<駅(はゆま)の生い立ち>
駅は元は驛と書きました。馬を飼う小屋(馬屋)という意味です。万葉時代,この馬は荷物を運ぶ馬です。馬は野生ではなく飼い主がいる馬です。馬の飼い主は,おとなしいけれど力持ちの馬を多く所有していると荷物の輸送代がたくさん入ってきます。
ただし,馬を長距離荷物を運ばせると,帰りにちょうど出発地に輸送する荷物がないこともある,馬の餌を大量に背負わせる必要がある,馬が疲労したときの代わりの馬を見つけられない,付き人が付いていく距離が長くなり,付き人の宿代が発生してコスト高になるなど,マイナス面が出てしまいます。
そこで,日帰りで往復できる位の距離ごとに,馬にエサを与えることができ,付き人が食事できる施設があり,馬や付き人はその施設と施設の間のみを輸送を担当するシステムが考案されたと考えます。
その施設には,いつも馬が待機し,前の施設からきた馬が到着したら,次の担当の馬に荷物を載せ替えて運びます。馬は逆方向の荷物を載せて元の施設に戻ります。
<速達便と普通便>
速達が必要な荷物は,それぞれの施設で早い馬を選んで次々と昼夜を分かたず荷物を載せ替えて運べば,早く届けることができます。逆に,ゆっくり届けてもよいものは,馬が空くまで施設で荷物を置いておきます。そんな馬待ちの荷物がいつもあれば,運ぶ荷物がなくて馬が仕事をしないで待機することが少なくなります。当然,速達便は輸送代が高く,到着が遅くてもよい荷物の輸送代(普通便代)は安く設定されていたでしょう。運よく馬が空いていれば,普通便代でも速達に近い日数で荷物を届けることができます。
このように馬を待機させる施設,付き人の宿泊施設や食事をする施設,馬待ちの荷物を一時的に保管する施設(倉庫)など持つものが「駅」なのです。
<飛脚便の登場>
しかし,日本では文字や中国の律令制度導入によって,運ぶものは荷物だけではなく,紙に書かれた書類(改定された律令,通達,通知,注文書,請求書,その他証文),手紙などが重要な輸送物になっていきます。そういったものは,荷物よりも小さな単位でタイムリーに運ぶ必要があり,まとまった荷物を運ぶ馬や船では非効率なケースがでます。そういうニーズから出現したものが,ヒトが書類や手紙のような小さくて軽い荷物を運ぶ飛脚制度です。
<駅伝>
飛脚も駅に待機していて,前の区間からくる荷物の到着を待ち,到着した荷物をすぐに受け取り,次の駅まで飛ぶように走って運びます。この受け渡しがそう駅伝と呼ばれる行為です。飛脚チームや飛脚を請け負う会社のような組織は,自分たちの飛脚が一番早いことをアピールするため速さを競争をしたと思います。それがスポーツとして駅伝競走(荷物の代わりに襷を受け渡す)として今も残っているのだと私は思います。
さて,万葉集では「はゆま」{うまや}に「駅」(旧字では「驛」)の漢字を当てています。
「はゆま」は「はやうま(早馬)」を略した発音だったようです。それだけ,駅には早い馬がいたのでしょうか。
鈴が音の駅駅の堤井の水を給へな妹が直手よ(14-3439)
<すずがねのはゆまうまやの つつみゐのみづをたまへな いもがただてよ>
<<鈴の音を響かせる早馬が駅に到着した。娘さんの手から直接堤井の水をいただきたいな>>
この詠み人知らずの東歌は,鈴を付けた馬(公務の知らせを送る速達専用の馬)が到着したので,大事な役目だから,馬や私に何をおいても介抱してほしい,そんな意味の短歌でしょうか。
この短歌から,当時の東国にも駅が整備されていたことが伺えますが,この短歌は夫が仕事を終え,家へ一目散で帰ってきたことを早馬と駅への到着に例にして,妻に労わってほしいというおねだりにの歌のような気がしますね。
さて,次は駅と駅の間を船で渡すことを望んだ詠み人知らずの短歌です。
駅路に引き舟渡し直乗りに妹は心に乗りにけるかも(11-2749)
<はゆまぢにひきふねわたし ただのりにいもはこころに のりにけるかも>
<<駅と駅と間を船でつなげばすぐに乗って行こう。そうしたら彼女の心も乗ってくるに違いない>>
当時,海路は今の旅客機のようにあこがれの乗り物だったのではないかと私は思います。陸路だと,山,峠,谷,川などの難所をいくつも越えなければならないけれど,船だったらあっという間に着いてしまうというイメージがあったのでしょうか。
最後に,大伴家持の部下尾張少咋(をはりのをくひ)が越中で遊女との浮気が過ぎ,それを聞きつけた奥さんが京から早馬に乗って駆け付けてくる様子を家持が少咋を諭すために詠んだとされる短歌です。
左夫流子が斎きし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに(18-4110)
<さぶるこがいつきしとのに すずかけぬはゆまくだれり さともとどろに>
<<左夫流子という遊女を正妻のように住まわせている君の家に,鈴も付けずに駅を経由して奥さんを乗せた早馬がやってきたぞ。その蹄の音を轟かせてな>>
「斎きし」とは神棚を清掃したり,供え物をしたりする行為で正妻が行うとされていたようです。
そして,早馬は周りに注意を促すため,本投稿の最初の短歌でも出てきたように鈴を付けることになっていたようです。奥さんはこの事態は放置できないと,鈴を付ける時間も惜しかったのか,鈴なしで大急ぎで京から馬を走らせ,越中国府の里まで飛んできた様子が分かります。
天の川 「たびとはん。この短歌から自分のことをいろいろ思い出したんのとちゃうか?」
そうそう,振り返ると反省することがいっぱい~,違います!! 私にはそんな勇気と能力はありません。
今もあるシリーズ「宿(やど)」に続く。
2013年1月27日日曜日
2013年1月20日日曜日
今もあるシリーズ「荷(に)」
<「初荷」は今は昔の話?>
私が少年の頃には「初荷」と書いた垂れ幕をバンパーや荷台の横に付けたトラックが1月の正月明けによく見かけました。
しかし,それから24時間365日営業のコンビニエンスストアの出現があり,デパート,スーパーマーケット,各種量販店の元旦営業が当たり前となり,宅配便の休日配送常態化で,正月も休みなくトラック輸送が行われています。そのため,「初荷」と称することが無意味となり,そういった幕を付けて走るトラックは見なくなったのでしょうか。
ところで,今の社会は私たち気まぐれな行動にも,また夜間や休日の仕事をしている人たちにも,急な体調変化にも対応してくれる24時間365日営業の店やサービスがあります。何かあったときに便利で安心して暮らせる世の中を提供してくれているという意味では,本当にありがたいことだと私は思います。
<24時間サービスは結局人間の犠牲で成立?>
でも,そのことによって,社会の人々の気持ちの中では,関係する仕事に従事する人に休みを取らせない環境に向かわせているように私は感じてしまいます。
言い換えれば,24時間サービスで働く人に対し,交代やシフトはあっても,機械やコンピュータと同じように休みなく(そして,低コストで)仕事をすることを求める社会になろうとしているということです。
いっぽう,その解消方法として,いつでもあらゆるものが買える自動販売機,いつでもコンピュータが注文を受け付けて自動的にすぐ配送手配してくれるネット販売,そして配送を担う24時間365日働けるロボットの出現が間近だろうという予測が考えられます。では,それが実現すればゆったり仕事ができ問題は解決するかというと,実はそうではないと私は思います。
<結局企業等のITシステムへの投資の回収は人件費削減で?>
そうなったとき,働くヒトが少しで構わない,失業者だらけのとてつもなく不幸せな社会になってしまいます。
少し歴史本を見ると,それでも人類は今までそういった危機を大きな痛みを伴いながらも乗り越えてきました。
ヒトは自分が痛み(今より苦しくなること)を今すぐ受け入れるのを極端に嫌います。ところが,その痛みから逃げ続けるともっと極端で大きな痛みが広い範囲で起こり,解消のための対処が後手となり,さらに強い痛みが継続して残ってしまうことが現実化します。
<良い政治とは?>
それが明らかな場合,誰かがみんなを説得して痛みが少なく,その痛みが公平な形に制御できるうちに対処することを実施するリーダシップを取る必要があります。それが政治の役目だといえそうです。ただ,国民側も待っているだけでなく,政治が正しい政策を実施できるよう支援と監視の努力を怠ってはならないのだろうと私は思います。
さて,何度もこのブログで書いていますが,万葉集の時代はまさに時代が大きく変わり出した時代だと私は理解しています。
それまでは決して豊かではなかったけれど,強烈な競争や外国から侵略を恐れることもなく,季節ごとに与えられる自然の恵みを受け,人々がのんびりと暮らしていた日本のような気がします(もちろん,比較論の話ですが)。
万葉集で初期の和歌が載せられている古墳時代の前の時代にあたる,いわゆる弥生時代の頃,大陸の航海技術が発展し,大陸の優れた物資,文化,技術,制度が島国日本にやってくるようになったようです。
<「天皇」の出現>
それまで,「井の中の蛙」のような日本人(とっいっても外をまったく知らないので,その自覚すらなかったはず)が外にはもっと大きなカエルがいたり,はたまた自分たちが一口で食べられてしまうような大蛇までいることを知った訳です。
それが,いつ襲ってくるか分からないとき,井の中の蛙の氏族リーダたちは,自分たちが井の中の蛙であることに初めて気づくのです。
そのリーダたちは大きなカエルや大蛇に負けない強い自分(リーダ)や自分たちになるため,痛みが伴うことを覚悟で「誰がこの大変な状況を引っ張るか」を決めるために戦いだします(士族間戦争)。
そして,最後まで勝ち残ったもっとも強いリーダが「天皇」という名称を自らが付け,今度は配下の人々に大陸に負けないよう構造改革(イノベーション)を強力に推し進めようとしたのです。
<古墳は天皇の権力の象徴>
万葉時代の幕開けである古墳時代始まりの幕はそうやって切って落とされたのではないかと私は考えています。
古墳時代~奈良時代前半まで行われた構造改革(律令制度,戸籍・租税制度による国民管理,軍事力強化,農地開発,人口増加策,道路・宿場・港・寺院等整備の公共事業など)はトップダウンで行われるわけですから,全体像や最終目的が見えない庶民や下級兵士は戸惑いを隠せません。目指すべき理想とその実施に伴う現実の痛みとのギャップのはけ口として,和歌や歌謡を詠うことがあらゆる階層で流行り,万葉集の基となる本音ベースのさまざまな人の和歌・歌謡群ができた考えるのは言いすぎでしょうか。
さて,本題の「荷」を詠んだ万葉集の最初は短歌は「荷」の付く地名を詠んだ山部赤人(やまべのあかひと)の1首です。
玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ(6-943)
<たまもかるからにのしまに しまみするうにしもあれや いへおもはずあらむ>
<<唐荷の島で島をめぐって魚を取る鵜であるなら自分の家のことを思うことはないのだろうに>>
唐荷の島と呼ばれるくらいですから,その島は大陸の荷物が集まり,仕分けされて各地に運ばれる配送センターがある島だったのかもしれませんね。場所は,今の兵庫県相生市の瀬戸内海に浮かぶ島を指すようです。
この歌は,唐荷の島で暮らしているなら自分の家や家族がどうしているか心配する必要がない。けれど,自分は遠く旅をしている身で残してきた家族や家がどうなっているか気になるという気持ちを詠んでいるのだろうと私は解釈します。
次は,船で荷物を運ぶ状態を比喩した詠み人知らずの短歌を見ていきましょう。
大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも(11-2748)
<おほぶねにあしにかりつみ しみみにもいもはこころに のりにけるかも>
<<大きな船にアシを荷物にするため,刈って,山のように積んだ状態のように,私が貴女のことで心が満杯なのです>>
当時は,船に積めるだけ積んで川,運河,湖,海を航行する船がたくさん見受けられたのでしょうか。
最後は,久米禅師(くめのぜんじ)という僧侶(俗人であだ名かも)人が,熱い恋に生きた女性の代表格といえる石川郎女(いしかはのいらつめ)とやり取りした短歌の1首です。
東人の荷前の箱の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも(2-100)
<あづまひとののさきのはこの にのをにもいもはこころに のりにけるかも>
<<東国の人が贈り物を入れる箱の荷紐のように,貴女は私の心をきつく縛って離れないのです>>
当時から,大切な荷物は箱に入れられ,紐で縛って,中の荷物が飛び出さないようにしていたことが分かります。そして,紐がきつく結んであったり,結び方が特殊なものだと簡単に紐を解くことができなかったこともあったのかもしれませんね。
万葉時代は荷物の輸送に船を使うことが増えていったのだと思いますが,やはり陸路で運ぶことが主要であったと私は思います。長い距離を陸路で運ぶ場合,人や馬の休憩や宿泊場所が必要となります。それが,次回取り上げる駅(はゆま)です。
今もあるシリーズ駅(はゆま)」に続く。
私が少年の頃には「初荷」と書いた垂れ幕をバンパーや荷台の横に付けたトラックが1月の正月明けによく見かけました。
しかし,それから24時間365日営業のコンビニエンスストアの出現があり,デパート,スーパーマーケット,各種量販店の元旦営業が当たり前となり,宅配便の休日配送常態化で,正月も休みなくトラック輸送が行われています。そのため,「初荷」と称することが無意味となり,そういった幕を付けて走るトラックは見なくなったのでしょうか。
ところで,今の社会は私たち気まぐれな行動にも,また夜間や休日の仕事をしている人たちにも,急な体調変化にも対応してくれる24時間365日営業の店やサービスがあります。何かあったときに便利で安心して暮らせる世の中を提供してくれているという意味では,本当にありがたいことだと私は思います。
<24時間サービスは結局人間の犠牲で成立?>
でも,そのことによって,社会の人々の気持ちの中では,関係する仕事に従事する人に休みを取らせない環境に向かわせているように私は感じてしまいます。
言い換えれば,24時間サービスで働く人に対し,交代やシフトはあっても,機械やコンピュータと同じように休みなく(そして,低コストで)仕事をすることを求める社会になろうとしているということです。
いっぽう,その解消方法として,いつでもあらゆるものが買える自動販売機,いつでもコンピュータが注文を受け付けて自動的にすぐ配送手配してくれるネット販売,そして配送を担う24時間365日働けるロボットの出現が間近だろうという予測が考えられます。では,それが実現すればゆったり仕事ができ問題は解決するかというと,実はそうではないと私は思います。
<結局企業等のITシステムへの投資の回収は人件費削減で?>
そうなったとき,働くヒトが少しで構わない,失業者だらけのとてつもなく不幸せな社会になってしまいます。
少し歴史本を見ると,それでも人類は今までそういった危機を大きな痛みを伴いながらも乗り越えてきました。
ヒトは自分が痛み(今より苦しくなること)を今すぐ受け入れるのを極端に嫌います。ところが,その痛みから逃げ続けるともっと極端で大きな痛みが広い範囲で起こり,解消のための対処が後手となり,さらに強い痛みが継続して残ってしまうことが現実化します。
<良い政治とは?>
それが明らかな場合,誰かがみんなを説得して痛みが少なく,その痛みが公平な形に制御できるうちに対処することを実施するリーダシップを取る必要があります。それが政治の役目だといえそうです。ただ,国民側も待っているだけでなく,政治が正しい政策を実施できるよう支援と監視の努力を怠ってはならないのだろうと私は思います。
さて,何度もこのブログで書いていますが,万葉集の時代はまさに時代が大きく変わり出した時代だと私は理解しています。
それまでは決して豊かではなかったけれど,強烈な競争や外国から侵略を恐れることもなく,季節ごとに与えられる自然の恵みを受け,人々がのんびりと暮らしていた日本のような気がします(もちろん,比較論の話ですが)。
万葉集で初期の和歌が載せられている古墳時代の前の時代にあたる,いわゆる弥生時代の頃,大陸の航海技術が発展し,大陸の優れた物資,文化,技術,制度が島国日本にやってくるようになったようです。
<「天皇」の出現>
それまで,「井の中の蛙」のような日本人(とっいっても外をまったく知らないので,その自覚すらなかったはず)が外にはもっと大きなカエルがいたり,はたまた自分たちが一口で食べられてしまうような大蛇までいることを知った訳です。
それが,いつ襲ってくるか分からないとき,井の中の蛙の氏族リーダたちは,自分たちが井の中の蛙であることに初めて気づくのです。
そのリーダたちは大きなカエルや大蛇に負けない強い自分(リーダ)や自分たちになるため,痛みが伴うことを覚悟で「誰がこの大変な状況を引っ張るか」を決めるために戦いだします(士族間戦争)。
そして,最後まで勝ち残ったもっとも強いリーダが「天皇」という名称を自らが付け,今度は配下の人々に大陸に負けないよう構造改革(イノベーション)を強力に推し進めようとしたのです。
<古墳は天皇の権力の象徴>
万葉時代の幕開けである古墳時代始まりの幕はそうやって切って落とされたのではないかと私は考えています。
古墳時代~奈良時代前半まで行われた構造改革(律令制度,戸籍・租税制度による国民管理,軍事力強化,農地開発,人口増加策,道路・宿場・港・寺院等整備の公共事業など)はトップダウンで行われるわけですから,全体像や最終目的が見えない庶民や下級兵士は戸惑いを隠せません。目指すべき理想とその実施に伴う現実の痛みとのギャップのはけ口として,和歌や歌謡を詠うことがあらゆる階層で流行り,万葉集の基となる本音ベースのさまざまな人の和歌・歌謡群ができた考えるのは言いすぎでしょうか。
さて,本題の「荷」を詠んだ万葉集の最初は短歌は「荷」の付く地名を詠んだ山部赤人(やまべのあかひと)の1首です。
玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ(6-943)
<たまもかるからにのしまに しまみするうにしもあれや いへおもはずあらむ>
<<唐荷の島で島をめぐって魚を取る鵜であるなら自分の家のことを思うことはないのだろうに>>
唐荷の島と呼ばれるくらいですから,その島は大陸の荷物が集まり,仕分けされて各地に運ばれる配送センターがある島だったのかもしれませんね。場所は,今の兵庫県相生市の瀬戸内海に浮かぶ島を指すようです。
この歌は,唐荷の島で暮らしているなら自分の家や家族がどうしているか心配する必要がない。けれど,自分は遠く旅をしている身で残してきた家族や家がどうなっているか気になるという気持ちを詠んでいるのだろうと私は解釈します。
次は,船で荷物を運ぶ状態を比喩した詠み人知らずの短歌を見ていきましょう。
大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも(11-2748)
<おほぶねにあしにかりつみ しみみにもいもはこころに のりにけるかも>
<<大きな船にアシを荷物にするため,刈って,山のように積んだ状態のように,私が貴女のことで心が満杯なのです>>
当時は,船に積めるだけ積んで川,運河,湖,海を航行する船がたくさん見受けられたのでしょうか。
最後は,久米禅師(くめのぜんじ)という僧侶(俗人であだ名かも)人が,熱い恋に生きた女性の代表格といえる石川郎女(いしかはのいらつめ)とやり取りした短歌の1首です。
東人の荷前の箱の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも(2-100)
<あづまひとののさきのはこの にのをにもいもはこころに のりにけるかも>
<<東国の人が贈り物を入れる箱の荷紐のように,貴女は私の心をきつく縛って離れないのです>>
当時から,大切な荷物は箱に入れられ,紐で縛って,中の荷物が飛び出さないようにしていたことが分かります。そして,紐がきつく結んであったり,結び方が特殊なものだと簡単に紐を解くことができなかったこともあったのかもしれませんね。
万葉時代は荷物の輸送に船を使うことが増えていったのだと思いますが,やはり陸路で運ぶことが主要であったと私は思います。長い距離を陸路で運ぶ場合,人や馬の休憩や宿泊場所が必要となります。それが,次回取り上げる駅(はゆま)です。
今もあるシリーズ駅(はゆま)」に続く。
2013年1月14日月曜日
今もあるシリーズ「車(くるま)」
<万葉時代のロジスティックス>
万葉時代,日本の各地に国分寺や国府が作られ,京(みやこ)と地方で道や街道を経由して多くの物資が行きかうようになります。
人が籠(かご)などを担いで持って行ける量は限らけれているため,大量輸送のニーズが高まると人ひとりの力より多くの荷物を輸送するため,何らかの工夫が必要になります。たとえば,馬の背中に荷物を載せるようにすると,100㎏以上の荷物を載せても馬は何時間でも難なく運びます。
ただし,馬は所有するなら厩(うまや)を用意する必要があり(自動車の駐車場と同じ),エサも与えなければなりません。当時として手軽に利用できるものではありません。
<車輪を持つ貨車のニーズ>
そうすると,人間の力で担ぐのではなく,引いたり押したりしてスムーズに動いてに重い荷物を運べる道具が必要になります。それが荷車や人が乗る車台です。
ところで,車という字があてられるのは,車輪がついているからです。車輪は紀元前2千年頃には中国で使われていたらしく,万葉時代には中国から車輪の製造技術は日本に入っており,車輪のついた車が高価ではあるけれども品質の優れたものが使われていたものと私は考えます。
直後の平安時代になると,平安絵巻に出てくる牛車(ぎっしゃ)のように,乗り心地がよさそうで,美しく飾り立てられた車ができていたほどですからね。
さて,万葉集で車を詠んだ歌はそう多くありません。まずは穂積皇子(ほづみのみこ)の孫である廣河女王(ひろかはのおほきみ)が詠んだとされる短歌からです。
恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から(4-694)
<こひくさをちからくるまに ななくるまつみてこふらく わがこころから>
<<恋という草を力車七つ分積むほど恋しく思うのは,ほかならぬ自分の心ゆえなのだ>>
力車とは人の力で引く車のことです。その車7台に草を満載したものを引くほど,苦しい恋をしている自分が情けない,といった思いから詠んだ短歌でしょうか。この短歌の車7台を意味する七車を恋の苦しさにたとえる表現方法は,後の短歌に影響を与え後世の歌人が七車という言葉を短歌に使っているようです。万葉集では後世の和歌作成で参考にされるような,いろんなたとえで恋の苦しさを表現している和歌がたくさんありますが,これもその1首ですね。
さて,もう1首長歌の後半の一部を紹介します。作者は同長歌の題詞によると竹取翁と呼ばれていた老人となっています。有名な「竹取物語」の竹取の翁との関係は私にはわかりませんが,内容は直接的に関係はなく,竹取の翁の物語は当時いろいろなストーリがあったのかもしれません。
~ いにしへ ささきし我れや はしきやし 今日やも子らに いさとや 思はえてある かくのごと 所為故為 いにしへの 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 老人を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり(16-3791)
<~ いにしへ ささきしわれや はしきやし けふやもこらに いさとや おもはえてある かくのごと しこになりけむ いにしへの さかしきひとも のちのよの かがみにせむと おいひとを おくりしくるま もちかへりけり もちかへりけり>
<<~ 昔(若いころ)はしゃいでいた私だけど,今は若いあなた方に嫌な老人だと思はれているでしょう。どうしてこんなに醜くなったのでしょうか。昔の賢人も後世の人のために,老人を乗せていった車を持ちかえってきたとさ>>
若い娘たちに「今は醜い老人である私も若いころは非常にカッコ良かったのだよ。君たちもいずれ老人になり,若い人から醜い婆さんだと言われることになるよ」と,若い人には老人を大切にすることを諭した教育的な長歌だと思われます。
<老人を乗せる車>
最後に出てくる老人を送る車は,今の車いすのような目的のものではなかったかと私は想像します。ただ,形は,足の不自由な老人を神社や寺院に連れて行ったり,買い物に連れて行ったりするための一人用の車(介護者が引いたり,押したりするもの)があったのではないかと私は思います。
老人を介護する車を後世に残して,老人を大切にしていた記録とすることが賢人によって古来行われてきたと娘たちに伝えたい,そんな教育的意図がこの長歌のまとめとなっているようです。
ところで,古代の車輪の発明により,現代はますますその恩恵に与かっています。車輪がなければ,さまざまな種類の自動車,新幹線を含む鉄道,飛行機(ヘリコプターを除く)は機能しません。また,各種工場の加工過程(ライン)間をつなぐコンベアも車輪がなければ動きません。今の私たちは,自らが受けている車輪の恩恵を改めて感じる必要があると思います。
さて,万葉時代,今のようにヒトを運ぶ車はまだ少なく,載せるものはやはり荷物だったと想像できます。次回はその「荷(に)」を万葉集で見ていきます。
今もあるシリーズ「荷(に)」に続く。
万葉時代,日本の各地に国分寺や国府が作られ,京(みやこ)と地方で道や街道を経由して多くの物資が行きかうようになります。
人が籠(かご)などを担いで持って行ける量は限らけれているため,大量輸送のニーズが高まると人ひとりの力より多くの荷物を輸送するため,何らかの工夫が必要になります。たとえば,馬の背中に荷物を載せるようにすると,100㎏以上の荷物を載せても馬は何時間でも難なく運びます。
ただし,馬は所有するなら厩(うまや)を用意する必要があり(自動車の駐車場と同じ),エサも与えなければなりません。当時として手軽に利用できるものではありません。
<車輪を持つ貨車のニーズ>
そうすると,人間の力で担ぐのではなく,引いたり押したりしてスムーズに動いてに重い荷物を運べる道具が必要になります。それが荷車や人が乗る車台です。
ところで,車という字があてられるのは,車輪がついているからです。車輪は紀元前2千年頃には中国で使われていたらしく,万葉時代には中国から車輪の製造技術は日本に入っており,車輪のついた車が高価ではあるけれども品質の優れたものが使われていたものと私は考えます。
直後の平安時代になると,平安絵巻に出てくる牛車(ぎっしゃ)のように,乗り心地がよさそうで,美しく飾り立てられた車ができていたほどですからね。
さて,万葉集で車を詠んだ歌はそう多くありません。まずは穂積皇子(ほづみのみこ)の孫である廣河女王(ひろかはのおほきみ)が詠んだとされる短歌からです。
恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から(4-694)
<こひくさをちからくるまに ななくるまつみてこふらく わがこころから>
<<恋という草を力車七つ分積むほど恋しく思うのは,ほかならぬ自分の心ゆえなのだ>>
力車とは人の力で引く車のことです。その車7台に草を満載したものを引くほど,苦しい恋をしている自分が情けない,といった思いから詠んだ短歌でしょうか。この短歌の車7台を意味する七車を恋の苦しさにたとえる表現方法は,後の短歌に影響を与え後世の歌人が七車という言葉を短歌に使っているようです。万葉集では後世の和歌作成で参考にされるような,いろんなたとえで恋の苦しさを表現している和歌がたくさんありますが,これもその1首ですね。
さて,もう1首長歌の後半の一部を紹介します。作者は同長歌の題詞によると竹取翁と呼ばれていた老人となっています。有名な「竹取物語」の竹取の翁との関係は私にはわかりませんが,内容は直接的に関係はなく,竹取の翁の物語は当時いろいろなストーリがあったのかもしれません。
~ いにしへ ささきし我れや はしきやし 今日やも子らに いさとや 思はえてある かくのごと 所為故為 いにしへの 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 老人を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり(16-3791)
<~ いにしへ ささきしわれや はしきやし けふやもこらに いさとや おもはえてある かくのごと しこになりけむ いにしへの さかしきひとも のちのよの かがみにせむと おいひとを おくりしくるま もちかへりけり もちかへりけり>
<<~ 昔(若いころ)はしゃいでいた私だけど,今は若いあなた方に嫌な老人だと思はれているでしょう。どうしてこんなに醜くなったのでしょうか。昔の賢人も後世の人のために,老人を乗せていった車を持ちかえってきたとさ>>
若い娘たちに「今は醜い老人である私も若いころは非常にカッコ良かったのだよ。君たちもいずれ老人になり,若い人から醜い婆さんだと言われることになるよ」と,若い人には老人を大切にすることを諭した教育的な長歌だと思われます。
<老人を乗せる車>
最後に出てくる老人を送る車は,今の車いすのような目的のものではなかったかと私は想像します。ただ,形は,足の不自由な老人を神社や寺院に連れて行ったり,買い物に連れて行ったりするための一人用の車(介護者が引いたり,押したりするもの)があったのではないかと私は思います。
老人を介護する車を後世に残して,老人を大切にしていた記録とすることが賢人によって古来行われてきたと娘たちに伝えたい,そんな教育的意図がこの長歌のまとめとなっているようです。
ところで,古代の車輪の発明により,現代はますますその恩恵に与かっています。車輪がなければ,さまざまな種類の自動車,新幹線を含む鉄道,飛行機(ヘリコプターを除く)は機能しません。また,各種工場の加工過程(ライン)間をつなぐコンベアも車輪がなければ動きません。今の私たちは,自らが受けている車輪の恩恵を改めて感じる必要があると思います。
さて,万葉時代,今のようにヒトを運ぶ車はまだ少なく,載せるものはやはり荷物だったと想像できます。次回はその「荷(に)」を万葉集で見ていきます。
今もあるシリーズ「荷(に)」に続く。
2013年1月11日金曜日
今もあるシリーズ「市(いち)」
正月も終わり,各地で特色のある初市が行われています。
これから実施される初市をインターネットで探してみると次のようなもの(旧正月後の初市も含む)が見つかりました。
いせさき初市(11日),宇都宮初市(11日),喜多方初市(12日,17日),小山初市(14日),東根初市(17日),館林初市(18日),島原初市(3月3日~10日),宇土初市(3月7日,8日),甲佐初市(3月9日,10日)等々です。
このように,年明けの初めての市は1年の商売繁盛や無病息災を願う意味も含め,今も各地で結構盛大に行われているようです。
さて,万葉集にも市を詠んだ和歌が何首か出てきます。以前,このブログでも紹介したように,平城京には西の市と東の市があったことが,万葉集の和歌にも出てきます(3-284,7-1264)。
万葉集に出てくるそのほかの有名な市として海石榴市(つばいち)があります。今回は海石榴市を詠んだ短歌から,当時の市をイメージしていきたいと思います。
まず,柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの1首です。
海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(12-2951)
<つばいちのやそのちまたにたちならし むすびしひもをとかまくをしも>
<<海石榴市のいくつもの分かれ道で地をならし,結び合った紐を解いてしまうのは惜しいな>>
海石榴市は,今の奈良県桜井市にあったとされています。平城京より南方で明日香に近い場所です。その場所は平城京からくる街道,伊勢へ行く街道,吉野へ行く街道,難波(なには)に行く街道などが集まる場所だったようです。そのため,さまざまな街道や脇道の分かれ道と分かれ道に街ができ,当時八十の街(やそのちまた)と呼ばれていたようです。
<海石榴市は出会いの場でもあった?>
各地の物産を売るさまざまな店が現れ,買い手,売り子,品物の運送担当者など多くの人(特に若い人)が集まる最新のファッションタウンだったと思われます。人が集まれば,お腹も空くでしょうから,各地の珍しい食べ物やお酒を提供する飲食店も多数あったに違いありません。
それがまた多くの人を呼び,特に平城京の家族や恋人たちが1日がかりで買い物になどにお出かけする絶好の観光スポットになっていたのでしょう。当然,若い人たちの出会いや待ち合わせの場所になり,いろんな分かれ道にある○○という店で会ってデートしようということが頻繁に行われたとすると,この短歌の雰囲気が非常に伝わってきます。
そして,人でごった返していたとすると,離れ離れにならないよう,お互いを紐で結んでいたのかもしれませんね。
次の2首も海石榴市を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ(12-3101)
<むらさきははひさすものぞ つばいちのやそのちまたに あへるこやたれ>
<<紫草の煮汁に灰を入れた時のようにきれいだね。この海石榴市の多くの街かどでよく見かける君の名をしりたいな?>>
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(12-3102)
<たらちねのははがよぶなをまをさめど みちゆくひとをたれとしりてか>
<<母が呼ぶ名はあるけれど,通りすがりの誰かは分からない人にはちょっとね~>>
まさに,繁華街でナンパしたけど断られたという情景ですね。ただ,実際にこういうことがあったというより,プロの短歌作者が作り,男と女がデュエットで詠う流行歌だったかもしれませんね(当時カラオケはないですが)。
海石榴市などの大きな市では,今も各地で行われているような歩行者天国や地域産物やのど自慢のコンテストのようなイベントが行われていたのかもしれません。そういった若い男女が集まって,のど自慢をするイベントの一つに歌垣(うたがき)があったのでしょう。
今もあるシリーズ「車(くるま)」に続く。
これから実施される初市をインターネットで探してみると次のようなもの(旧正月後の初市も含む)が見つかりました。
いせさき初市(11日),宇都宮初市(11日),喜多方初市(12日,17日),小山初市(14日),東根初市(17日),館林初市(18日),島原初市(3月3日~10日),宇土初市(3月7日,8日),甲佐初市(3月9日,10日)等々です。
このように,年明けの初めての市は1年の商売繁盛や無病息災を願う意味も含め,今も各地で結構盛大に行われているようです。
さて,万葉集にも市を詠んだ和歌が何首か出てきます。以前,このブログでも紹介したように,平城京には西の市と東の市があったことが,万葉集の和歌にも出てきます(3-284,7-1264)。
万葉集に出てくるそのほかの有名な市として海石榴市(つばいち)があります。今回は海石榴市を詠んだ短歌から,当時の市をイメージしていきたいと思います。
まず,柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの1首です。
海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(12-2951)
<つばいちのやそのちまたにたちならし むすびしひもをとかまくをしも>
<<海石榴市のいくつもの分かれ道で地をならし,結び合った紐を解いてしまうのは惜しいな>>
海石榴市は,今の奈良県桜井市にあったとされています。平城京より南方で明日香に近い場所です。その場所は平城京からくる街道,伊勢へ行く街道,吉野へ行く街道,難波(なには)に行く街道などが集まる場所だったようです。そのため,さまざまな街道や脇道の分かれ道と分かれ道に街ができ,当時八十の街(やそのちまた)と呼ばれていたようです。
<海石榴市は出会いの場でもあった?>
各地の物産を売るさまざまな店が現れ,買い手,売り子,品物の運送担当者など多くの人(特に若い人)が集まる最新のファッションタウンだったと思われます。人が集まれば,お腹も空くでしょうから,各地の珍しい食べ物やお酒を提供する飲食店も多数あったに違いありません。
それがまた多くの人を呼び,特に平城京の家族や恋人たちが1日がかりで買い物になどにお出かけする絶好の観光スポットになっていたのでしょう。当然,若い人たちの出会いや待ち合わせの場所になり,いろんな分かれ道にある○○という店で会ってデートしようということが頻繁に行われたとすると,この短歌の雰囲気が非常に伝わってきます。
そして,人でごった返していたとすると,離れ離れにならないよう,お互いを紐で結んでいたのかもしれませんね。
次の2首も海石榴市を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ(12-3101)
<むらさきははひさすものぞ つばいちのやそのちまたに あへるこやたれ>
<<紫草の煮汁に灰を入れた時のようにきれいだね。この海石榴市の多くの街かどでよく見かける君の名をしりたいな?>>
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(12-3102)
<たらちねのははがよぶなをまをさめど みちゆくひとをたれとしりてか>
<<母が呼ぶ名はあるけれど,通りすがりの誰かは分からない人にはちょっとね~>>
まさに,繁華街でナンパしたけど断られたという情景ですね。ただ,実際にこういうことがあったというより,プロの短歌作者が作り,男と女がデュエットで詠う流行歌だったかもしれませんね(当時カラオケはないですが)。
海石榴市などの大きな市では,今も各地で行われているような歩行者天国や地域産物やのど自慢のコンテストのようなイベントが行われていたのかもしれません。そういった若い男女が集まって,のど自慢をするイベントの一つに歌垣(うたがき)があったのでしょう。
今もあるシリーズ「車(くるま)」に続く。
2013年1月5日土曜日
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(4:まとめ)」
昨日は会社に出ていてアップてきませんでした。そろそろお正月気分も抜けてきましたので,本シリーズは今回で終わり,次回から「今もあるシリーズ」に戻ります。
さて,万葉集の新春の和歌を完全踏破すると初回に書きましたが,新春の和歌は万葉集でたくさんあります。残った和歌は来年に回しますが,残りの多くは「梅」や「鶯」を詠んだものです。新暦の正月はさすがに両方とも早いので,今回はパスしました。「梅は花屋さんでもう売っているぞ」とお怒りの方ごめんなさい。
今回は本シリーズの最後として3首の短歌を紹介します。
これは天平勝宝6年1月4日に大伴家持(当時36歳)邸で行われた正月の宴で左兵衛督(さひやうゑのかみ)大伴千室(ちむろ),民部少丞(みんぶのしやうじょう)大伴村上(むらかみ),左京少進(さきやうのせうしん),大伴池主(いけぬし)が詠んだ短歌です。
家持は越中国主を無事終え,少納言に昇進していました。政治は橘諸兄の力が陰り始め,藤原仲麻呂の台頭が著しい時期です。仲麻呂は大伴氏をはじめとする諸兄派を衰退させようと策略を駆使してきます。
そんな時期に,大伴氏の各部署(軍部,民部,京職)にいる中堅官僚たちが家持邸に集まった訳ですから,どんな和歌を詠むか興味が尽きません。私は単なる賀春の歌ではないとにらみます。
まず,千室の短歌からです。
霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く(20-4298)
<しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく>
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります,何年も>>
軍部に属していることもあるかも知れませんが,ちょっと悲壮感が漂いますね。それだけ,大伴氏の置かれている厳しい状況が伝わってきます。そんなときこそ大納言であった旅人の息子のリーダ格家持を中心に団結しようという千室決意を私は感じます。
次は,村上の短歌です。
年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも(20-4299)
<としつきはあらたあらたに あひみれどあがもふきみは あきだらぬかも>
<<年月は1年1年新たになり,こうして新年に繰り返しご挨拶しても私が大切に思う家持殿にはずっとお会いしたい気持ちはなくなりません>>
村上も家持の下での忠臣を誓います。
そして,最後は越中で家持が国主として赴任した最初頃,判官である掾(じやう)として一緒にいた池主の登場です。
霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ(20-4300)
<かすみたつはるのはじめを けふのごとみむとおもへば たのしとぞもふ>
<<霞立つ初春に今日のようにご挨拶できると思えば楽しく思います>>
恐らく池主は千室,村上よりも年上で,家持の立場と気持ちを一番理解している人物だったと私は思います。越中では家持と多くの和歌を詠んだ仲ですから。
「まあまあ抑えて抑えて」と冷静な対応で進もうという池主の気持ちだったのでしょう。ただ,大伴氏や家持を守るためには命を賭しても構わないという秘めたる気持ちは家持の盟友池主が一番だったと私は思います。
これに対して家持は主人としての返歌を万葉集に残していません。普通なら残すはずです。詠ったけれど残さなかったのか,詠わず自分の意思を示さなかったのか,謎は尽きません。
私は詠ったけれど残さなかった方に掛けます。その残されなかった短歌が,3年後に勃発する橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)の乱でこの中の何人が命を落とすことを防ぐことができなかったことがあったかもしれないからです。
家持は,その乱以降は様々な宴(藤原仲麻呂が主導した宴?)の歌を万葉集に残します。
乱の翌年7月,今度は家持が因幡国主として京を離れ,翌年元旦に本シリーズの冒頭に示したいろいろな思い(祈り)を込めた初春の短歌(20-4516)を最後に和歌の記録を閉じるのです。
今もあるシリーズ「市(いち)」に続く。
さて,万葉集の新春の和歌を完全踏破すると初回に書きましたが,新春の和歌は万葉集でたくさんあります。残った和歌は来年に回しますが,残りの多くは「梅」や「鶯」を詠んだものです。新暦の正月はさすがに両方とも早いので,今回はパスしました。「梅は花屋さんでもう売っているぞ」とお怒りの方ごめんなさい。
今回は本シリーズの最後として3首の短歌を紹介します。
これは天平勝宝6年1月4日に大伴家持(当時36歳)邸で行われた正月の宴で左兵衛督(さひやうゑのかみ)大伴千室(ちむろ),民部少丞(みんぶのしやうじょう)大伴村上(むらかみ),左京少進(さきやうのせうしん),大伴池主(いけぬし)が詠んだ短歌です。
家持は越中国主を無事終え,少納言に昇進していました。政治は橘諸兄の力が陰り始め,藤原仲麻呂の台頭が著しい時期です。仲麻呂は大伴氏をはじめとする諸兄派を衰退させようと策略を駆使してきます。
そんな時期に,大伴氏の各部署(軍部,民部,京職)にいる中堅官僚たちが家持邸に集まった訳ですから,どんな和歌を詠むか興味が尽きません。私は単なる賀春の歌ではないとにらみます。
まず,千室の短歌からです。
霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く(20-4298)
<しものうへにあられたばしり いやましにあれはまゐこむ としのをながく>
<<霜の上に霰が飛び散るとき,これまで増して私は家持殿のところに参ります,何年も>>
軍部に属していることもあるかも知れませんが,ちょっと悲壮感が漂いますね。それだけ,大伴氏の置かれている厳しい状況が伝わってきます。そんなときこそ大納言であった旅人の息子のリーダ格家持を中心に団結しようという千室決意を私は感じます。
次は,村上の短歌です。
年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも(20-4299)
<としつきはあらたあらたに あひみれどあがもふきみは あきだらぬかも>
<<年月は1年1年新たになり,こうして新年に繰り返しご挨拶しても私が大切に思う家持殿にはずっとお会いしたい気持ちはなくなりません>>
村上も家持の下での忠臣を誓います。
そして,最後は越中で家持が国主として赴任した最初頃,判官である掾(じやう)として一緒にいた池主の登場です。
霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ(20-4300)
<かすみたつはるのはじめを けふのごとみむとおもへば たのしとぞもふ>
<<霞立つ初春に今日のようにご挨拶できると思えば楽しく思います>>
恐らく池主は千室,村上よりも年上で,家持の立場と気持ちを一番理解している人物だったと私は思います。越中では家持と多くの和歌を詠んだ仲ですから。
「まあまあ抑えて抑えて」と冷静な対応で進もうという池主の気持ちだったのでしょう。ただ,大伴氏や家持を守るためには命を賭しても構わないという秘めたる気持ちは家持の盟友池主が一番だったと私は思います。
これに対して家持は主人としての返歌を万葉集に残していません。普通なら残すはずです。詠ったけれど残さなかったのか,詠わず自分の意思を示さなかったのか,謎は尽きません。
私は詠ったけれど残さなかった方に掛けます。その残されなかった短歌が,3年後に勃発する橘奈良麻呂(橘諸兄の息子)の乱でこの中の何人が命を落とすことを防ぐことができなかったことがあったかもしれないからです。
家持は,その乱以降は様々な宴(藤原仲麻呂が主導した宴?)の歌を万葉集に残します。
乱の翌年7月,今度は家持が因幡国主として京を離れ,翌年元旦に本シリーズの冒頭に示したいろいろな思い(祈り)を込めた初春の短歌(20-4516)を最後に和歌の記録を閉じるのです。
今もあるシリーズ「市(いち)」に続く。
2013年1月3日木曜日
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(3)」
あっという間に正月3が日も過ぎようとしています。それでは,さっそく万葉集新春の和歌の3回目に入ります。
今回は,天平16(744)年の1月5日と11日に詠まれた短歌を紹介しましょう。どれも元旦から少し過ぎていますが,新年の祝いの歌です。
我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ(6-1041)
<わがやどの きみまつのきにふるゆきの ゆきにはゆかじまちにしまたむ>
<<私の家の貴殿を待つ松の木に降る雪ですが,私は雪のように行くのではなく,松の木ように貴殿をずっとお待ちしましょう>>
この短歌は,久邇(くに)京(恭仁京とも書く)にある安倍虫麻呂(あべのむしまろ)邸で開かれた宴席の出席者のひとりが詠んだとあります。
松は古来長寿を象徴する木として尊ばれていたようで,新年の縁起の良い木として和歌でもよく詠まれるようです。今回はこの宴にお招きを受けたので,次はぜひ自分の家に来てくださることをお待ちしていますといった背景で詠まれた短歌でしょうか。
久邇京は新しく作られた都ですから,きっと住んでいる人の家や庭はみな新しく,きれいだったと私は想像します。自分の家や庭を見せたかったのかもしれませんね。
次の2首は1月11日に詠まれたとされているやはり松を詠んだ短歌です。
一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも(6-1042)
<ひとつまついくよかへぬる ふくかぜのおとのきよきは としふかみかも>
<<一本松よ,何世代を経たのか。吹く風の音が清らかなのは齢を重ねて来たからなのだろう>>
この短歌は市原王(いちはらのおほきみ)が久邇京の活道(いくぢ)の岡に登って一株の松の下(もと)に集い,宴を開いたときに詠んだとされています。季節はまだ寒い時期ですからさすがに野外で宴をしたとは考えにくいので,一本松が見える近くの館で行ったのでしょう。
松の老木を題材にしていますが,出席者の中には年配の主賓がいて,その人を意識して詠んだのかもしれません。なお,一説には安積親王(当時:16歳)の長寿を願ってという説もあるようですが,この宴と安積親王無関係だろうと私は考えています。風の音が清いという喩えで,年を重ねるごとに尊敬の念が高くなるお人柄になっていかれると持ち上げているように私には感じ取れます。
次に同じ宴席にいた大伴家持(当時:26歳)が続けます。
たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(6-1043)
<たまきはるいのちはしらず まつがえをむすぶこころは ながくとぞおもふ>
<<この一本松の命の長さは不明ですが,松の枝を結ぶ心は長く続いて欲しいと思います>>
当時,松の枝を結ぶまじないは,(命,恋人の関係,幸せなどが)長い間続くことを願う場合にしたようです。
ただ,万葉人は命も,幸せなことも,ときめく恋もいつまでも続かないことを知っていたと私は思います。だからこそ,万葉人は祈るのです。願うのです。
<祈るとは>
人がどうにもならないことを知ったとき,祈ることが必要だと私は思います。祈ることができない人は,うまくいかないことを他人のせいにしたり,自分のせいにしたりして,自分も含めた人間嫌いになる方向に向ってしまう気がします。
他人のせいでも,自分のせいでもないことが世の中にはある。それを「運」と呼ぶことにすると,「運」は確率的な事象といえます。良い運がより多くなるように,そして悪い運がよく少なくなるよう努力する。それでも悪い運が発生する確率をゼロにすることはできないのです。逆に,運悪く悪い出来事が続いても,次も悪い事象が来る確率は1(必ず悪い事象が発生する)ではないのです。
祈るとは,良い運がより多くなるよう努力し,その結果がその通りなってほしい(そうならない可能性がゼロではないから)と願うことだと私は思います。祈っても叶うとは限らないから祈らないのではなく,叶わないことがあるからこそ自分のもつ潜在的パワーの可能性を信じて祈るのです。すべてのことが完全に予測できる(運という言葉が死語になる)まで祈りは必要だと私は考えます。
さて,天の川君がこのブログで予測不可能な変な割り込みを入れないことを祈りますか。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(4)」に続く。
今回は,天平16(744)年の1月5日と11日に詠まれた短歌を紹介しましょう。どれも元旦から少し過ぎていますが,新年の祝いの歌です。
我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ(6-1041)
<わがやどの きみまつのきにふるゆきの ゆきにはゆかじまちにしまたむ>
<<私の家の貴殿を待つ松の木に降る雪ですが,私は雪のように行くのではなく,松の木ように貴殿をずっとお待ちしましょう>>
この短歌は,久邇(くに)京(恭仁京とも書く)にある安倍虫麻呂(あべのむしまろ)邸で開かれた宴席の出席者のひとりが詠んだとあります。
松は古来長寿を象徴する木として尊ばれていたようで,新年の縁起の良い木として和歌でもよく詠まれるようです。今回はこの宴にお招きを受けたので,次はぜひ自分の家に来てくださることをお待ちしていますといった背景で詠まれた短歌でしょうか。
久邇京は新しく作られた都ですから,きっと住んでいる人の家や庭はみな新しく,きれいだったと私は想像します。自分の家や庭を見せたかったのかもしれませんね。
次の2首は1月11日に詠まれたとされているやはり松を詠んだ短歌です。
一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも(6-1042)
<ひとつまついくよかへぬる ふくかぜのおとのきよきは としふかみかも>
<<一本松よ,何世代を経たのか。吹く風の音が清らかなのは齢を重ねて来たからなのだろう>>
この短歌は市原王(いちはらのおほきみ)が久邇京の活道(いくぢ)の岡に登って一株の松の下(もと)に集い,宴を開いたときに詠んだとされています。季節はまだ寒い時期ですからさすがに野外で宴をしたとは考えにくいので,一本松が見える近くの館で行ったのでしょう。
松の老木を題材にしていますが,出席者の中には年配の主賓がいて,その人を意識して詠んだのかもしれません。なお,一説には安積親王(当時:16歳)の長寿を願ってという説もあるようですが,この宴と安積親王無関係だろうと私は考えています。風の音が清いという喩えで,年を重ねるごとに尊敬の念が高くなるお人柄になっていかれると持ち上げているように私には感じ取れます。
次に同じ宴席にいた大伴家持(当時:26歳)が続けます。
たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(6-1043)
<たまきはるいのちはしらず まつがえをむすぶこころは ながくとぞおもふ>
<<この一本松の命の長さは不明ですが,松の枝を結ぶ心は長く続いて欲しいと思います>>
当時,松の枝を結ぶまじないは,(命,恋人の関係,幸せなどが)長い間続くことを願う場合にしたようです。
ただ,万葉人は命も,幸せなことも,ときめく恋もいつまでも続かないことを知っていたと私は思います。だからこそ,万葉人は祈るのです。願うのです。
<祈るとは>
人がどうにもならないことを知ったとき,祈ることが必要だと私は思います。祈ることができない人は,うまくいかないことを他人のせいにしたり,自分のせいにしたりして,自分も含めた人間嫌いになる方向に向ってしまう気がします。
他人のせいでも,自分のせいでもないことが世の中にはある。それを「運」と呼ぶことにすると,「運」は確率的な事象といえます。良い運がより多くなるように,そして悪い運がよく少なくなるよう努力する。それでも悪い運が発生する確率をゼロにすることはできないのです。逆に,運悪く悪い出来事が続いても,次も悪い事象が来る確率は1(必ず悪い事象が発生する)ではないのです。
祈るとは,良い運がより多くなるよう努力し,その結果がその通りなってほしい(そうならない可能性がゼロではないから)と願うことだと私は思います。祈っても叶うとは限らないから祈らないのではなく,叶わないことがあるからこそ自分のもつ潜在的パワーの可能性を信じて祈るのです。すべてのことが完全に予測できる(運という言葉が死語になる)まで祈りは必要だと私は考えます。
さて,天の川君がこのブログで予測不可能な変な割り込みを入れないことを祈りますか。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(4)」に続く。
2013年1月2日水曜日
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(2)」
元旦にアップした昨日の「万葉集:新春の和歌(1)」には,さっそく多くのアクセスがありました。ありがたいことです。
さて,大伴家持は,前回紹介した以外に越中で何首か新春の短歌を詠んでいますので,紹介します。
家持着任3年半が立った天平勝宝2(750)年1月2日に,越中の諸郡司を集めた宴席で詠んだ新春の短歌からです。
あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ(18-4136)
<あしひきのやまのこぬれの ほよとりてかざしつらくは ちとせほくとぞ>
<<山の木の梢に生えている寄生木を取って髪飾りにしたのは,お集まりの皆様の千年の長寿を願ってのことです>>
家持は頭に当時「ほよ」よばれていた寄生木(ヤドリギ)の枝を頭に挿して現れたのでしょう。参加者は奇抜な家持の姿に驚いたところで,この短歌を詠んだと私は想像します。いつもと同じ格好では,聞く方も義務的になります。こんな演出も越中の郡司達にはウケたのかも知れませんね。
次は,同年1月5日に,越中国主家持の片腕である越中掾(じょう:判官)の久米廣縄(くめのひろなは)の館で開催された宴で家持が詠んだ短歌です。
正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも(18-4137)
<むつきたつはるのはじめに かくしつつあひしゑみてば ときじけめやも>
<< 正月の春の初め,このように共に笑い合えば,いつも良い気持ちになれるでしょう>>
万葉時代の役人は新年会を楽しみにしていたのですね。私も会社が始まったら,すぐ新年会を提案してみることにしましょう。
次は翌年の天平勝宝3(751)年1月3日に越中国府の介(すけ:次官)の内蔵縄麻呂(くらのなはまろ)の館で開催された宴に到着した家持が詠んだ1首です。
降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(18-4230)
<ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに>
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>
家持は到着が少し遅れたのでしょう。言い訳がましい内容です。
そして,その宴会は夜通し行われたのでしょうか。鶏がしきりに鳴き始めました。そこで,家持がそろそろ失礼したいとでも言ったのでしょう。主人の縄麻呂は「大雪ですから」と引き留める短歌を詠みます。
それに対して家持は即座に了解の返歌をします。
鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ我が立ちかてね(18-4234)
<なくとりはいやしきなけど ふるゆきのちへにつめこそ わがたちかてね>
<<鳴いている鶏はいっそう頻りに鳴くけれど,降り続く雪が千重(数が多く)に積もるので私たちは立ち去れないですね>>
いいですね。呑みつづける言い訳を見つけては宴を続けられることができるなんてね。
ただ,厨房で縄麻呂の奥さんや使いの人たちは「早く終わらないかな~」と首を長くしている様子が想像できますね。
今,東北の日本海側では暴風雪警報が出ているところがあるようです。その地域にお住みの方は外に出ず,家でお酒を飲んでいる方が安心かもしれませんね。ただ,正月だからと言って呑みすぎないように気を付けてください。ご家族にかなり迷惑を掛けていることも考えられますから。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(3)」に続く。
さて,大伴家持は,前回紹介した以外に越中で何首か新春の短歌を詠んでいますので,紹介します。
家持着任3年半が立った天平勝宝2(750)年1月2日に,越中の諸郡司を集めた宴席で詠んだ新春の短歌からです。
あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ(18-4136)
<あしひきのやまのこぬれの ほよとりてかざしつらくは ちとせほくとぞ>
<<山の木の梢に生えている寄生木を取って髪飾りにしたのは,お集まりの皆様の千年の長寿を願ってのことです>>
家持は頭に当時「ほよ」よばれていた寄生木(ヤドリギ)の枝を頭に挿して現れたのでしょう。参加者は奇抜な家持の姿に驚いたところで,この短歌を詠んだと私は想像します。いつもと同じ格好では,聞く方も義務的になります。こんな演出も越中の郡司達にはウケたのかも知れませんね。
次は,同年1月5日に,越中国主家持の片腕である越中掾(じょう:判官)の久米廣縄(くめのひろなは)の館で開催された宴で家持が詠んだ短歌です。
正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも(18-4137)
<むつきたつはるのはじめに かくしつつあひしゑみてば ときじけめやも>
<< 正月の春の初め,このように共に笑い合えば,いつも良い気持ちになれるでしょう>>
万葉時代の役人は新年会を楽しみにしていたのですね。私も会社が始まったら,すぐ新年会を提案してみることにしましょう。
次は翌年の天平勝宝3(751)年1月3日に越中国府の介(すけ:次官)の内蔵縄麻呂(くらのなはまろ)の館で開催された宴に到着した家持が詠んだ1首です。
降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに(18-4230)
<ふるゆきをこしになづみて まゐてこししるしもあるか としのはじめに>
<<降り積もった雪に腰までうずまりながら参上した甲斐がきっとあるでしょう,年の初めに>>
家持は到着が少し遅れたのでしょう。言い訳がましい内容です。
そして,その宴会は夜通し行われたのでしょうか。鶏がしきりに鳴き始めました。そこで,家持がそろそろ失礼したいとでも言ったのでしょう。主人の縄麻呂は「大雪ですから」と引き留める短歌を詠みます。
それに対して家持は即座に了解の返歌をします。
鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ我が立ちかてね(18-4234)
<なくとりはいやしきなけど ふるゆきのちへにつめこそ わがたちかてね>
<<鳴いている鶏はいっそう頻りに鳴くけれど,降り続く雪が千重(数が多く)に積もるので私たちは立ち去れないですね>>
いいですね。呑みつづける言い訳を見つけては宴を続けられることができるなんてね。
ただ,厨房で縄麻呂の奥さんや使いの人たちは「早く終わらないかな~」と首を長くしている様子が想像できますね。
今,東北の日本海側では暴風雪警報が出ているところがあるようです。その地域にお住みの方は外に出ず,家でお酒を飲んでいる方が安心かもしれませんね。ただ,正月だからと言って呑みすぎないように気を付けてください。ご家族にかなり迷惑を掛けていることも考えられますから。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(3)」に続く。
2013年1月1日火曜日
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」
みなさん,新春のお慶びを申し上げます。本年もこのブログを継続してアップしていきます。よろしくお願いいたします。
万葉集には新春の短歌が何首かありますが,今までほとんど取り上げてきませんでした。お正月のスペシャルとして万葉集新春の歌完全踏破と行きましょうか。
まずは,万葉集で新年の歌と言えば,万葉集最後の和歌である,天平宝字(759)3年元旦大伴家持(当時41歳)が詠んだ次の短歌でしょう。
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(20-4516)
<あらたしき としのはじめのはつはるの けふふるゆきのいやしけよごと>
<<新年の始めである初春の今日,降っている雪のようにたくさん積み重なってほしい,よいことが>>
この短歌に対しては,新しい年になり,真っ白な新雪が降り積もっている様子から「今年は本当に良い年にしよう」という前向きな意図を私は感じたいです。私も吉事がいっぱいあるように,体調管理を徹底し,やるべきことをしっかりこなしていきたいと考えています。
時代はさかのぼりますが,次は天平勝宝3(751)年正月に同じ家持(当時33歳)が越中で詠んだ新年の短歌です。
新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが(19-4229)
<あらたしきとしのはじめは いやとしにゆきふみならし つねかくにもが>
<<新しい年の初めは毎年雪を踏みならして(人が集まるよう)、いつもそうしたいものだ>>
越中赴任4年半となり(この年平城京に帰任),土地の人たちとも仲良くなり,正月には多くの人が越中の家持邸を訪れたに違いがありません。精神的にも越中の風土が彼にあったのか,多くの和歌を詠んでいます。そんな家持の気持ちの上の安定感を感じさせる1首です。
さらに時代はさかのぼりますが,天平18(746)年に葛井諸会(ふぢゐのもろあひ)もう1首新年の歌を紹介します。
新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは(17-3925)
<あらたしきとしのはじめに とよのとししるすとならし ゆきのふれるは>
<<新しい年の初めに豊かな実りの予兆なのでしょう。こんなに雪が降ったのは>>
この短歌は元正太上天皇が橘諸兄や藤原仲麻呂とそれぞれの配下の人たちを集めて正月に宴を開いたとき,太上天皇が前日降った大雪について参加者の若手に詠むよう促したことに対し,参加者の一人諸会が詠んだものです。
実は,この席に家持(当時28歳)もいて,同様に次の短歌を詠んでいます。
大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも(17-3926)
<おほみやのうちにもとにも ひかるまでふれるしらゆき みれどあかぬかも>
<<大宮の内も外も白く光るまで降った白雪はいつまでも見飽きないものです>>
この短歌,少し突っ込みどころがあります。「大宮の内・外は光っていない(政治は腐敗し,民衆は清潔な暮らしができていない)。白雪はそれを隠してくれているだけ」と藤原仲麻呂あたりから体制を批判している歌だと指摘をされたらどうでしょう。この半年後,家持は越中に飛ばされることになります(この短歌が原因かどうかはわかりませんが,雪深い越中に)。
天の川 「そうやな。口は災いの素やさかい。たびとはんこそ,ちゃんと気を付けなはれや。うぃ~っ。お屠蘇もう一杯!」
もう10杯以上呑んでいるくせに,突っ込みどころだけは分かっている天の川君には今年も悩まされそうです。まったく。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(2)」に続く。
万葉集には新春の短歌が何首かありますが,今までほとんど取り上げてきませんでした。お正月のスペシャルとして万葉集新春の歌完全踏破と行きましょうか。
まずは,万葉集で新年の歌と言えば,万葉集最後の和歌である,天平宝字(759)3年元旦大伴家持(当時41歳)が詠んだ次の短歌でしょう。
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(20-4516)
<あらたしき としのはじめのはつはるの けふふるゆきのいやしけよごと>
<<新年の始めである初春の今日,降っている雪のようにたくさん積み重なってほしい,よいことが>>
この短歌に対しては,新しい年になり,真っ白な新雪が降り積もっている様子から「今年は本当に良い年にしよう」という前向きな意図を私は感じたいです。私も吉事がいっぱいあるように,体調管理を徹底し,やるべきことをしっかりこなしていきたいと考えています。
時代はさかのぼりますが,次は天平勝宝3(751)年正月に同じ家持(当時33歳)が越中で詠んだ新年の短歌です。
新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが(19-4229)
<あらたしきとしのはじめは いやとしにゆきふみならし つねかくにもが>
<<新しい年の初めは毎年雪を踏みならして(人が集まるよう)、いつもそうしたいものだ>>
越中赴任4年半となり(この年平城京に帰任),土地の人たちとも仲良くなり,正月には多くの人が越中の家持邸を訪れたに違いがありません。精神的にも越中の風土が彼にあったのか,多くの和歌を詠んでいます。そんな家持の気持ちの上の安定感を感じさせる1首です。
さらに時代はさかのぼりますが,天平18(746)年に葛井諸会(ふぢゐのもろあひ)もう1首新年の歌を紹介します。
新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは(17-3925)
<あらたしきとしのはじめに とよのとししるすとならし ゆきのふれるは>
<<新しい年の初めに豊かな実りの予兆なのでしょう。こんなに雪が降ったのは>>
この短歌は元正太上天皇が橘諸兄や藤原仲麻呂とそれぞれの配下の人たちを集めて正月に宴を開いたとき,太上天皇が前日降った大雪について参加者の若手に詠むよう促したことに対し,参加者の一人諸会が詠んだものです。
実は,この席に家持(当時28歳)もいて,同様に次の短歌を詠んでいます。
大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも(17-3926)
<おほみやのうちにもとにも ひかるまでふれるしらゆき みれどあかぬかも>
<<大宮の内も外も白く光るまで降った白雪はいつまでも見飽きないものです>>
この短歌,少し突っ込みどころがあります。「大宮の内・外は光っていない(政治は腐敗し,民衆は清潔な暮らしができていない)。白雪はそれを隠してくれているだけ」と藤原仲麻呂あたりから体制を批判している歌だと指摘をされたらどうでしょう。この半年後,家持は越中に飛ばされることになります(この短歌が原因かどうかはわかりませんが,雪深い越中に)。
天の川 「そうやな。口は災いの素やさかい。たびとはんこそ,ちゃんと気を付けなはれや。うぃ~っ。お屠蘇もう一杯!」
もう10杯以上呑んでいるくせに,突っ込みどころだけは分かっている天の川君には今年も悩まされそうです。まったく。
年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(2)」に続く。
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