今回は「末」の漢字を「うら」「うれ」と発音するケースについて万葉集を見ていきます。何かの末端(先のほう)や終端(終わりのほう)という意味です。
なお,万葉集でも「末」を今でも使う「すゑ」と発音する歌はたくさんあります。そのほか,「末」を「ぬれ」と発音する歌もあります。
その「末」の部分ですが,元の万葉仮名に「末」という漢字がすでに使われている歌も多くあります。
「すゑ」と読む発音する万葉集の歌は,万葉集の中でも比較的後ろの時代のもののようです。そのため,もしかしたら「すゑ」という発音は奈良時代に入ってから流行り出した言い方かも知れませんね。
「ぬれ」「すゑ」と発音する歌については,後の機会に触れることにして,今回は「う」で始まる「うら」「うれ」について紹介していきます。
最初の短歌は,今の季節を詠んだものです。
池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
<いけのへの まつのうらばにふるゆきは いほへふりしけあすさへもみむ>
<<庭園の池の脇に生えている松の葉先に降る雪は,幾重にも積もるといい,明日も見たい気持ちです>>
この短歌は,作者が未詳だが,阿部虫麻呂が宴席で披露したと左注に書かれています。
松は尖った葉が隙間をもって放射状に生えています。そのため,葉先に積もった雪は,外気のみにさらされ,ある部分が融けても,融けた水は下の落ち,他の雪をさらに融かしてしまうことがありません。雪がなかなか解けないので,その上に新たな雪が重なって積もってくことになります。
その雪が,明日まで残るだけでなく,さらにこれから幾重にもたくさん積もったものを見たいという気持ちを詠んだものだと私は考えます。
宴席のとき,外は雪が降ってきて,雪が積もることは良いことが重なるというイメージがあり,宴席参加者の幸(さち)多きを願って,披露したのだろうと想像ができます。
さらに想像を膨らませると阿部虫麻呂は宴席の司会のような役目だったとイメージしてしまいます。
さて,次も同じ季節で,やはり松が出てきます。家の外に出て詠んだものだと考えられます。
巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る(10-2314)
<まきむくの ひはらもいまだくもゐねば こまつがうれゆあわゆきながる>
<<巻向山の裾野のヒノキ原にはまだ雪を降らすような雲も見えないのに,近くの松の葉先に泡雪がどこからか漂っている>>
巻向山(567m)は三輪山(467m)の東に位置し,奈良盆地から見た場合,三輪山の奥に立つ山となります。作者は,奈良盆地ではなく初瀬街道の長谷寺がある付近にいて,この短歌を詠んだのかも知れません。
山は晴れてはっきり見えるけれど,雪がちらつくのは山に囲まれた地方では珍しくないと私は思うのですが,作者は京から来た都会人で,これを珍しいこととして詠んだと私は想像します。
特に松の葉は濃い緑なので,葉先の前を風に流されていく雪がはっきり見えたことに驚きを感じたと考えます。
最後は,少し早いですが,春の気配を感じさせる柳が出てくる女性が詠んだとされる東歌です。
恋しけば来ませ我が背子垣つ柳末摘み枯らし我れ立ち待たむ(14-3455)
<こひしけばきませわがせこ かきつやぎうれつみからし われたちまたむ>
<<そんなに恋しいなら,早く来て。垣根の柳の葉先を摘みとってしまうくらい私はじっと立ってお待ちしているのよ>>
柳は春になると枝の先を中心に新芽がたくさん芽吹きます。それを全部摘み取ってしまうくらい,長い時間待っている気持ちを知ってほしいと詠んだものでしょうか。
春になって,少しずつ温かくなり,移動も楽になってくると,待ちに待った彼との恋の季節が始まる期待があふれる乙女心を感じますね。
東歌の女性作の相聞歌は気持ちをストレートに表現する積極さがいいですね。
(続難読漢字シリーズ(4)につづく)
2018年1月8日月曜日
2018年1月6日土曜日
続難読漢字シリーズ(2)… 労(いたは)し
今回は,「労(いたは)し」について,万葉集の用例を見ていきます。
この言葉は,「残された子がいたわしい」という言葉が普通に使われているため,難読のレベルは低いと思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし,万葉時代で使われている意味は今と少し違っていたようです。
まず最初は山上憶良が詠んだとされる長歌の紹介です。
うちひさす宮へ上ると たらちしや母が手離れ 常知らぬ国の奥処を 百重山越えて過ぎ行き いつしかも都を見むと 思ひつつ語らひ居れど おのが身し労しければ 玉桙の道の隈廻に 草手折り柴取り敷きて 床じものうち臥い伏して 思ひつつ嘆き伏せらく 国にあらば父とり見まし 家にあらば母とり見まし 世間はかくのみならし 犬じもの道に伏してや命過ぎなむ(5-886)
<うちひさすみやへのぼると たらちしやははがてはなれ つねしらぬくにのおくかを ももへやまこえてすぎゆき いつしかもみやこをみむと おもひつつかたらひをれど おのがみしいたはしければ たまほこのみちのくまみに くさたをりしばとりしきて とこじものうちこいふして おもひつつなげきふせらく くににあらばちちとりみまし いへにあらばははとりみまし よのなかはかくのみならし いぬじものみちにふしてやいのちすぎなむ>
<<京へ行くため母のもとを離れ,知らなかった国の奥の方へと行って,幾重にも重った山を越えて,早く京を見ようと同行の人々と話し合っていたが,自分の体力が耐えられず,道の曲り角の土手の草を手折り,小枝を下に敷いて、それを床のようにして倒れ伏して,ため息をつき,いろいろ寢ながら考えたことは,生まれ故郷にいたら父が,家にいたら母が看病してくれる。しかし,世の中は思うようには行かないものだ。犬のように道端に伏して,最後は命が終わってしまうのだろう>>
この長歌は,京(みやこ)に向かったが,志半ばで路上に倒れてしまった人を見て,またはそれをイメージして,倒れた人の思いを想像して憶良が詠んだと考えられます。
この中に出てくる「おのが身し労しければ」は,倒れた旅人は最初集団で京を目指して移動したのだが,病気になったか,ケガをしたか,からだがひ弱だったのか,みんなに付いてくことができず,動けなくなってしまったのでしょう。
この場合の「労し」は「思うようにならない」という意味が近いのではないかと私は思います。
次も行き倒れ(ただし,溺死者)を詠んだ詠み人しらずの長歌です。
玉桙の道行く人は あしひきの山行き野行き にはたづみ川行き渡り 鯨魚取り海道に出でて 畏きや神の渡りは 吹く風ものどには吹かず 立つ波もおほには立たず とゐ波の塞ふる道を 誰が心労しとかも直渡りけむ直渡りけむ(13-3335)
<たまほこのみちゆくひとは あしひきのやまゆきのゆき にはたづみかはゆきわたり いさなとりうみぢにいでて かしこきやかみのわたりは ふくかぜものどにはふかず たつなみもおほにはたたず とゐなみのささふるみちを たがこころいたはしとかも ただわたりけむただわたりけむ>
<<旅する人は山を行き,野を行き,川を渡渡り,海路に出で,荒神がいる渡り場は,吹く風も激しく,立つ波も高く,しきりなくおし寄せる波が邪魔をする道を,誰のことがひどく気になったのか分からいが,無理に渡ってしまった>>
この長歌に出てくる「誰が心 労しとかも」は,誰かのことが非常に気になって冷静さを欠いた状況になったと私は解釈します。渡し場にいる人たちは,「無理だ」「渡れないから止めとけ」といったのを溺死した人は聞かなかったのでしょう。
最後は,大伴家持が天平勝宝2年5月6日に兎原娘子(うなひをとめ)の物語を題材に詠んだ長歌の一部です。
~ たまきはる命も捨てて 争ひに妻問ひしける 処女らが聞けば悲しさ 春花のにほえ栄えて 秋の葉のにほひに照れる 惜しき身の盛りすら 大夫の言労しみ ~(19-4211)
<~ たまきはるいのちもすてて あらそひにつまどひしける をとめらがきけばかなしさ はるはなのにほえさかえて あきのはのにほひにてれる あたらしきみのさかりすら ますらをのこといたはしみ ~>
<<~命さへも捨てて,(二人の男が)競って求婚した娘のことは聞くも哀れなことである。春の花のように美しく,秋の黄葉のような見事さをもった娘子は,(その二人の)男たちからの命を顧みない求愛の言葉をつらく感じて~>>
この長歌の後の部分では,兎原娘子は自らの惜しき命を絶ってしまったとあります。「丈夫の言労しみ」は,二人の男から言い寄られ,どうすればよいか分からない兎原娘子の気持ちの戸惑いを「労し」は表現していると感じます。
「労し」のようなの心理的な辛さを表す言葉は,時代やその背景となる状況の違い,感じる人の立場(今回はすべて当事者の気持ちを代弁する作者の立場)の違いなどで現代語に訳すと微妙にニュアンスが変化するようです。
(続難読漢字シリーズ(3)につづく)
この言葉は,「残された子がいたわしい」という言葉が普通に使われているため,難読のレベルは低いと思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし,万葉時代で使われている意味は今と少し違っていたようです。
まず最初は山上憶良が詠んだとされる長歌の紹介です。
うちひさす宮へ上ると たらちしや母が手離れ 常知らぬ国の奥処を 百重山越えて過ぎ行き いつしかも都を見むと 思ひつつ語らひ居れど おのが身し労しければ 玉桙の道の隈廻に 草手折り柴取り敷きて 床じものうち臥い伏して 思ひつつ嘆き伏せらく 国にあらば父とり見まし 家にあらば母とり見まし 世間はかくのみならし 犬じもの道に伏してや命過ぎなむ(5-886)
<うちひさすみやへのぼると たらちしやははがてはなれ つねしらぬくにのおくかを ももへやまこえてすぎゆき いつしかもみやこをみむと おもひつつかたらひをれど おのがみしいたはしければ たまほこのみちのくまみに くさたをりしばとりしきて とこじものうちこいふして おもひつつなげきふせらく くににあらばちちとりみまし いへにあらばははとりみまし よのなかはかくのみならし いぬじものみちにふしてやいのちすぎなむ>
<<京へ行くため母のもとを離れ,知らなかった国の奥の方へと行って,幾重にも重った山を越えて,早く京を見ようと同行の人々と話し合っていたが,自分の体力が耐えられず,道の曲り角の土手の草を手折り,小枝を下に敷いて、それを床のようにして倒れ伏して,ため息をつき,いろいろ寢ながら考えたことは,生まれ故郷にいたら父が,家にいたら母が看病してくれる。しかし,世の中は思うようには行かないものだ。犬のように道端に伏して,最後は命が終わってしまうのだろう>>
この長歌は,京(みやこ)に向かったが,志半ばで路上に倒れてしまった人を見て,またはそれをイメージして,倒れた人の思いを想像して憶良が詠んだと考えられます。
この中に出てくる「おのが身し労しければ」は,倒れた旅人は最初集団で京を目指して移動したのだが,病気になったか,ケガをしたか,からだがひ弱だったのか,みんなに付いてくことができず,動けなくなってしまったのでしょう。
この場合の「労し」は「思うようにならない」という意味が近いのではないかと私は思います。
次も行き倒れ(ただし,溺死者)を詠んだ詠み人しらずの長歌です。
玉桙の道行く人は あしひきの山行き野行き にはたづみ川行き渡り 鯨魚取り海道に出でて 畏きや神の渡りは 吹く風ものどには吹かず 立つ波もおほには立たず とゐ波の塞ふる道を 誰が心労しとかも直渡りけむ直渡りけむ(13-3335)
<たまほこのみちゆくひとは あしひきのやまゆきのゆき にはたづみかはゆきわたり いさなとりうみぢにいでて かしこきやかみのわたりは ふくかぜものどにはふかず たつなみもおほにはたたず とゐなみのささふるみちを たがこころいたはしとかも ただわたりけむただわたりけむ>
<<旅する人は山を行き,野を行き,川を渡渡り,海路に出で,荒神がいる渡り場は,吹く風も激しく,立つ波も高く,しきりなくおし寄せる波が邪魔をする道を,誰のことがひどく気になったのか分からいが,無理に渡ってしまった>>
この長歌に出てくる「誰が心 労しとかも」は,誰かのことが非常に気になって冷静さを欠いた状況になったと私は解釈します。渡し場にいる人たちは,「無理だ」「渡れないから止めとけ」といったのを溺死した人は聞かなかったのでしょう。
最後は,大伴家持が天平勝宝2年5月6日に兎原娘子(うなひをとめ)の物語を題材に詠んだ長歌の一部です。
~ たまきはる命も捨てて 争ひに妻問ひしける 処女らが聞けば悲しさ 春花のにほえ栄えて 秋の葉のにほひに照れる 惜しき身の盛りすら 大夫の言労しみ ~(19-4211)
<~ たまきはるいのちもすてて あらそひにつまどひしける をとめらがきけばかなしさ はるはなのにほえさかえて あきのはのにほひにてれる あたらしきみのさかりすら ますらをのこといたはしみ ~>
<<~命さへも捨てて,(二人の男が)競って求婚した娘のことは聞くも哀れなことである。春の花のように美しく,秋の黄葉のような見事さをもった娘子は,(その二人の)男たちからの命を顧みない求愛の言葉をつらく感じて~>>
この長歌の後の部分では,兎原娘子は自らの惜しき命を絶ってしまったとあります。「丈夫の言労しみ」は,二人の男から言い寄られ,どうすればよいか分からない兎原娘子の気持ちの戸惑いを「労し」は表現していると感じます。
「労し」のようなの心理的な辛さを表す言葉は,時代やその背景となる状況の違い,感じる人の立場(今回はすべて当事者の気持ちを代弁する作者の立場)の違いなどで現代語に訳すと微妙にニュアンスが変化するようです。
(続難読漢字シリーズ(3)につづく)
2018年1月3日水曜日
続難読漢字シリーズ(1)…可惜(あたら),可惜(あたら)し
今回から,新シリーズを開始します。
このシリーズは,2009年6月28日~2010年1月11日の間にアップした「万葉集で難読漢字を紐解く」シリーズで,紹介し切れなかった難読漢字について,万葉集ではどう詠まれているか私の考えをアップしていきます。
初回は,難読漢字「可惜」について,万葉集を見ていきます。これは「あたら」と読みます。一般的な意味は,「可惜」は「惜しむべき」「もったいないことに」といいった感動詞的に使われるものということです。
「可惜し」は形容詞で「立派だ」「素晴らしい」「惜しい」といった意味です。
では,万葉集での用例を紹介します。なお,紹介する歌で「可惜」としている部分は,ひらがなで書かれていることが多いようですが,敢て「可惜」という漢字にしています。
鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつ可惜船木を(3-391)
<とぶさたて あしがらやまにふなぎきり きにきりゆきつあたらふなぎを>
<<鳥総を立てて足柄山に生えている船材として伐れる木を,細かい木材として伐って行ってしまった。惜しいなあ船材にできるのに>>
この短歌は沙弥満誓(さみのまんせい)が筑紫で詠んだとされているものです。
勿体ないような才能や容姿をもつ人をその特長をより導き出すように周りは気を付けなければならない(特長を潰してはいけない)という教訓の歌のように私には思えます。
秋の野に露負へる萩を手折らずて可惜盛りを過ぐしてむとか(20-4318)
<あきののに つゆおへるはぎをたをらずて あたらさかりをすぐしてむとか>
<<秋の野に露に濡れた萩の花を手で折って生けることをせず,そのままにしておいたら,あら惜しいこと,盛りを過ぎてしまったなあ>>
この短歌は,天平勝宝6年,36歳の大伴家持が詠んだとされるものです。
家持にとって,露に濡れた萩が美しいから,ついそのままにしておいたが,盛りを過ぎてしまい部屋に飾れなくて残念という気持ちを詠んだものでしょうか。
ただ,これまで惜しいチャンスをいくつも逃し,昇進がほとんどできずに年齢を重ねてしまった家持の気持ちが詠ませたのかも知れないと私は思いをめぐらしてしまいます。
秋萩に恋尽さじと思へどもしゑや可惜しまたも逢はめやも(10-2120)
<あきはぎに こひつくさじとおもへども しゑやあたらしまたもあはめやも>
<<秋萩の花を長く深く愛でていたいと思うのだが,あ~,惜しいことにもう散ってしまう。また逢うことはないのだろうか>>
作者不明の短歌で,秋萩の花を題材にした季節の移ろいを詠んだものと考えられます。
しかし,「恋尽さじ」や「逢はめやも」という言葉から,「可惜し」の対象の秋萩の花は,可憐な女性のことを譬喩したものかも知れません。
最後に,万葉時代から200年以上後の平安時代中期には「あたら」の意味として「新しい」の「新」の意味が出てきたのです。万葉時代では「新しい」という意味のヤマト言葉は「あらたし」でした。
平安時代に仮名が使われるようになった際,まちがって「新し」の読みを「あらた」から「あたら」取り違えられたとの説があるようです。そのため,それまで「あたら」と発音する「可惜」が,利用する頻度から比較的陰に隠れてしまったのかもしれません。
(続難読漢字シリーズ(2)につづく)
このシリーズは,2009年6月28日~2010年1月11日の間にアップした「万葉集で難読漢字を紐解く」シリーズで,紹介し切れなかった難読漢字について,万葉集ではどう詠まれているか私の考えをアップしていきます。
初回は,難読漢字「可惜」について,万葉集を見ていきます。これは「あたら」と読みます。一般的な意味は,「可惜」は「惜しむべき」「もったいないことに」といいった感動詞的に使われるものということです。
「可惜し」は形容詞で「立派だ」「素晴らしい」「惜しい」といった意味です。
では,万葉集での用例を紹介します。なお,紹介する歌で「可惜」としている部分は,ひらがなで書かれていることが多いようですが,敢て「可惜」という漢字にしています。
鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつ可惜船木を(3-391)
<とぶさたて あしがらやまにふなぎきり きにきりゆきつあたらふなぎを>
<<鳥総を立てて足柄山に生えている船材として伐れる木を,細かい木材として伐って行ってしまった。惜しいなあ船材にできるのに>>
この短歌は沙弥満誓(さみのまんせい)が筑紫で詠んだとされているものです。
勿体ないような才能や容姿をもつ人をその特長をより導き出すように周りは気を付けなければならない(特長を潰してはいけない)という教訓の歌のように私には思えます。
秋の野に露負へる萩を手折らずて可惜盛りを過ぐしてむとか(20-4318)
<あきののに つゆおへるはぎをたをらずて あたらさかりをすぐしてむとか>
<<秋の野に露に濡れた萩の花を手で折って生けることをせず,そのままにしておいたら,あら惜しいこと,盛りを過ぎてしまったなあ>>
この短歌は,天平勝宝6年,36歳の大伴家持が詠んだとされるものです。
家持にとって,露に濡れた萩が美しいから,ついそのままにしておいたが,盛りを過ぎてしまい部屋に飾れなくて残念という気持ちを詠んだものでしょうか。
ただ,これまで惜しいチャンスをいくつも逃し,昇進がほとんどできずに年齢を重ねてしまった家持の気持ちが詠ませたのかも知れないと私は思いをめぐらしてしまいます。
秋萩に恋尽さじと思へどもしゑや可惜しまたも逢はめやも(10-2120)
<あきはぎに こひつくさじとおもへども しゑやあたらしまたもあはめやも>
<<秋萩の花を長く深く愛でていたいと思うのだが,あ~,惜しいことにもう散ってしまう。また逢うことはないのだろうか>>
作者不明の短歌で,秋萩の花を題材にした季節の移ろいを詠んだものと考えられます。
しかし,「恋尽さじ」や「逢はめやも」という言葉から,「可惜し」の対象の秋萩の花は,可憐な女性のことを譬喩したものかも知れません。
最後に,万葉時代から200年以上後の平安時代中期には「あたら」の意味として「新しい」の「新」の意味が出てきたのです。万葉時代では「新しい」という意味のヤマト言葉は「あらたし」でした。
平安時代に仮名が使われるようになった際,まちがって「新し」の読みを「あらた」から「あたら」取り違えられたとの説があるようです。そのため,それまで「あたら」と発音する「可惜」が,利用する頻度から比較的陰に隠れてしまったのかもしれません。
(続難読漢字シリーズ(2)につづく)
2018年1月1日月曜日
2018年正月スペシャル‥万葉集から日本人と犬について考える
戌(いぬ)年の2018年が始まりました。みなさん,どんな気持ちで新年を迎えていらっしゃいますか?
昨年はこのブログ(万葉集をリバースエンジニアリングする),思うように投稿できませんでした。しかし,今年はあと少ししたら,このブログを立ち上げて10年目に入ります。来年の満10年で500投稿を達成するためには,週1回の投稿をキープする必要がありますので,気を引き締めていきたいと考えていますので,今年もよろしくお願いします。。
さて,後で紹介しますが,万葉集で犬について詠んだ歌は多くありません。犬についてWikipediaなどでは,縄文遺跡に犬(縄文犬)の骨が発見されているとあることから,犬は古来狩猟犬などの目的で日本に人間と暮らしていたと考えられそうです。
飛鳥時代には渡来人系ともいわれる豪族犬上氏が琵琶湖に面した北東部の地域で大きな勢力を持ちました。日本書紀に出てくる犬上御田鍬(いぬかみのたすき)は,遣隋使,遣唐使にもなっていて,朝鮮半島経由で中国にも渡ったとの記録があるとのことです。
犬のことを狛(こま)と呼びます。高麗も「こま」と発音する場合があり,神社の社殿の前に置かれる狛犬像は朝鮮半島系の犬をモチーフにしていたのかもしれません。飛鳥時代では,犬は狛犬のイメージから番犬の役目で飼育されていたケースが少なくなかったと想像できそうです。
さて,朝鮮半島では,古くから(現在もそうですが)犬食文化があります。明治維新の文明開化で肉食文化が日本で急速に普及したように,飛鳥時代にはイノシシ,ブタ,クマ,ウマ,ウシ,シカ,サル,ニワトリそしてイヌなどの肉食習慣が大陸,朝鮮半島から入り,繁殖,屠殺(さばき),販売,料理の専業化など商業的に広まった可能性があります(それまでも家畜の犬を食べることはあったかもしれませんが)。
それがあまりに盛んになりすぎ,何らかの弊害が出たり,殺生に否定的な仏教との兼ね合いのためか,日本書紀には天武天皇5(675)年には,農産物が豊富にとれる夏から秋の期間だけですが肉食の禁止令が出たとの記載があります。その禁止動物の中に犬が含まれています。そのため,当時の日本では犬食は,相当広まっていたとみてよいかと思います。
その後,殺生を嫌う仏教をさらに重視した日本では犬を含む肉食文化が衰退していったのに対し,儒教に重きを置いた朝鮮半島では犬食も含む肉食文化がずっと残ったとみることができるかもしれません。
さて,万葉集では,犬はどう詠われているでしょうか。
まず,巻13に出てくる長歌(前半男,後半女)で,犬を含むさまざまな動物が出てくる歌を紹介します。
赤駒を馬屋に立て 黒駒を馬屋に立てて そを飼ひ我が行くがごと 思ひ妻心に乗りて 高山の嶺のたをりに 射目立てて鹿猪待つがごと 床敷きて我が待つ君を 犬な吠えそね(13-3278)
<あかごまをうまやにたて くろこまをうまやにたてて そをかひわがゆくがごと おもひづまこころにのりて たかやまのみねのたをりに いめたててししまつがごと とこしきてわがまつきみを いぬなほえそね>
<<(男)赤い馬を馬屋を建てて飼い,黒い馬をおなじく馬屋を建てて飼い,その馬に乗って俺は行く愛するお前のことばかり考えてな。(女)高い山の嶺のくぼみに待ち伏せ小屋を建てて,シカやイノシシを待つように,床を敷いて待つあなたのことを番犬ちゃんは吠えないでね>>
この長歌には,主語として犬(番犬)自体は出てきませんが,その犬に向けて詠んだ反歌があります。
葦垣の末かき分けて 君越ゆと人にな告げそ 事はたな知れ(13-3279)
<あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ>
<<(女)葦垣の上をかきわけ,あの人が越えてやってきたと人に聞こえるように吠えないでおくれ。彼との関係が人に知られてしまうから>>
この和歌から,当時は番犬を飼っていた家があっただろうということが想像できます。
もう一首犬を詠んだ旋頭歌を紹介します。
垣越しに犬呼び越して鳥猟する君青山の茂き山辺に馬休め君(7-1289)
<かきごしにいぬよびこしてとがりする きみあをやまのしげきやまへにうまやすめきみ>
<<垣越しに犬を呼び寄せて鷹狩りをなさっているあなた。青々と葉が茂っている山辺で馬を休ませてあげてね,あなた>>
この和歌から,鷹狩で捕らえたけものを獲りに行って,銜えて帰ってくる猟犬がいただろうことがわかります。
いずれにしても,万葉時代から,日本人とって犬は良き伴侶だったことがわかります。
(続難読漢字シリーズ(1)につづく)
昨年はこのブログ(万葉集をリバースエンジニアリングする),思うように投稿できませんでした。しかし,今年はあと少ししたら,このブログを立ち上げて10年目に入ります。来年の満10年で500投稿を達成するためには,週1回の投稿をキープする必要がありますので,気を引き締めていきたいと考えていますので,今年もよろしくお願いします。。
さて,後で紹介しますが,万葉集で犬について詠んだ歌は多くありません。犬についてWikipediaなどでは,縄文遺跡に犬(縄文犬)の骨が発見されているとあることから,犬は古来狩猟犬などの目的で日本に人間と暮らしていたと考えられそうです。
飛鳥時代には渡来人系ともいわれる豪族犬上氏が琵琶湖に面した北東部の地域で大きな勢力を持ちました。日本書紀に出てくる犬上御田鍬(いぬかみのたすき)は,遣隋使,遣唐使にもなっていて,朝鮮半島経由で中国にも渡ったとの記録があるとのことです。
犬のことを狛(こま)と呼びます。高麗も「こま」と発音する場合があり,神社の社殿の前に置かれる狛犬像は朝鮮半島系の犬をモチーフにしていたのかもしれません。飛鳥時代では,犬は狛犬のイメージから番犬の役目で飼育されていたケースが少なくなかったと想像できそうです。
さて,朝鮮半島では,古くから(現在もそうですが)犬食文化があります。明治維新の文明開化で肉食文化が日本で急速に普及したように,飛鳥時代にはイノシシ,ブタ,クマ,ウマ,ウシ,シカ,サル,ニワトリそしてイヌなどの肉食習慣が大陸,朝鮮半島から入り,繁殖,屠殺(さばき),販売,料理の専業化など商業的に広まった可能性があります(それまでも家畜の犬を食べることはあったかもしれませんが)。
それがあまりに盛んになりすぎ,何らかの弊害が出たり,殺生に否定的な仏教との兼ね合いのためか,日本書紀には天武天皇5(675)年には,農産物が豊富にとれる夏から秋の期間だけですが肉食の禁止令が出たとの記載があります。その禁止動物の中に犬が含まれています。そのため,当時の日本では犬食は,相当広まっていたとみてよいかと思います。
その後,殺生を嫌う仏教をさらに重視した日本では犬を含む肉食文化が衰退していったのに対し,儒教に重きを置いた朝鮮半島では犬食も含む肉食文化がずっと残ったとみることができるかもしれません。
さて,万葉集では,犬はどう詠われているでしょうか。
まず,巻13に出てくる長歌(前半男,後半女)で,犬を含むさまざまな動物が出てくる歌を紹介します。
赤駒を馬屋に立て 黒駒を馬屋に立てて そを飼ひ我が行くがごと 思ひ妻心に乗りて 高山の嶺のたをりに 射目立てて鹿猪待つがごと 床敷きて我が待つ君を 犬な吠えそね(13-3278)
<あかごまをうまやにたて くろこまをうまやにたてて そをかひわがゆくがごと おもひづまこころにのりて たかやまのみねのたをりに いめたててししまつがごと とこしきてわがまつきみを いぬなほえそね>
<<(男)赤い馬を馬屋を建てて飼い,黒い馬をおなじく馬屋を建てて飼い,その馬に乗って俺は行く愛するお前のことばかり考えてな。(女)高い山の嶺のくぼみに待ち伏せ小屋を建てて,シカやイノシシを待つように,床を敷いて待つあなたのことを番犬ちゃんは吠えないでね>>
この長歌には,主語として犬(番犬)自体は出てきませんが,その犬に向けて詠んだ反歌があります。
葦垣の末かき分けて 君越ゆと人にな告げそ 事はたな知れ(13-3279)
<あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ>
<<(女)葦垣の上をかきわけ,あの人が越えてやってきたと人に聞こえるように吠えないでおくれ。彼との関係が人に知られてしまうから>>
この和歌から,当時は番犬を飼っていた家があっただろうということが想像できます。
もう一首犬を詠んだ旋頭歌を紹介します。
垣越しに犬呼び越して鳥猟する君青山の茂き山辺に馬休め君(7-1289)
<かきごしにいぬよびこしてとがりする きみあをやまのしげきやまへにうまやすめきみ>
<<垣越しに犬を呼び寄せて鷹狩りをなさっているあなた。青々と葉が茂っている山辺で馬を休ませてあげてね,あなた>>
この和歌から,鷹狩で捕らえたけものを獲りに行って,銜えて帰ってくる猟犬がいただろうことがわかります。
いずれにしても,万葉時代から,日本人とって犬は良き伴侶だったことがわかります。
(続難読漢字シリーズ(1)につづく)
2017年12月30日土曜日
序詞再発見シリーズ(30:本シリーズおわり) … 万葉時代の高級な「衣」とは?
今回は,前回のような粗末な単衣ではなく,裏地の付いた当時としては高級な「衣」を序詞に詠んだ万葉集の短歌を紹介します。
最初は,中国や朝鮮から輸入されたものか,その輸入服の形に国内で縫製された「韓衣」について詠んだ短歌です。
朝影に我が身はなりぬ韓衣裾のあはずて久しくなれば(11-2619)
<あさかげに あがみはなりぬからころも すそのあはずてひさしくなれば>
<<我が身は朝の人影のようにやせ細ってしまった。韓衣のすそが合わないように君と久しく逢っていないから>>
作者の気持ちはよくわかるのですが,このシリーズとしては韓衣のすそが合わない理由が気になります。
韓衣は中国風の服ですから体をすべて覆うような服であり,錦織の技法で文様を織り込んでいたと考えられます。奈良時代には,錦織部(にしごりべ)という錦織の技術を研究,普及,産業振興する組織が大和政権にあったようです。ですので,韓衣といっても輸入品ではなく,国内で縫製する技術があったのでしょう。
しかし,すそは足の先に行くほど広く作るのが当時のデザインだとすると,錦織の絵柄を縫い合わせできちっと合わせてすそを仕立てるのが難しく,高度な技術が必要だったのでしょう。結局,すその文様が合っているかいないかで,仕立ての出来が左右され,値段も大きく変わったのかも知れません。
「高級韓衣がこんな信じられない値段で買えます!」という売り手のトークに乗って買ってしまったら,細かい部分が雑だったということを昔もあったのかも知れませんね。
さて,次は裏地がちゃんとついている衣を序詞で詠んだ短歌です。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみのあはせのころも うらにせばわれしひめやも きみがきまさぬ>
<< ツルバミで染めた袷(あはせ)の着物を裏返すような仕打ちをなさるなら,私は無理に来てとは言いません。あなたが来ないことに対して>>
この短歌は,2011年10月22日の投稿で紹介したものです。
ただ,それは心の裏側を説明したものでしたが,今回は衣がテーマですので,「袷衣(あはせころも)」について考えます。裏地が付いている「袷」の反対は,裏地のない「単(ひとへ)」です。
橡で染めた袷の衣はきっと高価なものだったのでしょう。それは女性のほうから男性へ贈ったものと考えてよいでしょうね。贈った側の気持ち(逢いに来てほしいという気持ち)を無視して踏みにじる(送った衣を裏返しに着る)のは許せない。「もういいです!」と言いたいのですよね,作者は。
最後は,裏地のある豪華な衣を序詞に詠んだ短歌です。
赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも(12-2972)
<あかきぬの ひたうらのきぬながくほり あがおもふきみがみえぬころかも>
<<赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣を私が長い間いつも欲しいと願っているのと同じほど思い慕うあなた様,この頃はお見えになりませんね>>
この短歌も2012年11月1日の投稿で紹介しています。ただ,ここも違う視点で説明します。
「赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣」というのはどんな衣なんでしょうか?
まず,裏地が赤色に染められた布ということですから,相当濃い色ですよね。裏地が濃い色ということは,表地は裏地の色が透けてこないほどもっと濃い色であるか,表地の生地自体が透けないような相当厚みがあるものである必要がありそうです。
そして,「直に縫い込まれている」ということは,表地と裏地に隙間が無いように,丁寧にしっかり縫われていることを示します。このような表現が,女性ならきっと来てみたいと思う豪華な衣のイメージを表していることがわかります。
さて,まだまだ序詞に使われている言葉はたくさんありますが,30回続きましたのでここで「序詞再発見シリーズ」は一区切りをつけることにします。
次回は2018年正月スペシャルを投稿します。
(2018年正月スペシャル‥万葉集から犬について考える につづく)
最初は,中国や朝鮮から輸入されたものか,その輸入服の形に国内で縫製された「韓衣」について詠んだ短歌です。
朝影に我が身はなりぬ韓衣裾のあはずて久しくなれば(11-2619)
<あさかげに あがみはなりぬからころも すそのあはずてひさしくなれば>
<<我が身は朝の人影のようにやせ細ってしまった。韓衣のすそが合わないように君と久しく逢っていないから>>
作者の気持ちはよくわかるのですが,このシリーズとしては韓衣のすそが合わない理由が気になります。
韓衣は中国風の服ですから体をすべて覆うような服であり,錦織の技法で文様を織り込んでいたと考えられます。奈良時代には,錦織部(にしごりべ)という錦織の技術を研究,普及,産業振興する組織が大和政権にあったようです。ですので,韓衣といっても輸入品ではなく,国内で縫製する技術があったのでしょう。
しかし,すそは足の先に行くほど広く作るのが当時のデザインだとすると,錦織の絵柄を縫い合わせできちっと合わせてすそを仕立てるのが難しく,高度な技術が必要だったのでしょう。結局,すその文様が合っているかいないかで,仕立ての出来が左右され,値段も大きく変わったのかも知れません。
「高級韓衣がこんな信じられない値段で買えます!」という売り手のトークに乗って買ってしまったら,細かい部分が雑だったということを昔もあったのかも知れませんね。
さて,次は裏地がちゃんとついている衣を序詞で詠んだ短歌です。
橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
<つるはみのあはせのころも うらにせばわれしひめやも きみがきまさぬ>
<< ツルバミで染めた袷(あはせ)の着物を裏返すような仕打ちをなさるなら,私は無理に来てとは言いません。あなたが来ないことに対して>>
この短歌は,2011年10月22日の投稿で紹介したものです。
ただ,それは心の裏側を説明したものでしたが,今回は衣がテーマですので,「袷衣(あはせころも)」について考えます。裏地が付いている「袷」の反対は,裏地のない「単(ひとへ)」です。
橡で染めた袷の衣はきっと高価なものだったのでしょう。それは女性のほうから男性へ贈ったものと考えてよいでしょうね。贈った側の気持ち(逢いに来てほしいという気持ち)を無視して踏みにじる(送った衣を裏返しに着る)のは許せない。「もういいです!」と言いたいのですよね,作者は。
最後は,裏地のある豪華な衣を序詞に詠んだ短歌です。
赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも(12-2972)
<あかきぬの ひたうらのきぬながくほり あがおもふきみがみえぬころかも>
<<赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣を私が長い間いつも欲しいと願っているのと同じほど思い慕うあなた様,この頃はお見えになりませんね>>
この短歌も2012年11月1日の投稿で紹介しています。ただ,ここも違う視点で説明します。
「赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣」というのはどんな衣なんでしょうか?
まず,裏地が赤色に染められた布ということですから,相当濃い色ですよね。裏地が濃い色ということは,表地は裏地の色が透けてこないほどもっと濃い色であるか,表地の生地自体が透けないような相当厚みがあるものである必要がありそうです。
そして,「直に縫い込まれている」ということは,表地と裏地に隙間が無いように,丁寧にしっかり縫われていることを示します。このような表現が,女性ならきっと来てみたいと思う豪華な衣のイメージを表していることがわかります。
さて,まだまだ序詞に使われている言葉はたくさんありますが,30回続きましたのでここで「序詞再発見シリーズ」は一区切りをつけることにします。
次回は2018年正月スペシャルを投稿します。
(2018年正月スペシャル‥万葉集から犬について考える につづく)
2017年12月20日水曜日
序詞再発見シリーズ(29) … 万葉時代の粗末な「衣」とは?
今回は,「衣」それも当時粗末と扱われていた「衣」が序詞にどのように詠まれていたかを万葉集で見ていきます。
万葉時代では,すでに何らかの染色の技術,特に草木染の技法はかなり広まっていたことが万葉集からも想像ができます。ただ,染める目的は,染めていない布や衣よりもきれいに,かつ豪華に見せることがすぐに思い浮かびます。
ただ,日常使う衣で,汚れや黄ばみが目立たなくするために染めるという目的もあったかも知れません。
次は,そんな衣庶民的な衣を序詞に詠んだ短歌です。
橡の一重の衣うらもなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも(12-2968)
<つるはみのひとへのころも うらもなくあるらむこゆゑ こひわたるかも>
<<ツルバミに染めた一重の衣に裏地が無いように,あの娘の心は裏表がなく純真だからよけい恋しくなってしまう>>
橡はドングリの一種で,その葉や実を草木染の染色材として使ったとすれば,色は茶系だったろうと想像します。一重の衣ですから,その色に染めることで,白色に比べ衣の下が透けて見えるのを防止に役立ったのかも知れません。
この短歌の作者は,裏地のある高級な衣を着ているような金持ちは心に裏表があるかもしれないが,一重の廉価な衣を着ている娘は,世間ずれしないで純真で無垢な心をもっていると思ったのでしょう。
次は,製塩に携わる漁師が着る衣について,序詞に詠んだ短歌です。
志賀の海人の塩焼き衣なれぬれど恋といふものは忘れかねつも(11-2622)
<しかのあまのしほやきころもなれぬれど こひといふものはわすれかねつも>
<<志賀島の漁師がいつも着る塩焼き衣が定番のように私の恋というものも常時記憶からなくならない>>
万葉時代は,製塩を漁師やその家族が,漁の合間や夫や親が漁で留守の間にやっていたのだと私は想像します。
製塩技法は,海水を綺麗な砂を敷き詰めた塩田に撒き,天日で水分を飛ばし,砂と一緒に乾いた塩を採取。それを少量の真水に溶かし,砂が沈んだ上澄みの濃縮塩水を焚火で焼いた石の上に振りかけ,水分が飛んで石に残った塩を採取するような製法だったと私は想像します。
その作業をする人たちは,屋外での作業で長く使っていても丈夫な麻などの不厚い衣だったのかも知れません。今でいうデニムのような生地かもですね。当然,長く着ているうたに,塩を焼く焚火のススやに直射日光にあたり,古びた柔道着の色のように,独特の色に変化していたのでしょう。
それが,製塩作業をする人の定番作業着として,作業を見学する人たちには映っていたのだろうと私はこの短歌から想像します。
次は,製塩作業する人の作業着として,別の呼び方の衣があったことを物語る短歌です。
大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも(12-2971)
<おほきみのしほやくあまのふぢころも なれはすれどもいやめづらしも>
<<献上する塩を焼く漁師が着る藤衣は着慣れているところを見るときっと特別に仕立てたものなのだろう>>
この短歌に出てくる「藤衣」については,どんな衣か諸説があるようです。
2012年11月1日の投稿では「藤衣はとても織り目が粗く,肌が透けて見えるほど」と私は書いていますが,今は少し違ったものではないかと考えています。
それは,御門に献上するための特別な塩田などで製塩作業をしている人を区別するため,着ていた藤色に染めた作業着のことを指したのではないかと。
藤衣は塩焼き衣に比べたら,薄くて丈夫じゃなさそうに見えるけれど,作業している人たちがテキパキとやっているのを見ると,サマになっていると作者は感じたのかも知れません。
当然でしょうね。大君に献上するような塩を作っている製塩のプロですから,漁師の片手間とは違うスピード感で作業を進めているようにも感じます。
万葉時代は製塩は漁師が片手間にやる作業という常識から,高品質な献上塩を作る専門の製塩工プロという職業が生まれ始めた時期なのかもしれません。
(序詞再発見シリーズ(30:本シリーズおわり)に続く)
万葉時代では,すでに何らかの染色の技術,特に草木染の技法はかなり広まっていたことが万葉集からも想像ができます。ただ,染める目的は,染めていない布や衣よりもきれいに,かつ豪華に見せることがすぐに思い浮かびます。
ただ,日常使う衣で,汚れや黄ばみが目立たなくするために染めるという目的もあったかも知れません。
次は,そんな衣庶民的な衣を序詞に詠んだ短歌です。
橡の一重の衣うらもなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも(12-2968)
<つるはみのひとへのころも うらもなくあるらむこゆゑ こひわたるかも>
<<ツルバミに染めた一重の衣に裏地が無いように,あの娘の心は裏表がなく純真だからよけい恋しくなってしまう>>
橡はドングリの一種で,その葉や実を草木染の染色材として使ったとすれば,色は茶系だったろうと想像します。一重の衣ですから,その色に染めることで,白色に比べ衣の下が透けて見えるのを防止に役立ったのかも知れません。
この短歌の作者は,裏地のある高級な衣を着ているような金持ちは心に裏表があるかもしれないが,一重の廉価な衣を着ている娘は,世間ずれしないで純真で無垢な心をもっていると思ったのでしょう。
次は,製塩に携わる漁師が着る衣について,序詞に詠んだ短歌です。
志賀の海人の塩焼き衣なれぬれど恋といふものは忘れかねつも(11-2622)
<しかのあまのしほやきころもなれぬれど こひといふものはわすれかねつも>
<<志賀島の漁師がいつも着る塩焼き衣が定番のように私の恋というものも常時記憶からなくならない>>
万葉時代は,製塩を漁師やその家族が,漁の合間や夫や親が漁で留守の間にやっていたのだと私は想像します。
製塩技法は,海水を綺麗な砂を敷き詰めた塩田に撒き,天日で水分を飛ばし,砂と一緒に乾いた塩を採取。それを少量の真水に溶かし,砂が沈んだ上澄みの濃縮塩水を焚火で焼いた石の上に振りかけ,水分が飛んで石に残った塩を採取するような製法だったと私は想像します。
その作業をする人たちは,屋外での作業で長く使っていても丈夫な麻などの不厚い衣だったのかも知れません。今でいうデニムのような生地かもですね。当然,長く着ているうたに,塩を焼く焚火のススやに直射日光にあたり,古びた柔道着の色のように,独特の色に変化していたのでしょう。
それが,製塩作業をする人の定番作業着として,作業を見学する人たちには映っていたのだろうと私はこの短歌から想像します。
次は,製塩作業する人の作業着として,別の呼び方の衣があったことを物語る短歌です。
大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも(12-2971)
<おほきみのしほやくあまのふぢころも なれはすれどもいやめづらしも>
<<献上する塩を焼く漁師が着る藤衣は着慣れているところを見るときっと特別に仕立てたものなのだろう>>
この短歌に出てくる「藤衣」については,どんな衣か諸説があるようです。
2012年11月1日の投稿では「藤衣はとても織り目が粗く,肌が透けて見えるほど」と私は書いていますが,今は少し違ったものではないかと考えています。
それは,御門に献上するための特別な塩田などで製塩作業をしている人を区別するため,着ていた藤色に染めた作業着のことを指したのではないかと。
藤衣は塩焼き衣に比べたら,薄くて丈夫じゃなさそうに見えるけれど,作業している人たちがテキパキとやっているのを見ると,サマになっていると作者は感じたのかも知れません。
当然でしょうね。大君に献上するような塩を作っている製塩のプロですから,漁師の片手間とは違うスピード感で作業を進めているようにも感じます。
万葉時代は製塩は漁師が片手間にやる作業という常識から,高品質な献上塩を作る専門の製塩工プロという職業が生まれ始めた時期なのかもしれません。
(序詞再発見シリーズ(30:本シリーズおわり)に続く)
2017年12月14日木曜日
序詞再発見シリーズ(28) … 「舟」の用途や形は多様だった?
フルタイムの本業(ソフトウェアの保守開発)の忙しさがなかなか解消せず,またこのブログの投稿が滞ってしまいました。当面引退とはいかずに,私の本業はまだまだ続きそうです。
ただ,来年の2月を過ぎるとこのブログを立ち上げて10年目に入ります。満10年に向け,来年は少し頑張って投稿を多くしたいと考えていますが,結果はどうでしょうか。
今回は,「舟」やそれに関連するものが万葉集の序詞としてどのように詠まれているかを見ていきます。
まずは,葦が密生しているような潟にも入っていけるような小さな舟について詠んだ短歌です。
港入りの葦別け小舟障り多み今来む我れを淀むと思ふな(12-2998)
<みなといりのあしわけをぶねさはりおほみいまこむわれをよどむとおもふな>
<<入港する葦別け小舟にはいろいろ支障が多いように,差し障りが多くて今そちらへ着くのが遅れても,私のあなたへの気持ちが淀んだと思わないで>>
葦が群生しているような大きな川の河岸や海の潟では,葦を刈り取ったり,葦の群生の下に隠れているカニ,ウナギ,巻貝,二枚貝などを狩猟するための小さな舟が必要となります。
舟は小さいほど奥の方に入れますが,小さすぎると刈り取った葦や採取した魚介類を多く載せられないため,小さくするには限界があります。葦原の奥に行けば行くほど,良い葦や豊富な魚介類が獲れる可能性が高いのは分かっていても,葦に邪魔をされてなかなか先に行けない。
そんな情景が障害が多いなか君に会いに来たのに,なかなか来れないといって君への気持ちが淀んだと思わないでほしいというのが,作者の気持ちなのでしょうか。
<この作者は葦原での漁が大変なのを知っていた?>
ただ,私はこの序詞に注目したいのです。一般解釈とは違うかも知れませんが,葦に分け入って漁をする舟が大変だということを作者は知っていたということになります。
万葉時代には,さまざまな職業が生まれ,職業ごとのその大変さや面白さを紹介するメディアがあった可能性に私は注目します。すなわち,今で言えば職業紹介サイトのようなものです。もちろん,当時文字はまだ発達していなかったので,職業を紹介するようなガイドがいて,相談に乗っていたのかも知れません。「若人よ,来たれこの仕事に!」というような職業紹介イベントが定期的に行われていた可能性までも私は思いを巡らせます。
次は,逆に港と港をつなぐ比較的大きな舟について詠んだ短歌です。
浦廻漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし(12-3172)
<うらみこぐくまのぶねつきめづらしくかけておもはぬつきもひもなし>
<<入江を漕ぎ巡る熊野舟はいつ見ても新鮮なように妻を心に懸けて思わぬ月日はない>>
熊野舟は,紀伊の国の熊野の地で作られた丈夫で性能の良いブランド舟だったと私は思います。
港周辺で進んでいる舟がなかなかお目に掛かれないブランド舟の「熊野舟」を見た時の感動を作者は経験していたとも考えられそうです。
熊野の地は大木が生えている広大な森林地帯で,腕の良い木こり,製材士,運搬工がいて,山深くまで切り込んだ今の熊野川水系を使って木材を運ぶのに適した場所だったといえるかも知れません。当然,河口付近には腕の良い船大工が居て,品質の良い木台を入念に舟に仕立てたのでしょう。
そんな地で作られた船は品質が良く,丈夫で長持ちがするため,舳先の形を特殊なものにするなどしてブランド化し,高価で取引がされたと考えられます。それを手に入れられるのは,一部の裕福な漁師や渡し舟経営者に限られていたと考えられます。そして,運よく熊野舟を手に入れられた人たちも,手持ちの舟のすべてを高価な熊野舟にできるわけがなく,一般の人はお目に掛かれるのがよほど稀で新鮮だったのかも知れません。
最後は,舟という言葉は出てきませんが,舟の楫を漕ぐ音を序詞に詠んだ短歌です。
漁りする海人の楫音ゆくらかに妹は心に乗りにけるかも(12-3174)
<いざりするあまのかぢおとゆくらかにいもはこころにのりにけるかも>
<<魚を獲りに出る漁師の舟の楫の音がゆっくり繰り返すように,だんだん彼女が心に乗り移ってきたなあ>>
海で漁をする漁師は毎日楫を漕いで漁に出るので,一番効率の良い,疲れの少ない漕ぎ方で楫を漕ぐのでしょう。そうすると,ギコー,ギコーという楫を漕ぐ音は,海辺の宿に泊まっていた作者にとっては,心地よい一定のリズムでのどかに感じられたのかも知れません。そのようなリズムで彼女は自分の心の中に入ってくるという短歌となります。
実は,父親が海辺の旅館や民宿に泊まるのが好きで,私が子供のころ一度和歌山県の和歌の浦付近の漁港近くの小さな旅館に泊まったとき,朝沖に向かって進む小さな漁船が発する「ポンポンポンポン..」という音と舟が残す波跡が,いかにものどかなリズムと映像を幼い私も感じた記憶があります。
父が「ポンポン船の音で目が覚めてしもたわ。朝早ようから漁師はんはご苦労なこっちゃなあ。」と起きてきたのを覚えています。そして「ポンポン船はなあ。焼玉エンジンちゅうのを載せている舟で,あんな音を出して動くんや」と私に教えてくれたのです。
当時は,ポンポン船はディーゼルエンジン付きの舟に急速に取り替えられつつある頃で,父もまだ現役として残っていることを珍しく感じたのかも知れません。
(序詞再発見シリーズ(29)に続く)
ただ,来年の2月を過ぎるとこのブログを立ち上げて10年目に入ります。満10年に向け,来年は少し頑張って投稿を多くしたいと考えていますが,結果はどうでしょうか。
今回は,「舟」やそれに関連するものが万葉集の序詞としてどのように詠まれているかを見ていきます。
まずは,葦が密生しているような潟にも入っていけるような小さな舟について詠んだ短歌です。
港入りの葦別け小舟障り多み今来む我れを淀むと思ふな(12-2998)
<みなといりのあしわけをぶねさはりおほみいまこむわれをよどむとおもふな>
<<入港する葦別け小舟にはいろいろ支障が多いように,差し障りが多くて今そちらへ着くのが遅れても,私のあなたへの気持ちが淀んだと思わないで>>
葦が群生しているような大きな川の河岸や海の潟では,葦を刈り取ったり,葦の群生の下に隠れているカニ,ウナギ,巻貝,二枚貝などを狩猟するための小さな舟が必要となります。
舟は小さいほど奥の方に入れますが,小さすぎると刈り取った葦や採取した魚介類を多く載せられないため,小さくするには限界があります。葦原の奥に行けば行くほど,良い葦や豊富な魚介類が獲れる可能性が高いのは分かっていても,葦に邪魔をされてなかなか先に行けない。
そんな情景が障害が多いなか君に会いに来たのに,なかなか来れないといって君への気持ちが淀んだと思わないでほしいというのが,作者の気持ちなのでしょうか。
<この作者は葦原での漁が大変なのを知っていた?>
ただ,私はこの序詞に注目したいのです。一般解釈とは違うかも知れませんが,葦に分け入って漁をする舟が大変だということを作者は知っていたということになります。
万葉時代には,さまざまな職業が生まれ,職業ごとのその大変さや面白さを紹介するメディアがあった可能性に私は注目します。すなわち,今で言えば職業紹介サイトのようなものです。もちろん,当時文字はまだ発達していなかったので,職業を紹介するようなガイドがいて,相談に乗っていたのかも知れません。「若人よ,来たれこの仕事に!」というような職業紹介イベントが定期的に行われていた可能性までも私は思いを巡らせます。
次は,逆に港と港をつなぐ比較的大きな舟について詠んだ短歌です。
浦廻漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし(12-3172)
<うらみこぐくまのぶねつきめづらしくかけておもはぬつきもひもなし>
<<入江を漕ぎ巡る熊野舟はいつ見ても新鮮なように妻を心に懸けて思わぬ月日はない>>
熊野舟は,紀伊の国の熊野の地で作られた丈夫で性能の良いブランド舟だったと私は思います。
港周辺で進んでいる舟がなかなかお目に掛かれないブランド舟の「熊野舟」を見た時の感動を作者は経験していたとも考えられそうです。
熊野の地は大木が生えている広大な森林地帯で,腕の良い木こり,製材士,運搬工がいて,山深くまで切り込んだ今の熊野川水系を使って木材を運ぶのに適した場所だったといえるかも知れません。当然,河口付近には腕の良い船大工が居て,品質の良い木台を入念に舟に仕立てたのでしょう。
そんな地で作られた船は品質が良く,丈夫で長持ちがするため,舳先の形を特殊なものにするなどしてブランド化し,高価で取引がされたと考えられます。それを手に入れられるのは,一部の裕福な漁師や渡し舟経営者に限られていたと考えられます。そして,運よく熊野舟を手に入れられた人たちも,手持ちの舟のすべてを高価な熊野舟にできるわけがなく,一般の人はお目に掛かれるのがよほど稀で新鮮だったのかも知れません。
最後は,舟という言葉は出てきませんが,舟の楫を漕ぐ音を序詞に詠んだ短歌です。
漁りする海人の楫音ゆくらかに妹は心に乗りにけるかも(12-3174)
<いざりするあまのかぢおとゆくらかにいもはこころにのりにけるかも>
<<魚を獲りに出る漁師の舟の楫の音がゆっくり繰り返すように,だんだん彼女が心に乗り移ってきたなあ>>
海で漁をする漁師は毎日楫を漕いで漁に出るので,一番効率の良い,疲れの少ない漕ぎ方で楫を漕ぐのでしょう。そうすると,ギコー,ギコーという楫を漕ぐ音は,海辺の宿に泊まっていた作者にとっては,心地よい一定のリズムでのどかに感じられたのかも知れません。そのようなリズムで彼女は自分の心の中に入ってくるという短歌となります。
実は,父親が海辺の旅館や民宿に泊まるのが好きで,私が子供のころ一度和歌山県の和歌の浦付近の漁港近くの小さな旅館に泊まったとき,朝沖に向かって進む小さな漁船が発する「ポンポンポンポン..」という音と舟が残す波跡が,いかにものどかなリズムと映像を幼い私も感じた記憶があります。
父が「ポンポン船の音で目が覚めてしもたわ。朝早ようから漁師はんはご苦労なこっちゃなあ。」と起きてきたのを覚えています。そして「ポンポン船はなあ。焼玉エンジンちゅうのを載せている舟で,あんな音を出して動くんや」と私に教えてくれたのです。
当時は,ポンポン船はディーゼルエンジン付きの舟に急速に取り替えられつつある頃で,父もまだ現役として残っていることを珍しく感じたのかも知れません。
(序詞再発見シリーズ(29)に続く)
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