「音(おと)」の3回目は「水」に関する「音」について万葉集を見ていきます。
その音として,そのままの「水の音」のほか,「川の音」「瀬の音」「波の音」が万葉集に出てきます。
ここでは,それぞれ1首ずつ紹介していきます。
最初は「水の音」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
奥山の木の葉隠りて行く水の音聞きしより常忘らえず(11-2711)
<おくやまのこのはがくりて ゆくみづのおとききしより つねわすらえず>
<<奥山の木の葉に隠れて流れていく水の音を聞いてからは,(水がきれいだろうなと想像して)もう忘れられないのです>>
おそらく「水」は「女性」のたとえでしょう。
女性の噂を聞いて,そのうわさから「きっとたいへん美しい人に違いない」と思い,「見たい」「会いたい」といった気持ちが強くて,昼夜を問わず忘れられない自分の気持ちを詠んだのだろうと私は想像します。
次は,「川の音」を詠んだ短歌で,九州で防人(さきもり)の佑(すけ)をしていた大伴四綱(よつな)が大伴旅人が大宰府から帰任する時の宴で旅人に贈った1首です。
月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ(4-571)
<つくよよしかはのおときよし いざここにゆくもゆかぬも あそびてゆかむ>
<<月夜が素晴らしく,川の流れる音も清々しい。さあ!ここで都へ帰られる人も残る人も楽しく遊びましょう!>>
今後は大納言旅人様と一緒に楽しいひと時を過ごせなくなるので,今宵限りは美しい川のせせらぎが聞こえ,名月が見られる宴(うたげ)の場所(おそらく宴開催の場所としては最高の場所)で,旅人様と一緒に過ごせる最後の宴を楽しく進めましょうという意図の表わした短歌だと思います。
会社の送別会などの途中にあいさつを頼まれた人は,この短歌をパロディー化して紹介しても良いかもしれませんね。
たとえば,「眺めよし飲む音忙(せわ)しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ」というような感じですかね。
さて,次は「瀬の音」を詠んだ詠み人知らずの短歌1首です。
夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも(10-2222)
<ゆふさらずかはづなくなる みわがはのきよきせのおとを きかくしよしも>
<<夕方になると河鹿が鳴き声が聞こえる三輪の川で,さらに清らかな瀬の音が聞こえるのはよい気持ちだなあ>>
平城京の前の京(みやこ)である藤原京から数キロはなれた三輪の地で流れる川(今の大和川?)の瀬の音がカジカの声と混じってさわやかに聞こえることを詠んだと私は感じます。
この地は「三輪そうめん」が有名です。美味しいそうめんを作るために必要なきれいな水が豊富な土地だったのでしょうか。
最後は,「波の音」を詠んだこれも詠み人知らずの短歌です。ただし,この短歌で出くる波は海の波ではなく,川でできる波の音です。
泊瀬川流るる水脈の瀬を早みゐで越す波の音の清けく(7-1108)
<はつせがはながるるみをの せをはやみゐでこすなみの おとのきよけく>
<<泊瀬川の水の流れが速く、水が浅瀬を越えてできる波の音が清らかだ>>
泊瀬川は,前の短歌に出ている三輪から南に少し行き,伊勢方面へ行く今の初瀬街道沿いに流れる川といわれています。
奈良盆地(大和平野)から名張方面へ向かって山の中に入りますので,泊瀬川は清流でかつ急流の部分がたくさんあったのでしょうか。
急流の部分の瀬(浅いところ)では,川の表面に波が立ち,さらさらと波の音がして,その音はさらにきれいな水を引き立たせる効果が作者には感じられたのでしょう。
さて,今回あげた4首の内3首は万葉集に作者が載っていない(詠み人知らずの)短歌です。
この人たちは,万葉集に作者として名前が載っている人麻呂,赤人,旅人,家持,黒人,天皇,名だたる貴族たちに比べて有名では無かった(一般庶民とは限りませんが)のだろうと私は思います。
でも,これら3首の短歌から,作者の「川の水」で「音」を感じる感性が非常に繊細かつ鋭敏であること,そしてその表現力が優れていると私は感じます。
では,なぜこんな「音」を感性豊かに感じる和歌が多く作られたのでしょうか?
多くの名も無い人が作歌する目的があったはずです(和歌を作る自体はその目的を達するためのあくまで手段にすぎない)。
その目的を探るため,私の万葉集をリバースエンジニアリングする旅はまだまだ続きそうです。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(4)」に続く。
2015年11月29日日曜日
2015年11月21日土曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」…万葉時代,舟の楫の音は何の変化を想像させていた?
「音」の2回目は,「楫(かぢ)の音」を取りあげます。
万葉集では「楫の音」を詠んだ和歌が20首近く出てきます。
当時,「楫の音」は,今に例えるとジェット飛行機やヘリコプターの飛ぶ音,新幹線の走行音のように,その時代の近代化を象徴する音だったのではないかと私は想像します。万葉時代には造船技術が向上し,さまざまなタイプの船がそれまでに比べ,低コスト,短期間で作ることができるようになったようです。
また,各地の海辺や海につながる川辺には,船着き場や港が次々と作られていき,経済の発展による物流量の増加とともに,船の交通量が大きく拡大していた時代。その拡大を感じさせる音の象徴が「楫の音」だったと私は考えます。
楫は,小さな舟では櫓(ろ)のようなもので,大きな船では櫂(かい)のようなもの指していたのではないでしょうか。それは,当時木でできていて,動かすには,いわゆる「てこの原理」で,支点になる部分が必要になります。その支点は,楫全体がぶれないようにしっかりと支える臍や穴が開いている構造になっていたと想像できます。
そうすると,楫を動かしたとき,その支点部分に力が集中し,木と木が強く摩擦する音が発生します。それが「ギーコー,ギーコー,..」という「楫の音」の源です。
では,実際の万葉集の和歌を見てきましょう。
最初は,代表的万葉歌人の一人笠金村(かさのかなむら)が神亀2年10月に難波宮を訪問した際に詠んだ短歌です。
海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)
<あまをとめ たななしをぶねこぎづらし たびのやどりにかぢのおときこゆ>
<<海人の娘たちが屋根の無い小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿で櫓(ろ)の音が聞こえる>>
難波(なには)宮は,今の大阪城付近にあったという説が有力だそうですが,当時の海岸線はその近くまで来ていたとすれば,海の傍に建つ豪華な別荘宮だったと考えてもよいかもしれません。
地元の漁師の若い娘たちが,早朝小さな舟に乗って,漁に漕ぎ出す時の勢いのよい「楫の音」が,宮の近くの宿で聞こえたことを詠んでいると私は考えます。
それを長閑(のどか)と感じたのか,活気があると感じたのか,当時の感性でないと正しく理解ができないような気がします。
次は,同じ大阪(難波)で積極的に掘られたと考えられる運河を航行する舟の梶の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも(7-1143)
<さよふけてほりえこぐなる まつらぶねかぢのおとたかし みをはやみかも>
<<夜が更けても堀江を漕ぎ進む松浦舟の梶の音が大きく聞こえる。堀江の水の流れが速いからであろうか>>
松浦舟の松浦は九州の肥前の国の地名で,そこで作られた良い舟であり,万葉集の歌人が詠むくらいなので,松浦舟はきっと舟の有名ブランドだったのでしょう。
この短歌が詠んでいるように,その松浦舟の楫の音が大きく聞こえるほど,運河の水流が速かったのでしょうか。
それだけではないような気が私にはします。実は夜遅くまで荷物を運ばなければならないほど運ぶべき荷物の量が多かったのかもしれませんね。今で言うと夜行トラック便のような,猛スピードで走る夜便の舟の運行もあった可能性はあります。
どんな世の中でも同じかもしれませんが,利用に対して道路,運河,橋などのインフラが追い付かないことが往々にしてあります。それをカバーするのは人間の必死の努力ということになり,万葉時代はこのような夜遅くまで頑張る人の音を聞いた歌人が和歌を詠むテーマとするような時代だったのかもしれませんね。
最後は,少し季節はずれですが,天の川に浮かべる舟の楫の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ(10-2072)
<わたりもりふねわたせをと よぶこゑのいたらねばかも かぢのおとのせぬ>
<<天の川の渡り舟の管理人が「舟を渡してよいぞ」という声が相手にとどいていないのだろうか。彦星が乗る舟の楫の音がしないのです>>
七夕に天の川を渡って来てくれるはずの夫(彦星)が一向にくる気配がない。それは渡し守が渡しを許可する声が小さいからと嘆いている。
当時の妻問婚では,夫が妻問する場合,親の許可が必要だったことも想像できるため,親に対するクレームめいた短歌とも取れそうですね。
待つ者にとって,相手が来る気配の音の一つとして「楫の音」は当時では定着していた可能性があると私は思ってしまいます。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」に続く。
万葉集では「楫の音」を詠んだ和歌が20首近く出てきます。
当時,「楫の音」は,今に例えるとジェット飛行機やヘリコプターの飛ぶ音,新幹線の走行音のように,その時代の近代化を象徴する音だったのではないかと私は想像します。万葉時代には造船技術が向上し,さまざまなタイプの船がそれまでに比べ,低コスト,短期間で作ることができるようになったようです。
また,各地の海辺や海につながる川辺には,船着き場や港が次々と作られていき,経済の発展による物流量の増加とともに,船の交通量が大きく拡大していた時代。その拡大を感じさせる音の象徴が「楫の音」だったと私は考えます。
楫は,小さな舟では櫓(ろ)のようなもので,大きな船では櫂(かい)のようなもの指していたのではないでしょうか。それは,当時木でできていて,動かすには,いわゆる「てこの原理」で,支点になる部分が必要になります。その支点は,楫全体がぶれないようにしっかりと支える臍や穴が開いている構造になっていたと想像できます。
そうすると,楫を動かしたとき,その支点部分に力が集中し,木と木が強く摩擦する音が発生します。それが「ギーコー,ギーコー,..」という「楫の音」の源です。
では,実際の万葉集の和歌を見てきましょう。
最初は,代表的万葉歌人の一人笠金村(かさのかなむら)が神亀2年10月に難波宮を訪問した際に詠んだ短歌です。
海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ(6-930)
<あまをとめ たななしをぶねこぎづらし たびのやどりにかぢのおときこゆ>
<<海人の娘たちが屋根の無い小舟を漕ぎ出すらしい。旅寝の宿で櫓(ろ)の音が聞こえる>>
難波(なには)宮は,今の大阪城付近にあったという説が有力だそうですが,当時の海岸線はその近くまで来ていたとすれば,海の傍に建つ豪華な別荘宮だったと考えてもよいかもしれません。
地元の漁師の若い娘たちが,早朝小さな舟に乗って,漁に漕ぎ出す時の勢いのよい「楫の音」が,宮の近くの宿で聞こえたことを詠んでいると私は考えます。
それを長閑(のどか)と感じたのか,活気があると感じたのか,当時の感性でないと正しく理解ができないような気がします。
次は,同じ大阪(難波)で積極的に掘られたと考えられる運河を航行する舟の梶の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも(7-1143)
<さよふけてほりえこぐなる まつらぶねかぢのおとたかし みをはやみかも>
<<夜が更けても堀江を漕ぎ進む松浦舟の梶の音が大きく聞こえる。堀江の水の流れが速いからであろうか>>
松浦舟の松浦は九州の肥前の国の地名で,そこで作られた良い舟であり,万葉集の歌人が詠むくらいなので,松浦舟はきっと舟の有名ブランドだったのでしょう。
この短歌が詠んでいるように,その松浦舟の楫の音が大きく聞こえるほど,運河の水流が速かったのでしょうか。
それだけではないような気が私にはします。実は夜遅くまで荷物を運ばなければならないほど運ぶべき荷物の量が多かったのかもしれませんね。今で言うと夜行トラック便のような,猛スピードで走る夜便の舟の運行もあった可能性はあります。
どんな世の中でも同じかもしれませんが,利用に対して道路,運河,橋などのインフラが追い付かないことが往々にしてあります。それをカバーするのは人間の必死の努力ということになり,万葉時代はこのような夜遅くまで頑張る人の音を聞いた歌人が和歌を詠むテーマとするような時代だったのかもしれませんね。
最後は,少し季節はずれですが,天の川に浮かべる舟の楫の音を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ(10-2072)
<わたりもりふねわたせをと よぶこゑのいたらねばかも かぢのおとのせぬ>
<<天の川の渡り舟の管理人が「舟を渡してよいぞ」という声が相手にとどいていないのだろうか。彦星が乗る舟の楫の音がしないのです>>
七夕に天の川を渡って来てくれるはずの夫(彦星)が一向にくる気配がない。それは渡し守が渡しを許可する声が小さいからと嘆いている。
当時の妻問婚では,夫が妻問する場合,親の許可が必要だったことも想像できるため,親に対するクレームめいた短歌とも取れそうですね。
待つ者にとって,相手が来る気配の音の一つとして「楫の音」は当時では定着していた可能性があると私は思ってしまいます。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(3)」に続く。
2015年11月15日日曜日
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(1)」…新しい変化の始まりは新しい音から始まる?
<聴覚について>
人間の感覚器の一つ「耳」が非常に重要な器官であることは,常識の範疇なのかもしれません。
補聴器が役に立たないくらい聴覚が機能しなくなると,正しい発声にも障害がでます。
その場合,人とのコミュニケーションでは,手話や読唇術,相手の顔の表情などから,訓練すればかなり円滑なコミュニケーションがでしょう。しかし,危険を知らせる警報音に気付くのが遅れ,災害や事故に遭いやすくなるというハンディキャップは残ってしまうと思います。
また,自然や生活の営みが織りなす音(例:鳥のさえずり,小川のせせらぎ,秋の虫の合唱,そよ風を感じる木々のざわめき,早朝の釣舟のエンジン音,遠くに聞こえる霧笛の音,大晦日の除夜の鐘の音,水琴窟の音など)で風情を感じることができにくくなってしまうと考えると,聴覚器官は本当に大切にしなければならないものだと改めて感じます。
<新しい文化は新しい音を聞かせる>
さて,万葉時代は大陸からの新しい文化・宗教・生活習慣がそれまでに比べてはるかに速いスピードで流入し,それに伴って新しい音も出てきたと思われます。同時に昔から暮らしや自然で発生する音への愛着も感じる時代だったのではないでしょうか。
そんな時代のためか,万葉集には「音(おと・ね)」を詠んだ和歌が多数(130首以上)出てきます。
今回から数回にわたり,万葉集で詠まれた「音」について見ていきます。
まず「おと」と発音すると考えられる和歌を見ていきますが,「何の音(おと)」を詠んでいるか気になるところです。
万葉集でどんな音がで出くるか,最初に示しましょう(‥の右の意味は,万葉集の和歌での意味を意識している)。
足の音(あしのおと)‥馬の足音。
鶯の音(うぐひすのおと)‥鶯の鳴き声。
馬の音(うまのおと)‥馬の足音。
風の音(かぜのおと)‥風が吹く音。
楫の音(かぢのおと),楫音(かぢおと)‥楫を漕ぐ音。
川音(かはと,かはおと),川の音(かはのおと)‥川水が流れる音。
小角の音(くだのおと)‥角をくり抜いた小型のラッパを吹く音。
声の音(こゑのおと)‥鳥の鳴き声の音。
鈴が音(すずがおと)‥馬につけた鈴の音。
瀬の音(せのおと)‥川の瀬(浅い場所)で水が流れる音。
鶴の音(たづのおと)‥鶴の鳴き声。
鼓の音(つつみのおと)‥鼓をたたく音。
遠音(とほと)‥遠くで聞こえる音。
鞆の音(とものおと)‥鞆とは,弓を引く人が射った後の衝撃を和らけるため,左手手首から肘までをカバーした布や毛皮を指す。弓を射るとツルが鞆にあたるときの音。
中弭の音(なかはずのおと)‥弓を射ったとき,弓の中央部分を矢が通過する音か?
鳴く音(なくおと)‥鳥が鳴くまたは囀(さえず)る音。
波音(なみおと,なみと),波の音(なみのおと)‥波が寄せる音。波しぶきの音。
鳴る神の音(なるかみのおと)‥雷の音。
羽音(はおと)‥鳥の羽をばたつかせる音。
人音(ひとおと)‥人々が動く音。
笛の音(ふえのおと)‥笛を吹く音。
水の音(みづのおと)‥川の水が流れる音。
夜音(よおと)‥夜爪弾く琴の音。
これらの「音」に関する表現から,当時の社会の様子が分かってくるように私には思えます。
・笛,鼓,琴,ラッパといった楽器の演奏が頻繁に行われるようになった。
・舟の運行が盛んであり,楫の音をみんなが知っていた。
・馬が陸上の交通手段として一般的であった。
鳥の鳴き声や羽音,川の音,波の音,雷鳴などが万葉集の多くの和歌で取り上げられていることは,「音」に対する万葉人の感性は割と繊細なものがあったのかもしれません。
今回は,そのなかで大伴家持の有名な1首のみを紹介します。
我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(19-4291)
<わがやどのいささむらたけ ふくかぜのおとのかそけき このゆふへかも>
<<自宅に植えた細い竹の植え込みに吹く風の音がかすかに聞こえるこの夕方である>>
風はそれ自体相当強く吹かないと音は聞こえません。
風がかすかに吹いているだけの場合,家の中ではそれに気が付かないことが多いでしょう。家持は笹の葉が振れる音で,風が吹き出したを感じ取ったのでしょう。
熱い1日が終わり,夕方の風が出てくると涼しくなる期待が高まります。
以前にもこのブログで述べたと思いますが,日本人は昔から変化の始まりを感じ取る繊細な感性を持ち合わせているのです。
その感性も,外国と比較すると多様に変化する自然があるからであり,その変化の前兆に「音」が占める割合が多いので,万葉集にも多く出てくることになったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」に続く。
人間の感覚器の一つ「耳」が非常に重要な器官であることは,常識の範疇なのかもしれません。
補聴器が役に立たないくらい聴覚が機能しなくなると,正しい発声にも障害がでます。
その場合,人とのコミュニケーションでは,手話や読唇術,相手の顔の表情などから,訓練すればかなり円滑なコミュニケーションがでしょう。しかし,危険を知らせる警報音に気付くのが遅れ,災害や事故に遭いやすくなるというハンディキャップは残ってしまうと思います。
また,自然や生活の営みが織りなす音(例:鳥のさえずり,小川のせせらぎ,秋の虫の合唱,そよ風を感じる木々のざわめき,早朝の釣舟のエンジン音,遠くに聞こえる霧笛の音,大晦日の除夜の鐘の音,水琴窟の音など)で風情を感じることができにくくなってしまうと考えると,聴覚器官は本当に大切にしなければならないものだと改めて感じます。
<新しい文化は新しい音を聞かせる>
さて,万葉時代は大陸からの新しい文化・宗教・生活習慣がそれまでに比べてはるかに速いスピードで流入し,それに伴って新しい音も出てきたと思われます。同時に昔から暮らしや自然で発生する音への愛着も感じる時代だったのではないでしょうか。
そんな時代のためか,万葉集には「音(おと・ね)」を詠んだ和歌が多数(130首以上)出てきます。
今回から数回にわたり,万葉集で詠まれた「音」について見ていきます。
まず「おと」と発音すると考えられる和歌を見ていきますが,「何の音(おと)」を詠んでいるか気になるところです。
万葉集でどんな音がで出くるか,最初に示しましょう(‥の右の意味は,万葉集の和歌での意味を意識している)。
足の音(あしのおと)‥馬の足音。
鶯の音(うぐひすのおと)‥鶯の鳴き声。
馬の音(うまのおと)‥馬の足音。
風の音(かぜのおと)‥風が吹く音。
楫の音(かぢのおと),楫音(かぢおと)‥楫を漕ぐ音。
川音(かはと,かはおと),川の音(かはのおと)‥川水が流れる音。
小角の音(くだのおと)‥角をくり抜いた小型のラッパを吹く音。
声の音(こゑのおと)‥鳥の鳴き声の音。
鈴が音(すずがおと)‥馬につけた鈴の音。
瀬の音(せのおと)‥川の瀬(浅い場所)で水が流れる音。
鶴の音(たづのおと)‥鶴の鳴き声。
鼓の音(つつみのおと)‥鼓をたたく音。
遠音(とほと)‥遠くで聞こえる音。
鞆の音(とものおと)‥鞆とは,弓を引く人が射った後の衝撃を和らけるため,左手手首から肘までをカバーした布や毛皮を指す。弓を射るとツルが鞆にあたるときの音。
中弭の音(なかはずのおと)‥弓を射ったとき,弓の中央部分を矢が通過する音か?
鳴く音(なくおと)‥鳥が鳴くまたは囀(さえず)る音。
波音(なみおと,なみと),波の音(なみのおと)‥波が寄せる音。波しぶきの音。
鳴る神の音(なるかみのおと)‥雷の音。
羽音(はおと)‥鳥の羽をばたつかせる音。
人音(ひとおと)‥人々が動く音。
笛の音(ふえのおと)‥笛を吹く音。
水の音(みづのおと)‥川の水が流れる音。
夜音(よおと)‥夜爪弾く琴の音。
これらの「音」に関する表現から,当時の社会の様子が分かってくるように私には思えます。
・笛,鼓,琴,ラッパといった楽器の演奏が頻繁に行われるようになった。
・舟の運行が盛んであり,楫の音をみんなが知っていた。
・馬が陸上の交通手段として一般的であった。
鳥の鳴き声や羽音,川の音,波の音,雷鳴などが万葉集の多くの和歌で取り上げられていることは,「音」に対する万葉人の感性は割と繊細なものがあったのかもしれません。
今回は,そのなかで大伴家持の有名な1首のみを紹介します。
我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(19-4291)
<わがやどのいささむらたけ ふくかぜのおとのかそけき このゆふへかも>
<<自宅に植えた細い竹の植え込みに吹く風の音がかすかに聞こえるこの夕方である>>
風はそれ自体相当強く吹かないと音は聞こえません。
風がかすかに吹いているだけの場合,家の中ではそれに気が付かないことが多いでしょう。家持は笹の葉が振れる音で,風が吹き出したを感じ取ったのでしょう。
熱い1日が終わり,夕方の風が出てくると涼しくなる期待が高まります。
以前にもこのブログで述べたと思いますが,日本人は昔から変化の始まりを感じ取る繊細な感性を持ち合わせているのです。
その感性も,外国と比較すると多様に変化する自然があるからであり,その変化の前兆に「音」が占める割合が多いので,万葉集にも多く出てくることになったのかもしれませんね。
今もあるシリーズ「音(おと,ね)(2)」に続く。
2015年11月6日金曜日
今もあるシリーズ「海女(あま)」…海水に濡れた海女の姿,男には魅力的?
現代の「海女」は,水中メガネを付けて海に潜り,ウニ,アワビ,イセエビ,サザエなどを採っている女性がイメージされるかと思います。
さらに若い海女は,2013年4月~9月に放送されたNHKの朝ドラ「あまちゃん」で有名になったように,さらに可愛さや魅力的なイメージがありますよね。
やはり,健康で明るいイメージ,人魚のような魅惑的なイメージがポジティブにみられるのでしょうか。
私は,小学校の修学旅行で,三重県伊勢志摩での海女の観光実演を見たのが,初めてでした。
しかし,万葉時代の「海女」は漁り(いさり)やそれに関連する作業をする女性を広く指しますから,必ずしも海に潜ったり,船に乗ったりするだけの女性を指していたわけではなさそうです。
当時の海女がどんなイメージだったのか,さっそく万葉集の和歌をみていくことにしましょう。今回も「海女」は,この1回のみです。
最初は,奈良時代の役人である石川君子(いしかはのきみこ)が北九州に赴任または訪問したときに詠んだ短歌です。
志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに(3-278)
<しかのあまはめかりしほやき いとまなみくしげのをぐし とりもみなくに>
<<志賀の海女は,海藻を刈ったり,塩を焼いたりして忙しそう。櫛笥の小さな櫛を手にとって髪をすいているところを見ることがない>>
せっせと浜で働いでいる女性姿を見て,髪の毛が乱れていても,身だしなみを気にすることなしに働いている姿を君子はどう感じたのでしょう。
膚が日焼けして黒いが,若々しく健康的な良い印象をもった。その上で髪をきれいに櫛でとくと,きっと魅力的な女性たちになると考え方のかもしれませんね。
次は角麻呂(つののまろ)という伝不詳の歌人が難波の海女を見て詠んだ短歌です。
潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む(3-293)
<しほひのみつのあまの くぐつもちたまもかるらむ いざゆきてみむ>
<<潮がひいた御津の海岸で,海女たちがくぐつ(草で編んだ袋)をもって,綺麗な海藻を刈っているらしいので,見に行こう>>
海藻といっても,海苔のようなものでしょうか。たくさんの海女が海岸にでで楽しそうに話をしたり,大声で笑いながら作業をしているのは,たび人も見ていて楽しいのでしょうね。
また,こういう和歌を京で披露すると,そんなに遠くない(健脚なら1日で着ける)ので,「見に行こう」と思った人はたくさん現れたのではないでしょうか。
最後は,これも九州の筑後守をしていた葛井大成(ふぢゐのおほなり)が海岸で海女の姿をみて詠んだとされる短歌です。
海女娘子玉求むらし沖つ波畏き海に舟出せり見ゆ(6-1003)
<あまをとめたまもとむらし おきつなみかしこきうみに ふなでせりみゆ>
<<海女の若い娘が真珠を求め,沖の荒い波が立つ海に舟を出して行くのが見える>>
この海女は,まさに現代の海女と同じ漁法でしょうか。野生の真珠貝やアワビの中に潜む真珠は,京に献上すると大変喜ばれるを知っている大成としては,漁の結果がどうだったかは気になるところでしょう。
ただ,偉い長官が見に来たので,地元の長は,沖が荒れていても,無理して舟を出したのかもしれませんね。
そういう状況なら,舟で沖に行った海女は気の毒な気が私にはします。
今もあるシリーズ「音(おと)(1)」に続く。
さらに若い海女は,2013年4月~9月に放送されたNHKの朝ドラ「あまちゃん」で有名になったように,さらに可愛さや魅力的なイメージがありますよね。
やはり,健康で明るいイメージ,人魚のような魅惑的なイメージがポジティブにみられるのでしょうか。
私は,小学校の修学旅行で,三重県伊勢志摩での海女の観光実演を見たのが,初めてでした。
しかし,万葉時代の「海女」は漁り(いさり)やそれに関連する作業をする女性を広く指しますから,必ずしも海に潜ったり,船に乗ったりするだけの女性を指していたわけではなさそうです。
当時の海女がどんなイメージだったのか,さっそく万葉集の和歌をみていくことにしましょう。今回も「海女」は,この1回のみです。
最初は,奈良時代の役人である石川君子(いしかはのきみこ)が北九州に赴任または訪問したときに詠んだ短歌です。
志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに(3-278)
<しかのあまはめかりしほやき いとまなみくしげのをぐし とりもみなくに>
<<志賀の海女は,海藻を刈ったり,塩を焼いたりして忙しそう。櫛笥の小さな櫛を手にとって髪をすいているところを見ることがない>>
せっせと浜で働いでいる女性姿を見て,髪の毛が乱れていても,身だしなみを気にすることなしに働いている姿を君子はどう感じたのでしょう。
膚が日焼けして黒いが,若々しく健康的な良い印象をもった。その上で髪をきれいに櫛でとくと,きっと魅力的な女性たちになると考え方のかもしれませんね。
次は角麻呂(つののまろ)という伝不詳の歌人が難波の海女を見て詠んだ短歌です。
潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む(3-293)
<しほひのみつのあまの くぐつもちたまもかるらむ いざゆきてみむ>
<<潮がひいた御津の海岸で,海女たちがくぐつ(草で編んだ袋)をもって,綺麗な海藻を刈っているらしいので,見に行こう>>
海藻といっても,海苔のようなものでしょうか。たくさんの海女が海岸にでで楽しそうに話をしたり,大声で笑いながら作業をしているのは,たび人も見ていて楽しいのでしょうね。
また,こういう和歌を京で披露すると,そんなに遠くない(健脚なら1日で着ける)ので,「見に行こう」と思った人はたくさん現れたのではないでしょうか。
最後は,これも九州の筑後守をしていた葛井大成(ふぢゐのおほなり)が海岸で海女の姿をみて詠んだとされる短歌です。
海女娘子玉求むらし沖つ波畏き海に舟出せり見ゆ(6-1003)
<あまをとめたまもとむらし おきつなみかしこきうみに ふなでせりみゆ>
<<海女の若い娘が真珠を求め,沖の荒い波が立つ海に舟を出して行くのが見える>>
この海女は,まさに現代の海女と同じ漁法でしょうか。野生の真珠貝やアワビの中に潜む真珠は,京に献上すると大変喜ばれるを知っている大成としては,漁の結果がどうだったかは気になるところでしょう。
ただ,偉い長官が見に来たので,地元の長は,沖が荒れていても,無理して舟を出したのかもしれませんね。
そういう状況なら,舟で沖に行った海女は気の毒な気が私にはします。
今もあるシリーズ「音(おと)(1)」に続く。
2015年11月1日日曜日
今もあるシリーズ「石橋(いしはし)」 … 石橋は人と人との距離を短くする?
今回だけのテーマとして「石橋」をとりあげます。
「石橋」は日本では人名の姓で出くるのがポピュラーですね。「石橋」姓をもつ有名人もたくさんいます。また,地名でも「石橋」は出てきますが,多くは街道や川に面しているようです。
石造りの橋として有名なのが,現在の東京「日本橋」ですね。「日本橋」というと江戸時代の木造り橋のイメージがありますが,現在は石でできています。そうでないと,自動車やトラック,バスは通れませんからね。
さて,万葉時代では「石橋」はどんなふうに詠まれていたでしょうか。
まずは情熱の歌人笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った恋の短歌から1首です。
うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも(4-597)
<うつせみのひとめをしげみ いしはしのまちかききみに こひわたるかも>
<<この世の人たちの目がうるさいけれど,その目に留まらぬほどすぐ対岸に行ける石橋のように近い家持様にお慕いしています>>
「石橋の」を「間」に掛かる枕詞との説もあるようですが,私は以前からもこのブログで書いているように枕詞であったら訳さないで済ますことに疑問を持っています。
石造りの橋は当時一般にどうみられていたのか(多くの人の共通認識)をちゃんと理解できて初めてこの短歌が表現したいことが分かると私は思いたいです。
2009年3月11日のこのブログで書いたように,万葉時代では天橋(あまはし),石橋,浮橋,打橋,大橋,倉橋,高橋,棚橋,玉橋,継橋,檜橋(ひはし),広橋,舟橋,八橋(やばせ)など,既に様々な橋の形態や形容があったようです。
その中で「石橋」が一番丈夫で,安心して渡れたし,揺れないので走って渡っても安全で,馬などに乗って渡ることもできたのでしょうか。だから,石橋が作られると対岸と非常に近くなり,すぐに行けるというイメージが定着していたのに異論を感じる方いかもしれません。
当時の石橋というのは,立派な橋の形をしているものでは無く,川に石を歩幅間隔に置いて,その上を渡ることで,川の水に濡れずに渡ることができるだけのものというイメージが定着しているとすれば,「間」は歩幅の間となります。
いずれにしても,石橋のイメージによっては,解釈は微妙にことなってくるわけです。
次は,故郷の明日香川を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし(7-1126)
<としつきもいまだへなくに あすかがはせぜゆわたしし いしはしもなし>
<<年月もそんなに経っていない。けれど明日香川の多くの瀬に渡してあった石橋も今は無くなってしまいました>>
この石橋は比喩かもしれませんね。すなわち,故郷は変わらないと思っていたのに,少ししかたっていないのに変わってしまったという気持ちを石橋という強固なものでも変わるという喩えで表現しているように私は思います。
この気持ちは私にはよくわかります。以前にもこのブログで書いたように,私は4歳のころから15年ほど京都市の山科という所で育ちました。
炭焼きの煙が山肌をたなびき,水車小屋があちこちにあり,水田・野菜畑が多くあり,清らかな湧水を使ったセリ畑やニジマスの養殖場もあったような記憶があります。家の近くの斜面にはワラビやゼンマイが生えている場所もたくさんありました。
本当にのどかだった山科盆地が,急速に京都や大阪のベットタウンとして市街化していくのを毎日のように見て来たからです。名神高速道路,新幹線が山科を通るようになってからは,それまで遠くの山で鳴く鳥の声が聞こえそうな静かな山科盆地は,トラックの走行音や新幹線の風を切る音が響き渡る場所と化しました。
最後は,また恋の短歌です。
明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも(11-2701)
<あすかがはあすもわたらむ いしはしのとほきこころは おもほえぬかも>
<<明日香川を明日も渡ろう。明日香川の石橋のようにあなたとの心の距離は遠いとは思えないので>>
明日香川には石橋がいくつもあったのでしょう。その石橋を明日も渡る決意とは,相手との心の距離が近いということを信じてアプローチするぞという決意なのかもしれません。
いずれにしても,川が隔てる対岸との距離は生活面での行き来でも,恋人との逢瀬でも,短くあってほしいというのが人々の願いだった。それを短くする「石橋」を渡すことへの期待は大きかったのだろうと私は思います。
今もあるシリーズ「海女(あま)」に続く。
「石橋」は日本では人名の姓で出くるのがポピュラーですね。「石橋」姓をもつ有名人もたくさんいます。また,地名でも「石橋」は出てきますが,多くは街道や川に面しているようです。
石造りの橋として有名なのが,現在の東京「日本橋」ですね。「日本橋」というと江戸時代の木造り橋のイメージがありますが,現在は石でできています。そうでないと,自動車やトラック,バスは通れませんからね。
さて,万葉時代では「石橋」はどんなふうに詠まれていたでしょうか。
まずは情熱の歌人笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った恋の短歌から1首です。
うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも(4-597)
<うつせみのひとめをしげみ いしはしのまちかききみに こひわたるかも>
<<この世の人たちの目がうるさいけれど,その目に留まらぬほどすぐ対岸に行ける石橋のように近い家持様にお慕いしています>>
「石橋の」を「間」に掛かる枕詞との説もあるようですが,私は以前からもこのブログで書いているように枕詞であったら訳さないで済ますことに疑問を持っています。
石造りの橋は当時一般にどうみられていたのか(多くの人の共通認識)をちゃんと理解できて初めてこの短歌が表現したいことが分かると私は思いたいです。
2009年3月11日のこのブログで書いたように,万葉時代では天橋(あまはし),石橋,浮橋,打橋,大橋,倉橋,高橋,棚橋,玉橋,継橋,檜橋(ひはし),広橋,舟橋,八橋(やばせ)など,既に様々な橋の形態や形容があったようです。
その中で「石橋」が一番丈夫で,安心して渡れたし,揺れないので走って渡っても安全で,馬などに乗って渡ることもできたのでしょうか。だから,石橋が作られると対岸と非常に近くなり,すぐに行けるというイメージが定着していたのに異論を感じる方いかもしれません。
当時の石橋というのは,立派な橋の形をしているものでは無く,川に石を歩幅間隔に置いて,その上を渡ることで,川の水に濡れずに渡ることができるだけのものというイメージが定着しているとすれば,「間」は歩幅の間となります。
いずれにしても,石橋のイメージによっては,解釈は微妙にことなってくるわけです。
次は,故郷の明日香川を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし(7-1126)
<としつきもいまだへなくに あすかがはせぜゆわたしし いしはしもなし>
<<年月もそんなに経っていない。けれど明日香川の多くの瀬に渡してあった石橋も今は無くなってしまいました>>
この石橋は比喩かもしれませんね。すなわち,故郷は変わらないと思っていたのに,少ししかたっていないのに変わってしまったという気持ちを石橋という強固なものでも変わるという喩えで表現しているように私は思います。
この気持ちは私にはよくわかります。以前にもこのブログで書いたように,私は4歳のころから15年ほど京都市の山科という所で育ちました。
炭焼きの煙が山肌をたなびき,水車小屋があちこちにあり,水田・野菜畑が多くあり,清らかな湧水を使ったセリ畑やニジマスの養殖場もあったような記憶があります。家の近くの斜面にはワラビやゼンマイが生えている場所もたくさんありました。
本当にのどかだった山科盆地が,急速に京都や大阪のベットタウンとして市街化していくのを毎日のように見て来たからです。名神高速道路,新幹線が山科を通るようになってからは,それまで遠くの山で鳴く鳥の声が聞こえそうな静かな山科盆地は,トラックの走行音や新幹線の風を切る音が響き渡る場所と化しました。
最後は,また恋の短歌です。
明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも(11-2701)
<あすかがはあすもわたらむ いしはしのとほきこころは おもほえぬかも>
<<明日香川を明日も渡ろう。明日香川の石橋のようにあなたとの心の距離は遠いとは思えないので>>
明日香川には石橋がいくつもあったのでしょう。その石橋を明日も渡る決意とは,相手との心の距離が近いということを信じてアプローチするぞという決意なのかもしれません。
いずれにしても,川が隔てる対岸との距離は生活面での行き来でも,恋人との逢瀬でも,短くあってほしいというのが人々の願いだった。それを短くする「石橋」を渡すことへの期待は大きかったのだろうと私は思います。
今もあるシリーズ「海女(あま)」に続く。
登録:
投稿 (Atom)