2009年3月29日日曜日

大伴家持はいつ万葉集を編纂したか

家持万葉集編纂プロジェクトのマネージャだったと仮定し,万葉集が何時編纂されたかを考えてみます。
家持が因幡の国で正月に詠んだ万葉集最後の歌(759年)の後,家持が万葉集を編纂したのは光仁天皇即位以降(770年(神護景雲4年))だろうと私は思います。
昇進に遅れ,地方職ばかりで不遇が続いてきた名門大伴家の家持にも,この頃(50歳を過ぎて),ようやく中央での官職が巡ってきたのです。
地方の状況をよく知り,かつ教養のあるさまざまな人々と和歌を通した交流の中で得た知識,教養,人を引きつける魅力で,その実力をすぐに認められるようになったに違いありません。
このあたりから今までの昇進の遅れを取り戻すようにどんどん家持の官位が上にあがっていったようです。
782年(天応2年)に陸奥国の赴任するまでの12年間で,家持は万葉集の一通りの編纂を終わらせ,公開をしたのだろうと私は考えます。公開された万葉集は,絶賛され,家持の評価はさらに高まったのだろうと私は思います。
しかし,家持は785年陸奥での死後,すぐに藤原種継暗殺事件に主謀者として扱われ,官位や名誉は剥奪されたのです。家族等が都からの追放された後,家持の業績や詳細な記録がすべて消されたのでしょう。
万葉集も例外ではなく,万葉集の原本や万葉集編纂のために家持が集めた多くの和歌の記録も,内容の如何に関わらず焼き捨てられた可能性が高い。唯一万葉集の写本だけが,その価値が分かる人によって秘かに保持され今日に残ったのではないか。それでも「編者 大伴家持」などという記述を残すと,所持が見つかったとき罪人の仲間と見なされるため,一切残さないようにして。

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