万葉集での「告ぐ」の用法として,前々回の山背王の短歌のように和歌の最後に「告げこそ」という言い回しで終わる歌が多くあります。これは手紙の最後に「よろしくお伝えください」といった決まり文句のようなものだったのかもしれません。
いくつかの例を示します。
我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば我れに告げこそ(7-1248)
<わぎもことみつつしのはむ おきつものはなさきたらば われにつげこそ>
<<今度は妻と一緒に見にきて,「本当にきれいだなあ」と感じ合いたい。今度沖の藻の花が咲いたら私に知らせてくださいな>>
この短歌は,柿本人麻呂歌集に出てくる詠み人知らずの羈旅の歌です。作者は透明度の高い美しい海岸に来て,たまたま海草(アマモかも?)の花が咲いているところを見て,その美しさから,今度は妻と着たいから,咲いたら告げて(教えて)欲しいと詠っているのでしょうか。当時,1日2日でそういった知らせを伝える手段はないでしょうから「無理を承知で告げて欲しいほど美しい」といいたいのだと私は感じます。
次も詠み人しらずの羈旅の短歌です。
妹が目を見まく堀江のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ(13-3024)
<いもがめをみまくほりえの さざれなみしきてこひつつ ありとつげこそ>
<<妻に目を見たい(逢いたい)。堀江のさざ波よ,おまえが繰り返し繰り返し寄せてくるように俺の恋しい気持ちが積み重なっていることを妻に告げてくれ>>
何を見ても家にいる妻が恋しくて仕方がないという雰囲気が伝わってきます。妻は家の近くには堀江があったのかもしれませんね。
次は,大伴坂上郎女が詠んだ相聞歌の中の1首です。
暇なみ来まさぬ君に霍公鳥我れかく恋ふと行きて告げこそ(8-1498)
<いとまなみきまさぬきみに ほととぎすあれかくこふと ゆきてつげこそ>
<<ホトトギスよ,忙しいといって来ないあの人へ,私がこんなに恋しがっていると今すぐ飛んで行って教えてあげて>>
この短歌から,一人淋しく夫の妻問を待つ郎女の気持ちが私には素直に伝わってきます。ただ,この短歌もホトトギスが自分の気持ちを夫に伝えてくれるはずがないのは分かっていて,それでもそれを頼みたくなるくらい淋しい気持ちだと訴えたいのでしょうね。
このように「告げこそ」の短歌を見てくると,自分の気持ちを伝える(告げる)努力が自分にはまだまだ足らないと私は感じてしまいます。私の妻に対して,自分の気持ちを十分伝えていないのではないかと反省しています。
天の川 「ほんまにか~? この前,奥さんにたびとはんがメールで『愛してる』って出したら『メールアドレスの間違いではないですか?』って返信されたそうやんか。」
天の川君! 誤解されるような表現はやめなさい。これで,ちゃんと伝わっているです。たっ,たっ,多分ね。
え~と。これで「動きの詞(ことば)シリーズ」の「告ぐ」は終わりとします。
なお,来週から何回かは「動きの詞(ことば)シリーズ」はお休みし,「本ブログ6年目突入スペシャル」をお送りします。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(1)」に続く。
2014年2月23日日曜日
2014年2月15日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2) 恋しさを誰に告げてもらおうか?
今朝の自宅付近は大雪と雨で外に出られる状態ではありませんでした。2週連続の大雪で,さまざまな影響が出ていますが,休日のお客さんを当てにしていたレジャー業界にとっては特に影響が大きかったのではないかと心配しています。
さて,「告ぐ」の2回目は,万葉集で恋人や妻に恋しい気持ちを自分では伝えられないので,誰に告げてもらおうかと思案する和歌を見ていきます。
自分の気持ちを相手に伝えることは実は簡単でも単純でもありません。伝え方によっては相手が誤解してしまうこともあります。
まして,恋しい気持ちが募ると冷静ではいられませんから,伝える方も余計なことを考えてしまい,結局うまく伝えることができないこともよくあるのではないでしょうか。
また,告げようにも,遠く離れていて直接告げることができない状況もあり得ます。
最初は死にそうに切ない恋心を相手に告げられない苦しい思いを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく(11-2370)
<こひしなばこひもしねとや たまほこのみちゆくひとの こともつげなく>
<<苦しい恋で死んでしまったら,その恋自体も死んで無くなってしまうというが,そこまで苦しい俺の気持ちを誰か道行く人が俺の代わりに彼女に伝えてくれるのだろうか?>>
「そんなに苦しいほど思っているなら,相手に直接気持ちを伝えたらいいじゃん」なんていう助言はこの人には通じないでしょうね。気持ちを告げたら,相手の女性が速攻「ごめんなさ~い」となると,それを想像しただけでも耐えられないのでしょう。男は筋力は強くても,心力(しんりょく)のほうは意外と弱い面もあるのではと私は最近思うことが多いのです。
しかし,一方でこんな短歌を詠めるのはまだ心に余裕がある証拠。黙ってストーカー行為に走る男より心的にはずっとマシといえるでしょうね。
次は,女性(詠み人知らず)の短歌ですが,こちらは告げてほしくない,でも作者のウキウキしたした感じ伝わってくるものです。
葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ(13-3279)
<あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ>
<<「庭の葦垣の上部をかき分けてあの人がきましたよ」とほかの人に聞こえるように告げないで。空気を読んでよね>>
大きな声で告げたのは彼女(この短歌の作者)の世話役でしょうか。それとも,飼っている鶏や犬でしょうか。世話役だとすると空気を読まず早く教えてあげようと大きな声をだしたのでしょう。彼女にしてみれば彼氏との時間に第三者が興味津々と聞き耳を立てているようなことをされたくはないですからね。
最後は大伴家持が越中の国守をしていた天平勝宝2年2月に,国府があったとされる場所から南西へ20㎞ほど離れたところの「藪波の里」に新たに,開墾した田を視察するため泊まりがけで出かけた際に詠んだ短歌です。
薮波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げつや(18-4138)
<やぶなみのさとにやどかり はるさめにこもりつつむと いもにつげつや>
<<藪波の里で宿借りているが,春雨に降りこめられて帰れないと妻に告げてくれましたか>>
ここでの春雨はシトシト降る雨ではなく,結構な嵐だったようです。なかなか帰れないので,妻である坂上大嬢(家持が越中に赴任して4年になり大嬢を呼び寄せていたと考えられます)にその旨を告げてほしいという気持ちを詠んだものだと私は解釈します。
では,家持は誰に対して帰れないことを告げたかを確認しているかというと,使者ではなく,春雨君だろうと私は思います。家持が越中で妻と住む家から20㎞くらいしか離れていないので,妻が居る家でも春雨は降っていて,この強さでは夫はすぐには帰ってこれないだろうという状況が伝わっていてほしい(本当は直接告げたいが)という願いを詠んだものと考えてしまいます。
電話など遠隔とのコミュニケーション手段が無い時代のほうが,お互いを思う気持ちが強かったのかも知れませんね。
今,携帯電話やスマホなどがないと非常に不安になる人がいると聞きます。そういう人は,ある時間ネットから隔離した状態(ネット経由で誰からも告げられないし,告ぐこともできない状態)で,自分の精神をコントロールする訓練をする必要があるのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(3:まとめ)に続く
さて,「告ぐ」の2回目は,万葉集で恋人や妻に恋しい気持ちを自分では伝えられないので,誰に告げてもらおうかと思案する和歌を見ていきます。
自分の気持ちを相手に伝えることは実は簡単でも単純でもありません。伝え方によっては相手が誤解してしまうこともあります。
まして,恋しい気持ちが募ると冷静ではいられませんから,伝える方も余計なことを考えてしまい,結局うまく伝えることができないこともよくあるのではないでしょうか。
また,告げようにも,遠く離れていて直接告げることができない状況もあり得ます。
最初は死にそうに切ない恋心を相手に告げられない苦しい思いを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく(11-2370)
<こひしなばこひもしねとや たまほこのみちゆくひとの こともつげなく>
<<苦しい恋で死んでしまったら,その恋自体も死んで無くなってしまうというが,そこまで苦しい俺の気持ちを誰か道行く人が俺の代わりに彼女に伝えてくれるのだろうか?>>
「そんなに苦しいほど思っているなら,相手に直接気持ちを伝えたらいいじゃん」なんていう助言はこの人には通じないでしょうね。気持ちを告げたら,相手の女性が速攻「ごめんなさ~い」となると,それを想像しただけでも耐えられないのでしょう。男は筋力は強くても,心力(しんりょく)のほうは意外と弱い面もあるのではと私は最近思うことが多いのです。
しかし,一方でこんな短歌を詠めるのはまだ心に余裕がある証拠。黙ってストーカー行為に走る男より心的にはずっとマシといえるでしょうね。
次は,女性(詠み人知らず)の短歌ですが,こちらは告げてほしくない,でも作者のウキウキしたした感じ伝わってくるものです。
葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ(13-3279)
<あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ>
<<「庭の葦垣の上部をかき分けてあの人がきましたよ」とほかの人に聞こえるように告げないで。空気を読んでよね>>
大きな声で告げたのは彼女(この短歌の作者)の世話役でしょうか。それとも,飼っている鶏や犬でしょうか。世話役だとすると空気を読まず早く教えてあげようと大きな声をだしたのでしょう。彼女にしてみれば彼氏との時間に第三者が興味津々と聞き耳を立てているようなことをされたくはないですからね。
最後は大伴家持が越中の国守をしていた天平勝宝2年2月に,国府があったとされる場所から南西へ20㎞ほど離れたところの「藪波の里」に新たに,開墾した田を視察するため泊まりがけで出かけた際に詠んだ短歌です。
薮波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げつや(18-4138)
<やぶなみのさとにやどかり はるさめにこもりつつむと いもにつげつや>
<<藪波の里で宿借りているが,春雨に降りこめられて帰れないと妻に告げてくれましたか>>
ここでの春雨はシトシト降る雨ではなく,結構な嵐だったようです。なかなか帰れないので,妻である坂上大嬢(家持が越中に赴任して4年になり大嬢を呼び寄せていたと考えられます)にその旨を告げてほしいという気持ちを詠んだものだと私は解釈します。
では,家持は誰に対して帰れないことを告げたかを確認しているかというと,使者ではなく,春雨君だろうと私は思います。家持が越中で妻と住む家から20㎞くらいしか離れていないので,妻が居る家でも春雨は降っていて,この強さでは夫はすぐには帰ってこれないだろうという状況が伝わっていてほしい(本当は直接告げたいが)という願いを詠んだものと考えてしまいます。
電話など遠隔とのコミュニケーション手段が無い時代のほうが,お互いを思う気持ちが強かったのかも知れませんね。
今,携帯電話やスマホなどがないと非常に不安になる人がいると聞きます。そういう人は,ある時間ネットから隔離した状態(ネット経由で誰からも告げられないし,告ぐこともできない状態)で,自分の精神をコントロールする訓練をする必要があるのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(3:まとめ)に続く
2014年2月8日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1) 密告という報告
<あわや孤独死>
昨日,自宅から少し離れた場所にあるアパートで身寄りの少ないひとり暮らしをしている同年輩の友人が,持病の重い肝硬変が急変し,亡くなり,今朝何人かの友人とともに火葬場で懇ろに冥福を祈り送りました。関東地方は朝から雪で,故人も白無垢の関東平野を見下ろしつつ旅立っていったことでしょう。
ひとり暮らしなので,たまたま別の友人が訪問をしなかったら,アパートで孤独死をしていたところだったかもしれません。先月下旬に体調の急変にその友人が気づき,病院へ救急車で搬送し,終末ケアや友人が親戚縁者にも連絡をして,最期は病院で亡くなることができたのです。
ひとり暮らしの人が増えている中,孤独死を防ぐため,訪問を主体とした組織的できめ細かいボランティア支援制度が必要ではないかと私は考えています。ただ,詐欺のような悪質訪問販売と混同されないようにする手立て(公式なICカードによる認定証の提示,認定証訪問記録のシステム保存,状況報告の分析と必要な対処のオーソライズ,個人情報の確実な保護など)が必要だろうと私は考えます。
<本題>
さて,今回から3回ほどに渡り「告(つ)ぐ」を取りあげます。口語では「告げる」となります。
万葉集で「告ぐ」を入れた和歌は70首ほどあります。なお,これは「告(の)る」は除いた数字です。
この中でまず紹介したいのは,長屋王(ながやわう)の子といわれる山背王(やましろわう)が出雲の国にいた天平勝宝8(756)年11月8日,出雲掾(いづものじょう)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家で奈杼麻呂が京に上る旅の前に行われた送別の宴で詠んだ短歌です。
うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ(20-4473)
<うちひさすみやこのひとに つげまくはみしひのごとく ありとつげこそ>
<<京にいる人々に告げたいことがあります。「以前京でお会いしたときと同じように元気でいます」と告げてください>>
神亀6(729)年長屋王の変で長屋王とともに長屋王の子の多くが死ぬことになりましたが,山背王は幸運にも生き延びた王子の一人です。この短歌で,送る側の山背王が自分が元気で出雲の国でやっていることを京の人に伝えたかったのでしょう。山背王は翌年に起こる橘奈良麻呂の変で橘奈良麻呂が謀反を起こす計画をしているという密告をした人物と続日本記には書かれているそうです。
そして,その功績で3階級も官位が上がったとのことです。天皇家の血を引く子孫が粛清されていく中で,したたかに奈良時代を生き抜いた人物かもしれません。本人は「密告なんてとんでもない。知っていることを報告しただけ」というだけでしょうか。
万葉集の編者である大伴家持は,後年万葉集を編纂するときには山背王が橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の企てを密告したことは知っていただろうと私は思います。家持が4473の短歌を載せたのは,山背王の「このまま出雲に引き籠っているわけには行かない」という野心みたいなものをこの時点で感じたからかもしれませんね。
さて,次は遣新羅使が船旅の途中で,家族や妻に告げたい思いを詠んだ2首を紹介します。
都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ(15-3640)
<みやこへにゆかむふねもが かりこものみだれておもふ ことつげやらむ>
<<都の方に行く船が欲しい。刈り薦のように乱れているこの思いを妻に言告げしたいのだよ>>
沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを(15-3643)
<おきへよりふなびとのぼる よびよせていざつげやらむ たびのやどりを>
<<沖の船の旅人が都へ上る。呼び寄せて,さあ都の妻へ告げに行ってもらおう。今までの旅で泊まった場所を>>
遠くに旅をしていると家族との間で消息を知りたい気持ちになります。そのとき「無事でいるのか」「旅は順調か」「家族は元気か」などの情報が知りたくなるのはいつの時代でも変わりません。
今のように,スマホ,携帯電話,パソコンで遠くにいても消息がすぐ分かる時代です。そのため,今では国内,国外の旅に出る場合にそれほどお互い心配しないようなっているのかもしれません。
万葉時代はそういった通信手段がないため,何かに託して状況を告げたい(伝えたい)気持ちが,この短歌のように今よりずっと強かったと私は想像します。
災害などで通信手段が途絶えた時,その重要性が改めて分かるのですが,万葉集を見ていくことで,そういったときの気持ちを想像することが少しはできるのでは私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2)に続く
昨日,自宅から少し離れた場所にあるアパートで身寄りの少ないひとり暮らしをしている同年輩の友人が,持病の重い肝硬変が急変し,亡くなり,今朝何人かの友人とともに火葬場で懇ろに冥福を祈り送りました。関東地方は朝から雪で,故人も白無垢の関東平野を見下ろしつつ旅立っていったことでしょう。
ひとり暮らしなので,たまたま別の友人が訪問をしなかったら,アパートで孤独死をしていたところだったかもしれません。先月下旬に体調の急変にその友人が気づき,病院へ救急車で搬送し,終末ケアや友人が親戚縁者にも連絡をして,最期は病院で亡くなることができたのです。
ひとり暮らしの人が増えている中,孤独死を防ぐため,訪問を主体とした組織的できめ細かいボランティア支援制度が必要ではないかと私は考えています。ただ,詐欺のような悪質訪問販売と混同されないようにする手立て(公式なICカードによる認定証の提示,認定証訪問記録のシステム保存,状況報告の分析と必要な対処のオーソライズ,個人情報の確実な保護など)が必要だろうと私は考えます。
<本題>
さて,今回から3回ほどに渡り「告(つ)ぐ」を取りあげます。口語では「告げる」となります。
万葉集で「告ぐ」を入れた和歌は70首ほどあります。なお,これは「告(の)る」は除いた数字です。
この中でまず紹介したいのは,長屋王(ながやわう)の子といわれる山背王(やましろわう)が出雲の国にいた天平勝宝8(756)年11月8日,出雲掾(いづものじょう)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家で奈杼麻呂が京に上る旅の前に行われた送別の宴で詠んだ短歌です。
うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ(20-4473)
<うちひさすみやこのひとに つげまくはみしひのごとく ありとつげこそ>
<<京にいる人々に告げたいことがあります。「以前京でお会いしたときと同じように元気でいます」と告げてください>>
神亀6(729)年長屋王の変で長屋王とともに長屋王の子の多くが死ぬことになりましたが,山背王は幸運にも生き延びた王子の一人です。この短歌で,送る側の山背王が自分が元気で出雲の国でやっていることを京の人に伝えたかったのでしょう。山背王は翌年に起こる橘奈良麻呂の変で橘奈良麻呂が謀反を起こす計画をしているという密告をした人物と続日本記には書かれているそうです。
そして,その功績で3階級も官位が上がったとのことです。天皇家の血を引く子孫が粛清されていく中で,したたかに奈良時代を生き抜いた人物かもしれません。本人は「密告なんてとんでもない。知っていることを報告しただけ」というだけでしょうか。
万葉集の編者である大伴家持は,後年万葉集を編纂するときには山背王が橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の企てを密告したことは知っていただろうと私は思います。家持が4473の短歌を載せたのは,山背王の「このまま出雲に引き籠っているわけには行かない」という野心みたいなものをこの時点で感じたからかもしれませんね。
さて,次は遣新羅使が船旅の途中で,家族や妻に告げたい思いを詠んだ2首を紹介します。
都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ(15-3640)
<みやこへにゆかむふねもが かりこものみだれておもふ ことつげやらむ>
<<都の方に行く船が欲しい。刈り薦のように乱れているこの思いを妻に言告げしたいのだよ>>
沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを(15-3643)
<おきへよりふなびとのぼる よびよせていざつげやらむ たびのやどりを>
<<沖の船の旅人が都へ上る。呼び寄せて,さあ都の妻へ告げに行ってもらおう。今までの旅で泊まった場所を>>
遠くに旅をしていると家族との間で消息を知りたい気持ちになります。そのとき「無事でいるのか」「旅は順調か」「家族は元気か」などの情報が知りたくなるのはいつの時代でも変わりません。
今のように,スマホ,携帯電話,パソコンで遠くにいても消息がすぐ分かる時代です。そのため,今では国内,国外の旅に出る場合にそれほどお互い心配しないようなっているのかもしれません。
万葉時代はそういった通信手段がないため,何かに託して状況を告げたい(伝えたい)気持ちが,この短歌のように今よりずっと強かったと私は想像します。
災害などで通信手段が途絶えた時,その重要性が改めて分かるのですが,万葉集を見ていくことで,そういったときの気持ちを想像することが少しはできるのでは私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2)に続く
2014年2月1日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(4:まとめ) 松は知っているか?
「知る」の最終回は「知る」に関するその他の表現で特徴的なものを万葉集から紹介します。
まず,18歳の若さで謀反の罪により中大兄皇子(後の天智天皇)に処刑された有間皇子が愛していた土地で処刑された場所でもある紀州への行幸にお供したとき,磐白(いはしろ)の地で山上憶良が詠んだ短歌です。
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
<とりはなすありがよひつつ みらめどもひとこそしらね まつはしるらむ>
<<皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては見たであろうが,そのことを人は知らないだけで,(磐白の)松はきっと知っているだろう>>
これは,有間皇子が紀州の処刑地に移送される途中の磐白で詠んだとされる次の辞世の歌を意識していることは間違いないでしょう。
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)
憶良が詠んだ当時は有間皇子処刑から40年以上たち,辞世の歌を詠んだという磐白の浜松は,非業の死を遂げた皇子を偲ぶ場所として観光スポット化していたのかも知れませんね。
さて,次は 神亀5(728)年6月23日に大宰府の長官をしていた大伴旅人が,いろいろな良くない出来事が続けて発生しているという知らせを受けて詠んだ短歌です。
世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)
<よのなかはむなしきものと しるときしいよよますます かなしかりけり>
<<世の中は無常であることを悟っているつもりだが,本当にますます悲しい気持ちになった>>
旅人が大宰府に赴任してそれほど立たない時期にこれを詠んでいるので,おそらく京や各地で起きた悲惨な災害や事件のニュースを受けたものかと私は思います。
大宰府には山上憶良や沙弥満誓(さみまんぜい)など仏教の知識を豊富にもった旅人の友人がいました。当然,旅人も彼らとの語らいの中で,仏教が教える無常観をしっかり理解していたと私は思います。仏教は世の中に絶対的なものを求める行為の虚しさを説いていると私は思います。
<仏教の無常観>
でも,やはりあってほしい物や人がなくなる。いつまでも変わらないでほしいものが変わってしまう。それを目の当たりにすると,無常であることは知っていてもやはり悲しい。それが人間としての自然の姿だと私は信じます。
仏教はそんな悲しさを感じることが重要であるが,その悲しさに絶望をしてはいけないと説きます。
無常な世界を生き抜くより強い心,そして無常な世界でほんろうされ,悩む他人を思いやる(他人の悲しさを理解できる)心を持った自分(仏の世界に近づいた自分)を作ることがきっとできるのだと説きます。そして,だんだん力強く,思いやりをもった気持ちや心(菩薩の心)が自分自身に備わってくると,関係する周囲の人や環境も無常の世界を克服できるものに変わっていくと,当時から日本に広く弘ろまっていったいわゆる大乗仏教では説きます。
旅人のこの短歌もただただ悲しんでいると解釈するのではなく,仏教的な観点からそれを乗り越えていく気持ちの強さを求めようとしていると私は解釈します。
<次の和歌>
さて,次は女性が天武天皇の子である新田部皇子(にひたべのみこ)をからかって贈った短歌です。
勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし(16/3835)
<かつまたのいけはわれしる はちすなししかいふきみが ひげなきごとし>
<<勝間田の池は私が知る限り蓮はありませんよ。そういうあなた様の顔に髭がないように>>
皇子はまだ髭も生えてこないくらい若かったのでしょうか。まだ若くて女性を見る目がないとこの女性は言いたかったのだと私は想像します。ただ,本当に皇子にある女性が直接贈ったのではなく,後世の誰かが面白おかしく作り話として創作した短歌かも知れませんね。
「知る」の最後は,物部道足(もののべのみちたり)という常陸国出身の防人が詠んだという短歌です。
常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ(20-4366)
<ひたちさしゆかむかりもが あがこひをしるしてつけて いもにしらせむ>
<<常陸をめざして行く雁はいないかあ。私の恋しい思いを書き記して付けて妻に知らせることができるのに>>
この歌の詠み手は当時ちゃんとした漢字の読み書きができる教育を受けていた可能性はあります。ヤマト朝廷によって日本が統一された後,律令を書いた漢文を地方に徹底させるには,単に律令を渡すだけでなく,読める教育をする必要があったはずです。そうして,初めて律令の内容を知っている人が増え,戸籍や住民の管理ができたはずです。
このように見てくると万葉時代は「知る」「知らせる」ことの重要性に人々に気づき始めた時代だったように私は想像します。
次回からは,情報を相手に知らせる「告ぐ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1)に続く
まず,18歳の若さで謀反の罪により中大兄皇子(後の天智天皇)に処刑された有間皇子が愛していた土地で処刑された場所でもある紀州への行幸にお供したとき,磐白(いはしろ)の地で山上憶良が詠んだ短歌です。
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
<とりはなすありがよひつつ みらめどもひとこそしらね まつはしるらむ>
<<皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては見たであろうが,そのことを人は知らないだけで,(磐白の)松はきっと知っているだろう>>
これは,有間皇子が紀州の処刑地に移送される途中の磐白で詠んだとされる次の辞世の歌を意識していることは間違いないでしょう。
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)
憶良が詠んだ当時は有間皇子処刑から40年以上たち,辞世の歌を詠んだという磐白の浜松は,非業の死を遂げた皇子を偲ぶ場所として観光スポット化していたのかも知れませんね。
さて,次は 神亀5(728)年6月23日に大宰府の長官をしていた大伴旅人が,いろいろな良くない出来事が続けて発生しているという知らせを受けて詠んだ短歌です。
世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)
<よのなかはむなしきものと しるときしいよよますます かなしかりけり>
<<世の中は無常であることを悟っているつもりだが,本当にますます悲しい気持ちになった>>
旅人が大宰府に赴任してそれほど立たない時期にこれを詠んでいるので,おそらく京や各地で起きた悲惨な災害や事件のニュースを受けたものかと私は思います。
大宰府には山上憶良や沙弥満誓(さみまんぜい)など仏教の知識を豊富にもった旅人の友人がいました。当然,旅人も彼らとの語らいの中で,仏教が教える無常観をしっかり理解していたと私は思います。仏教は世の中に絶対的なものを求める行為の虚しさを説いていると私は思います。
<仏教の無常観>
でも,やはりあってほしい物や人がなくなる。いつまでも変わらないでほしいものが変わってしまう。それを目の当たりにすると,無常であることは知っていてもやはり悲しい。それが人間としての自然の姿だと私は信じます。
仏教はそんな悲しさを感じることが重要であるが,その悲しさに絶望をしてはいけないと説きます。
無常な世界を生き抜くより強い心,そして無常な世界でほんろうされ,悩む他人を思いやる(他人の悲しさを理解できる)心を持った自分(仏の世界に近づいた自分)を作ることがきっとできるのだと説きます。そして,だんだん力強く,思いやりをもった気持ちや心(菩薩の心)が自分自身に備わってくると,関係する周囲の人や環境も無常の世界を克服できるものに変わっていくと,当時から日本に広く弘ろまっていったいわゆる大乗仏教では説きます。
旅人のこの短歌もただただ悲しんでいると解釈するのではなく,仏教的な観点からそれを乗り越えていく気持ちの強さを求めようとしていると私は解釈します。
<次の和歌>
さて,次は女性が天武天皇の子である新田部皇子(にひたべのみこ)をからかって贈った短歌です。
勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし(16/3835)
<かつまたのいけはわれしる はちすなししかいふきみが ひげなきごとし>
<<勝間田の池は私が知る限り蓮はありませんよ。そういうあなた様の顔に髭がないように>>
皇子はまだ髭も生えてこないくらい若かったのでしょうか。まだ若くて女性を見る目がないとこの女性は言いたかったのだと私は想像します。ただ,本当に皇子にある女性が直接贈ったのではなく,後世の誰かが面白おかしく作り話として創作した短歌かも知れませんね。
「知る」の最後は,物部道足(もののべのみちたり)という常陸国出身の防人が詠んだという短歌です。
常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ(20-4366)
<ひたちさしゆかむかりもが あがこひをしるしてつけて いもにしらせむ>
<<常陸をめざして行く雁はいないかあ。私の恋しい思いを書き記して付けて妻に知らせることができるのに>>
この歌の詠み手は当時ちゃんとした漢字の読み書きができる教育を受けていた可能性はあります。ヤマト朝廷によって日本が統一された後,律令を書いた漢文を地方に徹底させるには,単に律令を渡すだけでなく,読める教育をする必要があったはずです。そうして,初めて律令の内容を知っている人が増え,戸籍や住民の管理ができたはずです。
このように見てくると万葉時代は「知る」「知らせる」ことの重要性に人々に気づき始めた時代だったように私は想像します。
次回からは,情報を相手に知らせる「告ぐ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1)に続く
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