<母が内職で作った和装の紐>
前回「襷(たすき)」は紐でできていると書きました。
そのことから,紐は襷より前からあったことになります。紐は一般的に細長い布を束ねただけのものもあったかもしれませんが,細長い布を縦に半分に折り,両長辺を縫いつけて作ったと考えます。
私が幼いころ,母が和服の仕立ての内職をしていたことを以前このブログでも書きましたが,母は帯紐など紐も縫っていました。
細長い布を折り,合わせた長辺の端を縫っていきます。そして,長辺すべてを縫い終えると,竹製の物差しを,縫ってできた長い筒状の布の中に入れ,ソーセージの皮がめくれるように,布を裏返していきます。
そうすることによって,縫い目が中に隠れ,綺麗な紐が出来上がります。ただ,紐の端はまだ縫っていませんから,特殊な縫い方で縫い目が表に出ないようにしていました。
母が何本も紐をきれいに縫うのを見ていたのが,私の幼いころの日課のようなものでした。
<万葉集に出てくる紐>
さて,万葉集では「紐」を読み込んだ和歌が90首ほどあります。
対語シリーズ「解くと結(ゆ)ふ」(今年6月23日投稿)で述べたように,やはり紐は「解くことが目的で,解くために結ぶ」というイメージをもつものと考えられます。
その中で,60首以上が「紐を解く」ことを詠っています。また,「紐を結ぶ(結ふ)」を詠んだ和歌が約30首出てきます。その内,紐を「結ぶ」と「解く」の両方を詠んだ和歌が20首ありますから,「紐を結ぶ」だけ詠んだ和歌は10首しかありません。残りが「結ぶ」も「解く」も含まない紐が詠まれた和歌です。
では,それぞれ1首ずつ紹介します。
まず,「結ぶ」「解く」の両方を詠んだ短歌です。
ふたりして結びし紐をひとりして我れは解きみじ直に逢ふまでは(12-2919)
<ふたりしてむすびしひもを ひとりしてあれはときみじ ただにあふまでは>
<<一夜を共にして二人で結んだ紐は一人の時に解きはしない。また直接逢えるまで>>
妻問で共寝をした後,お互いに着物の紐を結びあう習慣があったのでしょう。
この短歌は,万葉集が単なる歌集ではなく,若い人に風習やマナーを教えるテキストの役割をしていたと思わせる1首です。
次は,「紐を解く」だけが入っている短歌です。
霍公鳥懸けつつ君が松蔭に紐解き放くる月近づきぬ(20-4464)
<ほととぎすかけつつきみが まつかげにひもときさくる つきちかづきぬ>
<<ほととぎすが鳴くのを心にかけながら貴方が松(待つ)の木陰で衣の紐をほどく月が近づいた>>
これは天平勝宝8(756)年に大伴家持が詠んだ1首です。この頃には,夜外で逢引きする風習があったのだろうと私は思います。
政権では血なまぐさい権力闘争があったにせよ,平城京での暮らしは安全が保たれ,夜2人だけで逢うことも出るようになったのでしょう。
次は,「紐を結ぶ」だけが入っている柿本人麻呂が淡路島を詠んだ短歌です。
淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す(3-251)
<あはぢののしまがさきのはまかぜに いもがむすびしひもふきかへす>
<<妻が結んでくれた着物の紐を淡路の野島の岬の浜風が吹き返してゆく>>
人麻呂の奥さんが人麻呂が旅をする安全を祈って着物に結び付けた紐が淡路島の野島の岬の強い風が解けんばかりに吹き返している様子と船が無事通過できかという心の不安がうまく表現されている秀歌だと私は思います。
最後は「解く」も「結ぶ」も含まれない詠み人知らずの短歌を紹介します。
針はあれど妹しなければ付けめやと我れを悩まし絶ゆる紐の緒(12-2982)
<はりはあれどいもしなければ つけめやとわれをなやまし たゆるひものを>
<<針あるけれど妹がいないので私では付けることができず,悩ましい切れた紐の端>>
今では,「運命の赤い糸」で結ばれるといいますが,当時は紐(色はおそらく白)がその役目をしていたのかも知れませんね。
紐の緒(端)が切れる(解れる)ことは,当時恋人との関係が切れる不吉な前兆だと言われていたとすると,この短歌のように早く針と糸で修復したい気持ちになると私は想像します。
次回はその「針」についてです。
今もあるシリーズ「針」に続く
2012年9月26日水曜日
今もあるシリーズ「襷(たすき)」
<本来の襷は?>
今,襷といえば駅伝大会で,選手が肩から斜めに掛けて走り,次の区間の同じチームの選手に渡していくリングの紐(ひも)状のものをイメージする人が多いかもしれません。
しかし,私のようなある程度年齢が高いに人間にとっては,和服を着たお母さんたちが炊事や洗濯をするとき,和服の袖(そで)が邪魔にならないよう,襷を掛けていたのを見た記憶があります。
その襷は普通の一本の紐です(リングになっていません)。まず,紐の端を口にくわえます。紐を一方の肩から背中を肩と反対の脇腹で袖を挟み,肩の上に上げ,その肩から背中を肩の反対の脇腹でもう一方の袖を挟みます。最後は,口でくわえた紐の端と今袖を挟んだもう一方の紐の端を肩前の部分で結んで完成です。慣れた人は,この間わずか数秒で襷を付けてしまいます。
<襷がけ人事>
銀行などの合併で以前よくマスコミに取り上げられた「襷がけ人事」という言葉があります。襷を掛けた背中に紐が×型に交叉する形になるイメージと合併前の一方の銀行出身者が頭取になると,もう一方の銀行出身者が副頭取になり,次の人事異動でその逆の人事が行われていくという慣行のイメージが似ているからです。
ただ,本来の襷も割烹着(袖と胸当てがあるエプロンのようなもの)が使われるようになってからは,袖が割烹着の袖の中に収納されるため,着ける必要がなくなってしまったようです。
今では,和服で書を書く書道家,居合抜きの演技者,百人一首のかるた競技大会で和服を着た選手が襷をしている姿しかあまり見なくなりましたね。
さて,万葉集で「襷」は多くは「掛」や「畝傍」にかかる「玉たすき」という枕詞として現れます。
玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも(12-2992)
<たまたすきかけねばくるし かけたればつぎてみまくの ほしききみかも>
<<お見掛けしないと苦しいしけど,こうしてお見掛けできたら,いつまでも見続けていたい気持ちがもっと強くなるあなたなの>>
思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ(7-1335)
<おもひあま いたもすべなみ たまたすきうねびのやまに われしめゆひつ>
<<恋しさが思い余ってどうしようもないので,神の宿る畝傍山に私はあなたと結ばれたしるしを付けましょう>>
詠み人知らずのこの2首ともに「玉たすき」は枕詞で,この2首の中で意味は持ちません。ただ,当時は「玉たすき」と読み上げると次にくる言葉が「掛ける」「畝傍」かが予想できたくらい近い関係の言葉だったと私は思います。
さて,「襷」自体を詠んだ万葉集の和歌もあります。ただし,すべて長歌の中に出てきます。
大船の思ひ頼みて さな葛いや遠長く 我が思へる君によりては 言の故もなくありこそと 木綿たすき肩に取り懸け 斎瓮を斎ひ掘り据ゑ 天地の神にぞ我が祷む いたもすべなみ(13-3288)
<おほぶねのおもひたのみて さなかづらいやとほながく あがおもへるきみによりては ことのゆゑもなくありこそと ゆふたすきかたにとりかけ いはひへをいはひほりすゑ あめつちのかみにぞわがのむ いたもすべなみ>
<<心から信頼し遠くからずっとお慕いしているあなたのせいで,私は忌み言葉も口にせず,木綿でつくった襷を肩にかけ,神聖な甕を,身を清めて土を掘って置き,必死に神に拝むしかすべはないのですよ>>
万葉時代は神に祈る場合,祈りが通じるように神に通じると言われる行為を行おうとします。たとえば,この長歌に出てくるように,禁句をしゃべらない,甕を身を清めて土に埋める,そして木綿の襷を肩にかけるという行為です。
その中でも,木綿の襷を肩にかけるのは,袖を垂らしていたのでは,強い祈りが神に通じないという言い伝えが当時あったのではないかと私は思います。
その祈り強さをさらに表現している長歌があります。山上憶良が幼い我が子が危篤になって,何とか回復してほしいと祈る部分に「襷」が出てきます。長いので一部を紹介します。
~思はぬに邪しま風の にふふかに覆ひ来れば 為むすべのたどきを知らに 白栲のたすきを掛け まそ鏡手に取り持ちて 天つ神仰ぎ祈ひ祷み 国つ神伏して額つき かからずもかかりも神のまにまにと 立ちあざり我れ祈ひ祷めど しましくも吉けくはなしに やくやくにかたちつくほり 朝な朝な言ふことやみ たまきはる命絶えぬれ~(5-904)
<~おほぶねのおもひたのむに おもはぬによこしまかぜの にふふかにおほひきたれば せむすべのたどきをしらに しろたへのたすきをかけ まそかがみてにとりもちて あまつかみあふぎこひのみ くにつかみふしてぬかつき かからずもかかりも かみのまにまにと たちあざりわれこひのめど しましくもよけくはなしに やくやくにかたちつくほり あさなさないふことやみ たまきはるいのちたえぬれ~>
<<~予想もしなかった邪悪な風が突然吹いてきて(我が子が病気になり),どうすればよいか分からず,白い襷を懸け,鏡を手に持って,仰いで天の神を祈り,伏して国の神に額づき,治るか治らないか,ただもう神の御心のままにと,おろおろとして我らは祈ったが,少しも良くはならず,だんだんと顔かたちが痩せ衰え,朝が来るたびに口数が減って,とうとう息が絶えてしまったので~>>
この中で,襷は神に真剣に祈ることを示す道具として使われていたことがわかります。
後に,何かを真剣に打ち込んで行うとき,まさに神に強く祈る気持ちほど真剣に行うという意思表示のために襷をかける風習が出てきたようにも思えます。襷が,袖が垂れることによって動作の邪魔にならないようにする効果も併せもったのでしょう。
もう,背中に十文字にかける襷を見ることが少ないですが,和服を着て,襷をかけ,何かに集中する姿は残したい日本文化の一つだと私は考えます。
さて,襷は紐を使ってかけます。次回はその紐をテーマにします。
今もあるシリーズ「紐(ひも)」に続く。
今,襷といえば駅伝大会で,選手が肩から斜めに掛けて走り,次の区間の同じチームの選手に渡していくリングの紐(ひも)状のものをイメージする人が多いかもしれません。
しかし,私のようなある程度年齢が高いに人間にとっては,和服を着たお母さんたちが炊事や洗濯をするとき,和服の袖(そで)が邪魔にならないよう,襷を掛けていたのを見た記憶があります。
その襷は普通の一本の紐です(リングになっていません)。まず,紐の端を口にくわえます。紐を一方の肩から背中を肩と反対の脇腹で袖を挟み,肩の上に上げ,その肩から背中を肩の反対の脇腹でもう一方の袖を挟みます。最後は,口でくわえた紐の端と今袖を挟んだもう一方の紐の端を肩前の部分で結んで完成です。慣れた人は,この間わずか数秒で襷を付けてしまいます。
<襷がけ人事>
銀行などの合併で以前よくマスコミに取り上げられた「襷がけ人事」という言葉があります。襷を掛けた背中に紐が×型に交叉する形になるイメージと合併前の一方の銀行出身者が頭取になると,もう一方の銀行出身者が副頭取になり,次の人事異動でその逆の人事が行われていくという慣行のイメージが似ているからです。
ただ,本来の襷も割烹着(袖と胸当てがあるエプロンのようなもの)が使われるようになってからは,袖が割烹着の袖の中に収納されるため,着ける必要がなくなってしまったようです。
今では,和服で書を書く書道家,居合抜きの演技者,百人一首のかるた競技大会で和服を着た選手が襷をしている姿しかあまり見なくなりましたね。
さて,万葉集で「襷」は多くは「掛」や「畝傍」にかかる「玉たすき」という枕詞として現れます。
玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも(12-2992)
<たまたすきかけねばくるし かけたればつぎてみまくの ほしききみかも>
<<お見掛けしないと苦しいしけど,こうしてお見掛けできたら,いつまでも見続けていたい気持ちがもっと強くなるあなたなの>>
思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ(7-1335)
<おもひあま いたもすべなみ たまたすきうねびのやまに われしめゆひつ>
<<恋しさが思い余ってどうしようもないので,神の宿る畝傍山に私はあなたと結ばれたしるしを付けましょう>>
詠み人知らずのこの2首ともに「玉たすき」は枕詞で,この2首の中で意味は持ちません。ただ,当時は「玉たすき」と読み上げると次にくる言葉が「掛ける」「畝傍」かが予想できたくらい近い関係の言葉だったと私は思います。
さて,「襷」自体を詠んだ万葉集の和歌もあります。ただし,すべて長歌の中に出てきます。
大船の思ひ頼みて さな葛いや遠長く 我が思へる君によりては 言の故もなくありこそと 木綿たすき肩に取り懸け 斎瓮を斎ひ掘り据ゑ 天地の神にぞ我が祷む いたもすべなみ(13-3288)
<おほぶねのおもひたのみて さなかづらいやとほながく あがおもへるきみによりては ことのゆゑもなくありこそと ゆふたすきかたにとりかけ いはひへをいはひほりすゑ あめつちのかみにぞわがのむ いたもすべなみ>
<<心から信頼し遠くからずっとお慕いしているあなたのせいで,私は忌み言葉も口にせず,木綿でつくった襷を肩にかけ,神聖な甕を,身を清めて土を掘って置き,必死に神に拝むしかすべはないのですよ>>
万葉時代は神に祈る場合,祈りが通じるように神に通じると言われる行為を行おうとします。たとえば,この長歌に出てくるように,禁句をしゃべらない,甕を身を清めて土に埋める,そして木綿の襷を肩にかけるという行為です。
その中でも,木綿の襷を肩にかけるのは,袖を垂らしていたのでは,強い祈りが神に通じないという言い伝えが当時あったのではないかと私は思います。
その祈り強さをさらに表現している長歌があります。山上憶良が幼い我が子が危篤になって,何とか回復してほしいと祈る部分に「襷」が出てきます。長いので一部を紹介します。
~思はぬに邪しま風の にふふかに覆ひ来れば 為むすべのたどきを知らに 白栲のたすきを掛け まそ鏡手に取り持ちて 天つ神仰ぎ祈ひ祷み 国つ神伏して額つき かからずもかかりも神のまにまにと 立ちあざり我れ祈ひ祷めど しましくも吉けくはなしに やくやくにかたちつくほり 朝な朝な言ふことやみ たまきはる命絶えぬれ~(5-904)
<~おほぶねのおもひたのむに おもはぬによこしまかぜの にふふかにおほひきたれば せむすべのたどきをしらに しろたへのたすきをかけ まそかがみてにとりもちて あまつかみあふぎこひのみ くにつかみふしてぬかつき かからずもかかりも かみのまにまにと たちあざりわれこひのめど しましくもよけくはなしに やくやくにかたちつくほり あさなさないふことやみ たまきはるいのちたえぬれ~>
<<~予想もしなかった邪悪な風が突然吹いてきて(我が子が病気になり),どうすればよいか分からず,白い襷を懸け,鏡を手に持って,仰いで天の神を祈り,伏して国の神に額づき,治るか治らないか,ただもう神の御心のままにと,おろおろとして我らは祈ったが,少しも良くはならず,だんだんと顔かたちが痩せ衰え,朝が来るたびに口数が減って,とうとう息が絶えてしまったので~>>
この中で,襷は神に真剣に祈ることを示す道具として使われていたことがわかります。
後に,何かを真剣に打ち込んで行うとき,まさに神に強く祈る気持ちほど真剣に行うという意思表示のために襷をかける風習が出てきたようにも思えます。襷が,袖が垂れることによって動作の邪魔にならないようにする効果も併せもったのでしょう。
もう,背中に十文字にかける襷を見ることが少ないですが,和服を着て,襷をかけ,何かに集中する姿は残したい日本文化の一つだと私は考えます。
さて,襷は紐を使ってかけます。次回はその紐をテーマにします。
今もあるシリーズ「紐(ひも)」に続く。
2012年9月23日日曜日
今もあるシリーズ「袖(そで)」
衣服の袖は,左右それぞれの腕を通す筒型または袋型の部分です。袖は洋服では腕にぴったりくっつくように細いですが,和服では振袖のように腕の太さとは無関係に大きな袋状になっています。
和服では,昔から袖は腕を隠したり,ポケットの変わりにモノを入れたり,暑さ寒さや紫外線から肌を守るだけでなく,ファッション性をアピールする道具としても使われます。
万葉集には「袖」がたくさん詠まれています。「袖付け衣(そでつけころも)」という言葉が万葉集に出てくるくらいですから,万葉時代には袖を衣服に取り付ける縫製技術が十分進化していたのだと私は思います。
次は「袖」を詠った有名な短歌(大海人皇子と志貴皇子の作)です。あまりに有名なのと本ブログの他の記事で紹介済みなので読みと訳は省略します。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)
この袖が衣服の本体に綺麗に付くようにするには,縫製技術の高度化がないとうまくいきません。
袖を付ける製法技術がない時代は,2枚の布を頭が入る場所は縫わずに,両端を縫います。縫っていないところを頭を通し,縫ったところが両肩の上となるようします。布は身体の前(胸)と後ろ(背)に垂れます。紐で腰のあたりで結べば,もっとも原始的な衣服が出来上がります。もちろん袖はありません。
ただ,袖を付ける縫製技術が完成していても,万葉時代は今のスパンデックスのような伸び縮みする布はまだ無かったので,袖は腕の太さよりかなり大きく作らないと腕を通すことがままなりません。そのため袖は結果的に大きく作られるようになり,袖の大きさや色が着ている人の存在感を示すことになったのかもしれません。
万葉集では「袖」の前につく枕詞の多くが「白栲の」となっています。当時は袖は白が主流だったと想像できます。
また,袖は左右に別に分かれて存在しますから,万葉時代では次の1首のように「別離」を引き合いに出す言葉でもあったようです。
白栲の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも(12-3182)
<しろたへのそでのわかれはをしけども おもひみだれてゆるしつるかも>
<<袖が分かれているようにあなたとの別れはつらいけど,私の心が乱れてしまい結局あなたと別れることにしたの>>
この詠み人知らずの短歌,女性が詠んだものとして訳してみました。女性の感性をうまく表現できているでしょうか。
さて,そんな悲恋に遭遇すると悲しみのあまり,涙がとめどなく出ます。
その流れる涙を拭うのも当時袖の重要な役目であることを,次の詠み人知らずの1首が教えてくれます。
ぬばたまのその夢にだに見え継ぐや袖干る日なく我れは恋ふるを(12-2849)
<ぬばたまのそのいめにだに みえつぐやそでふるひなく あれはこふるを>
<<夜君と逢う夢だけでも見続けたい。涙で袖が乾く日がないほど私は恋しているのだから>>
袖は保温効果,紫外線予防,ファッション性や恋する気持ちをアピールする道具としての効果がありますが,垂れ下がる袖は狩りのような激しい動きには逆に邪魔になることがあります。
最後の旋頭歌は,そんな場合にどうしていたかを私たちに教えてくれる1首です。
江林に臥せる獣やも求むるによき白栲の袖巻き上げて獣待つ我が背(7-1292)
<えはやしにふせるししやももとむるによき しろたへのそでまきあげてししまつわがせ>
<<河口近くの林に隠れている獣を捕獲するために袖をたくし上げて待つ私の大好きな人>>
狩猟をするときは,大きな袖はいろんなものに引っかかって動きが悪くなるので,袖をまくりあげたりして袖が邪魔にならないようにします。でも,ただまくりあげただけの場合,身体を動かすと袖はすぐ垂れてきます。そうならないように考えられたのが紐を使って,襷(たすき)を掛ける工夫です。
次回の本シリーズは,その「襷」を取り上げます。
今もあるシリーズ「襷(たすき)」に続く。
和服では,昔から袖は腕を隠したり,ポケットの変わりにモノを入れたり,暑さ寒さや紫外線から肌を守るだけでなく,ファッション性をアピールする道具としても使われます。
万葉集には「袖」がたくさん詠まれています。「袖付け衣(そでつけころも)」という言葉が万葉集に出てくるくらいですから,万葉時代には袖を衣服に取り付ける縫製技術が十分進化していたのだと私は思います。
次は「袖」を詠った有名な短歌(大海人皇子と志貴皇子の作)です。あまりに有名なのと本ブログの他の記事で紹介済みなので読みと訳は省略します。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)
この袖が衣服の本体に綺麗に付くようにするには,縫製技術の高度化がないとうまくいきません。
袖を付ける製法技術がない時代は,2枚の布を頭が入る場所は縫わずに,両端を縫います。縫っていないところを頭を通し,縫ったところが両肩の上となるようします。布は身体の前(胸)と後ろ(背)に垂れます。紐で腰のあたりで結べば,もっとも原始的な衣服が出来上がります。もちろん袖はありません。
ただ,袖を付ける縫製技術が完成していても,万葉時代は今のスパンデックスのような伸び縮みする布はまだ無かったので,袖は腕の太さよりかなり大きく作らないと腕を通すことがままなりません。そのため袖は結果的に大きく作られるようになり,袖の大きさや色が着ている人の存在感を示すことになったのかもしれません。
万葉集では「袖」の前につく枕詞の多くが「白栲の」となっています。当時は袖は白が主流だったと想像できます。
また,袖は左右に別に分かれて存在しますから,万葉時代では次の1首のように「別離」を引き合いに出す言葉でもあったようです。
白栲の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも(12-3182)
<しろたへのそでのわかれはをしけども おもひみだれてゆるしつるかも>
<<袖が分かれているようにあなたとの別れはつらいけど,私の心が乱れてしまい結局あなたと別れることにしたの>>
この詠み人知らずの短歌,女性が詠んだものとして訳してみました。女性の感性をうまく表現できているでしょうか。
さて,そんな悲恋に遭遇すると悲しみのあまり,涙がとめどなく出ます。
その流れる涙を拭うのも当時袖の重要な役目であることを,次の詠み人知らずの1首が教えてくれます。
ぬばたまのその夢にだに見え継ぐや袖干る日なく我れは恋ふるを(12-2849)
<ぬばたまのそのいめにだに みえつぐやそでふるひなく あれはこふるを>
<<夜君と逢う夢だけでも見続けたい。涙で袖が乾く日がないほど私は恋しているのだから>>
袖は保温効果,紫外線予防,ファッション性や恋する気持ちをアピールする道具としての効果がありますが,垂れ下がる袖は狩りのような激しい動きには逆に邪魔になることがあります。
最後の旋頭歌は,そんな場合にどうしていたかを私たちに教えてくれる1首です。
江林に臥せる獣やも求むるによき白栲の袖巻き上げて獣待つ我が背(7-1292)
<えはやしにふせるししやももとむるによき しろたへのそでまきあげてししまつわがせ>
<<河口近くの林に隠れている獣を捕獲するために袖をたくし上げて待つ私の大好きな人>>
狩猟をするときは,大きな袖はいろんなものに引っかかって動きが悪くなるので,袖をまくりあげたりして袖が邪魔にならないようにします。でも,ただまくりあげただけの場合,身体を動かすと袖はすぐ垂れてきます。そうならないように考えられたのが紐を使って,襷(たすき)を掛ける工夫です。
次回の本シリーズは,その「襷」を取り上げます。
今もあるシリーズ「襷(たすき)」に続く。
2012年9月17日月曜日
今もあるシリーズ「衾(ふすま)」
今「ふすま」と言えば和室の押し入れの引き扉,または和室間を仕切る引き扉としての「襖」をイメージされるかもしれません。
しかし,ここでの「衾」は「襖」ではなく,寝るときに身体に掛けるものを意味します。すなわち,現代の「毛布」「タオルケット」「肌掛布団」のようなものを指します。
当時はまともな暖房設備もない時代ですから,当然何か身体に掛けて寝ないと寒さに耐えられないはずです。日常品ですからいろいろな種類があったことが万葉集から読み取れます。
次は万葉集にでくる衾の種類です。
・麻衾(あさぶすま)‥麻布で作った衾。保温効果は少なく,夏用か?
・麻手小衾(あさでこぶすま)‥麻衾と同。小衾は「かわいい衾」といった意味か?
・栲衾(たくぶすま)‥コウゾの繊維で作った衾。白い色で清潔感があったのかも? 「白」「新」の枕詞でもある。
・まだら衾‥まだら模様の布で作った衾。さまざまな加工を施した高級品か?
・むし衾‥「むし」の意味は諸説あり。万葉仮名が「蒸被」なので「暖かい衾」の意か?
これらを詠んだ万葉集の短歌か
らいくつか紹介しましょう。
蒸衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも(4-524)
<むしふすまなごやがしたにふせれども いもとしねねばはだしさむしも>
<<暖かくて柔らかい衾の下で寝ても,貴女と共寝をしなければ私の肌は暖まらないのだよ>>
この短歌は,藤原不比等(ふぢはらのふひと:659-720)にいた4人の息子の内,末弟であった藤原麻呂(ふぢはらのまろ:695-737)が坂上郎女(さかのうへのいらつめ)贈った3首の内の1首です。
藤原麻呂は未亡人であった坂上郎女の家へは妻問をする関係にあったようです。
今でも相手の女性に「いくら柔らかくて暖かい毛布で寝ても,君と一緒でなければ心が寒い」な~んて,使えそうですね。
天の川 「たびとはん。ええ年して何言うてんねん。あんさんにはそんな戯言使えまへん。相手が『気持ち悪いわ』ちゅうのに決まってるやんか。」
うるさいぞ,天の川君!
さて,気を取り直して次に行きましょう。詠み人知らずの(駿河地方の)東歌です。
伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に(14-3354)
<きへひとのまだらぶすまに わたさはだいりなましもの いもがをどこに>
<<伎倍(静岡県浜松市)の人が作るまだら色に染めた衾に綿として中に入ってよ,お前の可愛い床にずっと居るざあ>>
もう1首,詠まれた地域はわかりませんが,女性作と思われる東歌を紹介します。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<私の麻手小衾(麻で作られた可愛い衾)さん。今宵だけでも愛しいあの人を来させてね。麻手小衾さん>>
いろんな衾を作る産地が東国に多かったのかもしれませんね。もしかしたら「麻手小衾」は万葉時代の地域ブランド名だったりして。
今もあるシリーズ「袖(そで)」に続く。
しかし,ここでの「衾」は「襖」ではなく,寝るときに身体に掛けるものを意味します。すなわち,現代の「毛布」「タオルケット」「肌掛布団」のようなものを指します。
当時はまともな暖房設備もない時代ですから,当然何か身体に掛けて寝ないと寒さに耐えられないはずです。日常品ですからいろいろな種類があったことが万葉集から読み取れます。
次は万葉集にでくる衾の種類です。
・麻衾(あさぶすま)‥麻布で作った衾。保温効果は少なく,夏用か?
・麻手小衾(あさでこぶすま)‥麻衾と同。小衾は「かわいい衾」といった意味か?
・栲衾(たくぶすま)‥コウゾの繊維で作った衾。白い色で清潔感があったのかも? 「白」「新」の枕詞でもある。
・まだら衾‥まだら模様の布で作った衾。さまざまな加工を施した高級品か?
・むし衾‥「むし」の意味は諸説あり。万葉仮名が「蒸被」なので「暖かい衾」の意か?
これらを詠んだ万葉集の短歌か
らいくつか紹介しましょう。
蒸衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも(4-524)
<むしふすまなごやがしたにふせれども いもとしねねばはだしさむしも>
<<暖かくて柔らかい衾の下で寝ても,貴女と共寝をしなければ私の肌は暖まらないのだよ>>
この短歌は,藤原不比等(ふぢはらのふひと:659-720)にいた4人の息子の内,末弟であった藤原麻呂(ふぢはらのまろ:695-737)が坂上郎女(さかのうへのいらつめ)贈った3首の内の1首です。
藤原麻呂は未亡人であった坂上郎女の家へは妻問をする関係にあったようです。
今でも相手の女性に「いくら柔らかくて暖かい毛布で寝ても,君と一緒でなければ心が寒い」な~んて,使えそうですね。
天の川 「たびとはん。ええ年して何言うてんねん。あんさんにはそんな戯言使えまへん。相手が『気持ち悪いわ』ちゅうのに決まってるやんか。」
うるさいぞ,天の川君!
さて,気を取り直して次に行きましょう。詠み人知らずの(駿河地方の)東歌です。
伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に(14-3354)
<きへひとのまだらぶすまに わたさはだいりなましもの いもがをどこに>
<<伎倍(静岡県浜松市)の人が作るまだら色に染めた衾に綿として中に入ってよ,お前の可愛い床にずっと居るざあ>>
もう1首,詠まれた地域はわかりませんが,女性作と思われる東歌を紹介します。
庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾(14-3454)
<にはにたつあさでこぶすま こよひだにつまよしこせね あさでこぶすま>
<<私の麻手小衾(麻で作られた可愛い衾)さん。今宵だけでも愛しいあの人を来させてね。麻手小衾さん>>
いろんな衾を作る産地が東国に多かったのかもしれませんね。もしかしたら「麻手小衾」は万葉時代の地域ブランド名だったりして。
今もあるシリーズ「袖(そで)」に続く。
2012年9月16日日曜日
今もあるシリーズ「櫛(くし)」
頭髪を整えるとき,ブラシを使うことが多くなりましたが,今もまだ多くの人が「櫛」を携帯しているようです。私もその一人で,中国で滞在したホテルのアメニティの竹製櫛を携帯しています。
もちろん,床屋さんが頭髪,ひげ,眉毛をカットする際に,必須品だと思います。ホテルのアメニティ以外に,スポーツ施設の浴場などの洗面台に置いてあるのを多く見かけます。
万葉集で櫛に関する和歌(枕詞の「玉櫛笥」も含む)は約30首あります。
その内、櫛自体を詠んだ和歌は8首と少なく,後は「櫛笥」(櫛を入れる化粧箱)または「奥」「ふ」「み」「覆ふ」「ふた」「開く」にかかる枕詞「玉櫛笥」に関するものです。
玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも(2-93)
<たまくしげおほふをやすみ あけていなばきみがなはあれど わがなしをしも>
<<二人の仲を隠す(覆う)のはたやすいと夜が明け,明るくなりきってからお帰りになるなんて、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ>>
この短歌は,鏡王女が藤原鎌足(614~669)に贈った1首です。それに対して,鎌足は同じく玉櫛笥を枕詞に次の短歌を返しています。
玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ(2-94)
<たまくしげみむろのやまの さなかづらさねずはつひに ありかつましじ>
<<三室山のさな葛ではないが、さ寝ず(共寝せず)に最後まで(夜が明けるまで)待たせるなんてありえないでしょう>>
さて,どちらの言い分が正しいのか? それとも,余りに楽しい妻問の時間であっという間に朝になり,お互い相手のせいにしてさらに楽しんでいるのかもしれませんね。
いずれにしても,枕詞に「玉櫛笥」が7世紀に使われているということは,その中に入れる「櫛」も貴族の中では日常品として使われていたのだと私は思います。
では,櫛そのものを詠んだ短歌を紹介します。
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(16-3832)
<からたちとうばらかりそけ くらたてむくそとほくまれ くしつくるとじ>
<<カラタチとイバラを刈って倉庫を建てるから,この近くでトイレをしないでほしいなあ,櫛を作るお姉さんたちよ>>
なんと,品のない短歌でしょうか。また,宴席でさまざまなものの名前を入れて即興で詠うことが流行っていたのでしょうか。
カラタチもイバラもトゲがあります。櫛やその他の工芸品などを作っている工場では,工員の女性用トイレを人が入りにくい,トゲのある植物で囲まれた場所に作っていたのかもしれません。
そうして,そのような背景を踏まえて,倉,屎,櫛とすべて「く」で始まる言葉を入れ,酒に任せて忌部首(いみべのおびと)という人物が詠んだとされています。
万葉時代には,櫛を大量に生産する手工業の工場がすでにできていたのかもしれないと私は想像します。
最後に,もう1首大伴家持が櫛を詠んだ興味深い短歌を紹介します(この短歌は昨年3月12日の投稿でも紹介しています。)。
娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも(19-4212)
<をとめらが のちのしるしと つげをぐし おひかはりおひて なびきけらしも>
<<兎原娘子(うなひをとめ)の言い伝えのしるしとして黄楊の小櫛が木に生え変わって伸び栄え風に靡いているのだ>>
この短歌から,万葉時代,櫛の材料としてツゲがあったことがわかります。ツゲは非常に成長が遅い代わりに木が固く変形しにくいため,櫛にはもってこいの木材なのです。
しかし,固い材質ほど加工が難しいですが,高度な加工技術がすでに確立し,多くの専門の刀自たちによってけっこう大量に製作されていたのでしょう。
現在も「つげ櫛」は高級な櫛の代名詞となっているようです。
今もあるシリーズ「衾(ふすま)」に続く。
もちろん,床屋さんが頭髪,ひげ,眉毛をカットする際に,必須品だと思います。ホテルのアメニティ以外に,スポーツ施設の浴場などの洗面台に置いてあるのを多く見かけます。
万葉集で櫛に関する和歌(枕詞の「玉櫛笥」も含む)は約30首あります。
その内、櫛自体を詠んだ和歌は8首と少なく,後は「櫛笥」(櫛を入れる化粧箱)または「奥」「ふ」「み」「覆ふ」「ふた」「開く」にかかる枕詞「玉櫛笥」に関するものです。
玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも(2-93)
<たまくしげおほふをやすみ あけていなばきみがなはあれど わがなしをしも>
<<二人の仲を隠す(覆う)のはたやすいと夜が明け,明るくなりきってからお帰りになるなんて、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ>>
この短歌は,鏡王女が藤原鎌足(614~669)に贈った1首です。それに対して,鎌足は同じく玉櫛笥を枕詞に次の短歌を返しています。
玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ(2-94)
<たまくしげみむろのやまの さなかづらさねずはつひに ありかつましじ>
<<三室山のさな葛ではないが、さ寝ず(共寝せず)に最後まで(夜が明けるまで)待たせるなんてありえないでしょう>>
さて,どちらの言い分が正しいのか? それとも,余りに楽しい妻問の時間であっという間に朝になり,お互い相手のせいにしてさらに楽しんでいるのかもしれませんね。
いずれにしても,枕詞に「玉櫛笥」が7世紀に使われているということは,その中に入れる「櫛」も貴族の中では日常品として使われていたのだと私は思います。
では,櫛そのものを詠んだ短歌を紹介します。
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(16-3832)
<からたちとうばらかりそけ くらたてむくそとほくまれ くしつくるとじ>
<<カラタチとイバラを刈って倉庫を建てるから,この近くでトイレをしないでほしいなあ,櫛を作るお姉さんたちよ>>
なんと,品のない短歌でしょうか。また,宴席でさまざまなものの名前を入れて即興で詠うことが流行っていたのでしょうか。
カラタチもイバラもトゲがあります。櫛やその他の工芸品などを作っている工場では,工員の女性用トイレを人が入りにくい,トゲのある植物で囲まれた場所に作っていたのかもしれません。
そうして,そのような背景を踏まえて,倉,屎,櫛とすべて「く」で始まる言葉を入れ,酒に任せて忌部首(いみべのおびと)という人物が詠んだとされています。
万葉時代には,櫛を大量に生産する手工業の工場がすでにできていたのかもしれないと私は想像します。
最後に,もう1首大伴家持が櫛を詠んだ興味深い短歌を紹介します(この短歌は昨年3月12日の投稿でも紹介しています。)。
娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも(19-4212)
<をとめらが のちのしるしと つげをぐし おひかはりおひて なびきけらしも>
<<兎原娘子(うなひをとめ)の言い伝えのしるしとして黄楊の小櫛が木に生え変わって伸び栄え風に靡いているのだ>>
この短歌から,万葉時代,櫛の材料としてツゲがあったことがわかります。ツゲは非常に成長が遅い代わりに木が固く変形しにくいため,櫛にはもってこいの木材なのです。
しかし,固い材質ほど加工が難しいですが,高度な加工技術がすでに確立し,多くの専門の刀自たちによってけっこう大量に製作されていたのでしょう。
現在も「つげ櫛」は高級な櫛の代名詞となっているようです。
今もあるシリーズ「衾(ふすま)」に続く。
2012年9月8日土曜日
今もあるシリーズ「帯(おび)」
<現代の「帯」>
着物を着る機会が少なくなっている今,若者の含め「帯」といえば浴衣を着るときに巻くのが一番ポピュラーでしょうか?
ただ,服飾系の「帯」そのものではなく「帯状のもの」となると,次のように結構いろいろな言葉として存在しているように思います。
・携帯(けいたい)‥携え持つこと。英語ではmobile(モバイル)。
・帯状疱疹(たいじょうほうしん)‥帯状に赤い発疹と小水疱が出現する皮膚疾患
・地震帯(じしんたい)・火山帯(かざんたい)‥地震や火山噴火が頻発する帯状の地域
・帯域(たいいき)‥電気通信の用語で,周波数の幅のこと。一般にこれが広いほど通信速度性能が高い。
・路側帯(ろそくたい)‥おもに歩行者用に道路端寄りに設けられた帯状の部分。
<万葉時代の「帯」>
万葉集では服飾系の「帯」を詠ったものが多いのは予想がつきますが,次の詠み人知らずの短歌のように「帯状」を詠ったものもすでに出ています。
大君の御笠の山の帯にせる細谷川の音のさやけさ(7-1102)
<おほきみのみかさのやまの おびにせるほそたにがはの おとのさやけさ>
<<大君が三笠の山の周りを帯のように巡らしている細い谷川の流れる水音がさわやかです>>
また,「携帯する」という意味の「帯びる」も万葉集で詠われています。次は防人の妻が詠ったと考えられる短歌です。
葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ(13-3345)
<あしへゆく かりのつばさを みるごとにきみがおばしし なげやしおもほゆ>
<<葦辺へ飛ぶ雁の翼を見るたびにあなたがいつももっていた投げ矢を思い出します>>
さて,万葉集に出てくる「帯」にはどんなものがあるか見てみましょう。
・靫帯ぶ(ゆきおぶ)‥靫(矢を差し込んでおく皮のケース)を持って宮廷を守った者。
・白栲の帯(しろたへのおび)‥帯(「白栲の」は枕詞)
・倭文機帯(しつはたおび)‥古代の織物の一つ。穀(かじ)・麻などの緯を青・赤などで染め,乱れ模様に織った布で作った帯。
・狭織の帯(さおりのおび)‥幅を狭く織った倭文布で作った帯。
・韓帯(からおび)‥韓風のきらびやかで豪華な帯。
・引き帯(ひきおび)‥衣服の上に用いる小帯。
この中で,倭文機帯を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介しましす。
いにしへの倭文機帯を結び垂れ誰れといふ人も君にはまさじ(11-2628)
<いにしへの しつはたおびを むすびたれ たれといふひとも きみにはまさじ>
<<あの人もこの人も素敵な倭文機帯を垂らしているけれど,あなた以上に似合う人はいないわよ>>
倭文機帯は,当時都で流行した色の違う糸を使って織った布で作った帯のようです。非常に手の込んだもので,一目で倭文機帯と分かったのではないでしょうか。
今の特定高級ブランドに多くの人が憧れたり,購入したりする社会現象と1300年前の日本の都会もあまり変わりがなかったというかもしれませんね。
今もあるシリーズ「櫛(くし)」に続く。
2012年9月2日日曜日
今もあるシリーズ「網(あみ)」
万葉集で「網(あみ)」の意味の言葉が入っている和歌は20首以上あります。
網は今でもいろいろな用途で使われていますね。
たとえば,魚,鳥,獣,虫などを捕る網,投網(とあみ),旋網(まきあみ),網場(あば,あみば),魚を焼く網,一網打尽(一回の網で捕り尽くすこと),部屋の網戸,土地などを仕切る金網や鉄条網などがあります。
また,概念的な「網」の用語として,インターネットを支える通信網,テレビの放送網,警察の情報網・監視網,スパイ組織の諜報網,人間の神経網,鉄道や道路の交通網,蜘蛛の巣を形作る円網,網目模様などがありそうです。
そして,単純に「あみ」と読まない地名もたくさんあります。網引(あびき):兵庫県,網干(あぼし):兵庫県,網代(あじろ):静岡県,網走(あばしり):北海道,網田(おうだ):熊本県,網場(あば):長崎県などです。
さて,万葉集では「網」だけで使われる場合と次のような熟語で出てくる場合があります(地名に使われている場合を除きます)。
・小網(さで)‥2本の竹を交叉して三角状として,網を張って袋状にしたもの。
・網引(あびき)‥網を引いて魚を捕ること。
・網子(あご)‥地引網を引く漁師。
・網代(あじろ)‥竹や木を編んだみのを網を引く形に立て,端に簀をあてて魚を捕る漁法。
・網代木(あじろぎ)‥網代で打つ杭。
・網代人(あじろびと)‥網代に携わる漁師。
・網目(あみめ)‥糸,竹などを編んだときにできるすきま。
・鳥網(となみ)‥鳥を捕るために張る網。
上の地名に残っているものも結構ありますね。また,呼び方は違いますが今も使っている網の道具もあります。
最初は鳥を飼うために網で囲ったケージのようなものが万葉時代にあったことを示す短歌2首を紹介しました。
霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ(17-3917)
<ほととぎすよごゑなつかし あみささばはなはすぐとも かれずかなかむ>
<<ホトトギスの夜鳴く声が心惹かれる。網の張った保護地に入れれば,季節が過ぎて橘の花が散ってしまってもどっかに行ってしまわず鳴き続けるだろう>>
橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを(17-3918)
<たちばなのにほへるそのに ほととぎすなくとひとつぐ あみささましを>
<<橘の花がきれいに咲く園でホトトギスが鳴いていると人に知らせるためにホトトギスを網の張った保護地に入れておこう>>
この短歌は大伴家持が奈良の実家で読んだ6首の内の2首です。
これを読んだ天平16年当時,26歳の家持は政争に巻き込まれそうになったのたのです。「橘」「霍公鳥」は誰のことを指しているかなど興味はありますが,ここは「網さす」にのみ注目します。
「網さす」の「さす」は「花瓶に水を差す」と同じように「網を張ったケージの中にホトトギスを入れる」の「入れる」という意味だと私は思います。
ということは,当時鳥を飼育するための網で囲われたケージのようなものがあったのだろうと想像できます。
漁業で網を使うケースでは今もテレビで見たり,観光イベントで経験できるものがあります。
大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声(3-238)
<おほみやのうちまできこゆ あびきすとあごととのふる あまのよびごゑ>
<<宮殿の中まで聞こえる「さあ地引網を引くぞ」と網子の意気を合わせようとする漁師の掛け声が>>
大宮の御殿があるところは難波の宮だと思われます。
この短歌は長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が文武天皇が難波宮に行幸したとき,招集され詠んだもののようです。
難波の大宮は海の近くにあって,天皇が行幸を歓迎するため,漁師が大勢の人を使って,音頭を取りながら地引網で魚を捕っている様子が詠まれています。
おそらく,おいしい魚がたくさんとれて,今宵の宴は天皇歓迎一色になるでしょうと天皇に詠んだものかと思われます。
魚を捕るために網を引くのはどれだけいっぱい捕れているのだろうか期待が膨らむ瞬間です。
私も中学生のとき,一度だけ若狭湾で地引網を引くのを見学したことがあります。参加者は,気持ちを合わせて網を引き,捕れた魚が見え始めたときそれが歓声に変わります。
さて,学校の校庭と外を区切るのはなぜか網状の柵でできいることが結構あります。
学校の帰り,お目当ての異性の生徒が陸上部,テニス部などに入っていて,練習している可憐な姿を網越しにいつまでも眺めていたことはないでしょうか。
そんな気持ちに通ずる短歌が次の詠み人知らずの1首です。
あらたまの寸戸が竹垣網目ゆも妹し見えなば我れ恋ひめやも(11-2530)
<あらたまのきへがたけがき あみめゆもいもしみえなば われこひめやも>
<<寸戸というところで作った竹垣の網目から中があなたが見えないなら私はこんなにあなたのことを恋慕っていたでしょうか>>
このように万葉時代では,網状のものはさまざまな用途に作られていたことがわかります。
網は英語でネットワークといいますが,私たちは今さまざまなネットワークのもとで暮らしています。
特に良い友達とのつながりを広げ,人的ネットワークを拡大することはさまざまな時に自分を助けてくれることがあります。
そして,そういう人的ネットワークを通して社会貢献を行い,公共団体のセーフティーネットに頼らざるを得ない人を少なくしていければと考えています。
今もあるシリーズ「帯(おび)」に続く。
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