人」は何を見ていて,何を言うか分からない。意外と万葉時代は情報が大きな価値を持つ時代だったのかもしれません。
男女関係も含め,他人より早く,誰も知らない情報を入手し,しかるべき人に伝えて手柄を得ることができたのは,今とあまり変わらないように思います。
実は,情報というものは隠せば隠すほど,その価値は上がる。逆に,多くの人に知られれば知られるほど情報の価値は下がる。世の中が平和で無用な競争社会ではないと情報は隠されません。
江戸時代,旅の旅籠の部屋は襖(ふすま)で仕切られただけでした(鍵もありません)。
また,襖の上にある欄間(らんま)は通気性をよくするために彫で開けられ,欄間から隣の部屋の音や寝息がよく聞こえる状態でした。
こんな状態では安心して寝ることもできなかったかというとそうでもないようで,隣の部屋の人が危害を加えたり,強盗をしたりすることがないという安心感が双方にあれば何の問題もなかったのかもしれません。
山小屋のような雑魚寝よりはマシだったのでしょう。
次は家持が大嬢に返した短歌です。

うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む(4-733)
うつせみのよやもふたゆく なにすとかいもにあはずて わがひとりねむ
<<この世は再びということはあるのだろうか? どうしてあなたに逢わずに一人寝られましょう>>

この世に再び生まれてくることはできない。だから,すぐにでも逢いたいという気持ち表れでしょうね。大嬢はこの短歌を受取って,どう思ったのでしょうか。結果は,二人はめでたく結ばれるのです。
次は詠み人知らずの女性が蝦夷征伐に出陣する夫との別れを詠んだ短歌です。

うつせみの命を長くありこそと留まれる我れは斎ひて待たむ(13-3292)
うつせみのいのちをながく ありこそととまれるわれは いはひてまたむ
<<あなたの命が長くあってほしいと京に留まる私は神に祈ってあなたの無事な帰りを待っております>>

京から辺鄙な蝦夷に出兵して帰ってこなかった人の噂もたくさんあったのでしょう。何もできない妻としては,ただただ祈るしかないのです。
<今も変わらない派遣自衛隊員の家族の祈り>
さて,日本の今の自衛隊も国際貢献という名のもとに海外派遣がこれから多くなるとともに,その任務もますます危険と隣り合わせなものになる可能性があります。
それが日本の国を間接的に守ることになることは分かっていても,派遣される隊員の奥さんの気持ちにはこの短歌と似たものがあるのかもしれません。
どんなに危険レベルの情報とそれを防ぐ情報(手立て)が整備されても,どのようにも対応のしようがない人(家族など)がいます。
ひたすら無事を祈り続ける行為は,たとえ世の中が「うつせみ」(無常)ではなくなり,非常に確定した状態となったとしても,不要とはならないのだろうと私は思います。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(3:まとめ)に続く。

2016年3月28日月曜日

改めて枕詞シリーズ…うつせみの(1) 世の中も人もいずれは変わっていく?

今回万葉集で,枕詞「うつせみの」を取りあげます。
<世の中は無常。だから人間は絶対的なものを求める>
「うつせみ」とは,「この世に生きる人のことを表す」と国語の辞書には載っています。
生きている人はいずれ死ぬ,どんなに若々しく力強い人でもいずれ年老いる,人の心はいつまでも同じだと限らない,少し長い目で見れば「人」は無常なものとなるようです。また,「人」が暮らす「世の中(世間)」も「人」が無常であるがゆえに無常(ダイナミックに変化)とならざるを得ないと演繹できそうです。
他方で,「人」はいつまでも変わらず,ブレず,頼りになり,絶対的なモノを求めたいと願うことも事実です。それを「神」と名付けて崇めようとしたり,加護を受けよう(救いをもとめよう)としたりする人も少なくないでしょう。
<無常を楽しむ>
そのような中で,「世の中」や「人」の無常状態がどんなものかを分析し,その変化を予測し,変化を楽しむという生き方にもあるかと私は思うのです。その変化の予測精度を高めるには,「世の中」の動きや「人」の心理についてのより多くの情報収集が必要となるでしょう。
情報収集では,形式知(本,雑誌,ニュース等)だけの収集ではなく,積極的により多く社会への貢献的な経験を積むこと,多様な「人」との交流から得られる情報も貴重だと感じます。
そういったチャレンジ行動の中に,実は安定した,ブレることがない自分が形成されていく,そんな生き方が今の変化の激しい時代に合ったものかも知れないと私は思うのです(実践はそう簡単ではありませんが)。
<本題>
さて,本題の「うつせみの」の枕詞を使った万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,巻1の最初のほうに出てくる麻續王(をみのおほきみ)が伊良虞(いらご)の島に流罪となったときに詠んだと伝えられる短歌です。

うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す(1-24)
うつせみのいのちををしみ なみにぬれいらごのしまの たまもかりをす
<<(世の中で今も生きている)命を惜しんで(繋ぐために),波に濡れようとも伊良虞の島の玉藻を刈って食料とするのだ>>

この前の短歌は,その時に伊良虞の島にいた人が,麻續王に海人(漁業者)になって,これから玉藻を刈って行かれるのですか?と問う短歌を発しています。それに麻續王が答えたのが,この短歌です。
まるで,流罪となった麻續王に地元の記者が「お気持ちはいかがですか? これからどうされるのですか?」と無神経な質問し,その反応をゴシップ記事として京に伝えようとしているみたいですね。王と呼ばれた人の末路を気にする人は万葉時代でもたくさんいたのかもしれません。激変の時代,「明日は我が身」かもしれませんから。
次は,「うつそみの」という発音が異なっていますが,同じ枕詞と解釈されている大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悼む有名な短歌です。

うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ
<<この世に生き残った私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>

大津皇子は天武天皇の皇子であっても,異母である持統天皇に粛清されてしまうのです。
このような短歌は,時の為政者(持統天皇系)にとっては邪魔なものでしかないのですが,万葉集に残されたのはどうしてでしょうか。
それは,万葉集の編者の意図だと思うのが自然だと私は感じます。
編者は少なくとも天武・持統系の崇拝者ではないことは確かだと私は想像します。そういう目で万葉集を見ていくと興味深い面も見えてくるのかもしれませんね。

今回の最後は,大伴家持が21歳前後のとき,亡き妻(最初の妻?)を悼んで詠んだ短歌です。

うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも(3-465)
うつせみのよはつねなしと しるものをあきかぜさむみ しのひつるかも
<<この世の中は無常であると知っているつもりだが、秋風が寒く感じ(早く亡くなった妻を)偲んでしまうなあ>>

名家大伴家としては将来を期待される家持には,最初の妻として年上の女性と結ばれることがあったかもしれません。若き家持の面倒を見てくれた妻が亡くなってしまったことで,世の中の果敢なさを改めて知ったという気持ちの表れでしょうか。
大切な人が亡くなってしまうことを目の当たりにすることで,「世の中」の無常さ,「人」の果敢なさをしっかり受け止め,その結果として「世の中」や「人」の大切さを感じることができると私は思います。
今,「世の中」や「人」を大切にせず,「○以外はすべて×という二元的な否定」,そして「破壊」と「殺戮」を自分の主張を認めされる有効な手段としている状況を無くす必要性を私は強く感じます。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(2)に続く。