2015年12月31日木曜日

400回記念スペシャル(1)…万葉集の編纂目的は金儲け?

<情報量とは>
次回で本ブログは400回投稿を達成します。初回投稿から7年近い期間が流れました。
ここまで続けられたのも,(何度もこのブログで述べていますが)万葉集が持つ情報量の多さが大きな要因であることは間違いありません。
私のようなIT系の人間がいう情報量とは,データ量とは異なります。データ量は,同じデータが多くあっても,データの絶対量(例えば文字数や住所録の1人分あたるようなレコード数)全体の大小で量ります。
しかし,情報量はまったく同じデータはいくらそれが何千,何万あっても,1と数えます。同じ意味であるが形式が異なるものも一つと数えます。例えば,和暦で表現した平成28年と西暦で表現した2016年は,見た目は異なりますが同じ意味成ので情報量としては一つとなります。ただ,和暦と西暦が年の表現として別にあるということはまた別の情報としてカウントします。
<万葉集の情報量と和歌としての評価は別>
この説明で訳が分からなくなった人は,要するに万葉集は多様性が多くあるがゆえに情報量が多いと理解してくださればよいと思います。
こういうと,万葉集はただ整理されていないだけで,優れた歌人もヘタな歌人もごじゃまぜにした未完成の歌集だと思う人がいるかもしれません。
優れている/劣っているの違いは,その人が好き/嫌いの違いでしかないと私は思っています。結局,評価する人の価値観やその人が勝手に決めた評価基準を基に歌人の詠んだ和歌に点数付をしているだけでしかないだろうと私は思うのです。
今まで,万葉集をこよなく愛し,研究に研究を重ねた人の努力やその成果物(論文や著作)の価値を認めないというのではありません。でも,研究論文を読んでもその人が述べようとしていることが難しすぎて理解するのに時間が掛かり過ぎます。また,細部にこだわり過ぎて万葉集全体が見えません。また,初級者用の分かりやすい解説本も多数出ていますが,どれも同じような解説ばかりが書いてあり,書かれていないことに実は大きな価値があるかもしれないと不安になります。
<このブログを簡潔に書けない理由>
ところで,私が書いているこのブログは分かりやすいかというとそうでもありません。多分長すぎて読む気になれない人も多いと思います。このブログは自分のために書いているようなものです。どこまで,万葉集の編集目的を分かったかですね。
私は毎年といってよいほど,その理解の深まりのまとめとして,万葉集の編集目的を書いています。毎年少しずつ表現が異なっています。それだけ編集目的の理解が進んだためだと私は勝手に思っています。何せ年60件近く投稿するために自分で調べている訳ですから。
<万葉集編纂の目的>
今年の「万葉集編集の目的」は次の通りです。

「大伴氏自らの氏族繁栄のために万葉集を編纂した。すなわち,万葉集の編纂は金儲けが目的であった」

大伴氏が酒造所を持っていたらどうでしょうか。製糸,機織,染め物の大規模な作業場を持っていたらどうでしょうか。和紙・筆・墨を作る工場のようなものを持っていたらどうでしょうか。大規模な農園や山林を持っていたらどうでしょうか。各地に旅行者用の施設を運営していたらどうでしょうか。建築業や造園業を営んでいたらどうでしょうか。陶器の製作所あちこちに持っていたらどうでしょうか。造船所を持っていたり,大きな船を何隻も所有していたらどうでしょうか。各地に農業用の道具に使う,刃物に使う,兵器に使うような金属の加工所多く持っていたらどうでしょうか。
<消費拡大を目指す万葉集>
万葉集に出てくる和歌から,歴史や名所を巡る旅や綺麗な景色や鳥の声を聞くたびをして見たくなる,ブランドの船に乗ってみたくなる,素敵な服を着てみたくなる,美味しい酒や料理をみんなで食べたくなる,綺麗で立派な家を立てたくなる,豪華な庭を作って豊かな生活を送ってみたくなる,そして優雅にうまい歌人を真似た和歌を詠んでみたいと思うのではないかとと私は想像するのです。
そして,恋をして,恋に苦しんで,恋の苦しさから逃れるために文を書く,苦しさを忘れるために和歌を詠む,そこで使われるのが高級な和紙なのです。
万葉集の和歌が消費の拡大に貢献していることを私は強く感じます。
私の周りにいる大学時代の万葉集研究クラブの後輩などにこの話をすると,聞いた側は「残念です」という顔をします。なぜなら,何か私が万葉集の価値を低めているように見えるからでしょうか。
<経済学部出身から私から見たら当然の行為>
私は,万葉集の和歌が金儲けのために詠まれたと言っているのではありません。編集者が既存の和歌を集めた目的がそうだと言っているだけです。そうでないと,名もない歌人(私は古今和歌集のように「詠み人知らず」といっています)の和歌や,決して上手ではないと後の有名歌人さんが言いそうな和歌がいっぱい入っている理由の説明が付つかない私は思うのです。
もうじき,2015年も終わります。お酒を飲む機会が多くなります。万葉集では,お酒を勧めている和歌がある一方で,ほどほどにすることもわきまえることを勧めるような和歌もあります。
丹生女王(にうのおほきみ)が大伴旅人と酒を酌み交わしているときに詠んだ短歌です。

古人のたまへしめたる吉備の酒病めばすべなし貫簀賜らむ(4-554)
ふるひとのたまへしめたる きびのさけやめばすべなし ぬきすたばらむ
<<旅人様がお召し上がりの吉備の名酒も,私は気分が悪いのでもう結構です。それより貫簀をいただけますか>>

貫簀(ぬきす)は,たらいの上に竹で編んだ簀子のようなものをかぶせたもので,女王は飲み過ぎで吐きたいほど気分が悪くなったのでしょうね。
えっ?この歌で貫簀が売れるって?
いずれにしても,お酒の量は適量になさって,良いお年をお迎えください。
400回記念スペシャル(2)に続く。

2015年12月30日水曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(6:まとめ)」…旅で聞こえる音は孤独感をさらに増加させる?

5回に渡ってアップしてきた「音(おと・ね)」については,今回が最後となります。
万葉集今もあるシリーズの各テーマについて中で,一番多い回数になったようです。
それだけ,万葉集において,何らかの音(自然が発する音,動植物が発する音,自分や他人が発する音)を詠み込んだ和歌が多いのかもしれません。
特に,人が発する音は新しい機械,道具,楽器などの導入により,多様性が増したのだと思います。
自然や動植物が発する音も万葉時代以前とあまり変わらなかったとしても,それを聞く人間側の感じ方はどうでしょうか。
万葉時代よりずっと前は,ほとんどの人が農業を営んでいたすると,多くの人が日が暮れて眠りにつき,夜が明けて田や畑に行くという生活で感じる自然や動植物のが発する音の感じ方も同じだったでしょう。
しかし,さまざまな守衛(津守,時守,崎守,玉守,島守,道守,野守,山守),京や地方の兵士,旅をする人,役人等で定期的に休みが取れる人,都会に住む人,鑑賞用の庭をもてる人,宴への参加が仕事のような人,人を楽しませる演芸が仕事の人,そして路上生活者などが現れた万葉時代では音を感じ方にも多様性が急速に広まった時代だと私は分析します。
これらの音の感じ方の多様性の広がりから感じられる社会の変化についても,万葉集はきめ細かく1300年以上も経った私たちに教えてくれているのです。
「音」の最終回は,丹比笠麻呂(たじひのかさまろ)が筑紫の国(九州北部)に下る旅に出た時,別れも告げずに来た恋人を恋しく思い詠んだとされる次の長歌1首を紹介しておきたいと思います。

臣の女の櫛笥に乗れる 鏡なす御津の浜辺に さ丹つらふ紐解き放けず 我妹子に恋ひつつ居れば 明け暮れの朝霧隠り 鳴く鶴の音のみし泣かゆ 我が恋ふる千重の一重も 慰もる心もありやと 家のあたり我が立ち見れば 青旗の葛城山に たなびける白雲隠る 天さがる鄙の国辺に 直向ふ淡路を過ぎ 粟島をそがひに見つつ 朝なぎに水手の声呼び 夕なぎに楫の音しつつ 波の上をい行きさぐくみ 岩の間をい行き廻り 稲日都麻浦廻を過ぎて 鳥じものなづさひ行けば 家の島荒磯の上に うち靡き繁に生ひたる なのりそがなどかも妹に 告らず来にけむ(4-509)
おみのめのくしげにのれる かがみなすみつのはまへに さにつらふひもときさけず わぎもこにこひつつをれば あけくれのあさぎりごもり なくたづのねのみしなかゆ あがこふるちへのひとへも なぐさもるこころもありやと いへのあたりわがたちみれば あをはたのかづらきやまに たなびけるしらくもがくる あまさがるひなのくにべに ただむかふあはぢをすぎ あはしまをそがひにみつつ あさなぎにかこのこゑよび ゆふなぎにかぢのおとしつつ なみのうへをいゆきさぐくみ いはのまをいゆきもとほり いなびつまうらみをすぎて とりじものなづさひゆけば いへのしまありそのうへに うちなびきしじにおひたる なのりそがなどかもいもに のらずきにけむ
<<女官の櫛笥に乗る鏡を見(み)つめる御津(みつ)の浜辺にて,下紐をまだ解くことも(共寝)できずの彼女を恋いしく思うと,折しも日々朝霧の中で鳴く鶴のように声を出して泣けてしかたがない。この恋しい気持ちの千分の一でも気が慰められるかと,我が家のある大和の方を背伸びして望むが,葛城山にたなびいている白雲に隠れ見えもしない。田舎の遠い国に向うことになる淡路を過ぎて,粟島もうしろに見えるようになり,朝凪には漕手が声をあげ,夕凪には櫓をきしらせて波を押し分け押し分け進み,岩のあいだをすり抜けて進み,稲日都麻の浦のあたりも通り過ぎた。まるで水鳥のようにもまれながら漂い行くと,(家と聞くと)聞くことさえ懐かしい家島の波荒い磯になのりそが靡いて生えているが,彼女にわけも告げず(のりそすることなく)来てしまった>>

この長歌で「音」に関連している私が思う部分を取りあげます。
鳴く鶴の音‥啼いている鶴の声
音のみし泣かゆ‥声出して泣く
水手の声呼び‥漕ぎ手の掛け声が出て
楫の音‥櫓を押すしたり引いたりする音
波の上をい行きさぐくみ‥舟が波を押しのける音
荒磯の上に うち靡き‥荒い波が寄せる音
結局,この1首でも万葉時代における「音」の感性に関する多様性が理解できるかもしれませんね,
今回で投稿398回です。次から2016年年末年始スペシャルを兼ねた投稿400回記念スペシャルを何回かに分けて投稿します。
投稿400回記念スペシャル(1)に続く。

2015年12月17日木曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」…慟哭のシーンは大声で泣く姿か?泣くのを我慢している姿か?

「音(おと,ね)」の5回目は人が「泣く音(声)」について万葉集を見ていきます。
韓国の人が,家族が事故や災害で亡くなると,たいへんな大声で泣く姿が報道されることがあります。
おそらく,韓国ではその声の大きさが悲しみの大きさと比例していると感じられ,悲しみを表現する代表的なシーンとなるのでしょう。
ところが,日本では「悲しみを堪え,耐えている姿」が悲しみの大きさを表すようです。
本当は大声で泣きたいのだけれど,必死に堪えている・常に自制することを美徳とする日本人にはそれが深い悲しみを他者が感じるシーンと映るのでしょう。
このように,慟哭の感情表現の仕方は国(たとえ隣国といえども)の文化や美徳とする考え方の違いで結構異なることがあります。
これを理解しない人が見ると「なんて日本人は冷たい人種なんだろう」「韓国人は意図して大袈裟にやっているだけだろう」というように,間違ったとらえ方をしてしまうことがあります。
自分たちの美徳や感情表現がどの国でも通用すると思い込むことは,相手から理解されない価値観の押し付けになってしまうことにお互いが注意していく必要あると私は思います。
さて,万葉集では「音のみし泣く」という表現が出てきます。意味は「声をあげて泣くばかり」となりそうです。

例として,中臣宅守(なかとみのやかもり)が越前に配流のとき狭野茅上娘子(さちのちがみのをとめ)に贈った短歌1首と逆に娘子から宅守に贈った短歌2首を紹介します。

あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ(15-3732)
あかねさすひるはものもひ ぬばたまのよるはすがらに ねのみしなかゆ
<<昼はただぼ~思い悩み,そして夜はずっと声をあげて泣いてばかりになりそうだ>>

このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音のみしぞ泣く(15-3768)
このころはきみをおもふと すべもなきこひのみしつつ ねのみしぞなく
<<この頃は,あなたを思うとどうしてよいかも分からず,恋しい思いが募り,ただ声をあげて泣いてばかりなのです>>

昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く(15-3777)
きのふけふきみにあはずて するすべのたどきをしらに ねのみしぞなく
<<昨日も今日も,あなたに逢えないので,どうすることもできず,声を上げて泣いてばかりなのです>>

最初の宅守の贈歌(夜泣いている)に対して,娘子は昼も夜も,昨日も今日も声をあげて泣いていることを返します。
枕詞を2つも使って詠んだ宅守(線が弱そう)に対して,強い言葉をたくさん使って詠んだ(線の強そうな)娘子という構図が見えてきそうですね。
最後は,別の声を出してなく表現の言葉を使った詠み人知らず(女性)の短歌です。

思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ(11-2604)
おもひいでてねにはなくとも いちしろくひとのしるべく なげかすなゆめ
<<思い出して声に出して泣いたとしても,はっきりと人に知られてしまうように嘆いたりしないわ>>

恋人の彼と離別したのでしょうか,それとも果敢ない恋と悟ったのでしょうか。
作者が泣くことで,気持ちの整理をつけようとするが,忘れられないのでしょう。下の句の内容は,まさに気持ちの整理ができなさそうだからでしょうか。
冒頭で示した日本人が泣くときに耐える,堪える美学は,万葉集の時代からあったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(6:まとめ)」に続く。

2015年12月12日土曜日

今もあるシリーズ「音(おと,ね)(4)」 …もう鳥の鳴き声は田舎に行かないと聞けないのか?

「音(おと,ね)」の4回目は「鳥」に関する「音」を万葉集で見ていきます。
現代,都会に住む私たちがよく見かける鳥はカラスでしょうか。
スズメもよく見かけると思いますが,カラスが圧倒的に大きいので,どうしても印象に残ってしまいますね。最近ではムクドリの大群の鳴き声が気になるときがあります(鳴き声だけでなく,フンの心配もしますが)。
さて,万葉集では鳥がたくさん詠まれています。
ホトトギスウグイスカリ(雁)ツル(鶴)チドリ(千鳥),ワシ(鷲)のように鳴き声が印象的な鳥も多く出てきます。
最初は「雁が音」を詠んだ聖武天皇の短歌1首を紹介しますが,「雁が音」を詠んだ和歌は万葉集で実に30数首もあります。

今朝の明雁が音寒く聞きしなへ野辺の浅茅ぞ色づきにける(8-1540)
けさのあけかりがねさむく ききしなへのへのあさぢぞ いろづきにける
<<今朝の明け方に雁の鳴き声が寒々と聞え,そして野辺の浅茅が色づいたなあ>>

聖武天皇が,季節が秋になっことを,早朝「雁が音」という「音」で知り,外に出てみれば浅茅(背の低い草)が緑から黄色に変わっていて,秋が深まったことを感じられたという短歌でしょう。
聖武天皇ぐらいになると,忙しくて中々外に出られない身であり,外出時があったとしても,駕籠に乗って移動し,外の風景をじっくり見ることもできなかったのかもしれません。
簡潔に言えば「雁が音」と「秋」の相関関係を「浅茅」の色付きで確認しただけの短歌ということになり,文学的な深みはどうかと思う人もいるかもしれません。しかし,私は当時の人の自然に対する感性を知る上での1例とし,この短歌に対して何のネガティブイメージもありません。
さて,次は「雁」ではなく「鶴(たづ)」の「鶴が音」または「鶴の音」を詠んだ,飛鳥時代の歌人高安大嶋(たかやすのおほじま)の短歌を見ます。

旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし(1-67)
たびにしてものこほしきに たづがねもきこえずありせば こひてしなまし
<<旅先でもの恋しく感じている。鶴の鳴き声も聞こえないとしたら,ひの恋しさで死んでしまうかもしれない>>

この短歌は,持統天皇文武天皇に譲位したあと,難波の宮に行幸した時,お付の者たちが詠んだ和歌の1首です。
持統天皇が譲位する前は,藤原京での賑わいがあった。それに比べて,今来ている難波の宮は静かで,藤原京が慕われるという気持ちの表れでしょうか。唯一ツルの鳴き声だけが聞こえるだけ。もしそれも無ければ,あまりにも変化が無くて,「もの恋しい」を通り越して,死んでしまいそうということなのでしょう。
この短歌は,結局持統天皇の業績をたたえる気持ちを表したのだろうと私は思います。
次は,ホトトギスの鳴く音を越中赴任中に詠んだとされる大伴家持の短歌です。

ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも(17-3988)
ぬばたまのつきにむかひて ほととぎすなくおとはるけし さとどほみかも
<<月に向かって霍公鳥が鳴く声がはるかに聞こえてくる。霍公鳥は人里から離れたところにいるのだろうか>>

「ホトトギスが月に向かって鳴く」という表現が面白いと私は思います。「月」が出てきますから時間帯は当然夜ですね。但し,鳴いているホトトギスの姿は見えませんから,月に向かって鳴いているかどうか分かりません。何が月に向かっているように家持は思ったのでしょうか。
私の解釈です。ホトトギスは「テッペンカケタカ」と鳴きます。その「音(おん)」から,次に向かって鳴くと感じたか,当時はそう思われていた可能性があります。
遠くで鳴いているホトトギスに,近くまで来て欲しい。そして,月に向かって大きな声で鳴いて,綺麗な月が現れてほしい。そくな感情を家持は詠んだのだと私は思いたいです。
最後は,(ワシ)の鳴き声の音を詠んだ東歌を紹介します。

筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに
<<筑波嶺でけたたましく鳴く鷲の大きな音で泣き続けよう。もう逢えないのだから>>

鷲の書き声は,犬の鳴き声に似ているような気がします。こり書き声がけたたましく続くと確かに大きな音に感じられるような気がします。この鷲の書き声に負けないほど大きな声で泣きたくなるこの失恋は本当に悲しかったのでしょうね。
ところで,私は鷲の鳴き声をあまり聞いたことがありません。でも,YouTubeにはちゃんと出てきます。万葉集の和歌を鑑賞するうえでも,ITC(情報通信技術)の利用価値が高くなっていくと私は思います。逆に,その技術が万葉集の歌人の感性の素晴らしさを証明する手段になるのかもしれません。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(5)」に続く。