2012年5月13日日曜日

私の接した歌枕(17:丹波)

とっくにゴールデンウィーク(GW)は終わっていますが,このブログはまだGWスペシャル「私の接した歌枕特集」が続いています。 本当は,GW中にアップする予定がGW中にいろいろ所用が立て込み,アップできなかったのです。 そんな事情で,もう少し歌枕シリーズにお付き合いください。
<母の実家>
 私の母の生家は京都市亀岡市です。本日のテーマの丹波地方に属します。ただ,生家は亀岡市といっても,南西部で大阪府北部の能勢町豊能町に近い曽我部という地区にあります。
 亀岡市のこの地域は,もともと能勢町,豊能町,兵庫県川西市などとの交流が盛んで,母の弟の妻は能勢町から嫁いできましたし,母の妹は川西市の農家に嫁ぎました。
 母の生家は農業(大地主の小作人)でしたが,太平洋戦争中二十歳前後であった母は,農家を手伝うことはあまりなく,軍服や僧侶の袈裟を作る縫製工場で働いていました。 戦争末期の大阪大空襲が繰り返された頃,母の生家からは大阪方面の空が真っ赤に染まったときもあったと話をしてくれた記憶があります。
敗戦後は,大阪や京都から多くの人々が食料(米,野菜)などを求めてやってきて,高額な金品と交換できたようです。 また,農地改革で1ヘクタールほどあった小作地の所有が認められ,母の生家はかなり潤ったようです。
<母の実家への訪問は楽しみ>
 私は幼い頃,母の生家にも頻繁に行きました。 京都からは山陰線のSLに乗り,嵯峨馬堀間の保津川渓谷(今はトロッコ列車が観光用に走行)を8つのトンネルを通過するたびに発する汽笛の音を聞きつつ,景観を楽しみました。その情景は今も鮮明に記憶に残っています。
 母の生家は戦後数年たって家を新築しました。広い座敷や牛に与える麦わら小屋は私が行った時に従弟たちと相撲を取ったり,かくれんぼをしたり,麦わら細工を作ったりする絶好の遊び場でした。 また,放し飼いの鶏を追いかけまわしたり,山に「探検」と称して入り,本当かどうか分かりませんが従弟がキツネの巣らしいと言った穴を恐る恐る突いたりして,ワイルドな遊びもできたのです。
 私にとって,父の兄が滋賀県大津市石山で営んでいた鍼灸院,母の生家である亀岡市に行ったことは,本当に楽しい思い出なのです。
 実は万葉集で母が生まれた丹波を詠んだ歌は次の詠み人知らずの短歌1首のみです。

 丹波道の大江の山のさな葛絶えむの心我が思はなくに(12-3071)
 <たにはぢのおほえのやまの さなかづらたえむのこころ わがおもはなくに
<<丹波道にある大江の山のさな葛のように絶えないあなたへの心。私はそう思わないはずが無いのに>> 

ただ,万葉時代には丹波道はしっかり整備されていて,丹波地方で作られた物産を京(平城京)に運んでいたようです。 ほぼすべてが山道(峠越えも多かった)で,夏には葛が繁茂し,絶え間なく葛の生えた列が続いていたのでしょう。
この大江山は次の百人一首に出てきます。作者は和泉式部(いづみしきぶ)の娘である小式部内侍(こしきぶのないし)です。

 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立(百人一首-60)
 <<大江山を越え,生野を通る丹後への道は遠すぎます。ですから天橋立の地を踏んだこともありませんし,母からの(丹波地方を様子を書いた)手紙も見ておりませんわ>>

 小式部内侍は母からの英才教育で短歌を詠む天才と言われていました。この短歌は「もう私は母からの手助けがなくても良い短歌を作れますのよ」ということを娘は表したかったように私は思います。
<母の裁縫スキル>
さて,また私の母の話に戻します。 戦中に縫製工場で働いていた縫製技術で母は結婚後も,私たち兄弟を育てるため,僧侶の袈裟だけでなく,女性用の和服(振袖,留袖,訪問着,喪服(着物),浴衣など)の仕立ての内職をして生活の糧にしてくれました。 私たちの子育てが終わってからも,母には注文が頻繁に来ていたので,結構確かな仕立ての技術をもっていたのかも知れません。
昨日,私と妻は滋賀県の施設にいる私の母に会ってきました。母は今年米寿ですがいたって元気でした。私と妻と母とで,昔の童謡,唱歌などをたくさん一緒に楽しく唄いました。母は大変喜んでくれ,少しは母の日のプレゼントになったようです。
私の接した歌枕(18:葛飾)に続く。

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