2012年6月18日月曜日

対語シリーズ「淀(淵)と瀬」‥天の川には淀(淵)と瀬があったのか?


先日,大学で私が所属していた万葉集の研究会の顧問をして頂いた先生の古稀を祝うため,同じく顧問をされていた他のクラブや公開講座の卒業生・現役メンバー計100名以上が一堂に会しました。
私は集いの全体幹事を拝命し,昨年から企画を始め,その後の準備・当日の運営を中心的に進めました。
何とか盛会かつ無事に集いを完了することができ,今は正直ホッとしているところです。
先週は集いの準備で更新が滞りましたが,ブログアップを再開します。
今回は川の流れが緩やかな場所(淀)と深くなった場所(淵)に対し,反対に川が浅く流れが速い場所(瀬)について万葉集で詠まれいる和歌を見て行きましょう。
実は「淀」と「瀬」,「淵」と「瀬」の両方が詠まれている歌が万葉集にいくつも出てきます。
まず,「淀」と「瀬」の詠み人知らずの短歌から。

宇治川は淀瀬なからし網代人舟呼ばふ声をちこち聞こゆ(7-1135)
うぢがははよどせなからし あじろひとふねよばふこゑ をちこちきこゆ
<<宇治川には歩いて渡れる流れの緩やかな淀のような瀬がないらしい。網代をかけて漁を獲る人達の舟を呼ぶ声があちこちから聞こえる>>

琵琶湖から流れる大量の水が上流から押し寄せてくる宇治川,急流で,魚を獲る網代を設置するのも大変だったのかも知れません。
網代の材料や設置する人を運ぶ舟の操作も急流のため難しく,流れる水音に負けないほど大きな声で作業者間で指示が飛んでいたのでしょうか。
もうひとつ「淀」と「瀬」が出てくる長歌を紹介します。作者は境部老麻呂(さかひべのおゆまろ)という役人で,天平13(741)年2月に恭仁(くに)京を賛美して作ったとされています。

山背の久迩の都は 春されば花咲きををり 秋されば黄葉にほひ 帯ばせる泉の川の 上つ瀬に打橋渡し 淀瀬には浮橋渡し あり通ひ仕へまつらむ 万代までに(17-3907)
やましろのくにのみやこは はるさればはなさきををり あきさればもみちばにほひ おばせるいづみのかはの かみつせにうちはしわたし よどせにはうきはしわたし ありがよひつかへまつらむ よろづよまでに
<<山背の久迩の都は,春になると花がいっぱい咲き,秋になると紅葉が美しく映えます。帯のような泉川の上流の瀬には打橋を渡し,流れ淀んだ瀬には浮橋を渡し,そこを通ってお仕えいたしましょう。いついつまでも>>

泉川は今の木津川のことだとされています。瀬は早瀬の意味と淀んだ瀬の意味があります。瀬と書くと前者,淀瀬と書くと後者の意味になります。
しかしながら,この3年後には恭仁京は無くなってしまいます。時の流れは早瀬に浮かぶ木の葉のようにあっという間に過ぎ去っていく奈良時代中期でした。
次は「淵」と「瀬」の両方が詠み込まれた大伴旅人が大宰府で詠んだとされる短歌です。やはり時の流れを川の淵と瀬に例えて詠んでいます。

我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にありこそ(3-335)
わがゆきはひさにはあらじ いめのわだせにはならずて ふちにありこそ
<<私の大宰府赴任もそう長くはないでしょう。夢の流れは瀬に(早い変化に)ならずに淵の(変化の少ない)ままであってほしいものだ>>

世の中の変化が急激だと先が読めなくなる。そうならないで欲しいというのが,大宰府にいる旅人の偽らざる気持ちだったのかも知れませんね。
次に,その旅人が奈良に帰任し,大納言になった後,亡くなるその年,自分生まれ故郷の明日香の地に想いを馳せて詠んだ短歌です。

しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ(6-969)
しましくもゆきてみてしか かむなびのふちはあせにて せにかなるらむ
<<ほんの少しだけでも行って見てみたい。神奈備の川の淵は浅くなって瀬になっているのではないか>>

晩年の旅人は身体も弱り,生まれ故郷の明日香に行くことすらままならない状態だったのでしょう。
でも,神奈備山を見て幼い頃飛び込んで遊んだ川(飛鳥川)の淵はどうなっているか見てみたい。
きっと,上流からの土砂で浅くなり浅瀬になっていて,昔と変わってしまっているのだろうなと旅人は想像しているように私には感じられます。
みなさんにも幼いころ遊んだ場所が今どうなっているか気になるところはきっとあるのではないでしょうか。
さて,七夕も近付きつつありますが,夜空に輝く天の川は万葉集によると急流だったようです。
というのは「瀬」と「天の川」を詠んだ和歌はたくさん出てきますが,天の川で「淀」や「淵」を詠んだものはありません。
その中で,詠み人知らずの短歌一首を紹介します。

天の川瀬々に白波高けども直渡り来ぬ待たば苦しみ(10-2085)
あまのがは せぜにしらなみたかけども ただわたりきぬまたばくるしみ
<<天の川の瀬々の白波は高かったけれど,ただひたすら渡ってきたよ。待つのは辛いことだからね>>

万葉時代は七夕は,今でいえばバレンタインデーやクリスマスのような男女の出会いの場だったのでしょうか。天の川は早瀬で,渡るのは少し危ないけれど,それを押して逢いに来る彦星と待つ織姫。
ただ,残念ながら新暦7月7日は梅雨が明けていないことが多く,万葉時代の雰囲気は今は伝わりにくいのかも知れませんね。
ところで,いつもごろごろしている天の川君は早瀬という雰囲気はかけらもなし。まさに「淀んだ淵」だね。

天の川 「やかましいなあ。寝てばっかりはわしの甲斐性や。放っといてんか!」

対語シリーズ「解くと結ふ」に続く。

2012年6月8日金曜日

対語シリーズ「手と足」‥七夕の織姫は手足をリズミカルに動かせた?


「手」と「足」が本当の意味で対語であるか微妙かも知れませんが,万葉集の多くの和歌で「手」と「足」が出てきます。
特に「手」は次のような多くの熟語になり,詠み込まれています。

麻手(あさで)‥麻で織った布
伊豆手船(いづてふね)‥伊豆で造船された船
大御手(おほみて)‥天皇の手
水手(かこ)‥舟を漕ぐ人。水夫
蛙手(かへるて)‥カエデ
衣手(ころもで)‥袖
手柄(たかみ)‥剣のつか
直手(ただて)‥自分の手(自分だけ)で行うこと。
手玉(ただま)‥手に付ける玉
手力(たぢから)‥腕力
手束(たつか)‥手に握り持つこと
手作り(たづくり)‥手で織った布
手馴れ(たなれ)‥扱いに慣れていること
手挟む(たばさむ)‥手で挟む
手火(たひ)‥手に持って道などを照らすたいまつ
手巻(たまき)‥ひじに纏った輪形の装飾品
手枕(たまくら)‥腕を枕とすること
手向け(たむけ)‥神や死者の霊に物を供えること
手本(たもと)‥ひじから肩までの間
手弱し(たよわし)‥か弱い
手弱女(たわやめ)‥たわやかな女性
手童(たわらは)‥幼い子供
手折る(たをる)‥手で折る
柧手(つまで)‥荒削りした木材
手臼(てうす)‥手で杵を持って穀物を挽く臼
手染め(てそめ)‥手で染めたもの
手斧(てをの)‥ちょうな
長手(ながて)‥遠い道
最手(ほつて)‥優れた技
井手(ゐで)‥田の用水を塞き止めているところ

いっぽう,「足」は次のような熟語として使われています(「足る」の用例は除く)。

足占(あうら)‥足を使った占い
足掻き(あがき)‥馬などが前足で掻いて進むこと
足飾り(あしかざり)‥足に付ける飾り
足玉(あしだま)‥足に付ける玉
足早(あしはや)‥速力が速いこと
足痛く(あしひく)‥足に病がある
足悩む(あしゆむ)‥足が痛む。難儀しながら歩く
足速や(あばや)‥足が速いこと
足結(あゆひ)‥動きやすいように袴を膝頭で結んだ紐。

では,まず「手」と「足」が両方詠み込まれていて,七夕を題材にした詠み人知らずの短歌を紹介します。

足玉も手玉もゆらに織る服を君が御衣に縫ひもあへむかも(10-2065)
あしだまも ただまもゆらに おるはたを きみがみけしに ぬひもあへむかも
<<手足につけた飾り玉が触れ合って奏でる音を聞きつつ織る布は,七夕の夜貴方に着ていただくための御衣用なの。お気に入りの形に縫えるよう織れるかしら>>

ところで,後1カ月足らずで七夕がやってきますね。
この歌は織姫の気持ちを詠んだ短歌です。機織(はたおり)は手と足を使いながら行います。足は経糸(たていと)を交互に上と下に分ける踏み台を踏む作業をします。手は舟形をした杼(ひ)と呼ばれる道具を横に走らせ,緯糸(よこいと)を通す作業を行います。
これをタイミング良く繰り返すと,きっと手と足に付けたアクセサリーに付いている玉が触れ合って規則正しい音を立てていたのかも知れませんね。
この音が途絶えることが無いほど頑張って機織をしているけれど,たくましい牽牛に似合いの大きさに織れるか心配している織姫の気持ちをこの作者は表現したかったのでしょうか。
さて,次は同じく七夕と手を詠んだこれも詠み人知らずの短歌を紹介します。

年にありて今か巻くらむぬばたまの夜霧隠れる遠妻の手を(10-2035)
としにありて いまかまくらむ ぬばたまの よぎりこもれる とほづまのてを
<<年に一度,今こそ抱き合おう。夜霧の衣に包まれた彼方の妻の手によって>>

年に一度の逢瀬,天の川対岸の織姫の手で抱かれたい。そんな男の願望が私には伝わってきます。
残念ですが,七夕と身体の足を詠ん和歌は万葉集にはありません(「足る」という意味では出てきます)。しかし,天平感宝元(749)年7月7日越中にて「立つ(足で)」を詠んだ大伴家持の短歌はあります。

安の河こ向ひ立ちて年の恋日長き子らが妻どひの夜ぞ(18-4127)
やすのかは こむかひたちて としのこひ けながきこらが つまどひのよぞ
<<天の川を挟んで向かい立ち,一年に一度の恋に首を長くして待っていた恋人たちが,今夜は共寝をする夜だ>>

今回,万葉集で多く詠まれている手と足について,七夕の切り口で見てみました。万葉時代,七夕では若い男女の手や足が活発に動いたのでしょうね。おっと,勘違いしないでくださいね。文(ふみ)や和歌を書いたり,恋人や妻の家まで歩いたり,恋人や夫を迎える準備をしたりすることですよ。
対語シリーズ「淀と瀬」に続く。

2012年5月27日日曜日

対語シリーズ「拾ふと捨(棄)つ」‥捨てる神あれば拾う神あり


<1神教でない日本のことわざ>
「捨てる神あれば拾う神あり」という有名な諺があります。自分の味方になってくれず遠ざけるしかない人もいれば,自分の味方になってくれて近しい関係になれる人もいるといった意味でしょうか。
すごく苦手な人や話が合わない人がたくさんいても,きっとどこかに自分を理解してくれる誰かがいると信じ,くよくよしないことを諭している諺のようです。
<苦手な人から逃げない>
若い頃の私は苦手な人とは付き合いを避けて(捨てて)いました。年齢を重ねた最近でも,どうしても苦手な人が私にはいます。しかし,今はそういった人を避けるのではなく,普通に付き合おうと努力しています。
当然苦手ですからコミュニケーションが円滑に進まないことが多々ありますが,「もう~。またかよ~?」と心の中で愚痴を言いながらも,我慢して付き合います。それを繰り返していくうちに,苦手意識は無くなるわけではありませんが,結果の悪さも予想の範囲内に収まるようなってきます。
<仲が良くても一定の距離は必要?>
逆に拾う神のコミュニケーションが円滑に進む近しい人には,無理してお互い相手に合わせていないか検証します。もし,仲の良さを維持するためだけに自分の本心と違うことを言っているようだと敢えて考えの違いを強調させることがあります。
当然それをやると今までの親しい関係が崩れるリスクの発生する恐れがありますが,より強いお互いの関係を築くためには避けて通れないものだと私は考えています。
さて,万葉集では「拾」の漢字を当てる和歌は20首余りあります。その多くが万葉仮名でも「拾」という字を当てています。いっぽう,「捨」か「棄」の漢字を当てる和歌は8首のみです。
「拾」は,20首あまりありますが,拾う対象は「玉」「貝」の2種類のみです。「捨」「棄」は,捨(棄)てる対象は「命」「古着」「子供」「我」「破れ薦」です。また「沓を脱ぎ棄てる」という表現もあります。
まず「拾」の和歌を紹介します。「玉を拾う」詠み人知らずの長歌です。

沼名川の底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく惜しも(13-3247)
ぬながはのそこなるたま もとめてえしたまかも ひりひてえしたまかも   あたらしききみがおゆらくをしも
<<沼名川の底にあるという玉。探し求めて得られる玉なのか川底から拾って得られる玉なのか。可愛い君が年をとって老いるのが惜しい>>

沼名川は長野県白馬村から新潟県糸魚川市へ北向し日本海に注ぐ姫川といわれているそうです。その川では昔から翡翠(ヒスイ)の産地のようで,その翡翠はそれを掛けると不老不死になるという評判があった玉のようでした。
その川まで行って,その玉を何とかして探し,年老いて行く最愛の妻に贈っていつまでも若くいてほしいという気持ちが表現されています。拾うはその川のどこかにきっとあるという意味で使ったのだと私は感じます。
次は旅立つとき,家族から綺麗な貝を拾ってお土産に持って帰って欲しいとせがまれ,その貝を拾おうとしている詠み人知らずの短歌(古歌)です。

つともがと乞はば取らせむ貝拾ふ我れを濡らすな沖つ白波(7-1196)
つともがと こはばとらせむ かひひりふ われをぬらすな おきつしらなみ
<<お土産とねだてられたら貝を拾っている私をそう濡らさないで欲しい。沖から寄せてくる白波よ>>

こういった歌が昔に詠まれたとあると当時の人もその地に行ってみたいと思うのではないでしょうか。波は荒いがきっと綺麗な真珠が採れるのではないかと期待して。
さて,次は捨(棄)てる方の歌(山上憶良作)を見てみましょう。

富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも(5-900)
とみひとのいへのこどもの きるみなみくたしすつらむ きぬわたらはも
<<金持ちの家の子は余るほどの着物を持っていて,持ち腐れにしては捨てている。それも綿入りの絹物をだ>>

万葉時代,律令制のよる出世意欲を煽るため,高級官僚と下級官僚との間,さらに農民やそこから駆り出される労働者との間の貧富の格差は非常に大きなものがあったのでしょう。
憶良はそんな世の中を憂い,無駄はやめ,富の再配分により,多数の中間層ができることを願ったのだろうと私は思いたいのです。そうすることで,経済が活性化し,本当の意味で持続的な経済成長が望めると考えたのかもしれません。
最後に,神は自分を捨てても構わない。自分も神を捨てる。その結果命が無くなってしまっても惜しくはないという激しい恋情を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。

霊ぢはふ神も我れをば打棄てこそしゑや命の惜しけくもなし(11-2661)
たまぢはふかみもわれをば うつてこそしゑやいのちのをしけくもなし
<<霊力のある神も私を打ち棄ててしまって私の命が無くなっても構わないの>>

この作者の恋の相手は許されない恋人同士になることが許されない関係なのでしょうか。
万葉集には優秀な人材であったが姦通罪で土佐に流罪になった石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)の例が掲載されています。その後の恩赦で流罪が解かれ,最後は従三位中納言まで上り詰めました。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」ですね。
対語シリーズ「手と足」に続く。


2012年5月21日月曜日

私の接した歌枕(18:葛飾)

<結婚後の住まい>
私は妻と結婚するにあたり,それまで住んでいた独身用アパートから夫婦で生活をするための住まいを探しました。その結果,空き家が出るのを待たなくても入れるという埼玉県北葛飾郡(当時)にある公団(現UR)賃貸住宅に住むことにしました。
妻の実家(茨城県古河市)から比較的近い場所(車で40分)でした。勤務先(東京多摩地域)に通うのは多少時間が掛かりますが,武蔵野線で乗り換えなしで行けることから選びました。また,江戸川が近く,河川敷ゴルフ場や船橋や取手など近辺のゴルフ場にゴルフ仲間とゴルフに行く機会もかなり増えました。
ただ,入居した公団住宅の棟は敷地のもっとも北端で,駅からもっとも遠い場所でした。我が家の棟の北側は一面の稲田で,夏には牛ガエルの鳴声が大きく響き渡るような田舎でした。我が家(5階)の北側の部屋からの眺めは結構古い昔の農村風景を感じさせるような光景でした。

さて,万葉時代の葛飾について考えます。万葉時代の葛飾は,千葉東京埼玉にまたがる大きな地域だったようです。川の氾濫で住まいが水没する危険はありましたが,川の恵を受ける風光明媚な水郷地帯だったのだろうと思います。
川魚(ウナギ,ナマズ,ドジョウ,コイ,フナなど)は豊富に捕れ,稲作や畑作にも適していました(山は少なく開墾が楽だったようです)。レンコン,セリ,ジュンサイ,フキ,アサツキ,ミツバ,マコモ,ヒシ,ガマ,クワイなど沼地で採れる食用,薬用の植物が豊富だったと考えられます。
海に面している地域もあるため,もちろん海の幸(魚介類)も豊富に収穫できたのでしょう。
万葉集で葛飾を詠った歌のほとんどが次の高橋虫麻呂歌集に出てくる短歌のように真間の井(ままのゐ)の場所でいつも水汲みをしていた手児名(てこな)伝説をモチーフに詠んだ歌です。

勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ(9-1808)
かつしかのままのゐみれば たちならしみづくましけむ てごなしおもほゆ
<<葛飾の真間の井戸を見るといつもここで水を汲んだという手児名のことが思い起こされます>>

手児名伝説とは,手児名と呼ばれた娘が昔いて,その美貌のため,真間の井に水汲みに来る時は多くの男達がやってきて,言い寄ったのです。その中で二人の男が手児名を求めて争ったのですが,その激しさに手児名は戸惑い,耐えられずついに海に身を投げて自殺したというものです。
ちなみに高橋虫麻呂歌集から万葉集に転載した歌には,各地の伝説が多く載せられています。
もしかしたら,高橋虫麻呂歌集は旅行ガイドブックのような目的で編まれたのではないかと思いたくなるほどです。
そして,もう一人,万葉集で旅行評論家のような有名な歌人がいます。そうです。その歌人は山部赤人です。赤人も真間の井を詠んでいます。次はそれを詠んだ長歌に対する反歌2首です。

我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ(3-432)
われもみつひとにもつげむ かつしかのままのてごなが おくつきところ
<<私もここまできて見た。そのことを人に告げよう。葛飾の真間の手児名の塚のあるところを>>

葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ(3-433)
かつしかのままのいりえに うちなびくたまもかりけむ てごなしおもほゆ
<<葛飾の真間の入江で揺れる海藻を採っていた手児名がどんなに可愛かった想像してみよう>>

こういった,男が自分のために激しく争う姿を見かねて自殺してしまう伝説は他の地方にもあります。例えば,兵庫県神戸市東部に伝わる菟原処女(うなゐをとめ)伝説です。
この類の伝説は,無用な争いをすればすべてを無くしてしまい,悲劇を呼ぶことを諭したものと私は考えます。
当時,各地にある伝説の地を訪れる旅を企画したエージェントのような組織があったのではないでしょうか。赤人や虫麻呂歌集の和歌を披露し,旅への誘いをして,参加者から代金を徴収し,旅の手配やガイド(赤人,虫麻呂もそうだったかも?)を同行させるようなビジネスだったかも知れません。
もし,万葉時代にこのようなビジネスが成り立っていたとしたら,万葉時代は私たちが考える以上にサービス産業が活性化した時代だったという視点で見直す必要がある気がします。
さて,これで遅くなりましたが,今回のゴールデンウィーク特集は終り,次回から対語シリーズに戻ります。
対語シリーズ「拾ふと捨(棄)つ」に続く。

2012年5月13日日曜日

私の接した歌枕(17:丹波)

とっくにゴールデンウィーク(GW)は終わっていますが,このブログはまだGWスペシャル「私の接した歌枕特集」が続いています。 本当は,GW中にアップする予定がGW中にいろいろ所用が立て込み,アップできなかったのです。 そんな事情で,もう少し歌枕シリーズにお付き合いください。
<母の実家>
 私の母の生家は京都市亀岡市です。本日のテーマの丹波地方に属します。ただ,生家は亀岡市といっても,南西部で大阪府北部の能勢町豊能町に近い曽我部という地区にあります。
 亀岡市のこの地域は,もともと能勢町,豊能町,兵庫県川西市などとの交流が盛んで,母の弟の妻は能勢町から嫁いできましたし,母の妹は川西市の農家に嫁ぎました。
 母の生家は農業(大地主の小作人)でしたが,太平洋戦争中二十歳前後であった母は,農家を手伝うことはあまりなく,軍服や僧侶の袈裟を作る縫製工場で働いていました。 戦争末期の大阪大空襲が繰り返された頃,母の生家からは大阪方面の空が真っ赤に染まったときもあったと話をしてくれた記憶があります。
敗戦後は,大阪や京都から多くの人々が食料(米,野菜)などを求めてやってきて,高額な金品と交換できたようです。 また,農地改革で1ヘクタールほどあった小作地の所有が認められ,母の生家はかなり潤ったようです。
<母の実家への訪問は楽しみ>
 私は幼い頃,母の生家にも頻繁に行きました。 京都からは山陰線のSLに乗り,嵯峨馬堀間の保津川渓谷(今はトロッコ列車が観光用に走行)を8つのトンネルを通過するたびに発する汽笛の音を聞きつつ,景観を楽しみました。その情景は今も鮮明に記憶に残っています。
 母の生家は戦後数年たって家を新築しました。広い座敷や牛に与える麦わら小屋は私が行った時に従弟たちと相撲を取ったり,かくれんぼをしたり,麦わら細工を作ったりする絶好の遊び場でした。 また,放し飼いの鶏を追いかけまわしたり,山に「探検」と称して入り,本当かどうか分かりませんが従弟がキツネの巣らしいと言った穴を恐る恐る突いたりして,ワイルドな遊びもできたのです。
 私にとって,父の兄が滋賀県大津市石山で営んでいた鍼灸院,母の生家である亀岡市に行ったことは,本当に楽しい思い出なのです。
 実は万葉集で母が生まれた丹波を詠んだ歌は次の詠み人知らずの短歌1首のみです。

 丹波道の大江の山のさな葛絶えむの心我が思はなくに(12-3071)
 <たにはぢのおほえのやまの さなかづらたえむのこころ わがおもはなくに
<<丹波道にある大江の山のさな葛のように絶えないあなたへの心。私はそう思わないはずが無いのに>> 

ただ,万葉時代には丹波道はしっかり整備されていて,丹波地方で作られた物産を京(平城京)に運んでいたようです。 ほぼすべてが山道(峠越えも多かった)で,夏には葛が繁茂し,絶え間なく葛の生えた列が続いていたのでしょう。
この大江山は次の百人一首に出てきます。作者は和泉式部(いづみしきぶ)の娘である小式部内侍(こしきぶのないし)です。

 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立(百人一首-60)
 <<大江山を越え,生野を通る丹後への道は遠すぎます。ですから天橋立の地を踏んだこともありませんし,母からの(丹波地方を様子を書いた)手紙も見ておりませんわ>>

 小式部内侍は母からの英才教育で短歌を詠む天才と言われていました。この短歌は「もう私は母からの手助けがなくても良い短歌を作れますのよ」ということを娘は表したかったように私は思います。
<母の裁縫スキル>
さて,また私の母の話に戻します。 戦中に縫製工場で働いていた縫製技術で母は結婚後も,私たち兄弟を育てるため,僧侶の袈裟だけでなく,女性用の和服(振袖,留袖,訪問着,喪服(着物),浴衣など)の仕立ての内職をして生活の糧にしてくれました。 私たちの子育てが終わってからも,母には注文が頻繁に来ていたので,結構確かな仕立ての技術をもっていたのかも知れません。
昨日,私と妻は滋賀県の施設にいる私の母に会ってきました。母は今年米寿ですがいたって元気でした。私と妻と母とで,昔の童謡,唱歌などをたくさん一緒に楽しく唄いました。母は大変喜んでくれ,少しは母の日のプレゼントになったようです。
私の接した歌枕(18:葛飾)に続く。

2012年5月11日金曜日

私の接した歌枕(16:三輪山)

この季節,奈良盆地を囲む山々が新緑の時期を迎えます。 奈良には何度も行っていますが,そんなにいろいろな場所に行っているわけではありません。 やはり,よく行くのは奈良市内と明日香ですが,大和古道の一つ山の辺の道も1~2度行っています。
 山の辺の道は天理市から奈良盆地の東側の山に沿って南の方に延びている古道です。 南の端に三輪(みわ)山があります。 万葉集では,三輪山,三輪の山,三諸(みもろ)の山と表現しています。 次は額田王が三輪山を詠んだ有名な短歌です。三輪山を望むあちこちにこの歌の歌碑が立っています。 

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(1-18)
 <みわやまをしかもかくすか くもだにもこころあらなも かくさふべしや
<<三輪山をそんなふうに隠すのか。せめて雲だけでも情けがあってほしい。隠すなんてことがあってよいのだろうか>> 

この短歌は,天智天皇飛鳥を離れ,滋賀県大津に京を移すことを決め,飛鳥を離れる時に詠んだとされるものです。 私は万葉集が歌物語と考えるとストーリの始まりは大津京遷都のような気がします。 もちろん,それ以前和歌も載っていますが,それはストーリ開始以前の思い出として出てくる和歌の位置づけでしかないように思うのです。
 大津京遷都の後,天智天皇が亡くなり,壬申の乱,京は飛鳥に戻ります。天武天皇持統天皇と続く天武系の天皇が治める時代(奈良時代中期まで)を万葉集はさまざさまな歌人を通して物語ります。 まさに天皇から下級官僚,名も無い庶民,防人に至るまでです。
そして,その物語のシナリオにそって和歌を集め,万葉集を編纂したのはやはり大伴家持であることは間違いないと思います。
 なお,次の短歌(1首目は丹波大女娘子の短歌,2首目は柿本人麻呂歌集にあったという詠み人知らずの短歌)から三輪山には万葉時代から杉や桧の森林が発達していたと想像できます。

 味酒を三輪の祝がいはふ杉手触れし罪か君に逢ひかたき(4-712)
 <うまさけをみわのはふりが いはふすぎてふれしつみか きみにあひかたき
 <<三輪の神に仕えるものたちが大切に祀っている大杉に手を触れた罪なのか。君に逢うことがむずかしいのは>>

 いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の桧原にかざし折りけむ(7-1118)
いにしへにありけむひとも わがごとかみわのひはらに かざしをりけむ
<<昔に暮らしていた人も,今の私たちのように三輪の桧原で小枝を折って髪に挿したのでしょうか>>

 万葉時代から,山の樹木(特にスギやヒノキの常緑樹)は人に霊気や癒しを与えるものと考えられたのでしょう。 そのため,神体とあがめられた三輪山も樹木で埋め尽くされ,各地の神社にも鎮守の杜(もり)が作られ,霊験新たかな場所のイメージを演出してきたのかも知れません。 今で言えば,森林浴のフィトンチッド(針葉樹に多く含まれているという)の癒し効果を人々は昔から何となく感じていたのかも知れませんね。
また,三輪は素麺で有名ですが,地元産は結構いい値段です。そこで,私は三輪素麺の切れ端である「ふし」を買って,自宅のお土産にします。 近いうちに再び山の辺の道を散策し,三輪山を眺めてみたいと考えています。
 私の接した歌枕(17:丹波)に続く。

2012年5月4日金曜日

対語シリーズ「干潮と満潮」‥潮汐,それは生き物への贈り物

日本で潮の干満の差が大きい場所として有名なのはハゼの仲間のムツゴロウで知られる有明海でしょう。大潮の干潮時には6㎞先まで干潟ができるそうです。しかし,フランスのノルマンディ地方にある世界遺産モンサンミシェルが面しているサン・マロ湾は同干潮時には18㎞先まで干潟ができるとのことです。
干潟と言えば何といっても潮干狩りですね。まだ少し先ですが早いところでは3月上旬から潮干狩りができるところがあるようです。潮干狩りは春の季語だそうで,やはり干満の差が一番大きくなる大潮のときが潮干狩りに最適と言われています。大潮の干潮では,大潮以外の干潮では海底だった部分が潟として直接外気に触れる場所が出てきます。そこに住んでいる貝は大潮の干潮以外は海の底ですから,鳥などに食べられる危険性が少ないため,たくさんの貝が生息している可能性が高いことになります。
太古から干潟が貝や小さなカニなどの宝庫であることを知っていたのは鳥たちでしょう。

奈呉の海に潮の早干ばあさりしに出でむと鶴は今ぞ鳴くなる(18-4034)
なごのうみにしほのはやひば あさりしにいでむとたづは いまぞなくなる
<<奈呉の海で潮が引き始めたすぐに餌をあさりに出ようと鶴は今やしきりに鳴いています>>

この万葉集にでてくる短歌は,天平20(748)年3月23日大伴家持が越中に赴任中,左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の使者田邊福麻呂(たなべのさきまろ)が越中の家持邸を訪れた宴で詠んだとされています。福麻呂には,よほど餌が獲れるとうるさく鳴いているように感じたのでしょうね。
さて,万葉時代から大潮や小潮と月の満ち欠けに有意な相関があることを知っていたのだろうと次の有名な額田王の短歌でもわかります。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)
にぎたつにふなのりせむと つきまてばしほもかなひぬ いまはこぎいでな
<<熟田津から船に乗って出発しょうと月を待っていたが,潮の具合が出航ができる状況になってきた。今こそ漕ぎ出しましょう>>

待っている月は満月であり,満月のとき(新月のともそうですが)は大潮です。大潮のときの満潮時に船を出し,強い引き潮を利用して外海に出るのに適していたのでしょう。
潮が満ちることと船の到来の関係を大伴家持が越中で詠んだ短歌をもう一つ紹介します。

沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ(18-4045)
おきへよりみちくるしほのいやましに あがもふきみがみふねかもかれ
<<沖の方から満ちてくる潮がいよいよ海の水が増えて行くようにだんだん近づいて大きく見えるあの船は私が慕う貴方の船だろうか>>

これも当時満ち潮に合わせて船を沿岸に近づける操船が行われていたことを示すものだと私は想像します。
次に干潮を詠んだ詠み人知らずの旋頭歌を紹介します。
この歌は万葉集の中でも思想的にかなり深い意味が込められている1首だと私が感ずるものです。

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ(16-3852)
いさなとりうみやしにするやまやしにする しぬれこそうみはしほひてやまはかれすれ
<<海も死ぬのか。山も死ぬのか。そう,海も山も死ぬからこそ海は干潮になり,山は冬枯れになる>>

わざと似た訳にしませんでしたが,この訳で思い出した人もいるかもしれません。
そう,さだまさしの「防人の詩」(映画「二百三高地」の主題歌)の歌詞「~ ♪海は死に~ま~すか 山は死に~ま~すか ~」です。
3852の旋頭歌は万葉時代の防人が詠んだのではなさそうですが,世の無常さ,人の命はかなさを知った人(仏教の深い知識を持った人)が詠んだ歌でしょう。
ところで,Wikipediaでは,さだはこの旋頭歌を意識して「防人の詩」の歌詞をつくったのだろうされています。
<激動の社会をしたたかに生き抜くには>
この旋頭歌の作者は万葉時代,飢饉,疫病,火災,風水害,地震などで多くの人が死んでいったり,苦しんだりしているのを見て,そういったことの原因は人間など生き物の宿命なのかという問いに対して,ノーと答えているのだろうと思います。
生き物でない海だって,山だって死ぬのだ,潮が引いて海の一部がでなくなったり,山が雪に覆われてしまい死んだようになったりするではないかと言っているのです。そして作者はこの旋頭歌の内容を受け入れるとしたら次はどう考えればよいか「考えなさい」と問いかけていると私は思うのです。
一見命を持たないと思われる自然も死んだように見えることがあるが,しばらく経ったら元の姿(潮が満ちて元の海,春が来て生き生きとした山の姿)に戻る。
だから,人の命も人の不幸もやがて生まれ変わることができ(輪廻転生<りんねてんしょう>),また生きるなかで不幸や苦悩から脱することができる(煩悩即菩提<ぼんのうそくぼだい>)ことを示したかったと私は感じます。
私もそのうちの一人ですが,今悩ましいことだらけで,つらく苦しい思いがいつまでたっても無くならないと感じている人も多いかもしれません。
私はこの旋頭歌が今や過去の苦労や不幸ばかりにとらわれることなく,前向きに生きて行くことよって,良い方に向かっていくことを示してくれているように感じます。
いずれにしても潮汐の変化をうまく利用してしたたかに生きている生き物は少なくないと思います。
変化の激しい現代社会,その変化の先を見極めて,したたかに生き抜くことこそが未来の世代に対する私たちの責任ではないでしょうか。
対語シリーズ「明と暗」に続く。