<石和温泉でくつろぐ>
2009年2月下旬から始めたこのブログも7年目に入ろうとしています。
昨日今日と私は石和温泉駅から北東へ徒歩10分ほどの比較的小さな温泉旅館に来ています。
昨年12月から私は新しい職場に転職し,ようやく対象システムの全貌,初期開発当時の状況,その後何年にも続いた保守開発対応の経緯の詳細が見えてきました。
以前からときどき仕事の疲れを少し癒すため,都心から近いことが便利なこの温泉地を今回も選びました。旅館到着後,すぐに温泉風呂に入り,リラックスしてから,このブログを書き始めています。
今回宿泊の旅館は,初めて来た場所ですが,お風呂も泉質の異なる2種類の温泉(旅館直下で涌く温泉と,いわゆる石和温泉と呼ばれる温泉)が楽しめ,料理もなかなかしっかりしたボリュームと内容で申し分ありませんでした。写真は,お風呂(左の浴槽が温めの自噴温泉で右の浴槽が熱めの石和温泉)と夕食の料理(一部)です。
<万葉集の雑多さで万葉集の評価を下げる評論には反対>
今回のスペシャルは「万葉集が我々に残した情報は何か?」について,3回に分けて私の考えを示したいと思います。万葉集には,一見無秩序と思われるくらい,多様で多くの(飛鳥時代から奈良時代に掛けての)情報が盛り込まれています。
万葉集の解説本に「『万葉集は一人の人が編纂したのではなく,何回かに分けて編纂された歌集を集めたものである』といった学説が有力だ」という解説をよく見かけます。しかし,私はそんな解説にほとんど興味を感じません。一部がいつだれがその部分を編纂したかはどうでもよいと私は思います。
<最終編者の意図こそが万葉集の評価を決める>
最終的に20巻の万葉集として編集した人が万葉集を編纂したのです。それがたとえ寄せ集めでも,統一されていなくても,下手くそな和歌が数多く残っていたとしてもまったく問題はありません。不統一であるとか,寄せ集めであるからとか,どうでもいいような和歌がたくさんあるとかで,万葉集自体や最終編集者の評価を下げるような解説に対し「それがどうしたの?」と私は言いたくなるだけです。
<万葉集の価値はその情報量にある?>
万葉集の価値は,そこに納められた情報量の多さにこそ大きなものがあると感じます。ここで私が言う情報量とは,重複を排除(一つにして)して残ったものです。情報処理技術の分野でいうと情報のユニーク(一意)性を高めた処理後の情報の量です。それは多様性が高いほど,私の言う情報量が多いことを示しているのです。
いわゆる「優れた(?)和歌を集めた万葉集の解説本」の多さには,私は正直辟易します。『優れた』という非常にあいまい,かつ選んだ人の個人的な価値観(例えば,○○博士が選んだから優れているとか)を勝手に押し付けたものでしかないからです。
<原点に戻る>
さて,このブログを始めた時にも書きましたが,私が万葉集から収集した用語集(約6千語)があります。それを見ていくと,まず地名の多さが目立ちます。万葉集での地名と思われる用語の数は,少なくとも800以上あると私は考えます。もちろん,その数は何度も出てくる有名な地名も1として数えています(延べ数ではありせん)。
これだけ,さまざまな地名が出てくる歌集であることは,編者が当時の日本という国(本州,四国,九州)の地名を多くの人に知らしめたいといってもおかしくありません。万葉集の和歌を見た,まは聞いた人は,その地名に行ってみたいと感じる人は多かったのではないでしょうか。
特に,地名にまつわる伝説を詠んだ次の短歌などは,その伝説の地に行ってみたいと特に感じるさせる効果は高かったと私は想像します。
香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原(1-14):中大兄皇子
<かぐやまとみみなしやまと あひしときたちて みにこし いなみくにはら>
<<香具山と耳梨山とが争った時に出雲の神が立ち上がって見に来たという,ここが印南国原なのだ>>
音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山(5-883):三嶋王
<おとにききめにはいまだみず さよひめ ひれふりきとふ きみまつらやま>
<<人づてには聞いているがまだ行ったことの無いのだ(行ってみたい)。肥前の唐津にあるという佐用姫が恋人との別れを惜しみいつまでも袖を振り,帰りを待ったいう言い伝えがある松浦山に>>
人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね(14-3398):東歌
<ひとみなのことはたゆとも はにしなのいしゐのてごが ことなたえそね>
<<人の言い伝えがすべて忘れ去られても埴科(長野県北部の郡)にある石井の手児の伝説だけは絶えさせないでほしい>>
さらに,たとえば次の詠み人知らずの短歌のように,どういったことでその地名が有名かが分かる序詞や枕詞を持つ和歌も多く出てきます。
もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも(11-2714)
<もののふのやそうぢがはの はやきせにたちえぬこひも あれはするかも >
<<大勢の武士たちの勢いと素早さで移動するような宇治川の早い瀬に立っているのが非常につらいの同じほど,あなたとの恋は苦しいものとなっているようです>>
「この最初の部分は『立ちえぬ』を導く序詞(枕詞)ですから,特に意味を意識する必要ははありません。この短歌は苦しい恋をしていると言いたいだけの単純なものです。」と解説したり,現代訳したりする人に万葉集の良さを語ってほしくないというのが,私の正直な感想です。
<序詞から多くの情報が得られる>
この短歌の情報として,宇治川は勢いよく流れる早い瀬があることが分かります。しかし,宇治は交通の要所であり,その川を渡る必要があるのです。それがどれだけ大変なのかが,当時の人々の評判になっていたのだろうという確かな情報が得られるのです。また,そのつらさの情報から「憂(う)し川」⇒「宇治(うぢ)川」と呼ばれるようになったのかも知れないという推測情報が演繹可能となります。
万葉集の編者は,地名を知らしめることと,そこへ旅をする人が増えることを願ったのかもしれません。具体的には,平城京,飛鳥京,大津京,近江周辺,吉野宮,藤原京,難波宮,恭仁京,山背地域(京都府南部),瀬戸内海の島々や沿岸地域,九州北部,山陰地方,北陸地方,伊勢,東海地方,関東甲信越地域,東北南部地域などの地名が出てくること自体に,情報量としての価値を私は強く感じるのです。
万葉集に出てくる地名を見るたびに出かけたくなる,今温泉三昧中の私「たびと」でした。
当ブログ7年目突入スペシャル(2)に続く。
2015年2月22日日曜日
2015年2月16日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ) ウグイスの毛の色は姿を隠す保護色?
「隠る」をここまで万葉集でいろいろ見てきましたが,いよいよ今回が最後になります。最後は「隠る」の対象が今まで出てこなかったものを対象とします。
まず,鶯が木末に隠れて鳴いている様子を詠んだ短歌から見ていきましょう。
春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に(5-827)
<はるさればこぬれがくりて うぐひすぞなきていぬなる うめがしづえに>
<<春になるとこずえに隠れて鶯は鳴き姿が見えなくなるようだ。梅の下枝に>>
この短歌は,天平2(730)年1月13日に大宰府で行われた大伴旅人を主人とした梅見の宴のとき,旅人の家臣であったろう山口若麻呂という参加者の一人が詠んだとされています。
ちなみに,鶯は色は非常に地味です(花札の影響か,鮮やかな緑色のメジロを鶯と勘違いする多いといいます)。鶯の身体の色は,確かに少しだけ緑色は帯びていますが,ほとんど木の肌の色に近いのです。そのため,葉がまだ出ない梅の木の木肌色に近い色(いわゆる保護色)であり,声はするけれど鶯がどこにいるか見つけるのが困難になるのです。この短歌は,そのような情景を詠んだように私には思えます。
さて,次は坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が詠んだとされる茶目っ気のある短歌です。
佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね(4-529)
<さほがはのきしのつかさの しばなかりそね ありつつもはるしきたらば たちかくるがね>
<<佐保川の岸の小高いところに生えている柴を刈らないでほしいわ。そのままにして春になったなら,その葉陰に隠れて誰にも見られず逢えるから>>
万葉時代の佐保川近辺は,今で言えば高級住宅街です。庶民の住むスラム風の街と違い,人口密度はそれほど高くないのです。そんな閑静な住宅街で,男女が路上で逢ったり,足繁く通っている姿は非常に目立ってしまいます。何とか人に見られない済む場所として,佐保川の岸で堤防のように小高くなっているところに柴(低木の木で落葉樹)が生えていたのでしょう。
住宅から佐保川の流れを見たい人にとっては邪魔なので刈ってしまおうと思う人もいたのでしょうか。そうすると恋人と目立たないで逢える場所が無くなるでしょ,無粋なことは止めてね,といった郎女の思いでしょうね。ただ,たとえそれが刈られてしまっても,またどこか隠れて逢える場所を見つけてみますわよといった郎女の心の強さを私はこの短歌から感じます。
最後は七夕のとき,天の川の渡し舟の櫂を隠してしまうというとんでもない詠み人知らずの短歌です。
我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくて わたりもりふねかさめやも しましはありまて>
<<僕が隠したので櫂がない渡り舟だから貸すのはできないよね。もう少し待ってくれるかい>>
年に1度だけしか逢えず,やっと天の川を舟で渡ってきて逢えたけど,逢っていられる時間はあっという間に過ぎる。少しでも長く逢っていたいので,帰るための天の川の渡し舟の櫂を隠してしまった言っているのです。渡し舟の管理人は櫂の無い舟は貸せないから,まだこちらで二人で逢っていられるよねとこの短歌は詠っています。
<罪を犯してはいけません>
ところで,これって犯罪ですよね。他人の所有物を勝手に隠してしまうわけですから。現代用語の「隠す」には,他人の物の場合もそうですが,情報を内証にしておくのも少し悪いことをしているようなイメージを感じる人もいめのかもしれません。でも,そこまでしても少しでも長く逢っていたいのだということを作者はこの短歌で言いたいのです。
こういった表現(罪を犯してまで恋人と逢いたい)に似たようなもので,本当に罪を犯してしまう事件をときどき報道でみることがあります。たとえば,愛人のために何億円も会社の金を横領したとか,恋敵に対して傷害事件を起こしたとかです。
そうなるから罪を犯してもしょうがないような表現は,たとえ文学でもやめるべきだという主張があります。でも,私は賛成できません。そんな主張を受け入れたら「必死で頑張る」という表現も,極端に解釈すると必ず死ぬまでやるわけですから,ダメだという人も出てくることになってしまいます。
<表現の自由は相互の交流から成熟する>
さて,そういった表現の自由に対し,それを受け入れる側の柔軟性や寛容性をどこまで認め合うかは,最近の国際情報道を見ていて,簡単にはいかない非常に難しい面があると感じます。
特に,それまでの規律や道徳に大きな違いがある国間,宗派間,倫理観の間では,許されない表現や映像の範囲に大きな差があることも改めて分かってきたように思います。
しかし,お互いの倫理観や価値観をよく説明し合い(あくまで冷静な話し合いで),共同で何かを行う場合(例:スポーツ,国際会議,視察旅行など),どこまで許容するかの合意を取り,参加者や応援者もその合意を守るよう周知していくしかないと考えます。
大いなる侮辱を受けたから,たとえ民間人であっても暴力や武器で制裁(抹殺)しても構わない(神は許す)し,自分はその制裁行為を実施することで死ぬことがあっても良い(神に召される)という主張があるとするならば,人間尊重の考えからは,その主張はやはり肯定されるべきではないだろうと私は感じます。
当ブログ7年目突入スペシャル‥万葉集が記録したものは何か?
まず,鶯が木末に隠れて鳴いている様子を詠んだ短歌から見ていきましょう。
春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に(5-827)
<はるさればこぬれがくりて うぐひすぞなきていぬなる うめがしづえに>
<<春になるとこずえに隠れて鶯は鳴き姿が見えなくなるようだ。梅の下枝に>>
この短歌は,天平2(730)年1月13日に大宰府で行われた大伴旅人を主人とした梅見の宴のとき,旅人の家臣であったろう山口若麻呂という参加者の一人が詠んだとされています。
ちなみに,鶯は色は非常に地味です(花札の影響か,鮮やかな緑色のメジロを鶯と勘違いする多いといいます)。鶯の身体の色は,確かに少しだけ緑色は帯びていますが,ほとんど木の肌の色に近いのです。そのため,葉がまだ出ない梅の木の木肌色に近い色(いわゆる保護色)であり,声はするけれど鶯がどこにいるか見つけるのが困難になるのです。この短歌は,そのような情景を詠んだように私には思えます。
さて,次は坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が詠んだとされる茶目っ気のある短歌です。
佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね(4-529)
<さほがはのきしのつかさの しばなかりそね ありつつもはるしきたらば たちかくるがね>
<<佐保川の岸の小高いところに生えている柴を刈らないでほしいわ。そのままにして春になったなら,その葉陰に隠れて誰にも見られず逢えるから>>
万葉時代の佐保川近辺は,今で言えば高級住宅街です。庶民の住むスラム風の街と違い,人口密度はそれほど高くないのです。そんな閑静な住宅街で,男女が路上で逢ったり,足繁く通っている姿は非常に目立ってしまいます。何とか人に見られない済む場所として,佐保川の岸で堤防のように小高くなっているところに柴(低木の木で落葉樹)が生えていたのでしょう。
住宅から佐保川の流れを見たい人にとっては邪魔なので刈ってしまおうと思う人もいたのでしょうか。そうすると恋人と目立たないで逢える場所が無くなるでしょ,無粋なことは止めてね,といった郎女の思いでしょうね。ただ,たとえそれが刈られてしまっても,またどこか隠れて逢える場所を見つけてみますわよといった郎女の心の強さを私はこの短歌から感じます。
最後は七夕のとき,天の川の渡し舟の櫂を隠してしまうというとんでもない詠み人知らずの短歌です。
我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくて わたりもりふねかさめやも しましはありまて>
<<僕が隠したので櫂がない渡り舟だから貸すのはできないよね。もう少し待ってくれるかい>>
年に1度だけしか逢えず,やっと天の川を舟で渡ってきて逢えたけど,逢っていられる時間はあっという間に過ぎる。少しでも長く逢っていたいので,帰るための天の川の渡し舟の櫂を隠してしまった言っているのです。渡し舟の管理人は櫂の無い舟は貸せないから,まだこちらで二人で逢っていられるよねとこの短歌は詠っています。
<罪を犯してはいけません>
ところで,これって犯罪ですよね。他人の所有物を勝手に隠してしまうわけですから。現代用語の「隠す」には,他人の物の場合もそうですが,情報を内証にしておくのも少し悪いことをしているようなイメージを感じる人もいめのかもしれません。でも,そこまでしても少しでも長く逢っていたいのだということを作者はこの短歌で言いたいのです。
こういった表現(罪を犯してまで恋人と逢いたい)に似たようなもので,本当に罪を犯してしまう事件をときどき報道でみることがあります。たとえば,愛人のために何億円も会社の金を横領したとか,恋敵に対して傷害事件を起こしたとかです。
そうなるから罪を犯してもしょうがないような表現は,たとえ文学でもやめるべきだという主張があります。でも,私は賛成できません。そんな主張を受け入れたら「必死で頑張る」という表現も,極端に解釈すると必ず死ぬまでやるわけですから,ダメだという人も出てくることになってしまいます。
<表現の自由は相互の交流から成熟する>
さて,そういった表現の自由に対し,それを受け入れる側の柔軟性や寛容性をどこまで認め合うかは,最近の国際情報道を見ていて,簡単にはいかない非常に難しい面があると感じます。
特に,それまでの規律や道徳に大きな違いがある国間,宗派間,倫理観の間では,許されない表現や映像の範囲に大きな差があることも改めて分かってきたように思います。
しかし,お互いの倫理観や価値観をよく説明し合い(あくまで冷静な話し合いで),共同で何かを行う場合(例:スポーツ,国際会議,視察旅行など),どこまで許容するかの合意を取り,参加者や応援者もその合意を守るよう周知していくしかないと考えます。
大いなる侮辱を受けたから,たとえ民間人であっても暴力や武器で制裁(抹殺)しても構わない(神は許す)し,自分はその制裁行為を実施することで死ぬことがあっても良い(神に召される)という主張があるとするならば,人間尊重の考えからは,その主張はやはり肯定されるべきではないだろうと私は感じます。
当ブログ7年目突入スペシャル‥万葉集が記録したものは何か?
2015年2月8日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4) 偉大なあのお方が不本意にもお隠れになってしまった
現代でも尊敬する人が亡くなることを「お隠れになる」と表現する場合があります。万葉集にも人が死ぬことを「隠る」を使って表現している和歌が出てきます。たとえば現代語でいえば「岩に隠れる」「岩に籠る」という表現です。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
次は,河内王(かふちのおほきみ)が亡くなり,葬られたときに手持女王(たもちのおほきみ)が詠んだとされる挽歌3首の中の1首です。
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず(3-418)
<とよくにのかがみのやまの いはとたてこもりにけらし まてどきまさず>
<<豊前の国にある鏡の山の岩戸を閉じて岩の中に籠ってしまわれたらしい。いくら待っても岩戸から出てこられない>>
その他,亡くなること(死ぬこと)の表現に,「隠る」の初回の投稿で示した「雲隠る」という表現も使われています。そのもっとも有名なのが天武天皇崩御直後(686年)のこと,大津皇子(おほつのみこ)の辞世の歌とされている短歌です。
このとき,大津皇子は24歳で,謀反の疑いを掛けられ,自害に追い込まれたと万葉集から読み取れるようです。大津皇子は後代の天皇候補の一人として目されていたのですが,不本意な死に至ったことを後世の人は語り継いだのだろうと私は思います。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<< 磐余の池で鳴く鴨を今日しか見られないのか。もう死ぬのだから>>
最後は,死を意味する「雲隠る」が詠まれたもう1首の短歌を紹介します。この短歌も政変(長屋王の変:神亀6<729>年)に関係しています。]謀反の罪を着せられ自害して死んだ対象はその長屋王です。短歌の作者は倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)であるとこの歌の題詞に書かれています。729>
大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(3-441)
<おほきみのみことかしこみ おほあらきのときにはあらねど くもがくります>
<<天皇のお葬式ではないのにもうお亡くなりになってしまった>>
当時40歳代の半ばだったと考えられる長屋王は,平城京を担う重鎮として,天皇になってもおかしくない実力を持っていたようです。そのためか,この短歌では天皇になってから亡くなるはずという出だしとなっています。
大津皇子と同じように,長屋王の不本意な死を後世に語り継いだと考えられます。
<権力の魔性>
権力争いで,優秀な人が犠牲になることは歴史の常と言えばそれまでですが,一国のトップ争いをする集団や個人は自分の位置を守るために,優秀な人材を抹殺するという全体不最適なことをやってしまうのかもしれません。
21世紀は情報化革命で世界が一つの国になろうとしているよう私には思えます。それはそれで歴史の自然な流れのような気がします。
しかし,その過程でさまざまなもの(軍事物資,資源,思想など)を利用して,クーデターやテロリズムが発生してしまっているのが今の世界でもあるのではないかと私は感じます。
自分たちの立場を正当化するために,自分たちの立場を認めない人間は死をもって制裁しても構わないという考え方,それは結局非人間的な権力欲の魔性に取りつかれた人たちでしかないと私は見ています。
<権力欲に取りつかれてしまう人間の性の研究がもっと必要>
権力欲の魔性に取りつかれ,それを脅かす人間と判断すると平気でその人を殺してしまうのも人間,世の中が悪いのだから自分は何をしても構わないと勝手に思い込むのも人間。
一方で,自分の精神的,経済的な満足をさまざまな思想,生活環境,経済状況の人々と分かち合いたいと(社会への貢献・奉仕・援助等を)考えるのも人間。
人間がもつそのような多様性(例えば仏教の見方のひとつ「一念三千」)について,さらにさらに(歴史,人文,思想,宗教などの観点から)研究がなされ,後者のような人間の生き方がより世界に広まる活動を前提として,科学技術の発展や利用についても考えていく必要があると私は強く感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(5:まとめ)に続く。
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